『ショアー』(ランズマン)を批判する
R. フォーリソン、J.-F.
ボーリュー、E. ブルン、B. スミス
歴史的修正主義研究会編集・試訳
最終修正日:2004年9月09日
本試訳は当研究会が、研究目的で、 @ R. Faurisson, Review Shoah, The Journal
of Historical Review, 1988, vol. 8, no. 1(映画批評『ショアー』 A Serge
Thion, The Dictatorship of Imbecility, The
Journal of Historical Review, 1996, vol. 6, no. 6(愚鈍の独裁) B Jean-Francois Beaulieu, About the Shoa-Interview with the alleged
Treblinka SS-Man Franz Suchomel(いわゆるトレブリンカのSS隊員フランツ・ズーホメルとのインタビューについて) C Ernst Bruun, Rudolf Vrba exposes himself as a liar(ルドルフ・ヴルバ=嘘つき) D Bradley R. Smith, Abraham Bomba, Barber of Treblinka, The Revisionist, 2003, No.1(2)(アブラハム・ボンバ、トレブリンカの床屋) の5論文を、「『ショアー』(ランズマン)を批判する」と題して試訳・抄訳・編集したものである(原文中の図版は省略した、また、マークは当研究会が付したものである。)。 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。 online:http://www.ihr.org/jhr/v08/v08p-85_Faurisson.html http://www.ihr.org/jhr/v16/v16n6p-8_Thion.html#2 http://vho.org/tr/2003/2/Beaulieu166-168.html http://vho.org/tr/2003/2/Bruun169f.html http://vho.org/tr/2003/2/Smith170-176.html さらに、試訳にあたっては、クローズ・ランズマン、高橋武智訳『ショアー』(作品社、1995年)を参考にさせていただいた。訳者に感謝の意を表しておきたい。 |
@ 映画批評『ショアー』
R. フォーリソン
「ショアー」とは破局を意味するヘブライ語の単語である。また、絶滅、虐殺、ホロコーストの同義語ともなってきている。それはまた、ランズマンの長大な映画のタイトルともなっている。マレク・エデルマン(Marek Edelman)は、1943年のワルシャワ・ゲットー反乱の指導者であるが、その彼は、この映画を「退屈」、「面白くない」、「失敗作」と評している(Le Monde, November 2, 1985, p. 3)。マス・メディアが動員をかけたにもかかわらず、「フランスのユダヤ人共同体全体を含む」フランス人たちはこの強制的動員にさしたる関心を示さなかった。フランスユダヤ教基金賞の事務局長は、失望にかられて、「ぜひお頼みしたい。この映画を観ていただきたい。隣人を誘って見に行っていただきたい」と呼びかけた(Hamore, June, 1986, p. 37)。[フランス大統領]ミッテランと教皇ヨハネス・パウロ二世は、多くの著名人と同様に、この映画を賞賛した。しかし、効果はなかった。テレビ放送はその放映に抵抗していたが、やっと今、手を上げつつある。長大な駄作が放映されようとしている。少なくとも9時間半である。ランズマンは、ガス室が存在し、ユダヤ人が実際に絶滅されたことをわれわれに納得させようとしている。しかし、この映画が明らかにしたことは、証拠も目撃証言も存在しないこと、修正主義者が明らかにしてきたように、「ガス室」と絶滅物語は根を等しくする神話にすぎないということである。いずれにしても、歴史的真実を問題とするならば、その真実を証明するにあたって、「絶滅論者」たちが利用するのは、夕方のプライムタイムのテレビネットワークに文書資料を特別に放映することであって、『ショアー』を放映することとはならないであろう。そして、歴史的真実とは、以下のことである。ヒトラーはユダヤ人を敵性国民としてあつかった。彼はヨーロッパからユダヤ人を追放しようとしていた。彼は、ユダヤ人の多くを労働・強制収容所に収容した。収容所のいくつかには死体を焼却する焼却棟があった。焼却棟には殺人ガス室など設置されていなかった。「ガス屠殺場」は、物理的、化学的、毒物学的、建築学的、文書資料的理由から実在しえない。ユダヤ人の運命は残酷なものであったが、比類のないものではなかった。焼夷弾によって殺されたり、怪我をさせられたドイツ人の子供たちの運命、1945年−1947年に東部から西部に「移住」させられたときに殺戮されたドイツ人の運命を考えていただきたい。
命令も、計画も、予算もない
ランズマンは、絶滅論者の議論の弱点、修正主義者の議論の優位な点を熟知している。巨大な絶滅計画があったといわれているが、命令、計画、予算の痕跡を発見できたものは誰もいない。しかも、この犯罪計画を実行するために使われたとされる凶器も消え去ってしまっている。Le Nouvel-Observateur (26 April 1983, p. 33)でさえも、専門家が「ガス室の写真は存在しない」と認めていることを読者に対して繰り返している。すなわち、今日、ストリューホフ(アルサス)、マウトハウゼン、ハルトハイム、ダッハウ、マイダネク、アウシュヴィッツで依然として展示されている「ガス室」は、まったくの偽物にすぎないのである。ランズマンは、ソルボンヌでの有名な会議(1982年6月29日−7月2日)に参加している。この会議では、その組織者レイモン・アロン(Raymond Aron)とフランソワ・フレ(François Furet)は、残酷な真実に突然直面した。ランズマンは、証拠や文書資料が欠けていることを熟知していたので、情緒的な映画と「証言」のモンタージュによって修正主義者に対抗することを決意したのである。
無からの映画製作
ランズマンは、いやになるほど、鉄道線路、石、田舎の風景を撮影している。彼はこのようなシーンに、カメラアングルを移動させながら、情緒的なコメントを付け加えることで、移送とガス処刑のイメージを「かきたてようとしている」。彼自身が感傷的なやり方で「トレブリンカの石をあらゆる角度から撮影した結果、それらが終にしゃべったのです」とコメントしている(Libération, 25 April 1985, p. 22)。彼は、ナチスは巨大な犯罪の痕跡をすべて消し去ったと断言しているが、それには根拠がない。彼はまた、「無からこの映画を作製すること、文書資料なしで、すべてを作り出すことが必要でした」(Le Matin de Paris, 29 April 1985, p. 12)、「だから、痕跡の痕跡の痕跡から映画を作ったといえます。…無から出発して無に戻ったのです」(L'Express, 10 May 1985, p. 40)とも述べている。ランズマンの忠実な支持者たちは、「一つの文書資料的イメージもない」(J.F. Held), L'Evénement du jeudi,
2 May 1985, p. 80)、「この映画はファンタスティックな繰り返しです」(L'Autre Journal, May 1985, p. 48)と述べているように、まさにこの点で彼を賞賛している。「この映画の強みは、何が起ったのかを表現しているところにはない。事実、この映画はそのようなことを表現することを差し控えており、起ったことの可能性について表現している」(André Glucksmann, Le Droit de
vivre , February-March 1986, p. 21)。ランズマン監督は、自分が観客に信じさせたがっていることを観客に信じさせるために映画を製作した。その製作意図をかなえるためにだけ想像力が動員され、その成果は予想を上回った。ランズマンは、自分の説得力を自慢して、「映画を観てから、ガス室の内部で子供が泣いている声を始めて聞きましたと書いてきた人物がいました。彼の想像力の働きのおかげでしょう」とアメリカの有力紙に語っている(New York Times, 20 October 1985, Sect 2, p. H-1)。ランズマンは、アウシュヴィッツの中央収容所で、見学者に展示されている焼却棟を撮影しているが、そこでは、炉室とガス室と呼ばれている隣の部屋(実際には、死体安置室)が展示されている。だが、ランズマンのカメラは炉室にとどまったままである。カメラがすばやく回転するので、少しのあいだ「ガス室」が暗闇の中に突然登場する。専門家だけがこのことに気がつくであろう。素人の観客であれば、ランズマンはガス室を見せてくれたのだと信じるであろう。この手法はまったくの詐術なのである。ランズマンは「本物の」ガス室を見せたとも見せなかったとも証明できるからである。ある意味では、彼はその双方を行なったのである。
『ショアー』は省略の嘘から始まっている。ランズマンは、とくにこの映画に財政的支援をしてくれた人々のリストから、自分の資金源がイスラエル国家であることを示唆するような部分を注意深くカットしている。しかし、ベギン自身が「ユダヤ人の民族的利益のためのプロジェクト」に850000ドルを用意したと述べている(The Jewish Journal, New York, 27 June 1986, p. 3,
and the Jewish Telegraph Agency, June 20, 1986)。
ランズマンは、あらゆる種類の物理的・精神的トリックを使って、インタビューされている人々ならびに観客をだまそうとしている。彼は、ドイツ人「証人」を手に入れるために、ありもしない「現代史研究センター」(Centre de recherches et d'études
pour l'histoire contemporaine)をでっち上げている。また、自分の便箋に「Académie de Paris」というレターヘッドをつけている(アカデミーのユダヤ人議長Ahrweiler夫人はランズマンの友人である)。また、Claude-Marie Sorelという名の「歴史学博士号」をもつ人物の偽の人物証書を手に入れている。また、ドイツ人「証人」には3000マルクを渡して、インタビューの前に今後30年間はインタビューの中身を明かさないと保証している("Ce que je n'ai pas dit dans Shoah,"
VSD, interview by Jean-Pierre Chabrol, July 9, 1987, especially p. 11)。だから、これらのドイツ人は、金銭目的で「証言」したことになる。
ランズマンの「証人」たちの筆頭は、アブラハム・ボンバである。「真実をしぼりだす」とのシーンでは、ボンバは自分の店で、客の髪の毛を切りながら、同じようにして、「トレブリンカのガス室の中で」犠牲者の髪の毛を切っていたかのようにしている。ここにもトリックがある。ボンバはニューヨークに住んでおり、その後、イスラエルに移住して引退している。ランズマンはイスラエルで店を借りて、ボンバの協力を得て、このシーンすべてを演出しているからである(Jean-Charles Szurek, L'Autre
Groupe, 10, 1986, p. 65; Times (
ガス室の中の床屋
『ショアー』に登場する「証人」たちをもっと詳しく検討しておこう。彼らは、法律的な意味合いでの「証人」ではない。彼らの証言の信憑性はどれ一つとして検証されていない。彼ら自身も反対尋問を受けているわけではないからである。『ショアー』の中に登場する「証言」はその全文が提示されているわけではない。ランズマンは350時間に及ぶ撮影フィルムの中から9時間半だけをとりだしているにすぎない。さらに、これらの「証言」は、観客を操作するために注意深く選ばれたイメージをもとにして、分解され、断片だけが紹介されている。『ショアー』のプロモーターたちにとってもっとも貴重は証言は、アブラハム・ボンバの証言である。しかし、不運なことに、彼の証言は物理的にありえない点、非常にあいまいな点に満ちている。ボンバは、自分が床屋とガス室であった部屋で働いていたと信じさせようとしている。その部屋の広さは4m×4mである。そこには16人か17人の床屋がいて、ベンチもいくつか置かれていたという。60、70名ほどの裸の女性が、数はわからないが、子供たちを連れて入ってくる。全員の髪を切るには8分ほどかかる。それが終わっても、誰一人部屋を立ち去らない。つぎに、70、80名の女性たちが、やはり数はわからないが、子供たちを連れて入ってくる。全員の髪を切るには10分ほどかかるというのである。だから、子供たちを含めないと、146名か147名の人々がこの部屋にいることになる。そして、その部屋にはベンチも置かれている。これが、16uの部屋で起きたことである。まったくのナンセンスであろう。
床屋たちはこの作業に連続的に関与している。ときには部屋から出ることもあるが、5分間だけであり、それは、犠牲者をガス処刑し、死体を除去し、部屋を完全に清掃するための時間であった。どのようなガスが使われたのか、どのようにして部屋にガスが注入されたのか、これについて、彼らは証言していない。さらに、処刑が終わってから、どのようにガスが除去されたのかについても証言していない。ランズマンはそのような質問をしていない。もしも、ボンバが述べているようなガス処刑であれば、ドイツ人たちは、電光石火の早業で効果を発揮するようなガス、部屋の表面に固着しないガス、死体に残存しないガスを必要としたにちがい。
ボンバは虚言癖をもつ人物であり、彼の話は、J.F. SteinerのTreblinka
(New York: Simon and Schuster, 1967)212頁から影響を受けているのであろう。だが、この本は、ヴィダル・ナケでさえも、信じられないほどの捏造作品と酷評した書物であり、小説家Gilles Perraultが少なくとも部分的に手を入れている作品である(Le Journal du dimanche, 30 March 1986, p. 5)。
「証人」ルドルフ・ヴルバは、アウシュヴィッツ神話を作り上げた人物である。彼は、条件が最良であるときに、ビルケナウに収容された(例えば、彼は個室を持っていた)。彼は、アウシュヴィッツについてナンセンスな作り話をしたので、1985年にトロントで開かれたツンデル裁判で、屈辱的な経験をした。検事は修正主義者を反駁する証言をヴルバに求めていたのであるが、ヴルバが恥知らずな嘘つきであることがはっきりしてしまったので、突然質問するのをやめてしまった。ヴルバは事実や数字をまったく捏造していたのである。とくに、彼は、24ヶ月で、150000名のフランス系ユダヤ人がビルケナウでガス処刑されたことを個人的に数えていたと証言しているが、ナチハンターのセルジュ・クラルスフェルトによると、ドイツ人がフランスから収容所に移送したユダヤ人は75721名であった。ヴルバのゴースト・ライターであるAlan Bestiはヴルバのことを、「詳細にこだわり、正確さを徹底して追及する」人物と描いているが(I Cannot Forgive, by Rudolf Vrba and Alan Bestec,
Bantam Books of Canada, 1964, p. 2)、そのヴルバは、ヒムラーが新しい「ガス室」の開設のためにアウシュヴィッツを訪れたときのことを訪ねられたとき、「詩的修辞法」を使っていたことを告白せざるをえなかった。
裸の若い女性に助けられた証人
「証人」フィリップ・ミューラーも同様である。彼は、『アウシュヴィッツの目撃者:ガス室の3年』(New York: Stein and Day, 1979; the French edition has a preface by Claude
Lanzmann)の著者である。この不愉快なベストセラーは、ドイツ人ゴースト・ライターHelmut Freitagの作品である。彼は剽窃することをためらっていない(See Carlo Mattogno, "Filip
Müller's Plagiarism," reprinted in Auschwitz: un caso di plagio,
Edizioni la Sfinge, Parma, 1986.ミューラーは、ミクロス・ニーシュリが書いたとされるもう一つのベストセラー『アウシュヴィッツの医師』を剽窃している)。
ミューラーは映画の中で、ビルケナウの大きなガス室では一時に3000名までをガス処刑できた、ガス処刑のときには、「ほぼ全員がドアに向かって殺到した」、「チクロンが投げ込まれたところは、ぽっかり開いていた」と述べている。ミューラーは、問題の部屋(実際には死体安置室)が210uであり、これほどの人数が押し込められていれば、身動きすらできないことに触れてはいない。また、人々全員が脱衣室に入って(3000個の洋服掛けがついていたのであろうか)、服を脱ぎ、ガス室に入って、ガス処刑され、炉室に移されて焼却され、灰になってしまうのに3、4時間かかったと述べている。しかし、15の炉室しかなかったことには触れていない。もしも、1体を完全に焼却するのに1時間半かかるとすると、昼夜兼行で12日12夜かかることになる。そして、毎日、毎日、ガス処刑されて焼却する犠牲者集団が次々とやってくるのである。映画の中で、ミューラーは、犠牲者がチェコ国歌とユダヤ国歌「ハティクヴァ」を歌うよう様子を物語っている。別の「目撃証人」は、犠牲者がポーランド国歌と「ハティクヴァ」を歌い、この二つの歌が「インターナショナル」に合流していったと書いているが(a narrative reprinted by Ber Mark,
Des voix dans la nuit [Voices in the Night], preface by Elie Wiesel,
Plon,1982, p.247)、ミューラーはこの話を剽窃したのであろう。
ミューラーは映画の中ではなく、その著作の中で(113−114頁)、死を決意してガス室に入ったが、はだかの若い女性たちに説得され、ガス室から押し出された、そのために、彼女たちだけが死に、自分は証人となっていると記している。46−47頁では、ナチスの医者が、まだ生きている男女の太ももやふくらはぎを品定めして、犠牲者が処刑される前に、彼らのいうところの最良の部品を選んでいた、そして、処刑が終わると、まだ暖かいしたいから太ももとふくらはぎを切り離して、容器に投げ込んだ、投げ込まれた肉塊はまだ伸び縮みしていたので、バケツが飛び上がった、と記している。
このような人物が、ランズマンの映画に登場する重要「証人」なのである。
もう一人の「証人」ヤン・カルスキは、とくにワルシャワ・ゲットーのことに触れているが、何も語っていない。このカルスキは、ベウゼッツで収容所生活を経験し、ユダヤ人は石灰の入った貨車の中で殺されたと述べているが、遺憾なことに、ランズマンはそのことについては尋ねていない。ヒルバーグはのちに、「私は脚注で彼のことには触れていません」と述べることになる("Recording the
Holocaust," The Jerusalem Post International Edition. June 28,
1986, p. 9)。
「証人」ヒルバーグはもっと興味深い。ランズマンは、このオーストリア系ユダヤ人起源のアメリカ人教授を映画に登場させたことで批判されている。課ヒルバーグは収容所生活を経験しているわけではないからである。彼は絶滅論の最高司祭である。彼は、ユダヤ人の絶滅に関して、命令も計画も予算もないことを認めている人物である。にもかかわらず、絶滅が存在したことを必死に信じようとしている。知識人としての彼の絶望さはとくに興味深い。映画を注意深く観れば、ヒルバーグが自説を擁護するにあたって、まったく憶測に頼っていることに気がつくはずである。このことは、彼が、ドイツの鉄道のことを話して、ユダヤ人たちはワルシャワからトレブリンカまでまったくオープンに、隠されないで輸送されたと述べているときに、はっきりとわかる。彼は、出発・到着時間を正確に物語っている。そして、このようにして、ユダヤ人はトレブリンカのガス室に送られたと結論する。しかし、トレブリンカにはそのようなガス室が存在したとは立証していないのである。
「証人」フランツ・ズーホメルは、トレブリンカのSS軍曹であった。彼は、殺人ガス室以外のことを話しているときには、比較的正確である。しかし、ガス室にテーマが移ると、あいまいとなってしまう。どこにあったのか、どのような大きさであったのか、どのように作動したのかを明らかにしていない。ズーホメルが「ガス室[単数]」とか、「ガス室[複数]」と語っていても、ランズマンは、明確な説明を求めていない。ズーホメルはガス処刑の現場にいたとも語っていない。到着した日に、「たまたま、我々がそばを通りかかった時、ちょうど、ガス室の扉を開くところだった…人々がまるでジャガイモのように、崩れ落ちてきた」と述べている。だから、彼は死体を見ただけである。その場所がガス室であったと述べているが、確証はないはずである。ズーホメルは到着したばかりなのであったから。せいぜい、彼は自分の憶測を述べているにすぎない。さらに、彼が述べていることから、この収容所にはユダヤ人がいたこと、死体があったこと、一つかそれ以上の死体焼却の薪の山があったこと、そして、おそらくは、シャワー室と、害虫駆除ガス室があったことを推し量ることができる。彼は図面の一部を示しているが、きわめてあいまいである。この図面は何なのか。彼は、自分が足を踏み入れたことのないアウシュヴィッツでのガス処刑についても断定的に語っている。彼は、トレブリンカのガス処刑のことも断定的に語っているが、それは目撃者としてではない。彼は、テーマについて自分が学んできた結果をあたかも自分が経験したかのように話している人物であるが、その素性は、簡単明瞭で、直接最適な質問をすればすぐにばれてしまうはずである。しかし、ランズマンはこのような質問をズーホメルにまったくしていない。
ガス室神話が危機的な状況にあるので、絶滅論者たちは、ガス室から撤退して「ガス車」の物語に依拠しようとしている。ランズマンもたびたびこの話題を持ち出している。しかし、彼の「証人」がもっともあいまいで、矛盾におちいっているがこの話題なのである。ランズマンは、絶滅論者を手助けしようとして、「ザウラー社製の特別車両」についての文書資料を観客に聞きとらせている(彼は文書資料が嫌いではなかったのであろうか)。たった一つの問題がある。ランズマンはこのテキストを歪曲して、きわめて馬鹿げた箇所をとくに取り除こうとしている。全文はNS-Massentotungen durch Giftgas [NS Mass Killings by Poison Gas],
(S. Fischer, 1983), pp. 333-337にあるので、専門家であればそれを参照することができる。
トレブリンカ:まったく秘密ではない
トレブリンカ近くの勇敢なポーランド農民と鉄道関係者は、列車でやってくるユダヤ人たちが金持ちであったことにとくにまごついていたようである。彼らが、ドイツ人はユダヤ人を殺すつもりであると考えていたとしても、首をかき切られたり絞められたりして殺されるのであろうと考えていた。一人の農民も鉄道関係者も殺人ガス処刑を実際には目撃していない。このような規模でガス処刑が行なわれていたとすれば、彼らはそれに気がついたであろう。実際、ワルシャワからわずか100kmのところにあるトレブリンカには秘密などなかった。周辺地域の人々、とくに農民たちはそこに出かけていって、収容所のユダヤ人に物を売っていた。ポーランド人売春婦はウクライナ人看守に慰みを提供していた。トレブリンカは、農民と売春婦にとっては本物の『サーカス』であった。(Into That Darkness, London, Andre Deutsch,
1974, p. 193)ランズマンは修正主義者を恐れている。彼は、「私は、『ショアー』は客観的ではない、ホロコーストを否定している人々のインタビューが登場していないからだと話す人物に、たびたび会いました。しかし、この点について議論すれば、わなにおちこんでしまうのです」と語っている(Jewish Chronicle, 6 February 1987, p. 8)。
事実、修正主義者が絶滅論者を討論に引きずりこむことに成功した事例は限られているが、その場合、絶滅論者は惨めな状態におちいってしまう。しかし、世論では、絶滅論者がラジオやテレビでの討論を拒否している理由がますますわからなくなってきている。修正主義者が嘘を言っているとすれば、なぜ、公の席で彼らに反駁しないのかというのである。さらに、修正主義者は嘘をついているのであろうか。ガス室が実在したことについての「本物の証拠」を提出したものは誰もいない、せいぜい証拠の断片にすぎないことを認めたのは、他ならぬ、セルジュ・クラルスフェルトではないだろうか(VSD, 29 May 1986, p. 37)。
ドイツとの先の戦争は1945年5月8日に終わった。しかし、戦争宣伝による恐ろしい捏造を広めることで戦争を続けなくてはならないと考えている人々も存在している。彼らは、裁判やマス・メディアを介して、戦争を続け、メディアはホロコースト宣伝をますます強化している。しかし、このようなことは止めるべきときである。すでに多くのことをやりすぎた。平和と和解を達成するには、別のやり方が必要である。われわれは『ショアー・ビジネス』によって袋小路に追い込まれている。ユダヤ人の若い世代は、ホロコーストという馬鹿げた信仰にのめりこんでしまうことを避けて、事態を改善しようとしている。彼らが映画『ショアー』に興味を抱くことを拒んでいるのは、若い世代が、すくなくとも第二次世界大戦とその結果についての公的な神話を拒みはじめている最初の兆しなのであろう。
A 愚鈍の独裁
――クロード・ランズマンと『ショアー』――
セルジュ・チヨン
ときとして映画監督をつとめたこともあるクロード・ランズマンは、彼特有の高圧的な調子で、自分の映画『ショアー』について、またも、びっくりするような発言をしている。彼は、パリの日刊紙Le Monde (June 12, 1997)上で、「理解しようとしないことが私の鉄の法則でした」と述べている。
数年前、ランズマンはスピルバーグの『シンドラーのリスト』との関連で、もしも殺人ガス室を写した本物の写真を見つけても、それを廃棄してしまうだろうと述べている。彼の正確な発言は次の通りである(Le Monde, March 3, 1994)。
「『ショアー』には文書資料は一つも登場していません。私は、文書資料を使って、製作したり、考えたりするわけではないからです。それに、そんなものは存在していません。…もしも、アウシュヴィッツの焼却棟2のガス室の中で3000名のユダヤ人の男女、子供たちが一緒にガス処刑されていく様子を撮影したSSの秘密フィルムを発見したとしても、それを上映しないどころか、廃棄してしまうでしょう。理由は説明できません。おのずからそうなるのです。」
ランズマンは気が狂っているとは考えていない人々だけが、このような発言に驚愕してしまうであろう。幸いなことに、彼の悪夢は悪夢に過ぎないために、彼はこのようなフィルムを発見できていない(イスラエルのヤド・ヴァシェム・ホロコースト研究センターの職員は、このようなフィルムが、センターの文書館の奥底に隠されて存在していると主張しているが、そのフィルムを見たものは誰もいない。いつものとおり、証拠は、証拠が不可視である点にある。)[1]
戦時中、クロード少年は、両親とともにヴィシー政権とナチスの脅威から逃れて姿を隠していたフランスの農村で非常に幸せな少年時代をすごした。彼の家族全員が生き残った。かなりのちに、ランズマンはこの幸せな年月をすごしたことに罪悪感を感じた。50年代、彼は、サルトルの愛人の一人であった彼の姉(のちに自殺している)を介して、サルトルとボーヴォアールのサークルに導かれた。そして、人間関係の釣り合いを表明するためか、ボーヴォアールの愛人となり、小さくはあるが知的に強力な一派の仲間となった[2]。
不幸なことに、彼の弁論能力は限られたものでしかなかった。修辞的な能力の点では、兄のジャックに劣っていた。ジャックは小説家として成功を収め、クロードはこの兄をひどく嫉妬するようになっていった。クロードは、文才に欠けていたので、大衆紙のジャーナリストとしてはあまり成功を収めることができなかった。サルトルの月刊誌Les Temps Modernes誌に論文を寄稿しようとしたが、5、6頁以上のものを書くことはできなかった。
ランズマンは映画製作者となることでこの欠点を埋め合わせる道を発見した。文書や弁論では不可能なかたちで、イメージを操作できるからである。1973年に上映された彼の最初の映画は、イスラエルについてであった。彼は、イスラエルの生活のさまざまな側面を理解できなかった、もしくは、認めることもできなかったが、自分の並外れた精力、野心、認められたいという願望を表現できる手段を発見することができた。また、イスラエルが金のなる木であることも発見した。
『ショアー』の製作にはこの金が必要であった。1977年、彼は、イスラエル首相ベギンを説得して、イスラエル政府に850000ドルの資金を出させることに成功した。ベギンはこの企画が「ユダヤ人の民族的利益」にかなっていると考えたからである。それ以外の資金は、イスラエルの非政府団体とフランス政府から手に入れた[3]。
当初、ランズマンはこの映画をもう一つのドキュメンタリー映画とみなしていた。今でこそ、ランズマンは知識を軽蔑しており、自分が「ショアー(破局を意味するヘブライ語)の独自性」と呼ぶところのものとは相容れない相対的アプローチを行なってしまう学術研究を認めていないと述べている。しかし、この当時は、彼は、基礎から学び始め、研究者の話にも耳を傾けなくてはならないと考えていた。彼は、この企画が出発した1974年には「ヤド・ヴァシェムで数ヶ月をすごした」と述べている。すなわち、彼は当初は、伝統的な様式にのっとった映画を製作しようとしていたのである。
われわれがこのことを知っているのは、フォーリソン事件が始まった1979年の時点では、彼の映画はまだ完成には程遠かったからである。われわれは当時の内情について知っている。ランズマンがポーランドその他の地域で映画を撮影したときに同行した歴史家Nadine Fresco(歴史家としては失敗したが)は、進行状況について、われわれに忠実に報告してきた。また、Les Temps Modernes誌の編集スタッフには、われわれのスパイがいた。さらに、私も、同誌の特別号にインドシナ情勢についての記事を寄稿するにあたって、助力を求められていたので、個人的にランズマンのことをよく知っていたからである[4]。
フォーリソン事件はランズマンにとっての新たな破局であった。彼が依拠しようとしていた文書資料の信憑性が疑われるようになっていたからである。聖堂の支柱が揺るぎ始めていたのである。彼の相談相手ヒルバーグとフレスコもこの点を彼に指摘していたのであろう。列車の機関車の果てしのないシーンは、鉄道マニアのヒルバーグ――近著でこの点に触れている[5]――から直接の示唆を受けたものである。『ショアー』の観客が、鉄道に載せられているような感覚におちいるのはこのためである。
結局、ランズマンの映画はそれが上映される前から、修正主義者によって壊滅的打撃を受けていたのである。一つの脱出口しかなかった。文書資料をすべて放棄して、別の映画を作ることである。非合理性の中に没頭すること、歴史に対するものとして記憶をかかげること、理性に対して原始的な衝動的感情を掲げることである。だからこそ、彼は、「理解しようとしないことが私の鉄の法則である」と述べているのである。多くの石を使って一羽の鳥を殺せというわけである。最大の難点は、イスラエルに戻って金を無心することであったが、イスラエルの宣伝費用には限りがなかったようで、彼は首尾よく手に入れることができた。
映画の新しいコンセプトが登場した。細かく裁断され、映画の随所にばらまかれている長たらしいインタビューから構成される9時間半のサガである。第二次世界大戦とポーランドの歴史と地理について特別な知識をもっていない人々にとっては、眠りにおちこまないとしても、精神を混沌におちいらせ、まったく無感覚にしてしまうための処方箋のようなものであった。実際、ランズマンが歴史学上の諸問題を理解することを学び、歴史学上の諸問題のあいだでスラロームする完璧な技術を持つようになるには、10年以上かかっている。
ランズマンは、Le Monde interview誌のインタビュー(June 12, 1997)で、彼の映画の「様式」を質問されて、「もちろん、本質的な問題です。『ショアー』は、一つの話が巡回したり、ふたたび登場したりする非常に複雑な話の構成となっています」と答えている。もしも、『ショアー』がインタビューをカットせず、細切りせず、次々と紹介していったとすると、そのピラミッド全体が、不合理性の中に崩壊していくであろう。さらに、『ショアー』は、観客の中にポーランド語(専門家によると、翻訳の質は悪い)を理解できるものがほとんどおらず、観客が2時間前の台詞と5時間前の台詞を比較できないために、無意味な作品となっている[6]。また、基本的な資料を熟知している修正主義者にとって、『ショアー』がまったく馬鹿げた虚偽証言を利用しているのがわかってしまうがゆえに、とくに中身のない作品となっている。この点については、すでに広く明らかにされている[7]。ランズマンは修正主義者によって、もともとの計画を破壊され、もともとも計画の代わりに、とてつもなく退屈な映画を製作せざるをえなかった。この意味で、修正主義者は彼に謝らなくてはならないかもしれない。
全体的に、『ショアー』に対する反響はまったく冷ややかなものであった。アメリカでは、商業的には、まったくの失敗であった。ドイツと東欧のテレビ放送で数回上映されているが、フランスは、ランズマンが社会主義政府の後押しを受けてもっとも成功を収めている国である。騒々しい支援者たちの一派が、「パリの知識人たち」を盲目的な『ショアー』崇拝の中に押し込めている。
ランズマンはその後、彼のいうところの三部作のひとつとして、イスラエル軍をあつかった『ツァハル』を製作しているが、この映画に対する反響は、沈黙と狼狽であった。彼の病的な人格に潜んでいたファシスト的な要素が姿を現していた。すなわち、ウルトラ民族主義的なシオニスト神話を無批判的に受け入れ、軍事力を賞賛し、若き「戦士たち」を同性愛的、マゾヒスティックに賞賛し、ユダヤ人の力を発揮する適切な手段として苦行と死を認めているのである。
幸運なことに、オピニオンリーダーたちは、記憶が望ましからざるものであるときに、記憶を忘れ、なきものとする方法を心得ている。『ツァハル』なる映画は存在しなかったかのようである。ランズマンの公的な発言を見れば、彼が愚鈍であり、独裁者であることはまったく明瞭である。しかし、王様は裸であるとあえて口に出す者は、誰もいない。
B いわゆるトレブリンカSS隊員フランツ・ズーホメルとのインタビューについて
J.-F. ボーリュー
SS伍長フランツ・ズーホメルは、トレブリンカ「絶滅収容所」での大量ガス処刑の現実性を確証したとされる重要証人である。ユダヤ系フランス人で映画制作者のクロード・ランズマンは、ホロコースト「ドキュメンタリー」を制作するために、1977年に、イスラエル政府から85万ドルの助成金を手に入れた[8]。その目的は、修正主義が関心の対象となり始めていた時期に、ホロコーストに懐疑的な人々を説得することであった。その後、フランス政府とその他の個人的な財団が追加の資金を提供した。映画は、8年後の1985年にやっと完成した。
映画の謝辞の部分は、イスラエルから大量の資金を提供されたことについては、一言も触れていない。さらに驚くべきことは、証人となることに同意したドイツ人証人すべてが3000マルクを受け取り、この事実を30年間暴露しないことを承諾しなくてはならなかったことにも、一言も触れていない[9]。だから、ドイツ人証人は、お金のために「証言した」ことになる。
『ショアー』は恐ろしく長く(9時間)、そのことが、映画の成功の一因かもしれない。今日でも利用されている重要証言の一つは、1903年生まれのSS隊員フランツ・ズーホメルの証言である。彼は、十年前に、数年間獄中で過ごしており、健康状態が悪かったために、80年代初頭に死亡したようである。
ズーホメルの証言を詳しく検証する前に、トレブリンカが絶滅収容所であったとう話、そのような話が適切ではない理由を手短に考察しておこう。簡単に言えば、この話は次のような内容である。1942年夏から1943年夏のあいだに、80万ほどのユダヤ系ポーランド人がトレブリンカ収容所に移送され、13−14ヶ月の期間で、ガス室で跡形もなく消滅した。その大半は、1943年春以前に殺され、1942年8月以降に、大量埋葬地に埋められた。1943年春、小規模のガス処刑は続いていたが、犯罪の痕跡を消し去るために、死体は掘り起こされて、戸外で焼却されたというのである。トレブリンカは「純粋」絶滅収容所であり、このために、戦後の証言が存在しないはずであった。しかし、収容所の最後の時期(1943年8月)、すなわち、大半の死体がすでに破棄されていた時期に、反乱が起こり、50名ほどの通常の囚人が逃亡に成功したために、彼らは、ドイツ人が隠匿しようとした犯罪を戦後に証言することができたという[10]。
普通、記憶というものは年月がたつとあいまいとなり、矛盾や不一致が生じるものであるが、利用可能なホロコースト文献を読んでみると、トレブリンカについての記憶にはさしたる矛盾や不一致が存在しないように見える。しかし、こうした文献は、望ましからざる部分を削除したものなのである。マーク・ウェーバーとアンドリュー・アレン[11]、アルヌルフ・ノイマイアー[12]、とりわけカルロ・マットーニョとユルゲン・グラーフ[13]は、初期の証言について多角的かつ客観的に分析しているが、このような証言は、ホロコースト正史派の文献の中で紹介されているよりも、はるかに多くの矛盾、不一致、ありえないことを含んでいるのである。
技術的に馬鹿げた話は、トレブリンカでの大量殺戮の毒ガスとしてディーゼル排気ガスが使われたという話である。フリードリヒ・パウル・ベルク[14]とヴァルター・リュフトル[15]がこの件については、説明・論駁している。
前述したアルヌルフ・ノイマイアーの研究も、「生存者」の話にもとづく戸外での死体焼却および大量埋葬地の広さに関して、その難点と不合理な点を詳細に明らかにしている。
ここでコメントしておきたいのは、ベルリンからやってきて、もっとも「経済的な」死体焼却方法を、収容所長シュタングルにアドバイスしたとされる専門家ヘルベルト・フロスにまつわるきわめて不可思議な話である。証言によると、燃料をほとんど消費しない焼却を行なうには、自分自身で燃えるとされる女性の死体を利用して、この女性の死体の上に積み上げられた子供、老人、男性の死体を燃やすことが重要であるとフロスは述べたという。資格を持つ技術者ノイマイアーは、このようなシナリオでの大量焼却が馬鹿げており、技術的に不可能であることを詳細に明らかにしている。この胡散臭い話は、大量の燃料資材が1942−1943年にトレブリンカに搬送されたという記録が残っていないという問題を回避するために捏造されたのであろう。しかし、この問題にもここでは詳しくは立ち入らない。
よく知られていることではあるが、この時期、トレブリンカについては多くの虐殺物語が流布されており、ポーランドの抵抗運動もユダヤ人の抵抗運動もこの話しを活発に広めていた。ユーリイ・スールの本[16]によると、「ほぼすべてのゲットーと収容所」には「ユダヤ人の抵抗運動細胞があり」、「数千のユダヤ人戦士が、ポーランドの森に隠れて、ドイツ軍を悩ませ」、輸送部隊やドイツ軍兵士などを攻撃していた[17]。今日、ポーランド人が戦時中にトレブリンカを攻撃しなかったことを非難しているユダヤ人団体が存在しているが、ユダヤ人のパルチザンでさえも、トレブリンカの弱い守備隊を攻撃したり、トレブリンカに通じる鉄道を爆破しなくてはならないと考えていなかったのである。
ポーランド抵抗運動もユダヤ人抵抗運動も、ガス室から引き出された大量の死体、この時期に戸外に埋められた大量の死体を撮影しようとはしていない。内部の活動を隠匿するために、内部フェンスが木の小枝で覆われていたという話があるが、トレブリンカの周囲を木が囲んでいたのは、一部である。ズームレンズを持ってこの木に登ることはできたはずである。レジスタンス運動は、自分たちの告発を立証したかったとすると、大量埋葬地、燃えている死体の山の写真、それに付随した鉄条網、建物、SSの看守の写真が貴重であることを知っていたはずである。そのような写真を撮影するチャンスは1年間もあったが、彼らは何もしなかった。前所長クルト・フランツの写真アルバムでさえも、この件では役に立たない。
共産主義者は、収容所についたとき、高さ7mに及ぶ人間の灰と骨の山を発見したという話になっているが、彼らは、ドイツ人たちがカチン事件で赤十字からの中立国代表を招請したようなことをする必要があるとは考えなかった。たしかに、いくつかの部分的な死骸が発見され、写真に撮られているが、数百、ひいては数千のユダヤ人が移送の途中で死亡していることを考えると、そのような写真は重要ではない。
『ショアー』に戻ろう。問題のシーン、それがズーホメルであろうとなかろうと、自分のアパートでインタビューを受けている人物が存在する。トレブリンカの地図がこの人物から数メートル離れたところにかかっており、スティックを使って場所を指し示しながら話をしている。インタビューは、このズーホメルのことを、心ならずも悪夢に引き入れられてしまったナイス・ガイ、人間であるとみなすようなかたちで、進められる。
ランズマンは、『ニューヨーク・タイムズ』紙(October
20, 1985, page H-17)で、どのようにしてズーホメルを撮影することができたのかを次のように説明している。すなわち、女性アシスタントが、カメラを隠したバッグを持っている。カメラは、小さな穴からこの場面を記録する。ときどき、ミニバンが建物の前にやってきて、その中で、技術者が、リアルタイムで転送されてくる画像をモニターで監視している。
こうしたインタビューは貴重なので、細心の注意が必要にちがいない。このような映像を撮ろうとすれば、それぞれの動作が重要であり、人物に疑いを抱かせないように注意しなくてはならない。二度目のチャンスはない。バッグに隠したカメラによる映像は焦点がぼけてしまうこともありうるが、そのことは、重要なことを写しているわけではない。このようなカメラでは、対象を的確に写すことができないからである。しかし、カメラの入ったバッグを下に置けば、映像ははっきりとして、同じ焦点のものを映し出すであろう[18]。
この映像の画質は非常に悪い。顔はぼけたかたちで認識できるだけである。これとは対照的に、シャリング(彼は、トレブリンカには関与していないと思われるけれども、ランズマンがインタビューしているもう一人の民族社会主義者である)は、ズーホメルよりもあとに同じような条件でインタビューされているが、その姿ははっきりとしている[19]。
ズーホメルは、インタビューの最初に、自分の名を明かさないように頼んでいる。だから、彼は、撮影されていることを知らないように見える。しかし、それに続く、やりとりは奇妙である[20]。
ランズマン:用意はいいですか。
ズーホメル:はい、始めることができます。
ランズマンが、ズーホメルとのインタビューが記録されていないとの印象を作り出したかったとすると、インタビューの冒頭に、このような奇妙なやり取りがどうして行なわれているのであろうか。「用意はいいですか。」一体何のために。形式にこだわらないおしゃべりならば、このような出だしにはならないであろう。大半の読者はこの映画を観ていないと思われるで、このインタビューで起こったことをもっと詳しく分析しておこう。活字表現は、実際の映像よりも印象が弱いので、この場面を検証しようとする人々の参考のためにあげておくと、ズーホメルのインタビューは、『ショアー』のビデオ・カセット第2巻にある。
インタビューの重要部分では、カメラの位置はランズマンの肩と同じ高さにある。このことは、ランズマンがタバコを持った手をレンズの近くに上げるときにわかる。しかし、バッグを持っていたとすると、当然映像がぶれるはずであるが、インタビューのときには、ほとんどぶれていない。このインタビューは異なったカメラ・フォーカスから構成されているので、バッグは少なくとも1回は動いたはずである。このとき、ある人物(ズーホメル?)は目線をカメラに直接向けて、長い話を続けているあいだ、目線を固定している。なぜ、この人物は、まったく重要ではないはずのバッグを眺めているのであろうか。
撮影されている人物は、何回も、スティックを使って、地図の上に場所を指し示している。このとき、30cmもしくは40cmはなれたところから、地図が大写しされる。そして、カメラがこの人物を顔に視点を戻しているので、この大写しが、あとになって拡大されたものではないことがわかる。しかし、その前に、スティックの先端が地図に記載されているさまざまなものを示すために、上下や、対角線上に動いているとき、カメラは、近い距離からスティックの動きを注意深く追い続けている。上下左右、対角線上に。この場面は、インタビューが始まってから12分ほどのことであり、12−13秒続く。細かな点をとらえるために、このような距離からスティックの動きを追うことは、無意味であり、それ以上に危険である。バッグにカメラを隠している人物の所在を暴露してしまうからである。しかし、インタビューのあいだ、彼がスティックを使うたびに、このような場面が登場する。カメラは、地図に近づいて、スティックの動きを、対角線上にまでも追っているのである。それから、彼が椅子に戻ると、彼の顔を写しだす。しかし、それは、数メートルの距離から、1、2秒間、少し上すぎの角度、少し左よりの角度から、頭を写しているだけである。しかし、インタビューの残りの場面では、カメラはすぐに、彼の顔の大半を正確に写しだしており、このような場面が数回ある。誰かが三番目の目を持っているのではないだろうか。
私は最初にズーホメルのインタビューを見たときに、この場面に驚いたので、同じ場面を、自分のそばにバッグを置いて、20数回ほど見た。そのたびごとに、ズーホメルに気づかれないようにバッグを扱うにはどのようにしたらよいのか、目の前にいる人物に、不可解が起こっていることを気づかせないようにするにはどのようにしたよいのかを、考えようとしていた。20回か25回であきらめてしまった。
クロード・ランズマンは、このインタビューが、自分の助手のバッグに隠したカメラによって、この人物に気づかれることなく、撮影されたと主張している点において、もしくは、この人物がズーホメルであると主張している点において、あるいは、この二つの主張双方において、不正直であると思われる。
奇妙な点 ズーホメルの証言には、この証言全体の信憑性を疑わせるような二つの話がある。 1. 彼は、ある場面で、その他の証人すべてと異なり、ドイツ人は自分たちで、トレブリンカの死体を片付けなくてはならなかったと述べている[21]。 ズーホメル:片付けようとする者が誰もいませんでした。ユダヤ人もそこで働くくらいなら、銃殺されることを選んだのです。…そこで、ヴィルトが数名のドイツ人を連れてやってきて、長いベルトを作らせて、それを死体の胴に巻きつけて、引っ張らせました。…彼ら自身が片づけを手伝ったのです。 ランズマン:どのドイツ人がそれを行なったのですか。 ズーホメル:そこに派遣されていた私たち看守の何名かです。 ランズマン:ドイツ人自身が、ですか。 ズーホメル:そうしなくてはなりませんでした。 ランズマン:彼らは命令していたのではないですか。 ズーホメル:命令もしていましたが、命令されてもいました。 ランズマン:それを行なったのはユダヤ人だと思っていました。 ズーホメル:この場合には、ドイツ人も手を貸さなくてはなりませんでした。 2. ズーホメルの話でも、これらの犠牲者たちは、煙と悪臭を放つ焼却壕に向かう。ここでは、銃殺が続けられているが、彼らは、この焼却壕の端に立つまで、何も気づかなかったという。そして、ズーホメルの話でも、死体は、ほぼ燃料なしで燃えたという[22]。 ズーホメル:彼らは突き当たりに行くまで、何も目にしませんでした。そして、壕の中の死者を見ることになるのです。服を脱がされ、盛り土の上に座らされ、首元に銃を撃ちこまれて殺されました。そして、穴の中に落ちていきました。壕からはいつも炎があがっていました、ゴミ、紙くず、ガソリンなどとともに、人間というものはよく燃えるものです。 |
C ルドルフ・ヴルバ=嘘つき
エルンスト・ブルン
著書『キリストの死体を抱いて悲しむ聖母マリア(Pieta)』[23]の中に、ストックホルムのジョージ・クライン(Georg
Klein)教授[24]は、1987年にバンクーバーで行なわれたヴルバとの話について記している。ヴルバ教授は、数百名のアウシュヴィッツ逃亡者の一人として[25]、1944年に有名な報告書を書き[26]、のちに収容所についての著作[27]を執筆した人物として有名である。クラインが1987年にヴルバに会ったとき、当然のことながら、話は、ランズマンが数年前に製作した映画『ショアー』[28]に進んでいった。ヴルバは、この映画の中でランズマンのインタビューを受けた生存者の一人であった。ヴルバは、1985年にトロントで開かれた第1回ツンデル裁判のときに、この本を書いたときには「詩的修辞法」を使ったことを認めていた[29]。だが、この同じヴルバは、自著の中では、収容所とガス処刑されたユダヤ人の数についての自分の話は真実であり、正確であると述べているのである。
彼がアウシュヴィッツを逃亡してから書いた報告の日付は、「1945年4月20日、パリ」であり、タイトルは、「ポーランドのオシフェンチムのアウシュヴィッツ・ビルケナウ絶滅収容所から逃亡した二人の目撃証言」である。ハンガリー語のオリジナルからドイツ語訳したものという話となっている。そして、ヴルバと彼の友人による報告書の末尾には、次のような見出しのついた表が掲載されている。
「1942年4月から1944年4月までにビルケナウで絶滅されたユダヤ人の数についての[二人の逃亡者による]、国籍別の控えめな見積もり」
殺されたユダヤ人の控えめとされる合計は、「1765000人ほど」となっている。この数字には、1944年4月以降にハンガリーから移送されてきた数十万のユダヤ人は含まれていないことに注意すべきである。まじめな研究者であれば、非ユダヤ人とハンガリー系ユダヤ人グループを含めても、100万以上の犠牲者の数の証拠を発見できないであろう。ヴルバはアウシュヴィッツで殺されたフランス系ユダヤ人の数を150000名としているが、1944年8月までにフランスからすべての収容所に移送されたユダヤ人の数(生存者も含む)は、詳細な名簿によると75000名である[30]。
映画のインタビューの中で、ヴルバは、200両の列車、すなわち、200000名が到着するのを目撃した、「この人々のうち90%が2時間以内にガス処刑された」と述べている。また、アウシュヴィッツ中央駅の貨車から死体を引き出して、それを2kmほど離れた(ビルケナウ)の焼却棟に貨物自動車で運んだ作業員の一員であったと述べている。また、殺された最初の1765000名は焼却棟から2km離れた古い降車場に着いたと付け加えている。その後、新しい降車場が、100万名のハンガリー系ユダヤ人を受け取るために建設され、彼らは「電撃的に絶滅された」、到着した人々にガス処刑の話をもらせば、殴り殺されるか、射殺されたという。
また、アウシュヴィッツは、ガス処刑(「おもな製品」)以外にも、その他の製品を生み出していた、クルップやジーメンスがそこに工場を構えていたという(ヴルバはIGファルベンについては言及していない)。アーリア系の囚人たちは影響力を行使して、生活条件を系統的に向上させたが、「死亡率が下がれば下がるほど、労働力を恒常的に確保するために、ガス室送りになる囚人の数は増えていった」という。
のちの場面で、ヴルバは、髪も切られず、所持品も取り上げられていないテレジエンシュタットからのユダヤ人家族のことに触れている。
彼らは「6ヶ月の隔離後、SB(ドイツ語でSonderbehandlung(特別処置)と記されていた。特別措置とはガス処刑のことであるが、なぜ6ヶ月も生かしておくのか。この理由はまったくわからなかった。」6ヶ月が経とうとするとき、テレジエンシュタット・グループはハイデブレック収容所に送られることになるとの噂が立った。彼らがガス室送りになることをよく知っていたので、フレッディ・ヒルシュなる人物を説得して、反乱を起こさせようとした。ヒルシュは子供たちの安全に責任を感じていたので、暴力に訴えることを拒んだ。結局、彼は自殺してしまった。SBと記されたユダヤ人を載せた貨物自動車はハイデブレックには向かわなかった。だから、このグループはガス処刑されたにちがいない。誰も、反乱をおこそうとしなかったので、逃亡を決意した。そして、1944年4月7日に決行したという。
ヴルバは、以上のような話を『ショアー』の中でしている。そして、ヴルバの経験は、もう一人のホロコースト生存者と出会ったときに、当然にも話題となった。クラインはヴルバに、彼の同僚が戦時中の彼の体験を知っていたかどうかを訪ねた。最初、ヴルバはこの質問に答えなかった。しかし、後になって、同僚の一人が、ランズマンの映画の中で突然ヴルバの姿を見たときにびっくりしたことに、皮肉な笑いを浮かべながら、触れた。同僚が、ヴルバが映画の中で話したことすべてが真実なのかと尋ねると、ヴルバはこう答えた。
「わかりません。私は俳優にすぎませんでした。台本を読んだだけです。」
そして、彼の同僚は次のようにコメントしている。
「何ということでしょう。あなたが俳優であったとは知りませんでした。だとすると、この映画が俳優なしで製作されているといわれているのはなぜですか。」
クラインはこの事実を耳にすると言葉を失い、これ以上質問しようとはしなかった。彼は、自著の中で、ヴルバの皮肉な笑いを忘れることはできないと述べている。知識をもっている読者であれば、『ショアー』の中でのヴルバの話の大半は、よく知られている事実とは食い違っていることに気がつくであろう。ヴルバは向こう見ずな嘘つきにすぎず、その嘘を簡明な言葉で語ったのである。しかし、彼は一度だけ真実を語っているのではないだろうか。「私は俳優にすぎませんでした。台本を読んだだけです」と述べたときのことである。だからこそ、ヴルバの信じやすい同僚も、彼が笑いを浮かべたとき、皮肉な笑いという印象を受けたのであろう[31]。
D アブラハム・ボンバ、トレブリンカの床屋
ブラッドレイ・スミス
「ホロコーストのオーラル・ヒストリー」と称する9時間半のドキュメンタリー『ショアー』を観た。それは、クロード・ランズマンが製作、監督、出演したものであり、今彼によってプロモートされている。新聞情報によると、ランズマンは、ヘブライ語もイディッシュ語も話せない同化したフランス系ユダヤ人である。1925年にパリで生まれたので、現在、78歳である。彼はジャーナリストとして、長年にわたって、サルトルと有名なフランスの哲学誌Les Temps Modernesと協力し、1970年からは、映画に関心を向けた。映画『ショアー』によって名声を勝ち得た彼は、その後、ドキュメンタリー映画の教授となった。
したがって、ランズマンは、大戦後のフランスを席巻した知的激動の中で25年間活動したことになる。彼はこの25年のあいだに、ジャーナリストとして、専門的なインタビューのやり方を学んできたにちがいない。また、サルトル、ボーヴォアール、カミュ、およびこの偉大なる三人組を批判する人々との付き合いを通じて、一連の思想を追及するやり方を学んだにちがいない。だとすると、ランズマンが制作に10年を費やしたと述べている映画のシーンで、次々と彼の知的退廃がさらけだされているのを観るのは驚くべきことである[32]。
『ショアー』の中での彼のお気に入りのインタビューは、アブラハム・ボンバ、トレブリンカの床屋とのインタビューである。ランズマンはこのシーンに「真実をしぼりだす」というタイトルをつけている。ボンバに好意を抱いてしまっているのは私だけではない。多くの批評家が彼のパフォーマンスにコメントして、彼のことを激賞している。たとえば、ABCテレビのジョージ・ウィルは、『ワシントン・ポスト』紙に、ボンバの話は「衝撃的な映画の中でももっとも衝撃的なエピソードである」と記した。ガス室のホラー物語の目撃証人の中には、信憑性に欠けるために、すぐに目撃証人ではないことがわかってしまう人物もいる。虚偽と即断できないが、耳を傾けてみると、鼻がしらけてしまうような作り話を話しているようなキャラクターであることが分かってしまうような証人もいる。ホロコーストの生存者・目撃証人の中で、ボンバは、この二つのキャラクターを兼ね備えているという意味で、重要人物である。
インタビューシーンが撮影されているやり方からしてすでに、信憑性のないことがわかる。ボンバは自分の店で、お客さんの髪を切っているが、40年前に、「ガス室」で死ぬべき運命にある人々の髪を切っているのと同じような仕草をしている。しかし、フォーリソンが明らかにしたように、このシーン全体が演出されているのである。イスラエルでインタビューを受けているボンバは、このときすでに引退しており、ニューヨークにあった自分の店を手放していた。ランズマンはイスラエルで店を借りて、ボンバに、それが自分の店であるかのように振舞わせたのである[33]。
ボンバの話をたどってみると、彼が4週間ほどトレブリンカにいたとき、ドイツ人が、特別の仕事のために床屋を募った。ボンバはもちろん志願して、SSが囚人の中から指名した16名のユダヤ人の床屋を助けるようになった。彼らは、ガス室のある収容所の第2地区に連れて行かれた。そして、ガス室の内部に案内されると、カポー[34](ほぼ全員ユダヤ人)が、17名の床屋の仕事は、ガス処刑される女性たちの髪を切ることであると説明したという。
ここで、ランズマンは、最大の凶器、すなわちドイツの殺人「ガス室」についてボンバに質問する[35]。
ランズマン:ガス室はどんなふうでしたか。
ボンバ:大きい部屋ではありませんでした。12フィート×12フィートくらいでした[4m×4m]。
不思議なことに、ランズマンは、ここで、トレブリンカのガス室がどのようなものであったのかの調査を終えてしまう。もし私がランズマンであったとすれば、「どんなふうでしたか」と質問するにあたって、もっと具体的に質問したにちがいない。100万にもおよぶ自分と同じユダヤ人がそこで絶滅されたという物語を知っていればなおさらであろう。ガス室の壁は何でできていたのか、屋根は何でできていたのかなどについてボンバに知りたいと思うであろう。換気システムはどのように作動したのか、部屋には明かりがついていたのか、もしついていたとすれば、どのような明かりがついていたのか、ドアは何でできていたのか、どのように気密処理がなされていて、「ガス」が漏れないようになってしたのか。歴史家であれば、このような簡単な質問をすることであろう。ランズマンは、歴史家にかわってこのような質問を投げかければ、20世紀の最大のミステリー、すなわち、「ナチスのガス室」が実際にはどのようなものであったのかを解明する手助けをできたにちがいない。
ボンバは、トレブリンカのガス室を本当に目撃しているのか?この点ついては、ラヘル・アウエルバッハが『死の収容所トレブリンカ』[36]の中でそのガス室について記していることと比較してみると良い。アウエルバッハは、この収容所についての包括的な著作の中では、筆頭の扱いを受けており、イェルサレムのヤド・ヴァシェム・ホロコースト記念博物館の常任研究スタッフであった(1976年に死んでいる)のだから、ガス室に関する彼女の記述を無碍にすべきではないからである。
「ガス室の床は傾斜しており、滑りやすかった。最初に足を踏み入れた者は滑って転んでしまい、起き上がることができなかった。次に入ってきた者は彼らを踏みつけにした。人々は部屋いっぱいに押し込まれた。…[ガス処理の後]25−45分ほどののち、入り口の反対側の扉が開かれ、死体が転げ出てきた。」
この記述だけでは納得できないとすれば、収容所長クルト・フランツに対する1965年のドイツの裁判の判決と比較してみると良い。この判決は、多年にわたる捜査を行ない、すべての目撃証言を収集・検証した上で、ガス室のことを次のように記述している[37]。
「レンガ造りで、コンクリートの土台の上にあったしっかりとした建物には、4×4m(13×13フィート)、高さ2.6mほどの3つのガス室、ディーゼル・エンジン室、収容所の発電室があった。…各ガス室には、それら[入り口]の反対側に、厚い木板で作られた折りたたみドアがあった。それらは、幅2.5m、高さ1.8mほどで、開くときには、現代のガレージのドアのように、折りたたむことができた。ガス室の床はタイル張りであり、傾斜路に向かって傾いていた。」
ジスワフ・ウカシキエヴィチはソ連の調査団のために、いくつかの目撃証言にもとづいて報告書を作成しているが[38]、この記述はその報告書に似ている。
「大きなシャッターがガス室の外壁にあり、それは、上部に向かって開き、死体の搬出に使われた。ガス室はタイル張りであり、床は外側に向かって傾いており、そのために死体の搬出が簡単となった。」
ボンバは、『ショアー』のインタビューを受けているとき、小さなガス室の床がひどくすべりやすいことを忘れてしまっているようである。さらに、シューター/折りたたみドアに方に向かって、ひどく傾斜していることも忘れているようである。事実、ボンバは、シューターや大きな折りたたみドアについても触れることを忘れている。もし、ランズマンが、たとえ表面的にではあったとしても、ホロコースト文献を読んでいたとすれば、ボンバの話には欠落点があることに気づいたことであろう。ランズマンは『ショアー』の製作に10年を費やしたというから、物語が依拠している支柱である、トレブリンカの「ガス室」についての3つの記述を知っていたことであろう。ランズマンは、ガス室が「どんなふうでしたか」という質問に対して、「大きい部屋ではありませんでした」という答えに満足して、次に何が起こったのかを知りたがっている。
ランズマン:詳しく話してくれませんか。
ボンバ:詳しく話せというのですね。…私たちは、移送者が入ってくるまで、…ガス室の中で…待機しています。子供をつれた女性たちがそこに押し込まれる。…彼らは、服を脱いでおり、裸で、服も何も身に着けてはいませんでした。まったく裸でした。脱衣バラックからやってきたからです。…そこで服を脱いだのです。
ランズマン:裸の女性たちが入ってくるのをはじめてみたとき、どんな感じがしましたか。[この種のたわごとをホロコースト・ポルノグラフィーという――B. スミス]
ボンバ:私は、彼ら[ドイツ人]が命じたこと、すなわち、髪を切ったように感じました。
ここには、ガス室での虐殺の目撃者が自分たちの行動を記述している典型的な事例が詰まっている。彼らは、ドイツ人その他が彼らに求めたことなら何でも行なったのである。彼らは、自分たちの同族、ひいては自分の家族――すぐに絶滅されるのであるが――が何らかの準備をするのを手助けするように求められると、すぐにそれを行なったと述べている。私は彼らのことを信用していないが、このような振る舞いは、彼らが世界に見せることを選んだ仮面なのである。私の育った環境では、ボンバのように振舞ったと述べる人々は、つばを吐きかけられるであろう。しかし、ホロコーストの生存者の暮らす逆さま世界では、ボンバのような人物は、殉教者、ひいては英雄とみなされている。ボンバは、彼自身の話によっても、自分の民族の虐殺に手を貸したのではないだろうか。男らしい振る舞いに対する特異な心理的屈折である。
ランズマンは、ガス室がどのようなかたちをしていたのかに対するよりも、ボンバが犠牲者の髪をどのように切ったのかに対して、好奇心をもっているようである。彼は、ボンバが髪を短く刈り込んだのか、鋏を使ったのか、ガス室には鏡があったのかどうかを尋ねている。そして、ボンバは、女性の髪を短く刈り込まなかった、ドイツ人は床屋に鏡をくれなかったと答えている。
ランズマン:鏡はなかったのですか。
ボンバ:はい、ありませんでした。ベンチだけで、椅子もありませんでした。
興味を引く話である。ボンバによると、ドイツ人たちは、小さなガス室の中に、女性と子供たちのために、ベンチを置いたというのである。17個のベンチがあったのかもしれないが、もしランズマンが尋ねてみれば、4つか5つ、6つのベンチがあったのであろう。子供をつれた2名かそれ以上の女性がベンチに座ったにちがいない。どのようにかきわけかきわけ進んだとしても、混雑していたことであろう。17名の床屋、その17名用のベンチ、17名の女性とその子供たちがガス室の中にいるのである。そして、そのガス室といえば、普通のトラクター・ハウスの後部にある小さな寝室の大きさである。そして、髪の毛は飛び散っている。そして、これらの人や物すべてが、折りたたみドア、シューターの方にかなり傾斜している、滑りやすい床の上に存在しているのである。そして、このようなベンチのどれ一つとして、滑り出しはじめないというのである!それだけではない。
ランズマン:16名ほどの床屋がいたといいましたね[ランズマンは、17名とボンバがいったことを忘れている]。1回で、何人の女性の髪を切ったのですか。
ボンバ:一度に、おおよそ、60人から70人のあいだです。
当然、17名の床屋、60−70名の裸の女性が16uの部屋の中にいたということになるボンバの話には、疑問が生じるであろう。しかし、ランズマンは、生存者が自分に語ってくれたことには疑問を表明しようとはしないのである。ランズマンはホロコースト原理主義者である。どのようなカルトであれ、原理主義者の役割は、神聖なる事件の目撃者であったと称する人々の証言を絶対的に受け入れることなのである。
ランズマンは、ボンバが女性と子供たちの絶滅にとりかかっているときに、どのような感じを抱いたのか、さらに聞き出そうとしている。ボンバは、「私は、彼らが命じたこと、すなわち、髪を切ったように感じました」と答えていたが、ランズマンは、「まだ、先ほどの質問には答えていませんが」と問い詰めている。
ボンバ:それについて感情を持つこと、…何かを感じることは非常に難しいのです。…感情など消え去ってしまいます。感情など死んでいたのです。感情などまったく持てないのです。
これは、ガス室殺人の「目撃者」によく見られる回答である。自分の感情が「死んでいた」、「感情などまったく持てない」というボンバの話は、刑事責任を逃れるために、「一時的な心神喪失」を主張する殺人犯の話とよく似ている。殺人犯は、殺人を犯したときには心身喪失していたので、殺人には責任がないと主張するものである。「ガス室」の目撃者も、殺戮作業に関係して働いていたときには感情を失っていたので、自分の行動には責任がないと主張する。その違いは、殺人犯は「精神」を、目撃者は「感情」を失っていたと主張していることだけである。ボンバが自分の感情は「死んでいた」と述べるのは、自分は大量殺戮の共犯者としては有罪ではないと述べているのである。彼は、ドイツ人に対しては、犯罪に関与した咎で、好きなように告発することができ、ドイツ人は永遠に有罪なのであるが、自分の方は永遠に無罪なのである。すばらしい仕組みである。
映画では、ボンバは、トレブリンカでSSのために活動していたときに、自分の感情がどれほど死んでいたのかを語り続けている。自分の故郷の町、同じ通りに住んでいた女性からの髪を受け取ったときのことを話している。
ボンバ:…何人かは親しい友人でした。…『私たちはどうなるの』と尋ねてきました。しかし、何をいえますか。何がいえたでしょう。
そして、ボンバは、批評家たちが『ショアー』の中で一番注目した物語をランズマンにし始める[39]。
ボンバ:床屋として働いていた友人も、私の故郷の町では腕のよい床屋でしたが、その奥さんと妹がガス室に入ってきたのです。…
ランズマン:話を続けてください。お願いします。
ボンバ:ひどすぎる。…
ランズマン:私たちはそうしなくてはならなかったのです。おわかりでしょう。
ボンバ:[涙をこらえながら]できそうもありません。
ランズマン:[非常に穏やかに]そうしなくてはなりません。それがつらいことはわかっています。わかっています。申し訳ありませんが。
ボンバ:[もがきながら]どうか、これ以上は…
ランズマン:お願いします。進まなくてはなりません。
ボンバ:[涙を抑えることができず、一瞬、目線をはずして]つらいことになるといったはずです。彼らはそれ[髪]をバッグに詰めてドイツに送っていた。
ランズマン:オッケー、進みましょう。彼は、自分の奥さんと妹が入ってきたときに、何と答えたのですか。
ボンバ:彼らは彼と彼の妹の夫に話しかけようとしました。しかし、これが人生の最後の瞬間であるとはいえませんでした。後ろにはドイツのナチス、SS隊員がいたからです。もしも、ひとことでも言えば、死を迎えようとしている自分の妻と女性だけではなく、自分たちも彼女たちと同じ運命をたどらざるをえないことを知っていたからです。しかし、彼らは、彼女たちのためにできる限りのことはした。1秒でも長く、1分でも長く、彼女たちを抱きしめ、キスしようとした。二度と会うことはないと知っていたからです。
ボンバの話の中の新しい情報を付け加えて、これまでの話を私なりに整理すれば、その骨子は、簡明で明確である。4m×4mのガス室の中に、60−70名の女性とその子供たち、床屋、ベンチに加えて、「SS隊員」もいた。彼らが何名であるかわからないが、ボンバは複数形を使っているので、少なくとも2名はいたはずである。ランズマンが質問すれば、ボンバは10名か15名のSS隊員がそこにいたと答えるかもしれない。そして、SS隊員は、ガス室の中で床屋たちに、裸の女性を抱きしめて、キスすることを許したといううれしいニュースが続く。ボンバが語っているのは結婚した夫婦についてだけである。SS隊員は、床屋のうちの誰かと結婚しているのは、裸の女性のうちどちらの方であるとどのように知ることができたのか、とランズマンは質問することができたにちがいない。裸の女性たちが結婚証明書を持ってガス室に入ってきたとは考えられないからである。床屋たちは、自分たちの結婚証明書のコピーを、ボンバが目撃したというような再会の場面に備えて、持っていることをSS隊員に頼んでいたのであろうか。あるいは、SS隊員は、誰が結婚していたのか、していなかったのかということについて、床屋の言葉を信じていたのかもしれない。もし信じていたとすれば、それはSS隊員が寛大な精神を持っていた――ユダヤ人生存者はSS隊員が寛大な精神を持っていたと語ってはこなかったが――ことを明らかにしていることになる。
彼女が自分の夫の姿を見かけたとき、彼女の心中には何が去来するであろうか、想像していただきたい。助かるかもしれないという希望が浮かんだにちがいない。次に、自分の夫が話しかけもせずに、自分の髪を切っているときに、彼女は何を思ったのであろうか。夫が1分ほど彼女を黙って抱きしめ、夫の頬が優しく自分の頭に押し付けられ、ついで、鋏を持ったまま振り返って、自分の番を辛抱強く待っていた次の女性の髪をとかし始めるときに感じたにちがいない彼女の感情を想像していただきたい。この夫の妻は、自分の髪を指でといて、こう考えたにちがいない。
「あなたがどのような男であるか知っていました。結婚したときにも間抜けであったし、今日も間抜けなのです。」
私は、『ショアー』の中でのボンバの証言について多くの疑問点を抱いているが、そのこと確証してくれるような考察も数多く存在している。アウエルバッハの研究は、ボンバがガス室物語を捏造していることを示唆しており、それゆえに、ボンバの話を検証すれば、彼の証人としての信憑性は失われるであろう。しかし、アウエルバッハの「トレブリンカのガス室」は、100万人のユダヤ人を絶滅するために使われた武器についての文書資料にもとづく研究として残ってしまっている。だから、アウエルバッハの学術的能力と客観性を見きわめるために、彼女の著作『トレブリンカの野原にて』から引用しておこう。
「ポーランド人は、ユダヤ人の死体から製造された石鹸について依然として話している。『石鹸のために送られた』というのは、ポーランド人が、トレブリンカ、ベウゼック、ソビボルへの移送について語るときに、いつも使っている表現である。ダンツィヒ近郊のラングフールのシュパンナー博士の石鹸工場が発見されたことは、ポーランド人たちの疑いには十分な根拠があったことを立証した。目撃証人は、死体が薪の山で焼却されたとき、脂肪を集めるために、格子のあいだになべがおかれたと述べているが、これは確証されていない。だが、トレブリンカその他の死の工場で、ドイツ人が脂肪を集めることに失敗して、数トンの貴重な脂肪を浪費してしまったとしても、それはドイツ人の失策にすぎない。彼らは脂肪を集める能力を十分に持っていた。そのようなことは、完全にドイツ人の嗜好と一致していた。トレブリンカその他の死の工場で、そのことが行なわれなかったとしても、それは最新の製造技術がそこにはなかったからにすぎない。ドイツ人がヨーロッパのほかの場所に行っていれば。この過ちを繰り替えさないことであろう。」
アウエルバッハの研究書の中のこのような一文を読んだとき、アウエルバッハが戦後「ポーランドのユダヤ人歴史委員会の最初の積極的メンバー」であったこと、イスラエルに移住してからは、「ヤド・ヴァシェム・ホロコースト記念博物館常勤研究員」となったこと、この研究書『トレブリンカの野原にて』がホロコースト・ライブラリー――生存者によって設立・運営され、ユダヤ系出版社の大手ショッケンが販売元となっている[40]――によって1979年に再版されていることを信じることがなかなかできなかった。
ダンツィヒ近郊のラングフールのシュパンナー教授の「石鹸工場」は、職業的な中傷者の営利目的の報告書にもとづいた、自称ユダヤ歴史委員会のメンバーの捏造であり、その後、世界各地のユダヤ人ホロコースト記念施設の研究スタッフによって、真実であるとされ続けてきた。何の文書資料的根拠も示されていないこの「工場」の写真は、イスラエルで出版されている『ユダヤ百科事典』に掲載され、この百科事典は合衆国中の大図書館の書架に置かれているのである。
さらに、アウエルバッハは、次のような前代未聞の科学的発見によって、読者を驚かせている[41]。
「トレブリンカでは、その他の場所と同様に、絶滅の科学の点で、かなりの前進が見られた。すなわち、女性の死体は男性の死体よりもよく燃えるという、きわめて独創的な発見などである。
『男性の死体は女性の死体なしでは燃えないものである。』…女性の死体は火をつけるために、もっと正確にいえば、死体の山のあいだに燃えている場所を設定するために使われた。…血も、第一級の燃焼資材であることがわかった。…若者の死体は、老人の死体よりも速く燃える。…ガソリンと、太った女性の死体の助けを借りて、死体の山は炎になっていった。」
また、アウエルバッハは、ヒムラーがトレブリンカを訪問したときのことを次のように書いている。
「1943年2月末にヒムラーがトレブリンカを訪問したとき、彼のために特別な『アトラクション』を準備しなくてはならないという話となった。このために若い女性のグループがとくに選抜された。彼女たちは裸で作業に従事し、『浴室』に押し込まれ、死体となって出てきたのであるが、その際、SSと警察の最高指導者が彼女たちの裸の姿を見て芸術的に楽しむことができるようにするためであった。イタリアのことわざにあるとおり、『Se non è vero, è ben
trovato.』(たとえ本物ではなくても、うまく作られている)というわけである。」(48頁)
ホロコースト・ポルノグラフィーのもう一つの事例である。
ポーランド委員会はニュルンベルク裁判に先立って、トレブリンカ収容所の跡地を法医学的に調査したが、収容所およびその周辺には大量埋葬地が一つも存在しない、最大数千名のいくつかの大量埋葬地――その犠牲者の大半は虐殺による死者ではない――が収容所の南約500mのところに存在しているとの結論を出している[42]。興味深いことに、アウエルバッハはこの調査に参加しているが、自分の見解を修正する代わりに、この非常に重要な調査結果を隠匿してしまっている。
…、…、…
ランズマンの『ショアー』はホロコースト・ドキュメンタリー映画の傑作とみなされているのかもしれない。もしそうであるとすると、『ショアー』は、ホロコースト・ドキュメンタリー映画がかつてないほど破産していることを明瞭に証明していることになる。結局、9時間という上映時間の中で、ランズマンは、自分と自分の目撃証人が述べている話の文書資料的もしくは物理的証拠を一つたりとも提示していない。9時間という上映時間の大半は、鉄道線路、石、建物、田舎の風景の描写に費やされており、それがホロコースト「物語」と関連しているとされるのは、ほのめかしやイマジネーションを介してだけである。ランズマン自身がこの洗脳技術を次のように明瞭に述べている[43]。
「トレブリンカの石をあらゆる角度から撮影した結果、それらが終にしゃべったのです。」
ランズマンがトレブリンカの石という場合、それは、トレブリンカ収容所があったとされる地域に戦後立てられた石の野原のことを指している。もちろん、この石は、そこの置かれる前に何が起こったのかについて何も語ることはできない。しかし、もしも、この地域に地質学的な調査を行なったならば、そして、1946年のポーランドの法医学的調査が正しければ、この記念碑の地下にある土に埋もれた石は、トレブリンカ周囲の土壌が大量埋葬地の掘り起こしや、巨大な戸外焼却によってかき回されたかどうかを語ることができるであろう。
しかし、ランズマンはこれらの石に語らせることを望まないであろう。そのようなことをしたならば、彼のライフワークは崩壊してしまうし、彼の信念も崩壊してしまうからである。1994年、ランズマンは、文書資料的証拠、法医学的証拠ではなく、心理的には印象的ではあるが、科学的には根拠のない証言だけで、自分の映画を構成した理由を次のように述べている[44]。
「『ショアー』には文書資料は一つも登場していません。私は、文書資料を使って、製作したり、考えたりするわけではないからです。それに、そんなものは存在していません。…もしも、アウシュヴィッツの焼却棟2のガス室の中で3000名のユダヤ人の男女、子供たちが一緒にガス処刑されていく様子を撮影したSSの秘密フィルムを発見したとしても、それを上映しないどころか、廃棄してしまうでしょう。理由は説明できません。おのずからそうなるのです。」
セルジュ・チヨンが述べているように[45]、これは、愚鈍な人物の発言としかみえない。とすれば、ランズマンが1997年に自分の映画『ショアー』について語っている次の一文を読んでいただきたい[46]。
「理解しようとしないことが私の鉄の法則でした。」
だとすると、『ショアー』は何について表現しているのか。何も表現していないのである。ランズマン氏はこの点を率直に述べている[47]。
「無からこの映画を作製すること、文書資料なしで、すべてを作り出すことが必要でした。」
「だから、痕跡の痕跡の痕跡から映画を作ったといえます。…無から出発して無に戻ったのです。」[48]
アンドレ・グリュックスマンはもっと洗練された表現を使って、この映画は何が起ったのではなく、何が起ったはずなのか、何がありえたのか、何が想像できるかについて描いていると述べている[49]。
「この映画の強みは、何が起ったのかを表現しているところにはない。事実、この映画はそのようなことを表現することを差し控えており、起ったことの可能性について表現している。」
Se non è vero, è ben trovato.「たとえ本物ではなくても、うまく作られている」というのである。
[1] Statement by
Ephraim Kaye, described as "director of seminars for educators from abroad
at Yad Vashem in
[2] "Report
'Shoah' Got Grant from
[3] "Report
'Shoah' Got Grant from
[4] "Indochine:
Guerre des socialismes et mort des peuples," Les Temps Modernes, Issue No.
402, January 1980.
[5] Hilberg's claim is
to be found in The Politics of Memory: The Journey of a Holocaust Historian, a
very funny book published by Ivan R. Dee (
[6] Claude Lanzmann,
Shoah: An Oral History of the Holocaust: The Complete Text of the Film (with a
preface by Simone de Beauvoir).
[7] See, for example:
Bradley Smith, "Shoah: Abraham Bomba, the Barber," The Journal of
Historical Review, Summer 1986, pp. 244-253; Robert Faurisson,
"Shoah" (review of the film), The Journal of Historical Review,
Spring 1988, pp. 85-92; Theodore J. O'Keefe, "Shoah" (review of the
book), The Journal of Historical Review, Spring 1988, pp. 92-95.
[8] The Jewish Journal, New York, June 27, 1986, p. 3, and
the Jewish Telegraph Agency, June 20, 1986.
[9] “Ce que je n’ai pas dit dans Shoah,” VSD, interview
by Jean-Pierre Chabrol, July 9, 1987, especially p. 11; this information was
first discovered and published by Robert Faurisson, Journal of Historical Review, 8(1) (1988), pp. 85-92, here p. 87.
[10] The most frequently quoted mainstream books on
Treblinka are probably: Yitzhak Arad, Belzec, Sobibor, Treblinka.
The Operation Reinhard Death Camps,
[11] Weber, Mark, Andrew Allen, “Treblinka”, in: Journal of
Historical Review, 12(2) (1992), pp. 133-158.
[12] “The Treblinka Holocaust”, in: Ernst Gauss (ed.), Dissecting
the Holocaust, The Growing Critique of .Truth” and
.Memory”, Theses & Dissertation Press,
[13] Treblinka. Vernichtungslager oder Durchgangslager?, Castle Hill
Publishers, Hastings 2002.
[14] Friedrich P. Berg, “The Diesel Gas Chambers: Ideal
for Torture Absurd for Murder”, in op. cit. (note 5), pp. 435-465.
[15] W. Luftl, “Sollen Lugen kunftig Pflicht sein?”, Deutschland
in Geschichte und Gegenwart 41(1) (1993),
pp. 13f. At the time this paper was written, Walter Luftl was President of the
Austrian Association of Civil Engineers.
[16] Yuri Suhl, The story of the Jewish resistance
in Nazi Europe, Anthology on Armed Jewish Resistance
(1939-1945), Vol. 4, 1984, pp. 73ff.
[17] Ibid., p. 75, and Vol. 2, p. 48 and 609.
[18] 今日の技術では、ほほすべてがリモート・コントロール可能であるが、70年末と80年初期には、カメラとリモート・コントロールは、大きく、騒音をたて、簡単には利用できなかった。
[19] シャリングは、チェルムノ収容所近くでの「ガス車」の使用について証言している。
[20] Ibid., p. 52.
[21] This was taken from the book Claude Lanzmann, Shoah: An
Oral History of the Holocaust, Pantheon Books,
[22] Ibid., p. 63.
[23]
[24] クラインは、ハンガリー生まれのユダヤ人で、1947年にスウェーデンに移住した。そこで医学を学び、その後精力的に癌研究を行なった。現在では、退職している。
[25] Krystof Duni-Wascowicz, Resistance in the Nazi concentration
camps 1933-1945,
[26] アルフレド・ヴェツラーとともに cf. Heiner ichtenstein, Warum Auschwitz nicht bombardiert
wurde,
[27] Rudolf
Vrba, I Cannot Forgive,
[28] Claude
Lanzmann, Shoah, Paris 1985.
[29] Cf.
protocol, Queen versus Zundel,
[30] Cf. C.O. Nordling, “Was geschah den 75.000 aus
Frankreich deportierten Juden?”, VffG 1(4) (1997), pp. 248-251.
[31] この論文を独訳したハンス・ルドルフは次のように指摘している。「2002年9月22日の週、バド・キッシンゲン(バイエルン)の歩行者地区で、バド・キッシンゲン市文化局がランズマンの映画『ショアー』を上演するとの大きなポスターを見かけた。このポスターには、強調自体で次のような文章が掲載されていた。『ランズマン:すべての証人が嘘つきであることはよく知っています。…しかし、私は、ほとんど忘れ去られているショアーのことを人々の記憶の中に呼び戻すことに成功しました。』
[32] この映画のその他の批評については、Robert
Faurisson, Journal of Historical Review, 8(1) (1988), pp. 85-92を参照.映画についてのランズマン自身の発言については、フォーリソン論文に部分的に依拠した。Theodore O’Keefe, ibid., pp. 92-95; Serge Thion, ibid., 16 (6), pp. 8-10, ここにも掲載されている引用が存在している。
[33] Jean-Charles Szurek, L’Autre Groupe, 10, 1986, p. 65; Times (London), March 2, 1986; L’Autre
Journal, May 985, p. 47; see Robert
Faurisson, Journal of Historical Review, 8(1)
(1988), pp. 85-92, here p. 87f.
[34] 囚人長
[35] Claude
Lanzmann, Shoah: An Oral History of the Holocaust, Pantheon
Books,
this article are from
the Pantheon Books edition, pages 111-117.
[36] Rachael Auerbach, “In The Fields of Treblinka”, in:
Alexander Donat (ed.), The Death
[37] Quoted in
[38] URSS-344. Gosudarstvenni Archiv Rossiiskoi Federatsii
(State Archive of the
[39] []内のリアクションは、出版されているテキストには存在していない。私が、記憶から付け加えたものである。私は映画を観ているとき、ボンバの深刻な苦悩に感動せざるをえなかった。彼の涙は私の涙を誘った。同時に、彼の話が笑止千万であると思っていたことにも気づいていた。精神病理学者にとっては、格好の事例である。
[40] R.
Auerbach op. cit. (note 5), pp. 32f.
[41] Ibid., p. 38.
[42] See C.
Mattogno, J. Graf, op. cit. (note ), p.
104-114.
[43] Liberation, April 25,1985, p. 22.
[44] Le Monde, March 3, 1994.
[45] Serge Thion, “The Dictatorship of Imbecility”, Journal of
Historical Review,16(6)
(1997), p. 8-10,
[46] Le Monde, June 12, 1997.
[47] Le Matin de Paris, April 29, 1985, p. 12.
[48] L’Express, May 10, 1985, p. 40.
[49] Le Droit de vivre, February-March 1986, p. 21