試訳:第二次世界大戦:誰の戦争であったのか?
エミール・シュレー
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年4月23日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Emil Schlee, WW
II: Whose War was it?, The Revisionist, 2003, No.1を試訳したものである(ただし、図表、推薦図書目録は省略した)。 |
第一次世界大戦の開始と第二次世界大戦の終了のあいだの時期は、その実態に即した名称、すなわち、19世紀末以降科学的・経済的な超大国になっていたドイツを解体するための第三次三十年戦争(1914−1945)と呼ばれるようになっていくであろう。しかし、この事実は、メディア、歴史家、政治家による、今も続けられている戦争宣伝の影に包まれている。この宣伝が続けられている理由は、戦後体制全体がこの事実を隠すことに依拠していることによる。だが、歴史的真実を検証すれば、両大戦の歴史叙述を修正しなくてはならないことがわかる。すなわち、ドイツは世界戦争の口火を切ったことなどないのである。
1. ドイツが両大戦の開始に責任があるという説は、妄想ではないのか?
ドイツに対する両大戦に勝利を収めた連合国は、この両大戦を「三十年戦争」として理解し、そのように呼んでいるが、もちろん、それには理由がある(ウィンストン・チャーチル、Herbert Gladwyn、John Major、Alfred M. de Zayas、シャルル・ド・ゴール)。Gladwyn卿は両大戦を「第三次三十年戦争」とまで呼んでいる[1]。連合国は、不信を呼び起こすような疑問を払いのけるために、本小論の表題である「誰の戦争であったのか?」という論点に対して安易な回答をしてきた。すなわち、連合国は、歴史的実情を無視し、生起した出来事についての知識に反して、両大戦の責任が敗戦国にあると宣告した。ヴェルサイユの「口述命令条約」第231条は次のように述べている[2]。
「連合国政府は、ドイツおよびその同盟国の攻撃によって強いられた戦争の結果、その政府および国民の被った一切の損失及び損害については、ドイツおよびその同盟国にあることを断定し、ドイツはこれを承認する。」
道徳的価値、信頼と公正は、諸民族間の平和的共存と共存政策の土台であるが、戦争責任問題をこのように処理してしまうことにより、これらは破壊された。この時代は、「三十年戦争」の時代となったがゆえに、反ドイツ的な姿勢で有名であったフランス人科学者Jacques Bainvilleは、1920年に広く読まれた著作Les conséquences de la paix(平和の結果)の中で、次のように述べることができた。
「ヴェルサイユ講和条約は、永久戦争を作り出してしまったということができる。」[3]
連合国は1943年にカサブランカ会談で「無条件降伏」を要求していた。このために、連合国は、第二次世界大戦中も戦後も講和交渉に入ろうともしなかった。そして、まず、ドイツ国防軍を降伏させ、それを武装解除し、その後、デーニッツのドイツ政府のメンバーを逮捕し、そして、最後に、1945年6月5日の「ベルリン声明」にしたがって、ドイツにおける権力を簒奪した。さらに、次のように述べることも忘れなかった[4]。
「ドイツ陸軍、海軍、空軍は壊滅し、無条件に降伏した。そして、この戦争に責任を負うドイツは、もはや戦勝国の意志を拒むことはできない。すなわち、ドイツは無条件に降伏したのである。」
ここで次のことを指摘しておかなくてはならない。ドイツ帝国は1945年に降伏してはいない。降伏したという文書資料はまったく存在しない。それどころか、連合国に逮捕されたドイツ帝国最後の首長カール・デーニッツ提督は、1945年7月5日のモンハイム声明で、連合国による非合法的な権力の簒奪に抗議している[5]。
戦勝国は、両大戦が終わると、大戦の責任をもっぱらドイツ人に押し付けたが、その責任は歴史的にも立証されておらず、国際法によっても正当化できないし、したがって、政治的にも立証されていない。1890年に独露再保障条約が失効すると、すぐその1年後に、フランスとロシアのあいだで安全保障条約が成立し、すでに1892年には、露仏軍事同盟が形成された。これによって、その20年後の第一次世界大戦が準備されたのであった。次第に、その他の国々も露仏同盟側に加わり、ドイツ包囲網ができあがっていった。1945年に戦闘行為が終結しても、ドイツとの国際的講和条約は調印されていない。なぜならば、その条約に調印できるのは、依然として存立根拠を否定されているドイツ帝国政府だけだからである。それゆえ、4つの連合国と2つの戦後のドイツ衛星国が調印した1991年の「ツー・プラス・ツー協定」を講和条約の類とみなすことはできない。だから、ドイツに対する百年戦争(1891−1991年)が存在しているとみなすこともできるのである。
次の批判的なコメントは、カール=アウグスト・モーゼルの『AからZまでの悪魔の材料』という本からの引用である[6]。
「第一次大戦後の講和条約は第二次大戦の口実となったために、第三次大戦を避ける道筋はまったく閉ざされなかった。」
戦勝国は戦争責任をヴェルサイユで、ニュルンベルクその他で、ドイツ国民とドイツ民族に押し付けてきたが、その内実は、「強者の正義は大いなる不正義である」というMarie von Ebner-Eschenbachの一文[7]によってうまく言いあらわすことができる。当初から、ヴェルサイユ講和条約という内輪もめの種[8]とニュルンベルク裁判の復讐心に燃えた裁定[9]は、教養ある諸国民、文明化された諸国民に対する挑戦であり、諸国民はその修正を求めている。
戦争責任問題の背景を調査してみると、Hugo Wellemsが自分の本に『嘘の世紀』[10]というタイトルをつけた理由、また、Winfried Martiniが自分の本に『勝者が歴史を描く』[11]というタイトルをつけて、再教育を受けた読者に明らかにしようとしたことが浮かび出てくる。イギリスの大法官はヴェルサイユ条約について次のように述べているが、それは「氷山の一角」にすぎない[12]。
「ある国民に一定の条件のもとで武器を置かせるようにして、その後で、すなわちその国民が無力になった後で、別の条件を押し付けることは、消し去ることのできない不名誉な行為である。」
合衆国上院議員ロバート・タフト(1889−1953)は、1946年10月初頭、オハイオでの大学の講演会で、同じような趣旨の発言をしている。彼は、尊敬すべき法律家で、名誉ある共和党員であったが、ニュルンベルク裁判の判決が1946年10月に出された直後に、ニュルンベルク国際軍事法廷が法律的に奇怪であり、歴史的には捏造であると述べている[13]。
「私は、多くのアメリカ人が、ドイツではまもなく終わろうとしており、日本では始まろうとしている戦争裁判のことを懸念していると思う。この戦争裁判は、いかなる人物も犯罪行為が行なわれたのちに制定された法律によって有罪判決を受けることはないというアメリカの司法制度の根本原則を破ってしまっている。法律的な体裁をどのように取り繕ったとしても、勝者が敗者を裁く裁判は公平ではありえない。…この種の裁判は、ロシア的な裁判様式にもとづいている。私たちは、これから何年にもわたって、ヨーロッパでの正義という概念を傷つけてしまうというリスクをおかしているのである。」
また、合衆国大統領ロナルド・レーガンも、1985年5月5日に、ビッツブルクでこう述べている。
「贖罪意識が、不公正に、ドイツ人に押し付けられた。」
このように、戦争責任問題に関する定説の修正は、今やその潮時に来ている。すなわち、『嘘の世紀』から真実の世紀に移らなくてはならないのである。
2. ドイツ人は、自己告発に熱中している
両大戦の戦勝国はドイツに戦争責任があると明言してきたが、それが間違っていることは、大量の資料、事実、証言ならびに各国での大量の研究蓄積によって、立証されてきた。だから、なぜ、ドイツ政府の首脳たちが、かつての敵国の宣伝にもとづく妄想の世界に依然として暮らし続け、偽りの発言をし続けているのかという疑問が生じる。もしもドイツのシュレーダー首相が、下記のリストにある文献のうち数冊でも読んでいたとすれば、1999年にミュンヘンで開かれた安全保障会議で、自らの無知をさらけだすことはなかったであろう。彼は、この国際的な「主流派」の会議で、ドイツは両大戦の責任を背負わなくてはならないと述べているのである[14]。
アメリカの歴史家ハリー・バーンズは、彼の詳細な研究書『世界大戦の起源』(ニューヨーク、1929年)の中で次のように述べている[15]。
「参戦国の中で、唯一ドイツだけが[1914年]の戦争の勃発にまったく責任がなかった。」
また、1955年にドイツとイギリスの歴史家協議会がバンベルクで開かれているが、その「ドイツとイギリス1904−1914年」についての共同声明は次のように述べている[16]。
「1914年、ドイツの政策は、ヨーロッパ戦争の開始を目指していなかった。」
また、1928年、アメリカの歴史家フェイは次のような結論に達している[17]。
「ドイツはヨーロッパ戦争を煽動したりもせず、それを望んでもいなかった。各国のすぐれた歴史家たちは、ドイツの戦争責任を定めたヴェルサイユの判決を支持することも、擁護することもできないことを認めている。」
また、Deutsch-Amerikaner(ドイツ系アメリカ人、シカゴ)[18]は、1973年11月、キーリングの著作『残酷な収穫:ドイツ国民を絶滅させようとする高価な試み』(シカゴ、1947年)の趣旨を、次のような文章で紹介している[19]。
「すでにかなり昔から、尊敬すべき歴史家たちは、ドイツだけが第一次世界大戦の勃発に責任があるというおとぎ話を拒んできた。そしてさらに、第二次世界大戦の勃発についても、ドイツの敵国がその責任の大半を負わなくてはならない。」
こうした発言に、ドイツ国民の代表者、政府の役人、歴史家たちは関心を抱いていないようである。
また、チャーチルは1939年11月に、イギリス国民向けのラジオ放送の中で、「この戦争はイギリスの戦争である、そのゴールはドイツの破壊である」と発言しているが[20]、この発言にもドイツの代表者は関心を抱いていないようである。
1970年のクリスマスの頃、いわゆるドイツとポーランド、ソ連との東方条約締結の準備が進められていた。この時、ドイツの歴史家エミール・マイアー=ドルンは、戦勝国の政治家、軍人、歴史家の1000の発言集を編集した。この発言の中で、戦勝国の政治家、軍人、歴史家は、自分たちが戦争を望んでいたこと、地域紛争が世界大戦に発展していったことに満足したことを表明している。マイアーはこの発言集をドイツの国会議員に郵送し、誤りや捏造があれば指摘してくれるように要請したが、全員が沈黙を守ったままであった[21]。
第二次世界大戦後のドイツ国民の自己告発的な振る舞いは、国際的な視野から見ると、まったくアブノーマルである。このために、『ドイツの戦争責任問題』(チュービンゲン)を刊行したばかりのバーンズは、1964年春にドイツを訪問したときに、次のような驚きを表明している[22]。
「[第二次世界大戦以前の]私の時代には、ドイツ国民とその研究者たちは1914年の戦争の起源の事実を調査し、それによって、ドイツ国民は第一次世界大戦の勃発に唯一責任を負うという告発から解放されました。しかし、1964年には、ドイツ国民とその研究者たちは、1939年の開戦に唯一責任を負うという告発から自分たちを解放してくれる事実を意図的に抑圧しようとしています。ドイツ人の贖罪意識を考えると、1964年の状況は、これまでの歴史に見られない、理解しがたい、自己告発への熱中という様相を呈しています。
ある国民が、実際に犯してもいない政治的犯罪の暗い影の重荷を自分自身の肩に熱狂的に引き受けてしまうというような歴史的事例は、第二次世界大戦の責任を自分自身に科してしまっているドイツ国民の事例以外には存在しません。1926/27年には、ドイツ政府とドイツ国民の世論は、1914年の事件の真実の解明を積極的かつ熱狂的に支持していました。一方、1964年には、1939年の事件の真実を解明しようとする人々は中傷され、政治犯としての訴追の対象にまでなっています。もちろん、ドイツのメディアも、この基本的な事実にまったく触れようとしていません。」
バーンズはまた、自著の中で、Hoggan教授博士の本質的な研究成果を高く評価した[23]。
「彼は長年にわたって、1939年の戦争勃発についてのドイツの単独責任という神話を打ち砕いてきた。ドイツの戦後政治はこの神話に寄って立っており、たとえ西ドイツの政策がその帰結を何とかして回避しようとしても、この神話は、学問の分野では二度と復活することはないであろう。」
ドイツは20世紀の両大戦の責任を負わなくてはならないという西ドイツ政治の神話は、ドイツ内外の学術研究の成果とも矛盾している。このために、1963年、イギリスの法律家で歴史家のF.J.P. Vealeは次のように説明しなくてはならなかった[24]。
「第二次世界大戦の勃発についての責任問題は、きわめて重要である。それは、学術的な問題ではない。また、過去の事件についての真実を発見するという問題でもない。この問題の解明は、今後、強い影響を将来的に行使するにちがいない。この問題の論点は非常に重要であり、歴史学だけが回答できる枠をはるかに超えてしまっている。政治家にとっては、4分の1世紀のあいだ受け入れられてきた解釈を何としてでも守っていくことがきわめて必要なのにちがいない。」
3. 「難問」の回答:ドイツ国民に対する不法な再教育
アメリカの歴史家バーンズは、1964年にドイツを訪れたとき、歴史上前例のない贖罪意識と理解しがたい、自己告発への熱中を観察することができた。この様相は、35年たっても変わっていない。ドイツのシュレーダー首相は、1999年の発言の中で、ドイツは両大戦の責任を背負わなくてはならないと述べているからである。ドイツ国民は「詩人と哲学者」の国を作り上げてきたと考えられていることを考慮すると、この現象にはもっと深い理由があるにちがいない。前述したF.J.P. Vealeは、将来にとってきわめて重要な戦争責任問題は、学術的問題でも、真実の探求という問題でもないので、歴史学が回答できる枠を超えてしまっている、なぜならば、政治家たちにとっては、少なくとも4分の1世紀のあいだ受け入れられてきた戦勝国の歴史観をそのまま維持して、それを利用したほうが良いからである、と1963年に述べているが、ここに、問題解決の糸口がある。1960年3月、Eschenburg教授は、次のように述べている。それは、学術的には擁護できないものであるが、時代精神にまったく適合しており、それまでの政治家の姿勢を反映している[25]。
「第二次世界大戦の責任問題は、学術的には明快であり、歴史学のテーマではない。それどころか、ヒトラーが疑問の余地なく、唯一この問題に責任を負っていたと認識することが、西ドイツ政治の土台である。」
1965年、ウィーンで開かれた第12回国際歴史家大会で、ドイツの歴史家B.V. リヒトホーフェン教授は、次のように発言しているが、それは参加者の多くの拍手で迎えられている[26]。
「ドイツだけが第二次世界大戦の勃発に責任を負わなくてはならないという説は、すでにかなり以前から学術的な方法で最終的に反駁されている虚偽の一般化である。」
ドイツに戦争責任があると告発することは「政治的に役に立つ」という考え方がある。その一方で、このような告発は、国際的なレベルで学術的に再三反駁されてきている。このような際立ったコントラストを生み出した背景には、1945年から1952年のあいだにドイツ国民に対して実施された再教育計画がある。この再教育計画は、入念に立案されたものであるが、その基本的な前提条件は、国家間の戦争では考えられない、「無条件降伏」であった。このことは、戦争直後の世代の歴史観と、そのあとの世代の歴史観とを比較してみると明らかである。あとの世代は「あとに生まれたおかげで」、「再教育の呪い」に完全にとりつかれてしまっているからである。
『ニューヨーク・ワールド』誌編集長ウォルター・リップマン(1889−1974)は、再教育計画を次のように説明している[27]。
「敗戦という自覚が生み出されるのは、領土が敵に占領され、敗戦国民の指導者が戦争犯罪裁判で有罪を宣告され、征服された国民に再教育計画が実行されたときである。これを達成するには、勝者の歴史観を敗者の精神の中に植えつけなくてはならない。戦勝国の戦争宣伝の『道徳観』を敗戦国の国民の精神の中に移送することがとくに重要である。勝者の戦争宣伝が敗者の歴史書の中に書き込まれ、次の世代がそれを信じるようになって始めて、再教育計画は成功したと考えられる。」
占領軍がこの種の洗脳や思想的侵略を行なうことは、まったく正当化されえない。
4. 21世紀に向かっての思慮にとんだ考え方
20世紀は終わろうとしている。「それはドイツの世紀であったかもしれなかった」とフランスの社会学者レイモン・アロンとドイツ系アメリカ人の歴史家フリッツ・スターンが、1979年に西ベルリンで発言している。実際には、「ドイツの世紀」ではなく「アメリカの世紀」となってしまった。そのようになると切望していたドイツのためにいえば、20世紀は「嘘の世紀」(H. Wellems)となってしまった。羨望と憎しみが不誠実にも、二つの、必要のない世界大戦の引き金を引いてしまった。勝者はドイツに戦争責任があると宣告した。20世紀には二つの嘘がある。各国の歴史学会はかなり以前から、これが嘘であることをあばいている。なぜ、真実は隠されているのか。啓蒙と真実の世紀に入っていかなくてはならない。
「あとに生まれたおかげの」「幸運」を共有する世代に属している人々は、自分たちが「再教育」計画の犠牲者であることを普通は知らない。ドイツ人「再教育」計画の核心は、脱国民化と戦争贖罪意識である。戦勝国の歴史観とその戦争宣伝の「道徳観」が敗戦国民の精神の中に移植されていったのである。歴史書がこのように書き換えられ、映画、演劇、教会、労働組合、すべてのメディアの任務はこの歴史観を教え込むことになり、新しい世代がこの歴史観を信じるようになって、再教育計画は成功裏に完了した。フリードリヒ・グリム教授によると、1945年5月、連合国という戦勝国の高官たちは、虐殺宣伝を仮借なく継続・適用する理由を次のように説明している[28]。
「われわれは、このホラー宣伝を続け、それを声高に語り続けるであろう。誰もがドイツ人の言うことなど信じなくなるまで、…そして、ドイツ人自身が困惑してしまって、自分たちは自分たちの行なっていることを知らなかったと発言するまで。」
自分が困惑状態におちいっていないかどうかチェックしなくてはならない。そして、真実のための闘いに立ち上がらなくてはならない。
1999年11月、作家のHeinz
Mahnckeは、「戦後の疑わしい歴史学上の告発」を調査するために、「歴史家と研究者から構成される委員会」の設立を求める嘆願書をドイツ国会に提出した。彼は、以下の諸点を調査すべきであると訴えている。
1.
戦争責任と戦争の原因の調査。
2.
追放の時期にドイツ国民に対して行なわれた残虐行為、大量強姦、領土的併合も含む、先の戦争でのすべての非人道的行為の調査。
3.
ドイツ民間人に対するテロル的空爆の責任問題の調査。
4.
国外でのドイツ人奴隷労働者も含む強制労働問題の調査。
5.
反ユダヤ主義にかかわる諸問題の調査。
21世紀の始まりにあたり、政治的主権者としてのドイツ国民は、国政の責任者・担当者と緊密に協力し、彼らに対して、より多くの情報を求めるべきである。
H.H. von Arnim教授によると、「[ドイツの]民主主義の根本的な悪は、それが民主主義ではない」ことだからである。
この点を検証しなくてはならない。
[1] Cf.: Lord Gladwyn,
H.: Plädoyer für Europa, Köln 1967, p. 29 & 32.
[2] Cf.: Martini, W.: Der
Sieger schreibt die Geschichte,
[3] Bainville, J.: Les
conséquences de la paix,
[4] Grabert, W.: Jalta-Potsdam
und die Dokumente zur Zerstörung Europas, Tübingen 1985, p. 44f.
[5] Ibid., p.
54f.
[6] Moser, C.-A: Teufelszeug
von A bis Z. Wörter und Worte der Zeitkritik, Berg 31986, p. 159
(keyword: „Geschichtslücke").
[7] Quoted in: Peltzer,
K.: Das treffende Zitat, Gedankengut aus drei Jahrtausenden und fünf
Kontinenten. p. Aufl. Thun 1974, p. 551: aus
[8] Lentin, A.: Die
Drachensaat von Versailles, Leoni 1984.
[9] Saunders, H.A: Forum
der Rache, Deutsche Generale vor alliierten Siegertribunalen 1945-1948,
Leoni 1986.
[10] Wellems, H.: Das
Jahrhundert der Lüge. Von der Reichsgründung bis
[11] Martini, W.: Der
Sieger schreibt die Geschichte. Anmerkungen zur Zeitgeschichte,
[12] Quoted and
retranslated from: Grenfell, R.: Bedingungsloser Haß? Die deutsche
Kriegsschuld und Europas Zukunft, Tübingen 1954, p. 78 (date of statement:
1922); Engl.: Unconditional hatred. German war guilt and the future of
Europe.
[13] Quoted in:
Bardèche, M.: Nürnberg oder die Falschmünzer, Viöl 1992, p. 25f.
[14] Cf.: Stürmer, M.: Schröders
lockere Lektion über eine Chefsache, In: Welt am Sonntag, Feb. 21,
1999, p. 35.
[15] A. A. Knopf,
[16] Ibid., in
the report mentioned: p. 11, Chap. IX.
[17] Quoted in: Lutz,
H.: Verbrechervolk im Herzen Europas? Tübingen 1958, p. 26.
[18] 300のドイツ系アメリカ人団体を統合したドイツ系アメリカ人全国会議機関紙
[19] Quoted in:
Richthofen, B. v.: Kriegsschuld 1939-1941. Der Schuldanteil der anderen.
[20] Quoted in:
Bernhardt, H.: Deutschland im Kreuzfeuer großer Mächte. 1000 aufschlußreiche
Zitate als Jahrhundertzeugen, Preuß. Oldendorf 1988, p. 274.
[21] Quoted in ibid.,
p. 357.
[22] Barnes, H. E.: Die
deutsche Kriegsschuldfrage, Tübingen 1964, p. 124; Engl.: Revisionism
and brainwashing, 1963; more recent in: The Barnes Trilogy, IHR/HRP,
[23]Ibid., p. 125.
[24] Veale, F.J.P.: Schuld
und Sühne,
[25] Eschenburg, Th.: Zur
politischen Praxis in der Bundesrepublik. Kritische Betrachtungen 1957-1961,
Bd. I,
[26] Richthofen, B. v.: op.
cit. (note 19), p. 7f.
[27] Quoted acc. to
Diwald, H.: Geschichte der Deutschen, Propyläen,
[28] Grimm, F. W.: Politische
Justiz, die Krankheit unserer Zeit, Scheur,