試訳:パルチザン戦争と報復殺人
G. ルドルフ、S. シュレーダー
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年5月11日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Germar Rudolf and Sibylle Schröder, Partisan War and Reprisal
Killings, The Revisionist, 2003, No.3を試訳したものである(ただし、写真、図表は省略した)。 |
ダニエル・ゴールドハーゲンの『ヒトラーの意図的な処刑人』が出版され、反ドイツ国防軍展覧会がドイツで関心を引いたために[1]、「ホロコースト」についての論点が変ってきた。最近では、「殺人ガス室」でのいわゆるハイテク殺人ではなく、東部戦線の後方地帯での実際の大量殺戮、もしくはそのように呼ばれている事件――いわゆる特別行動部隊が犯した事件だけではなく、この当時のソ連で生活していたユダヤ人に対する犯罪行為――に対して、関心が向けられるようになっている。このテーマに関する歴史的修正主義者の見解は、ホロコースト正史とほとんど変らないものから、このような大量殺戮を否定するものまで、多岐にわたっている。本小論は、誇張された大量殺戮説を修正しようとする修正主義的観点から、問題を考察し、この問題を、非合法パルチザンに対する戦時報復――報復的措置――の文脈の中で検証しようとするものである。本小論が活発な議論の口火を切り、この分野についての詳細な研究の糸口となることを希望している。
ドイツ人に対する連合国の報復
西側連合国は戦時中と戦後に、ドイツ人を報復で威嚇し、実際にそれを実行したが、ドイツの新聞はこのことにほとんど触れていない。しかし、例えば、『シュトゥットガルト新聞』は、フランスが、実際の結果はどうであれ、フランス軍兵士に発砲が行なわれた場合には1対25の比率で報復処刑を実行すると威嚇していたことを報道している[2]。1992年4月4日、『パデルボルン新聞』は、アメリカ軍が、正規の戦闘で発砲されたモーリス・ローズ将軍の死亡にたいして、厳しい報復措置をとったことを伝えている。この事件に無関係のドイツ人110名が殺されたというのである[3]。おそらく、厳しい報復措置や非合法の復讐行為がドイツ国民に対して行なわれた事例は非常に多かったであろう。戦勝国によるこのような行為は訴追の対象とはならなかったので、1945−1947年に生じた状況、とくに西ドイツで生じた状況については、今日でもほとんど知られていない。ドイツ側は、今日でも効力を持つ法律ゆえに訴追することを禁止されていたし、戦勝国側は、当然のことながら、こうした訴追には関心を抱いていなかった[4]。東ドイツと中央ドイツでも恐ろしい報復措置がとられたが、それはかなり文書資料として記録されている。共産主義に反対する西側諸国の利益にかなっていたからである。
東部戦線におけるパルチザン戦争1941−1944年
ゲッチンゲン大学教授カール・ジーゲルト法学博士は、第二次世界大戦の終戦直後に法律家としての専門家報告を執筆し、その中で、報復殺人はある程度普通のやり方であり、国際法に反していないことを明らかにした[5]。したがって、報復と人質の射殺は、戦術的には疑問の余地があり、そして道徳的にも非難の余地があるが、厳密にいえば、当時の法律に反していなかった。この点を、ロシアとセルビアで活動したドイツ軍の行為を考えるにあたってはつねに考慮しておかなくてはならない。この広大な地域では、東部戦線への物資の供給がしばしば妨害されていたが、それを防ぐためにも、脆弱な占領軍は残酷なパルチザンと戦わねばならなかったからである。パルチザンの攻撃は、東部戦線が開かれた直後から始まった。あるパルチザン部隊は、意図的に地域を明け渡し、その後で、前進したドイツ軍の後方で妨害工作を行ない、捕まえた兵士や市民に対して虐殺行為を行なった。のちには、正規の師団に匹敵するほどのパルチザン部隊が、ドイツ軍の後方地帯に流れ込むか、前線を横切ってもぐりこんでいった[6]。
当然のことながら、パルチザンの数や戦果についての研究書のデータはまちまちである。この種の非合法の戦闘行為に関する信頼できる資料は少なく、さらに、ソ連側は宣伝目的で、パルチザン戦争の歴史を描いてきたからである。ベルント・ボンヴェチュ[7]のデータがもっとも信頼できる。それによると、パルチザンの数は1941年末:90000名、1942年初頭:80000名、1942年中頃:150000名、1943年春:280000名、1944年までに、ほぼ500000名までに急上昇。この数字は、ソ連側資料とドイツ側資料にもとづいている。パルチザンが与えた損害、とくにベラルーシ地方での損害を算出することはかなり難しい。ヴェレンチクによると、パルチザンの手に入った武器弾薬はきわめて大量であり、とくに、1944年には、鉄道の破壊によって、ドイツ軍の補給線が大きな損害を受けた[8]。ヴェルナーもこのことをおおむね認めている[9]。
パルチザンが殺害したドイツ軍兵士と民間人の数は、ボンヴェチュによると、150万名とするソ連側資料から、35000−45000名とするドイツ側資料にまでまたがっているが、ボンヴェチュは、後者の数字を信頼できるものとみなしている。ドイツ側には数字を低くする理由がないというのである[10]。しかし、ボンヴェチュは、戦争では味方の損失を少なく見積もるものであるという点を見過ごしている。ザイドラーは、パルチザン戦争でのドイツ国防軍の戦いについて、バランスのとれた著作を最近刊行しているが[11]、ドイツ軍部隊とくにその補給に対するパルチザンの攻撃が甚大かつ決定的な効果をもたらしたことを明らかにしただけではなく、それに対するドイツ軍の措置が、かならずしも賢明であったわけではないけれども、国際法にもとづいていたことを立証している。さらに、上層部からの国際法を侵犯するような命令(例えば、悪名高い「人民委員命令」、これは道徳的には適切であるかもしれないが、政治的には馬鹿げており、法的には認められない)は、前線部隊からはサボタージュされたこと、これらの命令は、長期にわたって広範囲な抗議を受けた結果、事実上撤回されたことを明らかにしている。
ボリス・セミョーノヴィチ・テルプチョフスキイは、ドイツの高名な歴史家アンドレアス・ヒルグルーバーとハンス=アドルフ・ヤコブゼンが批判的な書評をくわえた著作の中で次のように述べている。
「ベラルーシのパルチザンは、戦争の3年間で、約50000名のドイツ軍兵士と将校を殺害し、17000の軍事輸送部隊と32の装甲列車を爆破し、300000の鉄道線路、16804の車両、その他大量の補給物資を破壊した。」[12]
ドイツ側が後方地帯での秩序の維持のために動員した人員(とそれに伴う費用)についてのデータもまちまちである。ソ連側資料によると、300000−600000名が必要であったというが、ドイツ側資料によると約190000名が必要であったという10 。
パルチザンの活動を賞賛するために、これらのデータがどの程度水増しされているかはわからないが、赤軍が1941−42年に後退していったときに採用した「焦土戦術」[13]とパルチザンの妨害・殺害工作が、東部戦線でのドイツ軍の敗因の一つであったことには疑いがない。赤軍とパルチザンは、開戦当初から、上層部の命令を受けて、きわめて残忍な戦闘方法を採用した。これについては、ヨアヒム・ホフマンが活写しており[14]、また、最近では、エピファノフ[15]とザイドラー[16]が言及している。A.M. de Zayasは、ドイツ国防軍戦争犯罪局についての研究の中で、ドイツ政府が赤軍によるだけではない虐殺行為についての文書資料を収集していたことを明らかにしている[17]。彼はまた、ドイツの戦時中の指導者たちが報復を標準的な手段とはみなしていなかったにもかかわらず、とくにロシア戦線では、前線でソ連軍との戦闘経験をつんだ下級部隊が、その経験にもとづいて行動し、上部組織から命令されていない、もしくは承認を受けていない報復(復讐)を実施してしまったことを明らかにしている[18]。最後に、1943年7月以降、ドイツ軍とSSはパルチザンを正規軍の戦闘員として扱うことに同意したことも指摘しておかなくてはならない。すなわち、国際法と一般的なやり方にしたがえば、パルチザンを捕まえたときには、処刑しても許されたのであるが、そのようにするのではなく、正規の戦争捕虜として扱うようにしたのである[19]。これは、私の知るかぎりでは、世界史上前例のない、寛容で人道的な措置である。
周知のように、東部戦線に配置されたドイツ国防軍は第三帝国の生存のために戦っていただけではなく、帝国主義的な幻想をすべて放棄したのちにも、スターリン主義から全ヨーロッパの自由を護るために戦っていた[20]。それゆえ、ジーゲルト教授の研究成果に照らし合わせてみると、非合法のソ連パルチザンに対するドイツ治安部隊の戦闘には、たとえ、この戦闘に残忍な報復措置が伴っていたとしても、非合法なことはまったくなく、非道徳的なこともほとんどないとみなさなくてはならない。パルチザンが殺害したドイツおよびその同盟国兵士の数についてのソ連側公式情報が正確であるとすると、数百万の人々に対する報復殺人(1:10の比率)は理論的には正当化されるであろう。しかし、ドイツ側のあげている数字(40000名ほどの犠牲者)にもとづくと、理論的には、この数字に対して400000名ほどの報復殺人が行なわれたことになる。もちろん、この数字は恐るべきものであり、今日では報復殺人が禁止されていることに感謝すると同時に、この法律が遵守されることを希望する。だが、われわれが問題としなくてはならないのは、この当時、このような殺人が実際に行なわれたか否かである。
パルチザンと戦う特別行動部隊
さまざまな組織の中で、とくにパルチザンとの戦いに責任を負っていたのは国家保安本部特別行動部隊であった[21]。特別行動部隊は1941年夏に4000名ほどからスタートしたが、1942年末には、15000名のドイツ人と240000名の地元住民が関与するまでになっており[22]、そのことは、この当時、パルチザン戦争が熾烈になってきたことを示している。だが、特別行動部隊はパルチザン活動の鎮圧にあまり成功しなかった。この点を考えると、もともと少数集団から出発したこの部隊に、広大な地域(数10万u)の治安の維持をゆだねることには無理があり、彼らの目が行き届かない遠方地域では、パルチザンの影響力が強まっていったことを指摘しておかなくてはならない[23]。だから、H. Höhneの次のような記述はいささか馬鹿げている[24]。
「ハイドリヒの死の部隊は、その残酷な冒険を始めた。3000名がロシアの500万人のユダヤ人を追い求めていた。」
ヘーネは、この部隊が同時に100000名ほどのパルチザンとも戦っていたことに触れていない。特別行動部隊は、パルチザンとの絶望的な戦闘以外に、ドイツ国防軍兵士と協力して、最終解決計画の実行にあたり、数百万のユダヤ人を殺戮したという告発がなされている。しかし、ライトリンガーも指摘しているように、これはまったく信じられない[25]。
特別行動部隊が東部戦線の後方地帯で射殺したユダヤ人の数についての文書資料として、いわゆる「事件報告(Ereignisberichte)」がよく引用されている。特別行動部隊がこれを作成して、ベルリンに送り、それが戦後に発見されたことになっている。しかし、特別行動部隊についての専門家Hans-Heinrich Wilhelmは、すでに1988年に、事件報告が正確であるかどうか確信がもてないと述べている[26]。彼は、この事件報告にある殺されたユダヤ人の数が信用できないものであるとみなしていたので、同僚に次のように警告している[27]。
「人口学的な調査が行なわれていない地域での[これらの報告には]、信憑性が欠けており、この地域についての別の資料と比較することによってのみ、信憑性を検証することができる。だから、SSの資料を利用するにあたっては、その信憑性に疑問を抱きながら、歴史研究を進めることが重要であろう。」
彼は、最初の本の中で、これらの資料の信憑性について同じような疑問を呈しているので、この指摘は偶然のものではない。彼は最初の本の中で次のように憶測している[28]。
「ここでは、少なくとも数万の殺されたユダヤ人の数が、事件報告を『改善』するために、付け加えられた。そうとでもしなければ、殺されたパルチザンの数ははるかに少ないから、この数字を正しいものとみなすことはできないであろう。」
彼は別の箇所で、特別行動部隊事件報告の一つが、1134という数字に0を付け加えて合計11034という数字に改竄されたことを指摘している[29]。ここで問題としている改竄者は、犠牲者の数をできるだけ多くすることに関心を抱いていたにちがいない。特別行動部隊が改竄者であるとすると、彼らは、できるだけ多くのユダヤ人が殺されることを希望している人物がベルリンにいたと考えていたことになる。しかし、別の人物が改竄者であったとすると、どういうことになるのであろうか。
バビー・ヤール事件での事件報告問題
バビー・ヤールは、ウクライナの町キエフの近くにある浸食渓谷の名である。ドイツ軍が1941年9月にキエフを占領したのち、33771名のユダヤ人(成人男女と子供)がこのバビー・ヤールで9月29日と30日に射殺されたという。この情報資料は、特別行動部隊の「行動状況報告(Ereignismeldungen
and
Tatigkeits-und Lagebericht)」、および目撃証言である。とくに重要であるのは、1941年9月1−31日をカバーする事件報告第6号である[30]。それは次のように述べている。
「ユダヤ人に対するウクライナ住民の態度はきわめて険悪である。ユダヤ人はキエフでの爆破事件に関係していたと非難されているからである。また、ユダヤ人は、ウクライナ人に対するテロルに責任を負う内務人民委員部の情報提供者、スパイとみなされている。ユダヤ人全員が、キエフに放火したことに対する報復として逮捕され、9月29日と30日に、合計33771名のユダヤ人が処刑された。金、貴重品、衣服は保管され、地元のドイツ人市民のためのNSV[31]に、また一部は、困窮した住民を支援する臨時市当局に提供されている。」
1. キエフでの爆破事件
ここで、上記の「行動状況報告」に登場している爆破の件について、研究書にもとづいて、少々説明しておかなくてはならない。ヴィルヘルムはこの事件について、次のように述べている。
「[キエフ]占領後の1週間のあいだに、いくつかの爆破事件が起こり、かなりの人的・物的損害を生み出した。この事件は、『対抗報復措置』を実行する口実としてすぐに利用された。…」[32]
ライトリンガーは次のように説明している。
「[1941年9月]24日、第6軍司令部のあったコンチネンタル・ホテルで、大きな爆破事件が起こった。火はまたたくまに広がり、21日に到着していたブローベルは執務室を疎開させなくてはならず、25000名が家を失い、数百名のドイツ軍兵士が、その多くが消火作業のときに死亡した。」[33]
アルフレド・ヨードル将軍は、この件について、ニュルンベルク裁判で次のようにコメントしている(1946年6月4日)[34]。
「その直前に、ロシア軍はキエフを放棄した。われわれが町を占領しようとすると、次々と爆発が起こった。市中の大半が焼け落ちた。50000名が家を失った。この火事のときにも大きな爆破事件が続いたので、われわれは大きな被害を被った。キエフの地元司令官は、爆破地図を手に入れるまで、この事件が地元住民の妨害活動によるものであると考えていた。しかし、この地図には、キエフの50−60の爆破対象が書き込まれており、この計画はかなり前から計画されていたものであった。先遣部隊の調査もこのことをすぐに確証した。少なくとも40の爆破対象があり、無線による遠隔操作で大半の爆破が呼び起こされた。」
2. 報復措置
したがって、この爆破事件によって、キエフ市中が焼け落ち、地元住民が損害を被っただけではなく、ドイツ軍も数百の兵士とその指導部すべてを失ったことになる。地元の軍司令官とウクライナ人住民は、最初、これが妨害工作によるものであるとみなしていた。こうしたパルチザン攻撃に対する報復銃殺は、戦時中には、普通のことであり、正当化される対抗措置であったにちがいない。だから、これらの攻撃は、Krausnickのいうような「口実」として利用されなかった。
1941年9月28日の事件報告97号によると、「20名のユダヤ人の公開処刑」が計画された[35]。しかし、この処刑が実行されるはずの時期の事件報告98号(9月29日)、99号(9月30日)、100号(10月1日)には、この処刑についてはまったく触れられていない。10月2日の事件報告101号と10月7日の106号だけが、33771名のユダヤ人の処刑について報告しているだけである。Krausnick/Wilhelmの記述は明瞭ではない[36]。彼らは、少なくとも約34000名の殺戮の証拠として考えるべきこれらの事件報告から引用しておらず、1972年のAlfred Streimの論文[37]からの引用ですませてしまっている。これらの事件報告が実在していたとすれば、なぜそのオリジナル・テキストを使わなかったのであろうか。Krausnickは『同上』という脚注をつけており[38]、それは、事件報告101号と106号をさしているのかもしれないが、それだけでは、33771名の殺戮の証拠としては不十分である。
事件報告101号や106号に33741名の銃殺が報告されているのかどうかという問題について、研究書の見解は一致していない。これらの研究者たちは典拠資料を実際にはチェックしておらず、ある研究書からのコピーを繰り返しているにすぎない。ヒルバーグは事件報告101号をあげており[39]、Klee/Dresen/Riesも同様である[40]。ライトリンガーは、Krausnickが参照しているStreimと同じように[41]、事件報告106号をあげている[42]。ところで、Streimはあとの著作では事件報告を引用することをまったく避けているが、行動状況報告第6号が唯一の典拠資料であると述べている[43]。Krausnickも1941年10月の行動状況報告第6号に触れている。
事件報告はとくに逮捕と射殺のリストをあげているものであるが、その事件報告が33771名の処刑については報告していない。これは信じがたいことであるが、実際にそうなのであろう。
3. 事件報告の資料的価値と真実
Krausnick/Wilhelmの著作は、特別行動部隊の活動に関するはじめての、そして入念な研究である。この研究の主要資料は「ソ連邦事件報告(Ereignismeldungen UdSSR)」である[44]。これらの事件報告は、次のような題名を持つ一連の文書の一部にすぎない。
@
1941年6月23日から1942年4月24日のあいだの「保安警察長官とSDのソ連邦事件報告(Ereignismeldungen UdSSR des Chefs der
Sicherheitspolizeiund des SD)」。合計195の文書のうち194が現存している。
A
1942年5月1日から1943年5月21日のあいだの「保安警察長官とSD司令部の東部占領地区報告(Meldungen aus den besetzten Ostgebieten vom Chef der Sicherheitspolizei
und des SD-Kommandostab)」。55報告がある。
B
「ソ連邦における保安警察SD特別行動部隊行動状況報告(Tatigkeits- und Lageberichte der Einsatzgruppen der
Sicherheitspolizei und des SD in der UdSSR)」。[45]
ハンス=ハインリヒ・ヴィルヘルムは、「歴史資料としてのソ連邦事件報告」について、次のように述べている[46]。
「これらの報告は、軍事的な通信手段を使って、毎日三回とはいわないが、毎日、通常数日後には受け取られた。しかし、この報告を作成する訓練を受けた人物がどこにでもいるわけではなかった。無線やテレックスを使った伝達のために、第三者、大半は戦闘部隊を使わなくてはならなかったが、部隊はその配置場所を頻繁に変えてしまうために、戦闘部隊を利用することには難題が付きまとった。さらに、『報告作成手順』の質も悪く、ハイドリヒがたびたび激怒したにもかかわらず、事態は改善されなかった。単純な規則さえも守られなかった。例えば、軍事報告としては考えられないことであるが、事件がいつどこで起こったのかについての正確な情報が記載されていないことも頻繁であった。また、『事件報告』の編集者は、情報伝達文の問題の箇所をつねにチェックできる立場にあるのであるが、情報伝達文の見出しのデータをテキスト文本体の中にいれることを忘れてしまったり、データがテレックスを介してタイピストに口述筆記されたときに、タイプされた報告がチェックされずに、誤解を招いてしまうようなこともたびたびであった。特別行動部隊とコマンドの行動スピードはさまざまであったので、情報伝達文が交錯したり、長すぎて優先順位が低かったために、長期にわたって放置されたことも多かった。同じ事件が1、2回だけではなく、数回も伝達され、事件を裏づけるような情報伝達文が数日、数週間後に発送されたために、RSHA[47]にいた編集者が事件の日付や前後関係を混同したとしても驚くにはあたらなかった。このために、これらの報告書が不完全であることがまもなく明らかとなった。ある特別行動部隊は2週間ごとにユダヤ人の殺害について報告していたが、この報告にもとづく暫定的な数字と、実行結果についての個別的な報告を比較すれば、これらの報告書が完全でないことがすぐにわかる。」
キエフ(バビー・ヤール)での33771名のユダヤ人の銃殺に言及している事件報告はまったく存在せず、「行動状況報告」第6号だけがそれに触れているのであるが、ヴィルヘルムの引用文の最後のセンテンスは、こうした事態を説明しようとしているのかもしれない。
Alfred Streimは1984年5月3−5日にシュトゥットガルトで開かれた大会で、「第二次世界大戦中のヨーロッパ・ユダヤ人の殺害」について発言しているが、この発言も、バビー・ヤールでの銃殺についての事件報告が存在しないことを確証している。彼は、バビー・ヤール渓谷での殺戮について報告するにあたって、事件報告ではなく、「処刑の要約報告」すなわち「行動状況報告」に言及しているからである。
事件報告は、無線かテレックスでベルリンの国家保安本部に送られた。現存しているかたちでの報告最終原稿に責任を負っていた役人は、Gunther Knobloch博士(1910年生)であった。彼は、1959年にルードヴィヒスブルク中央局から尋問を受けたとき、事件報告と行動状況報告の作成について次のように述べている[48]。
「私は、殺到する大量の情報伝達文の中から、興味深い箇所に赤い印をつけました。秘書は、これらの伝達文をどのようにまとめあげたらよいのかよく知っていました。…注目すべきは、この当時、これらの情報伝達文が大量であったことです。…このために、伝達文を受け取ったときには、その中から取捨選択して、数日分を2、3の伝達文ですませたこともありました。個々のコマンドやグループからの伝達文は、コマンド・グループファイルにまとめられましたが、間違いをなくすことはできませんでした。…中身の改変は実際にはまったくありませんでした。…しかし、SS集団長ミューラーがたびたび、中身に手書きで変更を加えたこともあったことを付け加えておかなくてはなりません。…伝達分の情報では、事件や数が誇張されていることもあったとの印象を持ちました。・・・
1942年のある時期、毎日の事件報告を2週間ごとの報告書に要約しなくてはなりませんでしたが、のちには、1ヵ月後との報告書に変りました。私がその要約を作成しました。…これらの報告書はもっぱら、毎日の事件報告にもとづいていました。」
Knoblochは「1942年のある時期」と述べているが、それは誤植か、彼の記憶違いであろう。これらの行動状況報告は、独ソ戦の開始当初、すなわち1941年6月から作成されているからである。しかし、これらの要約が何を意味しているのかはっきりしていない。ヴィルヘルムが行動状況報告と事件報告を比較したときに気がついたように、行動状況報告の中で繰り返されていることは、なぜ、繰り返しではなく、新しい報告書のかたちをとっているのだろうか。
ヴィルヘルムとKnoblochが述べていることから、次のようなことがわかる。すなわち、能力のない人物が作成した前線からの報告――同じ事件について、二回報告されたり、ひいては三回も報告されることもある――は、しばしばかなり遅れて、ベルリンの国家保安本部にラジオかテレックスで送られた。Knoblochがそれを受けとり、重要部分に赤い印が付けられて、それを秘書が筆記し、チェックされずに無修正のまま、最終的な事件報告として発送された。数週間後に、これらの事件報告から要約が作成されるが、理由のはっきりしない根拠にもとづいて、新しいデータが付け加えられたり、別のデータが削除されたりした。これらの要約が「行動状況報告」として送り出された。
Krausnick とWilhelmは、あいまいな素性をもつこれらの報告を「本物の」資料とみなしている。彼らによると、次のような諸点がこの信憑性を確証しているという[49]。
@
これらの報告を捕獲したのはアメリカ軍である。
A
これらの報告は、ニュルンベルクその他の関連裁判で引用されている。
B
その信憑性に重大な疑問を呈した弁護士は誰もいない。
C
国家保安部の中でその作成を担当した作成者と多くの報告受取人が、これらの報告を確認している。
Cについていえば、Knoblochは、ルードヴィヒスブルクでこの報告の写真コピーを見せられたときに、次のように証言している[50]。
「私に見せられた報告の写真コピーは、その書式についていえば、当時発行されていた事件報告とみなすことができます。」
Knoblochは「書式についていえば」と言っているだけで、その内容については何も語っていないのである。すなわち、その内容が本物であるとは語っていないのである。
Krausnick とWilhelmがあげた諸点は、提出された資料の信憑性をまったく確証していないにもかかわらず、依然として本物であるとされている。しかし、重要なことは、WilhelmとKnoblochの記述からも明らかなように、本物とみなされている資料の中で報告されている事件が、現実とは一致していないことである。
4. 33771名のユダヤ人が殺されたのか?
何名のユダヤ人がこの二日間にバビー・ヤールで殺されたのかという問題は、研究書の論点となっている。ヒルバーグは、「キエフでの行動の成果を見積もることは難しい」と述べている[51]。1941年9月9日の事件報告97号によると、50000名のユダヤ人の射殺が予定されていたが、33771名が報告されている。しかし、処刑を担当した特別行動部隊4aの司令官パウル・ブローベルは、せいぜい16000名が射殺されたとニュルンベルク裁判で述べている[52]。事件報告97号は、市の司令官が20名のユダヤ人の公開処刑を勧告したとも伝えている35。ニュルンベルク裁判に提出されたソ連側資料USSR-9は、10万以上の成人男女、子供、老人がバビー・ヤールで射殺されたとさえ述べている[53]。しかし、この数はそれ以外のところでは引用されていなかった。
一般的に受け入れられている数字は33771名であるようである。Krausnickは、この数が、事件報告――どの事件報告か特定していない――と行動状況報告第6号に中で、「数回報告されている」と主張している[54]。しかし、この数は数回報告されたのではなく、一度だけ報告されて、それを写した文書の中で繰り返されたのであろう。
ライトリンガーも事件報告と行動報告を引用しているが、二つの名前を混同している。「行動報告」に触れていながら、実際には事件報告のこともあり、その逆のこともある。彼は、「行動報告106号と事件報告6号には同じ数字33771名と記載されている」ので、33771名という数字は信用できるとも主張している[55]。ここでは、報告の写しが報告自身を確証するかたちになっている。ライトリンガーは、自著の中で一度だけ「事件報告106号」に触れているが、実際にそれを自分の目で見たのかどうかも疑わしい。もし見ていたとすれば、その資料を正確に引用したはずだからである。
ヴォルフガング・ベンツも、「虐殺の実行犯、目撃者、生存者の証言が殺された人々の数(33771名)を確証している」と述べている[56]。Herbert Tiedemannは、バビー・ヤールについての「目撃者」とその他の報告者の話がまったく、混乱した、恣意的なものであることを明らかにし、これらの証言を証拠として認めるべきではないと論じている[57]。
しかし、このような数字が、どのようにして間違って報告に紛れ込んでしまったのか。同じ事件を何回も報告したり、タイプしたときにそのようなことが起こってしまったのか。この数字はかなり水増しされていると思われるが、どうしてそのようになってしまったのかを再現することは困難であろう。
しかし、特別行動部隊報告には、そのような数字上のマジックが行なわれた事例が、少なくとも一つ存在する。これは、Wilhelmが発見したものである。1941年11月11日の、ラトヴィア治安警察司令官ドゥナブルク前哨基地報告には、1134名のユダヤ人が殺されたとある。1942年2月の要約報告には、同じ数字が、タイプ・ミスによってか、11034名に水増しされている[58]。一つのゼロが付け加えられて、1000が10000となったのである。しかし、Wilhelmは、11034という数字が特別行動部隊Aの新しい報告にも登場するので、この数字の方が正しいとみなしている[59]。
さしあたり、少なくとも、どちらが正確であるのかを決定するには、問題の資料を批判的にさらに検証しなくてはならないであろう[60]。しかし、これらの資料の素性と起源についての情報にもとづくと、事件報告と行動状況報告は、たとえそれが本物だとしても、学術的水準によれば、そこに登場する事件が実際に起こったことを立証しているわけではないといえる。実際に起こったことであると断定するには、その他の質の高い証拠を提出しなくてはならない。
5. 物的証拠と疑いのない資料からの逸脱
航空写真の発見のおかげで、この大量殺戮が少なくともこの場所では起こらなかったという疑問を抱くことができる[61]。ドイツは1939年から1943年にかけてバビー・ヤールの偵察写真を撮っているが、その写真は、この渓谷では顕著な地形上の変化が起こらなかったことを立証している。また、幸運なことに、ドイツの偵察機は、目撃証言によると、ユダヤ人の死体が大量埋葬地から掘り起こされて、巨大な薪の上で焼却されたとされる時期にこの地域を撮影しているが、この写真には大量埋葬地や薪の山などはまったく写っていない。
メディアの主流が報道していないもう一つのセンセーショナルな発見も、ゴールドハーゲンたちの説に壊滅的打撃を与えている。すなわち、1996年、ラトヴィアのマリヤムポル市は、特別行動部隊に殺されたとされる数万のユダヤ人の記念碑を建設しようとした。適切な場所に建設するために、大量埋葬地の場所の正確な場所が探された。目撃者が指摘した場所の発掘が行なわれたが、不思議なことに、大量埋葬地の痕跡を一つたりとも発見できなかった[62]。大量埋葬地があったと思われる地域の周辺でも発掘が行なわれたが、そこは、まったく人手の入っていない処女地であることがわかった[63]。はたして、ドイツ人は、大量殺戮の痕跡をすべて消し去り、その土地を元の状態に完全に戻すことによって完全犯罪に成功したのであろうか。彼らは邪悪な犯罪行為を実際に行なうことができたのであろうか。それとも、目撃証人が嘘をついているのだろうか[64]。
東ヨーロッパの反ユダヤ主義の諸原因
このことは、東部地区においてSS隊員、ドイツ国防軍、特別行動部隊によって射殺されたユダヤ人は一人もいないことを意味しているのであろうか。もちろん、そうではない。後方地帯での「対パルチザン戦闘」と関連した、とくに報復殺人というかたちでの多数の民間人の射殺が、ドイツ軍によって行なわれたことは否定できない[65]。さらに、きわめて残酷に戦われた東部戦線では、過度の報復措置がしばしばとられた、すなわち、国際法にしたがって、パルチザン、その支持者および犯罪者(そして、戦争捕虜も)が報復として殺されただけではなく、報告措置とはまったく関係のない無実の民間人も殺されたのであろう。
このような報告措置の犠牲者を選択するにあたっては、ウクライナ人、ベラルーシ人、バルカン諸民族、バルト諸族、カフカース諸族は選択されなかった。彼らの多くは、ドイツ側に味方して戦っていたからである。ユダヤ人がこうした諸族のあいだでとくに嫌われるようになったのには、近年の出来事が関連していた。すなわち、ここ数十年のあいだ、多くの人々が、共産党の人民委員から恐ろしい経験をしてきたが、人民委員の多くが、とくに、ソ連のボリシェヴィズム時代の最初の数準年間には、ユダヤ系であったからである。ロシア系ユダヤ人女性ソーニャ・マルゴリナは、ボリシェヴィキによるテロル支配に関与したロシア系ユダヤ人について、次のような興味深い指摘をしている[66]。
「革命と内戦の恐怖、その後の弾圧時代の恐怖は、ユダヤ人人民委員のイメージと密接に結びついていた。」(47頁)
「権力装置のなかにユダヤ人が存在しているという印象は圧倒的であったので、先入観を持っていない、ニューヨーク在住のロシア文化史家ボリス・パラモノフでさえも、ユダヤ人が指導部に昇進していったことが『大きな憤激』をかきたてたのではないかと質問した。」(48頁)
マルゴリナは、1924年に出版された『ロシアとユダヤ人』という著作について、詳しく分析している。この著作は、ロシア系ユダヤ人が、10月革命とそれに続く独裁制度が行なった過酷な措置に並外れて関与してしまった原因を検証し、その結果を分析していた。この著作の著者たちは、「全世界のユダヤ人へ」というアピールの中で次のように述べている。
「ユダヤ人ボリシェヴィキが、ロシアの従属と破壊に過度に関与したことは、その仕返しの種を内在している罪である。過度に関与してしまった民族とその子孫たちには、大いなる不幸がふりかかることであろう。それは、われわれの罪の要因としてわれわれにふりかかってくるだけではなく、われわれが自分たちの権力を行使してしまったこと、ユダヤ人の支配のために戦ってしまったことに対する非難としてふりかかってくるであろう。ソ連の権力はユダヤ人の権力に等しいものとみなされており、ボリシェヴィキに対する激しい憎悪は、ユダヤ人に対する憎悪へと変っていくからである。すべての国民と民族は、反ユダヤ主義の波に呑まれていくであろう。かつて、このような雷雲がユダヤ民族の頭上に集まったことはなかった。これは、われわれユダヤ民族にとってのロシアの大変動の総決算である。」(58頁)
マルゴリナは、この論文集からさらに引用している。
「ロシア人は、ユダヤ人が権力の座についていること、すなわち、県知事や警察官、ひいては郵便局員のポストを占めていることをかつて目撃したことがない。ロシアの歴史には良い時代も悪い時代もあったが、どちらの時代であっても、ロシア民族は生活し、働いてきた。そして、その労働の成果は彼らのものであった。ロシア人の名前は強力であり、権威のあるものであった。しかし、今日では、ユダヤ人は、権力機関の隅々にまで存在している。ロシア人は、ユダヤ人が、皇帝の町モスクワの頂点に存在すること、ネヴァ川にある首都の頂点にいること、最終的な自己破壊機関である赤軍の頂点にいることを知っている。今では、ロシア人は、裁判官および処刑人としてのユダヤ人と面と向かっている。ロシア人は、自分たちと同じように貧しい共産主義者としてのユダヤ人ではなく、命令を下し、ソ連権力の利害に配慮しているユダヤ人とどこでも遭遇している。…ロシア人は、過去と現在の状況をくらべてみて、ユダヤ人が権力を担っており、それゆえに、その権力は非常に野蛮なものとなっているとの結論を下しているが、それは驚くべきことではない。」(60頁)
1990年代初頭、エルンスト・ノルテ博士教授は、もちろん、ユダヤ人とボリシェヴィズムを同一のものとみなしてはいないけれども、ユダヤ人が共産主義と緊密にかかわっていたことを指摘している。彼は次のように述べている[67]。
「ロシア革命の関係者の中でユダヤ系の人々が占める割合が、ラトヴィア人などのその他の少数民族の割合とは異なって、非常に高いものであったことには社会的原因があるのであろうか。すでに、今世紀の初頭に、ユダヤ系の哲学者たちは、ユダヤ人が社会主義運動に広く関与していることを自慢しながら指摘している。反ボリシェヴィズム運動もしくは宣伝が、とくにユダヤ人人民委員の存在というテーマを強調していた1917年以降、このような自慢が公に表明されることはなくなった。…そして、アウシュヴィッツのために、このテーマに触れることは数十年間もタブーとなってしまった。
しかし、注目すべきことに、1988年、アメリカのユダヤ人右派の機関紙が、ジェリー・ミューラーの記事を掲載している。彼は、ユダヤ人が社会主義運動・共産主義運動に関与したことを、その解釈にはさまざまな異論の余地はあるけれども、争う余地のない事実であるとみなして、次のように述べている。
『ユダヤ人の存在は、ロシア、ドイツ、ハンガリーでの革命では際立っている。彼らは、どこにでも存在しているようである。…49の政府人民委員のうち、31名がユダヤ系であった。…ラコシは、もしも非ユダヤ人が自分のポストにつくことがあるとすれば、それは、土曜日に死刑判決に署名する人物が必要であったためであろう、という冗談をのちに述べている。…しかし、1917−19年の革命にユダヤ人が果たした役割が際立っていたために、(1914年までには衰えていた)反ユダヤ主義がふたたび台頭することになった。…ユダヤ人革命家の空想的な理想に関心を向けてきた歴史家たちは、ユダヤ系の共産主義者たちが、非ユダヤ系の共産主義者と同じように、その理想に導かれて、ユダヤ人と非ユダヤ人に対する憎むべき犯罪に関与してきたという事実から、目をそらしてきた。』」
ノルテは、収容所群島とアウシュヴィッツとの関連を指摘していたが、ミューラーは、そのノルテに言及しながら次のように結論している。
「トロツキイたちは革命を行なった[すなわち、収容所群島を作り出した]が、ブロンシュテイン[トロツキイのユダヤ系の本名]たちは、その代償を[ホロコーストで]支払った。」[68]
民族社会主義者と、自分たちの自由を求めて闘った東ヨーロッパの諸民族は、ユダヤ人一般をボリシェヴィキのテロル、人民委員の活動と同一視していた。この同一視は、徹底的であり、広範囲にまたがっていたけれども、正しくはない。しかし、以上のようなことを考えると、こうした同一視が登場し、広まっていった状況は理解できるものであろう。だからこそ、パルチザン戦争やその他のソ連による戦争犯罪の犠牲者とならなくてはならなかったのは、まず第一にユダヤ人であった。このことを非難するとすれば、東部戦線でのパルチザン戦争の責任者が誰であったのかを看過すべきではないであろう。その責任者とは、戦争が始まる前から、ヒトラーと同じように、自分の支配下にあるユダヤ人を過酷に扱ってきたスターリンなのである[69]。
[1] 最近、この展覧会は、少々修正されたかたちで、アメリカ合衆国でも行なわれた。Johannes Heer, Klaus
Naumann (ed.), Verbrechen der Wehrmacht 1941-1944, Hamburger Edition,
Hamburg 1995; Klaus Sojka (ed.), Die Wahrheit uber die Wehrmacht.
Reemtsmas Falschungen widerlegt, FZ-Verlag,
Pour le Merite, Selent 1998; Bogdan
Musial, “Bilder einer Ausstellung.Kritische
Anmerkungen zur Wanderausstellung ‘Vernichtungskrieg.Verbrechen der Wehrmacht
1941-1944’”,
Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte,47(4) (1999), pp.
563-591; Krisztian Ungvary, “Echte Bilder
-problematische Aussagen”, Geschichte in
Wissenschaft und Unterricht,50(10), (1999), pp. 584-595; Klaus Hildebrandt,
Hans-Peter Schwarz, LotharGall, cf. “Kritiker
fordern engultige Schliesung”, Frankfurter
AllgemeineZeitung, Nov. 6, 1999, p. 4; Ralf Georg Reuth, “Endgultiges Aus fur Reemtsma-Schau?”, Welt am Sonntag, Nov. 7, 1999, p. 14; Walter Post, Die verleumdete Armee, Pour le Merite, Selent 1999.
[2] hoh, “Die Franzosenzeit hat begonnen”, Stuttgarter Zeitung, 25.4.1995
[3] Cf. Heinrich Wendig, Richtigstellungen zur Zeitgeschichte, issue 8, Grabert,
[4] 例外は、降服していた48名のドイツ軍兵士が不当に殺された、最近公表された事件である。Michael Sylverster Kozial, “US-Kripo
ermittelt nach 51 Jahren”, Heilbronner
Stimme, September 24, 1996; “Spater
Fahndung nach Mordern in US-Uniform”, Stuttgarter Zeitung, September
27, 1996, p. 7.
[5] Prof. Dr. jur. Karl Siegert, Repressalie,
Requisition und hoherer Befehl,
Gottinger Verlagsanstalt, Gottingen 1953, 52 pp; English translation: Ernst
Siegert, “Reprisals and Orders from Higher up,” in: G. Rudolf (ed.), Dissecting
the Holocaust, 2nd ed., Theses &
Dissertations Press, Chicago, IL, 2003, pp. 530-550.
[6] スターリンがそのような命令を出し、各地の放送局を介して全土に放送された。cf. Keesing’s Archiv der Gegenwart, 1941, July 3rd + 21st 1941; cf. Sowjetski
Partisani,
[7] Bernd Bonwetsch, “Sowjetische Partisanen 1941-1944”, in Gerhard Schulz (ed.), Partisanen
und Volkskrieg, Vandenhoeck &
Ruprecht, Gottingen 1985, pp. 99, 101.
[8] Witalij Wilenchik, “Die Partisanenbewegung in
Weisrusland”, in Hans Joachim Torke (ed.), Forschungen
zur osteuropaischen Geschichte, v.
34, Harrassowitz, Wiesbaden 1984, pp. 280f., 285, 288f. This chapter has a
certain anti-Fascist undertone.
[9] S. Werner, Die 2.
babylonische Gefangenschaft, originally self-published by author, Pfullingen 1990; 2nd ed. Grabert,
[10] B. Bonwetsch, op.cit.
(note 7), pp. 111f.
[11] Franz. W. Seidler, Die Wehrmacht im Partisanenkrieg, Pour le Merite, Selent 1998; cf. Hans Poeppel (ed.), Die Soldaten
der Wehrmacht, 3rd ed., Herbig, Munich
1999.
[12] B.S. Telpuchowski, Die
Geschichte des Grossen Vaterlandischen Krieges 1941-1945, Bernard & Graefe
Verlag fur Wehrwesen, Frankfurt/Main 1961, p. 284; comparable Seidler, op. cit. (note 11), p. 36f.;同じようなデータはHeinz
Kuhnreich, Der Partisanenkrieg in Europa 1939-1945, Dietz,
Berlin (East) 1965; さらに興味深い情報は、I.I. Minz, I.M. Rasgon, A.L. Sidorow, Der Grose
Vaterlandische Krieg der Sowjetunion, SWA Verlag, Berlin 1947; パルチザン戦争に関する旧ソ連邦の資料のコピーが、ワシントンの国立文書館で一般に利用できるようになったという。この情報および前述の典拠資料はフリッツ・ベッカー氏の好意による。cf. also Becker, “Stalins volkerrechtswidriger
Partisanenkrieg”, Huttenbriefe 15(4) (1997),
pp. 3-6 (online: vho.org/D/Hutten/Becker15_4.html).
[13] Cf. Walter N. Sanning, “Soviet Scorched-Earth Warfare”, in The Journal of Historical Review, vol. 6/No. 1, Spring 1985, pp. 92-116 (online
(German): vho.org/D/DGG/Niederreiter29_1.html).
[14] J. Hoffmann, Stalin’s War of Extermination 1941 − 1945, Theses & Dissertations Press,
[15] A.E. Epifanow, H. Mayer, Die Tragodie der deutschen
Kriegsgefangenen in Stalingrad von
1942 bis 1956 nach russischen Archivunterlagen, Biblio, Osnabruck 1996.
[16] Franz W. Seidler, Verbrechen an der Wehrmacht, Pour le Merite, Selent 1998, pp. 5f. (online: vho.org/D/
vadw/vadw.html); English in preparation.
[17] A. de Zayas, Die Wehrmachtsuntersuchungsstelle, 4th ed., Ullstein, Berlin 1984, passim., esp. pp. 273-307.
[18] Ibid., pp. 198-23.
[19] Franz W. Seidler, op. cit. (note 6), p. 127
[20] Cf. J. Hoffmann, “Die Sowjetunion bis zum Vorabend des
deutschen Angriffs”, in Horst Boog et al., Das Deutsche Reich und der Zweite Weltkrieg, vol. 4: Der Angriff auf die Sowjetunion, 2nd ed., Deutsche Verlags-Anstalt, Stuttgart 1987;
Hoffmann, “Die Angriffsvorbereitungen der Sowjetunion”, in B. Wegner (ed.), Zwei Wege nach Moskau, Piper, Munich 1991; V. Suvorov, Icebreaker: Who Started the Second
World War?, Hamish Hamilton, London 1990;
Suvorov, Der Tag M, Klett-Cotta, Stuttgart 1995;
E.Topitsch, Stalin‘s War: A Radical New Theory of the Origins of the Second World War, Fourth Estate, London 1987; cf. W. Post, Unternehmen
Barbarossa, Mittler, Hamburg 1995; F. Becker, Stalins
Blutspur durch Europa, Arndt
Verlag, Kiel 1996; Becker, Im Kampf um Europa, 2nd ed., Leopold Stocker Verlag, Graz/Stuttgart 1993; W. Maser, Der
Wortbruch. Hitler, Stalin und der Zweite Weltkrieg, Olzog Verlag,
[21] この戦いについての詳細は、F. W. Seidler, op. cit. (note 11), pp.
69-132.
[22] Cf. H. Hohne, Der Orden
unter dem Totenkopf, Bertelsmann,
[23] パルチザン戦争についての詳細は、Erich Hesse, Dersowjetrussische Partisanenkrieg
1941-1944 im Spiegel deutscher Kampfanweisungen und Befehle, 2nd ed., Muster-Schmidt, Gottingen 1992; John A.
Armstrong (ed.), Soviet Partisans in World War II, Univ. of Wisc.Press, Madison, Wisc., 1964; Tomas
Nigel, Partisan Warfare 1941-1945,
Osprey, London 1983.
[24] H. Hohne, op. cit. (note 22), p. 330.
[25] G. Reitlinger, Die SS,
Tragodie einer deutschen Epoche, Desch, Munich
1957, p. 186; similar Efraim Zuroff, Beruf: Nazijager. Die Suche mit dem
langen Atem: Die Jagd nach den Tatern des
Volkermordes, Ahriman, Freiburg
1996, p. 44。彼は、3000名の「移動殺戮部隊の任務は、ドイツ国防軍が占領した地域で、すべてのユダヤ人と共産党員を殺すことであった」と述べている。そして、この広大な地域とは、「北はレニングラート近郊から、南は、アゾフ海にまでまたがっていた。…彼らの武器は普通の小火器であった。にもかかわらず、15ヶ月で900000名のユダヤ人を殺戮することに成功した。」というのである。Zuroff は驚いてはいるが、まったく疑問を抱いてはいない。彼によると、「地元住民の熱狂的な支援」のもとで可能となったというのである(47頁)。Zuroff は、戦闘中のドイツ軍の後方地帯では広範囲なパルチザン戦争が行なわれていたことを知らないか、関心を抱いていない。
[26] Together with Helmut Krausnick co-author of the
famous book Die Truppe des Weltanschauungskrieges, (The Troop of the War of Ideology) op. cit. (note 17).
[27] H.-H. Wilhelm, lecture during an international
history conference at the university Riga, September 20-22, 1988, p. 11. Based
on this recital Wilhelm wrote the article “Offene Fragen der
Holocaust-Forschung” (Open
Question about the Holocaust Research) in U. Backes, E. Jesse, R. Zitelmann
(ed.), Die Schatten der Vergangenheit,
Propylaen, Berlin 1992 S. 403,which however does not contain this section. I
obtained this information from Costas Zaverdinos, who had the manuscript of
Wilhelms Riga lecture and who reported about this during the opening speech of
the history conference on April 4, 1995 at the university of Natal,
Pietermaritzburg.
[28] H.-H. Wilhelm, op. cit. (note 17), p. 515.
[29] Ibid., p. 535.
[30] Document R-102 in Der Prozes gegen die
Hauptkriegsverbrecher vor dem
Internationalen Militargerichtshof, (IMT), vol. 1 - XXXXII, Nurnberg
1947-1949, here vol. XXXVIII, 279-303, here p. 292f.
[31] Nationalsozialistischen
Volkswohlfahrt、民族社会主義者国民福祉局。
[32] H. Krausnick, H.-H.
Wilhelm, op. cit. (note 17), p. 189.
[33] Gerald Reitlinger, Die Endlosung. Hitlers Versuch der
Ausrottung der Juden Europas
1939-1945, Colloquium Verlag, Berlin 41961,
p. 262.
[34] IMT, XV, p: 362; vol. XV, p. 363: “Es waren ganze Stabe in Kiew [...] in die Luft geflogen.”
[35] H. Krausnick, H.-H.
Wilhelm, op. cit. (note 17), p. 189, Fn 161.
[36] Ibid., p. 190.
[37] Alfred Streim, “Zum Beispiel: Die Verbrechen der
Einsatzgruppen in der Sowjetunion”, in:
Adalbert Ruckerl (Hrsg.), NS-Prozesse. Nach 25 Jahren Strafverfolgung.
Moglichkeiten - Grenzen - Ergebnisse, C.F.
Muller, Karlsruhe 1972.
[38] Krausnick, H.-H. Wilhelm, op. cit. (note 17), p. 190, note. 164, all sources are
otherwise exactly quoted.
[39] Raul Hilberg, Die Vernichtung der europaischen
Juden. Die Gesamtgeschichte des Holocaust, Olle & Wolter, Berlin 1982, p. 213, FN 59.
[40] Ernst Klee, Willi Dresen, Volker Ries (Hg.), “Schone
Zeiten”. Judenmord aus der Sicht
der Tater und Gaffer, S. Fischer,
Frankfurt/M. 1988, S. 69.
[41] Op. cit. (note 31), p. 86f.
[42] Op. cit. (note 27), p. 263.
[43] Alfred Streim, “Zur Eroffnung des allgemeinen
Judenvernichtungsbefehls gegenuber
den Einsatzgruppen”, in: Eberhard Jackel,
Jurgen Rohwer (Hg.), Der Mord an den Juden im Zweiten Weltkrieg.
Entschlusbildung und Verwirklichung,
Deutsche Verlags-Anstalt, Stuttgart 1985, S. 114.
[44] H. Krausnick, H.-H.
Wilhelm, op. cit. (note 17), p. 336.
[45] Ibid., p. 649.
[46] Ibid., p. 335f.
[47] Reichssicherheitshauptamt,
国家保安本部。
[48] H. Krausnick, H.-H.
Wilhelm, op. cit. (note 17), p. 337f.
[49] Ibid., p. 335.
[50] Ibid., p. 338.
[51] Op. cit. (note 33), p. 227,
note145
[52] Affidavit of 6.6.1947,
NO-3824.
[53] See IMT, VII, S. 612.
[54] Op. cit. (note 17), p. 190.
[55] Op. cit. (note 27), p. 263.
[56] Wolfgang Benz (Hrsg.), Legenden, Lugen, Vorurteile, dtv, Munchen 1990, p. 40.
[57] “Babi Jar:
Kritische Fragen und Anmerkungen”, in: Ernst
Gauss (Ed.), Grundlagen zur Zeitgeschichte, Grabert,
Tubingen 1994, p. 375-399.
[58] Op. cit. (note 17), p. 535.
[59] IMT, vol. XXX, S. 74.
[60] U. Walendy は、これらの報告を資料と呼ぶことはできないと指摘している。レター・ヘッドも、署名も、ファイル番号や書簡日付番号もついていないというのである。U. Walendy, “Babi Jar -Die Schlucht ‘mit 33.771 ermordeten Juden’?”,
istorische Tatsachen Nr. 51,
Verlag fur Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1992, p. 21。いつものように、「熱く」語っているが、適切な出発点とはなるであろう。Historische Tatsache Nr. 16 & 17, “Einsatzgruppen im Verband des Heeres”, parts 1 & 2, ibid., 1983.も参照。
[61] See J.C. Ball, Air Photo Evidence, Ball Recource Services Ltd., Delta B.C., 1992;
ders., in: E. Gauss (Hg.), Grundlagen zur Zeitgeschichte, Grabert, Tubingen, S. 235-248.; vgl. H. Tiedemann, ibid., p. 375-399.
[62] Lietuvos
Rytas (Latvian
news paper), August 21,1996.
[63] Personal message from
Dr. M. Dragan.
[64] 特別行動部隊が使用したとされるガス車も、同じように疑問の余地があるテーマであるが、ここでは、詳しくは扱わない。Ingrid Weckert in E.
Gauss (Ed.),
op. cit. (note 50), p. 193-218.を参照。
[65] 1943年1月1日から1944年10月31日までのあいだに、パルチザン戦争で145364名が殺され、88493名が投獄され、90993名が「登録され」、すなわち、収容所に送られたか、処罰された、とドイツ軍当局は述べている。F. W. Seidler, op. cit. (note 12).
[66] S. Margolina, Das Ende der
Lugen,
Siedler, Berlin 1992.
[67] E. Nolte, “Abschliesende Reflexionen uber den
sogenannten Historikerstreit”, in U. Backes, E. Jesse, R. Zitelmann
(eds.), Die Schatten der Vergangenheit,
Propylaen, Berlin 1992, pp. 83-109, here pp. 92f.
[68] J.Z. Muller, “Communism, Anti-Semitism and the
Jews”, in Commentary, issue
8, 1988, pp. 28-39; for a more ideological approach to National Socialist
anti-Semitism cf. Erich Bischoff, Das Buch vom Schulchan aruch, Hammer Verlag, Leipzig 1929; on this expert opinion
one of the best known National Socialist anti-Semites, Theodor Fritsch, relied
heavily: T. Fritsch, Handbuch zur Judenfrage, 31st ed., Hammer-Verlag, Leipzig 1932; a comparison to modern Jewish
critics of Judaism is extremely revealing, cf. Israel Shahak, Jewish
History, Jewish Religion, Pluto
Press, London 1994 (online: codoh.com/zionweb/zishahak/zishahakan01.html).
[69] ドイツ軍に対するソ連のパルチザン戦争にユダヤ人が関与した問題については、E. Jackel, P.
Longerich, J. H. Schoeps
(eds.), Enzyklopadie
des Holocaust, Argon, Berlin 1993, p.
1348; cf. Nechama Tec, Defiance, the Bielski Partisans, Oxford University Press, New York 1993.