3日―1945919日水曜日

 

(検事バックハウス大佐の再尋問)

 

Q:証人は、倉庫を守る必要性などについて多くの質問を受けましたね。イギリス軍の発砲で負傷した囚人はいたのですか。囚人を暴力なしでコントロールするのは難しかったのですか。

A:いいえ。

Q:殴られた人々を診察しましたか。

A:それは私の職務ではありませんでした。私は、さまざまな措置を講じるのに多忙でした。殴られたために入院していた囚人がいました。

Q:あなたの報告書の中にある数字は、クライン博士が見積もったものですか。

A:はい。しかし、彼自身が見積もったものかどうかは分かりません。外科患者の数は、私が見積もったものではありません。

Q:クライン博士は1700件のチフスを上げていますが、正しい数字は10000件に近いのではないですか。

A:私たちが入院させた14000名ほどの生存者と死者の中で、10000名近くです。実際に治療したのは、14000名のうち3500名でした。

Q:囚人の食事のカロリー量は800以下であったとおっしゃいましたが、かなりの期間生命を維持するには十分でしょうか。

A:いいえ。

Q:そのような食事を受けていたものは、必ず栄養失調になりますか。

A:そのとおりです。さらに、労働を強制されれば、不可避的な結末の到来を早めてしまうでしょう。

Q:解放後の、SSに対する囚人の態度はどうでしたか。

A:囚人の前でSS隊員を尋問し、隊員が囚人に哀願すると、囚人たちは明らかに答えるのを恐れていました。

Q:栄養失調は、人々の記憶力に影響を与えますか。

A:最悪の状態でなければ、そんなことはありません。

Q:収容所の状態に対処するには、野戦衛生部隊、救急センターなどが必要でしたか。収容所を普通に管理するには、必要でしたか。

A:収容所の状態に対処するには、それらが必要でした。

Q:イギリス軍の補給物資は、解放前のドイツ軍の補給物資よりも多かったですか。

A:ドイツ人は、周囲の部隊から多くの補給物資を手に入れることができたと思います。

Q:囚人の中に、医療関係者がいましたか。

A:多数いました。彼らは労働不適格者であったにもかかわらず、超人的な努力をしていました。しかし、彼らを組織化しようとする試みはなされませんでした。

Q:ドイツ軍の施設は強制収容所の近くにありましたか。

A:美しい軍事病院がありました。500名の療養用の建物でしたが、10002000名を十分収容できました。また、戦争負傷者用のドイツ軍事病院として接収された8つの兵営ブロックがありましたが、604名ほどの患者が収容されていました。

Q:囚人の死因の一つとしてアパシーをあげていますが、朝、囚人をベッドから出すことがアパシーの適切治療となるかどうか尋ねられましたね。もし、病気で栄養失調の囚人がいた場合、朝、食事を与えること以外に、何が適切な措置でしょうか。

A:食事を与え、身体を洗い、快適にすることです。このような症例では、個別的な治療が必要です。食事を少量適時に与え、できるかぎりのことをしてやることです。肉体労働をさせるべきではありません。

Q:力ずくでベッドから引きずり出したり、殴ったりすることは適切な措置ですか。

A:いいえ。

Q:点呼にあたって、ときには何時間も立たせたままにしておくのは適切な措置ですか。

A:最悪です。

Q:労働させることは適切な措置ですか。

A:いいえ。

Q:収容所のSS隊員、看守、所長、医師の誰かが、囚人の健康や良好な生活に配慮していた痕跡を発見しましたか。

A:まったくありません。彼らはまったく無関心でした。

 

<法務官>:第一収容所を、この事件が起きたときの状態から、今日の状態までに変えるために、どのような措置がとられましたか。

A:第一収容所は、SSが占拠していた道路の近くの管理ブロック以外、完全に疎開され、521日に焼却されました。

<法務官>:ということは、建物や厨房を見ることは、今ではできないということですね。

A:第一収容所では見ることはできません。煉瓦の厨房が一つあり、その壁はまだありますが、当時のものとはまったく似ていません。第二収容所は、19454月の時点とまったく同じ状態です。

 

<裁判官>:囚人に一定期間配給できるだけの食料は存在していたけれども、配給されていなかったのですね。

A:はい。厨房には、1日か2日分の食料を配給できる物資がありました。

<裁判官>:もっとも近い食料倉庫はどこにありましたか、そこには十分な物資がありましたか。

A2マイル以内のところにあり、十分な物資があったと思います。ドイツ軍の管轄下にありました。パン製造工場もありました。民間の酪農場も非常に近くにあったと思います。

<裁判官>:収容所の医療品についてもう少し詳しくお話ください。

A:管理地区の中に建物があり、そこには、不足しているものもありましたが、非常に大きな備蓄がありました。もう一つの建物には大量の膏薬もありました。麻酔薬は不足していました。私たちは、短期間で、この地区のドイツ軍捕獲物資3トン積荷45個を集めました。

 

<裁判官>:収容所の医師以外に、ドイツ軍の医療関係者がいましたか。

A:一人もいませんでした。

 

<裁判長>:赤十字の箱はいくつありましたか。

A:一部屋一杯。

 

<検事バックハウス大佐>:次に、ジョンストン大佐の供述書を提出したいと思います(展示証拠3)。

 

<弁護人ウィンウッド少佐>:この供述書が提出されるまえに、8910項に異議を申し立てます。この部分は法廷が裁定すべき個所に関するコメントだからです。

 

<法務官>:この供述書に宣誓している人物は、自分の管轄外のことを扱っているので、議論を紛糾させずに、一致点を見出すことができるとすれば、10項を読み上げないことを提案します。

 

<検事バックハウス大佐>:供述書を読み上げます。

「ジェームズ・アレクサンダー・ディーンズ・ジョンストン中佐の供述。彼は、第一戦争犯罪調査チーム法律スタッフサヴィル・ジョフリー・チャンピオン少佐の前で宣誓した。

1)               私は32(イギリス)救護センターを指揮しており、ベルゼン強制収容所の軍医長でした。

2)               私が、ベルゼン強制収容所にやってきたのは、1945417日のことでした。

3)               収容所を見て回り、それがかなりの期間使われており、人々が生活していたことを発見しました。これが第一収容所でした。入り口のところには、ドイツ軍の収容所スタッフが使っていた建物がありました。鉄条網のある門を入ると、囚人収容所の主要部がありました。3つのラーゲルがあり、一つは男性用、ほかの二つは女性用でした。北に隣接して、女性ラーゲルもありました。これから申し上げようとする状況は、第一収容所のラーゲルすべてに当てはまります。

4)               第二収容所は、煉瓦の建物からなり、ドイツの兵営の一部となっており、第一収容所から1マイルほど離れていました。第二収容所が存在していたのは、数週間ほどであったと聞かされましたが、そうであったと考えています。

5)               1945417日にこの収容所に入ったときの状況は、次のとおりです。残酷で、おそらしく、まったく非人間的な状況は筆舌に尽くしがたいものでした。

 

第一収容所

 囚人たちは、衰弱しており、アパシー状態にある案山子の群れでした。木造の建物の中に群がっており、多くの場合ベッドも毛布もない状況でしたし、まったく裸も場合もありました。女性の状況のほうが、男性よりも悪く、衣服を身に着けていたとしても、ぼろきれでした。

 収容所のいたるところに死体が放置されており、重病人が病院に入ることもなく、収容されていた建物ブロックの外には、死体の山がありました。収容所にいたるところに、数千の裸のやせこけた死体があり、腐敗し始めていました。13000名ほどの死体が埋葬されないまま放置されていたと思います。

 実際的な目的を持つ衛生措置はまったく講じられていませんでした。用を足すための壕がありましたが、十分な数ではありませんでした。渡し木のついた壕の数は非常に少なかったです。囚人たちは、栄養失調で、アパシー状態にあり、衰弱していたので、その場で用を足していました。建物の中で用を足していたこともありました。

 洗浄設備もまったく不足していました。

 水道も電気もありませんでした。水はすべてイギリス軍の給水車によって供給されていました。

 

第二収容所

 この収容所の状況は第一収容所よりもましでしたが、それも相対的なものです。普通の監獄と比較すれば、劣悪でした。囚人は、150名の定員の建物に600名が押し込まれていました。第一収容所よりもまともな服を見につけており、そんなに衰弱してはいませんでしたが、飢餓の兆候はいたるところに現れていました。第二収容所では死体を目撃しませんでした。

 

蔓延していた疫病

 第一収容所。チフス、結核、飢餓が蔓延していました。

 第二収容所。パラチフス、結核、丹毒。チフスの症例はありませんでした。

 

6)               両収容所、とりわけ第一収容所の状況は、次のようなものでした。大量の死者が(1)栄養失調から発生せざるを得えません。生き残っている者においても、死んでいる者においても、組織的な飢餓政策がとられた明白な証拠があります。大量の死者が(2)まったく不十分な衛生措置と結びついた人口過密から発生せざるを得ません。第一収容所では、建物ごとにいくぶんか状況は異なっていますが、いずれにしても、設備は極端に不足していました。第一収容所では、1名のスペースに10名が、第二収容所では1名のスペースに4名が収容されていたと言えるでしょう。第一収容所の衛生設備について言えば、もしも、定員、すなわち、当時の10分の1を収容していたとしても、まったく不足していました。この結果、第一収容所では、疫病、とくにチフスが蔓延し、死者の数は埋葬できないほど増えてしました。

7)               正確な数字をあげることはできませんが、死亡していた者、解放後に死亡した者の多くは、飢餓および囚人たちに強いられた恐るべき状況によって殺されたことに疑いありません。疫病で死亡した者についても、その多くは、非常に衰弱していたために、抵抗力をまったく失っていたといえましょう。

8)               私見では、上記のような事態をもたらしてしまった命令を出した者、それを実行した者は、その命令によって、大量の死者が発生すること、命令を出し、実行したことが大量の死者を生み出すことを知っていたに違いありません。

9)               ドイツ人が病人を救うために取った医療措置は、前述したように、「ゼロ」といっても過言ではないほどでした。ドイツの医療関係者全員は、救護措置をまったくとらなかったので、このような事態から発生する大量死をまったく防ごうとしなかったことになります。だから、ドイツの医療関係者は、当該の事件すべてに責任を負わなくてはならないのです。

11) 第一収容所で、このような事態がどのくらい続いたのか述べることはできませんが、かなりの期間、私が到着した1945417日以前の2ヶ月は続いたでしょう。

12)ドイツ側が記録を破棄したか、持ち去ってしまったので、もともとの正確な数字を確定することはできません。第一収容所には40000名ほどが生き残っていたと思われますが、そこには、以前の虐待によって死亡した犠牲者の数は入っていません。第二収容所について言えば、15000名ほどがいたという話でした。イギリス軍が1945415日に収容所を解放してから死んでいった人々の数は、13000名でした。その大半は解放後数日中に死亡し、第一収容所の囚人でしたが、第二収容所でもかなりの死者が出ました。

 やはり、正確な数字をあげることはできませんが、大体、男性と女性の囚人の二人に一人が死亡したと思われます。

131945527日の時点で、ベルゼンの病院には11200名が収容されていました。全員が第一収容所と第二収容所の囚人でした。1945527日の死亡者は54名でした。さらに多くの人々が死んでいくことでしょう。

14)これまでの情報によると、少なくとも26000名が死亡しました。それは、解放のときに埋葬されていなかった者、その後に、治療が行なわれたけれども死んでしまった者の数だけでです。解放以前に、どれほどの人々が殺されたのか分かりませんが、非常に高い数字であったに違いありません。

15)               上記の数字は概数であり、イギリス当局が最終チェックしなくてはならないものでありますが、かなり正確な数字であると考えても良いでしょう。

16) 生き残った者についていえば、その大半に、非人道的でおそらしい状況のよる健康面での傷害が長く残ることでしょう。とくに、結核は広まるでしょう。さらに、生存者の大半には、この恐怖の収容所での体験からの精神的な障害が、程度の差こそあれ、長く残ることでしょう。供述者ジェームズ・アレクサンダー・ディーンズ・ジョンストンは、1945529日に、ベルゼンで、私、S.G.チャンピオン少佐の前で宣誓した。ジェームズ・アレクサンダー・ディーンズ・ジョンストンはその供述書に署名している。

 

(検事バックハウス大佐によるデレク・A・シングトン大尉への尋問)

 

A:私は情報部隊の大尉でして、第14放送部隊を指揮していた415日に、先導占領軍とともに、放送をするために、ベルゼンにいきました。テイラー中佐の通訳の役割も果たしました。門のところで、将校のグループに会いました。SS将校、ドイツ軍将校、ハンガリー人将校です。被告1号クラマーもその中にいました。何名の囚人が収容所にいるかと尋ねたところ、彼は、約40000名、さらに、道の向こうの第二収容所には15000名がいると答えました。彼によると、囚人は「犯罪常習者、重罪人、同性愛者」に分けられるというのです。政治犯がいるかと尋ねると、「保護検束者もいる」と答えました。クラマーは、囚人たちは落ち着いていると話してくれました。私は、放送車が中に入って、解放を伝えたいと提案しました。一人のハンガリー人将校が、「そんなことをしないほうが良い。一日7名が、チフスで死んでいます」と話してくれました。テイラー中佐が到着すると、私は収容所の中にすぐ入るようにとの命令を受けました。クラマーは、ドイツ軍司令官の許可なしでは、そんなことを許すわけにはいかないと言いましたが、私たちは中に入って、収容所の各所で、何回も放送しました。

Q:放送の効果はどうでしたか。

A:建物やブロックの近くにいた囚人は鉄条網のほうにやってきて、拍手をしている者もいました。数分後、彼らは区画の出入り口を通って収容所の中央道路のほうにやってきました。大鍋の前には群衆がいました。一人のドイツ軍兵士が空に向けて何回も発砲しました。しだいに回転式拳銃の銃口を下げていき、30度ほどの角度になったときに、私はこの兵士のほうに歩いていき、自分の回転式拳銃で制して、発砲を中止するように命じました。

Q:誰か別の人々が囚人を管理していたのですか。

A:青と白のしまの入った囚人服を着た人々が、走り出てきて、平らな木の棒で囚人を殴り始めました。これらの人々は、他の囚人に対する特別な権力を与えられていた囚人であったのです。「ラーゲル長、ブロック長、名代、カポー」という名で呼ばれていました。うつぶせに地面に横たわっていた囚人が、背中を殴られていたのを目撃しました。彼はとても痩せており、病人のようでした。暴力の必要はまったくありませんでした。暴力を使わないでも、囚人をコントロールすることは十分にできました。私たちは収容所の各所で、拡声器を使って、食糧の配給までに、自分の区画に戻るように命じました。夕方、テイラー中佐、ヒューズ准将とともに収容所の中に入り、収容所の状況、食料の量、水の供給についてクラマーと少し話しました。

Q:クラマーは自分の身分を明かしましたか。

A:収容所長であると言いました。

Q:囚人の食料と水について質問しましたか。

A:はい。一日に二回、かぶのスープと、可能な場合にはパンを配給していると答えました。パンの配給についてはあいまいでした。ハノーバーの電力施設が破壊されたので、主要な水の供給はまったく止まっており、収容所には多くの貯水槽があると言いました。給水車で水が供給されているのかと尋ねると、クラマーは、そのようなことはしていない、囚人たちはすべて自分で水を手に入れなくてはならないと答えました。コンクリートの池がありましたが、まったく汚れており、死体が浮かんでいました。飲料水、洗浄水はまったくありませんでした。ある軍医は、少なくとも一つの死体がこの池に浮かんでいると話してくれました。

Q:クラマーの態度はどうでしたか。

A:事務所の中で、肘掛け椅子に座っており、帽子を斜めにかぶって、自信に満ちているようでした。私は彼に、SS関係者の名簿を提出するように命じ、囚人の記録簿があるかどうか尋ねました。彼は、文書資料はベルリンからの命令で破棄された、例外として、2000名ほどの囚人の記録が残っているが、どこに行ったのか分からないと答えました。

Q:そのすぐあとに、ドイツ軍将校が事務所にやってきたのですね。

A:私たちが区画の外で話していたときに、一人のドイツ軍将校がやってきて、厨房が襲われていると伝えました。そこに行ってみると、周囲に数名の人々が、一人のSS隊員が中にいました。厨房はどのように管理されてきたのか尋ねると、このSS隊員は、大鍋のふたを上げて、スープの水面が上から1フィート以下となっていることを指摘しました。クラマーに、騒動が起こったのかと尋ねると、ジャガイモのくずが略奪されたと答えました。そこに行ってみると、一人の女性がひざを曲げて藁の上におおいかぶさっていました。ジャガイモを掘り出そうとしていたのでしょう。自分の区画に戻るようにとこの女性に言ったところ、クラマーは、この女性に、「何を言っているのか分かるだろうな」と言いました。3名のSS隊員がいました。一人の男が、顔を血だらけにして、目を回しながら、地面に身を横たえていました。多くの囚人が歩き回っており、ジャガイモを掘り出そうとしていました。

QSS隊員は地面に倒れている男を助けようとしましたか。

A:ほかにも何名かが倒れており、きわめて危険な状態でしたので、クラマーに、身体を起こして、自分で運ぶように命じました。

Q:囚人はどこかの方向に向かっていたのですか。

A:いいえ。囚人は歩き回っていました。クラマーに出入り口のところに立って、外に出ないように説得せよと命じました。彼は、銃なしではできない、自分の回転式拳銃は取り上げられてしまったと答えました。一人のイギリス軍兵士が、囚人たちが外に出てしまうことを阻みました。

Q:収容所の全体的印象はどうでしたか。

A:ブロックに入ると、信じがたいほどの密集状態でした。大量の死体があり、収容所の通路から少々離れたところに放り出されていました。人々は歩き回り、そして、次々に身を横たえ、歩道の端には、生きてはいるものの、動けない人々が散らばっていました。衛生設備はまったくありませんでした。ブロックに入ると、中から女性の救いを求める声が聞こえていました。

Q:囚人の全体的な様子はどうでした。

A:例外なく、ひどく衰弱しており、大半が骨と皮だけでした。

 

(弁護人ウィンウッド少佐の反対尋問)

 

Q:クラマーに囚人のカテゴリーを尋ねたとき、彼は、「保護検束者」という言葉に言及しましたか。

A:私の直接の質問に答えて、言及しました。

Q:イギリス軍はなんなく囚人をコントロールしたとおっしゃいましたね。それは、イギリス軍が友人であり、拡声器を持っていたためですか。

A:イギリス軍が友人であったというのは重要な理由でしょう。また、拡声器を持っていたことも重要でした。しかし、囚人の組織化と食糧配給はおおむね、拡声器も使わず、暴力も使わずに行なわれました。

Q:いくつの貯水槽を目撃しましたか。

A5つです。うち3つは満杯でした。

Q:ドイツ軍兵士が発砲したとき、囚人の群れは厨房に向かっていたのではないですか。

A:そうかもしれません。

Q:食事はあなた方が来る前に、415日に準備されており、配給されていたのではないですか。

A:準備はされていました。しかし、配給はされていませんでした。

Q:パンを積んだドイツ軍のトラックが夕方到着したときには、収容所にいましたか。

A:いいえ。パンが収容所にあるのを見たのは翌日です。

 

(弁護人ムンノ少佐の反対尋問)

 

Q:あなたが到着したとき、ハンガリー人部隊は将校と下士官によって統率されていましたか。

A:はい。

Q:彼らに対処するために、ご自身で多くのことをしましたか。

A:その後、彼らは労働部隊の編成に使われました。その意味で、彼らを使いましたが、しっかりとした労働者ではありませんでした。

Q:群衆があなたのトラックに近づいてきたとき、どのような様子でしたか。

A:非常に興奮していました。女性収容所では、泣き声や笑い声が非常に大きかったので、拡声器からの放送が聞こえないほどでした。

Q:あなたの方に追い寄せてくる群衆の様子を見て、それがあなたたちに危険を与えるものだと錯覚しませんでしたか。

A:しませんでした。

Q:群衆の頭越しに発砲があったのですか。

A:はい、少なくとも、2030回ほど。

Q:あなたは、誰かが撃たれるまで、発砲を制止しなかったのですか。

A:すぐに制止しました。

Q:その晩遅く、囚人たちのあいだで不穏な動きがありましたか。

A:翌朝の様子から判断すると、あったと思います。倉庫は食肉、パン、小麦粉で満杯でしたが、囚人たちは大量の衣服を倉庫から持ち去っていました。

Q:この騒動はどのように制止されたのですか。

A:イギリス軍兵士が人々のもとに出かけました。大量の略奪行為が行なわれたのは、これが最初で最後でした。

Q:あなたが到着したとき、どのくらいの男性看守がいましたか。

A:クラマーの話では、400500名です。

QSSの男性看守、女性看守はどのくらいいましたか。男性看守は55名ほど、女性看守は1215名ほどでした。しかし、彼らは看守ではなく、管理局スタッフです。

 

(弁護人クランフィールド少佐の反対尋問)

 

Q:クラマーは、収容所には常習的犯罪者、重罪人、同性愛者がいると言ったのですね。実際には、そうではなかった理由がありますか。

A:はい。彼の発言は不十分であると思います。

Q:イギリス軍が到着したとき、収容所の改築が行なわれていましたか。

A:はい。

 

(弁護人ロバーツ大尉の反対尋問)

 

Q55名のSS隊員という数字は見積もりですか。

A:クラマーが提出した在籍簿によるものですが、チェックされているかどうかは分かりません。

Q:あなたが到着した初日、SS隊員には何らかの指示が出されていたのですか。

A:テイラー中佐が、囚人が一人でも射殺されれば、一人のSS隊員を射殺すると知らせました。

Q:彼らは収容所内に拘束されていたのですか、投獄されていたのですか。

A:収容所内に拘束されていましたが、収容所の引き渡しあたっては、イギリス軍と協力しなくてはなりませんでした。翌日、クラマーは、手錠をかけられ、腰のところまで半裸で、ジープに乗せられて、引き回されました。

Q:あなたが厨房に行って、スープ事件が起ったとき、調理人は武装していましたか。

A:覚えていません。

Q:あなたの到着後に、戻ってきたり、連行されてきたSS看守がいましたか。

A:連行されてきた人物がいたとは聞いたことがありません。

 

(弁護人フィールデン大尉の反対尋問)

 

Q:ある区画から別の区画に移動するのを防ぐ措置がとられていましたか。

A:囚人たちによると、男性収容所と女性収容所とは厳格に区分されていましたが、区画間の移動については分かりません。

Q:区画の間の入り口には看守がいましたか。

A:いいえ。

 

(弁護人ニーヴェ大尉の反対尋問)

 

Q:管理にあたっている囚人は何人でしたか。

A:このグループには12名ほどでした。

Q:これらの囚人たちは権限を持っていたとおっしゃいましたね。どのような権限だったのですか。

A:ブロック長は、朝の点呼、建物の秩序の維持、食糧配給の監督に責任を負っていたとの話です。

Q:囚人たちからの情報で、ブロック長などが収容所のスタッフであったと知ったのですか。

A:いいえ。彼らは、収容所のスタッフが任命し、利用した囚人でした。彼らの多くは、このように利用された、犯罪者、泥棒、殺人者であったという話でした。

Q:ブロック長になるのは、純粋に名誉上のポストを確保することだったのですね。

A:例えば、ボーナスがありました。それ以外に、悪辣なブロック長は、食糧の配給にあたって、自分のために横取りすることができました。

Q:囚人を殴っているのを証人が目撃した人物が、被告席の中にいますか。

A:いいえ。

 

(弁護人イェジェルヨヴィチ中尉の反対尋問)

 

Q:ベルゼン収容所では、囚人たちが、ブロック長や、その補佐、その他の下級職員であった仲間の囚人に復讐しましたか。

A:最初の日の朝に、過密な第二収容所で、いくつかのばらばら死体を目撃しました。囚人たちに殺されたという報告がありました。収容所の少女から、建物の係りに殴られたとの苦情を受けました。彼女はそのときのかなりの傷を見せてくれました。その後、彼女が告発した人物は自白しました。

Q:ブロック長の中で悪い人物は囚人によって処分されたと思いますか。

A:第一収容所では、囚人たちが復讐のために武器を確保したという報告以外には、そのような事件はありませんでした。第一収容所で、そのような事件が実際に起こったとは聞いていません。そのようなことが自然に起こってしまうのを避けるために、尋問を行なって、ブロック長の中の最悪の人物を探し出し、逮捕して、混乱を回避しました。

Q:囚人たちには、カポーに対する告発や供述ができると知らされていたのですか。

A:国際委員会と呼ばれる囚人委員会があって、残酷な振る舞いをした人物を告発するように求めていました。

Q:そのような告発をする前に、大半の囚人たちには、入院の必要があったのではないですか。

A:チフスのあとに気が狂った囚人が多くいましたし、精神的な錯乱に陥った人々のためのブロックがありましたから、多くの場合、そうであったに違いありません。

Q:各ブロック、各区画に委員会があったのですか。

A:初日に、収容所の各民族からの45名の代表者で構成されました。自然発生的な委員会で、私たちが任命したものではありません。

Q:カポーたちは解放後、どのくらいの期間以前の職務をつとめていましたか。

A:最初の週に、多くは交代しました。良質の者が、収容所全体が、受け入れ収容所に疎開するまで、職務を果たしました。

 

(検事バックハウス大佐の再尋問)

 

Q:クラマーがあげたSS隊員の数は、イギリス軍が到着したときに収容所にいた隊員の数ですか、それとも、それまで収容所にいた隊員の数ですか。

A:私たちが到着した時点にいた数ですが、文書で確認したわけではありません。

 

<法務官>:あなたは415日にはじめて収容所にやってきたのですね。クラマーは、5ヶ月ほど前にやってきていたのですね。

A:はい。

<法務官>:あなたは、15日に収容所にいたので、イギリス軍が対処しなくてはならなかった困難な点を話すことができました。クラマーが5ヶ月間に対処しなくてはならなかった困難な点と、彼の上官がこのような状況に対処するために与えた設備について、何か知っていますか。

A:いいえ。