<質問06

強制収容所の死体の山を写した写真[ベルゼン・ベルゲン収容所での死体の山の写真――省略]は何を意味しているのですか?

 

<回答>

 これは、ベルゲン・ベルゼン強制収容所の大量埋葬地でのチフスの犠牲者の写真です。イギリス軍が撮影したものです。このような写真は、まったくコメントなしで、もしくは、死者はホロコーストの犠牲者であるとの話をつけて、ホロコーストについてのドキュメンタリー・テレビ番組に登場しています。実際には、これは、戦争末期に起こった疫病の犠牲者の写真です。死因は死体の状態から明らかです。彼らがガス処刑されているとすれば、衰弱した死体ではないでしょうし、飢餓で死んだとすれば、関節や腹部が膨張していることでしょう。医学専門家が一目見れば、チフスが死因であることがすぐにわかるでしょう。

 死体の山の写真が撮影されているのは、ダッハウ、ベルゲン・ベルゼン、ブッヘンヴァルトといった西部地区の収容所であり、戦争末期のことです。今では、このような強制収容所では大量殺戮が行なわれなかったことについては、歴史家たちの意見は一致しています。興味深いことに、大量殺戮が行なわれたとされる収容所(アウシュヴィッツ、トレブリンカ、ベルゼク、ソビボル、チェルムノ、マイダネク)については、このような写真は存在していません。これらの東部地区の収容所は、戦争末期にはすべてソ連の支配下に入りました。ソ連側が大量埋葬地や死体の山の写真を公表しておらず、[西側の]ジャーナリスト、医学専門家その他の専門家にこれらの収容所の検証を許さなかったという事実は多くのことを物語っています。1980年代末から、修正主義者は大量殺戮の証拠を求めて、これらの収容所を調査してきましたが、当局は可能な限りの手段を使ってこの調査を妨害してきました。

 大量殺戮を記録した本物の写真が存在しなかったので、西部地区の収容所の中で戦争末期に栄養失調やチフスで死亡した人々の写真が、意図的な大量殺戮の証拠として展示されるということがたびたび生じています。たしかに、戦争末期の西部地区の収容所は地獄のような状況であったので、多くの連合国の観察者は、その最初の記事が示しているように、大量殺戮が起こったと思い込んでしまいました。実際には、このような状況に責任があったのはドイツ政府だけではありませんでした。戦争末期、ヒムラーは、赤軍が進撃してきたので、東部地区の収容所の疎開を命じました。その結果、西部地区の収容所は絶望的なほどに人口過密となってしまいました。当時、連合国の空襲がドイツのインフラストラクチャーを完全に破壊してしまっていたので、食料、医療品、保健・衛生物資を収容所に供給することはできなくなっていたのです。今日でも、とくにアメリカ人のあいだでは、この大量死の原因についての誤解が続いています。

 左翼の高名な歴史家Norbert Freiはこの誤解の原因を次のように述べています(Vierteljahrshefte für Zeitgeschichte 35 (1987) page 400)。

 

[死体の山]が発見されたショックで、間違った結論が生み出され、その結論が長く続くことになった。」

 

 収容所に人々を拘束した政府が囚人たちに責任を負っており、不正に拘束された人々が、たとえ病死したとしても、第三帝国の犠牲者であったことを否定することはできません。しかし、戦争末期には、死体の山がドイツ各地では当たりまえのことになっていたという事実を見過ごすべきではありません。ドイツの各都市では、連合国によるテロル的な空襲によって60万人が犠牲者となりました。数百万以上が、飢餓と疫病――1949年まで蔓延した――で死亡しました。ドイツ東部とチェコスロヴァキアでは、300万人のドイツ人が、史上もっとも血なまぐさい民族浄化の過程で、セルビア人、チェコ人、ポーランド人、ロシア人に殺されました。西側連合国の捕虜収容所では、100万のドイツ青年が死亡し、数百万以上が草木のように暮らしました。数十万以上のドイツ人がソ連の収容所群島の労働収容所に移送され、戻ってきませんでした。しかし、マスメディアがとりあげているのは、[ドイツの]強制収容所の死体の山の写真だけです。私たちは、なぜこのような事態になっているのか自問すべきです。

 虐殺の犠牲者に対する尊厳と敬意は、その民族によって異なるというのでしょうか。

 

ホロコースト修正主義についてのQ&A

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