試訳:否定派の巣窟にて
ジョン・サック
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2003年12月25日
本試訳は当研究会が、研究目的で、John Sack, Daniel in Deniers Denを試訳したものである。 online: http://www.johnsack.com/daniel_in_the_deniers_den_1.htm http://www.johnsack.com/daniel_in_the_deniers_den_2.htm http://www.johnsack.com/daniel_in_the_deniers_den_3.htm http://www.johnsack.com/daniel_in_the_deniers_den_4.htm http://www.johnsack.com/daniel_in_the_deniers_den_5.htm |
ホロコーストは起らなかった主張している人々から、自分たちの国際大会で講演してくれないかとの依頼がありました。この招待には驚きました。私はユダヤ人で、ホロコーストについて執筆したこともなければ、それを否定したこともないからです。しかし、歴史評論研究所からの招待はたんなる驚き以上のものでした。カリフォルニア州オレンジ郡にある歴史評論研究所は、ドイツ人はユダヤ人を殺さなかった、ホロコーストはいわば20世紀の詐欺であると人を惑わせている人々の中心的な隠れ家であったからです。だから、この招待は、またとない機会でしたし、垂涎の誘惑でもありました。私たちジャーナリストというものは、いつも事件の外側に置かれています。法廷の傍聴席のうしろ、国会議事堂の議場からかなり離れたところ、フットボールのパスが届かないところ、野球のボールが届かないところにいるのです。私たちは、真鍮のベルとちょっとした分け前を待っている宴会場のこじきのようなものです。歴史評論研究所は、ジャーナリストなら誰もが望んでいること、すなわち、まったく妨げられずにご馳走にかぶりつく機会を私に与えてくれたのです。研究所からの手紙は、濃霧の中にあるために、見きわめることができない国への通行証でした。ホロコースト否定派とはどのような人たちなのでしょうか。閉ざされたドアのうしろでどのような活動をしているのでしょうか。彼らに対しては、「お前たちは間違っている、お前たちは間違っている」という雪崩のような証拠が降りそそがれていますが、なぜ、彼らはこの雪崩に対して不動の石のように屹立しているのでしょうか。私は、ヒトラーの鷲巣にいるモグラのように彼らと交わり、それから演壇にのぼって彼らに話をしてくれるようにと招待されました。私は、はい、うかがいますと研究所に返答したのです。
金曜日に、オレンジ郡のジョン・ウェイン空港に降り立って、研究所に電話して、「大会はどこで行なわれるのですか」と尋ねました。そのときまで、会場を知らなかったのです。研究所は、私が会場を、ユダヤ防衛連盟、FBIが活発なテロリストと呼んでいるユダヤ人たちに漏らすかもしれない、そして、彼らが暴力行為にうったえるかもしれないと懸念していたのです。私に対してではありませんが、別の大会では、そのような暴力行為が講演者に対して頻繁に行なわれていました。こぶしで殴られた人がいましたし、チェリー・パイ持ったこぶしで殴られた人もいます。パリ、ヴィシー、リヨン、ストックホルムでも殴られた人がいました。私は70歳なのですが、私よりも年長の人物が、ホロコーストは起らなかったと軽率にも信じていたために、地面に倒されて、頭をけられたこともあります。このために、彼は6週間のあいだ、あごをワイヤーで固定され、ストローを使って食事を取らなくてはなりませんでした。この3人の人物は、否定派の指導者たちなのですが、今週末の大会で講演する予定でした。歴史評論研究所は、彼らの言論の自由や身体が、「ナチス」、「ネオナチ」、「反ユダヤ主義者」と叫ぶユダヤ人によって、パンチを繰り出すユダヤ人によって危険にさらされてしまうのを避けようとしていたのです。研究所は電話で、大会の会場を教えてくれましたが、「誰にも言ってはいけない」と付け加えました。
会場を知ると、私は専用車に乗って、シュロに囲まれたホテルに向かいました。曲がりくねったプールには日本風の歩道橋がかけてあり、さざめく水に太陽がきらきらと輝いていました。数名の否定派の人々が戸外のロビーに座っていました。(彼らも研究所に電話をかけて、「誰にも言ってはいけない」と言われていたのでしょう。)ユダヤ防衛連盟の好戦的な分子からの脅迫や危険が差し迫っていたかどうかは明らかではありませんでしたが、彼らはそのことについてとりとめのない冗談をいっていました。「私はすべてをチェックしています。」オーストラリアのアデレーデからやってきた人物は、笑いながら話しかけてきました。「ここでは自分で自分の安全を心配しておかなくてはならないのでしょうか。」背が高く、肩の広い、ニューヨークからやってきたイタリア人が私に尋ねました。
「心配ですか。」
「自分の部屋の外にいますので、心配しています。周りの人の話では、心配すべきであるとの話です。ここでは、私の命が危険にさらされていると思いますか。」
「すぐにわかるでしょう。ユダヤ防衛連盟はここカリフォルニアにも存在していますから。」
「ヘー」とニューヨークからの人物がいいました。
6時ごろまでに、ロビーは人でいっぱいになりました。否定派の人々(土曜日には140名でした)の4分の3は男性で、4分の1は女性でした。大半が白人でしたが、アフリカ系アメリカ人も一人いました。禿げている人もいましたが、剃刀でそりあげたスキンヘッドの人は誰もいませんでした。ひげをたくわえている人も多く、サンタクロースのように豊かな白いひげをたくわえている人も一人いました。多くの人々がスラックスと短い袖のシャツといういでたちでしたが、ジャケット、ブレザー、ビジネス・スーツを着ている人もいました。サファリ・スーツを着ている人が一人、マーク・トウェインのような白いスーツを着ている人が一人いました。「穴がなければ、ホロコーストもない!」とのロゴの入ったTシャツを着ている人が二人いましたが、その意味については土曜日に知ることになりました。鉤十字の腕章をつけている人はいませんでした。私が耳にした会話は食べ物について(「私は生ミルクで育ちました」)、船の外輪について(「『ショーボート』に登場してくるようなものです。ご覧になったことがありますか。それを借りてくることをおすすめします」)でした。結局のところ、その日、その週末の否定派の人々は、もっとも典型的なアメリカの中産階級のようでした。もっといえば、ホロコーストについての姿勢は別にしても、彼らは愛想が良く、開放的で、知的でした。彼らの目は、人を寄せ付けないような確信の炎で燃えているわけでもなく、彼らの口は、厳しい憎悪でねじまがったレモンでもありませんでした。彼らはナチスでもネオナチでもなかったのです。
彼らは反ユダヤ主義者でもありませんでした。ホロコーストが起らなかったと主張している(そして、実際に起ったことに喜んでさえもいる)のは反ユダヤ主義者であると思っていましたが、その週末に出会った人々にはそのような人はいませんでした。私が反ユダヤ主義的なコメントを唯一耳にしたのは金曜日の夜のことでした。そのとき、私は「穴がなければホロコーストもない!」というTシャツを着た有名な否定派の人物と下のレストランで食事を取っていました。Robert Countess博士というアラバマからやってきた人物です。彼は古典ギリシア語と古典ヘブライ語の研究者として、アラバマ大学で歴史を教えた経験を持っており、定年後はHuntsvilleの郊外の農場で暮らしています。そこで、メジャーリーグ・ピンポンに興じ、旧型のプジョーを集めています。22台を所有しており、大恐慌時代のものもあります。彼の話し方は、少々気難しそうな調子でした。戸外のレストランで、『70人訳旧約聖書』について話すにつれて、その話し振りはますますぎしぎししたものになっていきました。彼ではなく、ほかならぬ私が、ユダヤ教の聖典『タルムード』の話を持ち出すと、彼は、次のようにレクチャーしてくれました。
「どのようにして『タルムード』と呼ばれるようになったのでしょうか。タルムードとは、ヘブライ語で学ぶを意味するlamadの分詞形で、ラビたちが『トラー』の特定の文章を考えているときに、バビロニアで発達したのです。これらのラビのうち何人かは、アブラハム、イサク、ヤコブの宗教をバビロニアの異教と折衷しようとしていました。だから、『タルムード』について多くのことをお読みになるとしたら、エルダがお気に入りの話をしてくれるでしょう。」
「いいえ」と、食事をともにしていた彼の妻エルダがいいました。
「何ですって、『タルムード』にある話なのですが。」
「いいえ、お話したくありません。」エルダは困惑していた。
「ぜひ話してください」と彼は頼んだ。
エルダは顔を赤らめながら話しはじめた。
「『タルムード』にある話なのですが、ユダヤ人の男性が屋根を直していて、彼の義理の妹が下を通りかかり、そのときに彼が彼女の上に落ちたところ、彼女は妊娠していたという話です。」
「彼はそんな風に屋根から落ちたのだね」と彼は笑いました。
「この情景を思い描くことができますか。それでは、この子供は私生児にもならないでしょう。」とエルダが言いました。
この話は、それが『タルムード』(『イェバモト』、『ババ・カマ』)に存在していなかったとすれば、そして、夫妻がたんに驚いているだけではなく、気味悪がっているとすれば、反ユダヤ主義的な冗談となってしまうでしょう。「あなたも私もこれについて笑っていますが、私はひどく驚いています。ユダヤ人は馬鹿な民族ではありません。どうしたら、彼らはこの話に賛同することができるのでしょうか」と彼がいいました。
「その答えは、私たちは賛同していないというものです」と私は説明しました。金曜日の就寝時間まで、この夫妻に対する私の印象は、UFOの実在を信仰している人々に対する印象のようなものでした。アメリカ人の誰もが、馬鹿げたことを一つか二つ信じているものです。そのようにいう私も、国際未確認生物学会に所属していまして、コンゴの中央部にあるテレ湖には恐竜が実在していることを固く信じています。15年前には、そこに出かけて写真をとろうとしました。写真をとることも、目撃することもできなかったのですが、それでも、実在を信じています。他のことを信じている人々もいます。この夫妻も否定派の人々もホロコーストが起こらなかったと信じています。コンゴの件に関する私と同じように、彼らは間違っていますが、そのことを強調したとしても、彼らを憎むべき、軽蔑すべき、卑下すべき人々であるといっているわけではありません(そのようにいっている人々もいますが)。(『ホロコーストを否定する人々』の著者[デボラ・リップシュタット]のように)、彼らをねずみと呼ぶことは、無知ゆえに、オズワルドはケネディを殺さなかったという、より悪質ではない憶測を信じている人々をねずみと呼ぶのと同じように正確ではないのです。
大会は土曜日に始まりました。ロビー中央にはケント・シュロが置かれ、その周囲には、ユリ、ハズ、ゴクラクバナがめぐらされ、大会参加者が幸せそうに行きかっていました。青年も、老人もいましたが、彼らは、専門家会議に出席する普通のアメリカ人と同じように、天気について、自分の家庭について、子供たちについておしゃべりしていました。定刻になると、「穴がなければホロコーストもない!」というロゴの入った赤、緑、灰色のシャツを着た人々がどんどん集まってきて、ガーデン舞踏会場の窓の閉まった暗闇の中にいる講演者の話を聞くために、ブリッジ・チェアーに座りました。「素敵な大会だ」と誰かが言っていました。
さて、「穴がなければホロコーストもない!」のことです。私がここで知った初めてのことは、このシュロに囲まれたホテルにいる誰一人として、ヒトラーがユダヤ人を憎んでいたこと、ヒトラーがユダヤ人を強制収容所に送ったこと、ヒトラーが「私はユダヤ人を根絶したい」と言ったこと、数10万人(否定派がそういっているのですが)が、アウシュヴィッツのような神に見捨てられた地獄の穴で死んだことを否定してはいないということです。これは私には驚きでした。ホテルにいる誰一人として、数10万のユダヤ人がアウシュヴィッツで、チフス、赤痢、飢餓のために死亡し、その死体は、昼夜を分かたず、5つの焼却棟の中で焼却されていたことを否定していなかったのです。このことをホロコーストと呼ぶ否定派もいました。彼らが否定しているのは、ユダヤ人の中には自然死でなかった人々も存在した、すなわち、ドイツ人がシアン化水素を投入した(別の4つの収容所では、一酸化炭素)部屋に送り込まれた人々が存在したことです。ホロコースト否定派のいうところでは、ユダヤ人は殺されなかった、ドイツ人は彼らを意図的に殺したわけではないというのです。
数万の目撃証人がこれとは反対のことを述べています。アウシュヴィッツの降車場に立ったことのあるユダヤ人によると、ドイツ人は彼らに対して、「右に行け」といい、彼らの母親や父親、子供たちに対して「左に行け」といい、その後、二度と母親、父親、子供たちには会うことがなかったという話です。私も、そして否定派以外の全員が、左にいった人々は青酸ガス室に向かったと信じていますが、否定派の人々は、彼らはアウシュヴィッツの別の区画に向かった、もしくは別の収容所に送られたと考えています。「ユダヤ人の一部はアウシュヴィッツに残りました。それ以外は、さらに移送されました。多くの人々がソ連にとどまることを選択しました」と講演者(中国語も含む17ヶ国語を操る学者でした)が舞踏会場の演壇の上でいっていました。数万の目撃証人が青酸ガス室を目撃し、また、ライラック色のシアン化水素の丸薬がユダヤ人に注がれるのを目撃しましたが、これらの証人たちのほぼ全員が5分以内に死亡し、この件を証言することはできませんでした。数少ない目撃者が証言していますが、その中には、二人のアウシュヴィッツ所長もいます。その一人は、5歳以下の子供と55歳以上の老人がガス処刑されたと証言しており、もう一人は、「少なくとも250万人がガス処刑された」と証言していますが、その後120万と訂正しています。アウシュヴィッツの医師も証言しています。ある医師は、「ドアが開けられると、死体が倒れ落ちてきた」と、別の医師が、「ダンテの『地獄』も、これと比較すれば喜劇のようなものである」と証言しています。死体を焼却棟に運んだユダヤ人も証言しています。その一人は次のように証言しています。
「私たちは、裸の死体が折り重なった山を発見しました。その死体はピンク色であり、部分的には赤色でした。緑色の斑点のある死体もあり、口からはよだれが流れ出していました。鼻から血が流れでいる死体もありました。死体の多くは糞尿にまみれていました。」
また、「私たちはごちゃごちゃと横たわっている死体を目撃しました。私は身じろぎもできなくなりました」との証言もあります。
このように圧倒的な証拠に対して、ホロコースト否定派の人々は――そして、この点では彼らは正しいのですが――、アウシュヴィッツ所長の自白は拷問を受けたあとのものである、その他の証言も、偏見、噂、誇張、途方もない記述で満ちていると論じて、戦後5年経ってからのユダヤ人雑誌のユダヤ人編集者の記述を引用しています。否定派の人々は――またも、この点では彼らは正しいのですが――、ベルゲン・ベルゼン、ブッヘンヴァルト、その他すべての収容所の所長、医師たち、SS、ユダヤ人が、これらの収容所には青酸ガス室があったと戦後に証言していますが、今では、すべての歴史家がこのことを否定していると述べています。さらに、否定派の人々は――そして、またもや彼らは正しいのですが――、アウシュヴィッツの目撃者が、ドイツ人は青酸ガス室の屋根にある穴から丸薬を投下した、ドイツ人はそれを投下するときに、「彼らに食べ物を与えてやれ」と言ったと証言していると述べています。Tシャツに書かれていた「穴がなければホロコーストもない!」のその穴なのです。アウシュヴィッツの屋根は今も存在しています(ドイツ人は1944年に、隠匿のためにそれを爆破したので、崩壊したかたちで残っています)。否定派の人々のいうところでは、ドイツ人がシアン化水素を投入した穴が屋根には存在しないではないかというのです。
私自身には、この問題は、スイス・チーズにはなぜ穴が存在していて、チェダー・チーズには存在しないのかというような、ちっぽけなミステリーにしか思えませんが、シュロで囲まれたホテルにいた全員が、この問題に熱心に取り組んでいました。一人の講演者は、第二世界大戦史を専門とするイギリス人歴史家ディヴィッド・アーヴィングでした。彼は、政治家のような風采をしており、政治家のような上品なピン・ストライプのスーツを着ており、下院議員のように雄弁でした。自分の明晰な定義、てきぱきした区別、破壊的なあてこすりを構文の完璧なセンテンスの中にまとめあげる人物でした。『ホロコーストを否定する人々』の著者[デボラ・リップシュタット]と出版社[ペンギン・ブックス]を名誉毀損で訴えたばかりでした。この裁判は昨年ロンドンで開かれました。アーヴィングは敗訴しましたが、「穴がなければホロコーストもない!」との論点を表に出したことで、得点を挙げていました。この裁判で、著者と出版社側の証人[ペルト教授]が、証言台で何名かのアウシュヴィッツの目撃証人を引用したところ、自分で弁護士役もつとめていたアーヴィングは、ハンサムで堂々としたいでたちで、身をかがめて襲いかかろうとするライオンのように飛びかかったのです。
「教授、時間を浪費しているのではないでしょうか。屋根には穴が存在しませんでした。今日でも、穴は存在しません。ドイツ人たちは、屋根からシアン化水素のカプセルを投下できるはずがないのです。あなた自身も屋根の上に立ち、この穴を探したけれども、発見できなかったのですね。私たちの専門家証人も屋根の上にたったけれども、発見できませんでした。穴は存在しなかったのです。この件については、どうお考えですか。」
教授は、弱々しく答えました。
「屋根はめちゃくちゃになってしまっているのです。まったくめちゃくちゃなのです。屋根はばらばらになっています。」
二人の質疑は続きます。
「何回ほどアウシュヴィッツに出かけましたか?」
「1年に2回か3回ほどです。」
「この屋根を何回も訪れたのですね?」
「はい、訪れました。」
「穴があったとお考えになっている場所に行って、掘り起こしてみなくてはならないと思ったことはありませんか?」
「掘り起こそうなどとは、思ってもみませんでした。」
「ワルシャワまでの航空券はいくらですか。100ポンドですか、200ポンドですか?」
「わかりません。」
アーヴィングは勝ち誇って次のように発言しています。
「もしも、あなたがスコップを持ってアウシュヴィッツに出かけ、瓦礫を取り除いて、鉄筋コンクリートで補強された穴を発見したとすれば、私はすぐに自分の訴訟を取り下げます。穴を発見したとすれば、そのことは私の訴訟事件に穴を開けることになり、私には自分を弁護する可能性がなくなってしまいますから。」
アウシュヴィッツに飛ぶ必要はありませんでした。著者、出版社、教授はアウシュヴィッツ博物館に照会していたのです。博物館はロンドンの『タイムズ』紙に、伝説の穴の捜索を始めたと伝えていたからです。2マイルドライブして、スコップを持っているだけでよかったのです。そして、カメラも。調査に必要であったのはそれだけでした。しかし、9ヶ月たった今でも、博物館は穴を発見していません。
しかし、これをやった人物がいたのです。アウシュヴィッツ博物館の人ではなく、チャールズ・「チュック」・プロヴァンです。ペンシルバニア州モノンガヘラのレターヘッド印刷業者で、ここカリフォルニアの大会での講演予定者でした。子供じみた熱意を持ち、丸々と太った赤ひげの陽気な人物でした。ブランディーグラスのような顔をした彼は、1990年にあるひらめきを受けるまでは、熱心な否定派でした。プロヴァンは、モノンガヘラの自宅にいたとき、『クルト・ゲルシュタインの自白』を読んでいました。ゲルシュタインは、ポーランドのベルゼク強制収容所にいたことを告白し、次のように述べています。
「私はすべてを目撃した。母親、その胸に抱えられた赤ん坊、裸の幼児、裸の男女。彼らは、SSの鞭で追いたてられながら、死の部屋に入りました。十分詰め込めと、隊長が命令していました。25uのスペースに700名から800名の人々。半分以上が子供であった。」
45年間にわたって、この『自白』はホロコースト否定派の笑いの種でした。25uに700名から800名だって? 1uに30名、1平方フィートに3名。「ありえない」、「信じられない」、「ナンセンスだ」と否定派の人々は嘲笑しています。「自動車のスクラップを圧縮する機械を使えば、ありうるかもしれないが、その場合には、ガス処刑する必要はない」というのです。ホロコーストを信じている人々でさえも、『自白』にある数字についてははぐらかしています。良心的な場合には、その数字は不正確であると指摘していますし、悪意のある場合には、100uに170名から180名と数字を勝手に変えてしまっています。45年間にわたって、700名から800名が25uのスペースに入るかどうか検証しようとはしませんでした。しかし、モノンガヘラのプロヴァンは、「半分以上が子供であった」という『自白』の一文を読んだのです。「そうだったのか、子供だったのだ」とプロヴァンは考えました。彼は『自白』を置いて、自分の5人の子供たちと1つの大きな人形を上の寝室に連れて行きました。
「何をなさっているの?」とプロヴァン夫人が尋ねます。
「実験さ。何人の子供たちをガス室に押し込めることができるかの実験さ。」
「子供をそのようなことに使ってはいけません。気味悪いことですわ。」
「別に怪我をさせるわけではないよ。」
プロヴァンは南部なまりでこのように話してから、子供たちを下着だけにしました。彼は子供たちを部屋の隅に押し込み、2つの化粧台を使って、彼らを16インチ×16インチのスペースに閉じ込めました。そして、子供たちを解放してから、電卓を使って計算してみました。驚くべきことに、891名の子供たちをベルゼクのガス室と同じスペースに押し込むことができたのです。プロヴァンの目には涙があふれてきました。『自白』を別の角度から見ることができるようになったためです。ゲルシュタインは、ありえないこと、信じられないこと、ナンセンスなことを書いていたわけではなかったのです。自分自身で目撃しなければ、半世紀間も誰も信じようとしなかったことを書いていたのです。SS隊員のゲルシュタインはベルゼクでユダヤ人が死んでいくのを目撃したのです(「彼らのすすり泣きが聞こえた」)。そして、ホロコーストはたしかに起ったのです。プロヴァンはこのように考えるようになりました。
プロヴァンは、夫人が、ガリレオの望遠鏡をのぞきこもうとはしなかった同僚のチェザレ・クレモニーニのように、「そんなことをしてはなりません」と忠告したにもかかわらず、さらに二つの実験を行ないました。一つの実験では、5人の子供、3つのマネキン、1つの人形を使いました。もう一つの実験では、服を着た3名の大人――印刷業者、牧師、「あなたはお馬鹿さんだけど、やってみますわ」といったイタリア人女性――と人形を使いました。そして、700名の父親、母親、赤ん坊がベルゼクのガス室のスペースに収容できることをはじきだしたのです。さらに、今年の3月、彼は、子供たち(9人いました)の何人かを連れて、アウシュヴィッツの崩壊したガス室に出かけ、「穴がなければホロコーストもない!」という仮説に、同じような科学的方法を適用してみました。目撃証人たちによれば、中央の柱に沿って穴が存在したという話でした。そこで、彼は、40ドルのメジャーを使って、柱のあった場所を探して、何と、伝説の穴を探し出そうとしたのです。目撃証人たちはそれらの穴が25cm×25cmの大きさであったと証言していましたが、今では、それ以上の大きさになっていました。屋根が爆破されていたので、大きくなっていたのです。プロヴァンはそれらを写真にとって、モノンゲヘラの自宅に戻り、論文を書きあげたのです。そして、それを自分の印刷所で刷り上げ、その表題を、「穴がなければホロコーストもない!」という感嘆符付きのものから、「穴がなければホロコーストもないのか?」という疑問符つきのものに格下げしたのでした。彼は、オレンジ郡に飛んできて、土曜日の午後、シュロで囲まれたホテルにやってきました。
彼は、子供のような陽気さで、ケント・シュロの横のロビーの華やかな二人がけ椅子に座って、螺旋状に綴じられた自分の論文のコピー20数部を、そうそうたる否定派の人々に配っていました。彼が賞賛を期待していたとすれば、人間性を誤解しています。人間というものは、それなしではミンダナオ海峡の暗黒の底に沈んでしまうような生命維持装置にしがみついているのと同様に、自分たちの定説にしがみつくものなのですから。オーストラリアからやってきていた、ドイツ系の否定派の重鎮はプロヴァンにこう語りました。「あなたは悪い方向に向かっている。あなたはドイツ民族を中傷している。あなたはホロコーストを信じている。」フランス人の否定派の重鎮で、「穴がなければホロコーストもない!」という標語を作り出した人物は、プロヴァンにこう話しました。「チャールズ、もしそうお呼びしてもかまわないのでしたら、チャールズ、検証できるものを見せてください。25cm×25cmの穴を見せてください。」
二人の話は続きます。
「それはできません。」
「どこで、25cm×25cmのスペースをご覧になったのですか?」
「見たことはありません。この穴はそれ以上の大きさになってしまっているのです。」
「ということは、25cm平方のスペースは存在しないということですね?」
「そのとおりです。」
「それでは私を納得させることはできません。」
否定派の人々の中でもっとも憤慨していたのはイギリス人の歴史家アーヴィングでした。彼はロンドンで、穴の写真は自分の訴訟事件にそれこそ穴を開けてしまうであろうから、その事件の弁護活動をすることができないと話していたのでした。アーヴィングはアウシュヴィッツに立ち入ることを許されていませんでしたので、アマチュアがそこで調査したことに嫉妬していたに違いありません。彼は、戸外の階下のレストランで、シザース・サラダを前にしていました。プロヴァンを見つけると、血相を変えました。鋭い言葉がほとばしりました。
「私は怒り狂っています。もし私がSS隊員であり、『この天井にいくつかの穴を開けてください。そこからシアン化水素を投入し始めます』といわれたとすれば、空いている区画の真ん中に穴を開けたことでしょう。支柱のすぐ隣に、バン、バン、バンと穴を開けたりはしないでしょう。支柱は何のために存在しているというのでしょうか。美容整形のために存在しているとでもいうのでしょうか。」
アーヴィングより20歳年下のプロヴァンは、校長室に呼ばれた生徒のように、どぎまぎしているようでした。アーヴィングの話は続きます。
「ドイツ人は、大金を使ってこの建物を建設しました。そして、そのあとで、建物の支柱のすぐ隣に、大きな鎚を使って穴を開けることを許したというのでしょうか。」
「ランチをとっています。」アーヴィングは突然話を中断し、自分の確信がプロヴァンの写真によっても揺るぎもしないかのように、自分のサラダと格闘し始めました。もちろん、否定派の人々であれば、プロヴァンと私の確信のほうが、アーヴィングの説明によって動揺してしまうだろう、どちらの見解が正しいかわかるまでには100年かかるかもしれない、ということでしょう。あるSS隊員はアウシュヴィッツでプリモ・レヴィにこう語っています。「われわれは勝ったのです。疑いは残るかもしれませんが、確実なことは何もありません。証拠とあなたたちとを消し去ってしまうでしょうから。」
プロヴァンは(私を除くと)、ホロコーストが起こったと信じている唯一の講演者でしたが、そのあとで、舞踏会場で講演を行ないました。彼が話したのは、ユダヤ人検死官のことで、彼の論文「穴がなければホロコーストもないのか?」、もしくは、彼の画期的な発見についてではありませんでした。アウシュヴィッツの青酸ガス室にはシアン化合物の痕跡はありません。否定派の人々は、「シアン化合物がなければ誰も死んでいない!」というTシャツは着ていませんでしたが、このことが、青酸ガス室なるものは実際には無害な死体安置室であったことを示すもう一つの証拠であるとみなしています。しかし、プロヴァンによると、痕跡がないのは、ドイツ人が壁をペンキで塗ったからだという話です。
休日の重なる終末でしたので、土曜日、日曜日、月曜日には16人の講演がありました。ホロコーストとアウシュヴィッツ絶滅機構を信じていないために、法的に告訴されている人々が6人いました。こうしたことを誰かの耳に入れるのは、ドイツだけではなく、オランダ、ベルギー、フランス、スペイン、スイス、オーストリア、ポーランド、イスラエルでも法律違反なのです。イスラエルでは、神の否定は懲役1年なのに、ホロコーストの否定は5年なのです。講演者の一人アーヴィングは、アウシュヴィッツの青酸ガス室の一つは戦後にポーランド人が作ったレプリカであるとドイツで公に発言した罪で、18000ドルの罰金処分となっています。レプリカであることは真実ですが、ドイツでは、この件で真実を語ることは弁護にならないのです。別の講演者のフランス人もフランスで罰金刑をくらっており、また、もう一人の講演者のドイツ人は、ドイツで14ヶ月の刑を宣告されましたが、イギリスに逃亡しました。大家さんは彼を追い立て、妻も彼のもとを去りました。もう一人の講演者のオーストラリア人は、アウシュヴィッツには青酸ガス室は存在しなかったとオーストラリアで書いた(何と、インターネット上で。ドイツにいるドイツ人もそれを読むことができるからという話です)件で、ドイツで7ヶ月も投獄されてから、ここにやってきました。彼は、自分を弁護するにあたって、専門家証人を召喚したのですが、この人物は証言できませんでした。もし証言していれば、同じ法律の犠牲者となって、投獄されてしまったことでしょう。5番目の講演者はスイス人で、一度同室したことのある(私は多くの否定派の人々と会ったことがあります)人物でした。彼は南オーストラリアでカンガルーを飼育しています。彼も、アウシュヴィッツの青酸ガス室に疑問を呈した罪で、スイスで15ヶ月投獄されることになります。
合衆国には、神のおかげで、修正第1条があります。しかし、カリフォルニアのこの閉ざされた舞踏会場でも、6番目の講演者は、自分の思っていることすべてを、例えば、ドイツ人はユダヤ人を意図的に殺さなかったと話すことはできませんでした。数時間前、この人物と私はワッフル・ブレックファーストの席でこの件について、連邦保安官に逮捕・起訴・投獄される不安なしに、大声で議論しました。
「アイヒマンはどうなのですか。彼は、ヒトラーはユダヤ人の物理的絶滅を命じたと書いていますが。彼はガス処刑収容所について書いていますが。」
「ジョン、アイヒマンはイスラエルに囚われていたのですよ。」
「では、戦時中の発言はどうなのですか。ポーランド総督府長官ハンス・フランクは、例外なく、すべてのユダヤ人を絶滅せよといっていますが。」
「そのようにいったと引用されているだけですよ、ジョン。」
「ゲッベルスはどうですか。彼は、ユダヤ人に対して野蛮な方法が使われているといっていますが。ヒムラーはどうですか。彼は、SS隊員が、100名、500名、1000名の死体がどのようになっていたかを知っているといっていますが。」
「ジョン、私にはわかりませんが、彼らはそのようにいったことがあるのかもしれません。しかし、虐殺がドイツの国家的政策であったというのは真実ではありません。」
数時間後、この6番目の講演者は、舞踏会場ではこの件をあえて主張しようとはしませんでした。彼は、カナダ市民であり、カナダではインターネット上で活躍しています。もし、彼がワッフルを前にして話したようなことを発言したとすれば、カナダでは訴追されてしまうからです。すでに、彼は2回裁判にかけられています。そして、殴られ、爆弾をしかけられ、放火されて、40万ドルの被害を受けていました。また、「キンタマを切り落としてやる」といわれたこともあるのです。
この人物とはエルンスト・ツンデルです。ハールスの絵の中に登場するような、丸い、赤ら顔でした。いつも快活です。生まれは、ドイツのカルムバッハでした。ホロコースト否定派についての最近の映画『ミスター・デス』をご覧になったことがあれば、「私たちドイツ人は虐殺マニアとして歴史の中に埋もれるつもりはない。けっして埋もれるつもりはない」と述べているヘルメット姿の人物です。彼も、多くの否定派と同じように反ユダヤ主義者とみなされていますが、ユダヤ人共同体を(神とともに)監督するユダヤ人たちも、実際には、反ツンデル主義者、反カウンテス主義者、反アーヴィング主義者、ひとことで言えば、反否定派主義者であるという方が正直でしょう。ユダヤ人の指導者の中には、ホロコースト否定派の人々をののしり続けている人がいます。エリー・ヴィーゼルは、公共放送局の番組で、「彼らは道徳的に醜悪です」、「彼らは道徳的に病んでいます」と発言しています。反名誉毀損連盟議長のアブラハム・フォックスマンは、「彼らは間違った情報を垂れ流して、われわれを爆撃している」と発言し、また、『ニューヨーク・タイムズ』紙上で、「ホロコースト否定派は、強制収容所がなかったことを信じさせようとしている」と彼自身が間違った情報を広めています。私はといえば、ユダヤ人の指導者たちに反対です。大半の否定派の人々、このシュロで囲まれたホテルにスラックスやハーフパンツで出席している人々の大半は、ツンデルのような礼儀正しい人々でした。彼らはドイツ人として、1940年代の母国の同胞が虐殺マニアではないという希望的観測を抱いて、自分たちを安心させる道を選択してきたのです。
私はこれらのドイツ系の人々に共感することができます。私自身もユダヤ人のあいだに同じような否定が存在していることを知っているからです。数年前、私は『目には目の』中で、ホロコーストを生き残った数千のユダヤ人がドイツ人を自分たちの管轄する1255の強制収容所に集め、その中で、ドイツ人を殴り、鞭打ち、拷問にかけ、そして、ドイツ人の男女、子供、赤ん坊を殺したことを、切々と書き記しました。この小さなホロコースト(ドイツ人にとっては小さくはなかったでしょうが)は、『60分間』や『ニューヨーク・タイムズ』で確証されていますが、ユダヤ人指導者たちはこれを認めませんでした。こうした表現を使うことをお許しいただければ、彼らはこの事件を否定したのです。その書評のタイトルは、「大きな嘘」、「偽証」、「この本を読むな」といったものでした。もしも、ユダヤ人が60000名のドイツ人に起った事実を否定したいと考えているのであれば、600万のユダヤ人に起った事実を否定したいと考えている、ツンデルのようなドイツ人を許すべきでしょう。
しかし、ユダヤ人の指導者たちは彼らを猟犬で追い立てたのです。UFOの存在を信じる人々がいますが、彼らの理論はそんなに悪意のあるものではありませんが、彼らの部隊は、この大会に出席している否定派の人々の数よりもはるかに多いのです。しかし、天文学者たちは膨大な量のインクを浪費して、UFOの存在を信じる人々のことを批判したりはしていません。一方、ユダヤ人の指導者たちは、さまざまな理由(補償、イスラエルの生存、ふたたびホロコーストが繰り返されるかもしれないという懸念)から、ホロコーストをアメリカの良心の前面かつ中心にしようとしています。この点では、彼らは驚くほどの成功を収めました。アメリカ人は、年長者でなければ、実際にはそのような要因がまったくなかったにもかかわらず、ドイツに宣戦布告したのはユダヤ人を救うためでもあったと考えています。アメリカ人は、第二次世界大戦で死亡したアメリカ人兵士が10万であるのか、20万であるのか、100万であるのか知らなくても(そして、中国では5000万人が死亡したことはまったく知りません)、何名のユダヤ人が死亡したのかは知っています。合衆国ホロコースト記念博物館の研究部長であったマイケル・ベレンバウムは次のように語ったことがあります。「ホロコーストは第二次世界大戦のサイド・ストーリーでした。しかし、今では、第二次世界大戦をホロコーストの背景と考えるようになっています。」ユダヤ人の指導者たちが成し遂げた中で、特筆すべきことは、もしも、いつどこであっても不埒な否定派を発見したならば、SOSという警戒信号を鳴らすことでした。
こうしたやり方を彼らが採用したのは、シェイクスピア時代のドイツの神秘主義思想家ヤコブ・ベーメからでしょう。ベーメは、「反対派がいなければ、何も姿をあらわしはしない。反対するものがなければ、ゆっくりと姿を消し、戻ってはこないであろう」と述べています。ホロコーストが見えなくなってしまわないように、ホロコーストが姿を消さないようにするために、ユダヤ人の指導者たちは、反対派、仮想上の人物、お化け、ひいては、とるにたらない否定派のグループの存在をたえず指摘しているのです。しかし、ベーメの言葉は諸刃の剣です。ユダヤ人の指導者たちは、出版物、ラジオ、テレビで繰り返し否定派を非難し続けることによって、かえって、否定派の姿を世に知らしめているのです。否定派の人々は、ユダヤ人とよく似ていて、迫害を受けているがゆえに、生き残っているのです。そして、世界各地に存在する、本当にユダヤ人を憎悪している人々にむけて自分たちの教義を広めているのです。
私自身の講演は月曜日の午後のことでした。『目には目を』についてでした。否定派のなかでもドイツ系の人々は、自分たちの両親が罪を犯したことおよび自分たちの両親も犠牲者であったという意識をユダヤ人と共有できるがゆえに、この話を聞きたがっていました。もはや、私は否定派の人々をしかりつけようとはしませんでした。むしろ、『目には目を』の中に登場する私もユダヤ人もホロコーストが起ったと確信していることを否定派の人々に教え諭そうとしました(そして、実際にそのようにしました)。同時に、精神衛生的な側面について、憎悪の念について話そうとしました。ホテルでは、私は憎悪の念をまったく感じませんでした。むしろ、ユダヤ人たちがドイツ人について話しているときの憎悪の念のほうが強いと思ったくらいです。エリー・ヴィーゼルは、「あらゆるユダヤ人は、ドイツ人に対する憎悪の念――精力的な憎悪の念――の余地を、自分の存在のどこかに残しておくべきである」と述べていますが、このホテルでは、このようなことをほのめかしたりする人物は誰もいませんでした。ショックを受けた教授が世界ユダヤ人会議議長のエドガー・ブロンフマンに「あなたは数千のドイツ人を憎悪するように、すべての世代に教えこんでいる」といったことがあります。すると、ブロンフマンは、「いや、数百万のドイツ人を憎悪するように、すべての世代に教えこんでいるのです」と答えました。このホテルでは、このようなことを言った人物は誰もいませんでした。ユダヤ人に対する憎悪は、ドイツ人に対する憎悪と似ています。『ヒトラーの意図的な死刑執行人』の1頁ごとに登場するようなドイツ人に対する憎悪と似ています。このような憎悪の念をここではまったく見かけませんでした。ただし、何人かの人々、すべてはドイツ系の人々でしたが、彼らはこのような感情を必死に抑えようと努力していましたが。
ホテルでは、ドイツ系の人々は、ユダヤ人が語っているようには、ユダヤ人を憎悪していませんでした。私は、風通しの良い階下のレストランで、カナダ市民のツンデルとふたたび朝食をともにしましたが、彼はこう話してくれました。
「ユダヤ系エスタブリッシュメントの論調は、非常に耳障りで、攻撃的で、ドイツ人を中傷しています。」
すると、私たちと席をともにしていたドイツ系の女性が話し始めました。
「ホロコーストにはうんざりしています。異教徒たちは、休まず、たゆまず、朝も昼も夜も、ホロコーストをしつこく思い出させてきました。ユダヤ民族はこれについて知っているのでしょうか。」
ツンデルは、ドイツ人はユダヤ人から石鹸を作らなかったと正しくも発言した件で、カナダで刑事告発されていますが、話を続けました。
「彼らは私たちを告発し、投獄し、賤民の身分におとしめています。教師は職を失い、教授は終身雇用権を失っています。こうしたことは、ユダヤ人共同体のためにも良くないことです。」
ドイツ系の女性がこう話しました。
「身震いするほど不満が生じています。ユダヤ人共同体はこの不満を少なくしなくてはなりません。検閲をなんとかしなくはなりません!テロリズムをなんとかしなくてはなりません!」
この女性の口も、ツンデルの口も、憎悪の念でゆがんでしまったゴムバンドのようにゆがんでいたわけではありませんでしたが、この女性の口元は興奮して少々震えていました。
そこで、月曜日の大舞踏会場の演壇では、私は憎悪について話しました。
「ホロコーストについては85000冊の書物があります。しかし、どれ一つとして、『ドイツ人はどのようにしてホロコーストを行なうことができたのか』、『万人は兄弟である』という第9交響曲の『歓喜の歌』を作曲したベートーベンを生み出したドイツ人が、どのようにしてホロコーストという犯罪を犯すことができたのかという問いに、誠実に答えていません。私たちは、やっとこの疑問を解くことができるようになったと思っています。なぜ、カンボジア、ボスニア、ザイールでも大量虐殺が続いているか理解できるようになったと思っています。『目には目を』の中で私が書いたことは、ドイツのグライヴィッツの恐るべき刑務所の所長ローラも自分なりのやり方で解決したということです。苦痛と絶望と狂気の中では、彼らも、ドイツ人――ナチス――のようになってしまうと感じていたからです。もし私が現場にいたとすれば、私もその一人となってしまったことでしょう。今となっては、その理由がよくわかります。彼らは、1945年には、憎悪の念であふれていました。彼らは、灼熱の憎悪の火山でした。ドイツ人に対して憎悪を吐き出せば、その憎悪から解放されると考えていたのです。しかし、そのようにはなりませんでした。例えば、誰かに恋をしていたと考えましょう。『恋をしている自分の中には1、2ポンドの愛が存在している。恋人を愛し続けて、この愛を使い切ったとすれば、この恋から解放される』でしょうか。そのようにはなりません。皆さんもご存知のように、愛というものは逆説的なもので、それを使えば使うほど、もっと多くの愛が自分自身の中に蓄積されていってしまうものです。憎悪というものもそのように理解しなくてはなりません。憎悪の念を抱き、それにもとづいて行動すると、もっと憎悪の念を抱いてしまうのです。一滴の憎悪のつばを吐き出したとすると、何が起こるでしょうか。唾液腺を刺激してしまって、一滴のつば、1クォーターのつばが作り出されてしまいます。それを吐き出せば、一滴、二滴、三滴、ティースプーンのつばが、そして、テーブルスプーンのつばが作り出され、ついには、聖ヘレネ山のような量のつばが作り出されてしまいます。私たちは、憎悪を使えば使うほど、多くの憎悪を手に入れてしまい、ついには、永久運動機械と化してしまいます。そして、憎悪を永遠に使い続けることで、ホロコーストを作り出してしまうのです。そのような状態となるのに、ドイツ人である必要はありません。セルビア人でも、フツ族でも、ユダヤ人でもよいのです。アメリカ人でもよいのです。私たちはフィリピンにいたときそのように振舞いました。ヴェトナムにいたときそのように振舞いました。10000年にわたってアナコスティア・インディアンの故地であったワシントンDCででもそのように振舞いました。今日、合衆国ホロコースト記念博物館と呼ばれているところには、アナコスティア・インディアンの収容居住地があったのです。私たち全員の中には、ナチスのようになる要素があります。ローラが発見したように、憎悪こそが推進力です。怪物になりたければ、憎悪の念を行使すればよいのです。ドイツ人に対する憎悪。アラブ人に対する憎悪。ユダヤ人に対する憎悪。憎悪の念を行使すればするほど、憎悪の念は大きくなっていきます。あたかも、毎日40ポンドのバーベルを持ち上げていると、疲労困憊してしまうどころか、そのうち、50ポンド、60ポンドのバーベルを持ち上げるようになっていると同様です。そして、私たちは憎悪のミスター・ユニバースとなってしまいます。私たちは、憎悪の念にあふれた人間になりうるのです。私たちは、憎悪の対象である人々を破滅させることができますが、その一方で、私たち自身を破滅させているのです。」
ホロコーストは起らなかったと主張している人々は拍手してくれました。長い長い拍手でした。多くのドイツ系の否定派の人々は立ち上がりました。アウシュヴィッツについての質問もあり、ドイツ人がアウシュヴィッツでユダヤ人を殺そうとしたとなぜあなたは考えているのかという質問をした人もいました。しかし、ベルリンからやってきたヴォルフガングという人物は、あとで次のように告白してくれました。
「アウシュヴィッツは不衛生になったのです。ユダヤ人は過酷な労働を強いられました。そのことについては、私は認めます。そして、死んでいきました。そのあとで処分されました。死んでしまうと、SS隊員が死体を焼却棟に運んでいったのです。そのことについては否定しません。SS隊員がユダヤ人に『次はお前の番だ。煙となって昇っていくだろう』と脅したようなこともあったかもしれません。」
大会は月曜日に終わりました。ユダヤ防衛連盟からの攻撃を受けた人は誰もいませんでした。否定派(彼らは自分たちを修正主義者と呼んでいます)の次の大会はシンシナティで開かれる予定でしたが、彼らは、私を基調報告者として招待したいと申し出てくれました。私は、「イエス」と答えました。