試訳:統一ドイツにおける政治的諸権利の現況

ゲルマール・ルドルフ

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:200645

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Germar Rudolf, Germany – a Summer Nightmare (ドイツ――真夏の夜の夢)を「統一ドイツにおける政治的諸権利の現況」と題して試訳したものである。(図版などを省略した。また、文中のマークは当研究会が付したものである。)

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online: http://germarrudolf.com/civil/nightmare.html

 

以下の小論は、2000年5月29日にカリフォルニア州アーヴァインで開かれた歴史評論研究所第13回国際修正主義大会で行なった講演を改訂したものである。私の話の一部は個人的な体験にもとづいている。また、不完全に統一されたドイツにおいては、人権の危機が進行しているが、そのような事態に対する考察にももとづいている。私は法律学の専門家ではないので、取り上げているテーマに関して、十分に深く照会・考察しているわけではない。このような仕事は、勇気のある法律家や政治学者の仕事でなくてはならない。

ドイツの人権状況について率直な論文を書くことは法律違反となってしまうので、現在では、このような論文を書こうとするドイツ人専門家を一人も見出すことはできない。このような研究調査を行なうことのできるドイツ以外の国の専門家は、ドイツの状況に無関心か、ただでさえ破局的にネガティブなドイツの国際イメージをこれ以上傷つけることをためらっている。私もかなりためらってきたが、結局、ドイツにおける人権抑圧状況を研究調査する糸口となることを希望して、私の経験にもとづく本小論を公表することにした。

 

ドイツ国民は責められるべきではない!

 本論に立ち入る前に、ひとつのことを明らかにしておきたい。本小論の多くはドイツ国家に対して否定的な姿勢をとっているけれども、私がドイツ国民を批判しようとしているようにみなされるのであれば、それはまったくの誤解である。20世紀初頭から、ドイツ人は世界的な政治陰謀の犠牲者であり続けてきた。この陰謀は今もまた進行中である。ドイツにおける抑圧の影響を受けている唯一の国民は、自己弁護する機会をまったく与えられていないドイツ国民である

 ドイツは第二次世界大戦に敗北したというのは目新しい話ではない。同様に、ドイツの全面的な敗北は、近代では他の国民が経験したことのないような破局であったというのも目新しい話ではない。私が考察しようとしているのは、ドイツの敗北の直接的結果ではなく、わが国の敗北の間接的結果である。この敗北以来、ドイツは他国民が経験したことのないような収奪の対象となってきたからである。そして、その収奪は今も続いている。

 ドイツが前代未聞の敗北を喫し、収奪の対象となっている事態に対応して、今日では、前代未聞の権力を保持しているグローバルな利益集団が存在している。ドイツが自己防衛する能力を持っていないという弱みを利用して、われわれを搾取しているのがこれらの利益集団である。ドイツが、これらのグローバルな利益集団の要求にこたえなければ、彼らはわれわれを政治的・経済的ボイコットによって、直接的・間接的に脅迫する。これらのグローバルな利益集団は、オーストリア自由党議長ハイダーの件でオーストリアを中傷しても処罰されず、「盗まれた金」の件でスイスを中傷しても処罰されないとすれば、最大の悪人とされるドイツをゆするなど、彼らにとっては朝飯前のことなのである。公正であるにせよ、不公正であるにせよ、ドイツは諸国民のファミリーの中の黒い羊なのである。

 ドイツの支配エリートはこのことを熟知している。事実、彼らはこの事実を従順に受け入れているのである。そして、彼らは、このような収奪に抵抗しようとする人々を、ますます激しく棍棒で殴りつけている。彼らがドイツを跪かせる棍棒は、「ホロコースト」と呼ばれている。彼らは、修正主義、民族主義、愛国主義が姿を現すことを抑圧している。この点については、もう一度立ち返ることにする。

 ドイツ政府は、異論派を迫害していることを自慢している。兵士たちが胸に名誉勲章をぶら下げるのと同じように、ドイツ政府は人権を抑圧していることを自慢している。このような迫害・抑圧に成功した事例は、オーウェルの小説に登場してくるような「憲法擁護連邦裁判所」の公式報告書にリストアップされている。迫害・抑圧はネット上にも掲載されている。ドイツは、「黒い羊の毛」であるにもかかわらず、「黄金の」白い羊と交際することができるようになるために、そのように振る舞うことを義務づけられている。

 オーストリアの例は、修正主義的傾向を持つと疑われた人物が政府の要職に選出された場合、何が起るのかを明らかにしている。ハイダーが「新しい大ドイツ国家」宰相となり、グローバルな利益集団がドイツに対して使っていたこの挑発的用語を使ったとすれば、どのような事態となるであろうか。ドイツの政治家が補償の終了を宣言するか、修正主義的研究のために公的資金を使うと宣言したとすれば、どのような事態となるであろうか。ポーランド大統領レフ・ワレサは10年前に次のように述べている。

 

「私は、ドイツ国内では人気を失うであろうが、こう声明するのにしり込みしない。すなわち、もしもドイツ人が、何らかの方法でヨーロッパを不安定な状態に追い込んだとすれば、ドイツの分割という手段ではなく、地図からの抹殺という手段をとるべきである。今日、東側も西側も、このような判決を実行する先進的テクノロジーを持っている。1990年4月7日」

 

 今日、世界は、ドイツがふたたび波風を立てるのを阻止するための確実な手段を持っているというのである。

 歴史的修正主義は、すでに先例が示しているように、政治的修正主義の先駆けである。ドイツは、ただ一人で第一次世界大戦の責任を負わないことを自分自身と世界に明らかにし、その結果、1930年代の政治的修正主義が誕生した。第一次世界大戦の続編である第二次世界大戦は、政治的修正主義に対する連合国の反応ではないとしたら、一体何であったのか。1939年の時点で、ドイツは、まだ言われているところの「ホロコースト」を犯してはいなかった。ドイツが行なっていたことは、25年前の第一次世界大戦に参加したことだけであった。しかし、それだけでも、世界は、本当のホロコーストをドイツに対して行使したのであった。

 だとすれば、今日、ドイツについての人々のイメージは1930年代よりも悪くなっているので、世界中のメディアと権力ブローカーがドイツに対する新しい紛争を仕掛けるのははるかに簡単なのではないだろうか。核爆弾がドイツに降りかかってくるかもしれないし、そうしたことは起りえるのである。

 このようなことを考えると、今日、ドイツにはどのような選択肢があるのであろうか。一つもない。それゆえ、もう一度強調しておきたい。私は、気骨のあるドイツ人政治家の登場を願ってはいるが、このような人物が長く権力のもとに留まれないことも知っている。パリ、ロンドン、ワシントン、テルアビブにいるグローバルなエリートたちが平和的な影響力を行使して、そうでない場合には物理的な影響力を行使して、このような気骨のある政治家たちの支配を長くは続かせないようにしているからである。

 それゆえ、ここで人権というテーマで何を論じるにあたっても、それはドイツ国民に対してではなく、第二次世界大戦の戦勝国民および今日彼らを支配している特別な利益集団に向けられているのである。彼らは鉄の棒を使ってドイツを跪かせ、永遠の改悛者の立場に追い込んでいる。「ホロコースト」は、ドイツを永遠のチェックメイト状態に追い込んでいる武器である。「ホロコースト」記念碑と「ホロコースト」博物館は、その前ではドイツが永遠に自分自身の姿を隠さなくてはならない祭壇なのである

 

専門家証人としての個人的経験

 ドイツの司法制度との私の係わり合いは、私が専門家証人として召喚されたドイツの法廷から始まった。私の物語はここから始まった。まもなく、私は判事と検事にとっては厄介の種となったからである。

 判事は、ドイツ刑事訴訟法244条2節3項によって、論点が一般的知識であることが証明されているならば、それを立証するのに必要な証拠や証言を却下することができる。244条の目的は、弁護側の裁判遅延戦術を阻止することである。そして、今日では、ドイツの裁判官たちは、この条文の項目を、「ホロコースト」は証明されており、それゆえ一般的知識なのだから、「ホロコースト」について議論しようとする弁護側の証拠や証言を却下する根拠と解釈している。

 しかし、ドイツ刑事訴訟法244条は、法廷に提出された証拠を却下できるのは、このような証拠が「まったく不適切」な場合だけであるとも規定している。専門家証人の証言については、証人には証言しようとする分野における訓練や経験がまったくなければ、もしくは、証言にあたって質問に答える能力がなければ(例えば、アルコール中毒や精神疾患のために)、「まったく不適切」とみなすことができる。さらに、法律によると、これまで法廷に提出されてきた証拠の証拠能力を上回るような新しい証拠が提出された場合に、それまで一般的知識とみなされてきた事項はその地位を失う[1]

 第二次世界大戦が終わってからこのかた、「ホロコースト」の信憑性を保証する化学的・技術的専門家証言がドイツの法廷に提出されたことは一度もない。このような専門家証言は新しい証拠を提示するだけではなく、これまでの証拠の証拠能力を上回るような証拠を提示するかもしれないのにである。

 ドイツの法廷や検事側が、活動せず、弁護側の求めにもかかわらず、このような専門家証言を提出しようとはしなかったとしたら、どうなるのか。このような場合、弁護側は、ドイツ刑法によると、独自の証拠資料を提出し、独自の専門家証言を証拠として提出することができる。1991年夏、私は、レーマーの弁護人ハヨ・へルマンからこのような委託を受けた。私は1992年初頭に、証言のもとになる研究調査を終え、その後、さまざまな弁護士たちから、修正主義者に対する裁判で専門家証人として証言してくれるように要請された[2]

 さまざまな法廷で、判事たちは専門家証人として召喚されている私と出会うと、私の証言を却下する法的根拠を見つけることができなかったために、パニックにおちいった。私の専門家証言は、新しい種類の証拠資料を提出し、証人として召喚されているだけではなく、私の証言がこれまで提出されている証拠を質的に上回っているからであった。

 私から資格を剥奪するために、判事たちがどのように法律をゆがめ、法律に違反したのかを観察するのは非常に面白いことであった。判事の一人は、ボン政府の役人と相談するために、公判審理を中断した[3]。何と、ドイツの判事の政治的独立は守られていないのである。そして、彼は、「ホロコースト」が「一般的知識」であるとの理由で、私の証言を却下した。別の判事は、私の持っている学位「ドイツ化学修士」の取得は非常に難しく、別の専門職の博士号に匹敵すると述べておきながら、私がドイツでは博士号を持っていないことを理由に、私の専門家証言は「まったく不適切な証拠資料」であると裁定した[4]。また、別の判事は、何と、私が被告の立場を支持するならば、私自身が刑事訴追の対象となると脅迫した。何と、ドイツの法廷では、証人は保護されていないのである。専門家証人は自分たちの知識と良心にしたがって証言しなくてはならないが、判事に不愉快な事柄を証言する証人には災いが襲いかかるのである[5]。すべてのケースで、判事たちは「ホロコーストという一般的知識」なる呪文を唱えて、私を却下しているが、それは、まったくの法律違反である。彼らは、私の専門家証言が他の証拠資料を質的に上回る証拠資料を提出しているかどうかを裁定すべきであるにもかかわらず、そして、「ホロコーストという一般的知識」なる呪文を唱えたからといって、この問題を解くことはできないにもかかわらず[6]、そのような振る舞いをしてきた。こうして、私は一度たりとも証言を許されなかったのである。

 今日では、検事および判事たちは、弁護人との話し合いの中で、「アウシュヴィッツ否定裁判」は上層部によってその結果があらかじめ決まっている政治裁判であることをあからさまに認めるまでになっている。だから、ビエレフェルト法廷の検事は、休廷中に、弁護人へルマンに、次のような失言をしてしまった[7]

 

「あなたが良く準備しておられることは明らかです。私の知識はあなたの専門知識にまったくおよびません。この裁判では、私は、政治的事件を扱っている同僚の代理をつとめているにすぎないのです。」

 

 これはまったく例外的な事例ではない。ミュンヘンの弁護士クラウス・ゲーベルは1990年代初頭に、修正主義者の被告をたびたび弁護してきたが、その彼に対して、予備審問段階の判事が次のように率直に述べている。

 

「専門家証人が認められるとは思わないでください。知ってのとおり、この裁判には政治的使命があります。ガス室の実在に疑問を呈する人物は誰であれ、裁判にかけられて有罪判決を受けなくてはならないようにするのが、私たちの使命なのです。ですから、あなたは、自分たちの証拠を提出することを許されないでしょう。」

 

 ゲーベル弁護人は、私が専門家証人として召喚されていた裁判の「審問」段階の最中、1992年7月22日に、この件を私に伝えてくれた[8]。そうしたのは、「考え抜かれ、画期的な最新の証拠」を提出するというわれわれの戦術が通用しないことを私に明らかにしておくためであった。ドイツの法廷は、「ホロコースト」裁判において弁護側に有利な証拠をすべて抑圧し、公開聴聞なしで専門家証人の資格を剥奪する責任を負わされているからである。

 

被告としての個人的体験

 1992年末、私は、表向きは、バーデン・ヴュルッテンベルク地方刑事裁判所「国家保安部」から、「ホロコースト否定」の咎で告発されているとの手紙を受けとった[9]

 レターヘッドと本文は安物のドットマトリックスプリンターで印刷されており、また、今日のドイツにこのような国家保安警察が存在しているとは思いもしなかったので、私はこの手紙をたちの悪い冗談とみなした。そして、現在の統一ドイツが「シュタージ」(旧東ドイツの国家保安警察)を持っている証拠を要求する生意気な手紙を送った。

 まもなく、私は、自分のやり方が間違いであることを悟った。ドイツには実際に国家保安部が裁判所の中に事務所を構えており、連邦共和国の存在、「自由と民主主義の基本原則」を脅かしうる犯罪を訴追することを使命としていたからである。そして、この刑事警察には、「ホロコースト修正主義」はこのような脅威となっていると写っていた。国家保安部は、右翼過激主義、左翼過激主義、外国人による政治的過激主義の3部門に分かれている。

 普通の人であれば、このような部局にいる役人たちはそれぞれの部局において、それぞれのイデオロギーについて教育を受けているに違いないので、自分たちが担当している過激主義とは何であるのかを知ることができ、それと戦うことができると推定するであろう。私は、彼らに対する教育が「徹底していること」を、少なくとも「修正主義」に関しては「徹底していること」をこうした役人の一人との会話を通じて知ることができた。彼らが無知であるとか、イデオロギー的に鈍感であるとか非難することはできないが、ルドルフ・ヘスの死を悼む1994年の式典が準備されているとき、こうした役人からの訪問を受けて、彼らに対する教育がどのようなものであるかを知った。

彼らは、右翼勢力に働きかけて、デモを中止させるようにと私に要請した。彼らは、私が修正主義運動で指導的な役割を果たしているとの情報を伝えられていたので、右翼陣営でも同じような役割を果たしていると思い込んでいたのである。もちろん、この憶測はまったく間違っている。実際、私は右翼の政治活動家を一人も知らない。これらの抜け目のない役人たちは、自分たちの妄想、すなわち、修正主義は右翼イデオロギーと結びついているという妄想を信じていたにすぎないのである。

1994年、国家保安警察は、私から没収していた専門ファイルの返却を決定し、私にとりに来るように通知してきた。私はこのときはじめて、彼らの役所が連邦裁判所中でもっとも大きな部屋を占有していることを知った。そのことは壁にかかっている組織図からも明らかであった。私は、このことを知ってまったく当惑した。1994年秋、私自身の裁判が終にはじまったとき、この裁判が何と称しているのかを知った。私の事件を担当していたのは、第17「国家保安室、シュトゥットガルト地方裁判所」であった。私は、自分の目をこすりながらも、それを信じることができなかった。国家保安警察に加えて、政治裁判をつかさどることを隠そうともしていない国家保安室が存在していたのである。そして、このような組織はすでに数十年も存在していたのである

 何も秘密にはされていなかったが、普通の市民であれば、政治的バイアスのかかった司法システムが、ドイツの刑事裁判制度にこれほど深く浸透していること、ひいては、その組織内部にまで浸透していることを思いつかないにちがいない。世論に関しては、このテーマについて、まったくの報道管制がしかれてきた。自由民主主義を標榜するシステムの中に、国家保安部、国家保安特別法廷、政治裁判が存在しうるかどうか、誰も疑問を呈していない1992、1993年、私は、映画の中で話されていること、行なわれていることと映画の台詞がまったく食い違っているような映画を見ているような感を覚えていた。

 私は16歳のときから、自己防衛民主主義という原則のために戦っているドイツ最大の政党キリスト教民主同盟の支持者であったが、今では、そのシステムの犠牲者となっている。ドイツの裁判法が偽りのシステムの頂点であることを見て取ることができた。私の行為が殺人や強姦に匹敵する犯罪行為であり、それゆえ、優先的に最高裁判所にゆだねられたということも知るようになった。優先的に最高裁判所にゆだねられたがゆえに、私は、新しい証拠を提出したり、下級審の判事による誤りを指摘することができる事実解明の予備審問を受ける可能性を閉ざされてしまった。

 ドイツのテレビの視聴者であれば、通常の法的手続きがどのようなものであるかを知っている。審理が進んでいるとき、書記が書記テーブルに座っていて、勤勉に速記をとり、公式の裁判記録を作成しているのである。アメリカ、イギリス、オーストリア、ひいてはドイツの民事法廷では、そのようなことが行なわれているはずである。

 しかし、ドイツの刑事裁判ではそうではない。いかなる法廷記録もとられていないのである

 これはきわめて奇妙なことである。判事、検事、被告、弁護人、証人が何を語ったのか指摘できないからである。その結果、判事の側が嘘をついたり、間違いを犯す道が広く開かれてしまっている。私は、私の裁判の裁判長が、いくつかの決定的な論点で証言や審理を偽造した実例を挙げている[10]。もちろん、私の告発は3人の判事の証言とは対立しているので、それが正しいと証明するチャンスはまったくないであろう。3名の判事と有罪犯とが争った場合、どちらが勝つかは明らかである。しかし、ここで指摘しておかなくてはならないのは、現代の速記技術を考えると、ドイツの刑事裁判所が裁判記録を保管しない口実はまったく存在しないということである。この記録が存在しないために、あらゆる種類の誤審の可能性が生まれている。優秀な判事であっても、自分の法廷で証言されたことすべてを記憶していないであろう。ただし、このような欠陥が修復されても、依然として最悪の欠陥が残るであろう、すなわち、ターゲットとする人物を有罪とする手段を発見することを義務づけられている政治的司法制度そのものの存在である。

 

ドイツにおける人権の発展

 ドイツ連邦共和国を設立するにあたって、連合国が課していた条件の一つが、「連邦憲法擁護庁」の設置であった。ドイツ国民を監視することがこの機関の任務であったが、オーウェル風な名前が選択されたのは、そのような政府監視にさらされてはいないという印象をドイツ国民に与えるためであった。その後、内務省内部において、この部局から、憲法擁護部が生まれ・進化していった。

 最近、Claus Nordbruchは、この国内スパイ機関があきれかえるほどその法的権限を拡張していることを文書資料にもとづいて明らかにした[11]。この部局は警察機関も司法機関も持っていないけれども、強大な権力を所持している。個人や組織が「憲法擁護」報告に記載されると、それだけで社会的な死刑宣告となってしまうのである。ターゲットとなった人物や組織は陶片追放の対象となり、ハンセン病患者のように忌避され、職場を放り出され、労働裁判所に控訴する権利も否定される

 1950年代初頭に、政党の公権剥奪が行なわれたが、そこでは、戦勝連合国が大きな役割を果たした。このとき、旧国防軍兵士や愛国者のあいだで人気の高かった新党=ドイツ帝国党は、急速に勢力を伸ばし、選挙でも勝利を収めようとしていた。この新党の指導者=牽引車はオットー・エルンスト・レーマー少将であった。連合国の代表が、レーマーの成功を耳にして、彼のもとを訪れた。彼らは、帝国党を解党するか、連合国がそれを禁止するかという選択肢を突きつけた。レーマーは屈服を拒否し、党は禁止された[12]。KPD(ドイツの共産党)も歴史上因縁のあるその名前から禁止されたが、すぐに改称し、DKP(ドイツ共産党)として再登場した。

 1954年、青年保護条例が可決され、「青年を危険にさらす出版物連邦検閲局」が設置された。さまざまな出版エージェンシーの求めに応じて、検閲局は、青年読者から隠すために出版市場から除去される書籍目録を公表することができた。もちろん、この目録に掲載されると、出版停止となった。この部局は、もともと、ポルノグラフィや暴力の賛美から青年を護るという任務を与えられていたのであるが、次第に、権力を乱用して、政治的に危険であるとの嫌疑をかけられた出版物を検閲するようになっていった。70年代には、この検閲は左翼に向けられていたが、80年代からは、右翼の出版物をターゲットにするようになってきた[13]

 60年代末の「緊急諸法」の導入は、憲法で保障されている権利を掘り崩す決定的な措置となった。これらの法律は、ソ連邦との戦争状態に入った場合には、市民的諸権利を制限する権力を政府に与えていた。この「緊急諸法」の導入以前には、政府が個人の権利を制限することは法律的に不可能であったが、それがあたりまえのようにできるようになったのである。

 「緊急諸法」をめぐる論争は、60年代末に起った学生反乱にも刺激を与えた。学生たちが、この法律によって専制への道が切り開かれると恐れたのには正当な理由があるが、彼らがこの体制を「ファシスト的専制」とみなしていたことは間違っていた。

 「緊急諸法」が60年代末の保守派と社会主義者の大連立のもとで最終的に採択されたとき、「院外反対派」("Außerparlamentarische Oppostion", APO)が組織され、増大しつつある既成政党の権力に対して、街頭での闘争によって挑戦した。この院外反対派のあいだから、70年代のテロリスト運動が成長し、そのことが、政府による人権制限のさらなる口実となった。「潜在的に危険な状況の進展」("Gefahr im Verzug")を阻止する目的であれば、家宅捜査、電話の盗聴、私信の開封が、裁判所の公的許可なしでも、可能となったのである。

 80年代に組織犯罪が頻発するようになると、基本的人権(自宅の不可侵、信書・電話のプライバシー)はますます侵害されていった。そして、この侵害はいっそう程度の高いものとなっていった。すなわち、たんに「潜在的な危険がある」との口実だけで、裁判所の許可なく、こうした措置をとることができるようになったのである。これは普通「サラミ戦術」と呼ばれている。

 組織犯罪との戦いのために十分ではないのは、立法措置ではなく、警察への支援体制、政治家たち――この組織犯罪に関与していることも多い――の意志であるが、この事実には誰も関心を持っていないようである[14]。また、1980年代は、ホロコースト修正主義が始めて開花した時期である[15]。政府は、ホロコースト修正主義の挑戦に対して、思想犯罪の訴追手続きをさらに合理化することで対応した。すなわち、ホロコースト修正主義を自動的に訴追対象となる、つまり、ユダヤ人からの告発を必要としない犯罪のレベルにまで押し上げた。いわゆる、エンゲルハルト法もしくはシュテークリヒ法である

 1989/1990年にドイツが再統一されて以降、おびただしい数の愛国主義団体がドイツ全土で活発に活動するようになった。国際的な権力ブローカーは、この愛国運動を弾圧するように、恐ろしいほどの圧力をドイツにかけてきた。この弾圧の過程で、外国人に反対する暴動が起った。政府は、この暴動を利用して、「茶色の脅威」すなわちファシズムの復活という亡霊を作り出した。その結果、1994年12月1日、ドイツ刑法の大幅な改定が行なわれた。外国人、多文化、ユダヤ人、ホロコースト、第三帝国といったドイツの社会的タブーにかかわる言論の自由は、まったく廃止された。刑法130条、いわゆるデッカート法である

 90年代末、政府は、完全な監視社会を目指す措置をとった。いわゆる、「大スパイ攻撃」("Großer Lauschangriff")である。それは、特定の条件のもとで、マイクロフォンとカメラを使って住居をたえず監視することを法的に容認した。同時に、ドイツ司法当局は、インターネットで「禁止」文献を配布した咎で、外国人ならびにドイツ人を訴追し始めた。

 

ドイツ、2000年夏

 今日のドイツでは、禁止対象活動もしくは非合法活動について、次のような状況となっている。

 

    公共の秩序に対する脅威とみなされるすべては、検事か判事の裁量で禁止されうる。

    直接・間接に第三帝国との結びつきを想起させるすべてのシンボル、仕草、歌、演説、詩は禁止される。

    「多文化」社会と移民政策に対する批判は非合法行為とみなされる。

    実際のものであれ、そうでないものであれ、民族社会主義者の犯罪をめぐる諸状況を研究・調査することは法律違反となる。

    従来の第三帝国についての「定説」に批判的な研究・調査を行なう研究者は、訴追と弾圧の対象となる。

    ドイツ諸州が独自に定めていたメディア犯罪の時効はこれまで6ヶ月であったが、いくつかの州では5年、ひいては10年に延長された。

    既成政党、政府とその代表者に対する批判さえも、刑事訴追することができる。

    その結果、数千の書籍が燃やされ、数万のドイツ市民が思想犯罪の咎で処罰され、数百の市民が投獄され、多くの反政府政党・組織が非合法化された。非合法化されていない政党や政治団体の権利――憲法で保障された権利――も厳しく制限された。こうした団体は、このような専制体制に反対したり、その実態を暴露した場合には、厳しい社会的・刑事警察的処罰を受ける。こうして、このような専制体制に反対する院外反対派の形成は、法的に不可能とされてきた。

    もしも、ある人物が専制的措置を非難すれば、政府・その代表者・そのシンボルに害をおよぼしたという咎で刑事訴追の対象となる。

 

このような条件を考慮すれば、政治学者、社会学者、歴史家たちが、本名で発言しようとしなくなるのは驚くべきことではない。些細な政治的見解を表明した咎で刑事警察に召喚され、厳罰に処されることを恐れているからである。プファイフェンベルガー事件は、この間の実情を良く物語っている。混乱状態におちいっていたドイツの大学教授にさえも、今日の事態の意味するところは明白であったのである。

私は長年、ドイツの知識人たちと付き合ってきたが、「自由が危機にある」とか「われわれの言論は本当に自由であるのか」という紋切り型の意見を耳にしてきた。しかし、今日では、自由は「危機にさらされている」のではなく、もはや存在していないのである。同様に、言論の自由が存在しているかどうかという設問も、もはや問題とはならない。私たちの社会、メディア、政府には不安が広まっているので、多くの市民は自分たちの意見を表明することを恐れている。「そんなことを考えてはいけない」という話を耳にするようになっている。人々は、ドイツで今日の事態を公然と議論することを恐れている。そんなことをすれば、深刻な事態をまねいてしまうからである。

私は、ジョン・ホプキンス大学名誉教授という安全な立場にいるゴットフリート・ディーツェ教授に、その立場からコメントしていただきたいと要請したが、彼のコメントは、意気を挫くものであった。ドイツは世界によってすでにぬかるみの中を引きずり回されているのだから、愛する祖国の現況について否定的なコメントをして、事態をこれ以上悪化させたくないというのである。胸が張り裂けるほど悲しい観察である。

旧東ドイツと現在の統一ドイツとの相違について、次のような機知にとんだ名言が広まっている。今日のドイツは旧東ドイツが行なってきたことを反対のことを行なっている。すなわち、今日の統一ドイツはすべてのドイツ領を統合し、近隣諸国に圧力をかけて自分の思うとおりに振る舞わせ、その結果、国境に自動発射銃を設置する必要もなくなっている。そのために、統一ドイツ市民は、満足して政治的不能状態におちいり、自分たちの国を逃れようとする希望も奪われてしまったというのである。このような事態は、オーストリアやスイスでも大差ない。ヨーロッパ諸国は、ドイツに圧力をかけられたわけではないけれども、そのような方向に歩み始めている。フランスでは、修正主義者を密告するホットライン114が設置された。これは冗談ではない。政府が修正主義者のリストを作成するための全国緊急電話番号なのである。1994年、ドイツ連邦共和国大統領ヴァイツゼッカーは、右翼的思潮の成長阻止のために、子はその両親を、両親はその子を密告するように公に呼びかけた。

このような低劣な措置をとることができるのは、全体主義国家だけである。

1993年1月19日、ルードヴィヒスブルク公共行政アカデミー警察法教授ムスマンは、シュトゥットガルトのドイツカトリック学生団体Nordgau Pragに向けて、「警察は時代とともにどのように変化するのか」と題する講演を行なった。この講演の中で、ムスマン教授は、憲法で保障されている諸権利の侵害と警察機関の権力の肥大化を批判し、こうした傾向が覆されなければ、有名なオーウェル風の警察国家が40年以内に生まれてしまうので、ドイツでは暮らしたくないと発言した。しかし、ムスマン教授は間違っていた。

7年しかかからなかったのである。

だから、私は、全世界ならびに後世の人々に次のように宣言する。

 

1.         ドイツは2000年の時点で全体主義独裁国家となった。

2.         ドイツが自由を回復しようとするならば、抵抗運動が必要となった。

 

 私を磔にして、火刑に処するために薪の山を積み上げている人たちがいるが、彼らの存在は、私が真実を語っていることを立証しているにすぎない。

 この点に関して、私は自分が間違っていることを立証されることを願っている。もし私がドイツに帰国でき、しかも、投獄されることもないとすれば、それは私が間違っていたことの証拠となるであろう。しかし、そのような事態とはならないと誰もが思っているので、私が間違っているのではないであろう。

 

ドイツ連邦共和国は、かつてドイツの土地に存在してきた国家の中で、もっとも完成された独裁国家である。

同胞であるドイツ人諸君

諸君たちが終に立ち上がり、こう叫んだとき

「われわれは名誉と自由を奪われてきた。

今日、欠乏から死ぬものは一人もいないが、

富は腐敗し、われわれの精神を歪めている。

われわれは何を恐れているのか。

われわれは自分の心の声に耳を傾けなくてはならない。

ドイツの良心の囚人すべてが、ドイツの監獄から釈放されるときまで、

太陽が自由なドイツを照らし始めることはないであろう。」

 

 

ドイツ連邦共和国基本法第20(4)条

「すべてのドイツ人は、この[自由民主主義的]制度を打倒しようとする人々に対し、他の手段がない場合には、抵抗する権利を持っている」

 

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[1] Cf. OLG Düsseldorf, Ref. 2 Ss 155/91 - 52/91 III; BVG Ref. 2 BrR 367/92; OLG Celle, Ref. 3 Ss 88/93, Monatszeitschrift für Deutsches Recht (MDR), 48(6) (1994) p. 608.

[2] Udo Walendy, Landgericht Bielefeld, February 1992; Gerd Honsik, Oberlandesgericht München, March 1992; David Irving, Amtsgericht München, May 1992; Herrn Detscher, Amtsgericht München, July 1992; Max Wahl, Landgericht München, July 1992, Otto Ernst Remer, Landgericht Bad Kissingen, September 1992; Artur Vogt, Landgericht Nürnberg, March 1994.

[3] 彼は、法廷から急いで出ていって、電話に向かっていった。ひどくあわてていたので、私の知人が肩越しに覗き込んでいるのに気がつかなかった。私の知人は、彼が市外局番0228(ボン)を選んだことを見て取った。そのあとの電話の中で、この判事は、私を却下する法的土台が見つからないので、どうしたらよいのかを尋ねていた。

[4] Proceedings against O.E. Remer, Landgericht Schweinfurt, Ref. 1 KLs 8 Js 10453/92.

[5] Presiding Judge Peter Stockhammer, Landgericht Nürnberg, Ref. 6/38 Ns 341 Js 31951/92.

[6] Proceedings against Remer, op. cit. (note 4), justified by the Federal Supreme Court "because we have always done it this way," judicial jargon for "in compliance with the decision criteria for all Federal German courts," Ref. 1 StR 193/93.

[7] Proceedings against Udo Walendy, op. cit. (note. 2), after sentencing, in conversation between the prosecutor and defending attorney Hajo Herrmann

[8] Either proceedings against Detscher or Wahls.  See footnote 2.

[9] For details see: G. Rudolf »In der Bundesacht«, Staatsbriefe 6(12) (1995) S. 10-15; Reprint in Herbert Verbeke (Hg.), Kardinalfragen zur Zeitgeschichte, VHO. Berchem 1996, S. 51-57; online: www.vho.org/D/Kardinal/BundesachtR.html

[10] Cf. Germar Rudolf, »Webfehler im Rechtsstaat«, Staatsbriefe 7(1) (1996) S. 4-8; Reprint in Herbert Verbeke (Hg.), aaO. (Anm. 9) , S. 59-63; online: www.vho.org/D/Kardinal/WebfehlerR.html

[11] Der Verfassungsschutz, Hohenrain, Tübingen 1999.

[12] Personal communication O.E. Remer.

[13] ドイツでの検閲の歴史については、C. Nordbruch, Sind Gedanken noch frei?, Universitas, München 1998; on その思想的一面性については、E. Jesse, Verfassungsschutz in der Demokratie, Carl Heymanns Verlag, Köln 1990, p. 304.

[14] Cf. Dagobert Lindlau, Der Mob, Heyne, München 1998. I personally read an earlier version of this book, probably Hoffmann u. Campe, Hamburg 1987

[15] Arthur R. Butz' Buch The Hoax of the Twentiety Century (1976), Faurisson's article in Le Monde (1978/79), his  Mémoir en Défense (1980), Stäglich's book Der Auschwitz-Mythos (1979), Sanning's article on statistics and his book The Dissolution (1980/1983), Henri Roques' The Confessions of Kurt Gerstein (1985).