試訳:ロシアにおける歴史的修正主義

ヴォルフガング・シュトラウス

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2004329

 

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Wolfgang Strauss, Revisionism in Russia, The Revisionist, 2003, No.4を試訳したものである。
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

http://www.vho.org/tr/2003/4/4_03.html

 

「ホロコースト」事件についてのロシア人の研究

 ドイツによるノヴゴロト破壊命令は存在しなかった。住民はソ連の爆撃で苦しんだ。ノヴゴロトの教会財産を略奪したのは後退するソ連兵であり、その工芸品はヴォルチョフ川で船とともに沈んだ。世界的に有名なノヴゴロトのモニュメント「1000年のロシア」を破壊から救ったのはドイツ国防軍であった。トルストイのヤースナヤ・ポリャーナは、グーデリアン将軍の命令で、ドイツ戦車集団2の保護下にあった。第49ドイツ山岳狙撃兵団は、1941629日のレンベルクでの反ユダヤ・ポグロムを鎮圧した。スモレンスク地方の住民は、スモレンスクが1941年にドイツ軍に占領されたのち、「粛清」時代に内務人民委員部が射殺した135000名のロシア人が埋められている大量埋葬地を発見した。ソ連軍の砲弾によって損傷を受けたスモレンスク聖堂は、ドイツ占領時代に復旧され、ロシア正教徒に開放された。1944年にドイツ軍の大後退が始まったとき、地元の住民は、ドイツ軍当局のすすめで、撤退するドイツ占領軍と合流して後退した。

 以上のようなことが、ロシアの歴史的修正主義に関する最新の著作The Great Civil War 1941-1945 Moscow 2002, 642 pages, ISBN 5 941 38015 1に掲載されている。この著作はコムソモールの指導者であったイーゴリ・ディヤコフが出版した論文集であり、その中には、1941622日の予防戦争についての論文も含まれており、そこではドイツ側の資料も引用されている。これ以外にも、ロシアの出版界では、新しい著作が出版されており、そこでは、予防戦争説についてのタイムリーな議論が展開されている。例えば、ミハイル・メリチュホフの544頁にもおよぶ Stalins Missed Chances. The Soviet Union in the Fight for Europe 1939-1941がある。出版したのは、有名な民族自由主義的な出版社「ヴェーチェ」である。「バルバロッサ」作戦についての見方は、ドイツとロシアでは異なっている。ドイツでは、現在の体制がこの戦争の原因についての許容しうる見解の範囲を限定しており、そのことが現体制の存在理由となっているのに対して、ロシアでは、The Great Civil War 1941-1945にも見られるように、正反対の事態となっている。すなわち、ロシアでは、歴史家たちが外国のドグマにへつらうことを拒んだとしても、自分の首が落ちるわけではないのである。ディヤコフはこの著作を、「ヨーロッパ文化の敵が始めた戦争の中で命を落としたすべてのロシア軍兵士とドイツ軍兵士」に捧げている。

 

「ロシアでは、これまで知られることのなかった自由が支配している。」

 

 作家レオ・ルービンスタインのこの判断は、とくに政治学・歴史学の出版界にあてはまる。そうでなければ、The Great Civil Warのような著作の出版は考えられないからである。この著作の各章で、連合国のタブー(ディヤコフによると「嘘の歴史の白い点」)が打ち崩されている。ドイツ国防軍によるバービ・ヤールでのキエフ地方のユダヤ人射殺命令は存在しなかった(57頁)。ドイツ軍に対するパルチザン戦士ゾヤ・コスモスデミャンスカヤは、ロシア人農民によって逮捕されて、ドイツ軍に引き渡された。これは、服従と犯罪のあいだのある悲劇的な運命であった。この若いパルチザン女性は、スターリンの命令(「焦土作戦」)にしたがって、ペトリシチェフ地方の農家に放火した。ゾヤはこれらの農民の目の前で絞首刑となった。スターリンの戦争宣伝が、この放火犯から英雄を作り出した(444頁)。200万の住民をかかえたプスコフ地方では、ドイツ軍が入ってきたのちに、小学校では宗教の授業が行なわれるようになった。プスコフ市では、ロシア正教会が少年と成人のための日曜学校を開いた(504頁)。1941622日の時点で、赤軍には530万人がいた。しかし、同年10月までに、この軍隊はもはや存在していなかった。80万ほどが殺され、450万人は、戦うよりも、捕虜となることを選択した。スターリンが「阻止部隊」の設立を命じたのは、開戦わずか数週間後のことであった。映画制作者アレクサンドル・イヴァノフ=スハレフスキイは次のように述べている。

 

「ソ連政府のために誰も戦おうとしなかった。誰も戦争に行こうとはしなかった。ドイツ国防軍が攻撃を始めるやいなや、武器を捨てて、後方に身を隠し、故郷の村に戻っていった。赤軍が崩壊してしまうのを阻止するために、機関銃を装備した阻止部隊が、前線と広報地帯のあいだの区域を封鎖した。それでも逃亡しようとしていた兵士は、前進して、ドイツ軍に投降した。」(450頁)

 

 共著者イヴァノフ=スハレフスキイは次のように述べている。

 

「ドイツ国防軍、すなわち第三帝国の軍隊は、ヨーロッパ文明の歴史の中で、とくに、一人の兵卒の命を尊重する点では最良の軍隊であった。」(437頁)

 

 本書の大半は「ホロコースト」と「ユダヤ人問題」を扱っている。ミハ・シャフィルがEast European Perspectives誌(2002612日号)で述べているように、旧東側陣営の修正主義的著述家と出版者の共通分母は、ホロコーストの「否定」である。

しかし、これはBig Civil Warの著者たちにはあてはまらない。ユダヤ人に対する迫害や虐殺の存在を否定していないからである。しかし、ここでは、「ホロコースト」という概念は別の歴史的意味合いを持っている。すなわち、農民ホロコースト、ウクライナ人ホロコースト、カザーク・ホロコーストというように使われているのである(206f頁)。「カザークの殺戮」、「ウクライナ人の殺戮」、「スラヴ人の殺戮」、「農民の殺戮」が信じがたいほど大規模であったことを知ったとすれば、共産主義者の考え方がその当初から絶滅戦略であり、それゆえホロコースト・ポグロムであったことが理解できるであろう。

戦前と1945年以後のユダヤ人人口の矛盾(438390頁)については、ここでは言及しない。しかし、45頁には「600万人の神話」という文章が登場している。無署名の論文のタイトルは「ホロコーストというトピックスについて」である(8190頁)。

この論文は、「西ヨーロッパ民主主義国は、ドイツ系ユダヤ人大衆を引き受けることを拒否した」と述べている。クルト・ゲルシュタインについてのロシア人のコメントは非常に印象的である。Paris Match誌の主任編集者だったレイモン・カルティエの記事によると、このSSの害虫駆除専門家は、1945年に逮捕されたのちに、100万人を殺害したことを自慢したという(Frankfurter Allgemeine Zeitung 200263日号)。Big Civil Warは、ゲルシュタインは、毒ガスによって2500万人も殺戮したと自白していると述べている。89頁で述べられているように、「ホロコーストというテーマ」は、すべてではないとしても、ゲルシュタインの自己告発にもとづいていたという。また、すべての絶滅収容所が、のちに「共産主義者の支配下」に入った地域に存在したために、犠牲者の数を決定することが難しくなったという。

 

「今日まで、統計学のアクロバットが続いている。…アウシュヴィッツの犠牲者の数は400万人から40万人にまで縮小した。…1945年までに100万人が殺戮されたといわれているヴォルゼク収容所は、ポーランドの地図には見当たらない。」(40頁)

 

 400万人ではなく、「わずか」その10分の1に減らしてしまうことは、すでに否定ではないのだろうか。最近まで、フリツォフ・メイヤーは歴史的修正主義の提唱者ではなかったが、20025月からは変ったようである。学術誌Osteuropa20025月号に、ドイツ最大の報道誌『シュピーゲル』の主任編集者の論文「アウシュヴィッツの犠牲者の数。新しい文書資料の発見からの考察」が掲載された。左翼の編集者にとっては、それは数について、アウシュヴィッツの数についてであった。数の歴史的な出発点は、スターリン主義者の調査委員会であった。この調査は、共産党政治局によって祝福された告発で頂点に達していた。

 

「収容所が存在していた時期に、450万人から500万人が絶滅された。」

 

 この数は、ガス室の能力の見積もりにもとづいており、1945127日に、ユダヤ人囚人医師ゴルドン、シュタインベルク、エプシュタインが、二人のソ連軍将校に語ったとされる陳述にまでさかのぼることができる。

 メイヤーは、ニュルンベルク裁判資料、スターリン時代のソ連国防省の中央文書館の資料を引用している。そして、メイヤーは、ソ連調査報告にある犠牲者の数字が「戦争宣伝の産物」であることを暴露している。とすれば、アウシュヴィッツの嘘ではないのだろうか。メイヤーは次のようにドイツの戦後の歴史家たちを厳しく批判することで、持論を展開している。

 

歴史学では、理解できるが、容認できない理由から、アウシュヴィッツが研究対象としては認められてこなかったために、宣伝がこの未知の分野に侵入してきてしまった。ソ連起源の宣伝、すなわち、アウシュヴィッツでの犠牲者400万人、40万以上のハンガリー人移送者の殺戮、焼却棟の地下室での大量ガス処刑という宣伝が、依然として世論を支配している。」

 

 メイヤーは、焼却棟の能力についての新資料、収容所への移送者資料にもとづいて、アウシュヴィッツの犠牲者の数について、驚くべき結論に達している。

 

50万名がアウシュヴィッツで殺され、そのうち、356000名がガス処刑されたという結論となる。」

 

 メイヤーは、この結果は犯罪の重さを減らしてはいないが、それを「正確なものにしている」と述べている。アウシュヴィッツは、この新しい数によって、「想像できる」ものの範囲内に入ったというのである。

 メイヤーは、自分の「新しい見解」が、「アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の能力」についての、最近発見された「鍵となる資料」にもとづいていることを明らかにしている。メイヤーによると、この「突破」は、カナダ人のアウシュヴィッツ専門家ペルトのおかげであるという。メイヤーは、大量殺戮が4つの焼却棟のガス室で起こったのかどうかという問題については、「否」と明言している。

 

「ビルケナウの焼却棟TとUのガス室は、実験的な段階をのぞいて、ほとんど稼動しなかったし、VとWは、194410月のもっとも恐怖に満ちた時期に稼動しただけであろう。」

 

 資料が示しているように、1943年初夏に焼却棟が完成してからも、オリジナルな計画は、大量の死者を保管するために死体安置室を使用することであった(ここで、メイヤーは、鍵となる用語Vergasungskellerを括弧の中に入れている)。この件について、メイヤーは次のように回答している。

 

「この実験は失敗したにちがいない。換気が効果的ではなかったし、予想された大量の犠牲者が次の11ヶ月にはやって来なかったからである。実際に殺戮が行なわれたのはおもに、収容所の外にある農家を改造した二つの小屋であった。その一つ『白い家』もしくは『ブンカーT』の土台が最近発見されている。」

 

 予備的なガス室としてのポーランド人農家。立証可能な事実なのか、メイヤーのような「蓋然性」なのか、それとも「ミステリー」なのか。メイヤーは、「修正主義者」が「再建された農家」の実在に疑問を抱いていることを認めている(メイヤーは、グラーフについて言及している)。

 ミステリーには終わりがない。メイヤーは、19463月に、焼却棟の時間あたりの能力をドイツ人技師に尋問したとされるソ連第8軍スメルシュ局のシャトゥノフスキイ大尉とモルドシェンコ少佐の名前をあげている。ロシア専門家メイヤーが、戦時中のスターリン恐怖時代にスメルシュが何を意味していたのか知らないはずがない。スメルシュ(「スパイに死を」)は、国防省の傘に隠れて、1941年から1953年に猛威をふるった、スターリン主義者秘密警察のもっとも野蛮な部局であった。ウクライナ人の収容所群島専門家ボリス・レヴィツキイはこう述べている。

 

「スメルシュの役人は、狂信者、変質者、アル中の集まりであり、われわれの眼には、ホラー映画のようであった。」

 

 事実、スメルシュは、エジョフ時代の悪行すべてを上回っていた。探し出し、拷問にかけ、殺害した。スメルシュはどこでもすぐに殺した。スメルシュなしには、メイヤーの批判のいうところの「ソ連の戦時中の宣伝」はなかった。スメルシュがアウシュヴィッツを調査したとき、そのスメルシュは、コルイマ、キンギル、ヴォルクタ、ノルイルスク、カラガンダで赤色ホロコーストを実行していた。これは、世界史上血に塗られた冗談のようなものである。

 共産主義の専門家メイヤーは、ソ連邦国家保安委員会中央文書館ファイル17/919、すなわち、スメルシュ/アウシュヴィッツ事件を引用しているが、こうしたナンセンスなことを知っていたにちがいない。私は、収容所群島の囚人として長く学んできたが、メイヤーは、自分がソ連邦国家保安委員会中央文書館から受け取ったという「鍵となる資料」を隠そうとしているのではないかと思っている。なぜならば、文書館の地下には、アウシュヴィッツについての真実、真っ赤な真実以外の何ものでもない資料が保管(正確には隠匿)されているからである。

 『シュピーゲル』誌は、その記事の作成にあたっては、十分な調査を重ねることを自慢している。だとすると、ロシア語に堪能なメイヤーは、ロシア人のちょっとした助けを借りれば、地下の文書資料にアクセスすることができたはずである。そうした幸運をどうして利用しなかったのであろうか。エリツィン時代に、いわゆるアウシュヴィッツの死亡者記録が公表された。それらはソ連の文書館に保管されており、もちろん、「労働に適した」登録囚人だけではあるが、約69000名の囚人の死亡を確認している。

 

エレンブルクと600万人という数字

 アウシュヴィッツの犠牲者数をめぐる論争は果てしがないが、メイヤーの数字もこれが最後のものとはなりそうもない。アウシュヴィッツ博物館長イェルジ・ヴロブレフスキも、1999年の117日に『シュピーゲル』の編集者に、「選別のあとすぐに絶滅の対象となった犠牲者については、収容所の文書資料がまったく残っていない」と語っているからである。

 メイヤーは、アウシュヴィッツ所長ヘスがイギリス軍によって捕まっているときに提出したとされる数字が嘘であることを明らかにしている。彼は、「自白」が拷問のもとで、「殴打のもとで」引き出されたと述べている。ヘスは、のちに、「アルコールと鞭が私にふるまわれた」と述べている。午前230分、以下の文章に、かなり難儀しながら署名した。「アウシュヴィッツでは、私自身の計算では、3000000名ほどが死亡した。そのうち2500000名がガス処刑されたと思う。」

 エルンスト・ノルテは、メイヤーが「尊敬すべき哲学史家」と評している人物であるが、神話の破壊では定評がある。彼は最近アウシュヴィッツについての著作『Der kausale

Nexus. Über Revisionen und Revisionismen in der Geschichtswissenschaft(因果関係の構成要素:歴史学における修正と修正主義)』(Herbig, Munich 2002)を刊行しており、次のように述べている。

 

「アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスの供述は、ニュルンベルク裁判での弁護側に大打撃を与えたが、それは拷問によって引き出されたものであった。だから、西ヨーロッパの法律手順に従えば、それは法廷では認められないものであった。いわゆるゲルシュタイン文書にも、多くの矛盾と物理的にありえない話が存在しており、やはり、法廷では認められなかったにちがいない。ニュルンベルクでの証人の証言は伝聞や根拠のない憶測にもとづいており、数少ない目撃証言はたがいに矛盾している。それゆえ、信憑性については多くの疑問を呼び起こしている。」

 

 ドイツ国防軍は1943年にカチンの森での虐殺について徹底的に調査している。これとは対照的に、専門家の国際委員会によるアウシュヴィッツの調査は、戦争が終わっても行なわれなかった。それを行なわなかったのは、ソ連とポーランドの共産主義者の過ちである。ノルテはこう述べている。

 

「焼却炉の写真や、『チクロンB。毒ガス』という表示のついたいくつかの写真を公開しても、それらには証拠としての価値はまったくない。焼却棟は、チフスに感染する可能性のある収容所には必需品であり、チクロンBはよく知られている害虫駆除剤である。それは、大量の人々が劣悪な衛生条件のもとで暮らしている場所であれば、不可欠のものであった。」(96頁)

 

 メイヤーは、「ガス室」の実在の立証する一般的な論点に忠実に従っているのだが、ノルテの文章は、この一般的な論点に反駁している。しかし、ノルテは次のように明言している。

 

「毒ガスによる大量絶滅はありえなかったという全体的な結論は許されないものである。」

 

 次に彼は、ガス室調査資料は「乏しく、信頼できないものである」というユダヤ系アメリカ人歴史家アルノ・メイアーの説を引用している。

 驚くべきことに、メイヤーは、軍事史家でヴラーソフの伝記作者ヨアヒム・ホフマンに触れていない。ホフマンは、200228日にフライブルクで他界したが、「600万人という数字」は、ソ連第60軍がアウシュヴィッツを占領する23日前に、エレンブルクによって連合国の宣伝の中に持ち込まれたことを立証した。

 

「下記の文章は、ロンドンのソ連大使館が発行していた週刊誌『ソ連戦争ニュース』19441222日号に登場した。500万人の犠牲者を生み出したとされるアウシュヴィッツ強制収容所が解放される5週間前のことであった。ソ連の指導的宣伝家イリア・エレンブルクは、『忘れるな、忘れるな、忘れるな』との見出しで、記事を書いているが、その中にこの文章が登場している。ここは、きわめて不自然な調子で、以下の記事が含まれていた。

『ドイツ人は、彼らが占領した地域で、老人から子供までを殺戮した。ドイツ軍捕虜に、ドイツ人がなぜ600万人もの無垢の人々を殺戮したのと質問すると、「彼らはユダヤ人だったから」と簡単な答えが返ってきた。』」

 

 エレンブルクのこの記事は、194514日、すなわち、アウシュヴィッツ解放の23日前に、「もう一度、忘れるな」という見出しで再掲載されている(Stalin’s War of Extermination 1941-1945, Theses & Dissertations Press, Capshaw, Al, 2001, p. 189

 政治学者のメイヤー博士がホフマンの著作を読んでいないことなどありえるのであろうか。ホフマンの『スターリンの絶滅戦争19411945年』は8版を重ねており、合衆国においても、第二次世界大戦の原因についての標準的な著作となっており、戦後ソ連史の必読文献となっているので、メイヤーが読んでいないということはありえないであろう。ホフマンは、600万人という数字の起源を繰り返し指摘している。

 

「エレンブルクははじめて、19441222日の『ソ連戦争ニュース』の中で、最初は目立たないかたちで600万人という数字をあげていたのであるが、その後繰り返し、この数字をあげるようになっていった。194514日の同じソ連の宣伝新聞紙上で、ついで、1945315日の『ソ連戦争ニュース』の記事の中で。その記事の見出しは『彼らは狼だったし、今も狼である、そのことは反駁の余地のない事実である』というものであった。」(189f頁)

 

 ホフマンは、エレンブルクについての章を次のようなコメントで締めくくっている。

 

「合計600万人の殺戮の犠牲者という数字は、ステレオタイプ的に繰り返されていった。最初、この数字は、英語国民向けの19441222日の宣伝新聞『ソ連戦争ニュース』に明確に登場した。したがって、アウシュヴィッツの犠牲者600万人という数字は、世論、とくにアングロ・サクソン諸国の思考に影響を与え、この数字をドグマとしようとするソ連の宣伝工作の産物であったという結論となる。『ソ連戦争ニュース』19441222日号、194514日号、1945315日号から判断すると、600万人という数字をソ連の戦争宣伝に持ち込んだのはエレンブルクであることがわかる。そしてこの事実は、この感情的なテーマを学術的に考察するにあたっては、少なからず重要なのである。」(190頁)

 

 もしも、アウシュヴィッツというテーマを真剣に研究していて、ホフマンの研究を無視していたとすれば、研究能力に疑問が生じる。このことは、メイヤーにおおいにあてはまる。

 今日、ロシアの修正主義的歴史家たちは、重要ではあるが、十分な研究がなされてこなかった別のアウシュヴィッツ物語、すなわち、スターリン主義者のユダヤ人迫害と殺戮に、新たな関心を向けている。ここでも、この問題のテーマは数字に始まり数字に終わっている。犠牲者は何名であったのかというのである。ごく最近、ロシア系ユダヤ人雑誌『クルーク』20008月号の記事「新しいホロコーストへの血塗られた序曲」の中に、エレンブルクの虐殺宣伝である『ソ連戦争ニュース』誌1945315日号の「世界はドイツ人が600万人のユダヤ人を殺戮したことを知るようになった」、「彼らは狼であったし、今も狼である」という記事が紹介されている。1952年、スターリンの命令で、ユダヤ人反ファシスト委員会が絶滅された。「彼らはなぜ射殺されたのか」と歴史家アレクサンドル・ボルシチャコフスキイは問題提起した。そして、その回答は、「彼らがユダヤ人であったから」というものであった。これは、ドイツとロシアで出版されたボルシチャコフスキイの示唆に富む著作からの引用である。

 ユダヤ人反ファシスト委員会(JAK)は、スターリン体制が、モスクワの冬の戦闘から生き残ろうとしていた1942年初頭に、活発な活動を展開するようになった。アメリカ資本主義の助けなしでは、敗北し、屈辱的な状況にあったスターリン体制は戦争に勝つことはできなかったであろう。だからこそ、JAKが設立されたのである。委員会の議長は俳優のソロモン・ミホエルス、書記(したがって、ベリアの部下)は作家のイサク・フェファーであった。JAKは合衆国各地を訪れ、出版物やラジオ、ハリウッド、労働組合のソ連シンパから何百万ドルの基金を集めた。その遺産として、知識人の中に第五列を残した。スターリンに対する貴重な貢献にもかかわらずJAKのメンバーはほぼ全員が、戦後に命を失った。19461012日、国家保安省は、JAKの反ソ活動についての報告書をソ連共産党中央委員会に提出した。JAKの活動を秘密裏に調査した結果、ソ連系ユダヤ人の生命に関する報道において、自分たちの貢献を非常に誇張して伝えたが、この報道は外国で、とくにアメリカのメディアに登場したというのである。政治局は、19481120日に、JAKの解散を決定した。国家保安省は、ミホエルスをミンスクで交通事故死させ、その他のJAK執行部フェファー、スースキン、ゴフシュテインは1948年末に逮捕された、スターリンのホロコースト計画が現実味を帯びるようになった。

 1949113日、1930年代の粛清にも関与したスターリンの側近ゲオルギイ・マレンコフは、ソ連戦争宣伝局長で党中央委員のソロモン・ロゾフスキイに出頭を命じた。そして、ロゾフスキイは、ユダヤ人としての犯罪活動に関与したことを自白した。マレンコフは、19442月にロゾフスキイが作成し、ミホエルス、フェファー、エプシュタインも署名したスターリンあての覚書に触れている。その覚書は米ソ同盟の絶頂期に書かれたものであるが、クリミア・タタール人を追放して、ユダヤ人社会主義国家をクリミアに設立することを提案していた。1944年には、国際的なJAKはクリミアの件での成功を確信していたのである。

 ところが、激変が生じた。ソ連共産党中央委員会は、ロゾフスキイの除名を決定し、彼は、1949129日に逮捕された。同月、モスクワのボトキン病院のユダヤ人主任医師シメリオヴィチがルビャンカ監獄に姿を消し、JAKの活動家クヴィトコ、ペレズ、マルヒシュ、ベルゲルソンがそれに続いた。19524月、彼らの調書が最高裁判所軍事委員会に提出された。195258日から718日まで開かれた裁判で、13名の被告は、銃殺刑を宣告された。それ以外の被告は、1025年間の収容所送りの刑となった。党中央委員で、ソ連作家同盟議長のファヂェーエフ(『若き親衛隊』の著者)は、13名の処刑を歓迎する声明を発した。13名のユダヤ人囚人がルビャンカ監獄の地下室で射殺されたときに、「新しいホロコーストが始まった。」ミハイル・ノルトシュテインは、ケルンで発行されている亡命ロシア系ユダヤ人出版物『クルーク』の中で、こう述べている。

 

「この災禍を終わらせたのは、1953年のスターリンの死であった。」

 

パウルス将軍がスターリングラートに戻る

 ドイツ第6軍の最後の司令部は、中央通ZUMの地下室にあった。20027月、ヴォルゴグラート戦争博物館館長と管理局は、兵器・弾薬、軍装、旗、地図、無線、写真をもったドイツの司令部のオリジナルの姿を復元することを決定した。1943年のパウルスの地下室であるが、一体誰のためであるのか。復元を決定した当局は、地下室の「パウルス」が、見学者向けの見世物になるだけではなく、ロシアの青少年に対するメッセージとなることを認めている。旧共産党組織はこの計画に抗議し、歴史的事実を親ファシスト的に偽造するものであると呼んだ。冒涜である非難する人々もいた。モスクワのさまざまな反ファシスト委員会の関係者は、この計画の目的がドイツ軍の理想をロシアの青少年に広めることではないかといぶかった。ベレゾフスキイ、グシンスキイ系列の新聞は、国際的な出版メディアの中に「魅力的なファシズム」という用語を広めた、アメリカ系ユダヤ人スーザン・ゾンタークを引用した。「魅力的なファシズム」という用語は、ソ連解体後のロシアにあてはまるかもしれない。

 ドイツの大義、すなわちドイツ軍と数百万の東ヨーロッパの義勇軍の存在理由を説明する大量の書籍、写真誌、ビデオ、CDが、ロシアの修正主義と機を一にしているからである。2002年春/夏の象徴的な事例を指摘しておこう。

 

    人類進化学者、社会人類学者ハンス・ギュンターのライフワークの刊行

    『ロシア・ファシストの遺言』と題するコンスタンチン・ロダサエフスキイの2巻本(1943年の原題『今日の地球のユダヤ化もしくは20世紀のユダヤ人問題』)の刊行

    イーゴリ・ディヤコフの大著『大内戦19411945年』の刊行

 

ロシアでこうした文献が編集・出版・配布される重要な前提条件は、ロシアにはポリティカル・コレクトネス運動が存在していないことである。スラヴ民族についてのドイツの権威ヴォルフガング・カザックは次のように指摘している。

 

「今日、国家による検閲は存在しない。誰もが、あらゆる種類の世界宗教や哲学についての書物を手に入れることができ、誰もが、どのような考え方であろうと、自分の考え方を表明・執筆・出版できる。以前には、作家たちは、自分の文章が自分や自分の家族を危うくするかどうか考えたり、自分の原稿が編集局や検閲をくぐり抜けることができるかどうかをあらかじめ考えておかなくてはならなかったが、そのようなものは今では存在していない。」(Novalis 1/2 2002

 

 2年前、国際ドキュメンタリーフィルム・フェスティバルのペテルブルクの主催者は、リーフェンシュタールの『意思の勝利』(1934年)を、オリンピック映画『民族の祝典』、『美の祝典』(1936年)とともに上映した。ロシア人観衆は、一分間も立って、拍手喝采した。リーフェンシュタールの映画は、そのあとも上映された。モスクワのごく少数の新聞が、ペテルブルクのリーフェンシュタール・ファンを批判しただけであった。同年6月、モスクワの近くのクラスノゴルスクにあるドイツ軍捕虜の墓が、誰かに冒涜された。モスクワ市役所はこの事件を告発した。一方、スモレンスクで起こったことであるが、若いロシア人愛国者が、ドイツ軍人の墓の開所に尽力した。

 合衆国の反名誉毀損連盟、モスクワの反ファシズム・センター、パリのヴィーゼンタール・センター、ロシア連邦ユダヤ人協会、億万長者のジョージ・ソロのモスクワ「オープン・ソサエティ」が、「過激行為対抗措置」法案を準備した。それは、ロシア国会と連邦会議の議題にのぼった。審議はひと夏続いた。81日、法律は議会を通過した。ギュンターの著作の出版者ヴラヂーミル・アヴデエフは、次のように声明した。

 

「この法はわれわれには適用されない。この著作はすでに各地で購入されており、ロシア人類学研究所もこの出版を歓迎しており、大量に注文している。」

 

 3年前、同じ法案がロシア国会で審議された。共産党議員団は当初から、過激法案に抵抗していた。彼らは、左翼の野党が公的に弾劾され、国家からの抑圧を被ると考えていたからである。議員のヴラヂーミル・ルイシコフは、青少年の過激主義を取り締まるには軍事行動だけで十分であると述べた。この議員団の座長は、このような「スポンジのような文章」を使えば、「田舎の警察官でさえも」、望ましからざる人物や集団を過激主義の咎で告発することができるようになってしまうことに懸念を表明した。もっとも強い反対を表明したのは、人権主義者グループのユダヤ人女性ヴァレリーナ・ノヴォドヴォルスカヤであった。彼女は、院外の反対党「デモソユース(民主同盟)」を率いる、60年代の異論派出身の老人であるが、その彼女によると、「ロシアでは何も変っていない。刑場の足場を築くもの、処刑用の斧をもつ少数の人々がいて、大量の犠牲者の首が存在する」というのである。

 法案の賛同者は、この法案は政党や言論に向けられたものではなく、おもに、「ファシスト・スキンヘッド」に向けられたものであると論じた。ドイツの新聞のモスクワ支局員のケルシュティン・ホルム(『フランクフルター・アレゲマイネ・ツァイトゥング』)とイェンス・ハルトマン(『ヴェルト』)もこれに賛同している。『シュピーゲル』(アメリカの『タイム・マガジン』に匹敵する)のウーヴェ・クルスマンによると、スキンヘッドたちがもっとも愛好している書物が『我が闘争』であり、モスクワのどこででも買うことができる、スキンヘッドは殺人を目的としており、その犠牲者はおもに有色人種であったという(24/2002)。

 ホルム氏は、「富裕な一族」が「ファシストの功績」を広めており、それは、「好戦的で、反知的伝統」のおかげで、人気を博すようになっていると論じている。ホルムは、ファシストのスキンヘッドを支持する「富裕な一族」の存在を示唆しているが、モスクワの司法省が「資本主義の総大将」から賃貸ビルを没収したので、彼女の指摘には信憑性があるかもしれない(ソロについてのホルムの記事)。ソロは文字通り投げ出された。彼は、モスクワの中心にあるグローバル・プロパガンダとネオ・リベラル教育センターを失った。

 ソロの関係者(学生会館、図書館、公開講座を運営している)は、警察・軍部がファシストのスキンヘッドを支持していると論じている。事実、特別民警隊オモンは、さまざまな民族主義的愛国政党と運動の若い労働者と青少年を教育している。内務省武装部隊は、訓練された準軍事組織に大きな関心を抱いており、それは、プーチンのロシアでは秘密ではない。だから、オモンの幹部は、タリン通りにあるオモンの建物で、火曜日と木曜日に、接近戦闘の訓練をほどこしているが、それは、無料で行なわれている。これに対して誰も抗議していない。『モスコフスキエ・コムソモーレツ』紙は、同年51日のこの事件について、詳しい記事を掲載しているからである。

 右翼反対派によると、問題の法律は、共産主義が崩壊してしまったことに対する、マルクス主義的世界市民主義的左翼の復讐である。過激主義者を追及する人々は、歴史的相対化のための戦いの中で、打撃を受けてきた。「魅力的なファシズム」の波が、反ファシズムという思考の枠組みに挑戦しているからである。ラムシュタイン事件はこの現象を象徴している。ドイツのハードロックバンドが、モスクワのマムート・スーパー・ボールで、10万以上の観衆を前にして演奏した。観衆たちは、飛行機で、それこそウラジオストック、イルクーツクといった全国からやって来ていた。公正なロシア人記者は、熱狂した観衆が、地下鉄の駅に、ロシア文字でラムシュタインという単語を落書きしたことを報道している。なぜなのであろうか。

 ドイツの左翼急進派の新聞によると、ラムシュタインは、「ファシスト」的なビデオ・クリップとステージ・パフォーマンスをくりひろげている。『シュピーゲル』によると、ラムシュタインの『魂のロック演奏者』は、民族社会主義的な色彩を持つリーフェンシュタールと同じように、いわゆる「美学的な優越人種」を崇拝しているという。

 

スターリンの戦争努力

 ロシア版の「歴史家論争」にははずみがついている。モスクワ文化フィルム・チャンネルのヴラヂーミル・ドミトリエフは、これまで上映されたことのないドキュメンタリー・フィルムを公開した。それは、まる一晩にわたって、ドイツ国防軍とソ連国民の積極的な協力関係を描いたものであった。また、歴史家のアンドレイ・チェルカッソフは、ドイツの予防奇襲には妥当性があると明言した。驚くべきことに、チェルカッソフはロシア共産党員である。ロシアでは歴史的修正主義者の数は増えているが、チェルカッソフは歴史的修正主義者ではない。しかし、プラヴダのホーム・ページ上での彼の記事は、スターリンは1941622日よりもかなり前に、ドイツに対する侵略戦争を準備していたという修正主義的な主張を受け入れていた。

 『ラジオ・ロシア』放送は、スターリンが国外のスパイの話を信用していなかったので、「バルバロッサ」作戦の開始に驚愕したと報道していたが、ヴォルゴグラートの住民であるチェルカッソフは、この放送内容を厳しく批判した。まったくの嘘であるというのである。チェルカッソフはこう述べている。

 

「すでに1927年に、スターリンは戦争が必然であると述べている。1927年以降、スターリンは、ロシア国家予算の半分を軍事部門に注いできた。たしかに、スターリンは、最終的勝利のために自分の軍隊を準備してきた。開戦のかなり前に、スターリンは自分の息子たちに自分自身に献身するように呼びかけ、間もなく戦争が始まるであろう、お前たちは兵士になるのだと語っている。47日、フランツ・ハルダーは、『ロシアの軍の集結状態を見ると、ロシア軍はいついかなるときでも奇襲を行なうことができると確信せざるをえない』と日記に記している。」(http://pravda.ru/main/2002/06/1142496.html

 

 戦争の原因を探求しているスヴォーロフ、メルチュコフ、ダニーロフ、ソコローフといったロシアの歴史家たちは、この主張に同意している。共産党員のチェルカッソフは、スターリンがドイツへの奇襲を計画していたという説に反対していない。ヴラヂーミル・マルイシェフ(作家)とヴラヂーミル・ドミトリエフ(プロデューサー)は「大祖国戦争」伝説を破壊したが、それは思考の枠組みを打ち壊す、計算された試みだった。ドイツの侵攻ののち、大半の住民は、解放されたと感じ、復讐をめざした。ドイツ軍兵士はウクライナだけではなくバルト諸国でも解放者として歓迎され、歓迎の印としてパンと塩を受け取った。中央ロシアの西側部分でもそうであった。これが、ドキュメンタリー・フィルムの伝えようとしたことであった。本当の敵は、ドイツでも、ドイツ国防軍でも、占領当局でもなく、共産主義体制であった。スターリンの恐怖政治の犠牲者は、ドイツ軍の保護の下で、発掘されたからである。独立系のゴスフィルムフォンドの提供したこのフィルムは、1941年にドイツ軍が解放したリヴォーフの、困惑するような光景を写しており、ドイツ軍兵士が自発的に撮影したものであった。二人のロシア人映画プロデューサーは、リヴォーフでの内務人民委員部の虐殺行為についての正史のことを、「宣伝による嘘」と呼んでいる。

 このフィルムは、59日には定期的に「大祖国戦争」の戦勝を祝している歴史家や政治家の目には、衝撃的に写った。

 ゲーペーウー時代に、スターリンはドストエフスキイの小説を読んで、その本の表紙に、漫画とコメントを記している。歴史家ボリス・イリサロフは、『スターリン:彼の図書と文書からの肖像』の中で、はじめて公表された彼の原稿にコメントしている。スターリンは、赤の広場での公開大量処刑による「ユダヤ人問題の最終解決」を行おうとしていたというのである(142頁)。

 哲学者で歴史家のアレクセイ・カラ=ムルザは、民族的自由主義的改革の提唱者であり、「右派権力同盟」に近い人物であるが、『文学新聞』での論文の中で、スターリンは反ユダヤ主義的であり、ユダヤ人を見下げる性格であったと述べている。スターリンは、ヒトラーと同じように、ユダヤ人を不潔な世界市民主義者と見なしており、ユダヤ人問題を世界から取り除こうとしていたというのである。彼によると、1930年代の大粛清は、国際主義的レーニン主義的ユダヤ人のエリートを絶滅する企てであった。独ソ戦に勝利を収めたのは、スターリンではなく、自分たちの民族的宗教的伝統に回帰したロシア国民であったという。2002123日の『文学新聞』に掲載された彼の記事は、スターリンが史上最大の犯罪人であると述べていたが、よく知られた知識人や著述家の中で、この考え方を疑っているものは誰もいない。

 プーチンの西ヨーロッパ政策に対する批判は存在するものの、ロシアには、ドイツやその他の西ヨーロッパ諸国とは異なり、言論の自由が存在する。議論は禁止されていないし、出版も禁止されていない。歴史的修正主義も弾圧されていない。ロシアのノルテやホフマンたちにも自由が認められており、ホロコーストの「嘘」に対比できるイデオロギー的な「嘘」である収容所群島の嘘を指摘しても犯罪とはならない。ヴォルクタと白海の運河建設、トレブリンカとルビャンカ、ソロヴェツキ、ヴィンニツァ、アウシュヴィッツとカチン、ノルイルスク、キンギル、カラガンダ、イェクタリンブルクのバーソロミューの夜。こうした事件すべての歴史的評価がロシアでは自由に開放されている。

 2002126日と27日、修正主義者国際大会がモスクワで開かれた。アレクサンドル・ジノヴィエフ、ロジャー・ガローディ、ミハエル・ピペル。オレーク・プラトノフが、デイヴィッド・デューク、ユルゲン・グラーフ、フレド・テーベン、アフメト・ラミ、ボリス・ミローノフ、ルス・グラナタ、ミハエル・クズネツォフ、リヒャルト・クレーゲ、レネ=ルイ・ベレラ、クリストファー・ボルインとともに講演を行なった。『ロシア文明百科事典』の出版チームが大会組織者であり、その後の討論は人間主義的社会アカデミーで行なわれた。ロシア人哲学者と社会学者チームは、ボリシェヴィキによる権力奪取を「20世紀における西ヨーロッパ文明最大の破局」と呼んでいた(ニコライ・シマコフ:「ロシアのゴルゴダの丘は、すべてのキリスト教徒の殉教である。1917年以降、ヨーロッパにはキリスト教的な君主も、貴族も、政治家ももはや存在していない。商人だけが存在している。」)ペテルブルクの哲学者リュボムドロフは、資本主義的なグローバル化が西ヨーロッパ自由主義の外見となっていることを非難し、この意味合いで、「存在しないのが良いロシアである」という極秘事項となっているアメリカの世界戦略を指し示しているポーランド系アメリカ人ズブギニエフ・ブレジンスキーの言葉を引用している。リュボムドロフ教授は、ロシア民族に対するこの憎悪が「悪魔的」であると指摘して、次のように述べている。

 

「ここには、長いあいだにわたって進められてきた反ロシア的虐殺の臭いが存在します。」

 

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