試訳:フォーリソン、大いに語る
フィル・サンチェス
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年1月4日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Phil Sanches, The Interview with Robert Faurissonを試訳したものである。 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。 online: http://vho.org/aaargh/engl/FaurisArch/RF020622.html |
アーヴィン、カリフォルニア、2002年6月22日
リヨン大学の退職教授ロベール・フォーリソンは、今日、ヨーロッパのホロコースト修正主義的研究者の重鎮とみなされています。初期の著作には「ガス室の諸問題」があります(これはフランスの大新聞『ル・モンド』に掲載され、騒動を巻き起こしました)。また、アンネ・フランクの日記の調査にもたずさわりました。その後、彼は、トロントで開かれたエルンスト・ツンデルの「ホロコースト」裁判において、ツンデルの弁護のためにはかり知れないほどの貢献をし、フレッド・ロイヒターがアウシュヴィッツの「ガス室」の法医学的調査を始めるうえでキイ・パーソンとなりました。
最近の論文「第二次世界大戦中のユダヤ人の虐殺に関する、ドイツ当局によるドイツ人の処罰」からもわかりますように、フォーリソン博士は、ホロコースト正史派のしらじらしい嘘の仮面を繰り返し剥ぎとってきました。最初はフランスで、今では西ヨーロッパ諸国の大半で、文化的エスタブリッシュメントと国家当局は、ニュルンベルク裁判の判決に疑問を呈することを非合法とすることが自分たちの利益にかなっているとみなすようになっていますが、フランスにおいて、彼らがそのように考えざるをえなくなっていくにあたって主要な役割を果たしたのがフォーリソン博士であったのです。
まもなく、運命の皮肉としかいいようのない、興味深い事件が起るはずです。フォーリソン博士の二人のお孫さんが、今秋、学校にいくことになっていますが、そのときに、このお孫さんたちは、「ホロコースト」についてどのように考えることが正しいのか、誤った疑問を呈する人々、誤った見通しから正しい疑問を呈する人々を処罰するには、どのような罰則が適切であるのかという授業を受けることになります。もちろん、彼らのおじいさんの名は、思想犯罪の件で、何回も国家当局から訴追された人物として、登場することでしょう。そして、フォーリソン博士のお孫さんたちは、自分のクラスで、「憎悪犯罪」との関連で――その犠牲者かもしれませんが――、連想されてしまうことになるのです。
フォーリソン博士は第14回歴史評論研究所大会に出席していましたが、その機会を利用して、彼とのインタビューを行ないました。
サンチェス[以下:Q]:フォーリソン博士、あなたは、マイケル・ベレンバウム、デビー・リップシュタット、オットー・フランク、ラウル・ヒルバーグといった多くのホロコースト正史派の人々とお話なさっていますね。彼らは誠実にホロコースト物語を信じているとお考えですか。
フォーリソン[以下:A]:まず、マイケル・ベレンバウムについてですが、合衆国ホロコースト記念博物館で彼と話しました。正確な日付も覚えています。1994年8月30日でした。デボラ・リップシュタットは、1989年に、ヴィシーの私のもとを訪ねてくれました。1977年、私は、スイスのバーゼルにいたオットー・フランクを訪ねました。一日目には5時間、二日目には4時間ほど彼と話しました。
ラウル・ヒルバーグとは話したことはありませんが、1985年のトロントでのツンデル裁判のときに、会ったことがあります。彼が検事側証人として反対尋問を受けていたときのことです。反対尋問を行なったのは、ツンデルの弁護人ダグラス・クリスティでしたが、尋問の大半は私が書いたものです。ですから、私がヒルバーグに質問し、ヒルバーグが答えた、答えようとしたようなものです。さて、あなたのご質問ですが、彼らは誠実にホロコースト物語を信じているのかどうかというものでしたね。
Q:そのとおりです。
A:そのご質問には答えることができません。私の味方であれ、敵であれ、ある人物が誠実であるかどうかわからないからです。その人物が誠実かどうか判断するのは難しいことです。誠実さを判断するには、数週間、数ヶ月、数年もかかるでしょう。それほど難しいことなのです。ですから、人物の誠実さには関心がありません。関心を抱いているのは、この男性、この女性が何を言っているのか、それは正確であるのかどうかについてです。真実であるかどうかではなく、正確であるかどうかです。ホロコースト物語を例にとりましょう。ホロコーストの歴史ではありません。ホロコースト物語なのです。もちろん、私にとっては、ホロコースト物語はまったく正確ではありません。まったく正確ではないのです。それを証明することができます。少なくとも、証明できると考えています。
さて、ベレンバウム、リップシュタット、オットー・フランク、ヒルバーグについてですが、この中で、オットー・フランクについては、ホロコーストではなく、アンネ・フランクの日記の件となります。彼らを二つのグループに分けることができます。第一のグループには、嘘が必要である、良い目的のための嘘であると考えているために、嘘をついている人々が入ります。そうしたことはありうるのです。ある意味では、彼らは誠実であるといえます。これが第一のグループです。
次に、そのことを耳にしたことがあるために、信じ込んでしまっている多くの人々のグループがあります。ベレンバウム、リップシュタット、ヒルバーグの場合には、例えば、彼らがユダヤ人殺害命令は実在した、ユダヤ人殺害計画は存在したと発言したとすると、そのことを立証する責任があります。しかし、それ以外の人々、ホロコーストを信じ込んでしまっている人々のグループには責任はありません。彼らは、耳にしたことを繰り返しているだけなのですから。
申し訳ないのですが、英語が下手なので、フランス語で表現できることでも、英語ではうまく表現できません。フランス語のles menteursという単語とles bonimenteursという単語の話です。前者は嘘をついている人々、後者は他人から聞いた嘘を繰り返している人々のことを指します。後者は英語では「ゴシップ」ということになるのでしょうか。彼らは「ゴシップ」を広めているというように使うのでしょうか。それでいいでしょうか。
Q:それは興味深い言い回しですね。続けてください。
A:わかりました。嘘つきと、耳にした嘘をオウム返しにする人々が存在するということをいっておきたいのです。
Q:前に名前をあげた人物のうちの何人かにもそのことがあてはまると思います。デビー・リップシュタットや、最近、強制収容所で育てられたことについての本(『断片』Fragments)を書いて、その後、その話がまったく虚偽であることが証明されてしまったスイス人についてあてはまると思いますが。
A:まったくそのとおりです。
Q:この人物の名前は思い出せませんが。
A:私は知っていますが、そんなことはどうでもいいことです。
Q:リップシュタットは、この本は事実にもとづいていないかもしれないが、それでもホロコースト文献としては良質であると述べています。私がお聞きしたいと思っているのはこの点なのです。彼女はその本の内容を信じていないにもかかわらず、この本が重要であると考えているのでしょうか。この点について、あなたにお聞きしたいのです。もっとも、判断できるほど彼女とは十分お話になっていらっしゃらないかもしれませんが。
A:リップシュタットが私を訪ねたのは、ビンヤミン・ヴィルコミルスキの本が出版される前のことでした。それは、彼のペンネームで、本名はブルーノ・グロスイェアン、もしくはブルーノ・デセッカーです。いずれにしても、彼は嘘つきです。彼はユダヤ人でもありませんでした。ご存知のように、ユダヤ人団体から告訴されて、裁判にかけられようとしています。
Q:裁判にかけられたのですか。
A:今かけられていると思います。これからかもしれません。もちろん、私は、「本当であっても嘘であっても、誠実なものであっても、そうではなくても、いずれにしても、われわれの善良な目的に役立っている」と考える人々が存在すること、ヒルバーグやリップシュタットでさえもそのように考えていることは理解しています。しかし、そのように考えているのはユダヤ人だけではありません。カトリックの中にも存在します。「敬虔なる嘘」と呼ばれているものをご存知でしょう。だから、誰もがそのように考えうるのです。
Q:ヒルバーグはフィンケルシュタインと何らかの関係を持っているのでしょうか。フィンケルシュタインがヒルバーグに情報を提供しているかどうかわかりませんが、ヒルバーグは修正主義者と同じような視点でホロコーストを考察するようになっていくのでしょうか、それとも、そのようなことはまったくありそうもないのでしょうか。
A:まったくありそうもないと思います。私が知っていることは、ヒルバーグのおかれている状況がまったく悲劇的だということです。彼は、現在75歳だと思いますが、今日、ホロコーストと呼ばれている出来事の研究をはじめたのは1948年でした。そして、1961年に、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の初版を出版しました。この中で、彼は大胆にも、ヒトラーからの2つのユダヤ人殺戮命令が存在すると述べました。ユダヤ人殺戮計画が存在した、ユダヤ人殺戮命令が存在したなどと述べていたのです。
1985年、ヒルバーグが証言台にたったとき、悲劇が訪れました。彼は、自分の物語をまったく変更し、第二版の出版を準備していたためです。第二版は1985年の中頃に出版されましたが、その中身はまったく異なるものでした。彼が自分の物語をどれほど変更してしまったのか。一例を挙げましょう。彼は初版では、ヒトラーからの2つのユダヤ人殺戮命令が存在すると述べていましたが、この2つの命令を具体的に提示するように求められると、もちろん、提示できなかったのです。そして、第二版で、奇妙な説を作り上げたのです。すなわち、命令が実在したと推定する必要はない、計画が存在したと考える必要はないというのです。
ヒルバーグの新しい説によると、何とドイツの官僚制、すなわち「全面的な官僚制による信じがたいほどの精神の一致、心の内側を読むことの共通理解」が起ったというのです。これは、テレパシー説に他なりません。研究者と思われているヒルバーグは最初、自分は証拠を持っていると述べ、その後、証拠は存在しないが、「全面的な官僚制による信じがたいほどの精神の一致、心の内側を読むことの共通理解」が存在したと告白しなくてはならなかったのです。これは、完全な敗北です。
この点について、ヒルバーグは「私は困惑しています」と証言したことを、ツンデル裁判の出席者全員がおぼえていることと思います。
Q:マイケル・ホフマンの本の中で、実際にそのように書いてあったのをおぼえています。
A:以上がヒルバーグについてです。私がお話できることはこれだけです。最近、彼は、『ホロコースト研究資料:分析』という小さな本を出版しています。お読みになってご覧なさい。まったく空虚な本です。まったく空虚な中身です。何も得るものはありません。この壮大な建物は、ハンマーで壊されてしまいました。ニューヨークのタワーのようにです。ヒルバーグというタワーはもはや存在していないのです。
Q:あなたとプレサックとの喧嘩についてお聞かせください。プレサックはあなたから何かを探し求めようとしているようですが。彼が求めていたものは何でしょうか。
A:プレサックもすでに終わっています。ベレンバウムやその類の人々でさえも、プレサックとは関係を持ちたがっていません。プレサックは哀れな人物です。彼は右翼過激派です。私は、初めて彼に会ってから数ヵ月後に、このことを知りました。クラルスフェルトが彼に大部な著作を書くように依頼しました。まったく馬鹿げた本でした。1989年に出版されたこの本のタイトルは『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』というものですが、ガス室についての記述はまったくありません。焼却棟や焼却炉について多くのことが記述されているのですが、ガス室については憶測だけが書かれています。
Q:例えば、換気装置などについてですね。
A:そう、換気装置です(笑い)。彼はとてもよく換気してくれたのです。風でした。風にすぎなかったのです。空気でした。空気です。A-I-R。私の発音でよろしいですか。プレサックは、最初は私を支持していたが、その後、私が間違っていることを発見したので、私から離れたという話をたびたびしています。しかし、ちょっと待ってください。第一に、プレサックがヴィシー[フランス中部]の私のもとを訪ねてきたことは一度もありません。第二に、私が彼を見かけたのは、パリのPierre Guillaume家でです。彼は私のもとに繰り返しやってきて、文書史料などを求めてきました。私は、この男は、まったくタフではなく、バランスを欠いている、この男と関係することは時間の無駄だとすぐに悟りました。
そして、こう話しました。「プレサックさん、私は疲れています。疲労しているのです。どうか、お帰りください。お話しすることは何もありません。」
しかし、彼はふたたび私に会いにきて、「あなたと話がしたいのです」というのです。私は、「プレサックさん、もう一度申し上げますが、時間がないのです。もし本当に私と話がしたいのであれば、ご自分の話をテープに記録してください。あなたは、おっしゃったことをおっしゃらなかったといつも言っていらっしゃいますので。だから、あなたの発言を正確にたどっておきたいのです。」
すると、彼は、「そのようなことはしたくありません」というのです。
そこで、私は、「なら、立ち去ってください」といってやりました。それで終わりです。
Q:裁判ではどうでしたか。
A:裁判の件のことですね。1995年、この哀れな人物も出廷しました。彼は、1993年に、もう一つの本を出版しています。フランス語のタイトルは、Les Crématoires d'Auschwitz: la machinerie du meurtre
de masse(『アウシュヴィッツの焼却棟:大量殺戮装置』)というものでした。当時、私はまた告訴されており、裁判にかけられていました。弁護人と相談して、プレサックを召喚することにしました。出廷してこないであろうと思っていたのですが、驚いたことに、やってきたのです。この哀れな人物は出廷してきたのです。私自身には尋問する権利はありませんでした。彼に尋問する権利を持っていたのは弁護人だけでした。そこで、尋問の中身を、簡潔かつ明瞭なものとしようと決めました。
私は弁護人に、「彼に一つの質問をするだけでかまいません。その質問とは、『プレサックさん、あなたの著作には、60の写真、文書資料、図版が掲載されています。そこで、ナチスのガス室についての写真、文書史料、図面を一つだけでも見せていただけないでしょうか』というものです」と言っておきました。もちろん、そのようなものはありません。一つの写真もないのです。技術的にありえないのです。だから、彼は、またもや吸気と排気(笑い)について証言するしかありませんでした。
3名の判事がいましたが、裁判長は女性でした。この裁判長は、プレサックが質問に答えていなかったので、「プレサックさん、換気装置の話ばかりしていますね。換気装置の話です。それは換気するものでしょ」(笑い)と突然、彼の証言をさえぎったのです。彼女は少しナイーブだったのでしょう。彼女は、プレサックが質問にまったく答えていないことを理解させようとしたのです。
すると突然、プレサックは、「ご理解いただきたいのですが、私の研究はとても難解なのです、一言で簡潔に言い表すことができないのです。ご理解いただきたいのですが、そうすることができないのです」といったのです。だから、プレサックも「困惑してしまっている」ことになります。そして、プレサックも終わったのです。
話題を変えてみましょう。2000年に、若い女性の執筆した本が出版されました。彼女はヴィシーの私のもとを訪ねてくれたことがあります。この本Histoire du négationnisme en France(『フランスにおけるホロコースト否定の歴史』)は私たちにまったく反対しています。彼女の名はValérie Igounetです。その中に、プレサックとの長いインタビューが掲載されています。そして、プレサックは、インタビューの最後で、ほとんど全面的に修正主義者の立場をとっています。書類の束(修正主義者に反対する人々の書類の束)は骨の髄まで腐っているというのです。
「もはやそれを救うことはできません。それは終わったのです」とプレサックはいっています。
Q:第二次世界大戦中のフランスには、二種類のレジスタンス運動、すなわち、ナチスの占領に反対するレジスタンス運動と共産主義者のテロに反対するレジスタンス運動が存在したと発言されたことがありますね。この2つの運動の相違をお話いただけないでしょうか。そして、後者についてもっと詳しくお話していただけないでしょうか。
A:フランスでは、いつもレジスタンスのことが話されています。いつも、レジスタンスについておしゃべりがなされています。しかし、時が経過すると、レジスタンス戦士résistantsについて正確に話すのではなく、偉大なるレジスタンス戦士grands résistantsについて話しているのです。いつも偉大なるレジスタンス戦士のことなのです。レジスタンス戦士とは全員が偉大なるレジスタンス戦士であったと考えられているのです。
そして、これは私のジョークなのですが、「レジスタンスとおっしゃいますが、そのレジスタンスとは何を意味しているのですか」と尋ねると、「もちろん、ドイツに対する抵抗運動です」という答えが普通返ってきます。そのあと、私は、「わかりました。でも、別のレジスタンスもあったのですよ。あなたと反対の立場にいる人々は、自分たちもレジスタンス戦士であったと確信していました。共産主義に対するレジスタンス戦士、フランスにおける共産主義のテロルに対するレジスタンス戦士です」といってやるのです。
それは、1941年6月に始まり、少なくとも1944年の血の日曜日まで続きました。今日では想像もできないほどでしょうが、この当時のフランス共産党の権力は強大で、「協力者」はドイツ人の味方である、ドイツ人の味方とみなされているとの理由で、多数の人々を殺しました。ドイツ人の側にも、誠実なフランス国民が存在しました。彼らは、ヒトラーを気に入っていたわけでも、ひいてはドイツ国民を気に入っていたわけでもありませんでした。ヨーロッパにとっての大きな危険、フランスにとっての大きな危険は、赤軍と一緒にやってくる共産主義者たちであると考えていたのです。赤軍をどこで阻止するかを考えていたのです。これが、彼らの課題でした。
1942年、ペタン元帥のもとで首相をつとめていたラヴァルは、「私はドイツ軍の勝利を望む」と発言しています。この発言は、ラヴァルがドイツ人を気に入っていたからではありません。彼はこう付け加えています。「そうでなければ、ヨーロッパで共産主義が勝利を収めてしまうからだ。」
レジスタンスという用語には警戒しなくてはなりません。当時の人々の大半は、自分たちのことを勇気があるとみなしていましたが、実際にはそうではありませんでした。大半の人々は臆病でした。自分たちは勇気があると思っていたにすぎないのです。何かに抵抗したので、勇気があると思っていたのです。戦時中には、ドイツの占領に抵抗した人々もいましたが、多くのフランス国民を暗殺していた共産主義者に抵抗していた人々もいたのです。
Q:これらの殺人については裁判が開かれたのですか。
A:もちろん、開かれませんでした。善の側に立っていれば、勲章、敬意、金銭を手に入れます。逆の側に立っていれば、まさに正反対の事態となります。敗者になってはならないのです。それだけです。
Q:ということは、ドイツの占領が終わったあと、占領時代の共産主義者による殺人に対する裁判はまったく開かれなかったのですね。
A:ごく少数でした。そして、ごくごく少数が有罪判決を受けましたが、彼らも「恩赦」の対象となりました。ド・ゴール政府の決定によって、自動的な恩赦の対象となったのです。すなわち、「フランスを解放するために」何と1946年1月1日までになされたすべてのことは恩赦の対象となると決定されていました。1946年ですよ。おわかりですか。戦争が終わったのは1945年5月8日で、フランスで一番最後に都市が解放されたのは1944年12月のことです。1945年を通じて犯されたすべてのことが恩赦の対象となったということは、その間、人々が殺され続けたということを意味しているのです。
Q:報復ですか。
A:報復です。そのとおりです。
Q:回答できる質問かどうかわかりませんが、フランス固有の共産主義者によるものであったのですか、それとも、彼らはたんにソ連の操り人形だったのですか。
A:本物の誠実な共産主義者でした。
Q:ということは、彼らはソ連の操り人形にはなりたくなかったということですか。フランス固有の共産主義者だったのですね。
A:まったくの操り人形でしたが、誠実な操り人形でした。
Q:ここで、フランスでの法律の作成方法についておうかがいします。間違っているかもしれませんが、とくにあなたを対象とした数多くの反修正主義者法が存在するのですね。
A:いいえ、実際には、一つの特別法があるだけです。
Q:何という名の法律ですか。
A:ゲイソ法と呼んでいます。それは共産主義者の名前です。また、ファビウス・ゲイソ法と呼ぶこともあります。ファビウスは、金持ちのユダヤ人です。社会主義者ですが、大金持ちです。だから、1990年の反修正主義者法は、ユダヤ的・社会主義的・共産主義的法律なのです。パリの裁判所の関係者のあいだでは、「フォーリソン法」を意味する、ラテン語のLex Faurissoniaと呼ぶ人々もいます。1990年7月13日の法律です。興味深いことに、この法律は、1990年7月14日に、Journal Officiel de la République
Françaiseで公表されました。それは、バスチーユ監獄解放の日です。この日は自由の日とみなされています。
私は、この法律以外の法律によって起訴されてきました。何回も起訴されたので、数を覚えていません。この特別法が発布される1990年以前にも起訴されています。例えば、人種差別を禁止する法律によってです。ユダヤ人の虐殺といわゆるナチスのガス室の実在を否定することで、人種差別という犯罪を犯しているというのです。否定するというのは、告発者側の用語です。実際には、私は何も否定していません。研究を重ねたうえで、この種の犯罪にはまったく証拠がないということを肯定しているのです。また、私はユダヤ人を中傷しているとも告発されました。
Q:死者を中傷しているというのですね。
A:そう、死者をです。
Q:あなたのお国でこのような反民主主義的な法律を廃止しようとする人はいますか。
A:ありえません。
Q:ありえないことなのですか。
A:ありえません。私の話は哀れむべきものに見えるかもしれませんが、そのことは予想していました。フランスの右派には過激派がいます。その一人は、非常に有名でル・ペンです。もう一人は、ブルーノ・メグレ(Bruno Maigret)です。この二人は、数年前に、「われわれは言論の自由に対する法律の抑制を要求する」という一項目を彼らの綱領の中に入れていました。その法律とは1972年の法律と1990年の法律のことです。それ以上は主張していません。「われわれはこれらの法律の廃止を要求する」と主張することを恐れているのです。この項目は、印刷された綱領、古い綱領の中にはまだ記載されていますが、選挙運動では、それは言及されていません。そのような主張をすれば、ユダヤ人団体から、「否定派」と非難されることを知っているからです。だから、彼らは臆病なのです。臆病なのです。
Q:奇妙な質問かもしれませんが、自信があるわけではないのですが、フランスでは、ホロコースト修正主義という分野を担っているのは、左翼、元左翼の人々ではないのですか。これについてはどうお考えですか。
A:当初は、そうでした。ラッシニエは共産党員で、のちには社会党員となりました。Pierre Guillaume、Serge Thion、Gabor Tamas Rittersporn(彼はユダヤ人ですが)のような人々は、左翼の出身者です。左翼とか自由主義者と呼ばれる人々でした。この中には、赤毛のダニー・コーン=ベンディットの兄弟ジャン・ピエール・コーン=ベンディットのようなユダヤ人もいます。彼らは、「1979年、80年」という時代には修正主義者でしたが、Pierre GuillaumeとSerge Thionをのぞいて、すべて修正主義を放棄しました。前説を撤回した人もいます。タブーなのですよ。とても、とても困難なのです。短期間ならば、修正主義を支持して闘うことはできますが、何年間も修正主義を支持して闘うのは非常に困難なのです。ゆっくりとした自殺のようなものなのです。
Q:かつての状況主義者とその支持者たちとの関係を話していただけませんか。
A:ご存知のように、状況主義者は、地上から姿を消した動物のようなものです。このような動物は何といいますか。
Q:恐竜ですか。
A:そう、恐竜です。状況主義者は恐竜のようなものです。だから、私は彼らのことを知りません。依然として存在しています。名前をあげることもできますが、名前をあげることが適切かどうかわかりません。彼は重要人物です。状況主義者としては重要人物だといえます。彼らは私たちを支持しているが、もちろん、自分たちの名前をあげないように求めている、と何人かの人々、非常に重要な人々が、たまたま明言してくれました。きわめて数少ないのですが、それでも、何名かは存在しています。
Q:最後に、何かお話になりたいことはありますか。
A:「なぜ、今のような活動をなさっているのですか」、「なぜ闘い続けるのですか」、「他の人々がこの戦いに、あなたと一緒に参加することを願っているのですか」とよく尋ねられます。
私は、なぜかといわれても、わかりませんと答えます(笑い)。
1979年のことですが、ニューヨークのケネディ空港で私を出迎えてくれた人物がいました。彼は、ドイツ系で、「あなたがドイツのために行なっていることはすばらしい」と話しました。私は、「ドイツのために行なっているのではありません」と答えました。すると、「では、なぜ行なっているのですか」と尋ねるので、「鳥が歌を歌うのと同じです」と答えました。
ご存知のように(笑い)、私は今73歳です。この鳥は羽毛を失いました。少なくとも、その一部ですが。でも、歌い続けているのです。その理由はわかりません。死ぬ瞬間まで歌い続けるでしょう。私のいえることはこれだけです。
私は戦争中にドイツ国民に対して非常に敵対的でした。私の当時の振る舞いは人の道から外れていました。ドイツ国民は、非常に正しく振る舞っていましたし、私が目撃した数千の兵士も非常に正しく振る舞っていました。このようなことを知っていたにもかかわらず、私は、彼らは殺されるべきだと考えていたのです。ハンブルクが激しい空襲を受けたとことを耳にしたとき、なぜ、3000トンの爆弾ではなく、600万トンの爆弾ではないのかと思っていました。おわかりですか(笑い)。なぜ、600万ではないのか。なぜなのか。
Q:3という数字の2倍ですね。
A:なぜ、2倍ではないのかと思っていたのです。しかし、戦後になって、ドイツ人も人間であることを悟ったのです。ナチスにも、共産主義者にも、ユダヤ人にも、非ユダヤ人にもなれますが、にもかかわらず、人間なのです。
当時、私は17歳でした。そして、ニュルンベルク裁判から非常に不愉快な印象を受けました。非常にです。今、73になりましたが、17のときと同じように非常に憤慨しています。本当は、17歳と同じようではいけないのかもしれません(笑い)。73歳にもなれば、そのように憤慨することは止めなくてはならないのかもしれません。しかし、止めませんでした。死ぬまで止めないと思います。止めないと思います。