『シンドラーのリスト』(スピルバーグ)を批判する

G. レイヴェン、A. クリッチリー、M. ホフマンU

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2004913

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Greg Raven, 'Schindler's List:' A review, The Journal of Historical Review, 1994, vol. 14, no. 3および Alan R. Critchley and Michael A. Hoffman II, Swindler's Mist: Spielberg's Fraud in Schindler's List を「『シンドラーのリスト』を批判する」と題して試訳したものである。なお、マークは当研究会が付したものである。

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

onlinehttp://ihr.org/jhr/v14/v14n3p-7_Raven.html

http://www.codoh.com/review/revhsl.html

 

@ 映画批評『シンドラーのリスト』

G. レイヴェン

 

メディアの記事は、『シンドラーのリスト』を、そのリリース以前から、多くの賞が期待できる作品と呼んでいた。そして、スティーヴン・スピルバーグの最新映画がプレ・リリースされると、ホロコーストの生き残り(そのうち何人かは映画のタイトルとなっている「リスト」に載っていたと主張している)は、東ヨーロッパでほぼ50年前に起ったことについて正確に描いていると声明した。

『シンドラーのリスト』は199312月にリリースされると、多くの賞を獲得した。数千人ではないとしても、数百人が一致して、この映画を見ることによって真実の彼方を知ることができると、絶賛した。ここにこそ「ホロコーストを否定する」人々への最終的な答えがあるというのである。

しかし、「ポリティカル・コレクトネス」という上辺をはいでみれば、『シンドラーのリスト』は映画としても、歴史的事件の記録としても失敗作であることを見てとることができる。驚くべきことに、この作品は、作者側の望みどおりの条件で批評したとしても、まったくの失敗作なのである。

 監督兼プロデューサーのスピルバーグは1983年に『E. T.』を完成させた後すぐに『シンドラーのリスト』に取り組み、10年かかったという。スピルバーグがホロコーストを知ったのは祖父母からであった。スピルバーグによると、祖父母は個人的にはホロコーストを経験していなかったが、いつも「ホロコーストについて語っていた」という。彼は、この映画を製作しているあいだに自分のユダヤ人性を発見したとしている一方で、「生涯をかけてこの映画を準備してきた」とも述べている。

 スピルバーグの作品には、大衆のイマジネーションをとらえることのできなかった少数の映画も存在しているが(『1941』、『カラー・パープル』、『太陽の帝国』、『フック』)、いぜんとしてもっとも成功した監督の一人と評価されている(『ジェラシック・パーク』、『E. T.』、『未知との遭遇』、『レイダース/失われたアーク』(ナチの悪者が登場するもう一つの映画)、『バック・トゥー・ザ・フューチャー』3部作、『ロジャー・ラビット』)。彼の作品は同時代のジョージ・ルーカスの作品よりも収益を上げてきた。ホロコーストに関する映画を撮り、リアリズムと人々への訴えをうまく結びつける監督を探すとしたら、スピルバーグ以外にはありえないであろう。スピルバーグは自分の金を作品に注ぎこみ、いまや絶好調の映画製作者であり、自分の心にかなうテーマをあつかっている。しかし、スピルバーグは、普遍的な意味を持つ物語を製作するのではなく、「ユダヤ的」映画と呼ぶことのできるものを作った。すなわち、ユダヤ人による、ユダヤ人についての映画であり、ユダヤ人が非ユダヤ人に敵対するための映画である

 

技術と芸術性

 『シンドラーのリスト』はドイツの実業家オスカー・シンドラー(リーアム・ニーソンが演じている)の物語を描いたという。このシンドラーは戦争がなぜ行なわれているのか、誰が勝っているのかということよりも、どれだけの利益をあげることができるかに関心を抱いている。利益をもっと増やすために、彼は安い労働力であるユダヤ人だけを近くのクラクフ・ゲットーから雇った。シンドラーはビジネスの細かいことには無知であったので、ユダヤ人会計士イツァーク・シュテルン(ベン・キングスレー、彼はHBOの『われわれのあいだの殺人者たち:サイモン・ヴィーゼンタール物語』でも会計士の役を演じている)に頼っている。そのあと次第に、シンドラーは「自分の」ユダヤ人の保護者となっていく。ユダヤ人を収容所に移すという命令は自分の労働力が無くなることを意味しているので、彼はそれまで蓄えてきた財産を放出して、「自分の」ユダヤ人がアウシュヴィッツその他の収容所に移送されることから救い、さらには、自分の工場に再配置し、また役人を買収して、自分のユダヤ人を確保し続けていく。結局、シンドラーには車と服しか残らなかった。(彼は進撃してくる赤軍から車で逃れる前に、その服も自分の労働者の一人に与えてしまう。)

 スピルバーグは自分の物語を、酒をくらい、あらゆる機会をとらえて、売春婦を買い、女を追いかけまわし、戦争中の日常生活のごとく、あたりまえのように買収し、買収され、無条件で命令にしたがい、何としてでも自分の暮らしを安逸なものにしようとするナチスで満たしている。本当に悪いナチス――すなわち、命令を実行するのではなく命令を下すナチス――も、ユダヤ人を見ただけですぐにユダヤ人を殺してしまうような人物として描かれている。たしかに、映画製作者が特定の個人を戯画化し、周辺の集団を単調な色彩で描くことはよくあることであるが、それにしても、スピルバーグはB級映画の暴走族グループよりもおざなりのかたちですべてのナチスを描いている。事実、映画の中でドイツ語がしゃべられるのは、命令を発しているときだけなのである。シンドラーは英語だけを(それもイギリス風の)しゃべっている。

 ゲットーの掃討シーンは、きわめて単純な、人種差別的描写の典型である。一人のドイツ兵が放置されたピアノにむかって、モーツアルトを美しく演奏している。その一方で、彼の戦友はゲットーからの移送をさけるために隠れ潜んでいるユダヤ人を捜索・殺戮しているのである。このシーンのメッセージはやはり単純である。どんなに文化的にみえようと、非ユダヤ人は信用できないということである

 スピルバーグのナチス像を形作っているまったく超道徳的な鋳型は、シンドラーが、プワショフ収容所長アモン・ゲート(映画では悪魔のナチス)のユダヤ人メイドに哀れみをかけながら、彼女の恐れにもかかわらず、彼女は殺されない、ゲートは彼女の存在から楽しみを得ているからであり、他の者が殺されるのはゲートを楽しませもせず、不愉快にさせもしないからである、と彼女に語っているシーンである。

 スピルバーグのナチス(広義にはドイツ人)描写は、表層的にすぎず、その他のグループの描写、とくにユダヤ人の描写よりも、うまくない。スピルバーグは、スクリーンの中で、ユダヤ人の顔のフラッシュバック的なクローズ・アップ、ユダヤ人名の読み上げを多用して、何回もユダヤ人のことを観客にアピールしているが、ユダヤ人たちがどのような動機で動いているのかを解明する糸口はほとんどない。例えば、シュテルンはあちこちで心配の種をかかえているが、通常はどんな課題を抱えていようとも、単純に仕事をしているだけである。スピルバーグの人物描写の中で、多くの点で、もっとも理解できるのは、ゲートのユダヤ人メイド、ヘレン・ヒルシュである。しかし、彼女の場合であっても、われわれが彼女の性格を知ることができるのは、彼女の唯一の感情ともいえる恐怖を介してだけである。

 スピルバーグの人物描写は月並みなので、いちばん理解しやすいはずである主人公の性格でさえも、あいまいなままである。最初、シンドラーは、戦時経済中に自分のスーツケースを金でいっぱいにすることだけがモチベーションであるかのようにみえるにもかかわらず、ハーケンクロイツの党章をかならずつけている熱心なナチスとして登場する。しかし、映画が進むにつれて、彼の性格は変化したようにみえるが、その理由については十分に説明されない。彼の外見や紋切り型の行動様式は以前と同じようであるにもかかわらず、その一方で、彼は「自分の」ユダヤ人を取り替えのきくつまらない人間以上のもの、ひいては、自分と同等の人々とみなしはじめるからである。ユダヤ人たちは、ゲットーを離れて以来、安息日の儀式を行なうことを許されていなかったが、映画の最後には、シンドラーはラビに金曜の晩にその儀式を準備するように諭すまでになってしまう。

 そして、結局のところ、シンドラーは熱狂的に自分の金を使ってユダヤ人を救うまでになる。しかし、これは不可解である。この新しい振る舞いは、シンドラーのもともとの性格の一部であり、外からの影響を被らずに生じたものなのであろうかという疑問が生じるからである。ユダヤ人自身は、自分たち自身を救うために何もしなかったのと同様に、彼の変化を生じさせるためにほとんど、あるいはまったく何もしていない。こうして、映画のテーマが「ユダヤ人は救われなくてはならない」であるにもかかわらず、映画の筋は「このカトリック(シンドラー)が何人かのユダヤ人をホロコーストから救った」ということになってしまっている。すなわち、映画の副題は、ユダヤ人自身は無力であったということになっているのである。これと比較してみると、『イッツ・ア・ワンダフル・ライフ』のジョージ・ベイリーはオスカー・シンドラーと同じようなけちな小心者であるが、ベイリーは自分自身の生活を評価・称賛することしか学んでいないけれども、その一方、シンドラーはユダヤ人の生活を評価・称賛するようになっている。最後に、完璧となっているものにもっと手を加えるために、シンドラーは、ユダヤ人を救うためにもっと多くのことができたはずなのにと自分を責めるまでにいたる。

 シンドラーの性格をそんなに大幅にかつ急速に変えたものは何なのか。スピルバーグから情報が与えられていないために、シンドラーは突然発狂して、すべてを(自分の命も含む)危険にさらして人命を救助するようになってしまったのではないか、と思わざるをえなくなる

 スピルバーグがユダヤ人に対するドイツ人の蛮行を描くやり方は、それはドイツ人の人物描写と同じように月並みである。スピルバーグにとって、ドイツ人とはユダヤ人を射殺する人なのである。ナチスの兵士は、一発のライフルの銃弾で全員を一時に殺すことができるように、ユダヤ人を縦に7人並べる(銃弾が最初の5人”だけしか”殺すことができなければ、二発の拳銃の銃弾が列の最後まで片付けるために使われる。)同時に、彼らは、ゲットーを一掃するためには、銃弾を惜しまずに、弾丸をばらまく存在である。ゲートはユダヤ人がプワショフ収容所を非常にゆっくりと動いているときには、標準器付きライフルで撃ち、至近距離ではピストルで頭を撃つ。ある意味では、スピルバーグはこれらの射撃が信じがたいことを知っていたにちがいない。彼は、一人のユダヤ人が撃たれるために建物から引きずり出され、その処刑人であり、映画の別のシーンでは完全な射撃能力を持っているかのようであるゲートが拳銃を撃つことができず、その操作についてまごついており、また、彼の二人の副官も以前に拳銃を扱ったことがないかのように、拳銃の操作にまごついていると、ゲートは別の拳銃を使おうとするが、それも不発であるというシーンを、「喜劇的な救済」として、挿入しているからである。この短い幕間のシーンは、映画の中の奇跡の役割を果たしている。

 映画の半分以上は携帯カメラで撮影されており、それは、『シンドラーのリスト』が実写であるかのような印象を与えている。さらに、ほぼ映画のすべてがモノクロであり、映画がドキュメンタリー・フィルムであるかのような印象を与えている。これは、非常に効果的なやり方である。この作品はカラーで始まっており、多くのユダヤ人が死亡すると、カラーからモノクロとなり、作品の終わりで、ユダヤ人がその試練を生き延びたことを目にすると、ふたたびカラーとなる。

 スピルバーグのような高額の予算を持つことのできる監督が、モノクロ画面を使うことはガッツのあるやり方といえるかもしれない。ただし、例外がある。すなわち、スピルバーグは、モノクロ画面に入れ込んでいるようでありながら、突然、しりごみしてしまい、観客に対する信頼を失ってしまって、クラクフ・ゲットーの疎開の場面では、カメラがクラクフ・ゲットーを幼女がたった一人で歩いているのを追っかけているときに、彼女の上着をカラーにしてしまっている。そして、のちの場面で、カラー化された少女の上着は、運ばれていく少女の小さな死体の上に登場する。スピルバーグにとって、このようなトリックを利用して、観客の感情をコントロールすることは、作品のテーマが危ういこと、彼がそのテーマに対する観客の反応に冷笑的な感覚を抱いていることを明らかにしている。

 スピルバーグは無意味なヌード・シーンを挿入しているが、そのことも、彼が観客への信頼を欠いていることを明らかにしている。ヌード・シーン、女性の裸が多用されている。ドイツ人の部屋の壁には、胸を露出した女性の写真がたくさん貼られているが、それは、映画自体に必要であるというよりも、現代の観客を満足させるためである。しかし、ヘレン・ヒルシュがビルケナウのシャワー室に入るまえに、脱衣室でブラウスを脱ぎ、それをカメラがのぞき趣味的にゆっくりと追いかけている場面があるが、ここでは、スピルバーグは、ヌード・シーンを登場させるチャンスを逃してしまっている。もし、そうでなければ、この場面は、この映画の中でもっとも有名なシーンとなったことであろう。数十人の男女が裸で走っているプワショフ強制収容所の大規模な「選別」シーンがある。映画はR指定であるけれども、スピルバーグは高校生にもそれを見るように強制していることになる。

 

歴史の描写

ハリウッド映画は、歴史上の事件を正確に描いているわけではない。『シンドラーのリスト』もその例外ではない。屈折した世界観を持つ人々や、精神的能力に欠けた人々だけが、ハリウッドの作品は実際に起ったことについて忠実であると信じている。だから、われわれはスピルバーグが事実を忠実に扱うとも期待していないし、シンドラーがシオニストのスパイであったとも考えない。(マーク・ウェーバーが次の号でこの問題を扱うであろう)。同様に、われわれは、スピルバーグが、自分の妻に対する卑劣な仕打ちを含む彼の戦後の行動を詳しく描くことによって、シンドラーの性格があいまいであったかどうかを検証するであろうとも思わない。こうした問題を回避することで、物語の筋は簡明になったが、そのことで、映画が歴史学的に正確になっているわけではまったくない。

『シンドラーのリスト』という映画は同名のトーマス・キニーリーの本にもとづいているが、この本は明らかにフィクションであり、連邦図書館でもフィクションに分類されている。スティーブン・ザイリアンがこの小説から脚本を作り、その脚本をもとにスピルバーグが映画を撮影した。にもかかわらず、実際に起ったことについてのドキュメンタリーのようなものであるとの話になっている。ユニバーサルの名誉のために申し添えておくがが、ユニバーサル映画は、映画を「真実の物語にもとづいた」という以上の宣伝はしていない。

 この点では正しい。エミリーという女性と結婚したオスカー・シンドラーは実際に存在した。アモン・ゲート、ドイツ・エナメル工場という工場、プワショフという収容所も存在した。ただし、それ以外の多くは、物語の必要にあわせて改変されている。一例をあげると、映画ではシンドラーは戦争の末期には無一文となっているが、実際には、姿を隠すときに、かなりの金をため込んでいた。

 『シンドラーのリスト』が事実であるのかそれともフィクションであるのかという問題を別にしても、この作品には納得できないシーンが数多くあり、スピルバーグはそれを説明しようともしていない。例えば、スピルバーグは、ユダヤ人がクラクフ・ゲットーに移送されていく場面で、金歯の詰まったかばんを、手荷物や所持品が分類・整理されている場所にもちこんできている。このかばんはどのようにして、どのような理由で町の中心部に持ちこまれたのか。ユダヤ人の一人がそれを手荷物の中にいれて持ち込んだとでも考えなければ、まったくのミステリーである。しかし、スピルバーグは、そのようなことを示唆しようとしているわけではないにちがいない。また、プワショフ収容所の場面では、焼却されている死体の山が登場している。あまりにも巨大なので、その天辺に新しい死体を運んでいくにはベルト・コンベアが必要なほどである。死体が紐でくくられた薪のように燃えていくことを示唆しているのかもしれないが、もちろん、そのようなことはありえない。やはりプワショフ収容所の場面では、聴診器もった白衣のドイツ人の医師団が登場しており、彼らは健康で生存すべき人々と死ぬべき人々とを「選別」しているかのようである。しかし、この医師団は、健康な人々を確保し、不健康な人々を「選別」する方法を知らないかのように、無能力である。そして、このようなシーンの後に、噴煙をあげるアウシュヴィッツの焼却場の煙突が登場する。しかし、焼却棟の煙突は噴煙を噴き上げるようには設計・建築されていない。スピルバーグは、自分の作品が技術的観点から見ても正確であるというふりをしているが、このようなシーンを挿入することで、それがまったくの虚偽であることがわかってしまう。

 スピルバーグはまた、実際の事件をフィクション風に言及することによって、事実とフィクションの境界線を曖昧にしてしまっている。例えば、シュテルンは「死」のみを意味するかのように「特別措置」という文句を使っているが、前の場面では、シンドラーは、その単語を、情けをかけるような措置という意味で使っている。シラミとチフスも登場するが、些細な出来事であり、生命を脅かすような破局的事態とは扱われていない。

 

修正主義者としてのスピルバーグ

 これまで、「ホロコースト否定派」に対する「最終的回答」は繰り返し登場してきている。スピルバーグが、34時間にもおよぶこの作品中で描いたことは、この「最終的回答」の最新版とみなされている。しかし、この作品の最後のほうでは、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅という壮大な物語は、せいぜい後から考え出されたようなものの位置に落としこめられてしまっている。

 『シンドラーのリスト』の中では、ビルケナウ(映画ではビルケナウはアウシュヴィッツとなっている)のシャワー室は、最初、女性バラックでの噂話によると、ガス室とされているが、結局は、シャワー室であったことになっている。スピルバーグ監督は、宇宙船、エイリアン、恐竜を本物のように、ひいては実物そのものに見せかけることができた。そのスピルバーグは、信憑性のあるナチスのガス室を復元することに失敗している。それだけではない。彼は、ガス室に関する戦時中の噂が、まさに噂にすぎなかったことを示唆しているかのようである

 スピルバーグは映画の終わりの方で、二つの見え透いた仕掛けを使って、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅についての自分の物語を提示している。その一つは、シンドラーが自分の労働者たちに対して行なった、情熱的ではあるが、彼らしくない演説である。その中で、シンドラーは、自分の労働者たちの友人と家族の多くが殺されたという事実に言及している。(このシーンはシンドラーが「特別措置」という用語の「秘密」の意味を知らなかったシーンのすぐあとに登場する)。第二は、シンドラーのユダヤ人が働いていたチェコスロバキアの工場を「解放」した一人ぼっちのソ連軍兵士にシュテルンが質問する場面である。スターンはどこからともなく現れたソ連軍将校に、ポーランドにはユダヤ人が残っていたかどうか質問する。彼の質問の意味はまったく説明されていないが、ポーランドのユダヤ人が生き残る道はシンドラーのユダヤ人になる以外にはないということを示唆しているのかもしれない。観客は、そのような疑問を抱くとは予想されていないのであるが、スピルバーグは、歴史の中でもっとも文書資料によって記録されている事件となっているテーマを扱うにあたって、こうした扱いにくい舞台設定をなぜ使わなくてはならなかったのであろうか。

 と同時に、スピルバーグは、ホロコースト物語の中に頻繁に登場する話を繰り返すことを避けている。すなわち、この作品の中では、ドイツ人は赤ん坊を射撃練習の目標に使ってはいない。娯楽目的で人間を窓から外に投げ棄てたりしてはいない。凍り付いた冬に何時間も裸で絶っていることを強制してはいない。人々を拷問にかけてはいない。医学実験も行なわれてはいない。誰も、電気フェンスに身を投げかけて、自殺を企ててはいない。

 また、『シンドラーのリスト』にはいくつかの驚くべきシーンが登場する。すなわち、ユダヤ人は戦前には裕福であったとされている。裕福な生活に慣れていたことを自慢しているシンドラーは、ゲットーに移転させられたユダヤ人の家族からアパートを借りているが、彼はそこの調度品の豪華さに驚いている。プワショフ収容所では、男女が交じりあって生活しており、囚人は仕事の後のある晩にユダヤ人結婚式を行なっている。ユダヤ人は、自分たちと同族の人々が抑圧されている中で、協力的姿勢をとっていた。ユダヤ人の若い男性は(何とカトリック教会)で闇市場の活動に従事している。ゲットーと収容所では、ユダヤ人は、兵士が自分たちを追い立てるときに備えた、数百の隠れ場所を持っている。

 

最良の「ホロコースト」映画か

 『シンドラーのリスト』が名声を勝ちえたのは、その芸術性ではなく、その「ポリティカル・コレクトネス」的な内容とメッセージのためであるにちがいない。スピルバーグはその評判を利用して、自らをホロコースト物語のある種の守護者とした。しかしながら、事態の進行は、光がホロコースト物語にあてられればあてられるほど、人々はその物語について疑問を、スピルバーグも映画も答えることができない問題に疑問を持つようになっていることを明らかにしている。

 

 

 

A 詐欺師の霧(スウィンドラーのミスト)

A. クリッチリー、M. ホフマンU

 

ハリウッドの手品師スティーヴン・スピルバーグの映画『シンドラーのリスト』はドイツを中傷する虚偽に満ちた作品であるが、ある小説にもとづいている。すなわち、オーストラリアの作家トーマス・キニーリーによる小説「シンドラーの方舟」(初版、のちにこの書名は映画のタイトルにあわせて変えられた)にもとづいている。

 キニーリーの小説は誤りに満ちている。例えば、33章では、ロシア軍がルブリン/マイダネクに到着した時、「人骨の入った炉と500缶以上のチクロンBを発見することによって、絶滅センターの秘密をあばいた」とある。そして、「このニュースは世界中に公表された。ヒムラーは…ユダヤ人のガス処刑は中止されるであろうと連合国に約束しようとしていた」というのである。

 事実はこうである。ドイツの大規模強制収容所のすべてには、死体を焼却する焼却施設が設置されていた。すべてのドイツの強制収容所はすべて、チフスの媒介者であるシラミを殺すための害虫駆除剤チクロンB――したがって、生命を守る丸薬――を使っていた。もし、ロシア軍の発見が絶滅の証拠であるとすれば、ドイツの強制収容所すべてが「絶滅収容所」となってしまう。しかし、あまり知られていないことであるが、第二次大戦史にたずさわる歴史家たちは、ユダヤ系であるにせよ、ないにせよ、このようなことを主張してはいない。さらに、ドイツ人はユダヤ人をガス処刑しているとヒムラーが連合国に対して認めたことなどない。彼は、ガス処刑については連合国の宣伝であると非難していたのである。

 キニーリーの小説には、スピルバークが映画では削除した話がある。キニーリーはシンドラーが有力なハンガリー系ユダヤ人ルドルフ・カストナーのために働いていたと述べているが、『シンドラーのリスト』は、この件についてまったく触れていない。カストナーは1944年に、同僚のシオニストを有利に取りはからってもらう代償として、アウシュヴィッツに数万のユダヤ人を輸送する件で、アイヒマンを助けているからである。ナチスとシオニストとのあいだのハイレベルな協力関係は、困惑を呼び起こしてしまうような事実であったために、スピルバークの親シオニスト的な映画でさえも、これについて触れることはできなかったのである。

 

ドイツ軍当局によって訴追されていたアモン・ゲート

民族社会主義者政府は、強制収容所の囚人を虐待してはならないという命令を出していた。しかし、収容所には、良好に運営された上品な拘禁施設から、まったくの地獄の穴のような施設まで、様々なものが存在していた。各強制収容所を監督するナチス指導者の資質次第であった。アモン・ゲートやカール・コッホのような、犯罪者としか呼びようのない収容所長も存在したが、連合国の集中的空爆による、戦時のドイツでの食料と医薬品の不足という状況の中でも、非常に人間的に施設を監督したヘルマン・ピスターのような、腐敗していない収容所長も存在した

 ドイツ軍当局が、収容所での人道的環境を保証しようとした多くの事例がある。例えば、1943SS法務局判事コンラード・モルゲンが、ブッヘンヴァルトでの虐待行為を調査・訴追するために任命されている。モルゲンはブッヘンヴァルトでの改善に成功したので、ヒムラーは彼に、スタッフを増員して、各収容所を調査する無制限の権限を与えた。モルゲンの次の目標は、クラクフ・プワショフとその所長アモン・ゲート――スピルバークの映画の中では悪魔のような存在――の調査であった。

『シンドラーのリスト』の中では、ゲートに対するモルゲンの調査は、ごく少しだけ、ゲートの帳簿が「調査された」というかたちで、スクリーンに登場している。瞬きしていれば、見過ごしてしまうほどである。決定的な真実は、1944年に、ゲートがSS法務中央局に逮捕され、強奪と収容所囚人殺害の科で、投獄されていたことをスピルバーグが観客から隠していることである。この逮捕の件は、映画が依拠していると思われるキニーリーの本の31章に言及されているから、スピルバークはこの事実を知っていたに違いない。[SSによる収容所長ゲートの逮捕と訴追については、Reuben AinszteinJewish Resistance in Nazi Occupied Eastern Europe, p. 845、ミュンヘンのSS法務局長でモルゲンの直接の上司クルト・ミッテルシュテートSS中佐の供述、モルゲン自身の証言(vol. 42, IMT "Blue series," p. 556)の中でも触れられている。]

 

うわべだけのユダヤ主義

 スピルバークは、ナチスに協力したODOrdnungdienstユダヤ人ゲットー警察)の罪を覆い隠している。映画の中では、賄賂をとったり、ナチスによるユダヤ人群集のコントロールに協力したりする姿が描かれており、その役柄は、おもに傍観者、通行人である。しかし、実際には、多くのユダヤ人ゲットー警察官は無慈悲な殺人者であった。映画の終わりの方で、シンドラーは、彼が救ったユダヤ人から銘文のついた金の指輪をプレゼントされている。その銘文はタルムードの一節「一つの生命を救う者は、全世界を救う」からとられていると言われている(この引用は、ビデオショップや学校で『シンドラーのリスト』を宣伝するポスターにも登場しており、映画のプロモーターは、映画のモットーとして選んだのである)。

 この文句は、すばらしく、暖かいヒューマニスティックな趣旨であるが、問題が一つある。すなわち、それはタルムードの趣旨とは異なっているのである。実際のタルムードの文句は、「イスラエルの一つの魂を保持するものは誰でも、聖書はこの者のことを、まるで全世界を保持する者であるかのように記すであろう」である。タルムードはユダヤ人の命を助けた者だけを称えているにすぎない。スピルバークの詐欺的な行為はとどまることを知らないが、そこでは、文書資料に裏打ちされたユダヤ教の趣旨でさえも偽造されているのである。

 

憎悪宣伝

 『シンドラーのリスト』は、そこに登場する二人のドイツ人(シンドラー夫妻)の寛大な振る舞いを描いているために、「和解的な性格」を持っているかのように評されている。しかし、映画は、すべてのドイツ軍人を怪物かそうでなければ殺人ロボットとして描いている。このようなステレオタイプ的な虚偽の描写は、憎悪宣伝に他ならない。もしもイスラム教徒の監督が、ユダヤ人の中で親切なのは二人だけであり、イスラエル軍すべてが怪物か殺人マシーンで構成されているように描いたならば、アメリカやヨーロッパのメディアは、それがイスラエル軍を憎悪のステレオタイプで描いていると非難することであろう。スピルバークの憎悪は人権のマスクをかぶって隠されているのであるが、鈍感なメディアはそれに気づいていない。

 ハリウッドでもっとも成功した監督スピルバーグは、賢明にも、映画に登場する悪党を描くにあたって、自己疑念、不満、疲労といった特徴も付け加えている。このために、『シンドラーのリスト』は、その他の「ホロコースト」宣伝映画よりも洗練されているようにみえる。しかし、それにもかかわらず、この作品は歴史学的には虚偽である。スピルバーク氏は、ユダヤ人ガス室という虚偽に対する修正主義者からの攻撃を防ごうとして、自分自身の虚偽を作り上げたのである。

 

歴史的修正主義研究会