試訳:アウシュヴィッツの法医学的検証の歴史

ゲルマール・ルドルフ

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日2003620

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Germar Rudolf, A Brief History of Forensic Examinations of Auschwitzを試訳したものである。
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online: http://ihr.org/jhr/v20/v20n2p-3_Rudolf.html

 

 

 アウシュヴィッツは、人類史における最大の犯罪の象徴となってしまった。アウシュヴィッツというドイツの強制収容所で、100万もしくはそれ以上の人々がガス処刑されており、その大半がユダヤ人であったという事件の意味について、哲学者、神学者、文学者ならびに法律家、歴史家が際限のない議論を繰り広げてきたし、ジャーナリストや政治家も数多くの決まり文句を語ってきた。しかし、本小論の焦点は、以下の問題点に向けられている。

 

1.           この途方もない犯罪は、徹底的な法医学的分析を介して、丹念に検証されてきたのであろうか。

2.           アウシュヴィッツの犯罪現場の法医学的調査はどのように行なわれてきたのか、そして、どのような結果を生み出したのか。

 

法医学的調査の道徳的義務

 1993年の晩春、シュトゥットガルトのマックス・プランク研究所は、内部文書をその被雇用者に発して、アウシュヴィッツについての研究を行なったがゆえに、博士号の請求が却下されると伝えた。研究所は、ユダヤ人に対する民族社会主義者の犯罪の恐ろしさを考えると、犠牲者が殺された特殊な方法を議論したり、死者の正確な数を決定しようとすることは道徳的に不快なことであると説明した。世界でも有名な研究機関の一つが、正確な量を決定しようとすることが倫理に反するだけではなく、非難されることであり、解職理由となると職員に述べたことは、まったくの皮肉な事態としかいいようがない。

 第二次世界大戦中に、ドイツの支配下にあった地域で、何名のユダヤ人が死亡したのであろうか。何年たっても、彼らがどのようにして死亡したのか苦痛に満ちて調査することは重要なのではないだろうか。たとえ犠牲者が一人であっても、それだけで十分であり、多くのユダヤ人が死亡したことを否定している人々はいない。

 しかし、こうしたことを肯定することは、人類史のなかで前代未聞の犯罪を化学的に調査することに対する、異論――道徳的もしくはそうではない――を唱えることではない。きわめて非難されるべき犯罪ですら、ほかの犯罪に標準的に適用できるような方法で調査しなくてはならない。すなわち、詳細な物的調査の対象とすることができるし、またそうしなくてはならない。さらに、犯罪とみなされている事件や実際の犯罪がユニークであると考えている人であれば、そのユニークさを事実と認める前に、犯罪を徹底的に調査しなくてはならないであろう。

 もしも、道徳的憤慨というタブーを作り出すことで、前代未聞とされる犯罪を、調査から守ろうとするならば、このタブーを作り出した人物は、少なくとも道徳的には、一つの罪を犯していることになる。すなわち、いかなる批判も弁護も超越した前代未聞の罪状を一つの民族全体、ドイツ民族に押しつけているのである。「ホロコースト」(第三帝国による数百万のユダヤ人の意図的絶滅と定義されている)に対しては、どのような二重基準が適用されているのか明らかにするために、「人道に対する罪の」最近の事例に対する国際社会の反応をあげておこう。1991年にソ連が崩壊すると、数十万のソ連人犠牲者の大量埋葬地が数多く発見され、調査された。犠牲者の数だけではなく、多くの場合、死因も決定された。これらの大量埋葬地の多くが発見されたのと同じ地域で、百万以上のユダヤ人が特別行動部隊によって射殺されたといわれている。しかし、ソ連やその後継国家がこれらの地域を支配していた半世紀以上のあいだに、このような埋葬地が発見されたことも、まして、発掘・調査されたこともないのである。

 1999年のコソヴォ紛争では、セルビア人による大量殺戮の噂が世界中に広まった。戦闘が終わると、国際的な法医学調査団がコソヴォにやってきて、大量埋葬地を探索・発掘し、法医学的な調査を行なった。これらの埋葬地は、アルバニア人が主張したよりも数少なかっただけではなく、いわれてきた犠牲者数の何分の1かであった。

 連合国は、戦時中か戦争直後に、ドイツの犠牲者となったといわれていた人々の大量埋葬地を発見・調査しようとしたのであろうか。知られている限りでは、カチンの一例だけである。しかし、ソ連の法医学調査団は、そこに埋葬されていた数千のポーランド軍将校の大量殺戮の責任をドイツに押しつけたが、今日では、その報告書は虚偽とみなされている。1943年にドイツが招請した国際法医学調査団は、ソ連が大量殺戮を行なったとの結論を下したが、今日では、ロシア政府でさえも、その報告書が正確であったと認めている。

 

法医学の定義

 一般的に、法医学は犯罪学の補助学問とみなされている。その目的は、犯罪の物理的痕跡を集め、分類し、痕跡から、犠牲者、犯人、凶器、犯罪時刻、犯罪現場、犯罪がどのように行なわれたのかについて結論を下すことである。この学問は比較的新しく、イギリスの法廷ではじめて指紋が証拠として受け入れられた1902年に法廷に登場した。1998年のCD-ROM版のブリタニカ百科事典は、法医学について次のように記している。

 

「法執行機関は容疑者を識別したり、当該の容疑者と犯罪との関連性を疑問の余地なく確定しようとしているが、幅広い科学技術がこの機関に利用されている。血液や体液(精液や唾液)の分析によって、犯人の何らかの特徴が明らかとなる。繊維を顕微鏡で観察したり、化学的に分析することで、たとえば、犠牲者の身体や犯罪現場で発見された繊維が容疑者の衣服の繊維と同一のものかどうかを明らかにできる。毛髪のサンプルや、とくに毛根についた皮膚細胞は、科学的、遺伝学的に、それが容疑者のものかどうか検証できる。ガラス、紙、塗料などの多くの無生物物質も顕微鏡で観察したり、化学的な分析を加えれば、多くの情報を提供してくれる。当該の文書を分析して、それが使っている紙が、それが書かれたとされている時期には存在していなかった技術を使って製造されたことが明らかとなれば、この文書は偽造されたものと判断できる。ガラスの小片でさえも、屈折率を光学的に分析すれば、問題の品やガラスの断片が、特定の時期と場所で製造された一そろいのガラス製品の一部であることが明らかとなる。」

 

 したがって、法医学とはまさしく、フォーリソンにはじまる修正主義者が物的証拠の研究と呼んだものである。修正主義者はこのような物的証拠を求めているが、その考え方は、近代の法執行機関の正常なやり方とまったく一致しているのである。そして、広く認められているように、法医学的な証拠は、目撃証言や文書的証拠よりも信頼しうる。

 

法医学とアウシュヴィッツ

1946年のクラクフでのアウシュヴィッツ裁判

 1945年、クラクフ法医学研究所は、アウシュヴィッツの法医学的調査報告を用意し、それは、1946年、ポーランドのクラクフでのアウシュヴィッツ裁判に証拠として提出された。[1] この専門報告は用心して扱わなくてはならない。共産主義体制のもとでの法医学調査と裁判は信用できず、ポーランドは1945年には、スターリン主義的な衛星国家であったからである。カチン事件を指摘しておけば十分であろう。ポーランドの共産党政府はソ連報告を完全に認めていたのである。[2]

 クラクフの法医学調査団は、おそらく囚人のものと思われる髪の毛と、アウシュヴィッツでソ連が発見したバッグからの髪の毛の留め金を採取した。シアン残余物の検査をした結果、髪の毛も留め金もポジティブであった。さらに、亜鉛メッキの金属カバーもシアンの検査を受けたが、やはりポジティブであった。クラクフ研究所は、この金属カバーがビルケナウの殺人「ガス室」の排気口を覆っていたと主張している。

 研究所の行なった検査は量的分析ではなく、質的分析であった。言い換えれば、この検査が判定したのは、シアンが存在していたかどうかであって、シアンの量がどれほどであったかではない。

 アウシュヴィッツではシアン化水素を使った殺人ガス処刑が行なわれたかどうかを判断するにあたって、この分析には価値がない。それは以下の3つの理由による。

 

1.            髪の毛とアウシュヴィッツのバッグからの髪の毛の留め金の起源と歴史について、判断することができない。分析結果が正しいとしても、化学的観点からすると、次のことが指摘できる。毛髪のシアン化合物検査がポジティブな結果を出したことは、髪の毛がHCN(シアン化水素)にさらされたことがあることを立証しているにすぎない。この髪の毛を持つ人間がシアン化合物によって殺されたことを確証するには不十分である。また、髪の毛はガスにさらされる前に、切られていたはずである。連合国の収容所でも、ドイツの収容所でも、衛生上の理由から髪の毛を切ることが普通であった。一定の長さの髪の毛がのちに再利用されるときには[3]、前もって殺菌消毒されねばならなかった(シアン化水素を含んだチクロンBを使うことが多かった)。したがって、髪の毛からシアン化合物のポジティブな結果が出たとしても、人間がガス処刑されたことを立証しているわけではない。

2.            いわゆる「ガス室」の排気ダクトを覆っていたとされる亜鉛メッキの金属カバーについても同様の問題点がある。その正確な起源と歴史が知られていない。クラクフ研究所は、金属片からサンプルを採取する代わりに、いわゆる「ガス室」の壁から採取されたサンプルを分析すべきであった。

a.          これらの金属カバーの起源と歴史は不明であるが、「ガス室」として使われたとされる死体安置室の起源と歴史(部分的ではあるが)は知られている。

b.          セメントやコンクリートと比べて、亜鉛メッキの金属カバーは、安定した鉄シアン化合物の生成を阻害する。[4] 亜鉛シアン化合物は比較的不安定であり、短期間で消滅してしまうにちがいない。[5]

c.          湿った地下室のなかの多孔性の壁資材が、物理的・化学的にス参加シアンを蓄積・固定する傾向は、金属よりも数百倍も高い。

d.          事実、クラクフ研究所に送られたサンプルにつけられていた書簡には、いわゆる「ガス室」から採取されたというモルタルのサンプルも同封されており、シアン化合物検査をするべきであると記載されていた。しかし、どういうわけか、クラクフ研究所は報告書のなかでこのモルタルのサンプルについてはふれていない。おそらく、ポジティブな結果が出ていなかったのであろう。

3.            同じ分析を繰り返しても、同じ結果が出たという証拠がまったくない。

 

19641966年のフランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判

 

 フランクフルトで開かれたアウシュヴィッツ裁判では、いくつかの専門報告が提出されたが、ミュンヘンの現代史研究所の専門報告が一番知られている。[6] しかし、この報告書はどれも法医学的なものではなかった。法律的、歴史的、心理的な話題を扱っていた。このマンモス裁判を通じて、法廷も、検事側も[7]、弁護側も[8]、犯罪の物的証拠を確保・調査すべきであるとはまったく主張しなかった。検事側は目撃者の陳述と犯人の自白を数多く持っており、それだけで、第三帝国のアウシュヴィッツその他でユダヤ人絶滅計画が存在したことを確証するのに十分であるとみなしていた。[9] こうした証拠が豊富にあることが、文書資料的証拠と物的証拠が存在しないにもかかわらず、犯罪の現実性を保証しているというのである。[10] 法廷も、フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判では物的証拠がまったく提出されていないことを正当なことであると認めていた。

 通常の殺人裁判でならば、本物の殺人事件の構図を描くために必要な証拠を手に入れる方法が、この裁判ではまったく欠如していた。犠牲者の死体、検死報告、死因や死亡時刻についての専門報告が欠けていた。殺人犯人、凶器の痕跡も欠けていた。目撃証言が検証されたことはごくまれであった。本来ならば、証言にわずかでも疑問があり、混乱している可能性があれば、法廷はその証言を評価しないはずなのに。

 

1972年のウィーンでのアウシュヴィッツ裁判

 

 1972118日から310日まで、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の設計・建設に責任を負っていた二人の建築技師ヴァルター・デヤコとフリッツ・エルトルがオーストリアのウィーンで裁判にかけられた。[11] 公判では、アウシュヴィッツとビルケナウのいわゆるガス室の青写真の解釈についての専門報告が提出された。この報告は、問題の部屋がガス室ではありえない、ガス室に改造することもできないと結論していた。[12] アウシュヴィッツについてのはじめて方法論的に健全な専門報告のおかげで、被告は無罪となった。

 

大量埋葬地の調査

 

 1966年、アウシュヴィッツ国立博物館はポーランドの会社Hydrokopに、アウシュヴィッツ・ビルケナウの土壌を掘り起こして、サンプルを分析するように委託した。この調査がフランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判との関係で行なわれたかどうかは分かっていない。しかし、調査結果は博物館の文書館のなかに消えてしまった。それは公表されなかった。そのことだけでも十分なことを物語っている。しかし、数年後、この報告書からの数頁が、写真コピーされて、ドイツの修正主義的出版者ウド・ヴァレンディの手に渡った。彼は自分の雑誌にコメントを付してこれを公表した。[13] いくつかの場所から骨や毛髪の痕跡が発見されたことは、大量埋葬地の存在を示唆しているかもしれない。しかし、ヴァレンディの公表した数頁からだけでは、この調査によって、さらに発掘調査が行なわれたのか、法医学的調査が行われたのかについては明らかではない。採取された骨や毛髪が人間のものであるのか動物のものであるのかも明らかではない。

 

フォーリソンが引鉄を引く

 

 大量殺戮がアウシュヴィッツで起こったかどうかを決定するのは法医学的な証拠にもとづくということを全世界に知らせたのは、フランス文学者フォーリソン教授であった。ロベール・フォーリソンはフランス文学の教授で、リヨン第二大学で、資料、テキスト、目撃証言の分析を専門としており、目撃証言を批判的に検証し、大量殺戮説を立証しているとされている文章を丹念に検証した結果、ホロコースト正史に疑問を抱きはじめた。1978年、フォーリソンははじめて、「アドルフ・ヒトラーのもとではガス室は一つもなかった」という説を主張した。[14] その後、彼は、多くの物理的、化学的、地形学的、建築学的、文献学的、歴史学的議論を使って自説を補強していった。彼は殺人ガス室の存在を「基本的に不可能なこと」とした。[15] 1978年末、フランスの有力紙『ル・モンド』は、フォーリソン教授に自説を展開する紙面を与えた。[16]

 しかし、フォーリソンの挑戦を認めて、アウシュヴィッツの殺人「ガス室」についてのはじめての法医学的報告書が準備されるには、ほぼ10年を要した。1988年のフレッド・ロイヒターの有名な報告である。[17] ロイヒター報告の背景と歴史は、『歴史評論誌』の読者には良く知られているので、ここでは繰り返さない。[18] ロイヒター報告はその後の一連の研究の先駆者であり、その研究の視野は法医学のさまざまな分野に広がっていき[19]、物的証拠と文書資料的証拠の多方面にわたる学際的な研究を包括していったといっておけば、十分であろう。[20] 

 

ヤン・ゼーン研究所の反応

 

 1945年の欠陥のある調査を実行したクラクフ研究所は、ポーランドのアウシュヴィッツ裁判とルドルフ・へス裁判の裁判長をつとめた共産主義者の判事ヤン・ゼーンにちなんで、ヤン・ゼーン研究所と改称していた。ロイヒター報告に対するこの研究所の反応は、修正主義者のあいだに多くの混乱を引き起こした。今日まで、多くの人々が、1990年にこの研究所の4名の調査員がロイヒター報告の内容を確証したと考えているが[21]、それはまったく間違っている。この誤解を解くには、ロイヒター報告後のクラクフ研究所の調査結果を少し詳しく検討しなくてはならない。

 

化学的前提

 

 クラクフの調査員の誤りを明らかにするには、少しばかりの基本的な化学の知識が必要である。まず、1979年まで、チクロンBはシアン化水素(HCN)を使った殺虫剤のドイツの商標であった。化学の学生ならば誰もが知っているように、シアン化水素は、たんにシアン化合物と言及される塩化物を生成する。シアン化水素と同様に、これらの塩化物はきわめて毒性が高い。しかし、まったく毒性のない塩化物のグループがある。このグループの中でもっともよく知られているのは、鉄シアン化合物であり、それは、数世紀前にプロシアで発見された顔料にちなんで、プロシアン・ブルーと呼ばれている。化学生はすべてがプロシアン・ブルーを知っている。というのは、化学者が学んでおかなくてはならないもっとも重要なことの一つは、毒性の強いシアン化塩を、(自分自身の命も含めて、危険にさらすことなく)、安全に処理する方法を学ぶことだからである。特定の鉄化合物を付加することでシアン化塩からプロシアン・ブルーを取りだすことができる。プロシアン・ブルーは、きわめて安定しており、周囲にシアン化合物をまったく放出しない。

 シアン化水素と特定の鉄化合物を一緒にすると、プロシアン・ブルーを生成するということを念頭においておけば、ロイヒター報告をめぐる論争の理解がはるかに容易となるであろう。第三帝国時代にヨーロッパ各地で使われたチクロンBの害虫駆除施設に入ると、観察できるのは、まさにこの現象である。少数ではあるが、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネク、シュトゥットホフ強制収容所では、まだ現存している。これらの施設には、プロシアン・ブルーが壁に浸透しているという共通点がある。内部だけではなく、レンガのあいだのモルタルや鉄シアン化合物に富む害虫駆除室の外壁にも、青いしみがついている。この種のものは、アウシュヴィッツとビルケナウの殺人「ガス室」には見ることができない。[22]

 プロシアン・ブルーの生成に必要な鉄化合物はすべての建築資材に含まれている。煉瓦、砂、セメントには一定量の錆び(酸化鉄、普通は14%)が含まれている。これが煉瓦を赤色あるいは黄土色にしており、砂の多くを黄土色にしているのである。

 ここで、ヤン・ゼーン研究所の調査員がアウシュヴィッツからのサンプルをどのように分析し、解釈したのかを検証しよう。

 

理解力の欠如

 

 法医学研究所のチーム、Jan MarkiewiczWojciech GubalaJerzy Labedzは、壁がシアン化水素ガスにさらされることによって、プロシアン・ブルーがどのようにして壁に生成されるのかを理解していないと述べている。「その場所に、プロシアン・ブルーを生成する化学反応、物理的化学手順を想像することは難しい」[23]というのである。

 理解していないことは恥ではない。実際、理解していないことを認めることが、あらゆる学問の始まりである。科学以前の時代には、人間は解決しえない問題に神秘的もしくは宗教的解答を下そうとした。近代の科学者は自分たちの理解できない問題にアプローチし、理解するために、調査しはじめる。このような知識の探求が、近代の人間性のおもな推進力である。それでは、クラクフの研究者たちは、シアン化水素にさらされた壁にプロシアン・ブルーが生成するかどうかを学ぼうとしたのであろうか。もし、学ぼうとしたのであれば、どのようにそうしたのであろうか。

 

さらなる理解の欠如

 

 1991年、Markiewicz博士は、プロシアン・ブルーがシアン化水素にさらされた壁にどのように生成しうるのか理解できないと記した。彼は、生成し得ないと考えており、別の素材から生じたかもしれないと示唆した。たとえば、害虫駆除室の内壁に気まぐれな青い斑点模様を描いた(いったい何のために?[24])ペンキから生じたというのである。私は彼に、風雨にさらされており、やはり、青い斑点がついている壁の外側の表面を見るように提案した。それをペンキで説明することはできない。シアン化合物が何年かのあいだに外側に広がっていき、プロシアン・ブルーに変わったのである。彼は、これらの青い斑点を説明するのは困難である、まず、これがプロシアン・ブルーかどうかを確定しなくてはならないと回答してきた。[25] それゆえ、これらの科学者には、分析を始める前に、解答しなくてはならない問題点がさらに登場したのである。

 

鍵となる問題点の無視

 

 1994年にやっと、ポーランド調査員たちは、自分たちの調査結果についての論文を発表した。[26] この論文を精読してみると、驚くべきことに、彼らは、プロシアン・ブルーがシアン化水素にさらされた壁に生成しうるかどうかについてまったく確定していない。彼らが、煉瓦壁のような条件の下でシアン化合物がどのようになるかという基本的な研究を行なったことを示すものは何もない。さらに、害虫駆除室の青い斑点がプロシアン・ブルーによるものかどうかについても確定していない。いったいなぜなのであろうか。少しお待ちいただきたい。事態はもっと悪くなっていく。

 

同じ分野の研究者の説の無視

 

 もしも、クラクフの研究者たちが、プロシアン・ブルーはシアン化水素にさらされた壁には生成しえないと信頼しうるやり方で述べている学術文献を発見したとすれば、事態は簡単であろう。これ以上の新しい研究は必要がないとすれば良いことだからである。しかし、もしも、シアン化水素にさらされた壁にはプロシアン・ブルーが生成しうると科学的方法を使って述べている文献を発見したとすれば、科学者としての彼らには、二つの道がある。プロシアン・ブルーは生成し得ないという自分たちの立場を放棄するか、生成し得ないことを立証して自分たちの立場に反する説を反駁することである。科学の進歩とはそういうものである。同じ分野の研究者の説を検証したり、反駁したりすることである。同じ分野の研究者の説を無視することは、非科学的振る舞いである。

 事実、クラクフの研究者たちは、プロシアン・ブルーの生成問題を専門的に扱っている一つの文献を引用している。[27] しかし、この文献を参照すれば、それがMarkiewiczの説とはまさに反対のことを立証していることが分かるであろう。それは、シアン化水素にさらされた壁がどのようにして、どのような環境のもとでプロシアン・ブルーを生成するのか、および、少なくともアウシュヴィッツの害虫駆除室では、生成が可能なだけではなく、非常にありうることであったことを示している。

 クラクフの研究者たちは、この文献が生成しないことを明らかにしていると主張しているのであろうか。まったくそうではない。彼らがこの文献を引用しているのは、科学的議論を読者に紹介するためではなく、ヤン・ゼーン研究所の研究者が自分たちの報告を作成するにあたって闘おうとした科学的研究の例としてにすぎない。この文献のすべての議論は無視され、その研究は「望ましからざる科学の」一例という不名誉な烙印を押されてしまっている。Markiewicz博士が教授(professor)であることを思い起こしておこう。すなわち、彼は、科学の理想と科学的方法を指示していると告白している(profess)人物なのである。

 

望ましからざるものの排除

 

 クラクフ報告の作者は、自分たちが誤っていることを示す議論について知っていながらも、その議論すべてを無視している。彼らは自分たちの主張を立証しようとも反証しようともしていない。自分たちの主張を理解させようとも、理解しないようにしようともしていない。

 この奇妙な振る舞いの原因は何なのであろうか。

 その答えはごく単純である。この研究者たちはプロシアン・ブルーと鉄シアン化合物の問題を分析から除外したかったのである。害虫駆除室の壁に残るプロシアン・ブルーには別の原因、たとえばペンキがあると仮定することによってのみ、これらの化合物を除外することが正当化されるからである。クラクフの調査員は1994年の論文で次のように記している。

 

「それゆえ、われわれは、組成された鉄シアン化合物(問題のブルーである)の劣化をもたらさない方法、すなわちシアン化イオンを使うことを決定した。」

 

 これは何を意味しているのであろうか。

 非鉄シアン化合物は安定性がなく、50年も経過した今日ではほとんど残っていないので、プロシアン・ブルーを分析から排除してしまえば、害虫駆除室のシアン残余物ははるかに少なくなってしまう。同じことがシアン化水素にさらされたことのある部屋すべてにあてはまる。そして、検出レベルが非常に低くなってしまうであろう。そして、検出レベルが低くなってしまえば、適切な解釈ができなくなってしまう。このような方法を使えば、何年も経過した材料からサンプルをとっても、ほとんど同じレベルの検出結果が生じてしまうにちがいない。それにもとづいて分析したとしても、大量のシアン化水素にさらされた部屋とそうではない部屋との区別をつけることは事実上不可能であろう。シアンの残余物はすべてゼロに近づいてしまうであろう。

 

さまざまなサンプルの分析結果量の比較

作者

Markiewicz et al23

Leuchter17

Rudolf27

検知対象

鉄シアン化合物ぬきのシアン化合物

すべてのシアン化合物

すべてのシアン化合物

害虫駆除室

0-0.8 mg/kg

1,025 mg/kg

1,000-13,000 mg/kg

「ガス室」

0-0.6 mg/kg

0-8 mg/kg

0-7 mg/kg

 

 ヤン・ゼーン研究所の研究者たちが出したかったのはこの結果であったにちがいない。すなわち、害虫駆除室と「ガス室」のシアン残余物の値がほぼ同じレベルだという結果である。この結果を踏まえて、彼らは「同量のシアン化合物、同量のガス処理活動、したがって、人間が焼却棟の地下室でガス処刑された。こうしてロイヒターは反駁されている」と述べることになった。

 クラクフ報告の分析結果はまさにこのことを明らかにしており、その作者は当然の結論を導き出したというわけである。

 しかし、もし、別の人々が採取し、別の方法を使って分析した結果を検証すれば、Markiewiczと同僚は自分たちの望ましい結論を導き出すために、方法を修正して、結果をごまかしたことは明らかである。

 これが、科学的ペテンであることが分からないとすれば、十分にクラクフ報告を検討していないのである。

 

望ましからざる結果の抑圧

 

 1991年、文書がクラクフのヤン・ゼーン研究所から漏洩して、修正主義者の手に入り、その後彼らの雑誌に公表された。21 それによると、Markiewiczと同僚は1990年に最初の報告を準備していた。この報告は公表されなかった。その分析結果は当惑させるものであった。研究者たちは、すでにごまかしの方法を使っていたにもかかわらず、「殺人ガス室」から採取した5つのサンプルのうち1つだけに、ごく少量のシアン残余物が検出され(0.024 mg/kg)、それ以外のサンプルには、まったく検出されなかったからである。一方、害虫駆除室からのサンプルには、20倍も高い数値までもが検出された(0.036-0.588 mg/kg)。これらの結果は、ロイヒターの分析結果を確証しているようであった。このために、1994年の論文では、クラクフの調査官たちは、最初の分析結果についての情報を抑圧した。このような非倫理的振る舞いをした科学者は、学会から追放されるべきである。

 今日、大半の修正主義者は1991年の分析結果については知っているが、ロイヒターを反駁したとされている1994年に公表された結果については知らない。

 

クラクフの指針:科学的真理ではなく、政治的議題

 

 私は、その後、クラクフの研究者たちと手紙を交換して、彼らの分析方法についての説明を求めた。私は、専門書にある最近の事例を引用しながら、プロシアン・ブルーがシアン化水素ガスにさらされた壁に生成しうることを示す、反駁の余地のない証拠をつきつけた。[28] クラクフ報告の作者たちは、プロシアン・ブルーのテストを意図的に怠っていることを科学的に説明できず、自分たちが過ちをおかしたことを認めるのを拒んでいる。[29]

 最後に、クラクフの研究者たちは、論文や私あての書簡のなかで、自分たちの報告の目的が「ホロコースト否定派」を反駁すること、ヒトラーと民族社会主義のごまかしを阻むことであると述べている。言い換えれば、自分たちの目的は真理の探究ではなく、政治的目標に役立つことであるというのである。

 

結論

 

 Markiewiczと同僚たちのきわめて非科学的で、政治的な先入観をともなった方法を要約しておこう。

 

a.           科学者のもっとも重要な任務は、理解されてこなかったことを理解することである。クラクフのヤン・ゼーン法医学研究所の調査員たちは、これとは反対のことを行なった。彼らは、自分たちの理解していなかったこと(シアン化水素にさらされた壁におけるプロシアン・ブルーの生成)を無視し、排除することを選んだ。

b.           次に重要な科学者の仕事は、何事かを理解しようとする科学者の試みについて検討することである。クラクフのチームはこれとは反対のことを行なった。彼らは、プロシアン・ブルーの生成について自分たち(やその他の人々)の理解を助ける議論を無視し、排除することを選んだ。

c.           彼らはこうした道を選択したので、自分たちの望む結果の出るような方法を採用した。

d.           彼らは自分たちの目的に合わない結果をすべて抑圧した。

e.           最後に、彼らは、自分たちの研究目的が真理の探究ではなく、すでに死んでしまっているアドルフ・ヒトラーの名誉をたえずおとしめることであると認めている。

 

 それゆえ、私は、これらの研究者たちのことを科学的ペテン師と公に呼んできたし、呼び続けるであろう。Markiewiczも彼の同僚も私の告発に答えてこなかった。技術検査の専門家であり化学者ではないMarkiewicz1997年に死んだ。残りの二人の人物は沈黙し続けている。

 

ドイツ人によるロイヒター報告の確証

 

 1990年初頭、私は、ドイツのシュトゥットガルトのマックス・プランク固体研究所で、博士論文の作成にとりかかる数ヶ月に、ロイヒター報告の化学的主張を検証する調査に着手した。すなわち、目撃証人によるような、大量ガス処刑がチクロンBを使って行なわれたとすれば、長期にわたって安定したシアン化合物が「殺人ガス室」に生成されるであろうかという点である。もともと私が関心を抱いていたのは、生じた化合物――鉄青もくしはプロシアン・ブルー――は、厳しい自然環境に45年間もさらされたのちに安定しているかどうかを探求することだけであった。このことが検証されたのち、私はこの結果に関心を持っていると思われる20名ほどの人物に手紙を送った。その後、私は何人かの技術者と法律家と接触し、技術者の方は法医学的な支援を私に約束し、法律家はこの結果を依頼人のために利用することに関心を抱いていた。私はアウシュヴィッツに2回訪問し、18ヶ月間の調査を行なった。19921月、いわゆる最初のルドルフ報告がドイツのオピニオン・リーダーのあいだに配布された。それは、72頁の長文バージョンであった。簡単にその報告を要約すれば、ルドルフ報告は、目撃者の証言している大量ガス処刑は技術的、化学的理由からありえないというロイヒター報告の主張を確証している。その後、この報告は更新・改訂され、19937月に120頁の小冊子として公表された。[30] オランダ語版とフランス語版は1995年と1996年に登場したが、英語版は印刷されなかった。(1993年夏に出版された16頁の要約つけたものが誤って完全版とみなされている)。現在、更新・改訂版が準備されている。出版は今年の後半である。[31]

 自分自身が自分の研究の裁判官となることはできないので、ここでは、私の研究については議論しない。私の報告についての化学的議論は、1995年に、あるドイツ語の本から始まったが、それはおもに根拠のない攻撃から成り立っていた。[32] 最初の真剣な批判は、残念なことに、人格的攻撃で満ちているが、インターネット上に登場した。[33] その作者リチャード・グリーンは、私の同様に物理化学で博士号を持つ化学者である。彼は、その批判のなかでかなりの譲歩をしている。

 

a.           目撃証人の証言のように速やかに人間を殺すには、害虫駆除で使われるのと同様の濃度が必要である。ロイヒターは、人間を殺すにはシラミを殺すよりもはるかに少ない毒しか必要ないとの根拠で、論敵からしばしば攻撃されていた。これが、一般的に真実であるとしても、数百の人間を数分で殺害するというシナリオには適用できない。

b.           鉄青(プロシアン・ブルー)は、壁がシアン化水素にさらされた結果生じたのであり、アウシュヴィッツその他の害虫駆除施設でそれが発見されれば、HCNがその原因であろう。

 

 後者の譲歩は、害虫駆除施設の壁に残る大量の鉄青が異なった起源を持っており、それにゆえに、鉄青を分析から除外「することができた」とするクラクフの研究者たち(とその支持者)の主張を明らかに反駁していることになる。しかし、グリーンは、そのようなことには悩まされずに、クラクフの研究者による分析結果を標準的なものとして受け入れるべきであると主張している。私がクラクフの研究者たちに、明らかに非化学的な振る舞いについて問い合わせたところ、彼らが回答してこなかったことについて、グリーンは次のように記している。

 

「ルドルフは、Markiewiczたちが回答してこなかった点について不平を述べている。しかし、なぜ彼らは回答すべきなのであろうか。ルドルフはどのような信用を持っているというのだろうか。彼の異論がまったく根拠のないものであっても、回答しなくてはならないのだろうか。」

 

 

その他の法医学的アプローチ

 

 アウシュヴィッツのミステリーを解決しようとするにあたって、化学だけが参考にすべき学問ではない。技術者、建築家、地理学者その他の専門家もその解決に貢献している。彼らの研究も、現場に残された物的痕跡が語っている、隠されたメッセージを解読し続けている。アウシュヴィッツの施設や事件についてのオリジナルな戦時中の文書には、技術者、建築家、物理学者、地理学者の専門報告も必要である。すべての建物や部屋の機能と目的、その設備の稼動の技術的側面と収容容積、医療措置の規模と内容、湿地帯での水路の効果などの収容所のインフラストラクチャを再現するには、最近の10年間に発見・公表された数万の文書の分析が必要である。歴史家だけではその仕事を果たすことはできないし、私のような化学者だけでもできない。

 

「穴がなければ、ホロコーストもない」

 

 Ditlieb Feldererは、殺人「ガス室」の屋根に穴があったかどうかという問題について何らかの論文を公表しているわけではないようであるが、その問題を取り上げた最初の人物である。ロイヒター報告ではこの問題は、表面的にしか触れられていない。私は、使われたとされるガスの化学的残余物が存在するかどうかという問題に関心を抱いていたが、この穴の問題にも関心をしだいており、この穴を探してアウシュヴィッツを訪れた。1991816日、私はビルケナウの焼却棟Uの「ガス室」の崩壊した屋根の上に立ったとき、「ホロコースト」が実在しなかったことを確信した。穴という名に値するような穴をまったく発見できなかったからである。このことを報告書のなかに詳しく記した。1994年、フォーリソンが「穴がなければ、ホロコーストもない」というこの節の題となっている有名な皮肉を作り出した。しかし、「ガス室」の屋根にはまったく穴がないという修正主義者の説に関心が寄せられたのは、2000年の、リップシュタットに対するアーヴィングの名誉毀損裁判のときであった。

 Charles Provanは、インターネットの論文を執筆し、この修正主義者の説を反駁したと主張している。たしかに、彼は、焼却棟Uの屋根の上に穴を発見した。[34] しかし、この穴は、目撃証人が主張しているように、55年前に「ガス室」にチクロンBを投入したのと同じ穴なのであろうか。コンクリートの支柱が崩壊した屋根に穴を開けたものにすぎないのではないだろうか。私は後者であると考えている。しかし、私の見解などどうでもよい。重要なのは事実である。しかし、この場合、どのように事実を明らかにすべきなのであろうか。

 ペルトは次のように記している。

 

250平方フィートのこの一室のなかで、この地球上のどの場所でよりも多くの人々が命を落とした。50万名が殺されたのである。もしも、人間の受難の地図を描こうとしたならば、虐殺の地図を作ろうとしたとすれば、この場所こそがその中心となることであろう。」[35]

 

 ここで、別のケース、やはり悲劇的なケースを考えてみよう。私たちは航空機のクラッシュ事件に何が起こるのか知っている。すなわち、数百名の専門家が事故の残骸を集めるために殺到し、それを巨大な三次元のジグソー・パズルのようにあてはめていく。この目的は、事故の原因を調査して、再発を防止するためである。その経費が惜しまれることはない。

 ビルケナウの焼却棟UとVの死体安置室に対して同じような作業をすることは適切ではないのだろうか。歴史家、技術者、建築学者、考古学者などの数百のスタッフを集め、この部屋の残骸すべてをできるかぎり集め、巨大なパズルを解くように、それを組み立て、これらの部屋が55年前には実際にどのようなものであったのかを解明することである。穴を探し求めて、コンクリートの亀裂をちょっと見ただけで無我夢中で結論に飛び込む前に、それはどのような痕跡であるのかを明らかにしようとすることは論理的ではないのであろうか。

 最近に数年間、これらの部屋のある場所に行って、亀裂や穴から突き出ている鉄筋をはがした人々[36]、穴を探すためにシャベルで屋根の残骸を清掃した人々[37]がいた。このことを聞いて私は恐れおののいた。シャベルを使ってティラノザウルスの骨格を発掘しようとした人物がいたとすれば、古遺物学者はこの人物のことをどう言うであろうか。ホモサピエンスはいったいどこに行ってしまったのであろうか。いったい人々は、いつになったら、賢明な人類として、ホロコーストについて考察し、それに対処するのであろうか。

 焼却棟Uの屋根に穴があったかどうかという問題は些細な問題ではない。もしもなければ、目撃証人の語っているように、チクロンBを「ガス室」に投入することができないし、これらの目撃証人の信用は失われるからである。目撃証言はホロコーストがよって立つ唯一の支柱なので、このような事態が生じれば、遅かれ早かれ、すべてのホロコースト物語が崩壊するであろう。そして、この崩壊も些細な問題ではない。第二次大戦後に戦勝国が定めた国際秩序は、ホロコーストの実在を「大前提」としているからである。ホロコーストは、ドイツ(したがってヨーロッパ)をコントロールし、民族運動を抑圧し、アメリカの支配を維持するために利用されている。無論、左翼の国際主義的運動もそこから権力を引き出し、ユダヤ人とシオニストグループもそれを利用している。

 それでは、誰が真実を知りたがっているのだろうか。アウシュヴィッツの焼却棟を吹き飛ばし、残骸を跡形もなく取り除き、目撃証言に満足してしまうことは、簡単ではないのだろうか。

 もしも、修正主義的な研究者がアウシュヴィッツでは何が実際に起こったのかを確証する研究を行なわなければ、誰も行なわないであろう。われわれの持っている限られた手段と、われわれに科せられた法的制限を考えると、誰も行なわないと結論するのはまったく当然である。したがってわれわれが今すぐできることは、現存している物的な残存物の図面を上から下まで詳細に作成し、文書資料を作り上げることである。そして、そのようにしなくてはならない理由が広く理解されていくことを希望している。

 

犯罪の痕跡?

 

 ホロコーストの正史では、戦時中のドイツ側文書のなかにあいまいな意味合いの語句を発見して、それを犯罪を意味するものとして解釈するというやり方が一般的である。そのようなことを行なったのはプレサックが最初ではないが、彼はそれをもっとも徹底的に行ない、結果として非常に醜悪な事態となってしまった。[38] これに対する修正主義者の批判は徹底的であり、絶滅論者にとっては壊滅的な事態となってしまった。[39] 修正主義者の解釈は、一方では、アウシュヴィッツに関する文書――連合国の航空写真も含む――およびその文脈についての徹底的な知識、他方では、技術と建築に関するさまざまな分野の専門的知識にもとづいてきた。

 

無罪を証明する痕跡!

 

 このような研究方法がアウシュヴィッツの大量の文書に適用された結果、アウシュヴィッツ収容所システムの歴史に光を投げかけるようなもう一つの、さらに重要な成果が生み出された。クロウェルは、SSが連合国の空襲から囚人を守るために建設した防空シェルターについての資料を発掘した。ラムカーとノヴァクは、SSが囚人の命を守るために、近代的な(高度な)そして高価な高周波害虫駆除施設を設置した様子を詳細に明らかにした。[40] 彼らはMichael GärtnerWerner Rademacherと共同して、アウシュヴィッツ収容所の歴史の全体像を明らかにしようとしている。アウシュヴィッツ収容所は、数万の囚人の生存を保障するのに必要なすべての設備、すなわち、病院、歯医者、厨房、洗濯場、肉屋、運動場や庭のようなリクリエーション施設を備えていたのである。このような収容所群の建設には5億ドルほどの費用が必要であったが、そのような事実は、ドイツ当局はこの収容所を絶滅収容所として使おうとしていたという説とは矛盾している。一人あたり500ドルを使うよりも安価な殺戮方法が存在するのに。[41]

 

アウシュヴィッツ法医学の将来

 

 科学の夜明け以来、科学者たちは永久運動機械を捜し求めてきた。彼らは、その探求の当初に科学自体を発見したとはまったく気づいていなかったようである。それゆえ、アウシュヴィッツについての法医学的研究は、その研究成果が論争的な性質、非常にイデオロギー的な性質をもっているとみなされているとすれば、終わることがないであろう。しかしながら、研究の方向と方法を設定したのは、ホロコーストの大量ガス処刑説の政治的金銭的目的が何であれ、想像力や好奇心を排して、この大量ガス処刑説が真実であるかどうかを探求しようとした、この分野の先駆者、すなわち修正主義者であった。だから、アウシュヴィッツは、これまでと同様に、すべての焦点であり続けるであろう。

 最近の例を挙げておこう。2000年初頭、オーストラリアの技術者Richard Kregeはドイツの強制収容所とされている地域の周辺に大量埋葬地が存在しているかどうかを探るために、地下浸透レーダーを使った。予備的研究は2000年初頭に、私の編集するドイツ語の季刊誌に発表された。[42]  Kregeは、地下の土壌にある不審物を明らかにする地質学的方法を適切に応用して、さらに徹底的な調査を行なうことを約束した。彼の仕事は、ロイヒターの仕事が13年前にそうしたように、新しい地平を切り開くものであろう。もちろん、彼に続いて、支配的なドグマとタブーに挑戦する者が続くであろう。

 

結論

 

 過去に犯されたとされる犯罪を扱うにあたって、法医学はアウシュヴィッツの謎を解く鍵である。必要な規模での法医学的調査を実行したり、あるいは要求したりする力を持っているグループは、そのようなことをしようとしたがっていないようである。むしろ逆の事態となっている。力を持っているグループはアウシュヴィッツについて、したがってホロコーストについての見解をかえることにまったく関心を抱いていないし、まさにそのようなことができる法医学にも関心を抱いていない。それどころか、世界中で、権力機関は、このような研究を提唱したり試みたりしている人々を迫害・訴追している。このような事態はわれわれの歩みを遅らせるかもしれないが、留めることはできないであろう。

 修正主義的な研究者が法医学を使って大きな発見を成し遂げると、彼らは中傷や迫害だけではなく、学術的偽造や、クラクフの法医学報告が典型的なように、専門的なペテンに直面する。ホロコースト神話の炎の保持者は、このような手段に訴えなくてはならないほど絶望的な状況に陥っているのであろうか。アウシュヴィッツの埋葬地や「ガス室」とされている廃墟が科学的調査の対象となることを防ぐことによって、彼らは、自分たちの名と、アウシュヴィッツ神話の廃墟を葬るという危険をおかしているのである。

 

 

著者について

 ゲルマール・ルドルフは、シュトゥットガルトの有名なマックス・プランク研究所に勤務しているときに、化学の博士論文を完成させた。しかし、アウシュヴィッツの「ガス室」に関する法医学的研究が公表されたとき、大学当局は博士論文の完成を禁止した。1995年、ルドルフはルドルフ報告を執筆した罪状で懲役14ヶ月の刑を宣告された。同年、ホロコースト問題の研究書である『現代史の基礎』のすべてのコピーが、裁判所の命令で没収・破棄された(英語版の『ホロコーストの解剖』はIHRから購入できる)。ルドルフは修正主義的季刊誌Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschungを編集し、今では、合衆国で政治的保護を求めている。彼は、アーヴィング・リップシュタット裁判の控訴審で、アーヴィングを弁護する長文の供述書を提出した。



[1] ドイツ語ではDokumentationszentrum des Österreichischen Widerstandes(オーストリア・レジスタンス資料センター)とオーストリア連邦教育文化省によって、 Amoklauf gegen die Wirklichkeit (Vienna, 1991), pp. 36-40公表されている。原本はアウシュヴィッツ国立博物館にある。

[2] F. Kadell, Die Katyn Lüge (Münich: Herbig, 1991)を参照。

[3] 194286日のSS Wirtschafts- und Verwaltungs- hauptamt, Oranienburgから 強制収容所長への書簡。IMT Document 511-USSR、それはDer Prozess gegen die Hauptkriegsverbrecher vor dem Internationalen Militärgerichtshof (Nuremberg, 1949), pp. 553fに引用されている。この書簡は、長さ20p以上の髪の毛の再利用を命じている。

[4] 亜鉛は、長期にわたって安定した鉄シアン化合物の生成に必要な錆の生成を阻害する。

[5] 地上のアルカリ性シアン化合物と同様に、亜鉛シアン化合物は、湿気によってゆっくりと分解してしまう。

[6] H. Buchheim et al., Anatomie des SS-Staates (Freiburg: Walter, 1964).

[7] 「ホロコースト事件」での著名なドイツ人検事の一人アダルベルト・リュッケルルは、その著作のなかで、物的証拠にはまったく触れていない。その代わりに、文書資料自体の信憑性と正確さを保証する物的証拠がなくても、文書資料的証拠が最良で最重要な証拠であると述べている (in J. Weber, P. Steinbach, eds., Vergangenheitsbewältigung durch Strafverfahren? [Munich: Olzog,1984] p. 77)。また、文書資料的証拠だけで容疑者を有罪とするのは不可能なので、事件と裁判とのあいだに長い期間があることをとくに考慮すると、とくに、「民族社会主義者犯罪裁判」のような特殊な裁判では、その信頼性が疑わしいものであったとしても、目撃証言に頼らざるをえなかったと述べている(A. Rückerl, NS-Verbrechen vor Gericht [Heidelberg: C. F. Müller, 1984], p. 249; Rückerl, Nationalsozialistische Vernichtungslager im Spiegel deutscher Strafprozesse [Munich: dtv, 1978], p. 34; Rückerl, NS-Prozesse [Karlsruhe: C. F. Müller, 1972], pp. 27, 29, 31.)

[8] 弁護側が、法律的な無能力であり、そのためにまったくナイーヴであった典型は、ハンス・ラテルンザーである。Die andere Seite im Auschwitzprozess 1963/65 (Stuttgart: Seewald,1966)

[9] この考え方の代表はノルテ教授である。Streitpunkte (Berlin: Propyläen, 1993), pp. 290, 293, 297.

[10] たとえば、フランクフルト・アム・マインの陪審法廷の判決は、犯罪、その犠牲者、凶器、ひいては犯人についての証拠はまったく存在しないと述べている。Ref. 50/4 Ks 2/63; cf. I. Sagel-Grande, H. H. Fuchs, C. F. Rüter, eds., Justiz und NS-Verbrechen, vol. 21

[11] Ref. 20 Vr 6575/72 (Hv56/72); この参照番号はペルトが自分の報告The Pelt Report, Irving vs. Lipstadt (Queen's Bench Division, Royal Courts of Justice, Strand, London, David John Cawdell Irving ./. [1] Penguin Books Limited, [2] Deborah E. Lipstadt, Ref. 1996 I. No. 113; p. 135 n. 59: 20 Vr 3806/64 and 27 C Vr 3806/64)で引用しているものと異なっている。

[12] 当面のあいだ匿名でなくてはならないこの専門家との個人的連絡。Michael Gärtner, "Vor 25 Jahren: Ein anderer Auschwitzprozess," Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung (VffG)1, no. 1(1997), pp. 24f. (vho.org/VffG/1997/1/Gaertner1.html)を参照。

[13] Udo Walendy, Historische Tatsachen 60 (Vlotho: Verlag für Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, 1993), pp. 7-10.

[14] Mémoire en défense (Paris: La Vieille Taupe, 1980); Serge Thion, ed., Vérité historique ou vérité politique? (Paris: La Vieille Taupe, 1980) (online: aaargh.vho.org/fran/histo/SF1.html); R. Faurisson, Écrits révisionnistes, 4 vols., published by author,Vichy,1999を参照。また、Faurisson, Es gab keine Gaskammern (Witten: Deutscher Arbeitskreis Witten, 1978)を参照。

[15] R. Faurisson, "Le camere a gas non sono mai esistite," Storia illustrata 261 (1979), pp. 15-35 (online: aaargh.vho.org/fran/archFaur/RF7908xx2.html); cf. Faurisson, "The Mechanics of Gassing," The Journal of Historical Review (JHR) 1, no. 1 (spring 1980), pp. 23ff. (online: aaargh.vho.org/engl/FaurisArch/RF80spring.html); Faurisson, "The Gas Chambers of Auschwitz Appear to Be Physically Inconceivable," JHR 2, no. 4 (winter 1981), pp. 311ff. (online: vho.org/GB/Journals/JHR/2/4/Faurisson312-317.html)

[16] "'Le problème des chambres à gaz' ou 'la rumeur d'Auschwitz,'" Le Monde, December 29, 1978, p. 8; see also "The 'problem of the gas chambers," JHR 1, no. 2 (summer 1980), pp. 103-114 (online: ihr.org/jhr/v01/v01p103_Faurisson.html).

[17] F. A. Leuchter, An Engineering Report on the Alleged Execution Gas Chambers at Auschwitz, Birkenau and Majdanek, Poland, Samisdat Publishers Ltd., Toronto 1988 (ihr.org/books/leuchter/leuchter.toc.html).

[18] ロイヒター自身の発言は、"Witch Hunt in Boston," JHR 10, no. 4 (winter 1990), pp. 453-460; "The Leuchter Report: The How and the Why," JHR 9, no. 2 (summer 1988), pp. 133-139を参照。

[19] 初期の注目すべき研究だけをあげておく。J.-C. Pressac, Jour J, December 12, 1988, i-x; Pressac in: S. Shapiro, ed., Truth Prevails: Demolishing Holocaust Denial: The End of the Leuchter Report, (NY: Beate Klarsfeld Foundation, 1990); W. Schuster, "Technische Unmöglichkeiten bei Pressac," Deutschland in Geschichte und Gegenwart (DGG) 39, no. 2 (1991), pp. 9-13 (vho.org./D/DGG/Schuster39_2); Paul Grubach, "The Leuchter Report Vindicated: A Response to Jean-Claude Pressac's Critique," JHR 12, no. 2 (summer 1992), pp. 248ff. (codoh.com/gcgv/gc426v12.html); Helmut Auerbach, Institut für Zeitgeschichte, letter to Bundesprüfstelle, München, Oct. 10, 1989; Auerbach, November 1989, both published in U. Walendy, Historische Tatsache 42 (Vlotho: Verlag für Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, 1990), pp. 32 and 34; see my technical appraisal of Auerbach's writings in Henri Roques, Günter Annthon, Der Fall Günter Deckert (Weinheim: DAGD/Germania Verlag, 1995), pp. 431-435 (vho.org/D/Deckert/C2.html); W. Wegner, "Keine Massenvergasungen in Auschwitz? Zur Kritik des Leuchter-Gutachtens," in U. Backes, E. Jesse, R. Zitelmann, eds., Die Schatten der Vergangenheit (Frankfurt: Propyläen, 1990), pp. 450-476 (vho.org/D/dsdv/Wegner.html, with interpolated critique by the present writer); on this cf. W. Häberle, "Zu Wegners Kritik am Leuchter-Gutachten," DGG 39, no. 2 (1991), pp. 13-17 (online: vho.org/D/DGG/Haeberle39_2.html); J. Bailer, "Der Leuchter-Bericht aus der Sicht eines Chemikers," in Amoklauf gegen die Wirklichkeit, pp. 47-52; cf. E. Gauss (alias G. Rudolf), Vorlesungen über Zeitgeschichte (Tübingen: Grabert, 1993), pp. 290-293; Gauss, "Chemische Wissenschaft zur Gaskammerfrage," DGG 41, no. 2 (1993), pp. 16-24 (online: vho.org./D/DGG/Gauss41_2); J. Bailer, in B. Bailer-Galanda, W. Benz, W. Neugebauer, eds., Wahrheit und Auschwitzlüge (Vienna: Deuticke, 1995), pp. 112-118; cf. my critique "Zur Kritik an 'Wahrheit und Auschwitzlüge,'" in Herbert Verbeke, ed., Kardinalfragen zur Zeitgeschichte (Berchem: Vrij Historisch Onderzoek, 1996), pp. 91-108 (vho.org/D/Kardinal/Wahrheit.html); English: "Critique of 'Truth and the Auschwitz-Lie'" (online: http://vho.org/GB/Books/cq/critique.html); G. Wellers, "Der Leuchter-Bericht über die Gaskammern von Auschwitz," Dachauer Hefte 7, no. 7 (November 1991), pp. 230-241.

[20] もっとも顕著なのは、イタリアの歴史家、アメリカの歴史家Samuel CrowellMichael GärtnerHans LamkerHans Jürgen NowakWerner RademacherGottfried Sängerといった南ドイツの技術者と建築家のグループの研究である。彼らの研究の包括的なリストは、www.vho.org/i/a.html.にあるオンラインの修正主義者の検索エンジンに名前を入れていただきたい。

[21] J. Markiewicz, W. Gubala, J. Labedz, B. Trzcinska, Prof. Dr. Jan Sehn Institute for Forensic Research, Department for Forensic Toxicology, Krakow, September 24, 1990; partly published in DGG 39, no. 2 (1991), pp. 18f. (vho.org/D/DGG/IDN39_2.html); English: "An Official Polish Report on the Auschwitz 'Gas Chambers,'" JHR 11, no. 2 (summer 1991), pp. 207-216 (vho.org/GB/Journals/JHR/11/2/ IHR207-216.html).

[22] マイダネクとシュトゥットホフでは少々異なっている。そこの部屋は明らかに害虫駆除施設として使われたのであるが、殺人ガス室としても使われたという話になっている。だから、そこにはアウシュヴィッツと同じような観察をすることはできない。しかし、高度な鉄シアン化合物の残余物は殺人ガス処刑の結果としては生じないという説――まったく虚偽の理由であるが、ここでは論じない――が広まっているので、青のしみは部屋を害虫駆除施設として使った場合に生じるという見解は、論争の当事者すべてに受け入れられていることになる。

[23] Jan Markiewicz, Wojciech Gubala, Jerzy Labedz, "A Study of the Cyanide Compounds Content in the Walls of the Gas Chambers in the Former Auschwitz and Birkenau Concentration Camps," Z Zagadnien Nauk Sadowych / Problems of Forensic Science 30 (1994), pp. 17-27 (online: www2.ca.nizkor.org/ftp.cgi/orgs/polish/institute-for-forensic-research/post-leuchter.report).

[24] プロシアン・ブルーを含むペンキは存在しない。プロシアン・ブルーは新しい漆喰の上では分解してしまうからである(プロシアン・ブルーはアルカリ性の環境では不安定である)。だから、誰も、壁にプロシアン・ブルーを塗ることはできない。

[25] クラクフのヤン・ゼーン法医学研究所、法医学毒物学局教授からW. Wegnerへの手紙、日付はない、(1991/92の冬)、署名は判読しがたい、おそらく、Markiewicz博士自身であろう。未公表。部分的にRüdiger Kammerer, Armin Solms, eds., Das Rudolf Gutachten: Gutachten über die Bildung und Nachweisbarkeit von Cyanidverbindungen in den "Gaskammern" von Auschwitz (London: Cromwell Press, 1993)に引用されている。

[26] E. Gauss (alias G. Rudolf), Vorlesungen über Zeitgeschichte (Tübingen: Grabert, 1993); on the chemistry involved here, cf. pp. 163ff., 290-294 (vho.org/D/vuez/v3.html#v3_4 and ~/v5.html#v5_5).

[27] G. Rudolf, Das Rudolf Gutachten, 2nd ed. (Hastings, Eng.: Castle Hill Publishers, 2001).

[28] 1976年バイエルン(メーダー-ヴィーゼンフェルト)で、最近壁塗りされた教会がチクロンBで薫蒸消毒されたとき、建物損傷事故が起こった。数ヵ月後、漆喰は、プロシアン・ブルーの作り出した青い斑点で覆われた。Günter Zimmermann, ed., Bauschäden Sammlung, vol. 4 (Stuttgart: Forum-Verlag, 1981), pp. 120f.; reprint in Ernst Gauss (alias G. Rudolf), ed., Grundlagen zur Zeitgeschichte (Tübingen: Grabert, 1994, pp. 401ff.; (codoh.com/inter/intgrgauss.html; English: vho.org/GB/Books/dth/fndwood.html)を参照。さらに、まだ現存している東ヨーロッパにあった強制収容所の害虫駆除施設すべてが、壁に、膨大な量のプロシアン・ブルーを残している。注25の私の報告(vho.org/D/rga/prob9_22.html and following pages); Jürgen Graf, Carlo Mattogno, KL Majdanek: Eine historische und technische Studie (Hastings, Eng: Castle Hill Publishers, 1998) (vho.org/D/Majdanek/MR.html); Jürgen Graf, Carlo Mattogno, Das Konzentrationslager Stutthof und seine Funktion in der nationalsozialistischen Judenpolitik (Hastings, Eng: Castle Hill Publishers, 1999) (vho.org/D/Stutthof/index.html)を参照。

[29] G. Rudolf, "Leuchter-Gegengutachten: Ein Wissenschaftlicher Betrug?," DGG 43, no. 1 (1995), pp. 22-26 (vho.org/D/Kardinal/Leuchter.html; Engl.: vho.org/GB/Books/cq/leuchter.html); G. Rudolf and J. Markiewicz, W. Gubala, J. Labedz, "Briefwechsel," Sleipnir 1, no. 3 (1995), pp. 29-33; reprinted in Verbeke, ed., Kardinalfragen zur Zeitgeschichte, pp. 86-90 (online: as above).

[30] Kammerer, Solms, eds., Das Rudolf Gutachten (vho.org/D/rga/). この報告の背景、歴史、反響についてはW. Schlesiger, Der Fall Rudolf (London: Cromwell, 1994) (online: vho.org/D/dfr/Fall.html); English: The Rudolf Case (vho.org/GB/Books/trc); and Verbeke, ed., Kardinalfragen zur Zeitgeschichte (vho.org/D/Kardinal/); English: Cardinal Questions about Contemporary History (vho.org/GB/Books/cq/); cf. "Hunting Germar Rudolf," vho.org/Authors/RudolfCase.htmlを参照。

[31] この350頁のラージ・フォーマットのハード・カバー版は、30ドルで、www.tadp.org Theses & Dissertations Press, PO Box 64, Capshaw, AL 35742に注文することで入手できる。

[32] J. Bailer, in B. Bailer-Galanda, W. Benz, W. Neugebauer, eds., op. cit. (19参照);これに対する私の回答は"Zur Kritik an 'Wahrheit und Auschwitzlüge'"/"Critique of Truth and the Auschwitz-Lie," in Herbert Verbeke, ed., Kardinalfragen zur Zeitgeschichteを参照。あまり洗練されていないものとしてB. Clair, "Revisionistische Gutachten," VffG 1, no. 2 (1997), pp. 102-104 (vho.org/VffG/1997/2/Clair2.html)。私の回答"Zur Kritik am Rudolf Gutachten," ibid., pp. 104-108 (vho.org/VffG/1997/2/RudGut2.html); further, La Vieille Taupe/Pierre Guillaume, "Rudolf Gutachten: 'Psychopathologisch und Gefährlich': Über die Psychopathologie einer Erklärung," VffG 1, no. 4 (1997), pp. 224f. (vho.org/VffG/1997/4/Guillaume4.html).ペルトは私の議論を検証しておらず、プレサックの誤りを繰り返し、事態を悪くしている。op. cit. (see note 11 above); cf. G. Rudolf, "Gutachter und Urteilsschelte," VffG 4, no. 1 (2000), pp. 33-50 (vho.org/VffG/2000/1/Rudolf33-50.html); more exhaustively, in English, vho.org/GB/c/GR/RudolfOnVanPelt.html and .../CritiqueGray.html.

[33] Richard J. Green, "The Chemistry of Auschwitz," May 10, 1998, holocaust-history.org/auschwitz/chemistry/, und "Leuchter, Rudolf and the Iron Blues," March 25, 1998, holocaust-history.org/auschwitz/chemistry/blue/, with considerable proselytizing "anti-fascist" bias. A detailed description of the deficiencies of the paper appeared in "Das Rudolf Gutachten in der Kritik, Teil 2," VffG 3, no. 1 (1999), pp. 77-82 (vho.org/VffG/1999/1/RudDas3.html); English.: "Some Considerations about the 'Gas Chambers' of Auschwitz and Birkenau," vho.org/GB/Contributions/Green.html; for the response see: Richard J. Green, Jamie McCarthy, "Chemistry is Not the Science," May 2,1999, holocaust-history.org/auschwitz/chemistry/not-the-science/. About 50 percent of the article consists of political accusations and vilification. For a response, see G. Rudolf, "Character Assassin," online: vho.org/GB/Contributions/CharacterAssassins.html.

[34] Charles D. Provan, "No Holes? No Holocaust?: A Study of the Holes in the Roof of Leichenkeller I of Krematorium 2 at Birkenau" (www.revisingrevisionism.com)

[35] Van Pelt's testimony in Errol Morris's documentary film Mr. Death: The Rise and Fall of Fred A. Leuchter, Jr.

[36] 少なくとも一人の修正主義者が、1996年春に焼却棟Uの死体安置室1の屋根でそのようなことをした。

[37] バルフォードという名の一人の技術者がそのようなことをした。彼の同僚は、アウシュヴィッツ国立博物館のために、収容所の保存・再現を手伝っていた。彼は、この件をアーヴィングに伝えている。

[38] Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers (NY: Beate Klarsfeld Foundation, 1989); Les Crématoires d'Auschwitz: la Machinerie du meurtre de masse (Paris: CNRS, 1993).

[39] プレサックの最初の本に対する批判については、R. Faurisson, JHR 11, no. 1 (spring 1991), p. 25ff.; JHR 11, no. 2 (1991), p. 133ff. (French: www.lebensraum.org/english/04.adobe.faurisson/pressac.pdf); F. A. Leuchter, The Fourth Leuchter Report (Toronto: Samisdat, 1991) (www.zundelsite.org/english/leuchter/report4/leuchter4.toc.html)を参照。プレサックの二番目の本に対する批判については。Herbert Verbeke, ed., Auschwitz: Nackte Fakten (Berchem: VHO, 1995), pp. 101-162 (online: vho.org/D/anf/; English: Auschwitz: Plain Facts, vho.org/GB/Books/anfを参照。プレサックの方法論に対する批判については、G. Rudolf, "Gutachten über die Frage der Wissenschaftlichkeit der Bücher Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers und Les Crématoires d'Auschwitz. la Machinerie du meurtre de masse von Jean-Claude Pressac," in Schlesiger, Der Fall Rudolf (vho.org/D/dfr/Fall.html#Gutachten); English: see vho.org/GB/Books/trc#expert-report; see also Pierre Guillaume's criticism, De la misère intellectuelle en milieu universitaire, B.p. 9805, 75224 Paris cedex 05, 1995 (aaargh.vho.org/fran/archVT/vt9309xx1.html)を参照。また、S. Crowellのさまざまな著作とそれに対するマットーニョの回答およびこのテーマについての要約を含む私の報告の英語版(刊行予定)を参照。

[40] H. Nowak, "Kurzwellen-Entlausungsanlagen in Auschwitz," VffG 2, no. 2 (1998), pp. 87-105; English version in Gauss, ed., Dissecting the Holocaust (Capshaw, AL: Theses & Dissertations Press, 2000), pp. 311-324; H. Lamker, "Die Kurzwellen-Entlausungsanlagen in Auschwitz, Teil 2," VffG 2, no. 4 (1998), pp. 261-273; see also Mark Weber, "High Frequency Delousing Facilities at Auschwitz," JHR 18, no. 3 (May-June 1999), pp. 4-12.

[41] W. Rademacher, M. Gärtner, "Berichte zum KL Auschwitz," VffG 4, no. 3-4 (2000), pp. 330-344.

[42] R. Krege, "Vernichtungslager Treblinka -- archäologisch betrachtet," VffG 4, no. 1 (2000), pp. 62-64.