2日―1945918日火曜日

 

検事側立証

 

(検事バックハウス大佐による証人ヒュー・ヒューズ准将への尋問)

 

A:私は、イギリス・ライン方面軍医療部隊長代理です。本年4月には、第二軍医療部隊長代理でした。415日、ドイツ軍将校が第8兵団司令部にやってきて、ベルゼン収容所に関する休戦を要請し、合意がなされました。415日、テイラー中佐が収容所の管理を引き継ぎ、私も彼のあとをおって収容所に入りました。到着してみると、テイラー中佐がクラマー所長を尋問していました。同日の晩、軍医クライン博士を目撃しました。この二人の被告を見分けることができます。私たちは、すぐに、収容所の予備調査をはじめました。翌日には、完全な調査を実施しました。次の23日間は、救急措置の組織化に従事していました。

Q:収容所の全体像を知りたいのですが。

A:ベルゼンとフィンセンという二つの村の間にあり、セレの北15マイルのところにありますが、まったく弧絶しています。道路に一番近いところに管理地区があり、その向こう側に、鉄条網に囲まれた地区があって、さまざまな大きさの、大半は木造の建物が数多くありました。収容所は5つの区画に分かれており、真ん中に主要道路が走っていました。

Q:収容所に収容されている人々の数を知らせるように要請し、その数を受け取ったのですか。

A:はい。第二収容所を含めないで、約41000名がいました。28185名の女性と約12000名の男性です。男性用の区画が三つ、女性用の小区画が一つ、大区画が一つあり、5つの厨房がありました。

Q:水の供給はどうでしたか。

A:建物には水道がありましたが、使えませんでした。それとは別に、厨房の近くに大きなコンクリートの池がありました。

Q:管理ブロックはありましたか。

A:はい、所長事務所、看守の宿舎、小さな洗浄室、大きな石造の殺菌消毒室、囚人地区にもっとも近いところには、鉄網のかかった窓を持つ建物がありました。

Q:焼却棟はありましたか。

A:囚人地区の端に小さな焼却棟がありました。

Q:ご自身の言葉で、収容所の様子をお話していただけないでしょうか。

A:収容所の状況は筆舌に尽くしがたいものでした。どのような文章も、どのような写真も、建物の外のおそらしい状況を伝えることはできないでしょう。建物の中の様子はもっとおそらしいものでした。収容所にはさまざまな大きさの死体の山があり、鉄条網の外にあるもの、建物のあいだにあるものもありました。区画の中にも死体がありました。溝も死体で一杯で、建物の中にも多くの死体があり、寝棚の中にもありました。焼却棟の近くには、死体の一杯詰まった大量埋葬地があり、区画の左端には、死体が半分詰まった戸外壕がありました。もうすぐで、一杯になるところでした。建物には寝棚のあるものもありましたが、衰弱した囚人、病気の囚人であふれていました。建物では、囚人が身を横たえるスペースはありませんでした。もっとも込み入っているケースでは、100名収容の建物に、600-1000名が詰め込まれていました。

Q:建物に入ったときの内部の光景を話していただけますか。

A:チフス患者もいた女性区画の建物には寝棚はまったくありませんでした。囚人たちは床に横たわっており、衰弱していたので、身体を動かすこともできませんでした。事実上、寝具はありませんでした。薄いマットレスがあることもありましたが、ないこともありました。毛布を持っている囚人もいましたが、持っていない囚人もいました。服を着ておらず、毛布に包まっているだけの囚人もいました。ドイツの患者服を着ている囚人もいました。このような光景でした。

Q:衛生状態はどうでしたか。

A:まったく良くありませんでした。大半の囚人は、消化器系の疾患を患っており、衰弱していたので、動けませんでした。建物の中の便所は以前から使用不能でした。女性区画には、柱のついた深い穴がありましたが、周囲を隔てるものもなく、身を隠すものもまったくありませんでした。力を残している者は、区画の中に入ることができましたが、その他の者は、その場で用を足していました。区画は糞尿の山でまみれていました。建物の床も糞尿にまみれていました。上の寝棚の囚人は、そこから出ることができない場合、寝棚の下に向かって用を足していたからです。

Q:収容所の囚人の栄養状態はどうでしたか。

A:収容所にかなりの期間いた人々は、まったく衰弱しており、完全に栄養失調でした。最後の週にいた人だけが、健康でした。

Q:収容所の全体像を話していただきましたが、各区画をもっと詳しくお話していただけないでしょうか。

A:男性地区にある第一区画は小さな区画で、状況は、先ほどお話したのとまったく同様でした。ただし、チフスは衰え始めていました。第二区画は男性区画の中で最悪でした。約8000名がいて、状況は劣悪でした。最悪だけではなく、チフスが蔓延していました。第三区画は最後の男性区画でしたが、はるかに小さくて、囚人も少なかったです。状況はましでした。

Q:女性区画についてお話ししてください。

A:第二女性区画は、すでに申し上げた3つの区画と同じ方向にあり、収容所の左手でした。小さな区画でしたが、約6000名ほどが収容されていました。状況はかなり劣悪でした。恐るべきほどの状態でした。第一区画はかなり大きく、2200023000名の女性が収容されていました。建物は林の中にあり、状況は恐るべきものでしたが、第二女性区画ほど悪くはなかったかもしれません。この区画には、大きな死体の山がありました。

Q:問題の区画には特別な建物がありましたか。

A:死体の山の近くの建物208号の廊下には、女性の死体が放置されており、それも数多かったので、誰も身を横たえることはできませんでした。廊下の左手の部屋には大量の死体があり、それ以上中に入ることはできませんでした。囚人は極度に衰弱しており、死にかけている女性も多数でした。

Q23000名のうち、どれほどが重病でしたか。

A:もし生命を救いたければ、17000名を即時入院させる必要がありましたが、その多くはあまりにも衰弱していたので、回復する見込みはなかったでしょう。

Q17000名の重病の女性患者に対して、寝棚はどのくらいありましたか。

A:病院とされている建物には474で、囚人自身によって運営されていました。

Q:収容所のスタッフは、これらの病人に対して何か措置を講じていましたか。

A:何も講じていませんでした。ただし、管理地区には医薬品が備蓄されていました。しかし、十分な数ではありませんでした。

Q:この区画に子供はいましたか。

A:そんなに多くはありませんが、いました。かなり良い状態でした。女性の囚人が自分を犠牲にして世話したに違いありません。この地域の病院区画は、囚人の医師たちによって運営されていました。とても、よく運営されていました。

Q:この区画にあった死体の山の死体は服を着ていましたか。

A:着ている者もいましたが、大半が裸でした。とても長くて高い山でした。子供区画に近く、子供の目の届くところにありました。

Q:医療品について詳しく話してください。

A:倉庫にはかなりのストックがありましたが、医師長によると、1週間あたり、17000名の病人に300錠でした。殺菌消毒剤もありませんでしたし、シラミ駆除粉もありませんでした。ユダヤ人協会がユダヤ人に送った赤十字の箱を大量に発見しました。そこからは、子供たちにお菓子を時々与えるだけで、それ以外には使われなかったという話です。その箱には乾燥肉、あらゆる種類の食料、ビスケット、ミルクが入っていました。私がいたとき、ハンガリー人兵士が肉を盗んでいました。

Q:食糧供給はどうでしたか。

A:収容所に入ったときには、ほとんどゼロでした。せいぜい、一日一度、薄い野菜スープが出るだけでした。

Q:配給の方法はどうでしたか。

A:非常に重い金属製の大鍋を使っていました。2週間の間パンがなかったり、短期間、水がなかったりしたこともありました。囚人が確実に自分の分を手に入れることを保証する手段もまったくありませんでした。衰弱していた囚人は自分の分を手に入れることができませんでしたが、友人たちも自分のことに精一杯で、無関心となっていたために、衰弱していた囚人は結局、何も手に入れることができませんでした。

Q:囚人は、結局、どのような水を使えましたか。

A:建物の中にある水場の水です。囚人たちはコンクリートの池に近づくことは許されていませんでした。おそらく、調理用の池であったのでしょう。建物の中の蛇口は壊れていましたので、最後の56日間は、まったく水を手に入れることはできなかったでしょう。

Q:全体として、収容所の衛生状態を簡潔にお話ください。

A:囚人の70%は入院を必要としていました。そのうち、少なくとも10000名は、入院する前に死んでしまうでしょう。到着したときには、10000の死体がありました。あらゆる種類の疫病が流行していましたが、この恐るべき状況のおもな原因は、チフス、飢餓、結核でした。疫病が蔓延した原因は、囚人たちの栄養失調でした。25日に、ハンガリー人の囚人がチフスを持ち込み、すぐに収容所全体に蔓延しました。収容所の環境がそれに適していたのです。結核についても同様です。

Q:あなたが目撃したような状況を作り出すには、少なくともどれくらいの期間劣悪な環境が続いていなくてはならないとお考えですか。

A:労働可能で健康な人々を死に追いやるには、最後の56日も含めて、数ヶ月が必要だったでしょう。囚人の状態がどのようだったか分かりませんが、もしも、強健でなかったとすれば、短期間であったでしょう。かなり健康であったとすれば、23ヶ月であったに違いありません。

Q:第二収容所についてお話しいただけませんか。

A:第二収容所も過密で、15133名が大きな訓練バラックの端に押し込められていました。彼らは、短期間そこにいただけであったので、健康状態ははるかに良好でした。もちろん、栄養失調や死亡もあったことはありましたが。

Q:そこの囚人の様子をお話しください。

A:バラックはすでにかなり不潔になっていました。健康状態については、そんなに悪くなく、衣服もかなりさっぱりしていました。チフスは流行していませんでした。

Q:テイラー中佐が収容所長を尋問しているのを見かけたとお話になりましたね。

A:このとき、中央厨房付近で暴動が起きているとの知らせが入り、テイラー中佐と私は、クラマーとともに中央道路を下って、問題の厨房に向かいました。そこに向かっているときに、銃声を耳にしました。厨房のところでは、暴動が起こっている様子はなかったので、中にいたSS隊員に尋問したところ、彼は、スープが盗まれたといっていましたが、そのような証拠はありませんでした。銃声が続いていたので、私たちは、第三男性収容所と女性区画の第二収容所とのあいだにあるジャガイモの保管場所に行きました。そこに着くまで銃声が続き、銃で撃たれて死亡した囚人、負傷した囚人を発見しました。

Q:銃を撃っていたのは誰でしたか。

ASS隊員でした。一人は分かりますが、もう死んでいると思います。クラマーは発砲をまったく止めようとしませんでした。

Q:秩序を維持するのに、発砲は必要でしたか。

A:まったく必要ありませんでした。そのようにする理由はまったくありませんでした。負傷者にはまったく救護がなされませんでした。

Q:あなたは何をしたのですか。

A:まだ発砲しそうな様子であったSS隊員を阻止しようとしました。そして、クラマーに、銃を撃つ隊員を射殺すると警告しました。隊員に、負傷者を救護場所に運ばせるようにクラマーに命令しました。手早くそのような措置がとられなかったので、クラマー自身に負傷者の一人を運ばせました。

Q:そのほかに銃声を耳にしましたか。

A:その夜、翌日、監視塔の方から、断続的な銃声がしました。

Q:クライン博士を目撃したとお話になりましたね。

A:クラマーに、医師を連れてくるように命じました。そして、クライン博士がその晩の10時半に出頭してきました。私は彼にいくつかの命令を出し、医療施設や医療状態を質問しました。翌日までに報告書を提出するように命じました。

Q:翌朝、クラマーとともに視察しましたか。

A:はい。彼は私を戸外埋葬地の一つに連れて行きました。彼は無感覚で、無関心な様子でした。

Q:あなたは、全体の状況についての報告書を作成しましたね。

A:はい。(証人は報告書、展示証拠品1[1]を提出する。)これは報告書のコピーです。病人の数は、クライン博士が提出したリストにもとづいており、その後発見された実際の数字を確証していません。実際の数は、チフス、結核、飢餓といった状況を考えると、はるかに多いでしょう。

Q15日と16日に写真撮影がなされたとき、現場にいましたか。

A:はい。これらの写真は、写真というかたちで表現されているかぎりでは、私が発見した状況を正確に表現しています(展示証拠品2)。

Q:あなたの経歴の中で、このような状況を目撃したことがありますか。

A30年間医師を勤め、戦争の残酷な側面を数多く目撃してきましたが、このような状況は見たことがありません。

Q:当収容所の囚人の生命と健康を維持するために、何らかの措置が講じられていたとお考えですか。

A:まったく講じられていませんでした。

 

(弁護人ウィンウッド少佐の反対尋問)

 

Q:建物が一番多く存在する第一収容所では、水道がうまく機能していたとすると、便所の状態はどうであったといえますか。

A:病人は非常に多かったので、それだけでは対処できなかったでしょう。建物一つに一つの便所しかありませんでしたし、大きな建物にはもっとあったかもしれませんが、一つの便座しかない建物もありました。

Q:コンクリートの池の数は。

A5つか6つあったと思いますが、すべて空でした。詳しく見回ってはいません。

Q:囚人全員にベッドがあったとすれば、彼らは建物に入ることができたでしょうか。

A:いいえ。

Q:どの厨房がどの収容所に対して食事を提供していましたか。

A:詳しくは見てまわりませんでした。しかし、男性用厨房が二つ、女性用厨房が二つあり、共用の厨房が一つありました。

Q:食料はどこに保管されていたのですか。

A:厨房のそばにはいろいろな食料保管庫がありました。この地区の左手にも一つあったと思います。中央収容所から少し離れたところに、ドイツ軍の倉庫がありました。

Q:初日に、第一収容所の倉庫に入ったのですね。

A:初日の晩、倉庫を守るために戦車を配備しました。その夜には、中に入っていません。

Q:収容所についたとき、厨房は稼動していましたか。

A:暴動の知らせを受けたところでは誰も働いていませんでした。翌日には働いていましたが、すでに、私たちが管理権限を奪っていました。

Q:赤十字の箱は遠いところにあったのですか。

A:そんなに遠いところではありません。

Q:医薬品倉庫は適切な場所にあったのですね。

A:はい。

Q:子供たちに箱の中身の一部をあげたことはきわめて適切なことではなかったのですか。

A:お菓子を子供たちにあげたのは非常に適切でしたが、もしも、医薬品を医師に提供したとすれば、もっと適切だったでしょう。

Q:ベルゼン強制収容所の囚人全員が健康であったとすれば、どのような医療組織が必要であったと思いますか。

A:一人のドイツ人医師しかいませんでしたが、それだけではまったく不十分です。たとえ、囚人全員が健康であり、通常の疾病率であったとして、適正規模の病院設備と、もっと多くの医師と看護婦が必要だったでしょう。

Q:囚人の大半が、飢餓状態であり、衰弱しており、病気であったとすれば、どのような医療設備が必要であったと思いますか。

A:私たち、イギリス軍が、降伏までに使うことができた少数の人員でそうすることができるとすれば、到着後に使えることのできた周辺の人員で、もっと容易に処理できたに違いありません。私たちは、68名で、2週間でチフスの発生を押しとどめました。クラマーはそれよりも多くの人員を使うことができたはずです。ドイツ軍がSSから職務を引き継ぐまえには、周囲の兵舎には、多数のハンガリー人がいたはずです。1500名以上であったと思います。

Q:クライン博士はどのくらいで、調査し、報告しなくてはならなかったのですか。

A24時間です。しかし、彼は唯一の軍医将校でしたので、毎日報告を受けていたはずです。ですから、収容所に対して本当に関心を持っていれば、チフス患者が1500名ではなかったと知ったはずです。私たちが到着したときには、死んでいるにせよ、生きているにせよ、10000名もいたのですから。

Q:クライン博士が、収容所に責任を持つ医師であったのは、どのくらいの期間ですか。

A:二ヶ月間であったと思います。

Q:彼に尋ねましたか。

A:彼は、2日間といいました。

Q:クラマーと収容所を見て回ったとき、彼の態度は正直でしたか。

A:正直であったとはいえません。厚顔無恥でした。

Q:イギリス軍が収容所を占領したのはいつのことですか。

A6時ごろであったと思います。

Q:ジャガイモが保管されていたところで銃声がしたのはいつのことですか。

A8時ごろです。

Q:テイラー中佐がやってくるまで、クラマーが、自分の上級将校の命令なしに、発砲に対して何も措置を講じなかったのは当然のことではなかったのですか。

A:まったくそうではなりません。SS隊員にライフル銃を持たせていたという点で、記録を破壊したという点で、協定違反でした。

 

(弁護人ムンノ少佐の反対尋問)

 

Q:第二収容所の責任者を発見しましたか。

A:責任者であると思った人物と見回りました。(へスラーを指しながら)、被告5号だと思います。

Q:第二収容所が占領されたのはいつのことですか。

A:ごく最近です。

Q:占領された第二収容所にいたと思われる囚人の数を見積もることができますか。

A:ブロックの通常の定員は150名ですが、600名ぐらいがいました。

Q:監督するために何らかの措置がとられましたか。

A:そう思います。囚人たちは国籍別に組織されていたので、監督が容易となりました。

Q:山となっていた汚物は、過密のためですか。

A:そうです。また、衛生設備が無かったためでもあります。

Q:第二収容所での栄養失調の数は。

A:ひどい栄養失調は、500名ほどです。

Q:第一収容所よりもかなり低い数ですね。

A:はい。

Q:そのような栄養失調になるにはどのくらいの期間がかかるでしょうか。

A:囚人たちはやってきたばかりでした。彼らがそれ以前に、どのような状態であったのか知りません。

Q:解放直後、囚人たちのあいだに不穏な動きがありましたか。

A:はい。

Q:だから、戦車が中央食糧倉庫付近に配備されたのですね。

A:それだけともいえません。到着したばかりであり、何が起るか分からないという恐れがありました。銃声もしていましたし、あるセクションでは食料を求めて戦おうとしていました。そのための予防措置でした。

Q:秩序の維持に発砲は必要でしたか。

A:必要ではありませんでした。秩序の維持は別の問題だと思います。

Q415日から16日の夜、イギリスの看守が囚人の頭の上に発砲する必要はなかったのですね。

A:まったくそのとおりです。

Q:解放時、収容所にはどれほどのSS看守がいたのですか。

A100名以下でした。40-50名の女性もいました。もっと以前には、200名ほどのSS隊員と100名ほどの女性がいたと思います。

Q:銃声が断続的に聞こえてきたそうですが、発砲したのはハンガリー人看守ですか。

A:最初の夜の銃声はそうではないでしょう。ハンガリー人看守はいなかったのですから。SS隊員は逮捕されていたので、その後の発砲は、監視塔のハンガリー人によるものであったのでしょう。私が耳にした銃声は、SS隊員によるものでした。最初の夜にSS隊員が監視塔にいたかどうかは分かりません。見ていないものですから。

QSS隊員は、解放の数日前に収容所を離れることを許されていたのでしょうか。

ASS隊員は12日の13時までに離れることになっていました。例外は、管理権限を引き渡すのに必要な隊員です。彼らは武器を携行してはなりませんでした。

 

(弁護人クランフィールド少佐の反対尋問)

 

Q:囚人の特徴は衰弱でしたか。

A:衰弱と無関心です。飢餓と物資の欠乏がその理由でした。

Q:チフスは体力を消耗させる疫病ですか。

A:はい。

Q:長期にわたる飢餓は、犠牲者の心理状態に影響を与えますか。

A:はい、長期にわたる他の病気と同様です。しかし、事態は私たちの予想ほど悪くはありませんでした。多くの人々がこれからずっと影響を受けると考えていましたし、実際に、そうなった犠牲者も何人かいましたが、恐れていたほどではありませんでした。

Q:あなたが到着してからも、囚人の精神が、飢餓の影響を長く受けていたと考えても良いのですね。

A:はい。

Q:飢餓や栄養失調は犠牲者に幻覚や精神障害を引き起こしますか。

A:最悪の場合にはそうでしょう。そのような症状は最終段階に現れるでしょう。

Q:報告書では、女性の重病患者が28185名で、そのあとで、チフスなどの病気をあげていますね。外科手術が必要な患者を178名としていますね。外科の症例を分類できましたか。

A:まったく不可能です。外科の症例は、癌、骨折、手術の必要な腫瘍ですが、これはクラインが提出したものであり、私の診察ではなく、クラインの報告によるもので、不正確です。

Q:囚人たちは入院が必要なほどひどく殴られたという話が多く出ていますが、それに気づいたことはありますか。

A:一人目撃しました。

Q:最初の4日間は、終日そこにいたのですか。その後も、数週間は、昼間はそこにいたのですか。

A:はい、数週間は。今も、収容所を訪れています。

Q:ジャガイモの山は列に並べられていたのですか。

A:中央道路に沿ってです。その他の野菜もあったかもしれませんが、保管されていた厨房の周囲でした。

QSSの看守が囚人を攻撃したのを目撃しましたか。

A:いいえ。

QSSの看守が誰かに攻撃されるのを目撃しましたか。

A:いいえ。

Q:このような事件が報告されましたか。

A:いいえ。逃亡を図った一人のSS隊員がわが軍の看守に銃で撃たれました。

 

(弁護人ロバーツ大尉の反対尋問)

 

Q:飢餓状態の最後には、食料の獲得願望が強迫観念となりますか。

A:最後の段階では無関心となるでしょう。

Q:食料の獲得願望はどのようなときでも強迫観念となるのでしょうか。

A:もちろんです。人は誰も生存願望を持っているのですから。

Q:強迫観念がそのようなものでしたら、どのような口頭命令でも、食料を探す人々を押しとどめることはできないのでしょうか。

A:あさましい人々の場合はそうです。

Q:彼らを押しとどめるには暴力が必要でしょうか。

A:必要かもしれませんが、衰弱した人々を阻止するにはさしたる手間はかからないでしょう。

 

(弁護人コルバリー大尉の反対尋問)

 

Q:どちらの収容所にも、SS看守のための病院はあったのですか。

A:第二収容所には、非常に美しい軍事病院がありました。

QSSの衛生兵もいたのですか。

A:それがSSの病院であったかどうかは知りません。ドイツの軍事病院でした。医師、看護婦、衛生兵がいました。

Q:第一収容所からはどれくらい離れていたのですか。

A:ドイツの軍事病院は第二収容所の端にあったので、おそらく第一収容所からは1.5マイルほどであったと思います。

Q:囚人に食糧を配給するシステムについて話していただけませんか。

A:私の知るかぎりでは、厨房には大きなボイラーがありました。各厨房が多くの区画を担当し、そこで調理された薄いスープが大きな大鍋に入れられました。ある厨房では、そこが担当する区画に1回の食事を提供するのに、3回の搬送が必要でした。ブロック長が多くの囚人を派遣して、この大鍋を区画に運ばせたのだと思います。そして、そのあとは、「全員の勝手」となったのでしょう。ですから、衰弱している人々は食べ物を手に入れることができませんでした。

Q:わが軍が収容所を占領してから、管理が容易となったのは、わが軍が食料を大量に持っていたために、飢餓状態のときよりも多くの食料を提供できることを保証できたためでしょうか。

A:管理が容易となったおもな理由は、私たちが以前にはなされなかったような措置を講じたことでしょう。

Q:囚人が囚人に食事を配るのを認めていたのですか。

A:当初は、そうしなくてはなりませんでしたが、下士官を使って監督させたので、厨房からの配給は正しく行なわれました。

Q:イギリス軍が管理してからの、初日の食料割り当てはどのようなものでしたか。

A:正確な数字をあげることはできません。通常の配給ができないことを知っていたからです。最初にできることといえば、栄養失調者用と、労働適格で状態の良い囚人用の、二種類の食事を作ることでした。もっとあとになると、5種類としました。

Q:もっと配給を受けようとした囚人とのトラブルはありましたか。

A:私たちが監督していたときには、そのような事例はありませんでした。一つのジャガイモをめぐって囚人たちが争っているのを目撃したことはありません。

 

(弁護人フィリップス大尉の反対尋問)

 

Q:ベルゼンの焼却棟について話してください。

A:そんなに大きくない一つの炉がありました。一時に3体を処理できたと思います。私が見たときには使われていませんでしたし、どのくらい使われていたのかも分かりません。

QSSがジャガイモをめぐって争っていた囚人に発砲した件についてですが、そこにはどれほどの囚人がいたのですか。

A:囚人の群れが中央道路を行ったり来たりしていましたが、その数はどれくらいであったのかいうことはできません。その周辺で、1220名の死傷者が出ていました。何人かが道路のうえで撃たれていましたが、ジャガイモがあった地点ではありません。

Q:発砲は、どのような効果がありましたか。撃たれた人々はそこにとどまっていましたか。

A:はい、そうしたがっていました。

Q:病気ではない囚人に対しては、どれほどの割り当てで十分でしょうか。軍の割り当ての三分の一でしょうか。

A:それは最低の量でしょう。健康な人に対する完全な割り当てとすると、1500カロリーでしょう。それは、座っている人にだけあてはまります。状況によっては特別食が必要でした。囚人たちが得ていたカロリーは、1800以下でした。

Q:わが軍の医療設備が整ってきたとき、どのくらいの医師がいましたか。

A:まず最初に申し上げておかなくてはならないのは、まだ戦闘中であり、医療部隊は非常に少なかったことです。当時、一つの救護センター、1台の野戦救急車しかなく、医師の数、正式の医師ではない将校の数は20名ほどでした。それ以外の階級の人々が120150名ほどいました。このほかに、衛生担当部隊がありました。この部隊の正確な人員は、30754名でした。

Q417日までに、これらの部隊がいたのですか。

A1部隊が15日に、残りの3部隊が17日に到着しました。この時期に手元にあったのは、これがすべてです。

Q54307名ではまったく不十分であったといえますか。

A:そうともいえません。2週間でチフスを抑えたからです。もっと多くの人がいれば、哀れな人々に対してもっと十分な措置を講じることができたに違いありません。

Q:ベルゼンの筆舌に尽くしがたい状況を作り出した主因は何だとお考えですか。

A:普通の人道的なルールを守らなかったこと、囚人に適切な量の食料を配給しなかったこと、囚人たちを清潔にしなかったこと、衛生設備を提供しなかったことです。適切な量の食糧を配給しなかったことがもっとも重大な原因であったと思いますが、チフスが蔓延していたので、それを抑えるのが肝要でした。抑えなければ、チフスが原因で、もっと多くの犠牲者が出たでしょう。

Q:食糧不足と、その次に、洗浄設備の欠如が主因であったのですか。

A:洗浄設備というわけではなりません。弁護人は、チフスを処理する方法を知らないのでしょうか。シラミを殺し、囚人の清潔状態を守ることが肝要です。

 

(弁護人ムンノ少佐の反対尋問)

 

Q:ベルゼンの囚人ほぼ全員がアパシー状態だったのですか。

A:長く収容されていた囚人、衰弱していた囚人すべてです。彼らはあまりにも衰弱していたので、食べ物を手に入れることができず、意志というものを持っていなかったようです。

Q:アパシー状態のときには、興奮することもあるというのは医学的な事実ですか。

A:当然です。

Q:医師や看護婦が何らかの暴力を振るうことは必要ですか。

A:暴力が必要であるとは思いません。解放されたということを知ったこと、軍隊を目撃したという事実が重要でした。これが励みとなったのです。

Q:彼らの多くが興奮しており、朝早く起きたことが重要だと思いますか。

A:彼らは衰弱しており、動くこともできませんでした。大半がです。肘で身を上げることもできませんでしたので、ましてや、起きることもできませんでした。労働適格者と健常者には、毎日外に出てくることを奨励すべきでした。そうすれば、収容所の清掃作業は簡単となったことでしょう。軍隊が進撃し、解放されたという事実が励みとなりました。衰弱していた者には励みが必要でしたが、労働適格者と健常者には、必要ありませんでした。自分で励みを手に入れることができたからです。励みを必要としてのは、衰弱し始めたばかりの囚人でした。



[1] 証拠品のリストは、付録Uを参照。