試訳:歴史家マーザーと歴史的修正主義
――リタイアした歴史家のちょっとした勇気――
ゲルマール・ルドルフ
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2005年6月28日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Germar Rudolf, The Courage of a
Secure Retiree, The Revisionist, 2004, No.4を試訳したものである(なお、文中の図版は省略した)。 |
書評:ヴェルナー・マーザー『ヒトラーとスターリンに関する捏造、虚偽、真実』、ミュンヘン、2004年、478頁、34ユーロ。
月並みな決まり文句の終わり
ヒトラーの祖先にはユダヤ人がいたのか? 彼は同性愛者であったのか? 彼はカーペットをかむような精神分裂病者であったのか? 彼は、青年時代には、才能のない葉書の挿絵画家であったのか? 彼は無為無職の徒労者であったのか? 彼は、青年時代には劣等感に悩まされていたのか? 彼は、人と対話することができなかったのか? 彼は、精神的もしくは肉体的に病んでいたのか? 彼は、自分の姪を自殺に追い込んだのか?
こうした噂にはまったく根拠がない。にもかかわらず、ヒトラーについてはいくつかの噂が、依然としてもっともらしく通用してきた。ヒトラーという存在は、今日では何を言われてもそれを甘受せざるをえない存在となっているので、彼に対しては万人が自分自身の精神状態を反映させることが可能となっている。だから、こうした歴史学上の戯言に反論することは、報われることのない、終わりのない徒労のようである。そして、ヴェルナー・マーザーはまさにこのような仕事を行なおうとしている。彼は、本書の42の章の中で、おもにヒトラーについて歴史的な神話と捏造された話をできるかぎり訂正しようとしている。一方、スターリンは、歴史の中でヒトラーと交差した場合にのみ登場する些細な役割を果たしているだけである。
ヴェルナー・マーザー教授・博士は、第三帝国の歴史研究に焦点をあてたドイツ近代史に関する数多くの著作を刊行している。彼の第三帝国の歴史に関する著作の多くは、さまざまな外国語に翻訳されている。彼は、ヒトラーという歴史上の人物についてのもっとも有能な専門家というわけではないけれども、一流の専門家の一人とみなされている。
まず、マーザーは、先述した些細な問題については次のように答えている。すなわち、ヒトラーにはユダヤ人の祖先はまったく存在しない。彼は、自分の姪の自殺にはまったく関与していない。彼はその生涯を通じて積極的に、女性と恋愛関係を取り結んだ。彼は優秀な画家、作曲家(!)であった。彼は、少年時代から、勇気のある、意志の強い人物とみなされていた。高等教育は受けていなかったけれども、かなりの読書家であった。彼は高潔な演説家、有能な外交的交渉人、良き聞き手、有能な軍略家であり、そして何よりも、加齢と戦争中のストレスに由来する些細な健康問題を除けば、精神的、肉体的にきわめて健康であった、と。
こうしたヒトラー像は、マーザーが、多くの嘘と捏造された話に反駁し、第一次資料にもとづいて描き出した、天才的な側面を持つ人間ヒトラー像であった。マーザーは、ユダヤ人への憎悪、並外れた権力志向といったヒトラーの暗い側面については手短にあつかっているだけであり、ヒトラーの思想全体の背景についてはまったくとりあげていない。
終わることのない歴史的訂正
たとえ、これだけのことしか記述されていなかったとしても、本書には十分な価値がある。しかし、マーザーはヒトラーについての噂話の訂正以上に筆を進めている。すなわち、彼は、他の研究書に言及しながらというかたちではあるが、多くの歴史的神話も訂正しているのである。そのいくつかを表にまとめておこう。
神話 |
真実 |
300万のソ連軍兵士が、ドイツの捕虜収容所の中で、意図的に放置され餓死した。 |
ドイツ軍の捕虜となった178万4000名のソ連軍兵士が帰国しなかったが、それは、おもに、スターリンの「焦土」政策のためであった。ドイツ軍とその捕虜への十分な補給を不可能にしたからである。(106頁) |
ヒトラーは、空爆のエスカレートに責任をおっている。 |
空爆のエスカレートを始めたのはイギリス空軍であり、ヒトラーは、こうした挑発行為にしぶしぶ応じた。(111f頁) |
いわゆるレーム一揆後の虐殺は、ヒトラーによってはじめられた。 |
レームは実際に一揆を計画していたので、虐殺の発起人であった。ヒトラーが個人的に干渉したので、レームは虐殺の犠牲者となった。(115頁) |
強制収容所は第三帝国の発明品であった。 |
それ以前、ヴァイマール共和国初代大統領フリードリヒ・エーベルトは、左翼過激派を強制収容所に収容しているし、アメリカ合衆国は、国内の日系人を強制収容所に再定住させている。(116頁) |
ヒトラーが権力の座に上ったのちに起こった、国会議事堂放火事件は、ナチスによって行なわれた。共産主義者のルーベは、スケープゴートにすぎなかった。 |
ルーベは、唯一の実行犯であった。(143頁) |
戦勝連合国は彼らの囚人を丁重に扱った。 |
ヒトラーの副官ニコラウス・フォン・ベロウは、自分を逮捕した人々が望んでいることを「自白」するまで、拘留されていた事情について詳しく報告している。フォン・ベロウは彼らに「一杯くわせた。」(158f頁) |
独ソ不可侵条約の秘密議定書は、ソ連邦がバルト諸国とその他の東欧地域を併合することができると述べている。 |
「権益権」は、ドイツ側の抗議文が1940年11月3日に指摘しているように、他の諸国に侵入してそれを併合する権利と等しいものとはみなされていない。(197頁) |
ヒトラーは、パリ陥落後に粗野な踊りを踊った。 |
これは、フィルムの捏造である。(203頁) |
ヒトラーは、警告・挑発なしに、平和愛好的なソ連邦を攻撃した。 |
赤軍は、ヨーロッパ大陸全体を蹂躙する準備を整えており、ドイツ国防軍はこの赤軍に対する予防戦争を行なった。(216−261頁) |
マーザーの本は、彼の歴史家仲間を数多く告発し続けており、彼らのイデオロギー的な偏見や無能力を暴露している。彼の本は、ドイツの歴史家が客観的な研究者であるという、もっとも素朴な読者の信仰をも打ち砕いている。たとえば、ドイツ人歴史家ハンス-アドルフ・ヤコブセンについての脚注の中で、彼のことをこう記している。
「青年将校であった彼は、ソ連軍の捕虜のときに、思想的『洗脳』にかけられた。彼は、1943年7月13日にソ連邦で設立されたスターリン主義的な『自由ドイツ国民委員会』に加入していた。そして、今でも、この『洗脳』体験を克服できないでいるとしばしば非難されている。」(220頁、注18)
ドイツには厳しい検閲が存在しているが、それに直面するドイツ人歴史家たちの法的問題について、次のように率直に記している。
「ダモクレスの剣が、論争の余地のある歴史上の時代を『本当はこのようであった』というように描く歴史家たち、公的に確立されている思想的ガイドラインを歴史の捏造とみなしている歴史家たちの頭上にぶら下がっている(ドイツだけではないが)。」(220頁)
そのあとで、マーザーは、勤務先のドイツ政府軍事史研究局が検閲を試みたドイツ人歴史家ヨアヒム・ホフマンのケースを実例にあげている[1]。マーザーは、ドイツ政府の公式歴史研究局について、この部局は共産主義的な旧東ドイツが確立した歴史的ドグマに似た政治的ガイドラインを採用していたと述べている。東ドイツの共産主義国家の崩壊後、軍事史研究局が、共産党系歴史家の多くを引き受けたからである(224頁)。
ホロコーストという地雷原
本書の本物の爆弾は、ホロコーストを扱った諸章にひそんでいる。マーザーは、他のエスタブリシュメントの歴史家の誰よりも、修正主義の領域に足を踏み入れているからである。もっとも、そうすることで、いくつかの過ちをおかしてはいるが、マーザーはホロコーストの専門家ではないだけに、そのことは驚くべきことではない。
マーザーは、ユダヤ人の大量絶滅が、もっぱらそのために設立された絶滅収容所で行なわれたと考えていることを、まず指摘しておかなくてはならない。この点は、悪名高いヴァンゼー会議を扱った最初の章の二頁目を読めば明らかである。彼は、あらゆる点で、再定住政策・移送政策に言及しており、まったく絶滅には言及していない現存の資料を適切に引用しているが、次のような見解を披瀝してしまっている。
「『アウシュヴィッツ否定派』は、2時間もかからなかったこの会議では、ユダヤ人の大量絶滅は婉曲的にも、もしくはまったく言及されなかったと述べているが、それは正しくない。会議の直後、1942年春には、ポーランド系ユダヤ人とドイツ系ユダヤ人の最初の大量殺戮が総督府東部のベウゼックで始まっているからである。アウシュヴィッツでのガス処刑は1942年春にはじまった。1943年1月末にスターリングラートが陥落すると、殺戮は加速されたが、1943年5月には、ヒムラーの命令で、かなり減速された。しかし、1944年秋[正確には:春]、ふたたび急速に加速された。」(301頁)
マーザーは、これ以外の諸問題については大量の典拠資料をあげているが、この問題についてはまったく典拠資料をあげていず、百科事典さえもあげていない。50頁後でも、次のように概略するだけで、やはり典拠資料をあげていない。
「例えば、当初から絶滅収容所として計画されたアウシュヴィッツ・ビルケナウ、トレブリンカ、ソビボル、ベウゼックとは対照的に、ルブリン近郊のマイダネク――SSが管理し、ヒムラーの直接命令の管轄下にあった――は、1941春から1942年末までのあいだは、補給に関して、SSをドイツ国防軍からほぼ自立させることを可能にする大規模工業生産プラントとなると想定されていた。しかし、この計画は非現実的となり、結局、マイダネクも、250000名の囚人を収容する絶滅収容所となっていった。」(353頁)
マーザーはアウシュヴィッツが絶滅収容所として計画されたと述べているが、これは、アウシュヴィッツ・ビルケナウが当初は捕虜収容所、労働力のプールとして計画されたとするホロコースト正史の研究文献とも矛盾している。しかし、彼は典拠資料を上げていないので、こうした研究動向を知らなかったにすぎないのであろう。老人の記憶に頼って執筆してしまったのであろう。トレブリンカ[2]、ソビボル、ベウゼック[3]、マイダネク[4]に関する彼の見解にも、まったく根拠がない。しかし、誰が気にするというのか? いずれにしても、こうした見解はまったく自明のことではないのではないだろうか? だが、たとえ大量殺戮が起こったとしても、そのことは、大量殺戮がヴァンゼー会議で話し合われたというマーザーの見解を立証しているわけではない。この会議の議事録なるものは、まったく大量殺戮について言及していないからである。
317f頁に、マーザーは、ヴァンゼー会議議事録なるものに添付された書簡の二つのバージョンを掲載している。それは、ロランド・ボーリンガーとヨハネス・ペテル・ネイ[5]によって、偽造文書であるとはじめて暴露されたものであった。マーザーは次のようにコメントしている。
「ニュルンベルク裁判向けの偽造資料。ラインハルト・ハイドリヒが1942年1月25日に外務省課長マルチン・ルターあてに書いたとされる二つの書簡は、同じテキスト内容である。そのうちの一つは偽造である。この偽造文書がどのような目的をもっていたのかについては、今後の研究課題とならなくてはならない。」
ヴァンゼー会議議事録なるものには二つのバージョン、すなわち、通常のSS字体で書かれたものとルーン文字にもとづくSS字体で書かれたものがあるが、この件については、マーザーは一言も触れていない[6]。このことを知らないのであろうか?
マーザーは、ホロコーストがヒトラーの口頭命令によるもの、しかがって、文書資料的痕跡を残していないものであると考えており(311頁、371頁)、この件について二つの典拠資料をあげている。ヴィルヘルム・ヘットルとアドルフ・アイヒマンの供述である(306頁)。ただし、マーザー自身もヘットルのことを23頁あとで法螺吹き屋と呼んでいることも(329頁)指摘しておこう[7]。
その少しあとで、マーザーはアイヒマンの供述をもっと詳しく引用し、彼がイスラエルの刑務所に拘禁されていたときに録音された尋問に触れている。
「彼が編集した『議事録』が正確であるかどうかという質問に対して、アイヒマンは、『議事録には要点が記載されている』と答えている。」(313頁)
そのあとで、マーザーは議事録の要点をまとめ、その際、議事録に登場しているのは東部地区へのユダヤ人の移送であって、大量殺戮ではないことを強調している。マーザーは別の場所でも、ユダヤ人問題の最終解決という意味合いで登場する用語はいつも「移住」、「移送」であると繰り返し述べている。例えば、ヒトラーが、内輪の会合で最終解決に言及している場合(310、312頁)、シュペーアがユダヤ人強制労働力の配置を組織しているときに、この問題を扱っている場合などである(325頁)。
まとめておこう。マーザーは、ユダヤ人の物理的絶滅がヒトラーからの命令として、ヴァンゼー会議の席上で話し合われたことにはまったく疑問の余地がないと主張している。彼は、アイヒマンのことを、ヒトラーの口頭命令が実在したことを証明する証人とみなしている。アイヒマンは、1961年のイスラエルでの尋問のときに、議事録にはこの会議で話し合われたことが的確に記載されていると確言している。だが、この議事録には、ユダヤ人に対する殺戮行為などまったく登場していない。だから、ユダヤ人の殺戮などヴァンゼー会議ではまったく話し合われなかったのか、あるいは、ヴァンゼー会議議事録はこの会議で話し合われたことを的確に記載していなかったという結論に達せざるをえない。少なくとも、アイヒマンの主張のうちのどちらか一方は間違っている。すなわち、議事録は話し合われたことを的確に記載しているという主張が間違っているのか、ヒトラーはユダヤ人の物理的絶滅を命じたという主張が間違っているのか、どちらかである。それゆえに、アイヒマン証言には信憑性がない。
もちろん、マーザーは、ヘットルやアイヒマンのようなドイツの役人が、連合国に拘束されているときに、拷問や拘禁をのがれたり、終わらせるために、真実に「色をつけていた」ことを知っていたにちがいない。ヒトラーの副官ニコラウス・フォン・ベロウのケースを詳しく記述しているからである(158f頁)。しかし、マーザーは、こうした状況下での信用できない証人の証言が、歴史的事実を明るみに出すにはほとんど役立たないとは思いもつかなかったようである。
330頁で、マーザーは、イスラエルの法廷が「公平な裁判でアイヒマンに死刑を」宣告したと述べているが、この一文は彼のナイーブさを良くあらわしている。彼の考え方がまったく不適切であることを示す事例をいくつかあげておこう。
イスラエル当局は、数百の専門家、すべての政府部局の支援を受け、世界中の文書資料を利用しながら、長年にわたって、アイヒマンを尋問・調査した[8]。これに対して、アイヒマンと彼の弁護士ロベルト・セルヴァティウスには、弁護活動のための準備手段をまったくなかった。検事側と弁護側のおかれている状況がこれほどアンバランスとなっているのは、戦争直後にドイツで開かれた裁判での状況と似ている。他ならぬハナ・アレントが、このいちじるしいアンバランスを指摘し、ニュルンベルク裁判と比較している[9]。
フランツ・J・シャイドルは、セルヴァティウスは自分の依頼人に私的に話しかけることを許されていなかった、イスラエル当局はセルヴァティウスに、アイヒマンの尋問記録にアクセスすることを許さなかったと述べている[10]。
アイヒマンの弁護のために証言しようとする「実行犯」側からのドイツ人証人(かつてのドイツ当局の構成員)は、イスラエルの土地に足を踏み入れれば、すぐに逮捕して、刑事訴追の対象とすると脅迫された。それゆえ、アイヒマンを弁護しようとする証人は存在しなかった[11]。
1980年代末と1990年代初頭には、イスラエルがアメリカ市民ジョン・デムヤンユクの引渡しを求め、彼を刑事訴追したが、この事件は醜聞にまみれていた。ドイツで発行されている小さなユダヤ系定期刊行物は、デムヤンユク裁判を見世物裁判であると批判し、アイヒマン裁判のときと同じような雰囲気と比べた[12]。二つの裁判が行なわれた環境を考えると、これらの裁判が見世物裁判的な性格を持っていたことに疑問の余地はない。二つの裁判ともステージ上で行なわれ、審理はラジオとテレビで実況放送され、イスラエルを大衆ヒステリー状態に置いたからである。
こうした状況の下では、効果的な弁護活動をすることができないのは自明のことである。セルヴァティウスの弁護戦術を考えると、彼はこの裁判の見世物裁判的な性格と闘う意志も能力も持っていなかったといえる。セルヴァティウス博士は、他の殺人事件の裁判でならば当然行なわれるはずの弁護活動さえも行なっていない。すなわち、反対尋問を受けた証人は一人もいなかった。大量殺戮というシナリオ、殺戮手段、実行犯・犠牲者・凶器の痕跡、その他の犯罪の痕跡に関する一つの専門家報告も要請されもせず、提出されもしなかった。言い換えれば、この裁判は裁判ではなく、八百長芝居であった。それも、検事、判事、弁護人が共謀した八百長芝居ではなく、同時に行なわれた宣伝と裁判の見世物的な性格によって、この裁判の関係者全員が心理的な麻痺状態におちいっていた芝居であった。
連続殺人犯を裁く裁判では、検事側が犯罪・犠牲者・実行犯・凶器の痕跡に関する法医学的な調査を実行することがきわめて当然のことであると考えられている。しかし、ホロコースト裁判では、もっとも有能な弁護士でさえも、被告が600万人の殺戮に関与したという非常に厳しい告発に対して、このような証拠が必要であるとは考えていない。どうしたことなのであろうか。こうしたことは、終戦直後のニュルンベルク裁判およびその他の裁判でも、イェルサレム裁判(アイヒマン裁判、デムヤンユク裁判)でも、戦後のドイツや他のヨーロッパ諸国で開かれた「民族社会主義者の犯罪」に対する裁判でも、同様であった。どの裁判でも、弁護人も検事も判事も、人類史上最悪の犯罪と告発されている事件に対する法医学的証拠を求めようとさえもしていないのである。告発された犯罪はあまりにも恐ろしい規模であったので、人々は精神的に傷つき、その神経は麻痺してしまったために、通常の思考・行動回路が働かなくなっていたのであろうか。
もちろん、弁護側がこうした証拠を要求した場合、どのような境遇に陥ってしまうのか考慮しておかなくてはならない。現行のドイツの司法制度では、弁護人がこのような証拠を要求すれば、犯罪となってしまう。要求することで、検事側の主張の信憑性に疑問を呈し、それは「ホロコースト否定」となってしまうからである。こうした行動は、弁護人がたとえ証拠を要求しているときにたんに間接的に行なわれたものであっても、ドイツにおいては犯罪とみなされている[13]。こうした行動を犯罪とみなすという新しい法律解釈は、修正主義者(「否定派」)の弁護士たち(ハヨ・ヘルマン、ルードヴィヒ・ボック、ギュンター・ヘルツォーゲンラート-アメルング、ユルゲン・リーガー、ヘルベルト・シャーラーその他)が目覚めて、自分たちの義務を果たそうと立ち上がったときに、ドイツで導入された。1980年に、ドイツのデュッセルドルフでマイダネク裁判が開かれ、そのとき、弁護側は、「目撃証人」の証言にある矛盾を暴露しようとした[14]。ところが、その際、各界で憤激が起こり、弁護側が「証言」の物理的証拠を要求することは犯罪に等しいという雰囲気となってしまった。このような要求をする弁護人は、マスメディア、法廷の傍聴人、とくに、検事と裁判官の幅広い憎悪にさらされたのである。だから、民族社会主義者犯罪を犯した、もしくはそれに関与した咎で告発されている人々に対する公平な裁判を開くことは、たんに心理的理由からだけであっても、不可能であるといわざるをえない。このような状況は、やはり心理的な理由から、まったく公平な裁判を開くことができなかった中世の魔女裁判に匹敵する。
マーザー自身は、ユダヤ人の「移送」に触れている数多くの文書資料を引用しているが、イェルサレムでの裁判で、自分は移送を組織したにすぎないと主張したアイヒマンの証言を信用していない。しかし、アイヒマンが組織したのが、たんに移送であるにすぎないとしたら――犠牲者にとっては、この移送だけでもきわめて残酷な環境であったが――、アイヒマン証言には、どのような誤りがあると考えているのであろうか? 直接的な証拠がないとしたならば、どのような「状況証拠」があり、それは「反駁しえない」ものであると考えているのであろうか? マーザーはこの件については、まったく読者に問題解決の糸口さえも提供していない。
要するに、マーザーは、ユダヤ人の大量殺戮に関する自説を立証するような証拠をあげようともしていないのである。二次資料さえも一つも引用していない。彼が読者を欺こうとして、意図的にこのような欠点を取り繕うとしているかどうかはわからない。だが、307頁を読むと、意図的に証拠か存在するかのような印象を作り出しているとしか思えない。ここで、彼は資料を掲載し、次のようなキャプションを付け加えている。
「1942年12月のヒムラーあてのヒトラーの命令(極秘!)、ヒムラーと、1942年12月18日に東プロイセンのヒトラーのもとを訪問したフランス首相ピエール・ラヴァルとの協議ののちに出された、60万から70万人のフランス系ユダヤ人を移送し絶滅する命令。」
だが、彼が掲載しているこの文書資料では、たとえかの有名な「コード言語」理論を適用したとしても、絶滅についてはひとことも言及されていない。
言い換えれば、マーザーの結論は、研究を始める以前にすでに出されてしまっているのである。すなわち、ヒトラーはユダヤ人の殺戮を命令し、それは実行されたというのである。この命令やその実行に関して証拠が存在するかどうかについて、マーザーは気にもとめていない。
マーザーは、第三帝国時代のシュペーアの役割に触れ、シュペーアの自伝を自己弁護の試みと批判している(320−325頁)。シュペーアは自分が統括した建設計画の中に強制労働力として配置されたユダヤ人の虐待についてはまったく知らず、それを知ったのはのちのことであったと弁明しているが、この点に関するマーザーの批判は正しい。シュペーアの署名のある大量の文書資料が、彼がユダヤ人に何が起こっているのかを熟知していたことを立証しているからである。だが、マーザーは、シュペーアがホロコーストについても知っていたと述べているが、それは、シュペーアに対する彼の批判を拡大解釈してしまっているといえる。引用されている資料は、シュペーアが、東部地区へのユダヤ人の強制移送について知っていたこと、これらのユダヤ人が奴隷労働者として配置されたことを立証しているにすぎないからである。たしかに、こうした建設計画を組織したのは他ならぬシュペーアであったが、こうした事実から彼が大量絶滅を知っていたと結論するのは、不誠実なやり方である。
マーザーは、ホロコーストについて数多くの無駄話をしているが、332頁からは、少々興味を引く見解を披瀝している。
「ユダヤ人の絶滅は、現代史の中でももっとも研究が進んだ分野であるとみなされているけれども、…実際にはそうではない。この分野全体が依然として未知の領域なのである。それは、・・・のためばかりではなく、ドイツ人の歴史家たちがこれらの恐ろしい出来事をとりあげることをためらい、長年にわたって描かれ続けてきた全体図とは矛盾してしまうような詳細な事実を掘り下げることを差し控えてきたためでもある。」(332頁)
ドイツ人歴史家ヘルムート・ディヴァルト教授が1979年に出版された彼の著作『ドイツ人の歴史』初版の中に記していたことを思い起こしておこう[15]。
「これに続く年月[1940年以降]、[『最終解決』という表題のもとで]実際に何が起こったのかについては、多くの研究書が出版されているにもかかわらず、その中心的な諸点は、依然としてはっきりしていない。」
この記述が公表されると、「ポリティカル・コレクトネス」にとらわれた群衆が怒りを爆発させたが、この事件については、アルミン・モーラー博士とロベルト・ヘップ教授が文書資料にもとづいてまとめている[16]。ディヴァルトの著作の出版社は、この本を市場からひきあげ、著者の許可を求めずに、このセンテンスを、まったく事実関係を欠いた、ホロコーストの際限のない恐怖についての、ポリティカル・コレクトネスの精神に沿った表現と置き換えてしまった。マーザーも同じような罪をおかしているようであるが、ディヴァルト教授とは異なって、証拠を挙げて自説を立証しようとしている。これによって、彼は群衆の怒りから救われるのであろうか? 検証してみよう。
マーザーはこのように、少々きわどい前置きを述べてから、ホロコーストの犠牲者数に関する、疑問の余地のある根拠を検証している。彼は、1945年8月24日のスイスの新聞『ベルナー・タークヴァハト』があげている2600万人という犠牲者数から、もう一つのスイスの新聞『バーゼラー・ナハリヒテン』(1946年6月13日)のあげている150万人の犠牲者数――この二つの資料は修正主義者によってたびたび引用されてきた――を並立させている(333頁)。そして、ソ連の宣伝家イリア・エレンブルクが終戦の数ヶ月前に広めたホロコースト全体の犠牲者600万人という数字と[17]、ソ連がニュルンベルク裁判で主張したアウシュヴィッツの犠牲者数400万人という数字を混同している。マーザーは、アウシュヴィッツの死亡者数が公式に400万から150万に減らされたこととの関連で、ポーランド人ジャーナリストのエルネスト・スカルスキの文章を引用している。
「人は時に真実を隠さなくてはならないことを認めざるをえない。すなわち、人は、立派な理由から、例えば、同情や共感にもとづく理由から嘘をつかなくてはならない。…真実がかならずしも良いことではないとしても、悪いことがなされるよりも、嘘がつかれることの方が多い。」
ひょっとしたら、ヴェルナー・マーザーは、スカルスキの文章を正確に引用している私の著作『ホロコースト講義』[18]を読んだことがあるのかもしれない。
ついで、マーザーは、イェルサレムのヘブライ大学教授イェフダ・バウアー、レオン・ポリャーコフ、ジェラルド・ライトリンガー、ラウル・ヒルバーグ――それぞれ、ホロコーストの犠牲者の総計について異なった数字をあげている――を引用している。彼の立論の方向性や彼の引用している資料は、修正主義者にはよく知られているやり方にのっとっている。ただし、彼が点と点を結び付けようとするやり方は、彼がこのテーマに通暁していないことを示しているが[19]。彼は、「より優れた」典拠資料を見つけられないために、私ルドルフのドイツ語の修正主義雑誌Vierteljahreshefte für freie
Geschichtsforschungとその兄弟誌The Revisionistを、334頁の脚注73にはじめて引用している。もっとも、その際、これらの雑誌を中傷するようなコメントをつけてではあるが。
「この雑誌は、人目に付かないかたちではあるが、今日の右翼過激派の機関誌であるけれども、そこに掲載されている文書資料には、疑いもなく資料的価値がある。この雑誌が引用されるのは、資料的な価値をもっている場合に限られる。」
言い換えると、マーザーは、私がこの雑誌に掲載している文書資料には資料的価値のないものがあるかもしれない、すなわち、偽造の疑いがあると述べていることになる。しかし、偽造の疑いがあるとの示唆にはまったく根拠がないし、たんなる誹謗中傷ともいえる[20]。だから、マーザーが私の雑誌から文書資料や論文を引用するのは、引用箇所が自分の説を立証している場合に限られている。彼は、自説に反する証拠や議論を無視することを学術的な姿勢とみなしているのであろうか。しかし、少なくとも、ヴェルナー・マーザーは、修正主義者の雑誌に目を通しており、当面は一箇所ではあるが、そこから引用せざるをえなくなっている。少なくとも、足を踏み出したことだけは確かである!
マーザーは新著の序文25f頁に修正主義のことに触れているが、以下のような数多くの間違いをおかしてしまっているので、彼が修正主義について通暁していないことは明らかである。
・
ラッシニエは、教授ではなく(おもに地理の)教員であった。
・
ラッシニエは、マーザーの述べているように、「600万人のユダヤ人犠牲者説が世界ユダヤ人団体によって捏造された」とはまったく主張していない。このような説が修正主義者によって「立証された事実にまで押し上げられた」ことは一度もない。マーザーは、この虚偽の説に「まったく」同調している。マイケル・シャーマーとアレックス・グロブマンは『歴史の否定』(2000年、106頁)のなかで同じような主張を行なっているが、それは誤っており、真実ではない。それゆえ、マーザーはラッシニエの著作を読んでいないのではないかとの疑念が生じる。
・
マーザーは修正主義者の文献を間違って引用している。(1)すなわち、エミール・アレツは小冊子『アウシュヴィッツの嘘』の作者とされているが、実際の作者はクリストファーセンである。アレツは、『嘘の魔法表』の作者であった[21]。(2)マーザーは、バッツ教授・博士の著作のタイトルを、『20世紀の』を省いて、『世紀の詐欺』としている。
・
マーザーは、ロイヒターと私が「われわれが分析したアウシュヴィッツの石サンプルにはシアン化合物の痕跡がまったく含まれていなかった」と主張していると記しているが、それは誤りである。「アウシュヴィッツのいわゆるガス室の壁のサンプルには十分な量のシアン化合物の痕跡が含まれていなかった」と述べるのが正しい。マーザーはロイヒター報告もルドルフ報告も、典拠文献としてあげていない[22]。
ドイツ人ジャーナリストのフリツォフ・マイヤーは、アウシュヴィッツの死亡者数を50万人にまで引き下げ、アウシュヴィッツの焼却棟は大量絶滅の場所ではなかったという記事を書いたが、335f頁で、マーザーはこの記事に対して好意的な姿勢をとっている[23]。ドイツ人ジャーナリストのスフェン・フェリクス・ケラーホフと左翼・テロリストから右翼過激派に転じたホルスト・マーラーは、マイヤーを攻撃し、あつかましくも、マイヤーをホロコースト否定の咎で刑事告発しようとしたが(もちろん、とりあげられなかった)、マーザーは、この二人を攻撃している。にもかかわらず、この問題に関するマーザーの知識は、マイヤー説をめぐる論争に関与できるほど、十分なものではないようである[24]。
マーザーは、336頁で、アウシュヴィッツに設置されていた高周波害虫駆除装置について少し触れているが、設置場所については、間違って、ビルケナウのいわゆる「中央サウナ」(建築現場32)としてしまっている。実際は、この装置が設置されたのは建築現場160、すなわち、アウシュヴィッツ中央収容所の新しい受け入れ建物であった[25]。
マーザーは、同じ頁で、まったく典拠資料をあげずに、1942年夏に、ヒムラーがアウシュヴィッツを訪問して、ガス処刑を視察したと述べている。しかし、マットーニョは、大量の文書資料を駆使して、この話にはまったく根拠がないことを明らかにしている[26]。
マーザーは、339頁以下に、彼独自の修正主義を披瀝している。
「400万人というスターリンのドグマは、あらゆる文献の方向性を決定付けた。こうした文献の作者は、スターリンのこのガイドラインを守ることだけに関心を抱いており、『典拠資料』なしでこれを証明しようとしただけではなく、イリア・エレンブルクの妄想的な数字にしたがって、それを訂正しようともした。…彼もその他の年代記作者も、スターリンが唯一関心を向けていたことは、自分と自分の機関工作員たちが世界中の人々の目の前で、人道に対する罪を犯した犯罪者としてさらされてしまうことを、彼自身の誇張と人為的な基準によって防ぐことであった点を理解していなかった。戦後になっても、(ソ連国内で死亡したために)ソ連から帰還できなかった200万人のユダヤ人がいたが、スターリンは、彼らをナチス体制の犠牲者としてしまった。それは、非常に不誠実なやり方であったが、そうしたことは、研究書の作者の多くにとってたいしたことではなかった。」(下線――引用者)
「1942年5月か6月、アウシュヴィッツの地下運動は、ロンドンに報告を送ることにはじめて成功した。その中には、『ガス室』での『最近の』『ガス処刑』に関する箇所も発見できる。1942年8月25日、イギリス情報部は、これらのポーランド人から、病人がガス処刑されているとの情報を入手した。8月29日、SSが1200名の囚人を収容できる、ガス処刑用の二つの特別な部屋を建てた、1942年8月までに、30万人がすでに殺されたとの情報を入手した。このような数字が、まったく現実的ではない空想的な数字であることは誰にもわかるにもかかわらず、イギリス人たちはこの数字をそのまま受け入れた。しかし、1942年10月10日の収容所パルチザンの報告は、30000人の男性囚人と150人の(おそらく15000人の間違いであろう)女性囚人だけがアウシュヴィッツに移送され、そのうち10000人が殺されたと述べている。こうした報告が存在しているにもかかわらず、数字の修正は行なわれなかった。
イギリス情報部が、このような宣伝目的の嘘を取り繕った決定的理由は、カチン事件に関する、事実によって立証されていたドイツ側の宣伝に対抗しなくてはならなかったからであった。イギリス側は、赤軍がカチン事件の責任者であったこと、スターリンが虚偽の情報操作を行なっていたことを知っていたにもかかわらず、ソ連側の嘘を取り繕おうとした。しかし、スターリンに味方して、自分たちの情報を無視したのはイギリスだけではない。アメリカも同じことをした。ロンドンにあった合衆国戦争情報局は、『ポーランドその他の占領諸国でのドイツ人の犯罪を誇張する』ように決定している。
ドイツの敵は、アウシュヴィッツとそのあとに建設されたビルケナウ強制収容所について際限なく誇張した宣伝を繰り広げたが、その宣伝は、アウシュヴィッツにいた共産党系の囚人たちの秘密報告のデータや情報にもとづいていた。彼らは、収容所での出来事に関する自分たちの話しを、ラジオを介して、クラクフ経由でロンドンに送っていた。共産党の機関工作員ブルーノ・バウムは1949年に、『われわれが、当時世界中に広まったアウシュヴィッツに関する宣伝の大半を執筆した』と述べている。こうした宣伝目的の話は、人々の関心を引くために、ひどく誇張されていたが、そのことに関しては、連合国『合同情報委員会』議長ヴィクター・キャヴェンディッシュ・ベンティンクも認めているほどである。彼は、1943年8月に開かれた委員会の席上で、ガス処刑に関するポーランドとユダヤ人からの情報は捏造されており、ドイツ人が死体の脂肪から石鹸を製造したと非難する第一次世界大戦中の対ドイツ虐殺宣伝のようなものであると説明している。『われわれは、まったく証拠をもっていない虐殺物語に信憑性を与えてしまうことで、ドイツ側を告発するわれわれの立場を弱くしてしまっていると思う。…ポーランド人をガス室の中で死に追いやっているとの情報に関しては、そのようなことが行なわれているとの証拠が存在すると思っていない』というのである。
もしもイギリス側が、イギリス情報部が1941年夏以降に知っていたこと、その後の時期に知ることができるようになったことを公表していたとすれば、ユダヤ人の絶滅についての諸局面を明らかにすることに貢献したことであろう。しかし、それと同時に、同盟国であるソ連邦を中傷することになってしまったであろう。スターリンは、1940年3月5日の命令で、信憑性の無い宣伝物語を発明し、ソ連軍の犯罪をドイツ国防軍の犯罪としてしまうことで、カチン事件に関する宣伝目的の嘘を何とかして定着させるように指示していたからである。さらに、イギリス側は、ソ連による歴史の偽造を信憑性のある情報として公に広めた責任を負わざるをえなかったであろう。例えば、ドイツ国防軍はポーランド人協力者と共同で、カチンの大量埋葬地を掘り起こし、当初、3000名のポーランド人の死体を掘り起こしたが、その37日後の1943年3月23日、イギリス情報部が運営していたポーランド語のラジオ放送局『スヴェート』は、東部地区においていた工作員ステファン・カルボンスキによるでっち上げの話――ドイツ人はアウシュヴィッツの焼却棟で、毎日3000名、『おもにユダヤ人』を焼却している――を、対抗宣伝目的で発表した。ドイツの放送局は1943年4月13日に、大量殺戮によるポーランド人犠牲者の最初の発掘死体について、3000名という数字を発表していたが、『プラウダ』は4月15日、この3000名という数字が表に出ることを精力的に妨害しようとした。すなわち、『プラウダ』はカチン事件の責任をドイツに押し付けようとしていた。
アウシュヴィッツ収容所にいたスターリン派の地下運動組織は収容所から報告書を持ち出し、そのおかげで、イギリス情報部は、収容所の死体安置室が210uであることを知っていた。これらの報告書の作者が置かれていた恐ろしい状況を考えると、こうした報告書を歴史的に正確であると考えることはできない。だから、イギリス側は、1uのスペースに14人を押し込むことはできないことを知っていたにちがいない。だが、彼らは、この話を甘んじて受け入れていたのである。」(342f頁、下線――引用者)
また、マーザーは、よく知られているアウシュヴィッツの目撃証人についてはこのように述べている。
「ヴェツラーとヴルバの提供した情報は、他の囚人たちの話を寄せ集めたものであった。この二人は、ガス処刑やガス室を見たことがなかったからである。彼らの提供している情報は、例えば、共産主義者の同志フィリップ・ミューラーが話してくれたことであった。[連合国]がヴェツラーとヴルバから知ったことは、『伝聞』にもとづく情報であった。さらに、この二人を、信頼できる情報伝達者とみなすこともできない。ヴルバは明らかに物事を誇張しようとしているし、ヴェツラーは…詩人を自称するような人物となったからである。」(344頁)
さらに、マーザーは、ヴェツラー・ヴルバの話に対するすみやかな批判も付け加えている。二人の話は不正確であるばかりではなく、際限もなく誇張されているし、「アウシュヴィッツの事実の提供者といわれているフィリップ・ミューラーも」やはり際限のない誇張を行なっているというのである。マーザーは、プレサックの研究書を参照しつつ[27]、1979年に出版されたミューラーの本[28]を「真実の物語にもとづいた小説」(345頁)とみなしている。ミューラーの挙げている「事実」を一つでも検証すれば、彼が嘘つきであることがわかる。この点について、マーザー教授に説明しておきたい。ミューラーという目撃証人がどの程度の嘘つきか理解できるからである[29]。
「長さ40、50メートルに掘り起こされた壕は、幅8m、深さ2メートルほどであった。しかし、大規模な絶滅現場は、完成にはまだ程遠かった。大まかな作業が行なわれると、モルが考え出した細かい工夫が実行されることになっていた。それは、この恐ろしい発明の才を持った人物が抱いていた絶滅妄想を明らかにしていた。
この殺人技師は、助手のエッカートとともに、壕の中に降りていき、壕の底全体にわたって、25−30cmほどの筋をつけた。底の土を掘り起こすことによって、中ほどから底になだらかに傾斜する溝が作られ、壕の中で燃えている死体の脂肪は、溝の両側に掘られていた二つの集合容器に流れ込んでいったのである。」
また、そのあとで、こう記している[30]。
「死体の山がどんどん崩落してしまい、そこに空気を供給することができなくなってしまうので、火を燃やす作業を担当していたわれわれは、オイル、メタノール、人間の脂肪を壕の中で燃えている死体に注ぎ込まなくてはならなかった。大量の脂肪が、壕の両側に設置されていた二つの集合容器にたまっており、煮えたぎっていた。端のところで曲がっている散歩杖のような長い鉄棒を使って、煮えたぎった脂肪をバケツの中に導き、そのバケツを厚い手袋でつかんだ。脂肪が壕のあらゆる地点で注ぎ込まれると、大きな炎が音を立てながら燃え上がった。」
このような記述は間違っている。実際上、脂肪が煮えたぎることはないからである。それは高温度では、分解し、自動的に炎として燃え上がるのである。だから、脂肪が火のそばでたまるようなことはありえない。火が近くにあるときには、184℃以上となると、火がついてしまうのである。だから、死体から流れ出た脂肪は、火のそばにあると、自動的に燃え上がってしまうことになる(バーベキューのグリルの炎に油を注いでみていただきたい)。
目撃証人に対するマーザーの批判に戻ろう。
「『目撃証人』ヴェツラーとヴルバだけが、囚人の解放のために軍事力を利用するという目的を達成しようとして話を作り上げたわけではない。…彼やヴルバは、この目的を達成するためには、宣伝目的な話し、嘘、捏造を正当なものとみなした。」(346頁、下線――引用者)
ミクロス・ニーシュリは、マーザーの脚注145の中で次のようにさらされている。
「ニーシュリは、1947年に共産党政権下のルーマニアで出版された本の中で、…ひどい嘘をついている。」(348頁、下線――引用者)
ガス室殺人についてのスター証人たちがなぜ、ひどく嘘をつき、誇張し、捏造したのか? この件について、マーザーはこう述べている。
「囚人タウバー、医師ベンデル、医師ニーシュリは、アウシュヴィッツの焼却棟TとUでのガス処刑について証言しているが、彼らは、法の支配の下にある国家というような状況で証言したのではなく、尋問官による心理的・物理的な圧力を受けながら証言したのである。」(348ff頁)
マーザーによると、タウバーは、「アウシュヴィッツの焼却棟Tで火を燃やす作業を担当していた」ので、ヴルバやヴェツラーよりも多くのことを目にした証人であったが、マーザーはタウバーについてはこれ以上語っていない。しかし、タウバーはミューラーと同じように、焼却壕についても次のように記している――マーザーはやはり無視してしまっているが――[31]。
「焼却棟の近くにあった壕の底は、煮えたぎった人間の脂肪で一杯であった。この当時、死体の焼却は戸外の壕で行われていた。壕からは、脂肪が、地面に掘られていた別の集合器の中に流れ込んでいた。この脂肪は、燃焼を促進するために、死体に注ぎかけられた。」
ついで、タウバーは、焼却棟Uでの火をくべる作業員としての自分の活動を物語っているが、それは、彼の話が捏造されたものであることを典型的にあらわしている。
「死体を焼却するにあたって石炭を使ったのは、発火させるときだけであった。太った死体はその脂肪に火がつくので、自分自身で燃えたからである。石炭が不足していたときには、燃焼室の下にあった灰受け皿に藁や木を入れた。死体の脂肪に火がつけば、その他の死体は自分自身で燃え始めた。…4体か5体を一つの燃焼室の中で同時に焼却したが、それ以上の死体を燃焼炉に押し込んだこともあった。衰弱した死体ならば8体を同時に押し込めることができた。空襲警報が出ると、焼却棟の監督官に知らせずに、このような大量の死体を一時に焼却した。とくに、煙突から大きな炎があがれば、パイロットの注意をひきつけることができると考えられていた。そうすることで自分たちの運命を切り開くことができると考えていたのである。」
私はすでに1993年に、このような話がさまざまな理由から、技術的にまったく馬鹿げていることを説明している[32]。人体の大半は水で構成されており、このために、焼却炉内で短時間で死体を焼却するには膨大なエネルギーが必要なのである。焼却棟管理局に電話をかけてみれば、死体が自分自身で燃えることはないことがすぐにわかるであろう。こうしたことを確かめるには、何も専門家の研究書にあたる必要はない[33]。アウシュヴィッツの焼却炉のオリジナル設計図にあたりさえすれば、燃焼室に4体、5体、ひいては8体を一時に押し込めるのは不可能であることがわかるであろう。炉の扉は、棺なしの1体を入れるように設計・設置されているからである。扉の幅は60cmにすぎず、死体搬送ストレッチャーが置かれるロールの上では、50cmしかなく、しかも、上部は半円状である。また、炎が焼却棟の煙突から排出されることもありえず[34]、アウシュヴィッツの焼却棟では、燃焼室の下の灰受け皿に点火することで焼却を始めることもできない。そんなことをすれば、炉のガスを逆流させてしまうからである。すなわち、新鮮な空気が煙突から排出され、熱い排気ガスが炉室に入り込んでしまうであろう[35]。だから、その他の嘘つきたちと比べて、タウバーのほうが信頼できる根拠はまったくないのである。
マーザーは、囚人たちが勝手気ままに、嘘をつき、話を大げさにしたわけではなく、「尋問官による心理的・物理的な圧力を受けながら」そのようなことを行なったと認めているにもかかわらず、SS隊員も同じような境遇の中で尋問され、証言を強いられたことを認めようとはしていない。
例えば、マーザーは、アウシュヴィッツ所長ヘスがクラクフ裁判では、ニュルンベルク裁判での供述書を否定したことに触れておきながら、イギリス軍の尋問官から拷問を受けて、読むこともできない供述書に署名せざるをえなかったことには言及していない。今日では、このような物理的圧力を使った尋問が行なわれたことは、広く認められている[36]。また、マーザーは、ヘスがポーランドの監獄にいるときに、ポーランド人看守からひどく虐待されたと述べている[37]ことにも言及していない。
マーザーは、「より多くのことを目撃した」ことになっているタウバーに関するセンテンスの同じ箇所で、ハンス・アウマイヤーSS大尉を信頼できるガス室証人とみなしている。アウマイヤーは1942年2月16日から1943年8月15日まで、アウシュヴィッツ中央収容所の所長であった。彼は、1945年6月11日、イギリス軍にノルウェーで捕まった。最初の尋問では、殺ガス処刑については何も知らないと主張していたが、何回も何回も尋問され、このようなガス処刑が何回、どのようにして行なわれたのか、それに関して彼には責任があるのかどうか正確に答えよと命令されたのち――ガス処刑が起こらなかったとか、それについて知らなかったと主張する余地は与えられていなかった――、イギリスの尋問官は、尋問に成功を収めることができたと述べることができた[38]。
「尋問官は、この供述の大半が事実に関する限り、真実と一致していることに満足しているが、アウマイヤーの個人的反応、彼の考え方は、彼の運命が悪くなると少々変るかもしれない。」(下線――引用者)
これをみればわかるように、「真実」は、イギリス人によって1945年夏にあらかじめすでに「確定」されていた。そのイギリス人は、「真実」に関して、ソ連人から「啓蒙」されていたからである。アウマイヤーの抵抗はすでに弱まりつつあったが、イギリス人は、その抵抗を完全に打ち砕くことができると確信していた。
だから、マーザーが主張するように、アウマイヤーは「強制されずに、まったく明晰に」自白を行ない、それゆえ、彼の「ガス室」証言には「疑問の余地がない」(347頁)のであろうか。だが、マーザー自身が引用しているアウマイヤーの証言自身がすでに矛盾をはらんでいるのである。
「『私の記憶によれば』、彼は強制されずに、まったく明晰に自白している。『50−80名ほどのユダヤ人に対する最初のガス処刑が行なわれたのは1942年11月か12月だった。…
われわれは非常に恐れ、興奮していたが、彼[所長]は、この事件は極秘事項であり、秘密の遵守を宣誓しているがゆえに、この事件の秘密を漏らせば、SS全国指導者[ヒムラー]によって死をもって処罰されるであろうと話し続けた。また、われわれは秘密の遵守の宣誓書に署名しなくてはならず、それはL.K[所長]のもとに保管された。…
一方、埋葬に近い二つの空き家には、建設局の手でガス室が設置された。一つの家は二つのガス室を、もう一つは4つのガス室を備えていた。その家は、ブンカーTとUと呼ばれた。ガス室は、50−150名ほどを収容できた。1943年1月末か2月に、最初のガス処刑がここで行なわれた。』」(347f頁)
歴史学的に考察すれば、アウマイヤー証言にはまったく価値がない。その他の証言との多くの矛盾を抱えているからである。彼は大量殺戮事件が何年何月に起きたのかを証言しているが、それは、矛盾する目撃証言を統計学的に平均化することで、ホロコースト正史が「真実」とみなしている話とはひどく矛盾している。ホロコースト正史によると、最初のガス処刑は、1941年の秋か冬に逮捕ブンカー11で行なわれたことになっている[39]。ビルケナウのブンカーが稼働し始めたのは1943年1月か2月ではなく、1942年の春か夏とされている。また、アウマイヤーは、秘密を漏らしたならば処刑されるとの脅迫のもとで、秘密を遵守する宣誓署名を行なわなくてはならなかったと述べているが、この話でさえも戦後のドイツ法廷の裁定と食い違っている。そのような宣誓署名を強制されたSS隊員は一人もおらず、そのような秘密遵守文書に署名しなくてはならなかったという証拠もまったく存在していないので、そのような脅迫は、たとえ噂であっても存在しなかったからである。
しかし、アウマイヤーは、最初の尋問ではそのような嘘をついていないのに、二回目の尋問ではそのようなあからさまな嘘をついたのであろうか。その答えは、彼があげている間違った日付を見ればすぐにわかる。彼にとっては、自分がアウシュヴィッツに滞在していた時期(1942年春から1943年夏)にガス室物語を移すことこそが、尋問官の求めている内容を自白する唯一つの方法だったからである。
こうしたことすべてを考慮すれば、アウマイヤーが強制なしで供述したとはまったく考えられないのである。
マーザーは、ホロコーストに関する章を、次のような驚くべき言葉でしめくくっている。
「[ホロコースト正史物語]の矛盾に驚いてしまうのは、稀なことではない。」(350頁)
だが、マーザー教授はこのような矛盾の表面だけをなぞっているようである。
ドイツ帝国内のガス室
マーザーはホロコーストに関する自分なりの説明を行なっているが、その章は「論点:ドイツ帝国での大量絶滅ガス室」というタイトルである。この章は、修正主義的な観点からすれば、マーザーの本の最良の章である。この中で、まず、彼は、45年にもおよぶこの論争を要約しており、その際、私のドイツ語雑誌Vierteljahreshefte
für freie Geschichtsforschungから、2回以上引用している[40]。
さらに、マーザーはこの論争に2つの新しい側面を付け加えている。例えば、ザクセンハウゼンの「ガス室」を詳細に検討しており、その際、フリッツ・デルベクとゲルハルト・シルマーの目撃証言を引用している。この二人の証人は、戦後、ソ連軍によって戦争捕虜としてザクセンハウゼン収容所に収容されたドイツ軍兵士であった。デルベクとシルマーは、別々の宣誓供述書の中で、自分たちは戦後にソ連側の命令でこの収容所に宣伝目的のガス室を建設し、そのために、この収容所の見学者に恐ろしい設備を見せることができるようになったと証言している。そして、マーザーはこう結論している。
「ソ連側は1945年秋にこの[ザクセンハウゼン]収容所の中にガス室を建設するように命令しているが、それは、ニュルンベルク裁判でソ連検事が収容所の犠牲者数を、際限もなく誇張した結果であった。この当時、ニュルンベルク裁判は終わったばかりであり[41]、ソ連側の死亡者数が世界中を駆けめぐり、広く話題となっていた。ソ連は、ザクセンハウゼン収容所の占領直後に、『ドキュメント映画』の中で、ガス室が収容所に存在したと告白するように、捕虜となっていたSS将校に強制した。だが、この将校が、脅迫を受けながら提示し、ガス室であると告白した施設はガス室とはまったく関係なかった。」(358頁)
マーザーはまた、ブッヘンヴァルト収容所のガス室という嘘にも触れている。さらに、死者や殺された人々の皮がさまざまな品物(電燈の傘、手袋、財布など)の製造に利用されたという話が、これらの品物の信憑性も確かめずに流布してしまった件についても検証している。
ドイツ帝国内の民族社会主義者の強制収容所にあったとされる「殺人ガス室」の中で、今日も現存しているのはダッハウ収容所のガス室だけであり、その施設の背景も文書資料にもとづいて明らかにされており、法医学的な現場検証も行なわれているにもかかわらず、マーザーはこの収容所の「ガス室」については無視してしまっている[42]。フォーリソン教授は、科学的な現場検証を怠っている歴史家を「紙の上の歴史家」と呼んだことがあるが、マーザー教授でさえもそのような歴史家の一人なのであろう。
結論
マーザーの著作の中で、今回の『ヒトラーとスターリンに関する捏造、虚偽、真実』は、もっとも修正主義的な傾向を示している。新しい研究成果を提供しているわけではないが、従来の諸研究に関する数多くの要約と評価だけでも、十分の検討するに値する。彼は、ホロコーストの専門家であれば避けることのできる過ちを数多くおかしている。だから、ホロコーストに関する記述を検証すると、彼がこの分野では専門家でないことがすぐにわかる。彼は大まかにはホロコースト正史を支持しているにもかかわらず、彼の見解には修正主義的所説がちりばめられており、このために、本書はセンセーショナルな著作とよぶに値する。結局のところは、本書は、他ならぬヒトラーについてのもっとも高名な研究者によって執筆されたのである。
数年前、マーザーは、われわれの共通する友人たちとの私的な会合の場で[43]、自分はドイツにいる歴史家として、発言すべきこと、執筆すべきことを発言・執筆できない、そんなことをすれば、自分のキャリアを危険にさらしたり、ひいては法律違反に問われたりしてしまうからである、と述べている。さらに、自分が臆病にも争点を避け、全体の真実ではなく半分の真実だけを語ってきたことを恥じていると述べている。
彼の新著は、彼がリタイアしてから、少々勇気を手に入れたことを明らかにしている。もう失うキャリアはないからである。勇気を手に入れたもう一つの理由は、最近発表されたフリツォフ・マイヤーの論文であろう。マーザーは、マイヤーの反ファシズム的な背景の後ろに隠れることができるからである。いずれにしても、マーザーがもっと多くの勇気を手に入れることを希望するものである。
[1] この件については、Michael
Gärtner, “Deutsche Geschichtsschreibung”, Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung 3(4)
(1999), pp.455-458.
[2] C. Mattogno, Jürgen
Graf , Treblinka, Theses & Dissertations Press, Chicago, 2004.を参照。(本サイトに試訳あり:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/treblinka/mattogno_graf_02.htm)
[3] C. Mattogno, Belzec,
Theses & Dissertations Press, Chicago, 2004.を参照。
[4] C. Mattogno, Jürgen
Graf , Concentration camp Majdanek, Theses & Dissertations Press,
Chicago, 2004.を参照。(本サイトに試訳あり:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/majdanek/00index.htm)
[5] Roland Bohlinger
, Johannes P. Ney, Gutachten zur Frage der Echtheit
des sogenannten Wannsee-Protokolls und der dazugehörenden Schriftstücke Die Stellungnahme der
Leitung der Gedenkstätte Haus der Wannsee-Konferenz zu dem von Bohlinger und
Ney verfaßten Gutachten
[6] H. Wahls, Zur
Authentizität des “Wannsee-Protokolls”, Veröffentlichungen der
Zeitgeschicht Forshungsstelle Ingolstadt, Band 10, Ingolstadt 1987.
[7] ヘットルの自伝に関する私の書評 “Wilhelm Höttle-ein zeitgeschichtlich dilettanticher Zeiteuge”, Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung 1(2)
(1997), pp.116f.を参照。
[8] 民族社会主義犯罪に対する裁判についてのドイツの著名な「ナチ・ハンター」アダルベルト・リュッケルルのNS-Verbrechen vor Gericht, C.F. Müller
Heidelberg, 2nd ed., 1984, pp. 242f., 262f.
[9] H. Arendt, Eichman
in
[10] Franz J. Scheidl, Geschichte
der Verfemung Deutschlands, Selbstverlag,
[11] Rudolf Servatius, Verteidigung
Adolf Eichman, Harrach, Bad Kreuznach 1961, p. 64
[12] Abraham Melzer, “Ivan der Schreckliche
oder John Demjamjuk, Justizirrtum? Justizskandal!”,
SemitTimes, special edition March 1992.同誌は、この論争を呼ぶ号を発行したのちに、休刊に追いこまれた。
[13] 弁護士ユルゲン・リーガーは、2002年に大衆を教唆した咎で有罪を宣告された。彼は、「否定派」に対する1996年の裁判の中で、アウシュヴィッツに関する被告の発言が正しいことを証明するために、私を専門家証人として召喚することを要請したからである。
[14] Heiner
Lichtenstein, Im Namen des Volks?, Bund,
[15] Hellmut Diwalt, Geschichte
der Deutschen, 1st ed., Propyläen, Frankfult-Berlin-Vienna,
1978, p. 165.
[16] In: Rolf-Josef
Eibicht (ed), Hellmut Diwalt, Sein Vermächtnis für Deutschland. Sein Mut zur
Geschichte, Hohenrain-Verlag, Tübingen 1994, pp. 110-147.
[17] 1944年12月22日の『ソ連戦争ニュース』に関しては、Joachim Hoffmann, Stalin’s War of Extermination 1941-1945, Theses
& Dissertations Press, Capshaw, AL, 2001, pp. 402-405を参照。
[18] 最初のドイツ語版は:Ernst
Gauss, Vorlesungen über Zeitgeschichte, Grabert, Tübingen 1993, p. 26.
[19] フォーリソンによるこのテーマのまとめRobert Faurisson, “How many deaths at Auschwitz?”, TR, 1(1)
(2003), pp. 17-32(本サイトに試訳あり:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/faurison_02.htm)を参照。
[20] 弁護人は、私ルドルフを、裁判事件の専門家証人として適切に召喚しており、私は、専門家報告を提出している、にもかかわらず、マーザーは、中傷するためであろうか、ロイヒターや私のことを引用するにあたって、「専門家」という単語を括弧でくくっている。また、われわれの研究書に言及するにあたっても、学術的という単語を括弧でくくっている。
[21] 1st ed,:
von Bebenburg, Pähl 1970, 3rd ed,: Verlag Hohe Warte, Pähl 1973.
[22] マーザーはやはり典拠資料をあげずに、脚注の中で、「ゲルマール・ルドルフは、1000部ほどの『専門家報告』を配布し、マックス・プランク研究所のレターヘッドのついた便箋の上に、『マックス・プランク研究所の科学者』であると記したことで、解雇された」と記しているが、これは誤りである。事実はこうである。私の雇用契約は双方の合意の下に破棄された。私の許可を得ずに1500部ほどの専門家報告を配布したのは、私に専門家報告の執筆を依頼した被告オットー・レーマーと彼の支持者であった。さらに、私は、「マックス・プランク研究所の科学者」であると証したことも、そのことを同研究所の便箋のレターヘッドの上に記したこともない。レーマーの弁護士シャーラー博士が、私が研究所の科学者であると主張したのである。彼は、民衆教唆の咎(「ホロコースト否定」)で裁かれているレーマー裁判――私は弁護側の専門家証人として出廷した――の最終弁論の中で、私に意思に反して、そのようなことを行なった。シャーラー博士の発言は、レーマーが配布した私の専門家報告の付録にある裁判記録に引用された。私が私的な書簡の中で、当時の雇用者であった研究所のレターヘッドのあった便箋を使ったこと、ならびに、シャーラー博士が裁判で雇用者である研究所の名前をあげたことは、私の雇用契約が停止される十分な理由となった。ただし、それは、二つの事件が専門家証人としての私の活動と私の雇用者とがつながりを持っているとの印象を作り出したためだけであった。マスメディアとユダヤ人ロビーは私の雇用者に圧力をかけていたが、そのために、いずれにしても3ヵ月後には終わるはずであった雇用契約が、双方の合意の下で、前もって破棄されたのである。
[23] マーザーは、マイヤーがアウシュヴィッツ・ビルケナウの「ブンカー」での大量ガス処刑を証明したとする原稿に触れている。p. 336,fn 82. この問題については、Carlo Mattogno, The
Bunkers of Auschwitz. Reality and Propaganda, Theses & Dissertations
Press,
[24] マイヤー論文に対する批判は数多く発表されているが、マーザーは一つたりとも触れていない。Carlo Mattogno,
[25] Hans Jürgen Nowak,” Kurzwellen-Entlausungsanlagen in
Auschwitz”, Vierteljahreshefte für freie
Geschichtsforschung, 2(2) (1998), S. 87-106; Hans Lamker, Die
Kurzwellen-Entlausungsanlagen in Auschwitz, Teil 2, Vierteljahreshefte
für freie Geschichtsforschung, 2(4) (1998), S. 261-273.
[26] C. Mattogno, Special
Treatment in Auschwitz, Theses & Dissertations Press,
[27] マーザーの本の脚注125には、プレサックの著作『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』、181頁が上げられている。
[28] Filip Müller, Sonderbehandlung.
Drei Jahre in den Krematorien und Gaskammern von Auschwitz, Verlag
Steinhausen, Munich 1979: マットーニョは、ミューラーの本がミクロス・ニーシュリの本の剽窃であることを明らかにしている。Auschwitz:
un caso di plagio, Edizioni La Sfinge,
[29] Filip Müller, op.
cit. (note 27), pp. 207f.
[30] Ibid., p, 217.
[31] Appendix 18, vol.
XI, Höss Trial, acc. To J.-C. Pressac, op. cit., p. 489
[32] Ernst Gauss, op.
cit., (note 18), pp. 283f.
[33] 専門的な文献としては、ドイツの左翼史家フリツォフ・マイヤーが『東欧』誌での論文の中で「価値のある」と評している、C. Mattogno , F. Deana, The Crematoria Ovens of
[34] Carlo Mattogno, Flames and Smoke from the
Chimneys of Crematoria, TR 2(1) (2004), pp.73-78.
[35] アウシュヴィッツの焼却炉の詳しい断面図は、プレサックの『技術と作動』にある。
[36] Robert Faurisson, “How the
British Obtained the Confessions of Rudolf Hoess”, The Journal of Historical Review,
Vol. 7, Number 4 (Winter 1986-87), pp. 389ff.; cf. D.
[37] R. Höss, in:
Broszat (ed) , Kommandant in Auschwitz, Deutsche Verlags-Anstalt,
[38] これについては、Carlo
Mattogno, The Bunkers of Auschwitz., Theses & Dissertations Press,
Chicago, 2004, pp.133-136.
[39] Carlo Mattogno, Auschwitz:
The First Gassing, Theses & Dissertations Press, Chicago, in
preparation.
[40] Reinhold
Schwertfeger, “Gab es Gaskammern im Altreich?”, Vierteljahreshefte
für freie Geschichtsforschung, 5(4) (2001), S. 446-449に関して。
[41] ニュルンベルク裁判は1946年10月1日に終わっている。
[42] Leuchter,
Fred A. Jr.; Faurisson, Robert. "The second Leuchter report.", The
Journal of Historical Review, Fall, 1990; vol. 10 no. 3: p. 261.(本サイトに試訳あり:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/leuchter_02.htm)参照。
[43] もっとも、われわれが共通の友人を持っていることをマーザーは知らない。