試訳:ソ連のパルチザンはユダヤ人問題をどのように解決したのか?
ボリス・ソコロフ
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年4月14日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Борис Соколов, Как решали еврейский вопрос советские партизаны,を試訳したものである。 |
大祖国戦争の悲劇的なパラドクスの一つは、ヒトラーの「ユダヤ人問題の最終解決」の犠牲者が、たとえゲットーや絶滅収容所から脱出することに成功したとしても、パルチザンや地下活動家にまったく好意的には迎えられなかったことである。モギリョーフの地下運動指導者で内務人民委員部書記補であったカジミール・メッテは1943年4月の報告書の中で次のように述べている。
「ドイツ軍は占領当初、すべてのユダヤ人を物理的に絶滅しようとた。この事実はさまざまな反響を呼び起こした。比較的少数であるが、住民の中でもっとも反動的な分子は、この野蛮な行為をまったく正当化し、ドイツ軍に協力した。住民の基本的な部分は、野蛮な処分には賛成していないが、ユダヤ人にも責任があり、全員がユダヤ人を憎んでいると考えている。ユダヤ人を経済的・政治的に抑圧すれば十分であり、銃殺は、責任ある職務についている人々に限るべきであるというのである。それ以外の住民、すなわち、ソ連に共感している住民は、ユダヤ人に同情を寄せ、できるかぎり支援しようとしたが、ユダヤ人たちが町でドイツ人に抵抗しようともせず、またパルチザンに集団的に加入しようともせずに、殺戮に身を任せているので、彼らの消極的な態度に憤っている。さらに、親ソ連的な人々は、戦前、多くのユダヤ人が収入の多く、職場環境の良いポストにつくことをめざし、自分たちのあいだだけで助け合うシステムを作り上げ、ちょっとした反ユダヤ的な行動があっても、その責任を問うことでロシア人を威嚇し、ロシア人と良い関係を作り上げるような振る舞いをしてこなかったと指摘している。今となって、同じユダヤ人がロシア人に助けを求めているが、彼ら自身は何もしていないというのである。
このような住民の気分を考えると、煽動活動で、ユダヤ人を公然かつ直接に擁護することはできない。そのようなことをすれば、われわれの味方である、親ソ連的な人々の側でさえも、われわれの宣伝パンフレットに不信を抱いてしまうにちがいないからである。ユダヤ人問題については間接的に触れるだけにしておかなくてはならない。すなわち、ファシズムは、自分たち以外の民族を憎悪しており、この民族を絶滅しようとしている、そして、ある民族を別の民族にけしかけようとしている、ユダヤ人と共産主義者との戦いというスローガンのもとで、わが祖国を滅ぼそうとしているなどというように宣伝しなくてはならない。」(РГАСПИ,
ф. 625, оп. 1, д. 25, л. 401-418)
パルチザン側も、不幸なユダヤ人たちに関係する問題をうまく処理したとはいえなかった。ソ連邦英雄で国家保安委員会中佐キリル・オルロフスキイは、白ロシアでベリア名称パルチザン部隊を指揮していたが、1943年9月に、白ロシア共産党歴史研究所研究員に次のように述べている。
「私は、ナチス・ドイツの銃殺を逃れてきたユダヤ人だけから構成されるキーロフ名称部隊を組織化した。大きな困難が待ち構えていることを知っていたが、そのことを恐れずに、任務にむかった。バラノヴィチ地方、ピンスク地方でわれわれの周囲にいたパルチザン部隊、パルチザン部隊連合体は、ユダヤ人を拒んでいたからである。ユダヤ人が殺されたこともあった。例えば、ツィガンコフの『パルチザン』=反ユダヤ主義部隊は11名のユダヤ人を殺し、ピンスク地方ラジャロヴィチ村の農民は17名のユダヤ人を殺し、シチョルス名称部隊の『パルチザン』は7名のユダヤ人を殺した。
私がはじめてユダヤ人にあったとき、彼らは武器も持たず、靴も履かず、飢えていた。彼らは、『ヒトラーに復讐したいのですが、そうすることができません』と述べた。
その後、私は、われわれの共通の呪われるべき敵とのパルチザン戦闘戦術について、寸暇を惜しまず彼らに教え込んだ。その努力は無駄にはならなかった。彼らはそれまでは戦闘能力のない投機者、小商人、手工業者などであったが、流された民衆の血の復讐のためにドイツ軍という怪物と戦いたがっており、私の指導のもとで、2ヵ月半で、15回以上の軍事作戦に従事し、ドイツ軍の通信電話網を破壊し、ドイツ軍、治安部隊、わが国の裏切り者を殺した。彼らは次第に規律のとれた部隊となっただけではなく、破壊工作の点でも、地域から地域での移動においても大胆となっていった。」(РГАСПИ,
ф. 625, оп. 1, д. 22, л. 1186-1187)
パルチザンのあいだに存在した反ユダヤ主義はまったく有害な妄想を生み出した。すなわち、ユダヤ人がドイツのスパイであるとは誰も考えないので、ゲシュタポはパルチザン部隊にユダヤ人スパイを送りこんでいるというのである。1943年8月10日、オシポヴィチ・パルチザン部隊連合隊長コロリョフは、モスクワに次のように報告している。
「最近、ゲシュタポはユダヤ人をスパイ活動に使っている。例えば、ミンスクとボリソフのゲシュタポには、9ヶ月のユダヤ人学校が開設された。スパイは市内のアジトやパルチザン部隊に送り込まれている。ミンスク地方では、このようなスパイ網の存在が暴かれた。」(РГАСПИ,
ф. 625, оп. 1, д. 20, л. 578об)
対諜報部隊には、ユダヤ人逃亡者はすべてドイツのスパイであるとの妄想が生まれた。ユダヤ人がポーランド系であり、しかも、ドイツ人のもとで働いていた場合には、彼の運命は絶望的となった。
1943年3月18日、ミンスク地方で活動していたドヌカロフ旅団のパルチザンのもとに、1890年生まれのヘンリク・マクシミリアノヴィチ・チャプリンスキイがやってきた。彼は、ポーランド系ユダヤ人で、クラクフとリヴォーフの音楽院教授であった。チャプリンスキイは世界各地を渡り歩き、ロンドン、パリ、アントワープで生活した経験を持っていた。また、ブラジル、カナダ、アメリカを訪問したこともあった。1940年、内務人民委員部は、「マルキン地方で非合法に越境した咎で」彼を逮捕した。チャプリンスキイは、ベロストック市の監獄で7ヶ月をすごした。独ソ戦がはじまると、彼は、空襲のときに、囚人たちの隊列から逃亡した。彼自身は、パルチザンの尋問を受けたときに、チェルヴェニ地方で囚人の隊列が解散されたと述べている。その後、チャプリンスキイは、ミンスク、ヴィテプスク、モギリョーフその他の白ロシアの町のドイツ軍航空隊、司令部で通訳として勤務した。彼は、語学に堪能で、ポーランド語、ロシア語、ドイツ語、英語、フランス語、スペイン語、チェコ語をマスターしていた。ソ連保安機関の観点からすれば、全世界を股にかけてきた「根無し草のコスモポリタン」チャプリンスキイは、まさにスパイそのものに見えた。パルチザン運動中央司令部長パンテレイモン・ポノマレンコと白ロシア国家保安人民委員部のラヴレンティー・ツァナヴァは1943年5月15日に、チャプリンスキイ教授の経歴をスターリンに報告し、チャプリンスキイにとってはきわめて都合の悪い結論を下している。
「チャプリンスキイに対する予備尋問から判断すると、彼は、ソ連の後方地帯に侵入するためにドヌカロフのパルチザン部隊にとくに派遣されたドイツ軍諜報機関のスパイである。さらに、彼は、各国で活動した古くからのドイツ諜報機関のスパイであるとも考えられる。チャプリンスキイは、『スメルシュ』本部長アバクモフ同志に引き渡された。」(РГАСПИ,
ф. 69, оп. 1, д. 21, л. 58-59)
ポノマレンコは、チャプリンスキイが『重要事件での通訳としてドイツ人に使われていた』と根拠もなく断言している。この重要事件とは何であろうか。彼は、これを説明していない。ソ連側スパイの尋問のことを示唆しているのであろうか。しかし、ドイツ空軍は警察的な権限をまったく持っていない。チャプリンスキイは、空軍部隊の宿舎の配置や必需品の供給について、地元当局と交渉すること以外には、使われなかったにちがいない。
さらに、明らかに捏造されたドイツ側スパイ事件もある。ドイツ軍スパイが、破壊工作とテロ活動のために、白ロシアのパルチザン旅団「ヴァス伯父さん」に派遣されたというのである。旅団の中に作られていた内務人民委員部特別グループ長ベルと旅団特別局長イヴァノフは、パルチザン運動中央司令部への報告の中で次のように断言している。
「1943年3月14日、スヴォーロフ名称部隊のパルチザンであるイヴァン・マクシモヴィチ・リソゴル(1943年3月6日に、第46ウクライナ大隊からパルチザン部隊にやってきた)は、ミンスク州ロゴイスク地方ヤヌシコヴィチ村の農民ボグシェヴィチの家で、女性パルチザン隊員レーヴィナとボグシェヴィチ一族のいるところで、酔っ払いながら、ソ連政府に対する自分の敵意をおしゃべりし、党の指導者に対する反革命的な中傷を口に出し、その反革命的振る舞いを止めようとした『ヂマ伯父さん』部隊連合体の女性パルチザン隊員を殴った。
1943年3月29日、特別局はこのリソゴルを逮捕した。彼は、自分の反革命的振る舞い、敵意にもとづく党とソ連政府の指導者への中傷を自白した。リソゴルが、ドイツ軍諜報部から特別任務を与えられてパルチザン部隊に送り込まれたゲシュタポのスパイではないかを明らかにするために、調査が続けられた。この結果、彼がゲシュタポのスパイであることが明らかとなった。」
どのような調査が行なわれた結果、リソゴルはドイツのスパイであることが明らかとなったのであろうか。彼の自白にもとづいてだけである。この哀れな人物は殴られたにちがいない。そして、自分に対する告発を認めるだけではなく、第46ウクライナ大隊の自分の同志、すなわち、パルチザンの側に一緒に逃亡してきたブレイトマン=ペトレンコ、クリモフ、トクマンその他の名前もあげざるをえなかった。非常に興味深いのは、大隊ではペトレンコという名前で勤務していた政治指導者ミハイル・ヨシフォヴィチ・ブレイトマンが、まったくのユダヤ人であったことである。チェー・カー隊員は、ブレイトマンが医学検査のときにユダヤ人であることが露見して、銃殺すると脅かされて、スパイとして雇われた、そして、マールイ・トロスチャネツ町のユダヤ人強制収容所に労働者として送られたが、実際には、ユダヤ人スパイのためのゲシュタポ『特別学校』の生徒であったと考えた。ブレイトマンは、ドイツ人教官が見せてくれた多くの毒薬について詳しく話し(もしくは、尋問官が口授したことに署名し)、とくに、赤い毒液のことを触れている。しかし、ブレイトマンが逮捕されたとき、「破壊工作・テロ活動」用の毒、爆弾、その他の武器はまったく発見されていないのである。彼の密告した同志たちも、スパイ募集者として大隊長を指摘したが、ドイツの諜報部の協力者の名を誰一人としてあげることができなかった。彼らの同僚バラキンがスパイ活動のためにほかの部隊に派遣された話となると、逮捕された人々は、まったく妄想にしかすぎないことを話し始めた。大隊参謀長のエストニア人将校メリデルスはしばしば彼らを集めて、陰謀の原則に反して、バラキンの代理として、貴重な情報を提供したというのである。
ベルとイヴァノフは、報告書の中で、次のように結論した。
「これらのゲシュタポのスパイは大規模な活動を行なうことはできなかった。ウクライナ大隊にいたときに、ゲシュタポにその兵力の情報を提供しただけであった。」(РГАСПИ,
ф. 625, оп. 1, д. 28, л. 445-458)
実際のところ、破壊工作や殺害などの事例はなかったのである。
ドイツ側が、自分たちの信用していないスパイを敵側の地域に、もしくはパルチザンのもとに送り込むという危険をおかすことが、実際にありうるのであろうか。ドイツ側は、ブレイトマンがユダヤ人であるという人種的な理由からだけでも、彼のことを信頼するはずがなかったにちがいない。
リソゴル、ブレイトマン=ペトレンコ、クリモフ、トクマンは銃殺された。ウクライナ人兵士と、女性パルチザン隊員レーヴィナとの酒の上での喧嘩は、このような結末をむかえてしまった。リソゴルがレーヴィナを殴ったのは、嫉妬心からか、もしくはたんに酒に酔っていたためであろう。そのとき、党の指導者の誰かについての話が出たのかもしれない。しかし、レーヴィナが自分の情報を大きく見せかけるために、リソゴルの「反革命的話」を思いついたという可能性も排除できない。そして、そのあとに、逮捕、殴打、尋問官の口述にしたがった自白、すみやかな銃殺が続いたにちがいない。逮捕された人々が、まったくの証拠がない状況の中で、突然、同じ時間に意見を変えて、ドイツのスパイであったと自白し、そのことで、自らに死刑判決を下してしまったとは考えられない。
ブレイトマンとその他のウクライナ大隊の兵士は、ユダヤ人を絶滅するミンスク近郊のトロスチャネツ絶滅収容所の警備を任されていた。1943年4月13日、彼は、特別局員イヴァノフの口述のもとで、ゲシュタポ学校に選抜・教育されたという自白に署名した。ブレイトマンはミンスク地方ではトロスチャネツ以外の町を知らなかったので、ゲシュタポ学校もトロスチャネツにあったとしている。
[…]
パルチザン運動中央司令部諜報部長アルグノフは、1942年に「パルチザンに対する挑発的闘争手段についての報告」を編集しているが、その中には次のような一節がある。
「ドイツ人は、ユダヤ人を使って、パルチザン部隊にスパイを送り込んでいる。パルチザン隊員は、ドイツ人がユダヤ人をひどく迫害していることを知っていて、彼らを信頼するかもしれないと期待されているからである。」(РГАСПИ,
ф. 625, оп. 1, д. 37, л. 13)
オリョール州には、パルチザン共和国が存在していた。南西地方の統一旅団政治部宣伝局長イヴァン・グトロフは、パルチザン運動司令部に次のように報告している。
「内務人民委員部の職員は、パルチザン部隊のポクロフスキイ、レヴォクその他の将校と兵士の経歴を非常に熱心に調査しているが、(調査結果から判断すると)、住民やとくに敵軍のあいだでの諜報活動にはあまり習熟していない。そして、未熟なために、二重スパイをうまく扱うことができず、例えば、ユダヤ人娘イラ・チェルニャークとエヴァ・チェルニャークのときのように、非常に性急に銃殺してしまっている。エヴァ・チェルニャークなどは、ブリャンスクのゲシュタポ学校を卒業したとされている。またさらに都合の悪いことに、われわれの地区で活動している特別局隊員や諜報組織機関員は、ドイツ語ができないために、ドイツ側の文書を利用できない。」(РГАСПИ,
ф. 625, оп. 1, д. 10, л. 30)
グトロフは、哀れなチェルニャーク姉妹の事件について、チェー・カー隊員が二重スパイをうまく扱うことができなかったと他意なく判断しているが、それは誤りである。哀れなユダヤ人娘はドイツのスパイではなかったし、そうであるはずがない。この姉妹は、パルチザン部隊にもぐりこむために、ユダヤ人であることを隠してドイツのスパイとなることに同意したのであろうか。この場合には、彼女たちは、敵との接触を部隊司令部に確信して話したことになる。しかし、ドイツ側が、彼女たちがユダヤ人であることを知って、チェルニャーク姉妹をスパイとして雇うことなどありえないであろう。スパイは自分のボスの信頼を勝ち得ていなくてはならないが、ドイツ人はユダヤ人をまったく信用していなかったからである。奇跡的に「最終解決」を逃れてきた人々は、すぐに、自分たちの素性をパルチザンに明かして、自分たちの処刑人のために働こうなどとは考えなかったにちがいない。この姉妹はどちらの側のスパイでもなかった。二人のドイツ側スパイを捕まえたと決めつけた特別局員の挑発の犠牲者となったにすぎない。内務人民委員部職員は、存在してもいない「ゲシュタポ」学校の話も作り上げたのである。実際には、ドイツ軍情報部学校で、スパイは養成されていたからである。もちろん、チェー・カー隊員は、自分たちの思いついた「ユダヤ人スパイ」を「二重スパイ」として利用するということなど考えもつかなかった。チェルニャーク姉妹は、強要された自白を否認しないように、すぐに銃殺されてしまった。