第1日―1945年9月17日月曜日
法廷召集令状が読み上げられる。
裁判長、裁判官、法務官、速記者、通訳が正式に宣誓する。
起訴状[1]
被告、ヨーゼフ・クラマー、フリッツ・クライン、ぺテル・ヴァインガルトナー、ゲオルグ・クラフト、へスラー別名エスラー、ユアナ・ボルマン、エリザベト・フォルケンラート、ヘルタ・エーレルト、イルマ・グレーゼ、イルゼ・ローテ、ヒルデ・ロバウアー別名ローバウアー、ヨーゼフ・クリッペル、ニコラス・イェンナー別名ヨンナー、オスカル・シュメディト別名シュミット、パウル・シュタインメッツ、カール・フルラツィヒ別名フランツィシェ、ラディスラフ・グラ、フリッツ・マテス、オットー・カレッソン別名クレッサ、メディスラフ・ブルグラフ、カール・エゲルスドルフ、アンコル・ピンヒェン、ヴァルター・オットー、ヴァルター・メルヒャー、フランツ・シュトフェル、ハインリヒ・シュライラー、ヴィルヘルム・ドル、エリク・バルシュ別名バシュ、エーリヒ・ツォッデル、イグナツ・シュロモイヴィチ、ヴラディスラフ・オストロヴォスキ別名オストロフスキ、アントニ・アウルジーク、イルゼ・フォルシュター、イダ・フォルシュター、クララ・オピツ、シャルロッテ・クライン、ヘルタ・ボーテ、フリーダ・ヴァルター、イレーネ・ハシュケ、ゲルトルーデ・フィーシュト、ゲルトルーデ・ザウアー、ヒルデ・リジエヴィチ、ヨハンネ・ローテ、アンナ・ヘムペル、ヒルデガルド・ハーネル、ヘレナ・コッパー、アントン・ポランスキは、コンウォール公軽歩兵第五連隊に告発され、「戦争犯罪裁判規定」第4条にしたがって、戦争犯罪をおかした罪状で告発されている。
第一の訴因
彼らは、ドイツのベルゲン・ベルゼンで、1942年10月1日から1945年4月30日までのあいだに、ベルゲン・ベルゼン強制収容所の管理スタッフであったときに、そこに収容されていた人々の良好な生活に責任を負っていたにもかかわらず、戦争に関する諸法規および諸慣例に違反して、囚人に対する虐待に集団として関与した。この虐待の結果、ケイト・メイヤー(イギリス国民)、アンナ・キス、サラ・コーン(ハンガリー国民)、ヘイメク・グリノヴェチイ、マリア・コナトケヴィチ(ポーランド国民)、マルセル・フレソン・ド・モンティニュイ(フランス国民)、モーリス・ファン・エイニンスベルゲン(オランダ国民)、モーリス・ファン・メヴレナール(ベルギー国民)、ヤン・マルコフスキとゲオルゲイ・フェレンツ(ポーランド国民)、サルヴァトーレ・ヴェルドゥラ(イタリア国民)、テレーセ・クレー(ホンジョラスのイギリス国民)、その他の連合国国民、姓名不詳の連合国国民が殺され、そして、そこに収容されていた囚人、連合国国民、とくに、ハロルド・オズモンド・ル・ドルイレネク(イギリス国民)、ベネク・ツッヘルマン、コペロヴァという名の女性囚人、ホフマンという名の女性囚人、ルバ・ロルマン、イサ・フライドマン(ポーランド国民)、ロシア国民のアレクサンドラ・シヴィドヴァ、姓名不詳の連合国国民に肉体的苦痛をもたらした。
第二の訴因
被告、ヨーゼフ・クラマー、フリッツ・クライン、ぺテル・ヴァインガルトナー、ゲオルゲ・クラフト、へスラー別名エスラー、ユアナ・ボルマン、エリザベト・フォルケンラート、ヘルタ・エーレルト、イルマ・グレーゼ、イルゼ・ローテ、ヒルデ・ロバウアー別名ローバウアー、スタニスラヴァ・スタロスカは、コンウォール公軽歩兵第五連隊に告発され、「戦争犯罪裁判規定」第4条にしたがって、戦争犯罪をおかした罪状で告発されている。
彼らは、ポーランドのアウシュヴィッツで、1942年10月1日から1945年4月30日までのあいだに、アウシュヴィッツ強制収容所の管理スタッフであったときに、そこに収容されていた人々の良好な生活に責任を負っていたにもかかわらず、戦争に関する諸法規および諸慣例に違反して、囚人に対する虐待に集団として関与した。この虐待の結果、ラシェラ・ジルベルシュタイン(ポーランド国民)、連合国国民、姓名不詳の連合国国民が殺され、そして、そこに収容されていた囚人、連合国国民、とくに、エヴァ・グリカ、ハンカ・ローゼンヴァイグ(ポーランド国民)、姓名不詳の連合国国民に肉体的苦痛をもたらした。
<法務官>:もし、第一の訴因に対する被告の罪状認否を行なうまえに、弁護側に、申し立て事項があれば、法廷はこれを傾聴します。
<弁護人クランフィールド少佐>:弁護人全員の合意の上で、被告全員のための申し立てを提出します。この申し立ては二つの部分からなっており、第一の部分は訴訟手順規約32条から派生しており、訴因は犯罪を明らかにしていないという異議申し立てです。この件についての私の申し立ては、このような異議申し立てを行なう弁護側の権利は確保されるべきであり、公判はのちの段階でこのような異議申し立てを行なう権利に対して先入観なく進行すべきであるというものです。第二の部分は、訴訟手順規約39条から派生しています。弁護側の準備活動を支援する申し立てです。
弁護団が活動を開始したのは、9月7日で、9月10日には、弁護団の会合が開かれました。そのあとにも、会議が開かれ、J.A.G.局の将校、42師団A大尉が出席しました。弁護団は支援を要請し、書簡を第30兵団区に送りました。その要請とは、弁護団には国際法に関するイギリス人とベルギー人の専門家が必要であり、その費用は公費でまかなわれるべきこと、弁護団に、法律関係の書籍および本件に関する資料と出版物を公費で提供すべきことであります。
弁護活動を準備するにあたって、国際法の専門家がぜひ必要です。何回も電話しましたところ、イギリスから専門家を連れてくることはできないといわれましたが、その後、ライン軍が通行手段と許可を与えてくれることがわかりました。しかし、費用は弁護側負担であるというのです。不運なことに、この知らせが弁護側に届く前に、弁護側の代表者がロンドンに出かけて、無報酬で働いてくれる専門家を探していました。ウッドハウス少佐が、昨日まで助けてくれましたが、彼は出発しなくてはなりませんでした。弁護団は、ケンブリッジ大学のラウターパクト教授か、もし彼がだめであれば、オックスフォード大学のブリーリー教授、さらに、もし彼がだめであれば、ラウターパクト教授が推薦する国際法の権威に依頼して、できるだけ早く、当地にやってきて、国際法の件で弁護団を助け、必要とあれば、国際法上の問題が生じた場合に、弁護側に立って、発言してくれるように頼んでいるところです。
<法務官>:訴因に異議を申し立てたいが、専門家のアドバイスがなければ、それができないということですか。
<弁護人クランフィールド少佐>:はい。私たちは国際法についてあまり知識を持っていないので、困難に直面しています。本件では、国際法に関する問題が登場するでしょうが、私たちにはこれについて十分な知識がないので、的確な判断をすることができません。
<法務官>:訴訟手順規約32条のもとで申し立てしようとしているのですが、的確にそれができるようになった段階で、そのようにしたいと考えているのですね。
<弁護人クランフィールド少佐>:そのとおりです。
<法務官>:規約には、「被告は、訴因に関する罪状認否を求められたとき、訴因が軍刑法のもとでの」あるいは、本件では規約のもとでの「犯罪を明らかにしていないとの理由で、訴因を拒否することができる」とあります。これは、当法廷にかかわることです。法廷が証拠を採用し、異議申し立てを行なう弁護側の権利は確保されるべきであるが、そのことは、検事側の立証が終わったときに許されるべきであるというように合意することが、本件を公平に処理することだと思います。
(法廷は協議する)
<法務官>:法廷の見解は、公判を進めて、証拠を検証することが望ましいというものです。そして、もし、弁護側が法律的な議論を十分に処理できるとみなした段階で、第一の訴因、あるいは第二の訴因、あるいは二つの訴因双方の有効性に対する異議申し立てを行なう権利を保証します。もう一つの件については、弁護側と検事側がそれを協議することで、解決できるでしょうか。もし、難しい点があって、裁判長の介入が求められれば、弁護側は、のちに、申し立てすることができます。
<弁護人フィリップス大尉>:訴訟手順規約32条のもとでの分離裁判に関して、第一に、被告たちが二つの訴因のなかで一緒にされているのは不当である、第二に、二つの訴因が一つの裁判のなかで一緒にされているのは不当であるとの申し立てを行ないます。裁判を二つの別々の部分に分けて、ベルゼンの事件を扱っている第一の訴因と、アウシュヴィッツの事件を扱っている第二の訴因を一緒にしてしまっていることを、まず第一に、処理したいと思います。二つの訴因を一緒にしてしまうことは適切ではなく、「かかる場合はいずれも、彼らは戦争犯罪に関して共同被告人として訴追され、かつ、裁判されるものであって、共同被告人の一部から、裁判を分離されたい旨の申し立てがあっても、軍事裁判所によって許可されない」という国王勅令規則8(ii)条には影響されません。弁護側は、分離裁判ではなく、二つの訴因を別々に、できれば、別の法廷で審理すべきであると提案しているのです。
私が扱っているのは、第一の訴因だけに関係する被告です。しかし、本件では、第一の訴因で告発されている人々と、両方の訴因で告発されている人々という2種類の被告が存在します。ベルゼン事件という第一の訴因だけに関係している被告から見ると、両方の訴因で裁かれている被告と同じ時間に、裁かれるというのは、不適切でしょう。同じ時間に裁判を行なえば、ベルゼン事件だけで告発されている被告が、まったく自分に対する告発の証拠ではないアウシュヴィッツ事件の証拠の尋問を受けることになってしまいます。言い換えれば、この被告は、直接に先入観をもたれてしまうことになります。たとえば、Aなる人物が詐欺を行ない、Bなる人物もやはり詐欺を行ない、それが、同じ町、同じ日の事件であったけれども、二つの事件のあいだにはまったく関連がなく、共同の行為があったわけでもないとします。この場合、この二人の人物を、別々の訴因で、同じ時間に一緒に裁くのは不適切でしょう。陪審員や法廷の目には、Bに対する証拠がAに対する先入観を与えてしまう、あるいはその逆で、Aに対する証拠がBに対する先入観を与えてしまうからです。ですから、ベルゼンだけにいて、アウシュヴィッツにはいなかった被告のケースでは、ベルゼン事件とアウシュヴィッツ事件という二つの訴因を一緒にしてしまうことは、まったく適切ではありません。二つの訴因のあいだには、まったく関連性がないからです。共通点があるとすると、被告たちは、ドイツ人の管理する強制収容所にいたということだけです。二つの訴因には、それが強制収容所に関係しているという類似点以外には、まったく共通点がありません。特別な条件がなければ、二つの訴因を一緒にしてしまう正当な理由はまったくありません。ですから、本件には、本来ならば不適切であるような事柄を適切なものにしてしまうような特別な条件が存在するのかどうかという疑問が生じます。これに対する回答は、このケースを正当化する可能性がもしあるとすれば、二つだけ、すなわち、規約8条と訴訟手順規約16条だけだと思われます。
合同裁判についての訴訟手順規約16条には、「被告が集団的に犯したと思われる犯罪について、その被告たちを合同で告発し、一緒に裁くことができる。もしも、被告や被告たちが個人的あるいは集団的に犯罪を犯した場合、この犯罪が同じ事実にもとづいているか、同一か同様の性格をもつ一連の犯罪の一部であったならば、被告たちを同じ時間に告発し、裁くことができる」とあります。しかし、この規約は、二つの訴因を一緒にしてしまうことを正当化しているわけではありません。二つの訴因の中身にははっきりとした類似点があるように見えますが、その本質にはまったく類似点がありません。共通なものがあるとすれば、二つともドイツ人の管理する強制収容所に関係しているというごく表面的な類似点があるだけです。私が弁護しようとする被告は、アウシュヴィッツにはいませんでしたし、その場所にもまったく関係ありませんでした。もしも、彼らが、アウシュヴィッツにいた被告と同じときに裁判を受ければ、大量のアウシュヴィッツについての証拠によって先入観を与えられてしまうことでしょう。アウシュヴィッツについての証拠は、本件には無関係なのです。
規約8条には「戦争犯罪がある部隊または人の集団による共同行為の結果であったという証拠がある場合には、…」とあります。この条文は、法廷が団体や集団が存在した、共同行為が存在したとの結論に達することを正当化するような一応の証拠が存在するということを示唆しています。しかし、これらの被告はアウシュヴィッツにはいなかったのです。そこにはいなかったのに、彼らが団体や集団の一部であったとか、共同行為に参加したとか、一体どのようにしたらいえるのでしょうか。だが、規約の末尾には「彼らは戦争犯罪に関して共同被告人として訴追され、かつ、裁判されるものであって、共同被告人の一部から、裁判を分離されたい旨の申し立てがあっても、軍事裁判所によって許可されない」とあると主張する人もいるかもしれません。しかし、弁護側の申し立ては、被告たちを分離裁判にかけよという申し立てではありません。そのような申し立てはあとに回します。二つの訴因を分離して審理すべきであるという申し立てなのです。
さて、同じ申し立てを二つの訴因で告発されている被告のためにも、提出したいと思います。二つの訴因を分離することは同じ効果を持つはずですから、先に述べたことだけで十分なのですが、二つの訴因で告発されている被告のために、同じ申し立てを提出する根拠を指摘しておきたいと思います。訴訟手順規約108条には、「起訴陳述は、戦争に関する諸法規および諸慣例違反があったことを申し述べるか、明らかにするのに十分であれば、どのような言語であっても、簡潔に申し述べることができる」とあります。これは、「正式な起訴状は必ずしも必要ではない。しかし、裁判召集官は、被告に対する二つか、それ以上の訴因にもとづく分離裁判の召集を指示することができる。もしくは、被告は、罪状認否の前に、分離裁判が行なわれなければ、自分の弁護が困難に陥るとの理由で、一つかそれ以上の訴因に関する分離裁判を申し立てすることができる。法廷は、この申し立てには根拠がないとみなさないならば、被告の申し立てに応じる」という規約によって修正されています。これこそが、二つの訴因にかかわる被告が、別々に訴因を処理してほしいと申し立てをしている根拠です。本件では、被告たちが困難に陥ってしまう理由を手短に説明したいと思います。要綱にある証拠のうち、それ以上とは言いませんが、少なくとも50%がアウシュヴィッツに関係しています。このために、ベルゼンでの行為について法廷の場に立たされている被告は、法廷が審理する大量の証拠がアウシュヴィッツでの被告の行為に関係しているだけではなく、自分以外の被告の行為にも関係しているために、先入観を与えられてしまうに違いありません。たとえ法廷がきわめて公平であったとしても、二つの証拠群をはっきりと分かれた排水溝に分離して、ある訴因が別の訴因に先入観を与えるのを防ぐことは不可能なのです。
最後に、二つの収容所の条件が非常に異なっているために、彼らの弁護は困難に陥ってしまうでしょう。アウシュヴィッツには、大規模に稼動したガス室が存在したといわれています。ベルゼンにはそのような告発はありません。検事側の立証がどのようなものになるかわかりませんが、もしも、第二厨房の件で告発されている人物が、人々が炉室に送られることを知っていたとの理由で、有罪であるというように立証されるとすれば、これは、弁護側にとってゆゆしき事態となります。二つの収容所の条件は非常に異なっていました。そして、二つの異なった事件の事実が法に照らしあわせて立証されることになります。ですから、法廷と弁護側が、二つを分離することは、非常に困難となってしまいます。被告全員は二つの訴因を一緒にしてしまうことに反対しています。第一の訴因だけで告発されている被告は、二つの訴因を一緒にしてしまうことが訴訟手順規約16条と合致していないとの理由で反対しています。両方の訴因で告発されている被告は、二つの訴因を一緒にしてしまうことが訴訟手順規約108条と合致していないとの理由で反対しています。最後に、両条文とも、国王勅令8条が、本件の当該部分、すなわち、訴因を一緒にしてしまうことに申し立てを認めていないと述べています。
<法務官>:検事側は、第一の訴因の中で、ベルゼンで集団が犯した戦争犯罪を立証し、そして、第二の訴因の中で、アウシュヴィッツでの別の集団的戦争犯罪を立証しようとしていますが、そのことに反対なのですか。
<弁護人フィリップス大尉>:そのとおりです。まず、第一の訴因を審理・処理すべきであり、そのあとで、第二の訴因を審理・処理すべきであるというのです。
<検事バックハウス大佐>:二つの訴因を一緒に扱うべきなのか、それとも別に扱うべきなのかについて、弁護側は、これが訴訟手順規約16条に合致していないと言っています。意見がまったく対立してしまうことを懸念しております。意見の対立は、法律に関してではなく、事実に関してです。弁護側は、二つの犯罪には共通点がない、二つの異なった収容所のことであって、まったく別々の訴因であると述べています。まったく逆です。二つの訴因は、一語一語同一です。唯一の相違は犠牲者です。しかし、多くの事例では、アウシュヴィッツ事件で召喚された証人は、ベルゼンの囚人でもあるので、犠牲者についても相違はまったくありません。アウシュヴィッツに関係する被告に関しては、二つの事件は連続した事件です。スタロストカを除いて、被告はアウシュヴィッツからベルゼンにやってきたのです。彼らは、最初アウシュヴィッツで人々に対して虐待行為を行ない、そのあとで、ベルゼンにやってきて、虐待を続けました。罪状はまったく同一です。ベルゼンとアウシュヴィッツで使われた虐待方法は良く知られていました。ですから、個々人の虐待方法が異なっている場合もあります。同一の人物が一つの強制収容所で看守として行動し、そのあとで、別の収容所に移って、やはり看守として行動したのです。彼らは、アウシュヴィッツとベルゼンで文字通り、同じ人々を虐待したのです。もちろん、ベルゼンには、新しい囚人も多数いました。しかし、アウシュヴィッツの証人全員が、ベルゼンにもいたのです。
本件は、同一の一連の犯罪であり、起訴状の中で一括して扱われているのは適切です。もし当法廷が、二つの訴因の分離を決定しても、私は、アウシュヴィッツについての証拠を、ベルゼンの件でも提出するつもりです。何名かの被告は、ベルゼンについての弁護は実質的には一つの事件に関係するものであったと指摘しています。事実、「ここの状況はぞっとするものでしたが、どうしようもできませんでした」と述べています。だから、同じ人物が作り出した状況はどこであっても、同じようにぞっとするものであり、彼らは、同じ犯罪を続けていたにすぎないのです。二つの訴因は一括して裁かれるべきです。
個々人の一括裁判という問題については、検事側は最初から、本件が集団の犯した一括・集団的犯罪であったと主張してきました。個々人が個別的な虐殺行為を行ないましたが、彼らは、集団が実行しているシステムに参加し、それを黙認していたのです。収容所長クラマーのもとで、共同で活動していました。被告全員がクラマーのスタッフであったか、彼から権力を与えられた囚人でした。彼らは、集団、規約の定義では、団体であったのです。ですから、当法廷は、被告たちを別々の訴因で裁くべきであるという申し立てを認めるべきではありません。二つの訴因を分離すべきではありません。一連の同一の事件の構成要素なのですから。そして、二つの訴因は、とくにこのような性格を持つ事件のために設定された修正条項に合致しています。
<法務官>:そこにはいなかったために、システムに参加していなかったと思われる一人の被告についてはどうお考えですか。
<検事バックハウス大佐>:もちろん、この被告もアウシュヴィッツの集団の一人であり、この集団のメンバーと一緒に裁かれるべきです。彼女は、アウシュヴィッツの集団のメンバーでしたが、私の知る限り、ベルゼンには移ってきていません。アウシュヴィッツのメンバーとともに裁かれるべきであり、ベルゼンのことに関して、彼女を尋問すべきではありません。
<弁護人フィリップス大尉>:検事側は、もっぱら、犠牲者の観点から本件を扱っています。ベルゼンにいた人々の多くが、アウシュヴィッツにもいたという事実は否定できませんが、それが、何だというのでしょう。私たちが扱っているのは、被告であり、その多くはアウシュヴィッツにはいなかったのです。ですから、彼らが、検事側の言う一連の事件にどのように結びついていたのか、何らかの共通点を持っていたのかを明らかにしなくてはなりません。アウシュヴィッツにいたことがない被告もいれば、ベルゼンにやってきたのが今年の2月以降であった被告もおり、4月にやってきた被告さえもいるのです。にもかかわらず、彼らは、一連の犯罪に関与したという罪状で裁かれようとしているのです。アウシュヴィッツとベルゼンには類似点があることを否定しようとは思いませんが、一連の犯罪を構成していたというのは適切ではありません。
<法務官>:弁護側の申し立ては、もしも、二つの訴因に関連する証拠全体を検証すれば、そして、もしも、二つの訴因の被告を同じ時間に裁こうとすれば、それは正当なものではなく、不適切であるというものです。二つの訴因を分けるべきである、すなわち、当法廷はまず第一の訴因を処理して、その後で、当法廷あるいは別の法廷が第二の訴因の処理に進むべきであるというのです。これは、当法廷が裁定すべきことです。
(休廷し、協議に入る)
<法務官>:フィリップス大尉、当法廷は、明白で、説得力のある議論に感謝します。あなたの主張を完全に理解しました。その主張を考慮したうえで、この申し立てを却下します。第一の訴因と第二の訴因を分けることはしません。そのように裁定しましたが、何かご意見があればうかがいます。
<弁護人フィリップス大尉>:私たちは、裁判を分離すべきかどうか、被告を一緒に裁くのは適切かどうかという問題提起をしました。この問題に関する皆さんの裁定は、当法廷が国王勅令規約8条、国王勅令下の規約をどのように解釈するかにかかっています。最初のパラグラフの冒頭の3行には「戦争犯罪がある部隊または人の集団による共同行為の結果であったという証拠がある場合には、…」とあり、ついで、被告を合同で裁くことができるとあります。明らかに、法廷がこの問題を扱うことができるのは、公判が開始されてからのことです。ですから、「戦争犯罪がある部隊または人の集団による共同行為の結果であったという証拠がある場合には、…」とあるのです。もしも、法廷が共同行為に関する一応の証拠に納得していないのであれば、分離裁判の申し立てを却下する根拠はまったくありません。
「共同」という単語は、「計画する」、「あらかじめ考えておく」、「考案する」という意味であり、さまざまな人々が共通の意図を持っていること、共通の行為を行なうことを指しています。ベルゼンとアウシュヴィッツ事件が、計画されたこと、あらかじめ考えぬかれたことの結果であったことを示す証拠が、今の段階で提出されたのでしょうか。このような証拠はまったくありません。この点を立証するために、被告たちの何人かがベルゼンにやってきたのは、1945年4月以降であったことを指摘しておきたいと思います。収容所の解放は、1945年4月15日でした。アウシュヴィッツ事件では、これらの人々に、自分たちの不在のときに行なわれたとされる一連の戦争犯罪に参加したという責任を問うことができるでしょうか。また同じように、ベルゼン事件では、短期間しかいなかったのに、このような責任を問うことができるでしょうか。共同行為があったというような証拠を、現時点で、あるいはもっとあとの時点で、提出できるというのは馬鹿げています。たしかに、起訴状は、これらの被告がベルゼンのスタッフであり、囚人の良好な生活に責任を負っていたときに、共同で、囚人たちの虐待に関与したと述べています。しかし、指摘しておきたいことは、当法廷は、起訴状の内容の裏を読み、現時点で利用できる供述の観点からだけで、事件の実態を検証すべきであるということです。被告たちは、一括裁判となれば、弁護活動が困難となるとの理由で、分離裁判を望み、そのような申し立てを提出しています。また、被告たちは、自分と同じ席で被告となってしまっている人を、自分の弁護のために召喚したいと考えています。もし、そうしなければ、この被告が自分の有利な証拠を提出したとしても、反対尋問以外で、この被告を証人とすることができないからです。もしも、当法廷が共同行為の証拠が十分ではないと考えるならば、このような被告を尋問し、その申し立てを受け入れるべきです。
(弁護団全員は、弁護人フィリップス少佐の議論にもとづいて、分離裁判を申し立てる)
<検事バックハウス大佐>:本件は、それぞれ、第二の訴因ではアウシュヴィッツでの、第一の訴因ではベルゼンでの、悪条件を作り出したということに対する一括の告発です。訴因には詳しく述べられていませんが、多くの人々を殺し、多くの人々に苦痛を与えた虐待の件です。本件は明白な事件です。関係者はすべて組織の構成員です。彼らは共通の指導者のもとで勤務していました。彼らの行動は協同のものでした。被告席にいる一人一人がこの残虐行為に関与しました。供述書にある証拠には、この行為がこれらの被告全員によって犯された共同行為であったと法廷が判断するにたる一応の証拠があります。五つの厨房での射殺事件は偶然ではありえません。アウシュヴィッツでは大きな杖で人々の頭が殴られ、ベルゼンでも同じような事件が起ったのは偶然ではありえません。
たとえ、ベルゼンには2日間しかいなかった被告が存在したとしても、彼らが、ベルゼンにやってくる以前に同じことをしており、囚人の虐待という共同行為に参加していた証拠を上げることができます。被告たちがアウシュヴィッツとベルゼンで共同行為に参加していたという膨大な証拠にもとづいて、この申し立てを裁定していただきたいと思います。
<法務官>:前の申し立てのケースに比べると、この申し立てを裁定するには、少しばかりの本質的な問題点と、少しばかりの難点があります。問題は、国王勅令の言葉づかいから発生しています。裁判のこの段階では、判断すべき証拠がまったく存在していないことは明らかですし、提出されている資料といえば、起訴状とその要約です。裁判官はこの資料を検討しなくてはなりません。裁判官が考慮すべき問題は、告発されている戦争犯罪が集団や団体の共同行為の結果であるとみなすか、みなさないかです。もしも、共同行為であるとみなすとすれば、申し立てを却下しなくてはなりません。もし、そうでないとみなすとすれば、この申し立ての正当性に配慮しなくてはなりません。この申し立てを却下すると裁定すれば、何名かの被告は自分自身のケースでは自分自身で証拠を提出することになるでしょうし、その場合には、弁護側が提出しようとする尋問に反対尋問することもありうることになるでしょう。
(休廷し、協議に入る)
<法務官>:フィリップス少佐、法廷に対するあなたの発言およびあなたの同僚の発言についての見解を示します。当法廷は議論を検討した結果、本件は規約8(ii)条にあてはまるものではなく、したがって、規約と矛盾しないと裁定します。ですから、申し立てを却下します。すなわち、当法廷に関する限り、被告の分離裁判はありえないということです。
(第一の訴因に関する罪状認否が行なわれ、被告全員が無罪を申し立てる)
(第二の訴因に関する罪状認否が行なわれ、関係する被告全員が無罪を申し立てる)
検事側冒頭陳述
<検事バックハウス大佐>:本件の訴因はそれぞれ、被告が、両収容所の管理スタッフであったときに、そこに収容されていた人々の良好な生活に責任を負っていたにもかかわらず、戦争に関する諸法規および諸慣例に違反して、囚人に対する虐待に集団として関与した。この虐待の結果、何名かが殺され、そして、その他の人々に肉体的苦痛をもたらしたというものです。
本件はこの種の事件を裁く最初のケースですので、これらの訴因を裁く管轄権の根拠について、明らかにしておきたいと考えます。私たちは、陸戦協定のなかの戦争に関する諸法規および諸慣例に定めてある国際法にもとづいて、このような主張をしております。第14章449節には、戦争に関する諸法規および諸慣例にしたがって、戦争犯罪を犯している、あるいは犯したとされている人々は軍事法、あるいは、交戦国が決定する法廷によって適切に処理されうるとあります。
国王陛下は国王勅令[2]を下賜され、それは1945年の軍命令第81号にありますが、「私が1939年9月2日以降のいかなる時期においても、関与しまたは関与することあるべきいかなる戦争においても、その戦争中に行なわれた戦争に関する諸法規および諸慣例違反の裁判および処罰に関する規定を制定することは適当であると考えるがゆえに、戦争に関する諸法規および諸慣例につき訴追を受けた者の拘束、裁判および処罰がこの国王勅令に付属する規定により定められることは、私の本意でありまた喜びとするところである」と定めています。国王勅令第2条には、「次の将校は、戦争犯罪を犯したことにつき訴追されたる者を裁判するため、軍事裁判所を召集し、かつ、この裁判所の認定および刑を確認する権限を有する」とあり、前節に定められているように、国王勅令のもとでそのような権限を持つ将校を確定しています。国王勅令はイギリス・ライン方面軍司令官に直接あてられたものであり、この司令官は、第30兵団司令官に国王勅令を伝えました。ですから、当法廷が召集されているのは、この国王勅令によってであります。
訴因の中にある行為は疑いもなく戦争犯罪です。アウシュヴィッツとベルゼンに収容されていた人々の中には連合国国民が存在するからです。もちろん、当法廷は、ドイツ人に対するドイツ人による虐殺行為を扱いません。両収容所には、多数の連合国国民がいました。彼らは、戦争捕虜、被占領国から移送された人々、通常のやり方で収容された人々でした。また、宗教上の理由、国籍、ドイツのための労働を拒否したとの理由、あるいは、このような場所で使役したり、絶滅したりするのが適切であるとみなされた戦争捕虜であるとの理由で、裁判なしに、収容された人々でした。
戦争に関する諸法規および諸慣例は、捕虜だけではなく、交戦国が占領した諸国の民間人に対しても、適切な待遇をすることを定めています。戦争捕虜の適切な待遇とは、戦争捕虜を飢えさせたり、殴ったり、勝手に処罰したり、殺したりしてはならず、適切な裁判なしで、このような行為を行なってはならないということです。本件の証人の大半は占領地域の住民ですが、その彼らに関しては、陸戦協定14章383節は、「住民の生命が尊重されること、彼らの平穏と名誉が保たれること、宗教信条が干渉を受けないこと、住民に対する不法な犯罪行為、住民の財産に対する侵害行為は平時と同様に処罰されること、以上のことを監督するのは占領軍の義務である」と定めています。また、ドイツも署名している1907年のハーグ協定14章59(f)節は、「女性は、その性に十分に配慮した待遇を受けるべきである」、「家族の名誉と権利、個人の生活、私有財産、宗教的信条や信仰は尊重されるべきである」と定めています。
さらに、陸戦協定から引用しますと。その14章441節には「『戦争犯罪』という用語は、その行為者が逮捕された場合、処罰の対象となる敵国兵士、敵国民間人の行為の技術的表現である」とあります。442節には、「戦争犯罪は4つに分類されうる」とあり、その第一が広く認められている戦争法規違反であるとなっています。443節には、もっとも重大な戦争犯罪が定めてあり、そのうちの二つが占領国での捕虜の虐待と「占領国の住民の虐待」となっています。ここでは、「占領国の住民」という用語が使われていますが、「自国から移送されてきた占領国のすべての住民」、移送者という意味に拡大解釈すべきです。この点について、オックスフォード大学国際法のブリアリイ教授の論文が、「通常ならば殺人行為であるこの殺人、通常ならば法律違反の傷害行為である傷害、通常ならば窃盗行為であるこの窃盗が、戦争行為として正当化できるかどうか。もし、正当化できなければ、それは戦争犯罪である。このような問題を、法廷が解決できれば、難点の大半は消え去ることであろう」と的確に述べています。
当法廷は、ベルゼンとアウシュヴィッツでの事件を審理します。そして、両収容所での連合国国民に対する処遇を審理すれば、明らかに、そこでは、戦争犯罪が犯され、殺人行為が行なわれたといえます。そして、その行為に責任を負う人々は、当法廷の管轄権のもとで、戦争犯罪者として処罰されるべきです。
このような傷害を受けた人々、殺された人々、虐待された人々は10カ国にまたがっています。イギリスは、このドイツ地域を管理し、被告を確保している国です。連合国戦争犯罪委員会には、関係するすべての国民が代表を送っており、この収容所に自国民がいる諸国からはオブザーバーが召請されています。イギリスは、この委員会と協力して、当法廷に責任を負ってきました。この収容所にいたイギリス人は多くはありません。私たちの知っているかぎりでは、生き残った人々の中のわずか一人だけが証言することでしょう。証拠を検証すれば、両収容所では、ハーグ協定46条がまったく無視されていたこと、占領国の住民の待遇を定めた陸戦協定の諸原則がまったく無視されていたこと、人間の尊厳や苦痛がまったく無視されていたことが分かるでしょう。そして、被告たちおのおのが、このような無視に関与していたことが分かるでしょう。
被告たちは、犯罪的な職務怠慢によってだけではなく、死や傷害をもたらすことを十分に承知していながら、意図的な飢餓政策・虐待政策をとることによって、ベルゼン、アウシュヴィッツ両収容所での悲惨な状態を作り出したのです。そして、アウシュヴィッツについては、ここでの状況が死をもたらしてしまうとはっきりと分かっていただけではありません。意図的に数万、おそらく数百万の人々が殺戮されていたのです。この収容所では、数百万の人々が意図的な、血も凍るような絶滅政策によって殺されました。そして、第二の訴因で告発されている被告は、意図的な絶滅政策を実行した集団に関与していたのです。ベルゼンについては、ガス室が存在したというような罪状はありませんが、数万の人々が死に追いやられました。ベルゼン収容所管理スタッフは、死や重傷をもたらすことを知っていながら、囚人を共同で虐待していたのです。
被告たちには、自分たち自身による行為に責任があるだけではなく、共同で活動した犯罪ギャング集団全体の行為にも責任があるのです。しかしながら、わずかでも疑問の余地が残らないようにするために、検事側が、意図的な残虐さ、多くの場合には、殺人の証拠を提出できないような被告は誰一人として、法廷の場に立たされてはいません。裁判官の皆さんが、これらの個々の行為を個々に検証すれば、個々の被告の罪状について、有罪か無罪かを裁定しなくてはなりません。しかし、個々の残酷な行為の個々の証拠を考察するにあたっては、個々の行為としてだけではなく、この集団の一人の人物の行為としても検証しなくてはなりません。すなわち、一人の被告個人に対してだけではなく、収容所では共同の虐待行為に関与した集団の一部として活動した人物に対する証拠が提出されているのです。
本件を解明するには、まず、ベルゼン収容所が解放されたときの状況からはじめるのが適切でしょう。4月の第2週に、ドイツ軍将校が第8兵団司令部に出頭して、休戦を求めました。これから解放する60000名ほどの囚人の収容所では、チフスその他の疫病が蔓延しており、もしも、チフスが両軍に広がるのを防ごうとすれば、休戦が必要であるというのです。交渉ののち、休戦が合意されました。休戦協定によると、収容所に責任を持つ管理下士官とSS将校が、収容所にいたハンガリー人看守とともに残り、SSには8日後に、退去するか捕虜となる選択肢が与えられました。
4月15日午後3時、シングトン少尉が、イギリス軍将校としては、初めて収容所に入りました。彼は、宣伝放送をしようと、放送車を伴って、収容所に入りました。そのあとすぐに、第63対戦車連隊司令官テイラー中佐が、部隊の一つを引き連れて、収容所を占領するために、入りました。ついで、第8兵団司令部のバーニー少佐、第2軍医療部隊長代理のグリン・ヒューズ准将が入りました。これらの将校たちは、初日にすべてを発見したわけではありませんが、彼らが発見した事態について、まとめて話しておきたいと思います。
収容所はセレの北15マイルほどのところにあり、小さなキャタリック駐屯地のようなものであったと考えるのが適切でしょう。ここにやってきて最初に目にするのが、壮大な兵営区画、美しい劇場、病院、将校用の食堂ですが、ここは、戦車擲弾兵訓練センターです。ここから1マイルほどくだると、ベルゼン強制収容所です。大体、長さ1.5km、幅300−350mほどです。鉄条網が周囲を囲んでおり、中には、60ほどの建物があります。うち、15が看守用で、45が囚人用でした。そして、5つの区画に分かれており、一つは管理区画、3つが男性区画、2つが女性区画でした。男性区画には12000名ほどの男性が、女性区画には28000名ほどの女性がいました。収容所全体のために、5つの厨房があり、うち、2つは男性用、2つは女性用、1つは男女共用でした。水の供給には、2つか3つのコンクリート池か貯水槽がありました。収容所の周囲に管理局区画があり、15のシャワー浴室と4つの害虫駆除設備がありました。それは、1時間半で60着を処理できたはずです。いくつかの牢獄と小さな焼却棟がありましたが、それは使われていませんでした。各区画は鉄条網で隔てられており、角には監視塔がありました。しかし、収容所の状況は筆舌に尽くしがたいものでした。どのように描いたらよいのか、まったく言葉もうかびません。大量の衰弱した案山子、たんに生きているに過ぎない骸骨が、あちこちに、身を横たえ、すわり、うろついていたのです。
医療担当将校による収容所の記述ではありますが、シングトン少尉は、囚人たちは、最初、大きな変化が起こったことには気づかなかったと証言するでしょう。彼によると、到着して、自由になったと報道したあとでも、ぼろをまとった生ける骸骨の群れはうろつきまわっており、何がおきているのかもまったく理解できないままでした。状況は、囚人たちが解放を知る前と同様に、筆舌に尽くしがたいものでした。シングトン少尉は、状況を説明する言葉を知りませんでした。第一収容所の男性区画では、チフスは衰えつつありましたが、第二収容所では、8000名のうちに266名のチフス患者がおり、その数は増えていました。第三男性収容所には、病院はひとつもありませんでした。第一女性収容所には、23000名の女性と500名ほどの子供がいました。このうち、2000名が緊急入院を必要としていましたが、病床は474しかありませんでした。250名のチフス患者がいました。第三女性収容所には、5000名の女性がいましたが、病院はひとつしかなく、病床はまったくありませんでした。300名のチフス患者がいましたが、隔離されていませんでした。
本来ならば1名のスペースに10名が押し込まれていました。ドイツ軍は通常の基準よりも過密な基準を設けていましたが、その基準よりも過密でした。80名が収容できる部屋に、600-1000名が押し込まれていたのです。この建物では、生者、瀕死の者、死者が一緒でした。少なくとも13000体以上の死体が埋葬されていないまま、収容所に放置されていました。被告たちが、まもなくイギリス軍がやってくると知ったとき、その到着前の数日間、2000名の骸骨の列が、4人一組で、1日に12時間も1体の死体を引きずり、大きな壕の中に埋めていました。それでもなお、13000体の死体が埋葬を待って放置されていました。死体の状態は想像を絶するものでした。死体はやせ細っていたので、普通の男女ならば、それを引きずっていくのは簡単でしたが、生きている人々も衰弱していたので、4人で1つの死体を運ばねばなりませんでした。
実質的には、便所は一つもありませんでした。いくつかはあったのですが、水がうまく供給されていなかったので、まったく不十分であったのです。男女とも用を足すには、柱のついた壕があっただけでしたが、囚人は衰弱していたので、そこまでたどり着くことができませんでした。さらに、このおそらしい死体の行進が行なわれているときには、囚人たちは便所に行くことも許されていなかったのです。その結果、収容所のいたるところに糞尿の山がありました。そして、これらの人々の80%ほどが赤痢にかかっていたことを忘れてはなりません。夜、囚人たちはこれらの建物に押し込められていたので、床にでさえも身を横たえることができませんでした。たがいに身体を密着させて、座っていなければなりませんでした。身体が丈夫で、創意工夫に富んだ者は、板を手に入れて、それをたるきに渡し、そこで寝起きしていました。そのようにした囚人の中にも、赤痢患者がおり、そして、彼らの下から出て来ることはまったくできませんでした。
夜は以上のような状況でした。ですから、医療当局が囚人たちを診療して、12000名のうち、2242名が緊急治療を必要としており、7000名が養生を必要としており、毎日59名の新しい患者が出たことを発見したとしても、驚くことではありません。28185名の女囚のうち、緊急治療が必要な者は2000名、養生が必要な者は18600名であり、毎日125名の新しい患者が出ました。その上、すでに存在していた13000名の死体に加えて、緊急の治療がなされたにもかかわらず、少なくとも13000名以上が、次の6週間で死にました。その13000名に加えて、さらに6週間たっても、11000名が入院中であり、例えば、5月27日だけでも、54名が死亡しました。そして、入院中の者も死につつあります。
死因は、主として、栄養失調、水不足、虐待、死にいたるまでの殴打、銃殺でしたが、栄養失調による死亡は毎日発生しました。栄養失調が直接の死因でない場合でも、衰弱していたので、疫病に対する抵抗力がまったくありませんでした。栄養失調や疫病が死因でない場合には、過労か虐待で死にました。例えば、ブロック13では、到着してからの平均寿命は12日でした。強制収容所での通常の食料割り当ては、特殊な場合を除いて、朝食に一杯の薄いコーヒー、昼食に、ときにはパンのついたかぶのスープであり、夕食はありませんでした。イギリス人証人によると、最初の4日間に受け取った食料は、全部で、半リットルのスープ、半カップの水であり、パンはまったくありませんでした。解放前の5日間には、食料も水もまったく与えられず、しかも、他の囚人とともに、1日12時間、死体を運ばなくてはなりませんでした。彼らにはすばやく動く力が残っていなかったにもかかわらず、すばやく動かなくてはなりませんでした。よろよろと動いていては、棒で頭を殴られ、また、銃で撃たれることもあったからです。ある場所には看守が立っており、その前の庭にいる者は誰でも銃で撃たれました。看守たちはこの者たちを嫌っていたからです。囚人たちは路傍に倒れましたが、それは当たり前のことだったのです。
イギリス軍当局が収容所に入ったときに撮影されたフィルムが上映されます。それを見れば、収容所の状態と、人間精神の退廃を少しでも知ることができるでしょう。数千の死体が横たわっており、その死体の状態がどのようなものであったのかを見ることでしょう。駐屯しているSS隊員の栄養状態が良いことを見るでしょう。また、人々が貯水槽から缶を使って水をくみ出している光景を見るでしょう。しかし、その水は腐っており、貯水槽には死体が浮いていたのです。それだけが飲料水でした。死者を見ることでしょう。生者を見ることでしょう。実際に死んでいく者を見ることでしょう。フィルムが伝えていないのは、天まで届くような悪臭を放っている場所の臭い、不潔な悪臭です。被告たちがこのような状態を知らなかったと述べるならば、そして、その際に、裁判官の皆さんが、このフィルムを見て、少しでも想像力を働かせれば、収容所の状態を知らなかったとの発言が、まったくの嘘であることを知るでしょう。
周知のように、ベルゼンはもともと小さな、通過収容所でしたが、1944年11月末に、ヨーゼフ・クラマーがベルリンに召喚されました。彼は、1932年にナチス党に加入しており、ナチス時代を通じて、強制収容所業務についていました。彼はアウシュヴィッツの所長の一人でした。ベルリンで、彼は収容所管理局長と会い、ベルゼンが、強制収容所、工場、農場からの病人のための、北西ヨーロッパから移送された人々のための療養収容所となると伝えられました。収容所に出かけて、もし問題があれば報告せよという話でした。クラマーは12月1日から収容所長となり、唯一の責任者となりました。ベルリンからの命令がいつもやってくるわけではなかったので、管理はクラマーにゆだねられました。ですから、当収容所での事件すべてにまず責任を負っていたのはクラマーでした。彼は、収容所を管理するにあたって、一人の将校――残念ながら、当法廷に出頭してはいません――、犯罪調査官、医師、歯医者に助けられていました。その他のスタッフは、直接の指揮下にはなかった守備隊司令官を除くと、60−70名の憲兵将校、下士官でした。
ベルゼンには、他の強制収容所と同じく、2種類のスタッフがいました。厨房、ブロック、労働作業班、点呼などに責任を負うSS隊員がいます。彼らは、ラーゲル・フューラー、ブロック・フューラー、作業班フューラーと呼ばれていました。「フューラー」との単語がつく場合、それは、責任を負うSS隊員であったと考えてもかまいません。彼らのほかに、囚人のあいだから任命された組長がいました。イギリス法には、ある人物が常習的な犯罪者となり、犯罪者としての人生を歩んでしまうと法廷が判断した場合、この人物には苦役刑が宣告され、その刑期が終了しても、予防拘禁の対象となるという条文があります。この条文が適用されたことはほとんどありません。強制収容所は、このような人物のために使われており、このような犯罪者が、各ブロック、各部屋、各作業班の組長となりました。彼らは往々にして、看守よりも残酷でした。被告の中にはそのような人物がいますが、看守といえども例外ではありません。彼らは一緒に活動しており、このシステムの一部でした。
起床は通常、朝4時でした。例外となる囚人はいません。病人も瀕死の者も姿を現して、立っていなくてはなりませんでした。ときには、数時間も立ち通しでした。身体を動かした者は頭を棒で殴られました。殴り倒されても、今度は足蹴にされ、死んでしまうこともありました。このような囚人の状態を知っておく必要があります。健康な人間が棒で頭を殴られたり、足蹴にされたりするのと、衰弱した人間がそのような扱いを受けるのとはまったく異なっています。衰弱した人間を少しでも押せば、倒れてしまい、二度と起き上がることはできないのです。
5時半にもう一度点呼が行なわれたあと、朝食となりますが、一杯のコーヒーだけです。動くことができる囚人は、薪木の収集、道路の修復といった作業班、衣服製作、食糧貯蔵といった仕事に割り当てられます。労働時間は冬には午前6時から午後4時、夏には午前6時から午後6時でした。その間に1時間の昼食があり、普通は半パイントのかぶのスープでした。パンが出されることもありましたが、一番多くても1日300グラムであり、もっとのちになると、パンはまったく配給されませんでした。夜、囚人は建物の外に出ることはできませんでした。誰かが逃亡すると、残ったもの全員が2時か3時に、整列させられ、逃亡者が見つかるまで、そうしていなくてはなりませんでした。
囚人がどこへ行こうと、何をしていようと、彼らは規則的に、制度的に殴られました。看守は、棒、ゴム製の警棒、鞭、回転式拳銃を持っていました。彼らは、鉄棒、拳骨、足などありとあらゆるものを使って殴りつけました。普通は頭を殴り、地面に倒れても殴り続けました。男女とも同じように殴られました。のちになると、解放直前には、囚人たちは、ジャガイモの切れ端や、スウェーデンかぶらなどを奪い合い始めました。厨房の周りにぶら下がって、肉のついていない骨を手に入れようとしたり、スウェーデンかぶらの切れ端を手に入れようとしたのです。このような人々は殴られたり、射殺されたりしました。彼らは、飢えていたので、何でも盗むところまで追いこめられていたのです。
最後に、人肉食まで行なった人々も多くいました。死体から肉を切り離して、食べるところまで追い込まれたのです。この収容所にいたイギリス国民ル・ドルイレネク氏によると、死体の運搬というひどい仕事を行なっていたとき、10人に一人が死体の太ももその他から肉片を切り離し、それを食べたというのです。
ル・ドルイレネク氏は、妹がロシア軍将校の逃亡を手助けしたという嫌疑で、ノルマンディー上陸作戦の1日前にジャージーで逮捕されました。さまざまな牢獄や強制収容所に収監されたのちに、列車でリュネブルクに送られ、そこからトラックでベルゼンに送られて、1945年4月5日の午後10時半ごろにベルゼンにつきました。強制収容所では、日時が不正確になります。自分の所有物がないからです。ハンカチーフまでもが奪われ、何かを所持していれば、殴られました。名前もありません。ですから、他人の名前を知らない囚人も少なくありません。腕に番号の刺青が彫られ、囚人はその数によって認識されました。ル・ドルイレネク氏が収容所に着いたとき、少しばかりのスープを受け取りました。ブロック13に送られ、もって来たタバコとパンとの交換でスープを手に入れたのです。何も持ってこなかった囚人にはスープは与えられませんでした。600名とともにそこに閉じこめられました。動けない囚人がその場で用を足していたので、床は湿っており、非常に不潔でした。非常に込み合っていたので、横たわることができず、座ったまま眠らねばなりませんでした。夜のあいだ、そこに閉じ込められていました。その夜、8、9人が死にました。毎晩死者が出ました。もちろん、死体は運び出されなかったので、生きている人々と一緒にいました。朝の3時30分、呼び出されましたが、いつものように殴られました。囚人たちは、何も食べずに、みじめに整列しなくてはならず、気をつけの姿勢で、8時まで立ち続けていました。動いた者は殴られました。倒れてしまった者もいましたが、殴られ、足蹴にされました。立ち上がることができれば、そうしましたが、できなければ、そのまま横たわっていました。
初日には、ほとんど何もしませんでした。翌日は、朝早く引き出されて、4グループに分けられました。4グループに分かれて、死体を引きずり、まず、大きな埋葬壕に入れなくてはなりませんでした。しかし、その後、埋める場所がなくなったので、山積みにしなくてはなりませんでした。イギリス軍の到着以前に収容所をきれいにするためでした。看守は杖や棒を持っており、ブロック長などの組長は、杖やゴムの警棒を持って道に沿って並び、よろめいた者を殴りつけました。このみじめな作業は12時間続きました。唯一の食事は、イギリス軍のコップに四分の一以下しか入っていないかぶのスープでした。貯水槽のそばを通りましたが、通るたびごとに、死体を引きずっていくときのごみがそこに入っていったのです。立ちどまることも許されず、丸一日、水を飲むことも許されませんでした。前の人から1ヤードでも遅れれば、立ち上がるまで殴られました。ル・ドルイレネク氏が過ごした最初の4日間は以上のようであり、この4日間に彼が食べることができたのも以上のものでした。彼が生き残ることができたのは、彼が銃声を聞くことができたからでした。もう一日でも生きのびれば、誰かがやってくるだろうと考えていたのです。毎日毎日、収容所では射撃の音が聞こえ、看守たちは、まったく理由もなく、囚人を撃って楽しんでいました。最後の3日間は、銃殺はかなり頻繁でした。
ベルゼンは以上のようでした。他の収容所からの囚人を乗せた移送者がやってきて、人口過密となり、イギリス軍が交通網を寸断していたので、食料を手に入れることは不可能でした。クラマーは、できるかぎり、これらの人々に食糧を供給し、水を供給し、健康と栄養を維持しようとしたと述べています。4月15日に、テイラー大佐と一緒に収容所にやってきたバーニー少佐の証言によると、その翌日、バーニー少佐は1マイルほど離れたドイツ軍のキャンプに出かけ、その責任者と会いました。強制収容所あての食料はここに保管されていました。クラマーは、食料を手に入れることができなかったのは、セレとハノーバーから食料がやってくるためであったと述べていますが、実際には、ドイツ軍のキャンプからだったのです。このキャンプには、哀れな人々に配給するのに十分な食糧がありました。クラマーは、パンを手いれることはできなかったが、最善を尽くしたと述べています。しかし、ドイツ軍キャンプには、十分な穀物の備蓄を持った、装備の良いパン製造場があったのであり、そこは、毎日60000ローフのパンを提供できたのです。そして、同じスタッフを使って、同じ穀物ストックから、同じような量のパンを製造し続けることができたのです。
膨大な医療品があり、それはまだ使われつくしてはいませんでした。第一収容所の管理ブロックには約100箱の缶ミルクと食料がありました。それは、SS区画にあり、「ハンガリー人」との印がついていました。ハンガリーの赤十字がハンガリー人囚人に送った赤十字の小包であり、SSの看守がそれを盗んだのです。水の供給について言えば、たしかに、3−5日間、収容所には水が供給されませんでした。収容所には、死体の浮かんでいる4つの不潔なコンクリート・タンクがありました。しかし、収容所にある装備を使えば、2日以内に、各厨房に水を供給する十分なシステムが稼動したことでしょう。5日以内に、地元消防団の助けを借りれば、収容所全体にいきわたるような適切かつ完璧な水の供給システムが稼動したことでしょう。戦争のおかげでシステムが破壊されてしまったという話はうんざりです。もし、誰かに意志があれば、収容所に水を供給し、衛生状態を保つことはできたはずなのです。不足していたものは何もありませんでした。
収容所の状況の調査が始まるとすぐに、生き残っている囚人の多くが、他の収容所から送られてきた人々であることが明らかとなりました。大半の囚人が他の収容所から送られてきており、アウシュヴィッツから送られてきた人々もかなりいました。アウシュヴィッツは、ポーランドのダッハウから南南西50マイルほどのところにあります。クラマーは、自分が最初にここを訪れたのは1940年5月であり、当時はまだ建設中で、3000−4000名を収容する小さな収容所であったと述べています。囚人たちは木造の建物で暮らしており、石造の建物を建設していました。この当時、40−50名のSS隊員からなる守備隊が駐屯しており、囚人死亡率は1週間30名でした。クラマーは1940年11月にそこを離れますが、1944年5月に戻ってきたときには、多くのサブ収容所を持つ、ヨーロッパ最大の強制収容所となっていました。
クラマーは収容所の一区画の所長となり、彼の職務は、この区画のラーゲル・フューラーでしたが、収容所長と呼ばれました。彼によると、自分の管轄下には15000−40000名の囚人がいました。80か90の男性用建物、60の女性用建物、25−30の病院建物がありました。当時、毎週、450−600名が死亡しました。アウシュヴィッツの日常生活は、ベルゼンとまったく同様でした。朝早く起床し、些細なことで殴られ、重労働に取り掛かったのです。しかし、ベルゼンでは耳にしなかった事件もあります。SS女性隊員は、大きな犬をけしかけて、死ぬまで人々を引き裂くことを楽しみとしていたのです。これは娯楽の一つでしたが、本当の目的は、ドイツのために重荷を背負うことに適していない人々すべてを、冷血にも、絶滅することでした。クラマーの収容所だけでも、5つのガス室がありました。その中に入ると、脱衣室のような部屋があります。服をかけるフックがあります。拡声器が、突然ここに連れてこられた人々に、浴室から戻ってきたときにわかるように、服を整理して脱ぐように指示します。そして、次の部屋に入ると、5列のシャワー口があり、一列には20のシャワー口がついていました。そして、ドアが閉じられます。一時に1000名ほど収容できました。この部屋は耐ガス密閉であり、ガスが放出され、人々が意図的にガス処刑され、殺されました。反対側にもドアがあり、トロッコとレールがあって、死体はトロッコに乗せられて焼却棟に向かいます。これらの部屋は、労働不適格者の絶滅に使われました。
ドイツ帝国に役立たないとの理由で、大量殺戮の対象となった人々を想像してみてください。到着するとすぐに選別が行なわれたこともありました。移送者が到着し、各自のブロックに送られる前に、選別が行なわれ、移送者が到着し、各人のブロックが割り当てられる前に、老人、子供、妊娠している女性、病人、衰弱した者、労働不適格の様相を呈している者は、収容所に入ることなく、ローリーに積まれて、ガス室に直接送られ、そこで科学的に殺戮されました。収容所では周知のことでした。アウシュヴィッツにいた被告は知っていましたし、大半が、ガス室送りの選別に関与していたのです。1944年11月、一回の移送者1400名のうち、収容所が受け入れたのはわずか400名であり、それ以外は連行されて、すぐにガス処刑されました。別の移送では、5000名のうち4500名がガス処刑されました。収容所に送られた45000名のギリシア系ユダヤ人のうち、疎開したときに残っていた数はわずか60名でした。
到着時の選別のほかに、一週間に2、3回の選別がありましたが、それは、労働不適格者を排除するためでした。選別が行なわれているときに、収容所の楽団が演奏していることもありました。被告2号クライン博士もそのような選別に関与した一人であり、関与したことを明言しています。被告1号クラマーは、最初の供述では、そのようなことを聞いたこともない、ガス室など収容所には存在しなかったと述べているが、彼は知っていたに違いありません。二番目の供述では、自分はガス室にはまったく関係しておらず、上司の責任であるとしているが、収容所を最初に検分したときにガス室を目撃したと述べています。ガス室は自分の管轄下にはなかったというのです。しかし、多くの証人が、彼は選別に積極的に参加したと証言しています。病院で選別が行なわれたこともありました。たとえば、1943年12月1日、病院にいた4124名の女性のうち、4000名が連行されて、ガス処刑されました。患者たちは病院の周囲を裸で走らされ、ついて行けない者はガス室に連行されました。1944年5月、ガス室の稼動が早すぎたので、焼却棟はそれについていくことができず、死体は壕に投げ捨てられて、焼却されました。焼却棟のひとつで働いていた人物は、3ヶ月間で、5つのガス室のうち一つのガス室だけで、20000名がガス処刑されたと述べていますし、医者であった彼女によると、彼女が目にした記録から見ると、少なくとも400万以上が、収容所でガス処刑されました。ガス処刑についての話は、ガス室送りとなったが、最後の瞬間に助かった証人の口から聞くことができます。犠牲者は口から泡をふき、青色になり、そして死んでいったのです。クラマー、クライン、へスラー、フォルケンラート、グレーゼ、ロバウアーはこの選別に積極的に参加しました。これから提出する証拠を信じれば、法廷に引き出されているアウシュヴィッツの看守の一人一人が、大量殺戮、意図的な大量殺戮の罪状で有罪であることは明白です。
当法廷はイギリス軍事法の下で招集されています。そして、証人が移動してしまうために、多くの人々が正義の裁きを逃れてしまうことのないように、証拠手続きの面では、修正が行なわれました。供述書が法廷に提出されるでしょう。ベルゼンが解放されたとき、40000名、28000名の男性と12000名の女性がいました。その多くは病院におり、多くの人々が、できるだけ早く、当地を離れたがっています。彼らは多くの言語を話しています。生命が脅かされている人々がいる一方で、戦争犯罪の調査には誰も関心を示していないので、本件の調査は途方もないものでした。できるかぎり多くの証人から供述を取らなくてはなりませんでした。証拠の多くは供述、あるいは、その要約によるものです。しかし、多くの人々が姿を消してしまいました。40000名の人々をとどめておくことはできませんでした。その結果、残っている人は多くはありません。このような人々を召喚し、供述書を提出します。そして、証拠として受け入れていただきたいと思います。
最後にしておかなくてはならないのは、被告たちを紹介することです。二つのグループに分かれ、第一のグループは、アウシュヴィッツとベルゼン双方にいたSSです。被告1号はヨーゼフ・クラマーで、アウシュヴィッツの所長であり、のちに、ベルゼンの所長となりました。彼は、自発的にSSに加入し、あれこれの収容所に勤務しながら、昇進していきました。被告2号はルーマニア人のクライン博士で、彼は、1943年に自発的に武装SSに加入しました。一時期、クラクフで徴発された医師を勤め、1943年12月以降は、強制収容所にいました。まず最初に、アウシュヴィッツにいました。そして、何人かの証人が証言するように、彼はガス室送りの犠牲者の選別に参加し、そのことを公けに認めています。その後、2月中旬にベルゼンにやってきて、彼の話では、収容所にいたのはイギリス軍の到着前の3日間だけであったということです。これは、他の証人の証言とは矛盾しています。彼は、誠実な人であれば、収容所の実態を自覚しており、イギリス軍がやってくれば、自分とクラマーを壁の前に立たせて、銃殺するであろうとクラマーに話しています。
被告3号のヴァインガルトナーは、アウシュヴィッツの女性収容所のブロック・フューラーでした。彼の管轄下に1000名ほどの女性がいました。被告4号のクラフトは、アウシュヴィッツとベルゼンのSS看守でした、食糧配給の責任者でした。被告5号のへスラーは、アウシュヴィッツのラーゲル・フューラーでした。ですから、収容所長に次ぐ地位を占めていたのです。彼は、1933年1月、自発的にSSに加入し、ナチス時代を通じて強制収容所に勤務していました。彼はクラマーのもとで、女性収容所の責任者であり、アウシュヴィッツのあと、ドラという収容所に転勤し、そこからベルゼンに転勤となって、第二収容所のラーゲル・フューラーとなりました。被告6号のボルマンは、当初、衣料倉庫の責任者でしたが、のちには、作業班の責任者となりました。そして、娯楽として、犬を女囚にけしかけ、ガス室送りの選別に関与しました。ベルゼンに移ると、豚小屋の責任者となりましたが、同じような振る舞いを続けました。被告7号のフォルケンラートは、アウシュヴィッツでは、ガス室送りの選別に定期的に参加し、個人的に残虐な振る舞いをしました。ベルゼンに移ると、クラマーから、収容所の女性SS隊員のボスとして、女性SS隊員全員の責任者に任命されました。ベルゼンでは多くの残虐行為を行ないました。被告8号のエーレルトはSS看守でした、彼女は1940年11月15日にSSに加入していますが、徴兵されたと主張しています。さまざまな強制収容所に勤務したのち、アウシュヴィッツに少し勤務してから、ベルゼンにやってきました。彼女は女性SS隊員のナンバー・ツーでした。収容所の状況が恥ずべきものと考えていましたが、自分以外の人々の責任であるとみなしていました。被告9号のグレーゼは作業班の組長でしたが、アウシュヴィッツの女性懲罰部隊の指揮をとっていたこともあります。彼女は、収容所の中で最悪の女性であったとされています。収容所での残虐な行為の中で、彼女が関与していないものはありません。グレーゼは、規則的にガス室送りの選別に参加し、自分独自の処罰を設けました。ベルゼンに転勤になっても、同じように振舞いました。とくに、彼女は犬をけしかけていました。
被告17号のグラは、ブロック・フューラーでした。少なくとも2件の殺人に関係しています。被告26号のシュライラーは、ブロック・フューラーであり、規則的に、残虐な行為を行なっていました。彼らは、アウシュヴィッツにいたSS隊員です。アウシュヴィッツの事件に責任のある残りの3名は、被告10号のローテ、被告11号のロバウアー、被告48号のスタロストカです。彼らはどのような人物なのでしょうか。彼らは、カポーと呼ばれており、権力を与えられた囚人です。ブロック長、ラーゲル長とも呼ばれています。ロバウアーは女性作業班の責任者で、女性SS隊員と同じように残酷で、犬を囚人にけしかけていました。ロバウアーはラーゲル・カポーで、ガス室送りの犠牲者の選別やその他の残虐な行為に積極的に参加していました。スタロストカは最初はブロック長で、のちにラーゲル長となって、同じく、残虐な行為に関与しました。以上がアウシュヴィッツに関連する被告です。
その他の被告について申し述べます。ベルゼンでは、被告12号のクリッペル、被告16号のフランツィオー、被告18号のマテス、被告22号のピッヒェン、被告28号のバルシュ、被告33号のイルゼ・フォルシュター、被告34号のイダ・フォルシュター、被告39号のハシュケ、被告42号のリジエヴィツ、被告44号のヘンペル、彼ら全員が厨房で働いており、彼らが囚人に対してどのように振舞っていたのか明らかにされるでしょう。厨房での彼らの振る舞いを検証すれば、共同行為が存在したことに、まったく疑問の余地が無くなるでしょう。
残りの被告のうち、被告23号のオットー、被告47号のポランスキはブロック・フューラーでした。さまざまな管理職員がいました。被告14号シュミッツ、被告21号エゲルスドルフはパン倉庫の責任者でした。被告35号のオピッツは作業班の責任者でした。被告36号のシャルロッテ・クライン、被告37号のボーテ、被告の38号ヴァルターは庭の責任者でした。被告40号のフィースト、被告41号のザウアー、被告45号のハーネルは浴室の責任者でした。ドラ収容所からの移送者とともにやってきた2名、SS隊員の被告19号のクレッサ、彼のカポーの被告31号のオストロフスキがいます。ノルトハウゼンからの移送者とともに、責任者の被告25号シュトフェル、その副官の被告27号のドルがやってきました。残りの被告は、すべてカポーです。被告20号のブルグラフ、被告29号のツォッデル、被告30号のシュロモイヴィツ、被告32号のアウジーグ、被告43号のロート、被告46号のコッパーです。
裁判官の皆さんが、ベルゼンとアウシュヴィッツでは以上のような状況が存在したという証拠に納得されれば、検事側は、被告たちが、たとえ小さなものであったとしても、両収容所での行為に積極的に関与したとの告発を十分に成し遂げたことになるでしょう。被告たちがまったく疑問の余地なく有罪であることを立証するのが検事側の義務です。もし、検事側が立証責任を果たせなかったとすれば、裁判官の皆さんが、問題の余地のある人物を喚問しなくてはなりません。しかし、裁判官の皆さんが、被告たちが虐殺行為に参加し、フィルムにあるような状況を作り出したのは被告たちであり、ベルゼンとアウシュヴィッツでの大量殺戮の責任者が被告たちであるとする証拠に納得されるならば、検事側は、本件を立証しえた、法廷に告発されている訴因は十分に立証されたと言うことができるでしょう。