試訳:トレブリンカ裁判
――J.
グラーフ――
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年11月12日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Carlo Mattogno, Jürgen Graf, Treblinka
Extermination Camp or Transit Camp?, Theses & Dissertations Press, PO
Box 257768, Chicago, IL 60625, USA, June 2003(その試訳)の第5章にあたるJürgen Graf, Treblinka Trialsを試訳したものである。また、マークは当研究会が付したものである。 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。 online:http://vho.org/GB/Books/t/# |
第5章:トレブリンカ裁判
1. 歴史叙述の土台としての自白
1979年、ギッタ・セレニイは、修正主義者、とくにバッツを激しく攻撃した。その際、彼女は、自分とデュッセルドルフ監獄に拘禁されていたトレブリンカ所長フランツ・シュタングルとの1971年の会話に触れている。彼女によると、シュタンゲンルは収容所での大量殺戮を認めたというのである。セレニイはこう述べている[476]。
「シュタングルは死んでいる。しかし、もし、…バッツが…真実に関心を抱いていたとすれば、シュタングルの妻やその他多くの人々が、喜んで証言してくれたことであろう。」
バッツは、録音テープがないために、セレニイはシュタングルの実際の証言がどのようなものであったのかを証明できないと回答することもできたにちがいないが、そうではなく、まったく異なった角度から議論を展開している[477]。
「われわれは、ドレスデンと広島の空襲やハイドリヒ暗殺後のリディツェ村への報復が実際に起こったかどうかを裁定するために、『自白』や『裁判』を必要としていない。今日、絶滅伝説が主張しているのは、数例の殺人事件ではなく、地理的に広範囲で、時間的に3年間で、その犠牲者は数百万の事件である。絶滅伝説の擁護者たちは、ヒステリー・検閲・脅迫・迫害、および35年間もこの事件を覆い隠してきた野蛮な無法状態のもとで引き出された『自白』にもとづいてこのような事件が起こったことを『立証』しようとしているが、それは何と馬鹿げたことだろう。…
…セレニイは、疲れ果てた老人が獄中で話してくれたことを記述することで、この途方もない事件が実際に起きたことを立証しようとしている。だとすると、1950年にニューヨークで暮らしていたジプシーの自白にもとづいて、ジプシーが1950年にニューヨークを燃やしたとさえ立証できるであろう。…彼女は、著名な雑誌の何頁も使って、途方もない犯罪事件を、それとは比較にならないような、獄中の疲れ果てた老人の話を使って、立証しようとしているのである。もしも、ヨーロッパのユダヤ人が実際に絶滅されていたとすれば、そのような話はまったく必要ないであろう。」
「実行犯」の自白と目撃証言だけにもとづいて、途方もない歴史的事件の全体像を描くことは、まったく受け入れがたい方法であるが、セレニイのやり方はこの方法を如実に示している。そして、西ドイツとイスラエルの司法当局は、「実行犯」の自白と目撃証言だけを唯一の証拠とする裁判を開いて、トレブリンカに関する伝統的イメージを確固としたものとしようとしたが、そのプロセスを検証しておこう。
2. 西ドイツのトレブリンカ裁判
1964年10月から1965年9月までデュッセルドルフで裁判が開かれ、10人の被告が登場したが、その中で、最後の収容所長であったクルト・フランツは[478]、トレブリンカでのユダヤ人大量殺戮に関与した咎で告発されていた。フランツも含む4名の被告が、30万人の集団的殺害、数多くの個別的殺害の咎で有罪となり、終身刑を宣告された。5番目の被告は、少なくとも10万人の集団的殺戮の咎で終身刑となり、残りの5人の被告は、30万人の集団的殺戮、10万人の集団的殺戮を補助した咎で、それぞれ12年、7年、6年、4年、3年の刑を宣告された。
1970年5月から12月にかけて、やはりデュッセルドルフでトレブリンカ裁判が開かれているが、法廷の前に立たされたのは、二番目のトレブリンカ所長フランツ・シュタングルSS大尉だけであった。彼は、他の人々ともに少なくとも40万人のユダヤ人の殺戮を行なった咎で終身禁固刑を宣告されたが、1971年、西ドイツ最高裁が控訴の申請を裁定する前に、死亡した。
最初のトレブリンカ裁判では100名以上の証人が、二番目のトレブリンカ裁判では、50名以上の証人がドイツ内外で証言を求められた。当時、民族社会主義者犯罪裁定ルードヴィヒスブルク中央局長であったアダルベルト・リュッケルルは、すでに言及した1977年の『ドイツの刑事裁判を通して見た民族社会主義者の絶滅収容所(NS-Vernichtungslager im Spiegel deutschen Strafprozesse)』の中で、これらの裁判およびベウゼッツ、ソビボル、ヘウムノの収容所関係者裁判の文書資料を整理・公表している。この本には、判決文からの長いテキストが引用されている。ミュンヘンの現代史研究所長ブロシャートは、リュッケルルの本への序文の中で、次のように述べている[479]。
「ドイツ連邦共和国では50年代末にこの分野での広範囲な検察・司法的調査が行なわれていたが、その重要性については、その判決文の一部を引用するだけでは推し量ることはできない。とりわけ、ユダヤ人の大量殺戮をあつかった調査と公判については、…犯罪の全体像を体系的に解明した点で、犯罪訴追の地平をかなり越えた公的・歴史学的妥当性を持っていた。『ユダヤ人問題の最終解決』なる事実はナチス・ドイツ時代を扱った歴史書や教科書ほぼすべてに記載されているけれども、この恐ろしい事件の個々の様相については、文書資料にもとづいて体系的に記述されることが、これまでほとんどなかった。第三帝国の政府部局が組織的に隠匿したこと、作戦終了後に痕跡が消し去られたこと、とくに、占領下のポーランドでの大規模絶滅収容所は注意深く隠蔽されていたことにより、事件を正確に再現することは、不可能かそれに近いものになっていた。その出発点がかならずしも好都合なものではなかったにもかかわらず、長年にわたる労苦にもとづいた司法的調査は、終に、事件とその関連性をかなり明確なものにするにいたった。」
まず、ブロシャートは、「占領下のポーランドでの大規模絶滅収容所は注意深く隠蔽されていた」と主張しているが、これは、まったく馬鹿げた主張であると強調しておかなくてはならない。アウシュヴィッツは、民間人労働者のにぎわう工業地帯に位置し、囚人たちは彼らとたえず接触していた。マイダネクはルブリン市と隣接しており、市の端にある家の住民は収容所をのぞきこむことができた。トレブリンカでは、農家の農場が収容所のフェンスと隣接しており、囚人たちが述べているように、囚人と民間人との活発な取引が行なわれており[480]、収容所の情報はたえず外部世界に流出していた。
次に、ブロシャートが強調している、裁判の「歴史学的妥当性」という問題を検証しておこう。彼は、「この恐ろしい事件の個々の様相については、文書資料にもとづいて体系的に記述されることが、これまでほとんどなかった」が、「長年にわたる労苦にもとづいた司法的調査は、終に、事件とその関連性をかなり明確なものにするにいたった」と述べているが、このことは、歴史学はその当時までトレブリンカその他の「純粋絶滅収容所」の事件を調査してこなかったこと、そして、この課題を司法当局に委ねてきたことを意味している。
歴史を書くことは判事の仕事ではありえない。判事の仕事は、被告の有罪・無罪を裁定することである。それゆえ、判事の仕事は、歴史家の仕事とは本質的に異なっている。
しかし、「ホロコースト文献」を研究すると、かなりの程度裁判所の判決に依拠していることにすぐ気がつくはずである。例えば、ヒルバーグは、その三巻本の「標準的著作」『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の中の『絶滅センター』という章の中で、リュッケルルの『ドイツの刑事裁判を通して見た民族社会主義者の絶滅収容所(NS-Vernichtungslager im Spiegel deutschen Strafprozesse)』を少なくとも41回引用している[481]。西ドイツで行なわれた数多くの「ナチス犯罪」はこうした状況の下で進められたが、その実際の目的は、きわめて明瞭であった。すなわち、歴史学は文書資料と物的痕跡の欠如のために、今日にいたるまで、ガス室における数百万の殺戮の証拠を提出することができなかったが、この裁判は、目撃証言と「実行犯」の自白にもとづいた証拠を、殺戮の証拠として遡及的に確定しようとしたのである。そして、ヒルバーグたちは、自分たちが「ホロコースト」を記述するにあたって、殺戮の証拠としてこの裁判の判決をあげることができるようになったのである。
こうした裁判は際立った政治的重要性を持っていたために、免訴か減刑を望んでいた旧SS隊員の被告たちは、起訴状に描かれているような強制収容所のイメージ自体を争点とするのではなく、自分の関与を否定するか、証人がその関与について証言している場合には、命令にしたがっただけであると主張する道を選択せざるをえなかったであろう。リュッケルルは25頁で、被告たちは「当該収容所で工業的規模で行なわれたユダヤ人男性・女性、子供たちの殺戮に関与したことを例外なく認めた」と述べているが[482]、そのとおりであったとしても、それは、被告たちの便宜上の戦術であったと説明しうる。もし、被告がそのように振舞わなければ、「頑迷なる否認」と解釈され、厳しい判決となってしまうであろうし、一方、起訴状のシナリオどおりに振舞えば、どんなに起訴状の内容が厳しいものであっても、減刑を期待できるからである。
こうした事例は、リュッケルルのあげているケースからも明らかである。戦時中はベウゼッツに勤務して、1965年にミュンヘンで裁判にかけられたSS准尉ヨーゼフ・オベルハウザーのケースである。裁判はわずか4日間であった。彼は、その裁判で、30万人の集団的殺戮を助けた咎で有罪とみなされたが、4年半の懲役という信じられないほどの寛容な刑を受けたにすぎなかった[483]。
「公判では、オベルハウザーはまったく陳述を拒んだ。彼は、命令に服従する必要性だけに触れた。」
彼は、ベウゼッツでのユダヤ人の絶滅については反論しなかった。そして、またもや、西ドイツの司法当局は、被告が大量殺戮をまったく否定しなかったと誇らしげに指摘することができた。リュッケルルによると[484]、オベルハウザーは1960年に拘置所に収容されており、そのことが1965年には刑期を終えているとみなされたためか、判決直後に釈放された。もしも、彼が「犯罪」を「頑迷に否認」していれば、おそらく終身刑となったことであろう[485]。
西ドイツの司法当局がこれらの裁判で唯一の立証の土台とした目撃証言と被告人の自白は、起訴状の内容が確証されるにあたって、「信憑性のあるもの」と受け入れられた。歴史家ヘルムート・クラウスニクは、収容所の犠牲者の数を70万人としていたが。彼の「専門家報告」に関して、最初のトレブリンカ裁判の判決は次のように述べている[486]。
「当法廷は専門家の意見にしたがうのにまったく躊躇しない。彼は、民族社会主義者によるユダヤ人迫害に関する研究で有名な研究者であり、その専門家報告は詳細かつ徹底的で、説得力に富んでいるからである。その上、何名かの被告人、とりわけ、優れた記憶力に恵まれた被告人Sも、犠牲者の数を50万人以上と見積もっているからである。被告人Sは、死体の壕を開いたときの様子を証言しているが、その特徴的な証言からも、トレブリンカが稼働していた規模を理解することができる。彼の証言によると、1943年初頭、彼が上部収容所で働いていたときに、死体が焼却されることになったので、1つの大きな死体壕が稼働していた[487]。このとき、彼の同僚であった死の収容所長代理Pは、1つの死体壕だけで80000体を収容していると説明してくれたという。死体壕は7つあり、絶滅作戦は1943年初頭に終わったわけではないので、Sの証言は、最低70万人が殺されたと見積もっている専門家の意見を確証している。」
この司法当局は、少なくとも70万人の殺人事件を扱う裁判の中で、犯罪現場の調査を提案するのでもなく、また、大量埋葬地の規模と場所を確定するための合同発掘作業をポーランド当局に提案するのでもなく、「Sの同僚が…説明してくれた」という噂や伝聞に依拠しているのである。一体どういうことなのであろうか。
デュッセルドルフの判事たちの精神的能力が如何に乏しいものであったのかについては、次のような判決文からも明らかである。
「コンクリートの土台の上にある硬い煉瓦造りの建物には、4×4m、高さ2.6mほどの3つのガス室があった。
作戦開始直後に、古いガス室棟の容積では、毎日到着するユダヤ人の移送集団を絶滅するには不足であることがわかった。このために、1942年8月末/9月初頭に、新しいガス室棟の建設が始まった。そこには、もっと大きなガス室があり、1月の建設作業ののちに稼働することができるようになった。…新しいガス室は古い建物のガス室の約2倍の容積を持っていた点では全員が一致している。新しいガス室は、長さ8m、幅4m、高さ2mほどであったろう。[203f頁]どれほどの人数が、1回のガス処刑で収容されたかについては、公判審理では明確にはされていない。…すべての[情報]にしたがえば、古い建物では、ガス室あたり200−300名ほど、新しい建物では、ガス室あたり400−700名ほどといいうるであろう。」(226頁)
だから、この「立派な」法律家たちによれば、古いガス室でも新しいガス室でも、1uあたり何と22名までの人間が押し込まれたことになる。
ドイツ人とウクライナ人看守の数については、判決はこう述べている[488]。
「大量絶滅の円滑な実行に責任をおったトレブリンカ収容所スタッフは、35−40名ほどのドイツ人から構成されていた。彼らは武装SSのカーキ色の制服を着ており、その階級は低くてもSS曹長であった。ドイツ人収容所スタッフ以外に、90−120名のウクライナ人志願補助兵がいた。彼らは、看守業務を遂行しなくてはならなかったが、それ以外に、殺戮作戦にもかなりの程度従事した。」
デュッセルドルフ裁判によると、この40名のドイツ人と120名のユダヤ人に加えて、1000名までのユダヤ人作業員[489]、到着する数千名のユダヤ人がいた。
「ユダヤ人作業員の数はたえず変化していたが、平均すると500名から1000名のあいだであった。彼らの宿舎は非常に粗末なものであった。」
この1000名までのユダヤ人作業員は、ドイツ人とウクライナ人が、ユダヤ教徒たちを毎日毎日ガス室に追いやっているのを見聞しているだけではなく、自分たち自身が死の淵にいることをたえず自覚していなくてはならなかったという[490]。
「ユダヤ人たちは、悪罵や鞭打ちによって、急いで仕事をするように強制された。…毎日毎日、ちょっとした理由で、もしくはまったく理由もなく、双方の収容所区画にいたユダヤ人作業員は、悪罵され、侮辱され、殺され、射殺された。監督官の考えでは、仕事が遅いとか、不注意であるとの理由だけでユダヤ人は処罰されうる。彼らは鞭打たれて瀕死状態となり、そのあと診療所で射殺された。」
しかしながら、ユダヤ人作業員たちが、自分たちよりはるかに少ない拷問人や殺人者に反抗することは(少なくとも1943年8月2日まで)は、まったくなかったというのである。
判決は、到着した犠牲者を欺く手段についてこう述べている[491]。
「トレブリンカはさらに東方に移住するための通過ステーションにすぎないという印象を移送者に与えるために、プラットフォームやその近くにドイツ語とポーランド語の大きな標語が書かれていた。『ワルシャワのユダヤ人諸君!君たちは通過収容所にいる。そこからさらに労働収容所に移送される。…身体の清潔を保つために、到着した者は全員が、さらに移送される前に入浴しなくてはならない』というのであった。
さらに――少なくとも大量殺戮の最初の時期には――、ドイツ人の収容所スタッフが、駅の周りに集められた人々に向かって、この標語と同じ内容のことを説明していた。」
上記の判決文の1頁前に、リュッケルルは、ユダヤ人証人「Str.」の証言を引用している[492]。
「私は、トレブリンカでドアが開けられたときに恐ろしい混乱が起こったのを覚えている。ドイツ人とウクライナ人が『降りろ』と叫んでいた。いわゆる赤いユダヤ人作業班員でさえも叫んでいた。到着した人々も叫び、不満を言いはじめた。私たちは鞭で殴られました。それから、『男性は右側、女性は左側に行って、服を脱ぐように』と命じられました。」
当然のことながら、こうした状況下では、2000名ほどのユダヤ人が到着するたびに、パニックが起こり[493]、35−40名のドイツ人、90−120名のウクライナ人だけでは、ユダヤ人たちが四方八方に逃げ出していくのを阻止できなかったにちがいない。SSによる詐術もまったく功を奏しないであろう。また、500−1000名のユダヤ人作業員は、自分たちの同胞に対して、まったく警告を発していないのはなぜなのであろうか。
ユダヤ人やポーランド人による虐殺妄想物語はまったく馬鹿げたものであるが、デュッセルドルフの判事たちもその妄想物語を忠実にオウム返ししている[494]。
「収容所が作戦を始めてから最初の数週間、ガス室の犠牲者の叫び声を聞こえなくするために、水をホースで流しているかたわらで、オーケストラがオペレッタの曲を演奏していた。」
普通の殺人事件の裁判にあっては、犯罪で使われた凶器の分析が専門家報告の中心となるし、死体がない場合には、犯行現場を明確にすることが重要となる。だから、先入観を抱いていない人物であれば、西ドイツの司法当局は、証人が証言しているところの大量ガス処刑と大量焼却が技術的に可能かどうかを知るために、ディーゼル・エンジンの専門家や焼却の専門家の意見を求めたと考えるであろう。しかし、デュッセルドルフの判事たちが、専門家証人として引き出してきたのは、何と犬の精神科医なのであった。最初のトレブリンカ裁判の判決文にはこうある[495]。
「1942年末か1943年初頭、犬のバリイがトレブリンカ絶滅収容所につれてこられた。この犬は、黒と白のぶちで、子牛ほどの大きさの雑種犬であり、セントバーナード犬のような特徴を強くもっていた。収容所では、この犬は被告人フランツに同行し、彼のことを主人と考えていた。
フランツは、上部収容所・下部収容所を巡察するときには、バリイをつれていることが多かった。彼は、囚人に犬をけしかけては喜んでいた。…バリイは、見境なく、目的の人物に噛み付いた。バリイは子牛ほどの大きさで、小さな犬とは異なって、その肩は普通の人間のお尻、お腹にまで達していたので、人のお尻やお腹にしばしば噛み付いた。男性囚人の性器に噛み付いたこともあり、その一部を噛み切ったことも多かった。…被告人フランツがいないときには、バリイは彼の影響下になく、同じ犬とは思えないほどであった。そのときには、バリイをペットとしてかわいがり、あやすことさえもできた。…
バリイがあるときには立ちの悪い野獣となり、あるときにはおとなしく、遊び好きなペットであったという問題に関して、当法廷は、ゼーヴィーゼン/上部バイエルンのマックス・プランク行動研究所長で国際的にも有名なL教授・博士の宣誓証言を求めた。L教授・博士は、その説得力ある専門家報告の中で、とくにこう述べている。『法廷が見せてくれたバリイの写真から、バリイは純粋なセントバーナード犬ではなく、その特徴を強くもっている雑種犬であることがわかる。雑種犬は純粋種よりもはるかに感受性が豊かである。雑種犬が主人に同行し、いわゆる犬と囚人の絆で結ばれると、自分の主人の意図を推し量ることができるようになる。すなわち、その犬は主人の潜在意識を反映するようになる。これはとくに雑種犬にあてはまる。』したがって、L教授・博士の説得力のある説明を聞けば、バリイが、フランツからユダヤ人を攻撃するようにそそのかされたときには危険な野獣となり、フランツがいないときには、囚人に対して穏やかで、無害な存在となることにはまったく矛盾がないのである。」
リュッケルルは、この「聡明な」分析について次のようにコメントしている[496]。
「この一文は、判事たちが、犯罪の詳細を裁定するにあたって、如何に多くの配慮をしていたかを明らかにしている。」
ドイツの諺に次のようなものがある。
「たとえ神であっても、愚行に立ち向かうのはまったくの無駄であるのだ。」
3. イェルサレムでのデムヤンユク裁判
1988年4月25日、2年前に合衆国からイスラエルに送還されていたウクライナ人ジョン(イヴァン)・デムヤンユクが、イェルサレムで絞首刑の判決を受けた。判事Dov Levin、 Zvi A. Tal、Dalia Dornerからなる法廷は、数十万名の殺害の咎で彼を有罪とした。判決文によると、彼は、トレブリンカのガス室を操作した「イヴァン雷帝」と呼ばれたサディスティックなウクライナ人であった。それだけではなかった。イスラエルの判事によると、デムヤンユクは、ユダヤ人をガス処刑するだけでは満足せず、前もって、きわめて残酷なやり方で、犠牲者の多くを拷問にかけたというのである。判決の中で、イェルサレムの法廷は、裁判中に拷問人デムヤンユクの「身元確認」をしたトレブリンカの囚人Pichas Epsteinの次のような証言を引用している[497]。
「私は、非常に大柄で強壮なこの人物を目撃しました。彼はモーターを操作しており、何らかの動作を行なって、モーターを作動させるために、何かを押していました。そのあと、私たちは、20分から30分待ちました。すると、ドアを開けるように命じられました。非常に幅の広いドアで、その中から死体を取り出さなくてはならなかったのです。イヴァンはこの部屋から出てきて、パイプで私たちをひどく殴りつけました。短剣や銃剣を持ってきて、頭蓋骨を砕き、耳を切り落としたこともあります。彼は囚人たちを虐待しましたが、それは信じがたいほどでした。死体のそばに立って、それをながめていました。尊敬すべき法廷の皆さん、部屋から死体が取り出されたとき、死体をながめるのは恐ろしいことでした。顔の押しつぶされた死体、刺し傷のある死体、腹部に刺し傷のある妊娠した女性の死体、胸に刺し傷のある若い女性の死体、目の飛び出した死体なのです。…彼は死体の傍らに立って、自分の所業、すなわち、少女の刺殺、目玉を引っこ抜いたこと、少女の胸を切り落としたことをながめていました。…彼はその光景を楽しんでいるかのように、その場に立っていました。…彼はいつも、私の近く、数m離れたところに立っていました。…彼は囚人を虐待し、鼻を切り落とし、頭に怪我を負わせました。…ほぼ100万人が殺されました。子供、老人、幼児もです。…彼らはユダヤ人だったからです。このイヴァンなる人物は、地球外の惑星から来たモンスターでした。」
やはりデムヤンユクをトレブリンカの悪魔と確認した証人Eliyahu Rosenbergの証言は、イェルサレムの判決では次のようにまとめられている[498]。
「私は、とくに、絶滅に向かうユダヤ人移送集団が到着するたびに、毎日、降車場のところで彼を目撃しました。また、ガス室のとなり、廊下への入り口のところに、小さな鉄パイプや鞭といった武器を持ってたっているのを目撃しました。彼のベルトにはピストルがつるさがっていました。これだけではありません。すべての武器を持っていました。短剣をもっているのも目撃しましたし、そのような武器を使って、入り口にいた犠牲者をガス室に追い立てていくのも目撃しました。…彼らは殴りつける方法を知っていました。私たちはその場にいて、殴られるのに慣れていました。しかし、拷問には慣れていませんでした。神よ、なぜ拷問にかけられるのでしょうか、なぜ人々から肉を切り離すのでしょうか。誰もそのようなことを命じませんでした。彼は自分自身の意図で、それを行なったのです。そのようにせよとの命令をドイツ人が発したことを耳にしたことはありませんでした。…
私は降車場にいました。私たちがガス室から死体を取り除いたとき、イヴァンが自分の部屋から出てきて、私が死体でいっぱいの場所にいるのを見ると、ズボンを下げて、死体の上に横たわるように命じました。…レフター(ドイツ人SS隊員の一人)もそこに立っていました。私は彼のもとに走りよって、(ドイツ語で)、イヴァンは私に死んだ女性と性行為を持たせようとしていると告げ口しました。すると、レフターはイヴァンのところにいって、叱りつけました。…」
もう一人の証人Yehiel Reichmannの証言は、イェルサレムの判決によると、こうである[499]。
「私は、友人のフィンケルシュタインに何が起こったのかをお話したいと思います。私がフィンケルシュタインと一緒に歯を磨いていたとき、この悪魔イヴァンが、穴を開けるドリルを持ってやってきました。そして、このドリルを使って、フィンケルシュタインのお尻に穴を開けましたが、そのとき、もし声を上げたならば、射殺すると彼に伝えました。…フィンケルシュタインはひどい苦痛を経験していましたが、イヴァンが『もし声を上げたならば、射殺する』と警告していたので、叫び声をあげることも許されませんでした。…イヴァンはトレブリンカのスーパー悪魔、スーパー絶滅者でした。」
以上からもわかるように、裁判での目撃証言は、その最初から、全世界の前に、とくにイスラエル住民に、戦後40年以上も経ってもう一度、「ホロコースト」の恐怖を思い起こさせることを目的としたものであった。この裁判はもともとサッカースタジアムで行なわれる予定であったが、そんなことを行なえば、この裁判が見世物裁判であることがいっそう明らかになってしまうので、サッカースタジアムを使うことは断念され、その代わりに、映画館が法廷として選ばれた。イスラエルのマスメディアはヒステリーの炎をかきたて、学校では、この裁判のことを話題にしなくてはならなかった。しかし、事態は、当初の計画とはまったく別の方向に進んだ。この裁判は、イスラエル国家とその司法当局の大失態となったのである。
デムヤンユク裁判については、2つの重要著作がある。詳細な文書資料にもとづいたハンス・ペーター・ルルマン(Hans Peter Rullmann)の『デムヤンユク事件:無実か大量殺人者か(Der Fall Demjanjuk. Unschuldiger oder Massenmörder?)』(1987年)とヨラム・シェフテル(Yoram Sheftel)の『イヴァン雷帝を弁護する:ジョン・デムヤンユクを有罪にする陰謀(Defending "Ivan the Terrible." The Conspiracy to Convict John Demjanjuk)』である[500]。ルルマンは、ドイツの左翼紙『デア・シュピーゲル』のユーゴ特派員、ドイツ・クロアチア協会議長であるが、彼は、デムヤンユク裁判(本書が刊行されたときにはまだ進行中であった)にいたるまでの初期の歴史に光をあてているだけではなく、その背景、とくに、ユダヤ人とウクライナ人とのあいだの緊張関係にも踏み込んでいる。また、トレブリンカについてのホロコースト正史の正確さにもたびたび疑問を呈している。他方、イスラエルの弁護人シェフテルは、デムヤンユクの弁護人を勤めていたが、彼自身が認めているように熱心なシオニストである。彼は、無条件にホロコースト正史を受け入れており、デムヤンユクは陰謀の犠牲者であって、無罪であると主張したにすぎない。このシェフテルの尽力によって、イスラエルの控訴審は死刑判決を破棄し、デムヤンユクは無実のまま7年間獄中ですごしたのちに、合衆国に戻ることができた。
デムヤンユク事件に関する以下の記述については、1987年初頭までは、同年に出版されたルルマンの文書資料に、そのあとの時期はシェフテルの著作に依拠している。
1920年ウクライナに生まれたイヴァン・デムヤンユクは、1942年に赤軍兵士としてドイツ軍捕虜となった。最初、鉄道修復に雇われていたが、その後、1944年初頭まで東ポーランドのヘウム捕虜収容所にやってきた。そして、収容所での空腹を逃れるために、ドイツ側に寝返って、補助志願兵となり、ドイツ国防軍とともにソ連と戦っていたシャンドルク将軍指揮下のウクライナ国民軍に配属された。1945年、彼の同僚の多くはイギリスによってボリシェヴィキに引き渡され、収容所群島に搬送されたが、デムヤンユクはその運命を逃れた。当初数年間、ドイツで暮らし、ウクライナ人女性と結婚したのちに、1952年、合衆国に移住した。合衆国では自動車工として生活し、1958年に市民権を得ている。
デムヤンユクが、オハイオ州クリーブランドの新居のあるウクライナ人共同体で活発に活動していたことが彼に災いをもたらした。共産主義者新聞『ウクラニアン・ニュース』の編集スタッフであったミハエル・ハヌシャク(Michael Hanusiak)は次々に記事を発表し、祖国の独立を支持していた反共ウクライナ人亡命者を「ナチスの協力者」と中傷し、このような悪党が70名ほどクリーブランドに住んでいると告発した。1975年、デムヤンユクは『ウクラニアン・ニュース』の糾弾の対象となった。ハヌシャクは、ソ連の文書館で、イヴァン・デムヤンユクが1943年3月にソビボルにいたことを知るようになったというダニルチェンコなる人物の証言を発見したと主張した。すなわち、ダニルチェンコによると、デムヤンユクはドイツ人の処刑補助者として、ユダヤ人囚人をガス室に追い立てた、同年春、ダニルチェンコとともにフロッセンビュルク強制収容所に派遣され、看守として雇われていたというのである。
自動車工に対する獲物の駆り出しが始まった。クリーブランドの新聞Plain Dealerは彼のことを「イヴァン雷帝」と呼び、合衆国移民局は1976年から、彼に関する情報を集めはじめた。移民局は、彼の犯罪を立証してくれるソビボルの囚人を探すように、世界ユダヤ人会議に要請した。彼を告発するような証人はまったく存在しなかったし、ダニルチェンコ自身もミステリアスで、跡形もなく姿を消していた。合衆国調査グループは証人を求めてイスラエルに渡り、7名のトレブリンカ囚人が写真にもとづいて、デムヤンユクが悪名高いトレブリンカのイヴァンであると「確認」した。ダニルチェンコによると、このウクライナ人はトレブリンカではなくソビボルとフロッセンビュルクにいたのであるから、こうした証言自体がすでにダニルチェンコの話とは矛盾していた。
モスクワの指導する『ウクラニアン・ニュース』は犯罪を明らかにするファキシミリ「文書」を公表したが、それも、7名のイスラエル人証人の証言とはまったく矛盾していた。この「文書」は、多くのウクライナ人が戦時中に強制収容所の監督としての訓練を受けていたトラヴニキ訓練収容所からのデムヤンユクのIDカードであった。このIDカードによると、デムヤンユクは1943年3月27日にソビボルに派遣されたことになっており、トレブリンカについては記録していない。この文書はまったくの粗雑な偽造文書であった。発効日も失効日の記載もない。(1987年中頃、この文書は合衆国のマクローン研究所で、化学的な分析にかけられた。それによると、写真からは酸化チタンが検出されたが、それは1960年代末になってはじめて、モノクロ写真用の化学成分として使われはじめたものであった。[501])イスラエルの司法当局がこの「オリジナル文書」をソ連から入手したのは、デムヤンユクの送還の2ヵ月後、1986年末であった。
合衆国移民局はこのファキシミリのかたちのIDカードだけに頼っており、トレブリンカにデムヤンユクが実在した証拠をまったく持っていなかったにもかかわらず、この文書を決定的なものとみなした。デムヤンユクは合衆国市民権を剥奪され、憲法の諸原則を踏みにじって、1986年2月に、トレブリンカの「大量殺戮」の時点ではまだ存在していなかった国家イスラエルに送還された。醜悪なこの憲法違反に大きな役割を果たしたのは、「ナチ・ハンター局」OSIであった。それは、カーター大統領のもとに設立され、長年にわたって、ユダヤ人のネイル・シェル(Neil Sher)が指導してきた組織であるが、偽証や偽造文書を使って、ドイツ系や東ヨーロッパ系の無実の老人から合衆国市民権を剥奪し、彼らを訴追する国に移送するか、送還の準備を整えてきた[502]。
その1年後、イェルサレム裁判がはじまり、1942/43年にこの収容所で被告を目撃したとする5名のトレブリンカ囚人が、信じられないようなホラー物語を絶叫した。不可解な証言の一つは、囚人Eliyahu Rosenbergの証言である。彼は1947年にウィーンで次のように証言しているからである[503]。
「1943年8月2日が反乱の開始日となった。…午後3時半、反乱の準備がすべて整った。…水の運搬人の一人がバラックに駆け込んで、『ベルリンで革命』と叫んだ。これが合図だった。何名かがウクライナ人看守のバラックに突入した。その中で、ウクライナ人イヴァンも寝ていた。そして、彼らは、シャベルでウクライナ人を殺した。」
だが、ローゼンベルクは裁判では、聞いたことを繰り返しているにすぎず、自分自身ではイヴァンの死を見てはいないと言い訳した。
1988年4月、イェルサレム裁判は予想通りに死刑を宣告したが、執行されなかった。すでにこのときまでに、多くの不可解な出来事が起こっており、弁護人シェフテル(彼は、1988年末に犯罪人から顔に酸をかけられており、デムヤンユクの弁護人ドフ・エイタンは、その数日前にホテルの高い階から投げ落とされて死んでいた)は、この不可解な出来事を十分利用して、控訴審を請求していた。さらに、シェフテルは、イヴァン・マルチェンコ――跡形なく姿を消している――が実際のイヴァン雷帝であると指摘していた。
この名前を最初に口にしたのは、トレブリンカ村で生活していた売春婦であった。彼女は、戦時中に、この収容所からの何名ものウクライナ人看守がお客としてやってきて、その中に、イヴァン・マルチェンコもいたと述べていた。その直後に、シェフテルはソ連でさらなる「証拠」を発見した。ソ連の裁判資料によると、トレブリンカでの犯罪の咎で死刑判決を受け、1952年に銃殺されていたニコライ・シェライェフなるウクライナ人は、トレブリンカのガス室の操作人イヴァン・マルチェンコであった。シェライェフの証言は、何名かのトレブリンカの看守によって確証され、トラヴニキからのマルチェンコ個人のIDカードも発見された。
イスラエルの司法当局は、5名の目撃証言の宣誓証言があったにもかかわらず、デムヤンユクが「イヴァン雷帝」ではないことを歯ぎしりして認めざるをえなかったが、最初は、デムヤンユクをソビボルとフロッセンビュルクでの犯罪で告発しようとした。しかし、このような犯罪の証人がまったくいなかった。イスラエルとアメリカの送還協定によると、彼の送還はトレブリンカでの虐殺にだけもとづいているので、この2つの収容所での行為に関して、デムヤンユクを裁くことは許されなかった。このために、デムヤンユクは1993年9月に、合衆国に帰還することができた。だが、今日にいたるまで、この無実の人物は、恥ずべき不正を被った保証として、1ドルたりとも受けとっていない。それどころか、今度は、ソビボル、マイダネク、フロッセンビュルク収容所に勤務していた咎で、新しい訴追が2002年2月に始まっている[504]。
多くの神話がそうであるように、「イヴァン雷帝」神話にも真実の核があるのかもしれない。おそらく、トレブリンカには、囚人たちに恐れられた、イヴァン何がしと呼ばれた残酷なウクライナ人看守がいたのであろう。それ以外のことはまったくの空想である。
5名のユダヤ人「目撃証人」すべてがまったくの嘘つき、詐欺師であることが証明されてしまったデムヤンユク裁判は、このような証人の信憑性に対する決定的な打撃となった。事実、これ以降、「ガス室証人」は一人として法廷に姿を現そうとはしていない。
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[476] "The Men who whitewash Hitler," New
Statesman,
[477] セレニイに対するバッツの回答はNew Statesmanには掲載されなかった。そのテキストは、1982年の歴史評論研究所大会でバッツが行なった講演に中にある。それは、「ホロコースト論争のコンテキストと展望」と題する論文にまとめられており、A. R. Butz, op. cit. (note
109), pp. 379-407, here p. 382.にも掲載されている。
[478] 潔白を主張し続けたクルト・フランツは、1976年1月3日の書簡の中で、収容所長であったことを強く否定している。「私はトレブリンカでは武装SS曹長として勤務しており、看守部隊と収容所看守要員だけに責任をおっていた。曹長とは工兵軍曹であり、将校ではない」と述べている。この書簡は no. 44 of the Historische
Tatsachen (note 105) on p. 23.に掲載されている。300139名の殺害に関与した咎で告発されていたクルト・フランツは、1959年までその名前で、デュッセルドルフで暮らしていた。(A.
[479]
[480] 「はじめに」を参照。
[481] この点に関しては、Jürgen Graf, op. cit. (note 277), p. 110.を参照。
[482] 1964/1965年裁判の主要被告クルト・フランツは、自分の罪をすべて否認しているので、彼の場合には、リュッケルルの主張はあてはまらない。
[483]
[484] Ibid., p. 45.
[485] フランクフルトのアウシュヴィッツ裁判(1963−1965年)では、被告のロベルト・ムルカは、起訴状に述べられているとおりのユダヤ人絶滅像を認めることで減刑を勝ち取っているが、この事例は、ナチス犯罪裁判の多くの被告たちが、うまくやった戦術の一例である。ムルカは恐ろしい事件の責任を問われていたので、懲役14年の刑では不足であるとの異論が多く出されていた。にもかかわらず、何と4ヵ月後に、ムルカは難なく釈放されているのである。G. Reitlinger, op. cit., (note 181), p. 551.
[486]
[487] 同じ判決文には、死体の焼却は「1943年春に」始まったとある(205頁)。
[488] Ibid., pp. 206f.
[489] Ibid., p. 212.
[490] Ibid., p. 214.
[491] Ibid., p. 219.
[492] Ibid., p. 218.
[493] Of the 50 to 60 railway cars, which each of the freight trains used in the deportations had, 20 at a time are supposed to have been unloaded, while the rest at first remained at the station. (A. Rückerl, NS-Vernichtungslager..., op. cit. (note 62), p. 217.) In one car there were an average of 100 deportees.
[494]
[495] Ibid., pp. 234ff.
[496] Ibid., p. 234.
[497] Criminal Case No. 373/86, State of
[498] Ibid., pp. 184f.
[499] Ibid., p. 186.
[500] Yoram Sheftel, Defending "Ivan
the Terrible." The Conspiracy to convict John Demjanjuk,
[501] Cf. also the analysis by Dieter Lehner, Du sollst nicht falsch Zeugnis geben, Berg without date [1988].
[502] あるケース(マーチン・バルテシュの訴追)を使って、Andrew AllenはOSIというあまり知られていない機関の内実を文書資料にもとづいて明らかにしている。"Die US-Nazijäger vom OSI und der Holocaust-Mythos", Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung, 5(4) (2001), pp. 428-430; English online: "The Office of Special Investigations and the Holocaust Myth," www.codoh.com/trials/triosi.html.
[503] This explanation of
[504] この月、デムヤンユクは合衆国政府の発意で、ふたたび市民権を剥奪された。cf. "In Kürze", Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung, 6(2) (2002), p. 239.