<質問08>
たとえ1000人であっても多すぎるのに、何名のユダヤ人が第三帝国時代に殺されたのかという問題はそれほど重要なのですか?
<回答>
もちろん、たとえ一人であっても多すぎるというのは正しいし、たとえ直接の死をもたらさなかったとしても、第三帝国による迫害措置はあらゆる面で受け入れることはできないものです。しかし、このような言い方は、ユダヤ人の絶滅が行なわれたのかどうか、どのように行なわれたのかということについての統計学的調査に対しては有効ではありません。それには3つの理由があります。
第一に、数十年にわたって、犠牲者の数はまさに神聖なものとみなされてきましたので、このような言い方は有効ではありません。犠牲者の数の問題ではないとしたら、その数を社会的なタブー、ひいては犯罪となるようなタブーとして守る必要はないでしょう。600万という数字には、たんに非常に多くの人々が死んでいったという以上の意味が付与されています。この数字に対して正当な疑問を抱いてしまうと、ホロコーストについてのその他の局面に対する望ましからざる疑問を抱くようになってしまうので、この数字は捨て去ることのできないシンボルとなってしまっているからです。個々人の犠牲者の悲劇を否定するわけではありませんが、学術的には、この数字が議論の対象となるべきであると主張しなくてはなりません。一方では、600万という数字を疑っている人々が社会的に迫害され、ひいては、刑事訴追の対象となっているのに、その一方で、社会や司法制度が、この数字自体大して重要ではなく、一人であってもその尊厳を傷つけていると主張することで、この600万という数字に対する異論を封じ込めているのは、まったく矛盾しています。600万という数字は、刑法によって保護されるに値する数字なのでしょうか、それとも、大して重要ではない数字なのでしょうか。一度に双方であることはできません。
第二に、これがもっとも重要な論点なのですが、たとえ一人の犠牲者でも多すぎるという倫理的には正しい評価は、学術研究を禁止する口実とはなりえないということです。このような口実は、正確な答えを発見するためにいつも学術研究が認められていなくてはならないという単純な理由からも受け入れることができません。たとえ小さな数値であってもそれだけで十分に悪いものであるのだから、科学者はストレス実験の正確な数値の決定を許されるべきではないと、政府機関が要求したらどのようなことになるでしょうか。科学者が、このような馬鹿げた要求にしたがえば、間違った分析結果を出して、自分を雇っている会社に大きな損失を与えてしまいます。歴史家についても同じことが言えます。歴史家たちが道徳的に認められないとの理由で、批判的な調査を行なうことを禁止されれば、このような歪められた歴史学の成果は信頼できないと考えなくてはなりません。そして、現代史についての私たちの知識は、政治に直接影響をおよぼしてしまうので、私たちの政治も間違いを犯し、信頼できないものとなってしまうのです。正確な数字と数値を出すことは、すべての科学の基本的な機能であり、責任なのです。工学、物理学、化学にあてはまる原則が、歴史学の分野では、政治的な理由から放棄されてしまうとすれば、私たちの知性は暗黒の中世に逆戻りしてしまうことになります。
第三に、これも重要なのですが、たとえ一人の犠牲者でも多すぎるという道徳的に正しい考え方は原則的に、人類史の中で独自で、ほかに前例のないものとして道徳的に咎められるべき犯罪を学術的に調査することに対する障害となりえないことです。史上独自に咎められるべき犯罪であっても、他の犯罪に適用される標準的な調査方法が適用されるべきですし、詳しく調査されるべきなのです。この犯罪が史上独自のものであるとみなす人々は、この独自性が事実であると受け入れられる以前に、この犯罪を徹底的に調査し、その上で、この犯罪が史上独自のものであると主張すべきなのです。ある人物や団体が、道徳的憤慨を理由に、この史上独自とされる犯罪の調査を妨害したとすると、この人物や団体自身が、史上独自の犯罪を犯しているのです。彼らによる史上独自の犯罪は、まず、馬鹿げた告発に対する弁護を否定し、ついで、異常な罪という口実を使って、このような専制的措置に対する批判を封じているのです。第二次大戦後のドイツはそうした専制的措置の対象となりました。その結果、ドイツ人はまず、野蛮人とされ、次いで中傷され、自分を弁護する機会を奪われていったのです。勝者=連合国による敗者=ドイツの処分こそが、まさに史上独自のものでした。同じ連合国は、裁判所においては、もっとも凶悪な殺人犯に対しても弁護の機会を与えているのですから。