M. シャーマー氏のガス室の『ニセ科学』

 

歴史的修正主義研究会編・評注

最終修正日:2007年3月11日

 

本評注は、M. シャーマー 著 岡田靖史 訳 『なぜ人はニセ科学を信じるのか』(早川書房)第14章「どうすればホロコーストがあったことがわかるのか」の「ガス室と火葬場」という節を批判的に検討したものである。本来ならば、シャーマーのテキスト原文と岡田氏による邦訳テキストとを照らし合わせながら検討を進めるべきなのであろうが、昨今、岡田氏の邦訳テキストだけに依拠して、ホロコースト修正主義を批判しているつもりになっている人々が散見されるので、あえて、岡田氏の邦訳テキストだけを検討の対象とした。

・・・・・・・・がシャーマーの邦訳テキスト、赤字部分が当研究会の評注である。またマーク部分は当研究会による。 

 

目次

<「ガス室」、「火葬場[焼却棟]」という用語のまやかし>

<「証拠の収束」というまやかし>

<まやかしの定番目撃証人@=嘘つきミューラー>

<まやかしの定番目撃証人A=「改悛した」SS隊員ブロード>

<まやかしの定番目撃証人B=「見世物裁判の生贄」SS医師クレマー>

<まやかしの定番写真シリーズ@=「野焼き」の写真>

<まやかしの定番写真シリーズA=焼却棟Uの写真>

<まやかしの定番写真シリーズB=焼却棟に向かう囚人たちの隊列>

 

<「ガス室」、「火葬場[焼却棟]」という用語のまやかし>

否定論者は、ガス室は火葬場の使用は否定しないが、ガス室はあくまでも衣服や毛布からシラミを駆除するために、火葬場は収容所で「自然」死した人々の死体を処理するために使われただけだと主張している。ナチスが、ガス室や火葬場を大量殺人にもちいたという証拠をくわしく検証する前に、さまざまな資料による証拠の収束をざっと見てみよう。

[「ガス室」、「火葬場」(焼却棟)なる用語を曖昧に使用するのは、正史派の伝統的詐術である。正史派が「殺人ガス室」が実在したと主張する焼却棟T、焼却棟U、焼却棟V、焼却棟W、焼却棟X(ブンカー1、2については図面さえもない)の図面には「ガス室」なる呼称はまったく登場しない。焼却棟T、U、Vの部屋は「死体安置室」という呼称であり、焼却棟W、Xの部屋の呼称は判然としていない。「ガス室」なる呼称が登場しているのは、害虫駆除施設の中の害虫駆除室だけである。それゆえ、「ガス室」はあくまでも害虫駆除室として使用されたのであって、論点は、焼却棟T-Xのおもに「死体安置室」という呼称を持つ部屋が、「殺人ガス室」として使われたかどうかである。正史派は戦後一貫して、「害虫駆除ガス室」と彼らの妄想するところの「殺人ガス室」の境界を曖昧にすることで、あたかも、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の焼却棟に「ガス室」なる呼称を持つ部屋が存在するかのような印象を作り出すという詐術を使ってきた。]

 

[アウシュヴィッツT(中央収容所)の焼却棟の図面]

[C Leichenhalle死体安置室)]

 

[アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所にはチクロンBを使った害虫駆除室は、B1aとb地区の建物5aと5bの西翼と東翼に完全なままで現存している。オリジナルの図面は、これらの部屋を、当時害虫駆除室を指す用語として一般的に使われていたGaskammerと呼んでいる]

[左側の上の部屋Gaskammer(記号(a)の下)]

 

 

<「証拠の収束」というまやかし>

<ナチの公式記録>――大量のチクロン-B(青酸ガスの商品名)、ガス室と火葬場の設計図の発注書、そしてガス室と火葬場の建設資材の発注書

[チクロンBの発注を大量ガス処刑の証拠とするのはニュルンベルク裁判にはじまる正史派の伝統的詐術である。ニュルンベルク裁判では、アウシュヴィッツだけではなく、オラニエンブルク(ザクセンハウゼン)へのチクロンB発注および納入が、そこでの大量ガス処刑の証拠として提出された。しかし、今日では、オラニエンブルク(ザクセンハウゼン)では、チクロンBを使った大量ガス処刑が実行されていたと主張しているものは誰もいない

前節でも指摘したように、ガス室の設計図の発注書、ガス室の建設資材の発注書など存在しない。死体安置室を含む焼却棟の設計図、建設資材の発注・納品書だけが存在しているにすぎない]

<目撃証言>――生存者からの報告、ユダヤ人ゾンダーコマンドの日記、ガス室や火葬場が大量殺人に使われていたと語る警備兵や司令官全員の告白。

<写真>――収容所の写真だけではなく、アウシュビッツでの死体の焼却現場を隠し撮りしたものや、アウシュビッツ-ビルケナウでガス室に行進させられている囚人たちを撮った連合国の航空写真。

<収容所本体>――収容所の建物と備品、そしてガス室と火葬場の両方がたくさんの人々を殺すのに使われたことを示す、現代の法医学検査の結果。

 

それひとつでガス室や火葬場の使用を証明する資料はない。いくつもの資料の収束によって、この冷酷な結論は導きだされるのだ。たとえば、命令書にある収容所へのチクロン-Bの納品は、そこにチクロン-Bの缶が残っていること、ガス室でチクロン-Bが使われたという目撃者の報告によってさらにたしかなものになる。

[この「証拠の収束(収斂)」論も、大量ガス処刑に関する決定的な証拠を発見・明示することができない正史派が、苦し紛れに使うようになったまやかしである。

彼らの言う「証拠の収束」とは、ガス処刑が行なわれたという「目撃証言」の信憑性を問うこともせず、矛盾をはらんだ証言内容のつじつまを合わせるために、それらしき「痕跡」をつまみ食いして、事の詳細にあまり通じていない人々に対して印象操作を行なっているにすぎない。」

 

<まやかしの定番目撃証人@=嘘つきミューラー>

否定論者はガス室の使用自体について、この計画の犠牲者から、実際のガス室使用に関する目撃証言がまったく取れていないのはなぜかと訊いてくる(バッツ1976年)。これは、カンボジアの殺害原野、あるいはスターリンの粛清を生きのびた人間が、自分の死刑執行人の話をまた蒸し返したりはしないとの同じ理屈だろう。われわれが手にしている数百件という目撃証言[大嘘!数百件の目撃証言をあげてもらいたいものである。実際にガス処刑の様子を述べている目撃者の数は、多くても 10 数であり、繰り返し、同じ名前が登場している。ヘス、ブロード、ヴルバ、ミューラー、タウバー、ドラゴン、ニーシュリ、ベンデル、ゲルシュタイン、ヴィエルニクなどである]には、SS隊員やナチの医師だけではなく、死体をガス室から引き出し、火葬場に運んだゾンダーコマンドからのものもある。フィリップ・ミューラーが、『アウシュビッツの目撃者――ガス室の三年間』の中で、欺瞞とガス処理の過程について次のように記している。

<ミューラーの嘘のコレクション>

焼却棟Wのところで目にしたのですが、焼却棟の責任者モルが子供を母親から奪い取りました。近くには、死体が焼却されている大きな壕が二つありました。モルはその子供を、壕の周囲の溝に集められている煮えたぎった脂肪の中に投げ込みました。…焼却棟Wの近くには二つの壕がありました。長さ 40m、幅6−8m、深さ2.5mほどでした。死体からでてくる脂肪は端に集まっていました。私たちは、この脂肪を死体に注ぎかけなくてはなりませんでした。

「突然、数名の裸の若い女性が私のところにやってきた。彼女たちは、黙って私の前に立ち、考え込みながら私をじっと見つめ、激しく頭を揺らした。ついに、その一人が勇気を奮い起こして、私に話しかけた。『あなたは自分の意志で私たちとともに死ぬことを選択しました。その決意は無意味であると伝えに来ました。私たちは死ななくてはなりません。 しかしあなたには、助かるチャンスがあります。収容所に帰って、私たちの最後の瞬間の様子を伝えてください。彼らにいっさいの幻想を捨て去ることを説明してください。彼らには子供たちがいないので、それは簡単なことでしょう。多分、あなたはこのおそろしい悲劇を生き延びることでしょうから、何が起こったのかをすべての人々に伝えてください。もう一つあります。私が死んだら、金のネックレスを取り、それをボーイフレンドのサーシャに渡してください。彼はパン屋さんで働いています。ヤナからの愛と伝えてください。すべてが終われば、ここで私を見いだすでしょう。』彼女は、私の立っているコンクリートの柱の隣の場所を指さした。これが彼女の最後の言葉だった。私は、死を目前とした彼女の冷静さと超然さに驚き、心を大きく動かされた。そして、彼女のさわやかさにも。私が彼女の心動かされる話に答える前に、彼女は私の手を取って、ガス室のドアの前に引きずっていった。彼女たちは私をドンと押し、私は SS隊員の真ん中に出た。

「青黒の髪をした非常に美しい女性が右の靴を脱いでいたが、トラックに乗っていた彼らはこの女性に引きつけられて突然トラックを止めた。この女性は、二人の男が自分に色目を使っていることに気づくと、そそるようなストリップティーズのようなものを始めた。彼女はスカートをあげ、腿とガードルが見えるようにした。ゆっくりとストッキングを脱ぎ、足からとった。…そして、ブラウスを脱いで、好色な観客の前にブラジャーだけで立った。それから、左手をコンクリートの壁に当ててかがみ、少しばかり足を持ち上げて、靴を脱いだ。そのあとに起こったことは電光石火のようであった。彼女は自分の靴をすばやく手にして、そのハイヒールでカーッカーナックの額を殴った。…そして、この若い女性は彼に身を投げかけて、すばやくピストルを奪った。銃声がした。シリンガーが叫び声をあげて、地面に倒れた。数秒後、カーッカーナックにも銃が向けられたが、わずかにそれた。」

「SSの医師たち、とくに、SS大尉キットとSS中尉ウェーバーは、ときどき焼却棟を訪れていた。彼らが訪れているときには、屠殺場で働いているかのようであった。彼らは牛の売人のように、まだ生きている男性と女性の太ももやふくらはぎにさわり、犠牲者が処刑される前に、極上の品を選別した。処刑が終わると、選ばれた死体が台の上に上げられた。医師たちは、太ももやふくらはぎからまだ温かい肉を切り取り、それを容器の中に投げ込んだ。射殺された人々の筋肉はまだ伸びたり、縮んだりしており、バケツを飛び上がらせた。

 

<まやかしの定番目撃証人A=「改悛した」SS隊員ブロード>

また警備兵たちの告白もある。SS伍長のペリー・ブロードがイギリス軍に、ドイツ本土内の占領地区で捕らえられたのは1945年5月6日のことだった。ブロードは1942年「ポリティカル・セクション」としてアウシュビッツに着任し、1945年1月の収容所の解放まで駐在していた。逮捕後彼はイギリス軍の通訳としてはたらきながら、回想録を執筆し、1945年7月、それがイギリス軍情報部の手に渡った。

<プレサックのブロード論>

「[ブロードは][1945年]5月にイギリス軍のもとに出頭し、彼らのために働き始めた。彼は自分の記憶にもとづいてアウシュヴィッツについての報告を書いたが、それは奇妙な文体であった。ミュンスター収容所で彼と接触していたロンドン在住のポーランド人が彼に示唆したものであろう。1947年に釈放されてからも、彼はイギリス人のために働き続けた。自分の命を救うためであれば、どのような人物であっても告発し、ニュルンベルクでも、ハンブルクのブルーノ・テシュ裁判でも証言した。」(J.-C. Pressac, Les crematoires d’Auschwitz. La machinerie du meurtre de masse, CNRS Editions, Paris 1993, p. 131.)

1945年12月、彼は宣誓の上、その内容が真実であると証言した。1947年9月29日、その回想録は英語に翻訳され、ニュルンベルク裁判の際、ガス室が大量殺人の手段だったという証拠として提出された。

<ヴィダル・ナケのブロード証言評>

「アウシュヴィッツの文書の中には、まったく勝者の言語を採用したかのような印象を抱かせる証言がある。例えば、SS隊員ペリー・ブロードの証言がそれである。彼はアウシュヴィッツ政治部、すなわちゲシュタポ・メンバーであったが、1945年に、イギリス人のために、アウシュヴィッツについて覚え書を書いている。そこでは、彼はまったくの第三者のように語っている。」(ヴィダル・ナケ『記憶の暗殺者』)

 

<プレサックのブロード証言評>

「歴史的には、この話は、その『真実』らしい、また『驚くべきような』雰囲気にもかかわらず、その現在のバージョンのままでは、利用できないものである。それは、ポーランド人によって、ポーランド人のためにリライトされている。」(J.-C. Pressac, Auschwitz: Technique and operation of the gas chambers, The Beate Klarsfeld Foundation, New York 1989, pp. 162.)

 

1947年末、彼は釈放された。1959年、アウシュビッツのSS隊員の裁判で証言するために召喚されたとき、ブロードはその回想録の執筆者は自分であると認め、その正当性を確認し、何も取り消すことはなかった。

<フランクフルトのアウシュヴィッツ裁判でのブロードの証言>

1945年、私はアウシュヴィッツについての報告を書き、それをミュンスターのイギリス軍収容所のイギリス人に渡しました。ここで私の報告書が作られました。ここで、写真コピーを渡されたので、それを読み通しました。私が書いた部分もありましたが、他人が手を加えたと思われる箇所もありました。本物ではない箇所もありました。このようなものが私の手によるものであることに驚きました。」(H. Langbein, Der Auschwitz-Prozess. Eine Dokumentation, Europa Verlag, Vienna 1965, p. 537.

 

ブロードは拷問を受けたこともないし、この告白によって得たものなどほとんどなく、それどころかすべてを失っている。撤回する機会を与えられたとき、それも裁判で確かに機会を与えられたのに、彼は証言を撤回しなかったのだ。

<ブロードに対する司法的処分>

「この裁判の過程で、ペリー・ブロードは重罪を犯した咎で、何人かの証人から告発されていた。そのために、1959年5月30日に逮捕され、予備調査、1964年に始まる裁判の過程でも、拘束されていた。1965年8月20日、彼は、フランクフルト地方裁判所から4年の禁固刑を宣告されたが、その刑期は、彼が1959年から刑務所で過ごした期間と一致していた。彼の罪状は、選別と処刑22回関与したこと、すなわち、集団殺人に集団的に協力した咎であった。結局、大量殺人犯と宣告されたブロードは、終戦直後と同じように、フランクフルト裁判でも、自由な身で法廷を去った。」(G. Rudolf, From the Files of the Frankfurt Auschwitz Trial)

 

否定論者は、ブロードの証言にある4分というその処理時間が、たとえばヘス司令によれば20分以上だったというような、他の人々の供述と食いちがっている点を指摘する。このような矛盾をたてに、否定論者はその証言の有効性を退けてしまう。

<ブロード証言が虚偽である理由(J. グラーフ)>

1. ブロードは、区画全域が「髪の毛が燃えるような」悪臭を放っていたと述べているが、それはありえない。焼却棟はこのような悪臭を放出しないからである。

2. ブロードは各燃焼室に一時に4−6体が押し込められたと述べているが、それは技術的にありえない

3. 彼は、焼却棟の煙突から炎が噴出していたという伝説をオウム返しにしている。

4. 彼は、大量射殺がビルケナウ近くの森で行なわれたと述べているが、その事件はまったく確証されていない。

5. 彼も、焼却壕についての妄想話を繰り返している。

6. ガス地下室として機能していたといわれる焼却棟UとVの死体安置室に一時に4000名が押し込められたことを目撃したと主張しているが、これらの死体安置室は210uであるので、1uあたり19名が押し込められたことになる。」

 

 

<まやかしの定番目撃証人B=「見世物裁判の生贄」SS医師クレマー>

ブロードの証言を収容所所属の内科医、ヨハン・パウル・クレマー医師のそれとくらべてみよう。

1942年9月2日:午前三時の特別任務にはじめて立ち会う。これにくらべれば、ダンテの『地獄編』など茶番だろう。アウシュビィッツが絶滅収容所と呼ばれるのももっともだ!

1942年9月5日。正午に女性収容所の特別任務に立ち会う――こんなに恐ろしいものはない。保健局主任のチローが、いま自分たちがいるこの場所は<世界の尻の穴>だと言ったが、そのとおりだ(1994/162ページ)。」

<クレマー日記の分析(G.ルドルフ:『ホロコースト講義』より

「クレマーの日記だけではなく、さまざまな資料によると、この当時、チフス、マラリア、赤痢が破局的に蔓延していました。ひどい衰弱(このために、「Muselmen」という表現)と止めることのできない下痢(このために「世界の肛門」という表現)は、チフスと赤痢の症状であり、これだけで、アウシュヴィッツに「世界の肛門」というあだ名を与えるには十分でした。

この疫病によって数千の犠牲者が出たことを考えると、クレマーがアウシュヴィッツを指して「絶滅の収容所」という単語を選んだ点も明らかです。ただし、クレマーが「ガス処理」という表現を使っているのは一回だけで、それも、囚人バラックの燻蒸との関連で使っているだけです

特別行動(Sonderaktionen)」という単語は殺人ガス処刑のことを指しているということがよく云われてきましたが、9月5日と10月12日の項目は、この主張とは矛盾しています。

彼は「オランダからの特別行動に(bei einer Sonderaktion aus Holland)」という表現を使っていますが、これは、オランダ系ユダヤ人の移送を指している用語に違いありません。そうでなければ、「オランダからのユダヤ人に対する特別行動に(Sonderaktion an Juden aus Holland)」と書いたはずだからです。

同じように、移送集団が恐ろしい光景を引き起こしたという事実は、クレマーが大量処刑を目撃したことを立証しているわけではありません。

まったく無実なのに移送されてきた人々のなかには、あらゆる噂に惑わされてパニック状態におちいっており、また、つらい長旅のためにまったく消耗してしまって 到着したときにパニック状態におちいった人がいたに違いありません。これからどうなるのか不安にとらわれて、命乞いをした人々がいても不思議なことではないのです。」

 

否定論者は、クレマーが「特別任務」と呼ぶ行為を「ガス処理」ではないととらえているが、1947年12月にクラコフでおこなわれたアウシュビッツ収容所守備隊の裁判で、クレマーは「特別任務」というものがどういうものか、くわしく述べている。

[シャーマーが、スターリン主義者による「見世物裁判」での被告人の「自白」を自説の根拠にしているとすれば、あまりにも無残である

シャーマーは、ソ連における1930年代の粛清裁判、戦時中のソ連のハリコフ、クラスノダル裁判(殺人ガス車が登場する)、もしくは戦後の東欧諸国で開かれた粛清裁判の「自白」の信憑性にまったく疑いを抱いていないのであろうか?

クレマーを告発したアウシュヴィッツ収容所守備隊裁判検事は、裁判冒頭の起訴状の中で、「特別行動」とはガス処刑の同義語であると述べ、『被告クレマーは、アウシュヴィッツでの短期間の滞在のあいだに、14回の殺戮(ガス処刑)に関与している。9月2日から28日のあいだに、彼は、9回の同じような『特別行動』に参加している』と糾弾している。

絞首台のロープが彼の目の前にぶら下がっていたのである。

それゆえ、クレマーには、スターリン主義者による「見世物裁判」の被告たちと同様に、検事側の筋書き通りに「自白し」、その罪を認めるしか自分の命を救う道はなかった。結局、彼は、囚人の「選別」(検事側のいうガス室送り)に関与した咎で死刑を宣告されたが、恩赦されて、1958年に釈放された。]

 

ブロードやクレマーの報告――それらはまだまだたくさんある[大嘘!]――がいくつも集まってガス室や火葬場によるナチスの大量虐殺を裏づける証拠となるのだ。

[要するに、シャーマーが「大量ガス処刑」の「目撃証人」としてあげているのは、復讐のために妄想をたくましくするユダヤ人特別労務班員ミューラー、勝者にこびへつらい、彼らの気に入るような嘘の証言を並び立てるブロード、自分の命を救うために検事側の言うとおりに自白せざるをえなかったクレマーである。そして、似たような「証言」をする人々がその他にもいるので、そのことを「大量ガス処刑」の「証拠の収束(収斂)」とよんでいるにすぎないが、それは「嘘の収斂」に他ならない。]

 

 

<まやかしの定番写真シリーズ@=「野焼き」の写真>

22 死体が燃やされているアウシュビッツの露天壕。ゾンダーコマンドの一人が隠し撮りし、収容所の外へ持ち出したもの

[シャーマーたち正史派は、何かというと、後生大事にこの写真を持ち出してくるが、この写真によって何を立証したいのであろうか?これらの死体はガス処刑の犠牲者なのか、それとも疫病の犠牲者なのであろうか?靴の山やメガネの山、髪の毛の写真を提示して、大量殺戮が行なわれたかのような印象を作り出そうとする伝統的詐術にすぎない]

 

<まやかしの定番写真シリーズA=焼却棟Uの写真>

シャーマー

歴史的修正主義研究会

23 1944年8月25日、クレマUの航空写真。この写真ではガス室の屋根に見える四つの不ぞろいな影に注目し、図24で、ガス室の屋根の上に見える小さな四つの建物とくらべてもらいたい、この二枚の写真は、ナチスがチクロン-Bのペレットを、ガス室屋根に開いた開口部から投入したという目撃証言を裏づけている――異なる証拠の線がひとつの結論を結ぶ一例である。

A 1944年5月31日、クレマUの航空写真。この写真では、死体安置室の屋根にはひとつの長い影のようなものしか写っていないことに注目し、図Bで、死体安置室の屋根には何も存在しないこととくらべてもらいたい。この二枚の写真は、ナチスがチクロン-Bのペレットを死体安置室屋根の開いた四つの開口部から投入したという目撃証言が偽りであるのかを裏づけている――異なる証拠の線が一つの結論を結ぶ一例である。

24 クレマUの裏側。1942年、SS写真班が撮影。

B クレマUの裏側、1942年1月、SS写真班が撮影。

[シャーマーの上げている二つの写真については、修正主義者によって検証し尽くされている。(例えば、J. ボール:試訳:航空写真と矛盾している12の「目撃証言」G. ルドルフ:試訳『ホロコースト講義』、加藤一郎:ホロコースト再審法廷「焼却棟U、Vでのガス処刑問題」)。

ガス室実在派のCharles D. Provanでさえも、(図23について)「このしみ=しるしの信憑性をどのように考えるにせよ、それが本物であれ、偽物であれ、『換気穴』とみなすことはできない」、(図24について)「それゆえ、物体は毒ガス投下口ではない」(C.D. Provan, No Holes? No Holocaust? A Study of the Holes in the Roof of Leichenkeller 1 of Krematorium 2 at Birkenau, Zimmer Printing, Monongahela, PA, 2000.)と述べているほどである。]

 

<まやかしの定番写真シリーズB=焼却棟に向かう囚人たちの隊列>

25 1944年3月31日 クレマXへと行進する囚人たちの航空写真

「シャーマーは別の著作ではこの写真に「これは、大量殺戮を示唆するもう一つの証拠である」とコメントしている。一体、この写真のどこが大量殺戮を示唆しているというのであろうか。これも、たんなる収容所の中の女性や子供の写真に「ガス室に向かう人々」というキャプションをつけたり、たんなる貨物トラックの写真に「殺人ガス車」というキャプションをつけて提示する正史派の伝統的詐術の類である。」

 

0をいくつ足したり掛けたりしても0のはずだが

わかりきったことだが、実際のガス処理を記録した写真は一枚もなく0]、証拠写真がかかえる問題点は、収容所での活動を写した写真が、たとえ手が加えられていないとしても、それだけでは何の証明にもならないということだ0]。ある写真に、ナチスがアウシュビッツで死体を燃やしているところが写っていたとする。だからどうしたというのだ、と否定論者は言う。それらはガスによって殺されたのではなく、自然死による囚人の死体だ0]。ビルケナウのクレマに向かって行進させられている囚人たちを写した詳細な航空写真が数枚あるとする。それがどうした、と否定論者は言う。囚人たちは自然死した人々の死体を焼いたあとを掃除させられに行くのか、あるいはシラミを駆除するためにそこに向かっているのである0]

 

<妄想たくましいシャーマーにとっては、100にも1000にもなってしまう>

くりかえしになるが、前後関係や、ほかの証拠と重ね合わせなければ、このような写真に多くを語らせることはできない0]――そして収容所での生活に関する報告と矛盾するよう活動を記録した写真が一枚もないという事実[大嘘! 大嘘! 大嘘!]こそ、ホロコーストや大量殺人のためにガス室と火葬場が使用されたことを裏づけているのだ0+0+0+…=100 0×0×0×…=100]

 

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