試訳:『目には目を』の背景
――復讐、憎悪、歴史――
ジョン・サック
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2003年12月25日
本試訳は当研究会が、研究目的で、John Sack, Behind An Eye for An Eyeを試訳したものである(ただし、講演終了後の質疑応答の部分は省略した)。 online: http://ihr.org/jhr/v20/v20n1p-9_Sack.html |
3年前、私は合衆国ホロコースト記念博物館で講演する予定でした。この講演の予定は小冊子やインターネットに掲載されていました。しかし、博物館はその後キャンセルしてきたのです。
これから45分間、ホロコースト博物館で講演する予定であった内容をお話したいと思います。その後で、皆さんがお望みであるならば、博物館での予定と同じように、質問に答えたいと思います。ホロコースト記念博物館で私の講演を聞いてくれる人々の多くは歴史家であったはずです。そして、私は次のような話をしたはずです。
私を招待してくださりありがとうございます。そして、私の話を聞こうとしてくださりありがとうございます。これからお話しすることは、50年間にわたって、誰一人として、歴史家の誰一人として、まったく公に話したことがない内容です。そして、今となっても、話されたことがありません。
私について言えば、私は歴史家ではなく、作家です。私が書いていることは生の歴史資料です。いつの日か、歴史家の皆さんが、生の歴史資料に意味をつけてくれたらと期待しています。私は現場に行き、事件をその目で見て、人々の話を聞きます。そして、私は物語を書き始めます。一つの物語から始めましょう。10代の少女の実話です。
ローラ
髪はブロンドで、目は茶色、とてもかわいい少女でした。ハイスクールでは、吊り輪やブランコに興じ、「白雪姫と7人の小人」を演じていました。彼女は通りを、「On the Good Ship
Lollipop・・・」と歌いながら、スキップしていました。正確にというわけではありませんでした。[なまった英語で]「On the Good Ship Lollipop ・・・」と歌っていたのです。この少女はポーランド人であり、1930年代には、ポーランドのベジンで暮らしていたからです。名前はローラ・ポトクといいました。
彼女が18のとき、ナチスが侵攻してきました。ローラは列車でオスヴィエチムに運ばれました。アウシュヴィッツとして知られている場所です。1歳になる彼女の赤ん坊は、腕の中から引き離され、その後ふたたび見ることはありませんでした。彼女は青酸ガス室に送られていませんが、彼女の母親は送られたそうです。彼女の母親、兄弟姉妹、従兄弟・従姉妹も殺されました。14人です。
(このことをホロコースト博物館ではお話しするつもりはありませんでしたが、この会場には、アウシュヴィッツには青酸ガス室が存在しなかったと考えている人々がいることを知っています。私も、そしてローラもアウシュヴィッツには青酸ガス室が存在したと思っています。)
アウシュヴィッツに収容されていた一人の兄弟は、絞首台の上でイディッシュ語で「復讐せよ」と叫び、それから、絞首刑になりました。
復讐
1945年1月、ローラは逃亡しました。体重は66ポンドでした。目はうつろでした。髪は短く、背中には傷があり、手はつぶれていました。二本の足には、左足用の靴を履いていました。彼女の愛する人々すべてが死んでいました。もしくは、そのように思っていました。憎悪の念で燃え上がっていました。この憎悪を解き放って、それをドイツ人にぶつけようとしていました。子供時代の友達がポーランド政府に勤めていましたが、ローラは彼を訪ねて、「復讐したい」と言いました。
2ヵ月後、戦争はまだ続いていましたが、ローラは、ロシア軍が占領し、ポーランド人が管轄していたドイツ地区にいました。ローラはオリーブ色の制服を着ていました。上着には真鍮製のボタンがついていました。襟には、GIたちがスクランブルエッグと呼んでいた印がついていました。肩には星のマークがついていました。腰にはルガー拳銃をつるしていました。ローラはポーランド政府のために働いており、ドイツ人刑務所の所長でした。そして、ホロコーストの復讐をしようとしていたのです。
今では、ローラはユダヤ娘でした。『トラー』を学んだことがあり、その『トラー』は、「汝、復讐するなかれ」と述べています。ローラはそのことを知っていましたが、それに従おうとはしませんでした。しかし、誰が彼女を責めることができるでしょうか。彼女の心中は十分に理解できます。私も理解できますし、共感することもできます。
私はローラ・ポトクに会いました。1986年4月のことでした。私はハリウッドに住んでいます。私は作家でして、パラマウントで会うことにしました。秘書がそこにいまして、彼女は、The
Billionaire Boys Clubについての私の文章を読んでいました。「これが好きです。私の家族を思い出させてくれます」と話してくれました。
「The Billionaire Boys Clubですか?あなたの家族を?」
「はい、すべてが殺戮です。私の母ローラはアウシュヴィッツにいました」
「そうなんですか」
「そのあとで、母はナチスがたくさん収容されている刑務所の所長でした」
「何ですって、所長だったのですか。映画があることをご存知ですか?リンダに話すべきです」
リンダとは秘書の上司であるプロデューサーです。しかし、この秘書は「映画があることを知っています。リンダには話しません。自分自身でプロデュースしたいのです」と言いました。
ハリウッドには、プロデューサーとは、作家のことを知っている人物であるという格言があります。私は作家で、この秘書は私のことを知っていました。だから彼女はプロデューサーなのです。私たちは一緒に仕事をすることになりました。私が彼女の母ローラについての雑誌記事を書き、この秘書はここから映画を製作するのです。
数日後、ハリウッドでのマスターシェ・カフェでの一場面。私はほうれん草クレープを食べている。ローラと夕食をとっている。エレガントな女性。運命の女性のような、珊瑚色の口紅、黒のアイライン。5ヶ国語を流暢に話す。彼女は66歳。そして、ローラは次のように話し始めました。
グライヴィッツ
第二次世界大戦が終わったとき、ドイツのグライヴィッツの刑務所の所長でした。ドイツ軍兵士が囚人でした。しかし、ドイツ軍兵士のふりをしているナチス党員やSSもいました。アウシュヴィッツ所長であったヘスやへスラーを探しました。メンゲレも探しました。メンゲレは、母に「左に行け、お前は死ぬであろう」と、私には「右へ行け、お前は生きるであろう」と言いました。メンゲレを見つけ出したなら、どのようなことをしたかわかりませんが、何かをしてしまったことだけはたしかです。
ある日、刑務所で、ゲシュタポを発見しました。太っており、40歳でした。腕には刺青をしていました。AとかBと書いてありました。彼の血液型だったのです。ゲシュタポのメンバーは全員そのような刺青をしていたのです。私は猛り狂って「不潔な豚め、いまわしい豚め、何人のユダヤ人を殺したんだ」と叫びました。そして、彼を平手打ちしました。彼は床に倒れました。そして、私のブーツにしがみついて、「御慈悲を、御慈悲を、どうか御慈悲を」と嘆願しましたが、足で蹴りつづけてやりました。
これがローラの話です。このような話を好む人はいないでしょう。私も嫌いでした。それについて何かを書こうとは思いませんでした。不愉快な話だと思います。ローラも嫌っていました。ローラの言うところでは、もし母が生きていたとすれば、やはりこの話を嫌うでしょう、母はいつも『トラー』を読んでくれて、「憎んではならない。憎しみはお前を傷つけるだけです。お前の魂を腐らせるでしょう」と話してくれていたからでした。
ローラの話は続きます。それはグライヴィッツに着てから数ヵ月後のことでした。
ある日、刑務所にいました。一人のユダヤ人看守がいました。顔を赤らめて、歯がむき出しでした。口にはつばがたまっていました。醜悪な風采でした。この男は鞭をもっていました。そして、ポーランド語で「淫乱女のせがれめ」と叫びながら、ドイツ人囚人を鞭打っていました。「止めなさい、なぜ鞭打っているのですか」と尋ねると、「ドイツ人が私にしたことだ」との答えでした。「ドイツ人を憎んでいるのですか」と尋ねると、「ドイツ人を嫌っている」との答えでした。「もしドイツ人を嫌っているのなら、なぜドイツ人のようになりたがっているのですか?」私にとっては、この男、このユダヤ人は、まさにアウシュヴィッツで見かけたナチスのような風采をしており、そのように話し、行動していたからでした。
私はドイツ人、ドイツ人囚人のことは気にかけていませんでした。気にかけたとしても、死んでしまったにちがいないからです。しかし、ユダヤ人看守のことは気にかけていました。何年間も、ナチスは彼のことを豚とか犬と呼んでいたからです。もし、実際に、獣になってしまったとしたら、勝利収めたのはどちらでしょうか。ユダヤ人の方でしょうか。ナチスの方でしょうか。そこで、私は看守全員を私の執務室に呼び、今後はドイツ人を人間として扱うように命じました。そして、それ以降、このようなことが私の行なったことでした。
ローラの物語の執筆
この話ならば、私は好きです。これが本当の話であれば、執筆に値するでしょう。次のような夢を抱いていました。セルビア人とクロアチア人が、アイルランドのカトリックとプロテスタントが、フツ族とツチ族が、イスラエル人とパレスチナ人がこの話を読んでくれて、ローラのように、隣人を憎むことはこの隣人を絶滅してしまうことになるかどうかはわからないが、自分自身を壊してしまうことになるということを学んでくれるかもしれない。そして、これらの人々が復讐を止めて、大量殺戮を止めてくれるかもしれないというわけです。
私たちユダヤ人は、ホロコーストについて、「けっして繰り返されてはならない。ユダヤ人であるとの理由で、傷つけられるようなことが繰り返されてはならない」といつも語っています。そして、ローラも、「そのとおりです。ドイツ人であるとの理由で私がドイツ人を傷つけたようなことは繰り返されてはならない」ときっぱりといっていました。事件から50年経って、ローラは「地上に平和がありますように、私たちからそれがはじまりますように」ときっぱりといっていました。このような話であれば、私も執筆したいと考えていました。そこで…。
私はローラにインタビューし始めました。ロサンゼルスのセブンス・レイのインで。ニュージャージーのユダヤ人墓地で。パリのシャンデリゼーで。インタビューは中断はありますが、2年半続きました。彼女の記憶はあふれんばかりで、10数の人々を紹介してくれました。全員がユダヤ人でした。グライヴィッツでの彼女のことを知っている人物、グライヴィッツの看守、彼女をグライヴィッツの所長に任命した人物もいました。
私は、ローラの復讐、ローラの贖罪についての20頁の記事を書きました。ローラも読んでくれて気に入っていました。この記事はカリフォルニアの雑誌に掲載されました。ローラは自分で費用を負担してワシントンにやってきて、全国公共放送に売り込んでくれました。この記事は国外にも紹介され、1988年の最優秀雑誌記事にも掲載されました。映画化のオファーもありました。Bette MidlerとSuzanne
Somersがローラ役を希望していました。
本を書かないかというオファーもありました。「これは、ローラの復讐ではなく、ローラの贖罪の本となります」、ドイツに行けば、囚人にも会うことができるでしょう、ポーランドへ行けば、看守にも会うことができるでしょう、そのうえで、執筆するつもりです、そして、題は『ローラ』となります、と回答しました。そして、1988年8月、ニューヨークのヘンリー・ホルト出版社が、「それでかまいません、執筆してください」と言ってきました。よい知らせでしたので、このことをローラに電話で伝えました。
しかし、ローラは「ジョン、あなたには書いてもらいたくないのです」と言いました。「何ですって、ローラ、そのようなことをおっしゃるのは初めてではないですか、ローラ、私たちは契約を交わしています。」事実、私たちは契約を交わしていました。ローラは「私は、私の生涯についての著作を執筆・出版する独占権をあなたに与えます」と書いていました。
脅迫
その夜、ハリウッドにあるローラのアパートに行きました。この会場の中で、エンカウンター・グループに参加したことがある方はいらっしゃいますか。最初の夜のことを覚えていらっしゃいますか。誰かが泣き叫んでいます。その中に座って、呆然としているのです。「いったい何が起こっているのか?」ローラのコンドミニアムを訪ねたときは、まさにこんな様子でした。ローラは「ジョン、あなたの執筆スタイルは好きではないわ。レポーターのように書いています。本を書き始めるのでしたら、止めさせます。止めさせます」としゃべっていました。
ローラの娘さんもここにいて、「ジョン、あきらめてください。あきらめるようにお願いします。ジョン、あきらめて」と言っていました。ローラのもう一人の娘もいました。彼女は弁護士で、「ジョン、すぐに裁判所に召喚されますよ、それは非常にお金がかかりますよ」と言っていました。ローラは「裁判所に行くつもりです」と言っていました。弁護士の娘さんは「ジョン、この権利放棄書に署名してください。ジョン、権利放棄書に署名しなさい」と言っていました。別の娘さんは「ここから出て行ってください、出て行きなさい」と言っていました。そして、ローラは「ジョン、私たちの生活から出て行ってください」と言っていました。
私は立ち去りました。ローラに電話しましたが、答えてくれません。手紙を出しても、「受け取り拒否」との署名つきで、開封もされずに送り返されてきました。
このような態度はローラだけではありませんでした。やはりユダヤ人のモーシェは、グライヴィッツ刑務所でのローラの副官でしたが、私とは話したがりませんでした。彼の妻は電話で「私たちはあなたがこれについて執筆することを許可していません」というと、私は「私たちとかあなたですって、誰も許可を必要としていません、合衆国憲法から許可されているのです」と答えましたが、モーシェの妻は電話を切ってしまいました。
ヤジアというやはりユダヤ人女性がいました。彼女はグライヴィッツでローラの看守の一人でした。彼女は、「グライヴィッツにいたことなどありません」と電話で言いましたが、そのあとで、「グライヴィッツにいたことはいましたが、そのことについて話したくありません」と言い直しました。彼女とは1時間ほど話しましたが、「私は何も知りません、何もです、何もです」と言うばかりでした。
誰も私に話そうとはしませんでした。「ジョン・サックには何も話してはいけない」という話があったそうです。話してくれても、その話は嘘でした。私を告訴する、私の生活をめちゃめちゃにしてやる、私を殺してやるという話もあったそうです。ある人物は私の運転免許証を取り上げて、住所をメモしてから、「お前が私のことについて書いたら、イスラエル・マフィアを呼ぶからな」と言いました。
「新聞記者に話すな」、「これについては書かないほうがよい」という忠告もありました。しかし、私はヘンリー・ホルトと契約していました。ヘンリー・ホルトに約束していました。私は約束を守る人物です。
調査の開始
1989年4月、私はドイツに飛びました。ライン川の丘の上に高くそびえるコンクリートの城に向かいました。ドイツ連邦文書館です。第二次世界大戦に、今日ではポーランド領となっている地域に暮らしていたドイツ人による40000の供述書が保管されています。供述書はドイツ語で、ドイツ語のひげ文字で書かれています。そこで、ローラの刑務所にいたドイツ人の5つの供述書を発見しました。
別の場所にも出かけました。大きな中世風のホールで、石の壁には旗が掲げられていました。グライヴィッツ出身の1000名の懇親会が開かれていました。ビールを飲み、ソーセージと塩漬けキャベツを食べていました。笑って、歌っていました。「乾杯、乾杯」。私は、花売り娘のようでした。テーブルからテーブルへとバラを売り歩く娘のことをご存知ですか。私は尋ねまわりました。「申し訳ありませんが、グライヴィッツの刑務所にいた方はいますか?」たしかに、座をしらけさせていました。そのことを認めます。しかし、ローラの囚人であった5名の人々を探し出しました。
私は列車でグライヴィッツに向かいました。今では、ポーランドのグリヴィツェです。共産主義者の支配する東ベルリンを通過するときに、逮捕され、列車から降ろされ、小さな部屋に拘束されました。1950年代にボン政府が発行した『オーデル・ナイセ東部領からのドイツ人住民の追放』という本を持っていたためでした。数時間後、釈放されて、朝の4時にグライヴィッツ/グリヴィツェに着きました。20万の市で、英語を話す人はほとんどいませんでした。私はポーランド語を話すことはできませんが、ローラの看守であった3人を発見しました。彼女のことをよく覚えていました。
1989年には、ポーランドはまだ共産主義体制でしたが、ローラの刑務所の囚人房に入ることができました。「おはようございます。」刑務所の記録を見ました。ローラは、ポーランド政府のもとにいって、「復讐したい」と言ったという話でした。覚えておられますか。私は手書きの願書を発見しました。ローラは、「私は、ドイツ人抑圧者に対して協力して戦いたいと思います」と書いていました。また、ローラをグライヴィッツの所長に任命した公式文書も発見しました。
その後、私はドイツに11回、ポーランドに3回赴き、それ以外にも、フランス、オーストリア、イスラエル、カナダ、合衆国の各地を訪れました。通訳をはさんでですが、ポーランド語、ロシア語、デンマーク語、スウェーデン語、ドイツ語、オランダ語、フランス語、スペイン語、イディッシュ語、ヘブライ語で200名の人々にインタビューしました。英語を忘れそうになったほどです。300時間の記録テープを作り、数千の文書資料を見ました。
そこで、何を知ったでしょうか。たしかに、ローラは真実を語っています。彼女はグライヴィッツの所長でした。そして、復讐をしていました。ドイツ人を平手打ちしていました。そして、彼女の話したとおりに、それを止めました。1989年のある日、私はホテルLesznyで彼女の看守とランチをとっていました。ウインナーシュニッツェルを食べていました。だしぬけに、この人物は「ご存知のように、ローラは止めました。彼女は『止めなさい』と言いました。『私たちはドイツ人に、自分たちは彼らとは違うことを見せましょう』」と話しました。
暴かれた事実
だから、ローラは真実を語っていたといえます。しかし、真実すべてを語っていたというわけではありませんでした。ローラによると、彼女の刑務所に収容されていたのはドイツ軍兵士だったという話です。たしかにそうでした。20名がドイツ軍兵士で、ペンキ塗りとか大工などとして働いていました。しかし、それ以外に、1000名の囚人がいたのです。ドイツの民間人でした。男性、女性、子供たちでした。
ある囚人は14歳の少年でした。黒いボーイスカウトのズボンを着ていたためにグライヴィッツに収容されてきたのです。ある男が、「お前は黒いズボンを着ている。お前はファシストだ」と叫びました。この男は少年を追いかけて、聖ペテロ・パウロ教会のところで少年を捕まえました。そして、少年はローラの刑務所に連行されました。少年にはまったく罪はありませんでした。ローラの刑務所の囚人の大半がそうでした。彼らはゲシュタポではありませんでした。彼らはSSでもありませんでした。ナチスでさえもありませんでした。1000名のうち、20名だけが告発の対象になっていただけでした。
しかし、ローラの刑務所にいたドイツ人は平手打ちされ、鞭で打たれました。そして、そのようなことを申し上げるのは心苦しいのですが、拷問も受けました。看守たちはこのボーイスカウトの少年の巻き毛の黒髪にガソリンをかけ、火をつけました。この少年は精神異常になってしまいました。「死の棍棒(Totschläger)」で殴られた人々もいました。それは、先端に鉛の玉の付いた長い鋼のスプリング棒でした。ラケットのように使うことができます。そのスプリング棒で三回も顔を殴られたドイツ人もいました。
ローラは話してくれませんでしたが、彼女の刑務所のドイツ人は死んでいたのです。私は、グライヴィッツの市役所で彼らの死亡証明書を発見しました。ローラの看守の一人が次のように話してくれました。「たしかに、ドイツ人は死んでいきました。私は彼らの死体を荷馬車に積みました。外から見えないようにするために、ジャガイモの皮で死体を覆いました。そして、馬車に乗って町外れにまで行き、ジャガイモの皮を取り除けて、ドイツ人の死体をカトリック教会の大量埋葬地にまで運びました。」
アウシュヴィッツについてはよく知られています。しかし、ここでお話しておかなくてはならないのは、ローラの刑務所にいたドイツ人の境遇の方が、アウシュヴィッツにいたローラよりも劣悪なものであったことです。アウシュヴィッツのローラは、一日中部屋に閉じ込められていたわけではありません。ローラは夜ごとに拷問を受けたわけではありません。彼女によると、「神のおかげで、私たちは強姦されませんでした。ドイツ人はそのようなことを許されていませんでした」という話でした。しかし、こうしたことすべてが、グライヴィッツのローラの刑務所に収容されていたドイツ人の少女たちには起ったのです。
私の話した一人の女性はドイツ人ではありませんでした。ポーランド人でした。1945年には、20歳で、背の高い、ブロンドの美しい医学生でした。ローラの刑務所の看守は彼女の服を剥ぎ取りました。彼らは、夜ごとに彼女を殴り続け、彼女の容貌は黒く、青く変ってしまいました。ある朝、自分の房に戻って、床に倒れ伏してすすり泣いていると、同室の囚人が彼女に尋ねました。「あなたの身に着けている青いものは何なの?」、「何と、あなたの皮なのね!」
ローラの執務室はそこから10フィート離れたところにありました。ローラは、真鍮製のモールと星型の徽章をつけていました。ローラに尋ねたことがあります。「どこでその制服を手に入れたのですか?」「ロシア人が支給してくれたのです」との答えでした。しかし、これも真実のすべてではありませんでした。
ローラはポーランド秘密警察に所属していました。国家保安部、ポーランド語ではUrzad Bezpieczenstwa Publicznegoという名でした。ドイツ人はそれをポーランドのゲシュタポと呼んでいました。その任務はナチスの容疑者を駆り集めることでした。しかし、実際には、ドイツ人であれば、ナチスの容疑者であったのです。ですから、ドイツ人を駆り集め、投獄・尋問し、もしも自白すれば、処罰することが任務であったのです。
国家保安部では、低い階級の部員はポーランドのカトリックでしたが、指導者たちはポーランド系ユダヤ人でした。ワルシャワにある本部長はユダヤ人でした。(私がポーランドを訪ねたときには、この人物はすでに死んでいましたが、家族の何人かと会いました。)局長クラスの全員もしくは大半がユダヤ人でした。
ローラが所長を勤めていたシレジア地方では、国家保安部の局長はユダヤ人でした。私はこの人物にコペンハーゲンで会いました。少々髪の薄くなった人物でした。刑務所の管理局長もユダヤ人でした。私はテルアビブでその家族に会いました。国家保安部事務長もユダヤ人でした。私は、ニュージャージーの彼の自宅で何回も会いました。1945年2月にシレジア地方の国家保安部に所属した将校――下士官や看守ではなく、中尉や大尉など――のうち、4分の1がカトリックで、4分の3がユダヤ人でした。
ソロモン・モレル
私は、国家保安部に所属していたことのある24名にインタビューしました。そして、次のことがわかりました。国家保安部は、ローラの刑務所のような、227の民間のドイツ人刑務所を運営していました。また、1255の強制収容所を運営していました。そして、私は4名の所長とインタビューしました。彼らもユダヤ人でした。一人はローラのボーイフレンドでした。彼は、母親、父親、兄弟(姉妹はいなかった)、おじとおば全員、従兄弟の一人をホロコーストで失っていました。ですから、皆さん方もこのソロモン・モレルに同情を抱くことを希望しております。
しかし、1945年2月のある晩、ソロモンはスヴィエトクロヴィツェ市にある自分の強制収容所に行きました。彼はドイツ人のバラックに入って、「私はユダヤ人だ。アウシュヴィッツにいた。お前たちナチスに復讐してやる」と言い放ちました。彼らはナチスではありませんでしたが、ソロモンは、「さあ、全員でホルスト・ヴェッセルの歌を歌え」と命じました。それはナチス党歌でした。歌おうとしたものは誰もいませんでした。14歳の少年などはその歌を知りもしませんでした。
ソロモンは棍棒を持ちました。「歌え!」何名かが「旗を高く掲げよ、隊列は固く…」と歌い始めました。「歌え、私の言うとおりに!」彼らは歌い始めました。「褐色の大隊のために通りをあけよ。突撃隊のために通りをあけよ。」ソロモンの身体には憎悪が充満しており、彼はその憎悪を解き放ちました。彼は、木の椅子を持ち上げ、ドイツ人を死ぬまで殴り始めました。私は、この収容所だけで、1583名のドイツ人の死亡証明書を発見しました。
死者の数
他の収容所、他の刑務所で、数千のドイツ人民間人が死亡しています。ドイツ人の男女、子供、赤ん坊です。ある収容所には、50名の赤ん坊が収容されているバラックがありました。赤ん坊用のベッドに寝かされていましたが、やはりアウシュヴィッツにいた経験を持つユダヤ人の収容所医師セドロフスキ博士は、バラックの暖めもせず、ミルクも与えませんでした。少量のスープを与えただけでした。50名の赤ん坊のうち48名が死んでいます。
合計で、60000名から80000名のドイツ人が死んでいます。ユダヤ人に殺された囚人もいれば、カトリック教徒に殺された囚人もいます。多くが、チフス、赤痢、飢餓で死にました。しかし、60000名から80000名が国家保安部の拘束のもとで死んでいったのです。これはもう一つのホロコーストでしたと話してくれたドイツ人もいます。たしかに、これはドイツ人に対するホロコーストのようでした。
しかし、忘れてはなりません。60000名は本来のホロコーストで死んでいったユダヤ人の1%です。ユダヤ人がやったことはドイツ人のやったことと同じではありません。私たちユダヤ人はドイツ人を絶滅しようと計画していたのではありません。私たちはユダヤ人全員とユダヤ国家を集中しようとはしませんでした。(ユダヤ国家などありませんでした。)私たちはドイツ人を組織的に青酸ガス室に送ったりはしませんでした。
しかしまた、60000名から80000名の民間人は、ドレスデンでのドイツ人死者よりも多いこと、広島での日本人死者よりも多いか同じ数であること、真珠湾でのアメリカ人死者、バトル・オブ・ブリテンでのイギリス人死者、ベルゼンやブッヘンヴァルトでのユダヤ人死者よりも多いことも忘れてはなりません。
隠蔽
これらすべてのことはほほ50年にわたって隠蔽されていました。この事件に関与したユダヤ人は、誰もこれについては語りませんでした。例えば、1945年にドイツのブレスラウを占領したユダヤ人の警察長官は、後年、ホロコーストについての本を書いています。彼が、ブレスラウの警察長官として働いていた時期について語っていることは、「われわれは西方のブレスラウに移動した。…そこから、プラハに移動した」ということだけです。これだけです。この事件について知っていたユダヤ人記者も、この件については書いていません。第二次世界大戦後にポーランドにいた人物が、今でも、現役の記者としてニューヨークで活躍していますが、その彼は、「ドイツ人があなたに話したことは、真実です」と話してくれました。しかし、彼自身はそのことについて書いたことはありません。
真実は隠蔽され、今でも隠蔽されています。1989年、私は、イェルサレムのヤド・ヴァシェムを訪れました。イスラエルの中心的なホロコースト・センターです。ご存知のように、ここにはホロコーストについての5000万の文書資料が集められています。そして、「国家保安部についての資料はありますか?」と尋ねてみましたところ、何もないとの答えでした。さらに、「国家保安部にいたユダヤ人についての資料はありますか?」と尋ねると、やはり何もないとの答えでした。「ユダヤ人の所長、ユダヤ人の局長、ユダヤ人の…がいたのですが」と口にしたところ、ヤド・ヴァシェムの館長は「それは想像上のことだと思います」と答えました。文書館長は「まったくありえないことです!ありえないことです!」と答えてくれました。
否認につぐ否認です。もちろん、否認はすぐれて人間的な行為です。しかし、歴史的に見てみると、否認はユダヤ人のやり方ではありません。アブラハム、イサク、ヤコブが罪を犯しても、私たちユダヤ人はそのことを否定しませんでした。私たちの民族の父アブラハムは罪を犯しました。神は彼にイスラエルに行くようにお命じになられましたが、そのかわりに、彼はエジプトに行きました。私たちはそのことを『創世記』の中で認めています。ユダー(「ユダヤ人」という単語はここに由来しています)は売春婦と関係しました。私たちは『創世記』の中でそのことを認めています。モーゼでさえも罪を犯しています。だから、神は彼を約束の地にお導きにならなかったのです。私たちはそのことを『申命記』の中で認めています。善良で賢明なソロモン王でさえも悪事を行なっています。彼は「偶像を崇拝していた」のです。私たちはそのことを隠蔽していません。『列王記』の中でそのことを認めています。
これがユダヤ的伝統でしょう。もしも私たち自身が間違ったことを行なって、そのことを隠蔽してしまったとすれば、ドイツ人、セルビア人、フツ族に「あなたがたの行なっていることは間違っている」ということができるでしょうか。今日ここにおられる人々は、そのような人々ではないことを願っています。アブラハム・フォックスマンやエリー・ヴィーゼルが、そのとおりです、1945年に悪事を行なったユダヤ人も存在しましたと話してくれることを願っています。しかし、ユダヤ人エスタブリッシュメントがそのようなことを話さないとするならば、私が話さなくてはならないと思います。
私はレポーターです。レポーターの仕事とは次のようなものです。誰かが60000人を殺したとすると、私たちはそれを記事にします。私たちが記事にしなければ、たしかにその事件については知られることがないかもしれません。しかし、私はユダヤ人でもあります。『トラー』(Leviticus 5:1)は、もし誰かが悪事を行い、私がそれを知っていて、それを報告しなければ、私も有罪となると述べています。
ですから、私は本書を書き始めました。題は『ローラ』となりませんでした。『目には目を』となりました。その3頁目に、「本書『目には目を』がユダヤ人の復讐物語以上のものになること、ユダヤ人の贖罪の物語になることを望む」と書いています。もちろん、私はユダヤ人が復讐を行なったことを書きましたが、それは『目には目を』の10分の1にすぎません。私が書いたことの大半は…。
私はズラタ、モーシェ、ポーラについて書きました。彼らは、ローラの刑務所を見ることを、ましてや、そこで働くことを拒んだユダヤ人です。アダのことも書きました。刑務所をたった一度だけ訪れて、そのあとイスラエルに逃げました。シュロモのことを書きました。国家保安部に所属していましたが、自分の命をかけて、保安部員に「このようなことを止めるべきである」と話した人物です。
ローラについても書きました。彼女は、グライヴィッツで、ユダヤ人がどのように行動すべきかをついに思い起こして、自分の命をかけて、自分の家からパンを手に入れて、ドイツ人囚人にこっそりと手渡しました。この話はローラが話してくれたことではありません。刑務所の看守でそのことを話してくれたものはいませんでした。ローラが捕まれば、彼女自身が刑務所に送られたであろうとの話でした。
1945年、ヨム・キップルで、ローラはふたたび自分の命をかけて、ちょうど数ヶ月前にアウシュヴィッツから逃亡したように、グライヴィッツを逃亡し、アメリカ合衆国にやってきました。国家保安部に所属したユダヤ人のほぼ全員が、自分の命をかけて、1945年9月、10月、11月に逃亡しました。彼らは森を通り抜けてドイツに入るか、山道を登ってイタリアに入りました。彼らはSSが行なわなかったことをやりました。すなわち、自分の職場を放棄して、他国に逃亡したのです。
拒絶
このことを書いているとき、私は涙を浮かべていました。ヘンリー・ホルトからの前払い金は25000ドルでした。3年かかって、『目には目を』を書き上げました。1991年9月、私はついに本書を完成させ、ニューヨークのヘンリー・ホルトに郵送しました。「ついにやり遂げた。これで隠蔽は終わりだ」と自分に言い聞かせました。
しかし、隠蔽は終わりではありませんでした。ヘンリー・ホルト社員は「私たちの望んだものではない」と言いました。間違っているとは言いませんでした。正しいことを知っていたのです。ただ、「私たちはこれを出版したくない、25000ドルはとっておいてください」と言っただけです。私の代理人と私は、原稿をハーパーや、スクリブナーといった出版社に送りました。20以上の出版社に送りました。
出版社からの返事は、どれも誇張した表現を使っていました。「よく書かれています」、「非常によく書かれています」、「恐ろしい」、「感情を抑えることができません」、「心の動きを妨げます」、「うろたえます」、「ショッキングです」、「びっくりします」、「驚くべきです」、「催眠術にかけられたようです」、「並外れています」、「釘付けにされました」、「動転しました」、「気に入りました」というものでした。しかし、すべての出版社は出版を拒んできたのです。
こうした状況でしたので、私の代理人と私は、もし単行本として出版できないのであれば、雑誌に売り込もうと考えました。ソロモン・モレルの章などはどうでしょうか。父親、母親、兄弟姉妹全員、おじとおばをホロコーストで失った人物です。この男はドイツ人に多大な憎悪を抱いており、それを吐き出さなくてはなりませんでした。スヴィエトクロヴィツェの強制収容所の所長を務め、ドイツ人を死ぬまで殴りました。
ソロモンはまだ生きています。人道に対する罪でインターポルから指名手配されています。インターポルは彼の逮捕についての国際召喚令状をもっていましたが、彼はイスラエルに逃亡しました。テルアビブに潜んでいますが、アメリカでは、新聞も雑誌もテレビもこの件について報道したことはありません。
そこで、私たちはソロモン・モレルの章を『エスクワイアー』誌に送りました。私はこの雑誌の寄稿編集者だったこともあり、ヴェトナム、イラク、ボスニアでは同誌から派遣された記者でした。『エスクワイアー』誌は「ノー」と言ってきました。そこで、GQ誌に送りました。GQ誌は「イエス」と言ってきました。その編集者は、これはGQの歴史の中でもっとも重要な記事となると言ってくれました。彼は、グリニッジ・ビレッジのバーで『エスクワイアー』誌の編集者と出会い、そのとき、「君たちがやらないのなら、われわれがやる」といったという話です。
6週間かけて、GQ誌は記事の裏づけを取りました。一つの誤りもありませんでした。ゲラ刷り、本紙刷り、そして水曜日には最終刷りが送られてきました。そして、そのとき、ロッキー・マウンテンの自宅の電話が鳴りました。GQの編集者は、「ジョン、よくない知らせです。掲載できません」と言ってきました。そして、15000ドルはそのまま受け取って、記事を別のところに送るようにと言いました。
そこで、私の代理人と私はふたたび、電話をかけ、ファックスを送り、GQ誌の本紙刷りを配りました。『ハーパー・マガジン』の答えは「ノー」でした。『ローリング・ストーン』誌の答えも「ノー」でした。そして、「その理由はおわかりだろうと思います」と付け加えてありました。大きな暴露雑誌『マザー・ジョーンズ』誌は、返答もしてきませんでした。『ニューヨーカー』(私の記事を10回掲載したことがあります)は、見ることさえも拒絶してきました。
攻撃が始まる
しかし、ついに1993年3月、ソロモン・モレルの記事が『ヴィレッジ・ヴォイス』誌にやっと掲載されました。そして、11月には、ハーパー・コリンズの事業部ベイシック・ブックス社から『目には目を』が出版されました。神に感謝します。すべてが終わりました。これからは、心を休めることができるはずでした。しかし、そうはなりませんでした。
ある日、ベイシック・ブックス社に電話が入りました。世界ユダヤ人会議執行議長からでした。出版の撤回を要求する、もし撤回されなければ、明日、大規模な記者会見を開くという話でした。また、私とベイシック・ブックス社、ハーパー・コリンズ社を告発する、「彼ら全員が反ユダヤ主義者だ」とも言ってきました。私たちは出版を取り下げませんでしたし、世界ユダヤ人会議も告発しませんでした。しかし…。
その後、書評が出ました。評者は、『目には目を』は真実ではない、私が書いたことはまったく起こらなかったと論じていました。
しかし、『目には目を』の事実関係の裏づけはカリフォルニア・マガジン誌によっても、GQ誌によってもなされています。ヴィレッジ・ヴォイス社でそれを行なったのは、地獄からの裏づけ調査官と呼ばれている女性でした。彼女と私は一語一語チェックしました。ポーランドに電話をかけなくてはならなかったこともあったほどです。そして、毎日毎日2週間チェックして、すべてが終わりました。ヴォイス社の編集者は、「本書はアメリカのジャーナリズムの歴史の中でもっとも正確な物語であろう」と言ってくれたのです。
『目には目を』の多くは「60分間」によっても確証されています。「60分間」は私が発見していない8名の証人を探し出してくれました。また、『ニューヨーク・タイムズ』と『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』も本書を確証しています。ドイツの大新聞が雇った歴史家たちはドイツ連邦文書館を訪ねて、「事実は本当である」、「事実は正しい」、「事実は動かしがたい」と書いています。
しかし、アメリカ合衆国では、「偽証」という題の書評や、「大きな嘘が続く」という見出しの書評が登場しました。
ユダヤ系の新聞『フォワード』は、「サックが書いているのは明らかにドキュメントドラマであり」、ローラ・ポトクはグライヴィッツの刑務所長ではなかったと述べていました。しかし、ローラ自身が「私は所長でした」と話してくれましたし、現在の所長、現在の刑務所管理局長を含む35名の人々が、ローラは所長であったと述べています。私は、「われわれは市民ローラ・ポトクを所長に任命する」というドキュメントも持っています。そして、所長ローラ・ポトクの署名のあるドキュメントも持っています。しかし、『フォワード』は、「圧倒的にありそうもないことが多いが、サックは忘れているようである・・・」と書きました。これを読んだとき、私はチコ・マルクスから講義を受けているように感じました。覚えていますか。「あなたは誰を信じるのか?あなた自身の二つの目か私か?」私は『フォワード』紙に手紙を書きました。私は、過去7年間に、『目には目を』について1500通ほどの手紙を書かなくてはなりませんでした。ちなみに、この手紙の量は、本自体よりも2倍も長いのです。
皆さんは、不思議に思っておられるかもしれません。私はどのような類の狂人なのかと。なぜくそくらえといわないのかと。なぜ、だだをこねているのかと。
お話しましょう。ホロコーストについては85000冊の書物があります。しかし、どれ一つとして、「ドイツ人はどのようにしてホロコーストを行なうことができたのか」、「万人は兄弟である」という第9交響曲の『歓喜の歌』を作曲したベートーベンを生み出したドイツ人が、どのようにしてホロコーストという犯罪を犯すことができたのかという問いに、誠実に答えていません。
私たちは、やっとこの疑問を解くことができるようになったと思っています。なぜ、カンボジア、ボスニア、ザイールでも大量虐殺が続いているか理解できるようになったと思っています。『目には目を』の中で私が書いたことは、ローラも自分なりのやり方で解決したということです。国家保安部のユダヤ人も自分なりのやり方で解決しました。苦痛と絶望と狂気の中では、彼らも、ドイツ人――ナチス――のようになってしまうと感じていたからです。
憎悪の代償
もし私が現場にいたとすれば、私もその一人となってしまったことでしょう。いまとなっては、その理由がよくわかります。ローラは、多くのユダヤ人と同じように、1945年には、憎悪の念であふれていました。彼らは、灼熱の憎悪の火山でした。国家保安部に加入して、ドイツ人に対して憎悪を吐き出せば、その憎悪から解放されると考えていたのです。
しかし、そのようにはなりませんでした。例えば、誰かに恋をしていたと考えましょう。「恋をしている自分の中には1、2ポンドの愛が存在している。恋人を愛し続けて、この愛を使い切ったとすれば、この恋から解放される」でしょうか。そのようにはなりません。皆さんもご存知のように、愛というものは逆説的なもので、それを使えば使うほど、もっと多くの愛が自分自身の中に蓄積されていってしまうものです。
憎悪というものもそのように理解しなくてはなりません。憎悪の念を抱き、それにもとづいて行動すると、もっと憎悪の念を抱いてしまうのです。一滴の憎悪のつばを吐き出したとすると、何が起こるでしょうか。唾液腺を刺激してしまって、一滴のつば、1クォーターのつばが作り出されてしまいます。それを吐き出せば、一滴、二滴、三滴、ティースプーンのつばが、そして、テーブルスプーンのつばが作り出され、ついには、聖ヘレネ山のような量のつばが作り出されてしまいます。私たちは、憎悪を使えば使うほど、多くの憎悪を手に入れてしまい、ついには、永久運動機械と化してしまいます。そして、憎悪を永遠に使い続けることで、ホロコーストを作り出してしまうのです。
そのような状態となるのに、ドイツ人である必要はありません。セルビア人でも、フツ族でも、ユダヤ人でもよいのです。アメリカ人でもよいのです。私たちはフィリピンにいたときそのように振舞いました。ヴェトナムにいたときそのように振舞いました。10000年にわたってアナコスティア・インディアンの故地であったワシントンDCででもそのように振舞いました。今日、合衆国ホロコースト記念博物館と呼ばれているところには、アナコスティア・インディアンの収容居住地があったのです。
私たち全員の中には、ナチスのようになる要素があります。ローラが発見したように、憎悪こそが推進力です。怪物になりたければ、憎悪の念を行使すればよいのです。ドイツ人に対する憎悪。アラブ人に対する憎悪。ユダヤ人に対する憎悪。憎悪の念を行使すればするほど、憎悪の念は大きくなっていきます。あたかも、毎日40ポンドのバーベルを持ち上げていると、疲労困憊してしまうどころか、そのうち、50ポンド、60ポンドのバーベルを持ち上げるようになっていると同様です。そして、私たちは憎悪のミスター・ユニバースとなってしまいます。私たちは、憎悪の念にあふれた人間になりうるのです。私たちは、憎悪の対象である人々を破滅させることができますが、その一方で、私たち自身を破滅させているのです。
以上が、国家保安部に所属したユダヤ人が私たちに教えてくれたことです。このことが、『目には目の』中で、私が書こうとしたこと、そして実際に書いてきたことです。本書冒頭の献辞を読み上げたいと思います。「死んでいったすべての人々のために、そして、この物語のおかげで生き残ったであろうすべての人々のために」
以上が、ホロコースト記念博物館での講演に予定していた話です。