試訳:クレマー日記と「特別行動」

C. マットーニョ

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2007年3月19日

本試訳は当研究会が、研究目的で、Carlo Mattogno, The “Special Actions and Dr. Johann Paul Kremer, Special Treatment in Auschwitz. Origin and Meaning of a Term.

Translated by Regina Belser Chicago (Illinois): Theses & Dissertations Press,

Imprint of Castle Hill Publishers, October 2004を「クレマー日記と『特別行動』」と題して試訳したものである(文中のマークは当研究会が付したものである。)。

 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online: http://vho.org/dl/ENG/st.pdf

C. マットーニョ、『アウシュヴィッツにおける特別措置』の第15章にあたる

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2007年3月19日

 

 

15. 「特別行動」とヨハン・パウル・クレマー博士

 ヨハン・パウル・クレマー博士は、1942年8月30日から11月18日までアウシュヴィッツに医師として勤務した。彼の日記の記載によると、彼は9月2日から11月8日のあいだに15回[230]の「特別行動」に医師として関与した。まず、彼の日記の記載を考察しよう[231]

 

 9月5日

「午後、F.K.L.[女性収容所](「ムスリム」)での特別行動に立ち会った。恐怖の中でもっとも恐ろしいものであった。軍医のチローSS曹長[232]は、われわれはanus mundi[233]にいると話していたが、それももっともである。夕方8時ごろオランダからの特別行動にも立ち会った。」

 9月6日

「午後8時、ふたたび外での特別行動」

 9月9日

「夕方、特別行動に立ち会う(4回目)」

 9月10日

「朝、特別行動に立ち会う(5回目)」

 9月23日

「今夜、6回目と7回目の特別行動」

 10月7日

9回目の特別行動に立ち会う(外国人と女性ムスリム)」

 10月12日

「二回目のチフスに対する予防注射、そのあと、夕方、強い副作用(熱)。にもかかわらず、夜、オランダからの特別行動(1600人)。最後のブンカーの前での恐ろしい光景!これは10回目の特別行動であった。(ヘスラー)。」

 10月18日

「この日曜日の朝、湿った冷たい天候の中で、11回目の(オランダからの)特別行動に立ち会った。3名の女性が命を助けてくれと懇願する恐ろしい光景。」

 

 「特別行動」の時には何が起ったのか? フォーリソン教授によるクレマー日記の批判的分析[234]を反駁しようとしたヴィダル・ナケは、こう回答している[235]

 

「このテキストを普通に解釈すれば、『特別行動』とは選別、外から到着した人々に対する選別、消耗した囚人の選別のことということになる。」

 

 ヴィダル・ナケにとって、「ガス室」がこれらの選別の最終目標であった[236]

 前章で、われわれは、「特別行動」という用語の意味の一つが、ユダヤ人移送集団の収容、およびそれに関連する受け入れと配所措置のことである点を明らかにした。クレマー博士はこれらの「特別行動」に医師として関与したのであるから、この用語はこの文脈においてさえも、もっと正確な意味を持っていたにちがいない。

 上記に引用した1942年9月5日の項目の残りの部分が、この文脈の中で、「特別行動」という用語がどのような意味であったのかを明らかにしている。この部分はこうである[237]

 

1.5リットルのウオッカ、5本のタバコ、100グラムのソーセージとパンという特別配給のおかげで、人々はこの行動に争って[自発的に]参加しようとした。

 

 この特別配給は、SS経済管理中本部B課長ゲオルグ・レルナーSS少将が1942年8月1日に出した指令「執行部隊のための超過配給」に対応している。その指令にはこうある[238]

 

「彼らの職務を考慮して、執行の日には、隊員ひとりにつき、100グラムの肉、1.5リットルのブランデー、5本のタバコが超過配給として与えられる。」

 

 私が所持しているこの文書テキストは、ポーランドのヤン・ゼーン判事がドイツ語のレルナー指令文書から作成したとされる文書(ポーランド語:odpis)である。オリジナル文書資料――西側の歴史学ではそれは知られていない――の痕跡も、そのドイツ語版文書の痕跡もまったくない。チェクは彼女の『アウシュヴィッツ・カレンダー』の中でこの文書に触れているが、ゼーンが作成したポーランド語のodpisのことを指しているにすぎない[239]。このために、ゼーンが作成した文書が正しいかどうか検証できない。

 疑問の根拠は、執行部隊とは人間を死に追いやるという意味での処刑とはまったく関係がないという事実にある。クレマー博士の記述によると、ユダヤ人移送集団の受け入れ作業に従事したSS隊員たちは超過配給を受けるに値した。この点は、ペリー・ブロードも確認している。ブロードによると、「降車場」で囚人集団の受け入れ作業にあたった受け入れ部隊のSS隊員は、この配給の恩恵を受けたのである。ブロードはこう記している[240]

 

SS隊員一人ひとりが、移送集団が到着するごとに、特別配給券と5分の1リットルのシュナップスを手に入れる。」

 

 「特別行動」がガス処刑をさしているのではないことは明らかである。目撃証言によると、ガス処刑に関与したスタッフは、いわゆる「ゾンダーコマンド(特別部隊)」の囚人たちとSS衛生兵だけだったからである。他方、「特別行動」への参加は、クレマーによると、「この行動に争って[自発的に]参加しようとした」収容所のSS隊員すべてに開かれていたからである

 「特別行動」の時には、クレマーも関与する「選別」も行なわれた――だから彼は医師としての職務で立ち会った――ことに疑いない。しかし、これらの選別は、ガス室送りの犠牲者を選別するためのものであったのだろうか?

 ヴィダル・ナケの解釈がもとづいている証拠は、まったく別の文脈で考察されなくてはならない。フォーリソン教授が指摘していることであるが、「特別行動」が行なわれた背景には、収容所で蔓延していた疫病がある。腸チフスはエベルト・バチルス(サルモネラ菌)によって引き起こされる。疫病の患者もしくは病原菌のキャリアの排泄物を介して感染する。それに対し、いわゆるチフスは、シラミが媒介するリッケチア・バクテリアによって引き起こされる。

 さて、クレマー日記にある「状況証拠」なるものを歴史的文脈の中で分析してみよう。

 

 9月2日:「絶滅の収容所」

 クレマーは8月28日にアウシュヴィッツ赴任命令を受け[241]、30日に収容所にやってきた[242]。到着後最初の記載は、収容所で伝染病が蔓延していることであった。

 

「伝染病(チフス、マラリア、下痢[ママ])のための、収容所の検疫。」

 

 すでに4章で指摘したように、所長ヘスは7月23日に「全面的収容所封鎖」という呼称のもとで、検疫を実行していた。クレマーがアウシュヴィッツにやってきたのは、疫病の蔓延が頂点に達していたときのことであった。1942年8月には、8600人が死亡していた。一日の死者の数は、二度にわたって、すなわち8月19日と20日に500人を超えた。8月後半、すなわち15−31日のあいだに、ほぼ5700人が死亡しているが、それは一日平均330人以上である。9月初頭には、平均死者数はもっと多くなった。9月1日には367人、9月2日には431人であった。

 その他の民族社会主義者の強制収容所と比較すると、アウシュヴィッツでの当時の死亡率は何倍も高かった。マウトハウゼン・グーゼン収容所群の8月の囚人死者は832人であった[243]。ダッハウは454人[244]、ブッヘンヴァルトは335人[245]、シュトゥットホフは約300人[246]、ザクセンハウゼンは301人であった[247]。ルブリン強制収容所(マイダネク)はこの時期に2012人という非常に高い数字を記録しているが[248]、この数字でさえも、アウシュヴィッツの死者数の23%にすぎなかった。

 このようなひどい死亡率にもとづけば、1942年9月2日時点のアウシュヴィッツは本当に「絶滅の収容所」だったにちがいない

 9月2日:「ダンテの地獄」

 この表現に関連して、フォーリソン教授は10月21日付のクレマーの手紙を引用している[249]

 

「まだはっきりとした情報はないのですが、12月1日までに、ミュンスターに戻って、このアウシュヴィッツの地獄から離れることができるだろうと思っています。ここでは、発疹チフスなどに加えて、腸チフスもひどく蔓延するようになっています。」

 

 だから、「アウシュヴィッツの地獄」とは、ここで蔓延していたチフス、腸チフスその他の疫病との関連で使われている表現にちがいない。

 

 9月5日:「Anus mundi(世界の肛門)」

 クレマーが8月30日の項目の中で触れている病気の一つは下痢であり(彼はあまり使われない複数形を使っている)、そのことは「世界の肛門」という用語を説明している。事実、下痢は収容所でもっともはやっていた病気の一つであった。クレマー自身もアウシュヴィッツにやってきてから数日後にこの病気にかかっている(9月3日の項目)。医師Ruth Weidenreich博士は『強制収容所のジストロフィーについての覚書』の中でこう記している[250]

 

「下痢はほとんどの薬が効かず、収容所でいつもはやっている病気の一つだった。発病時には発熱をともなうこともあるが、普通は発熱しない。便は粘液状となり、膿や血が混じっていることも多い。慢性状態に移ると、便はまったく液状となり、無臭であった。」

 

 別の医師イタリア人のLeonardo Benedetti博士は、1944年2月にアウシュヴィッツに移送されてきたが、収容所の保険衛生施設について正確な報告を残している。彼は、消化器疾患を記述するさいに、こう力説している[251]

 

「下痢については特筆しておかなくてはならない。それは急速に広がり、スピーディな死をもたらすこともあり、治療にも危険がともなうからである。…患者は完全にお腹を空にしなくてはならない。少なくとも5、6回、ときには20回以上。便が液体となるまで。腸の運動が始まる前、動いているときには、激痛が走る。便は粘液状であり、血が混じっていることもある。」

 

 

 さらに、下痢は患者の排泄物を介して伝染する腸チフスの症状の一つである。

 これらの不愉快で危険な排泄物が人体のどの部分から出てくるのか口にしなくても、この蹴りに苦しむ人々が多数集まっているが所を「世界の肛門」と呼ぶ理由は理解できるであろう

 

 「特別行動」と「ムスリム」

 クレマー博士は、「ムスリム」関連の「特別行動」を2回、9月5日と10月7日の項目で触れている[252]。前者には「恐怖の中でもっとも恐ろしいもの」というコメント、および、前述した「世界の肛門」という表現がある。この2つの場合の「特別行動」は病人の選別と関係があったにちがいない。しかし、目的はなんだったのか。ヴィダル・ナケはJean-Gabriel Cohn-Benditにこう反駁している[253]

 

J.-G. Cohn-Benditは、女性たちが別の収容所に移送されようとしていたと想像することで、この難点から逃れようとしている。しかし、肉体的衰弱の極致にまでいたっている――クレマーがムスリムという用語を使っているのはそのためである――女性たちをなぜ別の収容所に移す必要があるのか?殺戮の論理のほうが首尾一貫しているのに。」

 

 ダヌータ・チェクがこの答えを用意している。彼女によると、アウシュヴィッツの囚人病院ブロック19――いわゆる「Schonungsblock(特別療養ブロック)」は、「ムスリム」と呼ばれていたまったく衰弱した囚人用であった[254]それゆえ、ヴィダル・ナケの質問に逆質問できる。肉体的衰弱の極致にまでいたっている女性たちをなぜガス処刑しなくてはならないのか。そのままにしておけば自然に死亡していくはずであるという論理のほうが首尾一貫しているのに。人道的理由からなのか、と。

 収容所特有の用語によると、「ムスリム」とは、栄養失調と脱水状態が最終段階に達し、ひどく衰弱している患者のことであった。先に引用したWeidenreich博士も指摘しているように、「下痢は慢性状態になったこの病気の症状であった。」そして、こうも付け加えている[255]

 

「ひどい下痢の場合には、合併症もなく、死亡してしまう例も多かった。死の直前には便はまったく液状で、患者は自分の排泄をコントロールできなくなっていた。」

 

 こうしたことを考慮すると、「世界の肛門」という表現にも新しい光をあてることができる。「恐怖の中でもっとも恐ろしいもの」という表現は、「世界の肛門」という間接的な表現を直裁に表現したものであり、コントロールできない下痢におかされた哀れな人々による恐ろしい光景を言い表している。

 一方、「ガス処刑」が病気の囚人の選別の最終段階であることを立証している文書資料は一つもない。逆に、病気の囚人のいくつかのグループが別の収容所に移送された事実に関する文書は残っている。ここでは、一番よく知られているケースをあげておけば十分であろう。

 すでに見てきたように、1942年8月30日の記載の中で、クレマーは収容所でチフス、マラリア、下痢がはやっていると述べている。だから、囚人病院で行なわれた選別は、これらの3つの病気の患者にまず真っ先に処分しなくてはならなかったはずであろう。ホロコースト正史文献によると、SS隊員のガイドラインは病人を治療するよりもガス処刑するほうが簡単であるというものだったはずだったからである。ところが、1943年5月27日、SS経済管理中央本部は「800人のマラリア患者」をアウシュヴィッツからルブリン強制収容所(マイダネク)に移送するようアウシュヴィッツ所長に指示している[256]。別の文書資料――アウシュヴィッツ収容所医師の季刊報告1943年12月16日――は、すべてのマラリア患者が1943年にルブリン収容所に移送されたのは、当地が「ハマダラカのいない地域」と見なされていたためであると説明している[257]

 1944年1月3月のあいだ、約20800人の病気囚人―その中には、ザクセンハウゼンからの約2700人の身体障害者、300人の盲人も入っていた――フリュッセンブルクからのが、ブッヘンヴァルト、フリュッセンブルク、ノイエンガムメ、ラーフェンスブリュック、ザクセンハウゼンから、ルブリン強制収容所に移送された[258]。1944年の時点で、ルブリン/マイダネクは、ホロコースト正史においてさえも、もはや「絶滅収容所」ではなかったので、1944年にここに移送された病人は絶滅されたと主張することはできない。ルブリンはアウシュヴィッツの北東約280kmにあった。もし、アウシュヴィッツでの「特別行動」が病気の囚人をガス処刑するという目的を持っていたとすれば、マラリアにかかっていた病人をなぜアウシュヴィッツからルブリンに移送しなくてはならなかったのであろうか? さらに、一体、どのようにして、ドイツ本国から20800人の病気の囚人を、ガス処刑に危険にさらされることなく、アウシュヴィッツの東の地域に移送させたのであろうか?

 

移送集団の選別

 7章ですでに見たように、ヒムラーにあてた1942年9月7日のポールの報告は、シュペーアが軍需産業に50000人のユダヤ人を配置しようとしていることに触れ、こう続けている[259]

 

帝国大臣シュペーア教授は、この点について、最初の5万名の強壮なユダヤ人を、バラックつきの閉ざされた工場に提供されるように保証してもらいたがっています。

 私たちは、既存の施設の能力と建設が、人員の恒常的な変化によって悪い影響を被らないようにするために、アウシュヴィッツでのこの目的に必要な労働力を、東部移住者から選別するつもりです。

 したがって、東部移住に予定されている強壮なユダヤ人は、その移住を中断され、軍需施設で働くことになります。」

 

 だから、「東部移住」の途上にあるユダヤ人移送集団は、アウシュヴィッツで選別の対象となり、労働適格ユダヤ人が選び出されたのである。労働適格ユダヤ人は「東部移住」を中断され、それ以外の人々は移住を続けた

 クレマーが関与したのはこのような選別であった。二つのケースで、「特別行動」はユダヤ人移送集団と結びついており、この件について、クレマーは、10月12日と18日の記載で、きわめて情緒的な表現を使って記している。12日の記載をもう一度見ておこう。

 

「二回目のチフスに対する予防注射、そのあと、夕方、強い副作用(熱)。にもかかわらず、夜、オランダからの特別行動(1600人)。最後のブンカーの前での恐ろしい光景!これは10回目の特別行動であった。(ヘスラー)。」

 

 「最後のブンカー」という用語から何を想像すべきであろうか? そこで「恐ろしい光景」はどのようにして起こったのであろうか?

 1947年にポーランドで開かれた収容所スタッフ裁判で、クレマーはこの日記の記載をこう説明している[260]

 

「…このとき、約1600人のオランダ人[ユダヤ人]がガス処刑されました。…SS曹長ヘスラーがこの作戦を指示したのです。彼は、集団全体をブンカーに入れようとしていたのを覚えています。彼はこれに成功しましたが、一人の男だけは例外で、ブンカーの中に入れることはできませんでした。ヘスラーはこの男を拳銃で射殺しました。だから、私は日記の中に、最後のブンカーの前で恐ろしい光景が起こったと記し、ヘスラーの名前をあげたのです。」

 

 さらに、クレマーは、SS隊員たちは彼らの内部用語では、大量ガス処刑が行なわれた小さな建物(domki)のことをブンカーと呼んでいたと説明している(“w swym 􀄪argonie bunkrami”)。

 この説明はこじつけである。まず、1942年10月、フランツ・ヘスラーSS曹長は労働割りあての長であった[261]。彼は1942年初頭にこの職務を引き受け、1943年8月に、女性収容所予防拘禁施設長に任命されるまで、この職についていた[262]。だから、クレマーが「特別行動」との関連で彼の名前をあげても、それは、囚人の殺戮ではなく、労働適格囚人の選別に関係していたにちがいない。

 まったく言語学的な観点からすると、「最後のブンカー」という用語がいわゆる「ガス処刑ブンカー」のことではありえない。そのような「ブンカー」は二つだけ存在していたとの話であり、たがいに650mほど離れていたとなっているからである。

 もしも、「ブンカー」が「殺人ガス処刑ブンカー」であったとすれば、クレマーは、「ブンカー2」とか「第二ブンカー」と表現しなくてはならなかったはずである。「最後のブンカー」とは何をさしているのだろうか?

 上記のクレマーの説明文オリジナル・テキスト――もしくはポーランド語訳[263]――では、クレマーは「przed ostatnim bunkrem(最後のブンカーの前で)」という表現について、日記の記述をたんに繰り返しているにすぎず、このブンカーが何であるのか明示していない。さらに、SS隊員は殺人ガス処刑に使われた部屋を自分たちの内部用語では、ブンカーと呼んでいたというのは嘘である。この用語が最初に登場するには、1946年のヘス裁判の予備尋問のときのこととだからである。

 一方、1942年10月12日、ベルギーから、2つの移送集団がアウシュヴィッツに到着している。それぞれ、999人と675人であった[264]。チェクの『カレンダー』によると、その前日(10月11日)、1703人のオランダからの移送集団が到着している。そのうち、アウシュヴィッツに登録されたのは344人の男性と108人の女性だけであった、という。しかし、男性登録番号(67362-67705)は10月11日に、女性登録番号(22282-22389)は10月10日に割りあてられている[265]。チェクは10月11日の移送集団の到着の典拠資料としてクレマーの日記だけをあげているが[266]、これは間違いである。「オランダからの特別行動」は12日、すなわち、12日から13日にかけての夜に行われているからである。もしも、女性に割りあてられた登録番号が正しければ、オランダからの移送集団は10日から11日にかけての夜にアウシュヴィッツに到着していなくてはならないのである。

 それでは、クレマー日記の「特別行動」とは何であったのか?尋問を受けたクレマーは、10月12日の項目にコメントして、「この時、約1600人のオランダ人[ユダヤ人]がガス処刑された」と述べているが[267]、数字のつじつまがあっていない(1703−(344+108)=1251)。このようなことを考慮すると、ポーランドの共産主義者の監獄でなされたクレマーの供述が正確であると信じることができるのであろうか?

 シナリオを再現してみよう。いわゆるブンカーの広さは93.2u(ブンカー1)、105u(ブンカー2)である(ピペルのデータによる)[268]。クレマーによると、SS隊員たちは約1600人の集団をこれらの「ガス室」に詰め込むことができた――「一人の男だけは例外で、このブンカーの中に入れることができませんでした」――のだから、何と、1u当たり17人もしくは15人を詰め込むことができたことになる。ポーランド人は、10月12日の項目にヘスラーの名前が記載されていることを(犯罪的な意味合いがあるかのように)説明させるために、自分たちの解釈にそった証言をクラマー強制したのである。

 アウシュヴィッツ収容所スタッフ裁判での起訴状にあるように、ワルシャワ最高人民法廷での検事は、「特別行動」とはガス処刑の同義語であるとアプリオリに裁断していた[269]

 

「被告クレマーは、アウシュヴィッツでの短期間の滞在のあいだに、14回の殺戮(ガス処刑)に関与している。9月2日から28日のあいだに、彼は、9回の同じような『特別行動』に参加している。」

 

 このような状況の下で、もしクレマー博士がこれとは矛盾するような申し立てをすれば、彼は、度し難いナチ戦犯と分類され、処刑されてしまったことであろう。だから、検事の告発とは矛盾しないような申し立てをすることを選択した。そして、この戦略は成功した。彼は、結局、囚人の「選別」に関与した咎で死刑宣告を受けたが、その後、終身刑に減刑され、1958年に釈放されたのである。

 では、「最後のブンカー」とは何か?フォーリソンは、これは中央収容所のブロック11のブンカー――ブロック10と11のあいだにある外から見えないこの庭で刑の宣告を受けた囚人の銃殺が行なわれたという――であったとの説を提唱している。たしかに、移送中の囚人が強制収容所に送られて処刑された事例がある。だから、クレマーによる「恐ろしい光景」という表現はこの事実を述べているのかもしれないというのである[270]。しかし、別の解釈も成り立つ。

 SSが収容所の監獄として利用されていたブロック11の半地下区画をブンカーと呼んでいたことは疑いない。SSは、ブロックのこの区画の房に囚人を閉じ込めることを「einbunkern(ブンカーの中に入れる)」と呼んでいたからである[271]。しかし、クレマーはなぜ「最後の」ブンカーと呼んだのかという問題は残る。

 ブロック11のブンカーは、収容所の南東区画の11のブロックのうちの最後のブロックであるという意味で、「最後の」ブンカーと見なされていたにちがいない。SSが1から10までの他のブロックの半地下区画をブンカーと呼んでいたかどうか文書資料から立証できないが、ブロック11の地下がブンカーと呼ばれていたのはそこが地下であるという単純な理由からであるので、他の半地下区画もブンカーと呼ばれていたと推測できる。収容所での死者が焼却される前に安置されていた死体安置室は、ブロック28の地下にあった。このブロックは、収容所の西区画の7つのブロックの最後のブロックであった。

 第3章で、われわれは、ビショフの手紙を引用したが、それはこう述べていた。

 

「移送集団全体(およそ2000人)からの到着者の大半は、夜に到着するでしょうが、翌朝まで、一つの部屋に閉じ込めておかなくてはなりません。」

  

 しかし、10月9日にオランダを出発した移送集団がアウシュヴィッツとビルケナウの中間にあるアウシュヴィッツ鉄道駅の旧降車場で選別を受けた。このことは、オランダ赤十字が公表している「一人の帰還者の」証言から明らかである。それによると、若い女性のグループが労働配置のために選別され、一方、

 

「女子供と老人は、トレーラー付きの大きな3台のトラックに載せられて、アウシュヴィッツTの方に送られた。」[272]

 

 労働不適格グループはビルケナウに送られて「殺人ブンカー」の中でガス処刑されるのではなく、アウシュヴィッツ中央収容所に送られたのである。選別は夜に行なわれたのだから、このグループはアウシュヴィッツ中央収容所につれてこられて、そこで翌朝まで、一つの部屋に閉じ込められたにちがいない。もちろん、上記のビショフの手紙によると、これは、そのあとに「東部移住」を再開するための普通のやり方だった。これらの囚人はブロック21の地下、すなわち、ブロック11とブロック28のあいだにある「最後のブンカー」で一晩過ごしたのであろう。夜に実施されたこの作業では、ブロック28の死体安置室が隣接していたためか、アウシュヴィッツの悪名のためか、移送者のあいだにパニックが生じたのであろう。しかし、クレマー日記の10月18日の記載に戻ろう。

 

「この日曜日の朝、湿った冷たい天候の中で、11回目の(オランダからの)特別行動に立ち会った。3名の女性が命を助けてくれと懇願する恐ろしい光景。」

 

 チェクの『アウシュヴィッツ・カレンダー』によると、1942年10月18日にオランダから到着した1710人のユダヤ人移送集団のうち、116人の女性だけが登録されて、残りの1594人はガス処刑されたという。クレマーの言うところの「特別行動」とはこのガス処刑を指しているというのである。

 オランダ赤十字報告によると、1710人からなる問題の移送集団は、10月16日にヴェステルボルクを出発して、最初、コーゼルに逗留し、そこで570人が選抜された。そして、残りの人々は次の収容所に向かっていった[273]

 

「ザンクト・アンナベルクもしくはザクラウ――ボブレクもしくはマラパネ――ブレヒハンマーさらにビスマルクヒュッテ/モノヴィッツ。別のグループはグロース・ローゼン地区。」

 

 ヴェステルボルクから東部地区に向かった移送集団――おそらくLouis de Jongが準備した――のリストは、1942年10月16日の移送集団の目的地として「ザクラウ、ブレヒハンマー、コーゼル」をあげている[274]

 チェクの『アウシュヴィッツ・カレンダー』は、この移送集団について虚偽の記述をするために、クレマー日誌を引用している。1942年10月16日にオランダから移送されたユダヤ人のうちアウシュヴィッツに到着したのはごくわずかにすぎないからである。

 1943年8月1日、フランス・ユダヤ人地下新聞Notre Voixは、ドランシーからコーゼルに移送された名前不詳のユダヤ人の目撃証言を掲載している。その話はこうである[275]

 

16−50歳のユダヤ人全員が地区の鉱山での重労働に召集された。それ以外――子供、動輪、女性、衰弱者、病人――はオシェヴィッツ[276]、『役立たずの』ユダヤ人のための収容所、もしくは屠殺人たちが『バケツを蹴る収容所』と冷笑的に呼んでいる収容所に連れて行かれた。オシェヴィッツへの移送の途中、筆舌に尽くしがたい光景が生じた。10−12歳の少年たちが自分たちは16歳だと訴えた。また、70代の老人が50歳だと訴えた。また、立っているのもやっとの病人が、働くことができると訴えた。オシェヴィッツがすぐさまの死、恐ろしい死を意味していることを全員が知っていたからである。私の知人であった二人のオランダ系ユダヤ人の場合のように、重病人がオシェヴィッツに行きたくないばかりに、働いていることがしばしばあった。」

 

だから、「3名の女性が命を助けてくれと懇願する恐ろしい光景」は、この女性たちがコーゼルで耳にしたアウシュヴィッツについてのホラー物語に由来していたのである。彼女たちは、「特別行動」(すなわち選別過程)において絶滅収容所行きを指示されることを恐れ、命乞いをしたのであった。

 



[230] ここには、11月8日に項目にある3つの特別行動も含まれている。有益な情報もないのでここではあつかわない。クレマー博士は間違って14回としている。

[231] 日記はAuschwitz in den Augen der SS, Auschwitz-Birkenau State Museum, 1997, pp. 141-207による。英訳のJadwiga Bezwinska, Danuta Czech (eds.), KL Auschwitz seen by the SS, Auschwitz-Birkenau State Museum, Auschwitz 1972はかならずしも信頼できるものではない。例えば“Lager der Vernichtung”(絶滅の収容所、9月2日)は“extermination camp” (p. 216)(絶滅収容所)となっているし、9月5日と10月12日の項目の“Sonderaktion aus Holland”(オランダからの特別行動)は“Special action with a draft from Holland” (pp. 215f., 223)(オランダからの移送集団に対する特別行動)と訳されている。これは誤訳による捏造となる。P. ヴィダル・ナケもこの誤訳による捏造を行なっている。P. Vidal-Naquet, op. cit. (note 235), p. 114。1942年10月12日の日記の項目について、ヴィダル・ナケは、「私はオランダからの集団に対するもう一つの特別行動に立ち会った」と訳しているからである。

[232] Hauptscharfuhrer.

[233] ラテン語で「世界の肛門」。

[234] Robert Faurisson, Memoire en defense contre ceux qui m’accusent de falsifier l’histoire. La question de chambres a gas, La Vieille Taupe, Paris 1980, pp. 13-64 and 105-148.

[235] Pierre Vidal-Naquet, Assassins of Memory, Columbia University Press, New York 1992, p. 47.

[236] Ibid., p. 113.

[237] Auschwitz in den Augen der SS, op. cit. (note 231), p. 154.

[238] AKG, NTN, 94, p. 58.

[239] D. Czech, Auschwitz Chronicle, op. cit. (note 15), p. 208f.

[240] Auschwitz in den Augen der SS, op. cit. (note 231), p. 125.

[241] 8月29日の項目

[242] 8月30日の項目

[243] Hans Marsalek, Die Geschichte des Konzentrationslagers Mauthausen, Vienna 1980, p. 157.

[244] Johann Neuhausler, Wie war das im KZ Dachau?, Kuratorium fur Suhnemal KZ Dachau, 1980, p. 27.

[245] From the 3rd to the 30th of August. Konzentrationslager Buchenwald, Report by the International Buchenwald Camp Committee, Weimar, undated, p. 85

[246] 1942年7月7日から9月9日までのシュトゥットホフの関連死亡記録による。2ヶ月で538人の囚人が死んでいることになる。Jurgen Graf and Carlo Mattogno, Concentration Camp Stutthof and its Function in National Socialist Jewish Policy, Theses & Dissertations Press, Chicago, IL, 2003, p. 80.

[247] GARF, 7021-104-4, p. 58.

[248] Jurgen Graf, Carlo Mattogno, Concentration Camp Majdanek..., op. cit. (note 109), p. 72.

[249] R. Faurisson, Memoire en defense, op. cit. (note 234), pp. 55f.

[250] Ruth Weidenreich, Un medico nel campo di Auschwitz, I.S.R.T., Florence 1960, p. 27.

[251] Leonardo de Benedetti, Rapporto sullorganizzazione igienico-sanitaria del campo di concentramento per Ebrei di Monowitz (Auschwitz - Alta Silesia), ISRT, C 75.

[252] ドイツ語では Muselmanner/Muselweiber.

[253] P. Vidal-Naquet, op. cit. (note 235), p. 114.

[254] D. Czech, “Le role du camp d’hopital pour les hommes au camp d’Auschwitz,” in: Contribution a l’histoire du KL Auschwitz, Edition du Musee d’Etat a Oswiecim, 1978, p. 17.

[255] R. Weidenreich, Un medico nel campo di Auschwitz, op. cit. (note 250), p. 28.

[256] APMO, D-Aul-3a/283.

[257] GARF, 7121-108-32, p. 97.

[258] Zofia Leszczy􀄔ska, “Transporty wi􀄊zniow do obozu na Majdanku,” in Zeszyty Majdanku, IV, 1969, pp. 206f.; by the same author, “Transporty i stany liczbowe obozu,” in: Tadeusz Mencel (ed.), Majdanek 1941-1944, Wydawnicto Lubelskie, Lublin 1991, p. 117.

[259] BAK, NS 19/14, p. 132.

[260] Proces za􀃡ogi, Volume 59, pp. 20f.

[261] F. Piper, Arbeitseinsatz der Haftlinge aus dem KL Auschwitz, Verlag Staatliches Museum in O􀄞wi􀄊cim, 1995, p. 81.

[262] Aleksander Lasik, “Taterbiographien”, in: State Museum of Auschwitz Birkenau (ed.), op. cit. (note 182), Volume 1, p. 282.

[263] 1947年7月18日にヤン・ゼーンが行ったクレマーに対する尋問のことである。この尋問をもとにポーーランド語で書かれた「要録」が、被告に読み上げられ、被告はそれが自分の供述を正確に反映したものであると述べている。Proces za􀃡ogi, Volume59, pp. 13–21.

[264] Serge Klarsfeld, Maxime Steinberg, Memorial de la deportation des juifs de Belgique, Brussels 1994, p. 27, as well as D. Czech, Auschwitz Chronicle, op. cit. (note 15), pp. 252f

[265] AGK, NTN, pp. 48 and 109.

[266] D. Czech, Auschwitz Chronicle, op. cit. (note 15), p. 252.

[267]  zagazowano wowczas okolo 1600 holendrow”, Proces za􀃡ogi, Volume 59, p. 20.

[268] Franciszek Piper, “Gas Chambers...,” op. cit. (note 185), p. 178.

[269] GARF, 7021-108-39, p. 67.

[270] R. Faurisson, Memoire en defense, op. cit. (note 234), p. 37.

[271] Letter of Bischoff of May 27, 1943, to the camp commandant on the subject: “Freigabe eingebunkerter Haftlinge”, RGVA, 502-1-601, p. 71.

[272] Nederlandsche Roode Kruis (ed.), Auschwitz, Vol. III, ‘s Gravenhage, The Hague 1952, p.

72. I thank Jean-Marie Boisdefeu for the suggestion of this explanation. Cf. in this regard his analysis in Akribeia, No. 5, October 1999, p. 150 (www.vho.org/F/j/Akribeia/5/Boisdefeu149f.html).

[273] Ibid., p. 13.

[274] Treinlijst Westerbork. ROD, C[64]312.1, p. 4 of the list.

[275] Stephane Courtois, Adam Raisky, Qui savait quoi? L’extermination des juifs 1941–1945. ed. La Decouverte, Paris 1987, p. 202.

[276] アウシュヴィッツのポーランド語オシフェンチムのなまり。