第5日―1945年9月21日金曜日
(検事バックハウス大佐による証人アダ・ビムコへの尋問)
A:私はポーランド系ユダヤ人女性で、医学博士です。1943年8月4日、ソスノヴィツからアウシュヴィッツに移されました。その週、私が暮らしていた町のユダヤ人全員が逮捕され、私もユダヤ人であったので、5000名のユダヤ人とともにアウシュヴィッツに送られました。アウシュヴィッツ駅に着いたときに降ろされ、男女別々に一列に並ばされました。女性と子供はトラックに乗せられて、別の場所に送られました。SSの医師が女性と子供を見ながら、指で、「右」、「左」と指示しました。私たち若い女性も同じように扱われました。選別された人々がトラックに乗せられました。あとで聞いたところによると、彼らは焼却棟に送られて、ガス処刑されたそうです。私の父、母、弟、夫、6歳の子供はその中に入っていました。残った約250名の女性が私も含めて、収容所に送られました。あとで聞いたところでは、250名の男性も送られたとのことでした。その他の4500名は焼却棟に送られました。私たちの町だけで、1週間で、25000名が送られました。
Q:これとは別に、ほかの選別に立ち会ったことはありましたか。
A:はい。私は病院の医師として働いていましたので、いくつかの選別に立ち会いました。最初は、ユダヤ人の最大の祝日、償いの日のことでした。選別には三つの方法がありました。囚人が到着するとすぐに行なわれる選別、健康な囚人に対する収容所での選別、病人に対する病院での選別です。収容所の医師がいつも立ち会っており、その他のSS隊員、SS女性隊員もいました。
Q:あなたが病院で立ち会ったか目撃した選別では、そのように選別が行なわれたのですか。
A:病気にユダヤ人全員が裸で医師の前を行進するように命令されました。明らかに衰弱している囚人はすぐに脇に寄せられましたが、医師が、囚人の手や腕、関心を引くのに十分なちょっとしたことを観察したこともあります。収容所のSS隊員、SS女性隊員がいつも立ち会っていました。彼らが、死を予定されている人々のグループに加わるように、指で指示することもありました。選別に参加したSSの医師は、ローデ博士、ティロット博士、クライン博士、ケーニヒ博士、メンゲレ博士です。
Q:ここで、そのような人々を確認できますか。
(証人は判事席前の場所に下りていく。)
A:被告1号クラマー、被告2号クライン、被告3号ヴァインガルトナー、被告5号へスラー、被告7号フォルケンラート、被告8号エーレルト、被告9号グレーゼ、被告11号ロバウアー、被告46号コッパー、被告48号スタロストカを見分けることができます。そして、被告16号(フランツィオー)[1]、23号(オットー)、40号(フィースト)、41号(ザウアー)、6号(ボルマン)が収容所にいたことはわかりますが、その名前は知りません。
Q:選別整列に立ち会ったSS隊員を知っていますか。
A:クラマーとへスラーです。二人とも選別に積極的に参加していました。
Q:選別が行なわれているとき、普通、彼らには何が起こったのですか。
A:以前に述べたようなやり方で選別されているときには、彼らは全裸でした。その後、彼らは悪名高いブロック25に行き、焼却棟へと運んでくれるトラックが到着するまで、数日間、裸のままで、食べ物も飲み物もなくそこで待っていなくてはなりませんでした。1943年12月1日は、大規模な選別が行なわれた日でした。チフスが収容所に蔓延しており、病院には4124名の病気のユダヤ人女性がいました。この内、4000名が焼却棟用に選別され、残ったのはわずか124名だけでした。クライン博士がそこにおり、選別に立ち会っていました。アウシュヴィッツは多くの収容所に分けられており、5つの焼却棟がありました。うち、クラマーはビルケナウの所長でした。しばらくの間、へスラーとマンデルと呼ばれていた女性がラーゲル・フューラーでした。フォルケンラートは荷物倉庫の監督者のようなポストについていましたが、のちに、ベルゼン収容所のシニア監督官となりました。エーレルトがアウシュヴィッツにいたことは記憶していません。グレーゼは点呼の責任者でした。女性収容所で見かけたことはありません。
Q:ガス室に入ったことがありますか。
A:はい。1944年8月、私は、収容所で医師として働いていました。ガス室送りに新しく選別された集団がやってきました。病人でしたので、毛布にくるまれていました。二日後、私たちは、これらの毛布をガス室から取ってくるように命じられました。悪名高いガス室を見たいと思っていたので、この機会をつかまえて、中に入りました。そこはレンガの建物で、カモフラージュするために周囲には木が植えられていました。最初の部屋で、私が暮らしていたのと同じ町からやってきた人物を見かけました。一人のSS軍曹もいて、彼は赤十字に属していました。この最初の大きな部屋に人々は服を置き、この部屋から第二の部屋に入るといわれました。数百名が入ることができるほど大きな部屋であるとの印象を受けました。収容所にあるようなシャワー室・浴室に似ていました。天井には多くのシャワーヘッドがあり、並列に並んでいました。この部屋に入った人々全員にタオルと石鹸が渡されたので、彼らは入浴するのだとの印象を持ったはずです。しかし、床を見れば、排水溝がないので、入浴するのではないことは明らかでした。この部屋には小さなドアがあり、それは真っ暗で、廊下のように見える部屋につながっていました。私は、小さな貨車の乗った、数列の線路を目撃しました。その貨車はローリーと呼ばれていました。ガス処刑された囚人はこの貨車に載せられて直接焼却棟に送られたという話です。同じ建物の中に焼却棟があったと思いますが、自分の目で炉を見たことはありません。低い天井を持ったこの部屋よりの数歩高いところに別の部屋がありました。二つのパイプがありましたが、それはガスを供給するパイプであったとのことでした。また、巨大な二つの金属製のガスボンベがありました。
Q:これらのガス室に関して、囚人たちは記録を持っていたのですか。
A:はい。これらの焼却棟には多くの囚人が働いており、この作業班は「特別作業班」と呼ばれていました。作業班は数ヶ月で交代しました。彼ら自身も絶滅されたからです。彼らもガス処刑されたのです。この特別作業班の一人が私に話してくれたところでは、作業班の別のメンバーが、ガス処刑される前に、到着した移送集団をすべて記録しており、それから、絶滅されたとのことです。事実、彼自身が記録を持っており、このガス室で絶滅されたユダヤ人の数は約400万人であったと話してくれました。
Q:ガス室以外では、証人がアウシュヴィッツで働いていたときに、病院での女性に対する事件を目撃したことがありますか。
A:ビルケナウでは特別な実験はありませんでした。しかし、アウシュヴィッツには、ブロック10があり、ここで実験が行なわれました。女性収容所に戻ってきた一人の女性は、自殺しようとしました。「なぜ、自殺しようとしたの」と尋ねると、人工授精されたからだと答えました。彼女は、もう自分には妊娠能力がなくなってしまったと思ったのです。
Q:アウシュヴィッツでの食料事情はどうでしたか。
A:アウシュヴィッツでの食料配給は、朝は、モーニング・コーヒー、昼食には水と、ジャガイモ、野菜のスープ、6時の夕食には、水、1ローフのパンでした。マーガリンや一切れのソーセージがつくこともありました。
Q:SSによる囚人の待遇はどうでしたか。
A:彼らの待遇は筆舌に尽くしがたいものでした。殴打は頻繁で、点呼のときには、雪が降っていても、雨が降っていても、暑くても、寒くても、何時間も立っていなくてはなりませんでした。立ったままでいることだけで、まったく消耗してしまいました。点呼のときにもし誰かが動こうものなら、そのブロック全員が何時間も立っていなくてはならず、また、手を高く上げたまま、ひざまずかなくてはなりませんでした。誰かが点呼に遅れたならば、収容所の囚人全員が何時間も隊列を組んで立っていなくてはならず、遅れた張本人はひどく殴られたので、死んでしまうこともありました。病院では、手や足に怪我をした多くの人々を見かけましたが、とくに多かったのは、殴られたために、頭に怪我をした人々でした。私はアウシュヴィッツを去って、1944年11月23日にベルゼンにやってきました。クラマーがやってきたのは1944年12月の最初です。
Q:最初にベルゼンにやってきたときの、収容所の状況はどうでしたか。
A:状況は悪かったですが、囚人たちは殴られてはおらず、点呼もありませんでした。朝食には、コーヒーかスープ、昼食には、半パイントのスープ、夕食には1週間に3回、6分の1ローフのパンが配給されました。このほかの3回には、パンの代わりにスープが配給されました。この配給量では、すぐに餓死してしまうというわけではありませんが、長くそれだけで暮らしていれば、死にいたることでしょう。1月末と2月に、別のSS隊員とSS女性隊員がアウシュヴィッツからやってきました。
Q:クラマーたちがやってきてから、何かが変わりましたか。
A:はい。ベルゼンは第二のアウシュヴィッツになっていくとの印象を突然持つようになりました。たとえば、彼らは点呼を始め、以前には囚人を殴らなかったSS隊員も殴り始めました。私が覚えていますのは、ロシア人の囚人が女性収容所で建物の建設作業にあたっていたときのことです。そのうちの4人が弱っていたので、建物の側面の壁を運んでいたときに、非常にゆっくりと身をかがめて運ばなくてはなりませんでした。クラマーがやってきて、「早くしろ、早くしろ」と叫びましたが、この囚人たちは早く作業することができませんでした。すると、クラマーが近づいてきて、彼らを足蹴にしました。私はベルゼンの病院で働いていましたが、多くの囚人が殴打に苦しんでいました。何人かはすぐに治療を受けて、傷には包帯が巻かれましたが、入院治療を受けなくてはならない人々もいました。
Q:ベルゼンでクライン博士を目撃しましたか。
A:はい。1月に一度、収容所の医師の代理を務め、3週間滞在しました。その後、戻っていきました。そのあと、収容所の医師が病気となったか、別のところにいかなくてはならなかったので、クライン博士がふたたびやってきて、収容所医師代理となりました。SS大尉ホルシュトマンが医師長でした。クライン博士は収容所のことについてまったく配慮せず、組織化を使用ともしませんでした。
Q:医薬品の配給はどうでしたか。
A:ごく少量しか受け取りませんでした。病院には2200名の患者がおり、それとは別に、収容所全体では15000名の病気の女性がいました。まる1週間で、300錠のアスピリンしか受け取りませんでした。イギリス軍が収容所に入ってくる3、4日前、そのときには、SS隊員はすでに白い腕章を巻いていましたが、私たちは突然、2室以上の診療室が提供されました。そして、医薬品と医療器具の膨大なストックがあるのを発見しました。治療のために要求したものは、すべて与えられるようになりました。倉庫は、第一収容所の中の浴室の近くにありました。そのことを知ったのは、イギリス軍がやってくる直前のことでした。
Q:今朝、あなたが当法廷で見覚えのあると証言した被告の一人は、被告席前列の一番端の人物ですね(フランツィオー)。この人物について証言することがありますか。
A:彼は女性収容所厨房の責任者でした。厨房のそばにはジャガイモの皮をむく部屋があり、一人の若い女性が身をかがめて、そこにあったジャガイモの皮をとろうとすると、突然この男が銃を手にして厨房から飛び出てきて、彼女に二回発砲しました。私は現場から数ヤードのところにいたので、怪我をしたこの女性のところに行きましたが、すぐに、彼女は死んでいると宣告しなくてはなりませんでした。
Q:女性被告の一人ボルマンはアウシュヴィッツにいましたか。
A:はい。彼女は大きな犬を連れていました。この犬は労働作業に出た囚人を守るとの話でしたが、作業班に加わった多くの囚人が、とくに足をこの犬にかまれたことを、とりわけ病院の中で観察しました。
(弁護人ムンロ少佐の反対尋問)
Q:あなたが話している選別の整列では、実際の選別を行なったのは医師だけでしたか。
A:ほかの人が見守っている前で、医師が選別を行ないました。
Q:SS隊員も医師の指示のもとでそこにいたのですね。
A:そうは思いません。医師が非常に衰弱した囚人を見過ごしてしまうことがありましたが、一人のSS隊員が「見過ごした囚人がいる」とすぐに指摘していたのを目撃したことがあるからです。医師の指示がどのようなものであったのか、誰が指示を出したのかは知りません。
Q:この整列では、ガス室送り以外の目的で選別された囚人はいましたか。
A:はい。売春施設送りのために、選別された女性もいました。この選別はまったく別に行なわれており、へスラーが取り仕切っていました。
Q:このように異なった整列はすべて同じようになされたのですか。
A:いいえ。さまざまなやり方でした。とくにガス室送りの選別を召集するときにはまったく別でした。「ユダヤ人全員がすぐに集まるように」と言われたのです。
Q:被告ユアナ・ボルマンを知っており、彼女が犬を連れていたと証言しましたね。どのような犬であったのかを証言してください。
A:ボルマンの顔を見たときのことだけを覚えていますので、犬のことは正確にお話できません。いつも犬を連れていたことだけを記憶しています。事実、彼女と犬は分かちがたいものでした。
Q:犬がかみつく場面を目撃しましたか。
A:いいえ。犬にかまれた人々を治療しただけです。
<裁判長>:当法廷はここで休廷し、15時30分にベルゼンに集まることとします。
(15時30分、法廷関係者はベルゼン強制収容所に集まった。裁判長、法務官、裁判官、検事、弁護人、通訳、速記者、被告が集まった。
グリン・ヒューズ准将が召喚され、配置を説明しながら、収容所を案内し、自分の証言に登場する地区に連れて行った。
ル・ドルイレネク氏が召喚され、大量埋葬地からブロック13のあるところまでのルートを指し示した。
裁判長は、法廷が収容所を視察していること、ヒューズ准将とル・ドルイレネク氏が、両人の証言に登場する場所を指し示したこと以外には、審理の過程では何も行なわれなかったことを被告に説明するように弁護人に指示した。)