4日―1945920日木曜日

 

(検事バックハウス大佐によるA.L.バーネイ少佐への尋問)

 

A:私は、817軍事統制部隊に所属しています。415日、第8兵団司令部からベルゼン収容所占領軍のテイラー中佐のもとに派遣されました。テイラー中佐とヒューズ准将が担当でした。翌日、食糧倉庫を発見せよとの命令を受けて、収容所から3qほど離れた戦車部隊学校の北にそれを発見しました。その倉庫担当のドイツ軍大尉にあいましたが、彼は、自分が倉庫から収容所に食料――ジャガイモとかぶのスープ――を配給する責任者であったといいました。スタッフが一人しかしない理由については説明してくれませんでした。彼から食料のリストを手に入れました。600トンのジャガイモ、120トンの缶の肉、30トンの砂糖、20トン以上の粉ミルク、ココア、小麦、その他の食材がありました。

Q:パン製造工場はありましたか。

A:はい。1日に60000ローフを生産する大きなパン製造工場があり、スタッフもそろっていました。パン製造に必要なすべての資材が大量にあるようでした。パン製造工場は今も稼動しており、スタッフもそのままです。

Q:ストックを調査してみて、第一収容所に食料が供給されなかった理由があると思いましたか。

A:しかるべき理由があったとは思いません。

Q:医療品もありましたか。

A:そこにはありませんでしたが、ドイツ軍の兵営には大量にあったという話です。私の知るかぎりでは、すべてが使われてしまっていたわけではありませんでした。

Q46日以降、あなたは第一収容所の管理責任者でしたか。

A:はい。

Q:到着したときの、水の状態はどうでしたか。

A:緊急用の貯水槽と思われるもの以外には何もありませんでした。強制収容所には3つのタンクが、SSの管理区画には1つのタンクがありました。収容所のタンクの水は汚れており、緊急措置として、給水車が送り込まれました。水を供給するために、収容所にあった消防ポンプとホースを使って、川から収容所に水を引きました。すべての厨房に水をいきわたらせるには45日かかりました。すべての人が水を利用できるようにするには、さらに4日かかりました。収容所には、水を供給するための資材が十分にありました。

Q:水の供給が止まってしまった理由があるとお考えですか。

A:まったくありません。

Q:収容所には便所はありましたか。

A:まったくありませんでした。その結果、収容所はきわめて不衛生となっていました。大量の人間に対して、便所がなかったのですから。できるだけすぐに、戸外の便所を建設し始めました。砂地であったので、苦労はしませんでした。

Q:全体として、食料、水、医薬品、便所を提供できない理由があったとお考えですか。

A:収容所の管理当局にその気があったとすれば、すべてを提供することができたと思います。

 

(弁護人ウィンウッド少佐の反対尋問)

 

Q:ドイツ語を話せますか、理解できますか。

A:いいえ。

Q:配給倉庫のドイツ軍大尉とどのようにして話したのですか。

A:公式のベルギー人通訳を介してです。

Q:この大尉への最初の質問は、「倉庫の食料をどの収容所に供給しているのか」というものでしたか。

A:いいえ。「あなたは、倉庫の担当将校ですか」というものでした。

Q:「第一収容所」という単語を口にしたのは、あなたですか、それともドイツ軍大尉ですか。

A:当時、それが第一収容所と呼ばれていたとは知らなかったので、「第一収容所」という単語を口にしませんでした。私たち二人とも強制収容所と呼んでいました。実際には、二つの強制収容所があったのですが。

Q:ドイツ軍大尉は、他の部隊にも食糧を配給していると言っていましたか。

A:はい、収容所の中のハンガリー人連隊、その家族、ドイツ軍部隊です。

Q:はるか離れたハノーバーのドイツ軍部隊にも配給しているといっていましたか。

A:ハノーバーについては何も言っていませんでした。

Q:この倉庫が毎日何を配給していたのか詳しく知っていますか。

A:いいえ。

Q:この大尉はパン倉庫の責任者でもありましたか。

A:詳しくは分かりませんが、そうであったと思います。しかし、毎日のパンの配給の詳細については知りません。

Q:水の供給について、ドイツが知らないような専門家のアドバイスをしましたか。

ASS隊員を使って、川から水をくみ上げました。その後、R.E.M.Eの少佐が助けに来て、水の供給を稼動させてくれました。川の水は飲料水に適していました。

 

(弁護人ムンノ少佐の反対尋問)

 

Q:あなたの証言はすべて、第一収容所に関するものですか。

A:いいえ。収容所の北にあったドイツ軍配給倉庫に関するものもあります。そこは、第一収容所でも、第二収容所でもありません。ドイツ軍大尉から、彼の倉庫から二つの強制収容所への配給が行なわれていたことを知ったのです。

 

(弁護人ロバーツ大尉の反対尋問)

 

Q:第一収容所には何名かのSS隊員がいましたね。最初の23日間に、彼らの移動を阻止する措置がとられたのですか。

A:彼らは逮捕されましたが、それが最初の23日間のことであったのか知りません。さらに、私の到着後に、SS隊員が戻ってきたのか、連れ戻されたのかも知りません。

 

(弁護人ニーヴェ大尉の反対尋問)

 

Q:第一収容所には、どのような輸送手段がありましたか。

A:トレーラー以外には思い出せません。

Q:ドイツ軍倉庫から第一収容所にはどのくらいの割り当てが提供されていたのですか。

A:わかりません。

 

(弁護人フィリップス大尉の反対尋問)

 

Q:配給地点からさまざまな部隊に配給が行なわれていたと証言されましたが、配給の総量を知っていますか。

A:まったく知りません。

Q:倉庫担当の大尉に、どのくらいの量を強制収容所に供給していたのか尋ねましたか。

A:いいえ。

 

<法務官>:あなたは、ドイツ軍大尉に、囚人のためにイギリス軍が利用できる倉庫はどれかと尋ねたのですか、それとも、クラマーがこの収容所を管理していたときに利用していた倉庫はどれかと尋ねたのですか。

A:前者です。

<法務官>:このバラックの中に倉庫があり、そこからさまざまな組織が食料を提供されていたのですね。

A:そのとおりです。

<法務官>:第一収容所と第二収容所から離れたバラック地区には、食料を受け取った人数がどれほどいたのでしょうか。

A:総勢3000名ほどの、ハンガリー人とドイツ軍部隊です。

<法務官>:食料が全員にいきわたらないときには、ハンガリー人とドイツ軍部隊に優先的に配給されたのでしょうか。

A:何も知りません。

<法務官>:この大尉に、クラマーは自分が望むだけの配給量を要求することができたのかどうか、もし、配給されなければ、その決定を覆すことができたのかどうか、大尉が配給しようとした量だけを受け取らなくてはならなかったのかどうか、尋ねましたか。

A:大尉との話では、そのような話題は出ませんでした。

<法務官>:クラマーは自分が望む量をほしがっていたのか、大尉は自分が判断した量を配給したのか、大尉との会話からわかりましたか。大尉との会話の印象からわかりましたか。

A:会話の正確な内容を覚えてはいませんが、この大尉は、配給量にしたがって量を提供しなくてはならなかったという印象を抱きました。

 

<裁判官>:あなたは、収容所にあった資材から、水の供給システムを作ったと証言しましたが、それはかなりの期間稼動するものでしたか、それとも、一時的なものでしたか。

A:かなりの期間稼動するものでしたし、実際に稼動しました。

 

<検事バックハウス大佐>:ここでお許しを願って、ベルゼンの光景を撮影したフィルムを上映したいと思います。フィルムは二部に分かれており、第一部は全体の状況を、第二部はSS隊員、もっと詳しい状況、囚人を撮影したものです。第一部は、撮影時の天候が悪かったので、技術的な質が悪いです。

 このフィルムを撮影・編集した人物の供述書を証拠として読み上げます。

 

(供述書が読み上げられ展示証拠品4とされる。フィルムが上映され、展示証拠品5とされる。)

 

(検事バックハウス大佐による証人ハロルド・オズモンド・ル・ドルイレネクへの尋問)

 

A:私はイギリス国民で、職業は校長です。住所は、ジャージー、セント・ヘリアー、トリニティ通り7です。194465日、私と家族の大半は、ドイツ人に逮捕されました。私たちは、18ヶ月ほど前に、ロシア軍捕虜の逃亡を助け、禁止されていた無線設備を持っていたからです。ブルターニュ地方のライムの刑務所に投獄されました。そして、ベルフォルトに送られ、最後に、記憶では、194491日にノイエンガムメに移されました。そこから、作業班としてヴィルヘルムシャーフェンに送られ、武器工場でアセチレン溶接工となりました。その後、ベルゼンに送られました。45日の夜10時ごろだと思います。到着しても食料は配給されませんでしたが、タバコやパンを移送中に手に入れていた幸運な囚人は、交換で、カブなどのスープを手に入れました。私はブロック13に連行されました。その晩、このブロックには、400から500名がいたと思います。

Q:ご自分の言葉で、その晩のブロックの状況を話していただけませんか。

A:以前の収容所からの友人であるフランス軍大佐と私は、建物の中の3段重ねの寝棚のベッドにもぐりこみました。5分ぐらいたつと、誰かが私たちの頭を殴り、そこで寝てはいけないことを知りました。殴られたおかげで、これらのベッドは囚人の役付きと看護係のために確保してあることを知りました。大佐と私は、何人かのフランス人を発見しました。彼らはグループごとにまとまって、安全を確保しており、足をかかえて座っていました。床のグループのあいだに座っている人もいました。寝ることはできませんでした。建物全体は、精神病院のようでした。しかし、この晩はベルゼンの経験の中では、もっとも幸運な晩であったことを、あとで悟りました。翌日、その翌日には、作業班が入ってきて、すでに過密になっていた建物で寝なくてはならなかったからです。床はひどく不潔で、その上に身を横たえなくてはなりませんでしたが、私たちに与えられたのは、2枚のぼろの毛布だけでした。翌朝3時半ごろ、たたき起こされて、建物の外に出されました。またもや、殴ることが命令を実行させる唯一の手段でした。

Q:その晩、死亡した人物はいましたか。

A:点呼のために外に出たあと、建物が清掃されましたが、78名の死体が運び出され、建物全体に沿って掘られていた便所壕に投げ捨てられました。

Q:建物にはたるきがありましたか。

A:ありました。機転の利く囚人が二つのたるきの上に板をかけていましたので、不潔な床で寝るよりも、狭い板の上で寝ることを選んでいました。建物の囚人の多くが下痢に苦しんでおり、板の上の囚人も下痢に苦しんでいたので、どのような状態となっていたのかは、想像にお任せします。下にいた囚人は外に出ることができましたが、外へ出てしまうと、戻ってきても寝る場所がなくなってしまうので、結局は、外へ出ないほうが良いということを学びました。

Q:夜、建物の外に出ることを許されていたのですか。

A:いいえ。床には人があふれ、外に出るには彼らを超えていかなくてはならないので、外に出ることは不可能でした。いずれにせよ、ドアは閉められていました。囚人たちはドアに寄りかかっていましたので、鍵がかけられていたのだと思います。

Q:建物内部の雰囲気はどうでしたか。

A:言葉にすることもできないほどです。それを表現することもできません。劣悪でした。恐るべきほどの悪臭が漂っていたとだけ申し上げておきましょう。悪臭はベルゼン収容所の最悪の特徴でした。ダンテのような人物ならば、建物で過ごした夜のことを描写できるかもしれませんが、私には言葉にすることができません。

Q:翌朝、建物を離れたのでしたね。そこから話を続けてください。

A:ベルゼンでの最初の34日は、何もすることがありませんでした。点呼は3時半から89時まで続きました。時計を持っていなかったので、測っただけですが。この点呼自体、おそらしいほどの緊張が必要でした。点呼は普通の強制収容所の点呼と同じでした。数を数えやすくするためでしょうか、点呼のあいだ、5列に並んで立っていなくてはならず、二人の人物が数を数えましたが、なかなか数が合わず、数時間にわたって、数え直しが続きました。少しでも動けば、頭を杖で殴られました。その杖は長さ45フィート、厚さ1.5インチであり、殴られると苦痛が走りました。

Q:点呼の前に、食事が配給されましたか。

A:いいえ。飲み物すら配給されませんでした。

Q:その日はどのような食事でしたか。

A:最初の日には、ほとんど何も食べていません。

Q:その日は、どのような作業を与えられましたか。

A:その日は、何もしませんでした。ブロック近くの庭に出て、干し草の中で寝ました。ベルゼンの習慣でした。昼前に、フランス人の友人が、庭の反対側にある灰色のレンガの建物を調べたかと尋ね、壁にある窓、というよりも穴から調べてみるようにすすめました。最初の窓から見ると、そこは洗濯室のような場所でしたが、12名の死体が、水のあふれた床の上を漂っているようなひどい場所でした。第二の窓から中を見ると、ひどいショックを受けました。この部屋は死体で満杯でした。死体は、頭がその下の死体のあごに接するように並べられており、一部屋につき数百の死体があったと思います。私たちは庭を下っていって、窓をのぞいていきましたが、細長い建物の中の部屋の様子は、まったく同じでした。ブレーメンとリュネブルクで死体を扱った経験がありますが、ベルゼンでの最初の夜以降の経験は、それ以上の驚きでした。地獄に入ったような印象でした。その日は、食事が配給されるであろうというはかない希望を抱きながら、地面の上に身を横たえていました。

Q:翌日の晩はどのようでしたか。

A:もっと劣悪でした。作業班員が到着したので、前の晩よりも過密になりました。原始的な便所があったのですが、大半の囚人はそれを使っていないことを知りました。

Q:二日目には食事と水を手に入れましたか。

A:その日、軍隊で普通に使われているエナメルのコップに1.5インチほどのスープを受け取りました。コップは、死者の所持品の山から手に入れなくてはならなかったものです。それを洗う水はありませんでしたので、ほかの数百の囚人と同様に、直接、そこから食べなくてはなりませんでした。建物の中で食事を受け取ることになっていたので、誰もが建物に入らなくてはなりませんでした。そして、少ない配給を受け取って外に出て、乏しい食料を一滴たりともこぼさないようにして、こそこそしながら、隅から隅へと移動しました。

Q:囚人に対するSS看守の態度はどうでしたか。

A:ベルゼンには短期間しかいなかったので、そんなに多くのSSを見かけたわけではありませんが、埋葬壕近くの女性区画の女性が、調理をするために火を起こしていたとの咎で、SS将校がこの女性たちを鞭で打っていたのを目撃したことがあります。

Q:ブロック長の態度はどうでしたか。

A:とりわけ邪悪でした。彼らは、正午に、スープをブロックに運ばせ、他の係り、交換にタバコを提供する囚人に配給していました。普通の囚人の大半は、そのようなスープを見たこともありませんでしたが、交換レートは3本のタバコで一皿のスープでした。私たちが少々のスープを手に入れたとしても、それは最初の夜のことでした。SSはブロック長たちをコントロールしようとはしませんでした。5日目に、私は働き始め、最後の5日間に過酷な労働を経験しました。

Q:労働が始まる前の日々は、今まで話された状況と同じようでしたか。

A:多かれ少なかれ、同じでした。驚くような事件が12ありました。私の最初の友人はまだ死んでいなかったのですが、朝、建物から引き出され、死者とともに並べられて、生きたまま、ブロック13の東にある建物に引きずられていきました。そこは死体安置室として使われていました。ベルゼンでの最初の4日間、私が手に入れたのは、1パイントのスープだけでした。それは、4日間毎日、軍隊用のコップに1.5インチの深さでした。4日目に、死体安置室として使われていた建物に30分ほど水が供給されました。34名の死体を処理すれば、蛇口に近づくことができました。それを飲むと腸チフスにかかるという友人の警告があったにもかかわらず、コップいっぱいの水を飲んでしまいました。

Q:労働が始まった5日目について話してくれませんか。

A:最初、労働はむしろ興味深いものでした。私たちは、ブロックごとに集められました。600700名が死体安置室の前の庭に送り込まれました。殴るという手段によってでしたが、そのときまでには、殴打の意味を理解していました。私たちの仕事は、死体を引きずって、あるルートを通って、大きな埋葬壕に運ぶことでした。死者の所持品や衣服の山から湿った毛布の切れ端を取ってきて、この毛布や衣服の切れ端を使って死体の足首と手首を結び、それを壕に引きずっていくのです。仕事は日の出とともに始まりましたので、その前に起きていなくてはなりませんでした。作業の前には食事は与えられず、夕方8時まで働きました。この埋葬作業に従事していた5日間、一口の食べ物も、一滴の水も口にしませんでした。

Q:そのうちの一日の様子を話していただけませんか。

A:おそらしい夜ののち、点呼が始まりました。2時間ほどのちに、この庭に集められました。慎重に選び出した死体の足首と手首を毛布の切れ端で結びました。最初、できるだけ小さな死体を選びました。想像以上に衰弱し、痩せていたので、一番小さな死体を選べば、一番軽い死体を運ぶことになったからです。朝一番の仕事は、さまざまな建物から死体安置室の庭に運ばれてきていた新しい死体を埋めることでした。建物の中にある死体を埋めることではありません。2000体以上の死体があったに違いありません。この仕事を終えるのに午前中すべてを使い、庭を空けたあとに、今度は部屋に入って古い死体を埋めはじめなくてはなりませんでした。そして、死体を引きずりながら、庭の北の端の門を出ました。前と後ろの人物の間隔は2mほどだったでしょう。それ以上間隔をあけてしまうと、頭を殴られ、間隔を詰めるようにせきたてられました。埋葬壕に向かって中央道路を進んでいきました。この道路には、一定の間隔で看守が立っており、壕への死者の流れがスムースに進行するように監督していました。厨房と貯水槽の近くでは、特に多くの看守が立っていました。この仕事でとくにつらかったのは、毎回、貯水槽のそばを通ったことでした。喉がからからでしたが、水に触れたり、近づくことも禁止されており、厨房の近くのかぶの切れ端の山に近づくことも禁止されていたからです。壕のそばでは、いわゆる自由外国人労働者が壕を掘っていました。すでに死体で満杯の壕を見ましたが、そのときの感情をうまく説明できません。私は、自分の死体を、すでに投げ捨てられている死体の上に投げ捨てなくてはなりませんでした。死体を引きずっているときに、死体の太ももの裏側に非常に奇妙な傷があるのに気がつきました。最初、近距離からの発砲による傷であると思いましたが、友人に尋ねると、囚人たちが死体から肉片を切り取ったのだという答えが返ってきました。次に死体安置室に行ってみると、実際に、ある囚人がナイフを取り出して、死体の足から肉を切り取り、すばやく口に運ぶのを目撃しました。彼は、そのような行為を目撃されたことに恐れおののいていました。囚人たちが、死体から肉片を食べてしまうようになった状況については、想像にお任せします。

Q:このようなことが起っていたときのSSや看守の態度はどうでしたか。

A:できるだけ早く仕事を片付けようとしていました。やってくるイギリス軍に好印象を与えようとしていたのだと思います。イギリス軍の進撃を知っていました。砲声が聞こえましたから。イギリス軍の到着以前に、収容所から死者を一掃しようと考えていたのでしょう。壕までの死者の長い鎖の列が、5日間、日の出から日没まで際限なく続いていましたが、一体それをどのように描写したらよいのでしょう。どのくらいの死体が埋葬されたのか分かりません。膨大な数であったに違いありません。5桁の数字でしょう。

Q:この仕事で倒れた囚人はどうなったのですか。

A:倒れようとする者はいませんでしたが、多くの人々が途中で倒れました。道端に死んだように倒れているか、死んでいました。今度は、彼らが45人のチームによって壕まで運ばれました。人々は、壕までの途中でハエのように死んでいきました。囚人たちには、非常に軽い死体でさえも運ぶエネルギーがなかったのです。ふらついている者は、頭を殴られましたが、多くの囚人は知恵を働かせていました。看守があたりにいないときに、囚人たちは道端に死体を捨てて、別の死体を運ぶために死体安置室に戻ったのです。厨房や保管庫のそばを通ることができたからです。そうすればまだ、食料や水を手に入れることができると期待していたのでしょう。

Q:この時期に、あなたも殴られましたか。

A:はい、何回も。ごく日常的に、殴られます。朝、建物から出ようとすると、最初であっても最後であっても殴られます。死体安置室に行くときにも、壕に行くときにも殴られます。あちこちを中途半端に殴りますが、面白おかしくするためだったのでしょう。強制収容所にいると、どうしてこのようなことが起るのかという疑問を抱くのを止めてしまいます。最初から、そのようなものであるということを学ばされるのです。

Q:看守は銃器で武装していましたか。

A:監視所にいるSS看守、ハンガリー人看守、収容所を見回っているSS看守、ハンガリー人看守全員がそうでした。最初の数日には数回の銃声を聞きましたが、何も事件は起りませんでした。しかし、最後の数日には、発砲は頻繁となり、昼であっても、夜であっても、ほとんど毎分ごとに、どこかで銃声がしていました。普通は、一斉発砲でした。多くの発砲を目撃しましたが、それはまったく理由のない発砲でした。数十名が殺された後にやっと知った秘密の理由があります。例えば、死体安置室の庭の北の入り口では、多くの人々が殺されていましたが、この入り口の責任者の看守が、死体を二重に引きずらせようとしていたのです。彼は、ハンガリー人看守でしたが、ハンガリー人看守だけが発砲したのではありません。1日に、おそらしい数百の発砲がありました。

Q:殴打はどのような結果となりましたか。

A:殴打は普通、頭を殴ることでした。25回殴られている人物を目撃しました。それはとくにひどいものではなく、前の収容所と同じようなものでした。頭を平手打ちにすることは非常によく行なわれていて、非常におぞましいものでした。

Q:収容所の解放直後に、あなたたちも釈放されたのですね。

A:そうです。私の知るかぎりでは、外に出たのは私が最初でした。その後、先週の土曜日まで、病院に収容されていました。

Q:発砲したか虐待行為を行なった看守を特定できますか。

A:いいえ。全員が同じように見えました。ですから、特定できません。

Q:看守が囚人を助けたのを目撃したことがありますか。

A:ありません。一般的にいえば、強制収容所の看守は野獣のようなものであり、囚人も野獣のようなものとなり、人間的な親切心がこのような場所では、発揮されません。6日間も水が与えられないというような絶対的な飢餓が存在しました。埋葬壕のそばで寝ることはできませんでしたので、まったく睡眠も取れませんでした。シラミにたかられて、1日に34回も駆除してもまったく無駄でした。そして、囚人は、壕や焼却棟という自分の運命を知っていて、錯乱していました。これに加えて、悪臭と劣悪な環境がありました。今日、全世界を震え上がらせている光景を、私たちは来る日来る日も見続けていたのです。そして、頭を殴られながら、忌まわしい作業に従事していました。最後の3日間には、ハンガリー人看守は、私たちをまるでウサギとみなしているかのように、あらゆる方向から、発砲してきました。そのような状況であったことをご理解いただきたいと思います。そのような状況を想像できれば、最後の3日間にベルゼンがどのような状況であったのかを、少しでもご理解いただけると思います。

 

(弁護人ウィンウッド少佐の反対尋問)

 

Q:証人と一緒にベルゼンにやってきた囚人はどのようでしたか。

A:何名が死んだのか正確にはわかりませんが、多くの人々が死んだと思います。ベルゼンにやってきた者のうち、150名ほどが生き残りました。数千名が10日間で死んだと思います。

Q:彼らがベルゼンにやってきたときの状態はどうでしたか。

A:コマンドの多くは歩いてベルゼンにやってきており、労働可能でした。私たちは、リュネブルクがイギリス空軍の空襲を受けたので、移送されてきたのです。ベルゼン側が私たちの移送を知っていたかどうかについては分かりません。

Q:いつもブロック13にいたのですか。

A:イギリスの戦車が始めて出現した日に、ブロック26に移されました。ブロック13はその朝に清掃され、飾り付けられていたので、私たちは新しいブロックに移されましたが、それは、イギリス軍に好印象を与えるためであったのでしょう。この建物の周囲には草がはえていました。戦車が通過したとき、5日目にしてはじめて食物を口にしました。草を食べたのです。

Q:ベルゼンにいたとき、厨房はいつも稼動していましたか。

A:稼動していたと思います。

Q:ブロック13には毎日食料が配給されましたか。

A:最初の数日間には少量が配給されていましたが、最後の5日間には、埋葬壕での作業から戻ってきても、スープはまったくありませんでした。

Q:ブロック13で毛布を持っていた囚人はどれくらいでしたか。

A:答えることはできません。入ったところのドアの左側には毛布の山がありました。最初に入った人々は一枚か二枚を手に入れ、残りの人々にはまったくなかったと思います。私が、夜10時に到着したときには、一枚手に入れました。ドアの左側にあった湿った毛布の山から一枚を拾いました。そのときには、建物は、翌日の夜や、その翌日の夜ほど込み合っていなかったのです。

Q:点呼が始まったのは、朝の3時半であったとおっしゃいましたね。

A3時半だといわれていました。私たちは時計を持ってはいませんでした。真っ暗でした。

Q:あなたがベルゼンにいたとき、死体を埋葬する試みが実際に行われたのですね。

A:そのとおりです。試み以上のものでした。大きな成果を挙げました。最後の四、五日で数千名を埋葬したのです。誰が埋葬命令を発したのかは知りません。

 

(弁護人クランフィールド少佐の反対尋問)

 

QSS隊員とブロック長全員に接触しましたか。

A:はい。最初の夜、SS女性隊員を目撃しましたが、さまざまの方角から収容所にやってくるコマンド隊員を監視する収容所の入り口のところでだけでした。

 

(弁護人ロバーツ大尉の反対尋問)

 

Q:イギリス軍が到着したとき、証人は何名かの囚人と同様に健康でしたか。

A:そうだったと思いますが、それが実情を証明しているわけではありません。

 

(弁護人フィールデン大尉の反対尋問)

 

Q:ベルゼンのSS隊員全員が虐待と射殺に責任を負っていますか。

A:いいえ、私が最後の三日間に目撃したのは、ハンガリー人看守による発砲でした。建物を管理する看守の多くはSS隊員ではなく、SSの命令に従って活動するブロック長、カポー、外国人労働者その他でした。滞在中に、区画の付近でSS隊員を見たことはありません。すでに申し上げましたように、一人の人物がある女性を虐待しており、他の数名がその周りにいたのを目撃しました。私が見た三つの収容所では、SS隊員は実際の強制収容所地区の外の、厳格に保護された区画で生活しており、強制収容所自体の秩序や管理は囚人にゆだねられていました。囚人の管理を囚人に請け負わせるという悪辣な制度でした。

 

(弁護人コルバリー大尉の反対尋問)

 

Q:囚人に食事が提供される時間になると、建物に食事が運ばれてきて、配給される前に、証人たち全員が建物の中に入ったのですね。

A:はい。ごく少数の方法が行なわれ、まったく失敗していました。おそらく、2030名が食事にありつけ、残りの人々はまったくありつけなかったでしょう。最初の日々には、建物の中に入るというやり方でした。スープの大鍋がドアの近くにありました。その後、コップかスープ皿を持って庭に出るという方法がとられました。一番良い方法は、私が食事にありつけた最後の方法でした。私たちは柵の後ろにいて、一人ずつ順番に呼ばれて、入り口のところでスープをもらい、そして庭に出て行きました。この場合、スープをひしゃくでくんでいたのは、ブロック長かその助手でした。

Q:囚人たちが自分の配給を受けてから、もう一度列に加わろうとしたのを目撃しましたか。

A:はい。

Q:それを防ぐやり方はありましたか。

A:はい。窓、ドア、建物の裂け目のところに、人員が配置されて、監視していました。

Q:囚人がスープの配給地点に遅すぎてやってきたので、もうなくなってしまっているのを発見したことを目撃したことがありますか。

A:はい、まれではありますが。非常にまれでした。

Q:誰かがうまく二回目のスープの配給を手に入れるのに成功したのを目撃したことがありますか。

A:まったく目撃したことはありません。

Q:スープが建物の囚人全員にいきわたらなかったのは、二回目の配給を手に入れることに成功した人々が存在していたというのがひとつの理由ではないでしょうか。

A:いいえ、その見解には同意できません。

 

(弁護人ムンロ大尉の反対尋問)

 

Q:ブロック長とカポーがSSの監督下にあったとおっしゃいましたね。囚人たちはあなたと同じようにSSを恐れていたといっても良いでしょうか。

A:わかりません。SSと十分に接触していなかったので、確答することはできません。

Q:ブロック長とカポーは、SSが期待するような仕事を果たさなかったときには、処罰されたのでしょうか。

A:まったくわかりません。カポーでもブロック長でもなかったのですから。

 

<法務官>:ブロック長とカポーはSSの監督下に置かれていただけではなく、何らかの攻撃を受けたときには、自分たちの権威を維持するために、SSに頼ることができるというような保護の下にあったという印象をお持ちになりましたか。

A:はい、そう思いました。

<法務官>:囚人たちはどのようにしてそのようなポストを獲得したのですか。

A:わかりません。

<法務官>:最初の四日間に、コップに1インチ半の深さのスープを毎日手に入れたとおっしゃいましたが、誰もがその量だったのですか、それとも、偶然に、あなたはその量を手に入れたのですか。

A:関係者全員に配給された正規の分量でした。

<法務官>:各囚人が一定の量の配給を受けるような措置がとられたのですか。

A:最初の五日間には、そうでした。

<法務官>:多くの囚人が収容所に流れ込んできて、スープの配給が前述のように行われ、その量も少なくなり、飲み水の質も悪くなっていったという意味で、状況が悪化したというように考えていますか。

A:そのような印象は持ちませんでした。事態は悪化していきましたが、それは、多くの囚人が収容所に流れ込んできたためではありません。状況はますます悪化していき、最後の三日間にはついに発砲事件が発生するまでに至りました。その発砲事件にはいかなる理由もありませんでした。

 

<裁判官>:一般的に言って、あなたが滞在したことのあるほかの収容所と比較して、ベルゼンの状況はどうでしたか。

A:ベルゼン以前に私が収容されていた二つの収容所では、清潔さを維持する措置がとられていました。もっとも、ヴィルヘルムシャフェンとノイエンガムメでの虐待行為やサディズムはベルゼンよりも悪いものでしたが。ベルゼンは、この地球に生まれた中で、もっとも不潔で、最悪の場所だったといえると思います。

<別の裁判官>:ハンガリー人以外に囚人に発砲した人物を目撃しましたか。

A:いいえ。

 

<裁判長>:すべての点呼を実施したのは、収容所のSS隊員とは別の、囚人のボスたちであったのですね。

A:はい。

<裁判長>:最後の四日間には、食糧の配給はまったくなかったと証言されましたが、建物の中の別の囚人や囚人のボスたちには配給されたのですか、それとも、離れていたために食料を見逃してしまっただけだったのですか、それとも、まったく食料はなかったのですか。

A:わかりませんが、最後の五日間にはスープを目撃したことはありませんでした。