ホロコースト再審法廷
審理事項:中央収容所焼却棟Tでのガス処刑
開廷日:2003年8月20日
公判記録作成者:加藤一郎
裁判長:ホロコースト再審法廷を開廷します。本日の公判は、アウシュヴィッツ中央収容所焼却棟Tでは、ガス処刑が行なわれたという検事側の告発を審理したいと思います。
裁判長:まず、本件について、検事側の立証を求めます。
検事側立証
検事:まず、アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘス氏の証言を求めます。なぜ、焼却棟Tがガス処刑場に選ばれたのですか。
ヘス:900名のロシア人がガス処刑されたことをはっきりと覚えています。ブロック11のガス処刑目的での使用が非常に多くの困難を引き起こしていたので、すぐあとに、古い焼却棟で行なわれました。
検事:ブロック11でのガス処刑には、技術上、実際上の困難があったので、焼却棟Tの死体安置室がガス処刑場の候補となったのですね。
ヘス:はい。
検事:焼却棟Tではどのようにガス処刑が行なわれたのですか。
ヘス:囚人が貨車から降ろされているあいだに、穴が、死体安置室のコンクリートの天井に開けられました。900名のソ連軍捕虜は服を脱ぐように命令されました。服を脱いだあと、彼らは、殺菌消毒を受けるといわれていたので、死体安置室に穏やかに入りました。死体安置室に犠牲者全員が入ると、ドアが閉じられ、屋根の穴からガスが投げ込まれました。この殺人がどのくらいの長さ続いたのかわかりません。しばらくのあいだ、うめき声が聞こえまし。丸薬が投げ込まれると、『ガス!』という悲鳴がありました。大きな怒鳴り声がして、囚人は二つのドアに殺到しました。しかし、ドアはびくともしませんでした。数時間後に、換気をするためにドアは開けられました。[1]
検事:次に、アウシュヴィッツのSS隊員ペリー・ブロード(Pery Broad)氏の証言を求めます。焼却棟Tでのガス処刑はどのように行なわれたのですか。
ブロード:焼却棟の建物は次のようでした。屋根は平らで、そこには直径10cmの穴が6つありました。缶が開けられると、この穴を介して、ガスが投入されました。
検事:焼却棟Tには、一時にどのくらいの人々が詰め込まれたのですか。
ブロード:私が目撃したときには、300か400名ほどでした。500名のときもあったかもしれません。
検事:ガス処刑で500名を殺すには、どれほどの時間がかかったのですか。
ブロード:焼却棟の中で殺される人々の叫び声が、2、3分ほど聞こえました。
検事:あとで、ガス処刑についてもっと知ることができましたか。
ブロード:このガスの名前を知ることができました。チクロンでした。[2]
検事:次に、アウシュヴィッツ元囚人スタニスワフ・ヤンコフスキ(Stanislaw Jankowki)氏の証言を求めます。あなたは、アウシュヴィッツ収容所の特別労務班員でしたね。
ヤンコフスキ:はい。
検事:焼却棟Tでのガス処刑の様子を話してください。
ヤンコフスキ:私たちは、もっと大勢の移送集団のために使われることになっていた死体安置室を清掃するように命じられました。このとき、死体安置室には多くの死体が集められていました。このために、私たちは2日間昼夜兼行で死体を焼却しました。死体安置室が水曜日の午前11時に清掃されると、ビルケナウからの390名ほどの人々が、SS隊員に厳しく監視されながら広場につれてこられました。私たちユダヤ人は、死体安置室を出て、石炭室に行くように命じられました。少し時間がたってから、広場に戻ることを許されました。そこには囚人たちの衣服だけがありました。私たちは死体安置室に行くように命じられましたが、そこには死体がありました。ガス処刑された囚人の番号を書きとめたのちに、死体を炉に運ばなくてはなりませんでした。[3]
検事:次に、アウシュヴィッツの元囚人フィリップ・ミューラー(Filip Müller)氏の証言を求めます。焼却棟Tでの犠牲者の死体の搬出を行なったのですね。
ミューラー:はい。
検事:ガス室の中はどのような様子でしたか。
ミューラー:注意深く辺りを見回しました。部屋の後ろの床に、青緑色の小さな結晶があることに気づきました。それらは、天井の穴から落ちてきたのです。[4]
検事:次に、アウシュヴィッツ博物館研究員ピペル(Franciszek Piper)博士に、中央収容所焼却棟Tの歴史の概略について質問します。焼却棟Tは、ガス室を備えた大量殺戮装置として設計・建設されたのですか。
ピペル:いいえ、違います。自然死した囚人、もしくは殺害・処刑された囚人の死体を焼却する通常の焼却棟として設計・建築されました。この焼却棟が1940年に稼動し始めるまでは、囚人の死体は、収容所の外の町の焼却棟で焼却されていました。
検事:ピペル博士、この焼却棟はどのくらいの大きさですか。
ピペル:長さ36.57m、幅14.61m、高さ約3mでした。
検事:内部はどのようになっていたのですか。
ピペル:大雑把に申し上げると、炉の置かれている炉室と、死体を保管する死体安置室から構成されていました。死体安置室は、長さ17m、幅4.6m、床面積78.2uでした。
検事:この死体安置室が、ガス室として使われたのですね。
ピペル:そのとおりです。1941年9月3日のブロック11の地下室での実験的なガス処刑ののちに、900名のソ連軍捕虜が焼却棟Tの死体安置室=ガス室でガス処刑されました。
検事:そのガス室はいつまで使われたのですか。
ピペル:1942年の秋ごろまでです。
検事:その後、焼却棟Tはどうなったのですか。
ピペル:1943年春から夏にかけて、ビルケナウの4つの焼却棟が稼動し始めると、焼却棟T野での死体の焼却は中止され、中央収容所で死亡した死体もビルケナウに運ばれて、焼却されるようになりました。そして、焼却棟Tは物品の保管庫として使われました。
検事:その後、どうなりましたか。
ピペル:1944年に、近くのSS病院のための防空シェルターに改築されました。[5]
検事:次に、プレサック氏にお尋ねします。プレサック氏は、『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』[6]、『アウシュヴィッツの焼却棟:大量殺戮装置』[7]などの研究書を上梓されたフランス人研究者です。プレサックさん、焼却棟Tは、ガス室を備えた大量殺戮装置として設計・建設されたのですか。
プレサック:いいえ。焼却棟Tは、もともとは、通常の焼却棟として設計・建設されました。その後、そのなかの死体安置室が、シアン化水素を使った殺人のための実験的凶器となりました。[8]
検事:検事側証拠1を提出します。
検事側証拠1:1941年9月25日の焼却棟Tの図面[9] |
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検事:プレサックさん、検事側証拠1は、あなたの著書『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』151頁に掲載されている図面ですね。
プレサック:はい。これは、焼却棟の設計を担当したトップフ・ウント・ゼーネ社の1941年9月25日の図面です。@からFまでの番号は、説明の便宜上、あとから付け加えられたものです。
検事:この図面について説明してください。
プレサック:焼却棟の大きさは、長さ36.57m、幅14.61m、高さ約3mでした。焼却棟の内部構成についてお話しすれば、@はVorraum(前室、玄関ホール、)、AはAufb[ahrungs]raum(配列室)、BはWaschraum(洗浄室)、CはLeichenhalle(死体安置室)、DはOfenraum(炉室)、EはKoks(石炭[室])、FはUrnen(骨[室])です。
検事:このうち、Cの死体安置室がガス室として使用されたのですね。
プレサック:はい。しかし、すぐにガス室に転用されたわけではありませんが。
検事:少し詳しく説明していただけませんか。
プレサック:当初、収容所政治部は、ブロック10と11のあいだにある広場で、首筋に銃弾を打ち込む方法を使って、犠牲者を処刑していました。しかし、この広場から、収容所の別の端にある焼却棟Tに死体を運んで焼却するよりも、焼却棟の死体安置室1で処刑するほうが、はるかに労力を節約できることに気がつきました。つまり、死体安置室はまず処刑室として使われるようになったのです。
検事:その後、チクロンBを使ったガス室に転用されたのですか。
プレサック:そのとおりです。ブロック11の地下室での実験的なガス処刑ののちに、ガス室に転用されました。
検事:死体安置室1、ガス室の大きさはどのくらいでしたか。
プレサック:長さ17m、幅4.6m、床面積78.2uです。
検事:ガス処刑はどのように行なわれましたか。
プレサック:死体安置室の天井に少なくとも3つの穴を開け、そこからチクロンBの丸薬を投入したのです。
検事:そのあと、死体安置室の中の犠牲者の死体は、Dの炉室に運ばれ、炉で焼却されたのですね。
プレサック:はい。[10]
検事:焼却棟Tが稼動していた期間はどれほどですか。
プレサック:1940年11月から1943年7月までです。
検事:そのうちガス室として使用された期間はどれほどですか。
プレサック:正確にはわからないのですが、1941年末から、1942年のある時点だと思います。
検事:焼却棟Tのガス室では、どれくらいの数の犠牲者がガス処刑されたのですか。
プレサック:これも、正確にはわからないのですが、10000名ほどだと思います。[11]
検事:その後、焼却棟Tはどうなったのですか。
プレサック:1944年秋に、防空シェルターに改築されました。
検事:検事側証拠2を提出します。
検事側証拠2:防空シェルターに改築された焼却棟Tの1944年9月21の図面[12] |
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検事:プレサックさん、検事側証拠2は、あなたの著書『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』156頁に掲載されている図面ですね。
プレサック:これは、アウシュヴィッツ建設局の1944年9月25日の図面です。@からDまでの番号は、説明の便宜上、あとから付け加えたものです。表題には、「旧焼却棟の改築。作戦室をもつ、SS病院用の防空シェルター」とありますので、焼却棟Tは、通りをはさんで隣接していたSS病院のための、防空シェルターに改築されたのです。@はSchleuse(気密室)、AはOperationsraum(作戦室)、BはTrockenklosette(化学式トイレ)のあるLuftschutzraum(防空シェルター)、CはLuftschutzraum(防空シェルター)、Dは旧炉室です。
検事:おもにどのような改築工事がなされたのですか。
プレサック:改築は、検事側証拠1の図面にある@からCの部分、おもに、死体安置室に対して行なわれました。死体安置室は4つの部屋に分割され、連続する6つの部屋が作られ、それが防空シェルターの機能を果たしました。検事側証拠2の図面をご覧いただければわかりますように、これらの部屋を結ぶドアは、爆発が起っても、隣の部屋への影響を緩和するために、互い違いに配置されています。また、隔壁も厚くなっています。従来からあった、図面左側中央の入り口に加えて、第二の入り口が作られました。図面右側下の部分です。そして、入り口から建物に入るところは気密室となっています。
検事:防空シェルターに改築された死体安置室以外の部分はどうなったのですか。
プレサック:Dの旧炉室とその周辺は、元囚人の証言では、衣料品の保管庫となりました。[13]
検事:以上で検事側の立証を終わります。
裁判長:弁護側は反証に移ってください。
弁護側反証
弁護人:まず、アウシュヴィッツ所長ヘス証人に質問します。焼却棟Tの死体安置室、すなわちガス室には900名のソ連軍捕虜が押し込まれたのですね。
ヘス:はい。
弁護人:ここで、プレサック氏にお尋ねします。焼却棟Tの死体安置室はどのくらいの大きさでしたか。
プレサック:78.2uです。
弁護人:ということは、1uあたり12名弱が押し込まれたということになりますね。
プレサック:計算上はそのようになります。
弁護人:そのようなことは物理的に可能でしょうか。
プレサック:ですから、この数字は「ありそうもないこと」とみなしています。
弁護人:ヘスさん、ほかの供述でも、この900名という数字を繰り返していますね。
ヘス:はい。
弁護人:ヘスさん、「囚人が貨車から降ろされているあいだに、穴が、死体安置室のコンクリートの天井に開けられました」と証言されましたね。
ヘス:はい。
弁護人:囚人が貨車から降ろされるのには、どのくらいの時間がかかるのですか。
ヘス:囚人の数にもよりますが、そんなに長くはかかりません。
弁護人:ここで、またプレサック氏にお尋ねします。死体安置室の屋根の厚さは、どのくらいですか。
プレサック:10−15cmです。
弁護人:コンクリート製ですか。
プレサック:はい。
弁護人:囚人を貨車から降ろす時間のあいだに、厚さ15cmほどのコンクリートの屋根に、いくつかのチクロンB投下穴を開けることは物理的に可能だと思いますか。
プレサック:ですから、この作業も「ありそうもないこと」とみなしているのです。
弁護人:プレサックさん、ということは、先ほどのヘス氏の証言の中で、犠牲者の数、チクロンB投下穴を開ける作業については、「ありそうもないこと」とみなしているのですね。
プレサック:はい。
弁護人:ヘス氏の証言にはほとんど信憑性がないということですか。
プレサック:ヘス氏は、見ることなく現場にいたのです。ですから、不作為の誤りが生まれたのです。[14]
弁護人:最後に、お尋ねします。ヘスさん、あなたはイギリス軍に逮捕されて、拘束されていたとき、肉体的な拷問を受けましたか。
ヘス:はい、3日間にわたって、拷問を受けました。
弁護人:次に、ブロード氏に質問します。焼却棟Tの死体安置室の屋根の上にあるチクロンB投下穴は6つだったのですね。
ブロード:はい、6つでした。
弁護人:現在、展示されている焼却棟Tの屋根には4つのチクロンB投下穴しかありませんね。どちらが正しいのですか。
ブロード:・・・、・・・
弁護人:あなたも、戦後、逮捕されたのですね。
ブロード:はい。
弁護人:逮捕されてからどうなったのですか。
ブロード:英語ができましたので、通訳をつとめました。
弁護人:そして、自分が勤務していたアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所での大量殺戮についての報告書を書いたのですね。
ブロード:はい。
弁護人:それは自発的にお書きになったのですか。
ブロード:はい、自分から申し出ました。
弁護人:それが、あなたの証言のもとになっている供述書なのですね。
ブロード:はい。
弁護人:あなたも、アウシュヴィッツ・ビルケナウでの大量殺戮に関与していたのですね。
ブロード:直接ではありませんが、大量殺戮が行なわれたアウシュヴィッツ収容所の政治部に勤務していました。
弁護人:収容所政治部とはいわゆる収容所のゲシュタポですね。
ブロード:そのようにみなされていました。
弁護人:アウシュヴィッツ・ビルケナウその他の強制収容所に勤務していたSS隊員の多くは、逮捕され、裁判にかけられて、処罰されましたね。
ブロード:そのように聞いています。
弁護人:絞首刑になったSS隊員、すなわち、あなたの同僚や上司も多いですね。
ブロード:はい。
弁護人:ブロードさん、あなたは、大量処刑についての供述書を書いたのちに、どのような処分を受けましたか。処罰されたのですか。
ブロード:釈放されました。
弁護人:なんですって、何の処罰も受けずに、釈放されたのですか。
ブロード:はい。
弁護人:検事側の必要としている大量処刑についての供述を行なった、見返りではないのですか。
ブロード:・・・、・・・
弁護人:プレサック氏にお尋ねします。ブロード氏は多くの供述、証言を行なっていますが、そのすべてを検証されましたね。
プレサック:はい。
弁護人:ブロード氏の供述や証言には誤りが多いですか。
プレサック:まだ解決されていない多くの問題点が含まれています。
弁護人:全体の印象はどうですか。
プレサック:虚偽が含まれていると感じました。SS隊員が書いたものというよりも、囚人が書いたものという印象を受けました。
弁護人:プレサックさん、あなたはご自分の著書『アウシュヴィッツ:ガス室の技術の作動』162頁に、ブロード氏の証言について、「歴史的には、この話は、その『真実』らしい、また『驚くべきような』雰囲気にもかかわらず、その現在のバージョンのままでは、利用できないものである。それは、ポーランド人によって、ポーランド人のためにリライトされており、1945年12月14日の資料NI-11397は、この『陳述』が持っていたに違いない正確なトーンのはかない印象を与えているだけである。イギリス情報局に提出され、ポーランド版の『陳述』のもとになった、1945年6月13日の有名な話についていえば、文書館主任が、PMOはオリジナルを所有しておらず、それはイギリスにあると考えられていると私に確言した。私は、1945年6月13日の元々の話の写真コピーさえも見ていないので、翻訳者のヘレナ・ディジンスカがドイツ語の『オリジナル』を見たかどうか疑っている。博物館はそれを所有していないからである。さらに、ペリー・ブロードは、そのオリジナルな話の中でさえも、絶滅施設の貧弱な観察者にすぎなかったのではないかと思っている」と書いておられますね。[15]
プレサック:はい。
弁護人:次に、ヤンコフスキ氏に質問します。焼却棟Tの炉の1つの燃焼室に12体が収容されたと証言していますね。
ヤンコフスキ:はい。
弁護人:ここで、プレサック氏にお尋ねします。焼却棟Tの炉の燃焼室はどのくらいの大きさでしたか。
プレサック:トップフ社の設計図によると、燃焼室の開口部は60cm×60cm、内部容積は0.70×0.70×2.10m=1.029㎥です。
弁護人:ここに、12体を収容することは可能ですか。
プレサック:数字上は不可能ではないかもしれませんが、実際上は無理でしょう。
弁護人:ヤンコフスキ氏は、なぜこのような数字をあげていると思いますか。
プレサック:私は、当時のさまざまな証言を検証してみましたが、この当時、すなわち、1945年から1950年には、あらゆることを誇張しようとする傾向がありました。[16]
弁護人:ふたたび、ヤンコフスキ氏にお尋ねしますが、ガス処刑のときには、あなた方特別労務班員は石炭室に行くように命じられたのですね。
ヤンコフスキ:はい。
弁護人:それはなぜですか。
ヤンコフスキ:SS隊員は、ガス処刑のことを私たちの目から隠したかったからでしょう。
弁護人:ガス処刑のあとに、死体安置室に入ることを許されたのですね。
ヤンコフスキ:はい。
弁護人:そして、ガス処刑が行なわれたことを知ったのですね。
ヤンコフスキ:はい。
弁護人:ということは、SS隊員は犯罪現場を隠そうとしながら、犯罪の結末については隠そうとしなかったということになりますね。[17]
ヤンコフスキ:・・・、・・・
弁護人:ヤンコフスキさん、話は変わるのですが、あなたはスペイン内戦のときに共和派を支持する国際旅団の一員でしたね。
ヤンコフスキ:はい。
弁護人:ということは、フランコ派やそれを支持するドイツに対して敵対的な感情を持っていたのですね。
ヤンコフスキ:政治的には、ファシズムに反対し、共産主義に共感していました。
弁護人:次に、ミューラー氏の証言に移ります。『アウシュヴィッツの目撃者』としてのミューラー氏の証言がいかに奇怪で、信憑性に欠けるかについては、先の公判ですでに十分に立証しておりますので、陪審員の皆さんには、その公判記録を参照してくださるようお願い申し上げます。
弁護人:次に、ピペル博士に質問します。まず事実関係についてお尋ねします。焼却棟Tの死体安置室でのガス処刑は、ブロック11の地下室での実験的なガス処刑ののちに行なわれたのですね。
ピペル:はい、そうです。
弁護人:ブロック11の地下室でのガス処刑は、アウシュヴィッツ・ビルケナウでの最初のガス処刑ですね。
ピペル:はい、チクロンBを使用した最初のガス処刑でした。
弁護人:それはいつのことですか。
ピペル:1941年9月3日から5日です。約600名のソ連軍捕虜と250名の治癒不能の病人が殺害されました。[18]
弁護人:その日付の根拠は何ですか。
ピペル:さまざまな目撃証言です。
弁護人:ということは、目撃証言はすべて、1941年9月3日に、アウシュヴィッツでの最初のガス処刑が行なわれたと証言しているのですね。
ピペル:かならずしも、正確な日付をあげているわけではありません。
弁護人:ここで、もう一度、アウシュヴィッツ所長ヘス氏に質問します。ブロック11の地下室でのガス処刑はいつ行なわれたのですか。
ヘス:正確な日付は覚えていませんが、1941年であることだけは確かです。
弁護人:ヘスさん、ユダヤ人の移送・絶滅問題についての担当者会議がベルリンで開かれ、その会議でアイヒマン氏と話し合ったのはいつのことですか。
ヘス:1941年11月末のことです。
弁護人:その時点では、アイヒマン氏も、絶滅のための適当なガスをまだ探しあてられないでいたのですね。
ヘス:はい。[19]
弁護人:ということは、チクロンBを使ったガス処刑は、当然、この時点、すなわち1941年11月末よりもあとの時期になりますね。
ヘス:そうなるかと思います。
弁護人:ピペル博士、アウシュヴィッツ所長ヘス氏が、チクロンBをつかったガス処刑は、1941年11月末よりもあとの時期のことであったと認めておられますが、いかがお考えですか。
ピペル:・・・、・・・
弁護人:焼却棟Tの死体安置室でのガス処刑は、ブロック11の地下室でのガス処刑ののちに行なわれたのですね。
ピペル:はい。
弁護人:では、焼却棟Tの死体安置室でのガス処刑はいつ行なわれたのですか。
ピペル:1941年の夏の終わりから、秋にかけてのことでしょう。
弁護人:しかし、ヘス氏の証言によると、1941年11月末には、まだ、どのようなガスを採用するか決まっていなかったことになります。チクロンBを採用する前に、チクロンBを使った処刑が行なわれたのですか。
ピペル:・・・、・・・
弁護人:プレサックさんにも、同じ質問をします。ブロック11の地下室での最初のガス処刑はいつ行なわれたのですか。
プレサック:1941年12月5日から12月末のあいだだと思います。[20]
弁護人:なんですって、1941年9月ではないのですか。
プレサック:はい。12月です。
弁護人:しかし、ご自分の著書『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』132頁では、「最初の実験的なガス処刑は、土で粗雑に穴がふさがれたブロック11の地下室で、1941年9月3日に、チクロンBを使って行なわれた」とお書きになっているではありませんか。[21]
プレサック:その後、研究を進めてみると、1941年12月の方が妥当だと考えるようになりました。
弁護人:ダヌータ・チェク氏の『アウシュヴィッツ・カレンダー』[22]という著作をご存知ですか。
プレサック:もちろんです。
弁護人:この本はどのような評価を受けていますか。
プレサック:ホロコースト研究者の多くは、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所での諸事件に関する、詳細で標準的な年誌とみなしています。
弁護人:チェク氏の『アウシュヴィッツ・カレンダー』の1941年9月3日の項目には、「彼らが地下室に押し込まれ、SS隊員がチクロンBガスを投げ込むと、ドアが閉じられ、気密状態にされた」[23]とありますが、この記述は誤りですか。
プレサック:間違いだと思います。
弁護人:チェク氏はこの記述の典拠資料として、ヘス裁判記録と「元囚人の陳述」をあげていますが、この「元囚人の陳述」も間違っているということですね。
プレサック:内容すべてではありませんが、少なくともガス処刑の日付に関しては、不正確な記憶であるということです。
弁護人:ここで、焼却棟Tの建物自体に話を移します。プレサックさん、焼却棟Tについてのドイツ側資料はどのようなものが現存していますか。
プレサック:残念ながら、ビルケナウの焼却棟U、V、W、Xとは異なり、ほとんど残っていません。
弁護人:ということは、文書資料的な証拠としては、検事側証拠1と2の図面があるだけですね。
プレサック:そのとおりです。
弁護人:通常の焼却棟としての図面と防空シェルターに改築された図面ですね。
プレサック:そうです。
弁護人:死体安置室がガス室として使用された物理的痕跡、文書資料的証拠はまったくないのですね。
プレサック:そうです。
弁護人:ご自分の著作『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』123頁にも、「死体安置室で殺人ガス処刑が行われた証拠を正式に確定することはできない」と書いておられますね。
プレサック:はい。
弁護人:また、やはり、ご自分の著作『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』133頁に、「囚人やSSの証言は焼却棟Tの死体安置室のなかに殺人ガス室が存在していたと断言しているが、オリジナルの資料がなく、改築が行なわれた[本章末の配置の現在状態の図面参照]ために、その実在を物理的に証明することはできない」と書いておられますね。
プレサック:はい。
弁護人:にもかかわらず、焼却棟Tの死体安置室ではガス処刑が行なわれたとお考えになっている根拠はなんですか。
プレサック:ガス処刑が行なわれたと証言する目撃者が存在するからです。
弁護人:しかし、あなたは、こうした目撃者の証言には、「ありそうもない断言」、「矛盾した内容」が含まれているとお考えになっていますね。
プレサック:はい。しかし、そうであったとしても、全員が一つの同一の事実、すなわち、焼却棟Tの死体安置室で殺人ガス処刑が行なわれたという事実を証言しています。ですから、焼却棟Tの死体安置室でガス処刑が行なわれたことは間違いないのです。[24]
弁護人:ここで、ピペル博士に質問します。ヘス氏やブロード氏の証言にあるチクロンB投下穴は、検事側証拠1や2の図面に書き込まれていますか。
ピペル:書き込まれていません。
弁護人:それは、なぜでしょうか。
ピペル:説明は簡単です。検事側証拠1の図面は、通常の機能を果たす焼却棟Tの平面図です。ですから、チクロンB投下穴などが書き込まれているはずがありません。一方、検事側証拠2の図面は、防空シェルターに改築される焼却棟Tの平面図です。防空シェルターですから、当然、気密処理がなされており、外部からの空気の侵入を許してしまうような開口部はふさがれました。
弁護人:プレサックさんにも、同じ質問をします。検事側証拠1と2の図面には、チクロンB投下穴が書き込まれていないのはなぜですか。
プレサック:ピペル博士と同じ見解です。
弁護人:死体安置室がガス室として使われるときに、チクロンB投下穴が屋根に開けられ、焼却棟Tが防空シェルターに改築されるときに、その穴はふさがれたというのですね。
ピペル:そのとおりです。
プレサック:そのとおりです。
弁護人:この穴をふさぐ作業が行なわれたという、資料、たとえば、作業日誌のようなものがありますか。
プレサック:いいえ。
弁護人:しかし、防空シェルターに改築するときの作業日誌は残っていますね。
プレサック:はい。
弁護人:しかし、その作業日誌には、「ガス気密ドア、窓シャッター、窓の設置、暖房炉、および換気出口、吸入穴、パイプのために石壁に開口部を作ること」とあります。これは、換気口などの穴を開ける作業について記載していますね。
プレサック:そのように読み取れます。
弁護人:穴を開ける作業については記載してあって、穴をふさぐ作業については記載していないのはなぜですか。
プレサック:ガス処刑という犯罪行為を隠匿するためでしょう。
弁護人:それは、プレサックさんの推測にすぎません。ごく普通に考えれば、穴をふさぐ作業については記載されておらず、穴を開ける作業だけが記載されているということは、そもそも、死体安置室の屋根に穴など存在しなかったということを意味しているのではないでしょうか。[25]
プレサック:・・・、・・・
弁護人:ピペル博士にお尋ねします。焼却棟Tには機械的な換気システムが設置されていたのでしょうか。また、それは図面に記載されているでしょうか。
ピペル:機械的な換気装置は存在しませんでした。ガス処刑が終わると、ドアが開けられ、ガスは空気の対流によって排出されました。
弁護人:ガスはどのくらいの時間焼却棟Tに残っていたのですか。
ピペル:20分です。[26]
弁護人:死体安置室、いわゆるガス室には、直接外部につながるドアや窓はなく、炉室と洗浄室につながるドアがあるだけではないですか。そんなことをすれば、焼却棟T全体にガスが広がることになりませんか。
ピペル:そうなると思います。
弁護人:そして、20分でガスは排出されたというのですね。
ピペル:そういうことになります。
弁護人:通常の建物をチクロンBを使って燻蒸消毒し、そのあと自然換気する場合、残留ガスの危険がなくなるまで、24時間ほどかかるのではありませんか。
ピペル:そのとおりです。
弁護人:焼却棟Tでも、自然換気であるのに、20分間ですんだのですか。
ピペル:害虫駆除の場合と異なり、殺人の場合には、チクロンBの量は少なくてすみました。
弁護人:焼却棟Tでのガス処刑ではどのくらいのチクロンBが使われたのですか。
ピペル:ヘス氏の証言によると、1400名につき6kgです。ですから、500−600名を対象とするガス処刑1回あたり、2−3kgということになります。
弁護人:犠牲者全員が死亡するには、どのくらいの時間がかかったのですか。
ピペル:目撃者の証言では5分ほどです。
弁護人:アメリカの処刑ガス室の資料では、通常の致死濃度の10倍のシアン化水素を使っています。そして、一人の死刑囚が死亡するのに、少なくとも10分かかっていますが。
ピペル:そうですか。
弁護人:ということは、500名から600名の犠牲者を5分で殺害するには、かなり大量のチクロンBが必要であったと思いませんか。
ピペル:詳しくは検討したことがありません。
弁護人:ピペル博士、チクロンBの丸薬が死体安置室の穴から投下されて、5分ほどで犠牲者が死亡し、そのあと、15−20分ほどで換気が行なわれて、特別労務班員がガス室内に入って、死体を炉室に運んでいったのですね。
ピペル:そのとおりです。
弁護人:そのとき、ガス室の床に転がっているはずのチクロンBの丸薬はどうなったのですか。
ピペル:床に散らばっていたと思います。
弁護人:化学的資料によると、チクロンBの丸薬からガスが完全に放出されるまでには、条件にもよりますが、2、3時間かかります。気温15℃のもとでは、10分間で放出されるガスの割合は15%ほどです。[27] ということは、換気がおこなわれているときには、床に散らばっている丸薬から依然としてガスが放出されていることになりますね。
ピペル:その数値が正しければ、そういうことになります。
弁護人:その数値が正しければとおっしゃいましたが、そのことをご自分で検証されたことはないのですか。
ピペル:私は歴史家であって、化学者ではありません。
弁護人:歴史家であっても、化学者の研究を参考にすることはできるではありませんか。
ピペル:・・・、・・・
弁護人:そのようなことも検証されずに、5分で全員が死亡したとか、15−20分で換気が行なわれたというような目撃者の証言を信用しているのですか。
ピペル:・・・、・・・
弁護人:プレサックさんにもお尋ねします。焼却棟Tには機械的な換気システムが設置されていたのでしょうか。
プレサック:設置されていました。
弁護人:ピペル博士の見解とは異なるということですね。
プレサック:はい。
弁護人:プレサックさん、あなたはご自分の著書『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』132頁に「[ファインジルベルク、ミューラー、ブロードの証言によると]、天井には1つか2つの排気扇が設置されていたらしい」とお書きになっていますね。[28]
プレサック:はい。
弁護人:また、ペルト博士との共著論文「アウシュヴィッツの大量殺戮装置」では、「換気システムのために必要な資材と技術を持っていたので、ボース社はそれを2月23日から3月1日のあいだに建設した。ゲシュタポのSSペリー・ブロードはそれについて、『(焼却棟の)屋根からでている大きなカーブしたパイプ――それは、大きな騒音をカットする――、…焼却室(と死体安置室)の空気を清浄にするために設計された換気装置、…死体安置室の天井には換気扇があった』と記している。われわれが検証した新建設局の青写真は、ブロードの記述を確証している」とお書きになっていますね。[29]
プレサック:はい。検事側証拠としては、提出されていないのですが、やはり、防空シェルターに改築される焼却棟Tの図面があり、そこには、Entlüftung(換気)という単語が記載されています。どのような換気システムであったのか正確にはわからないのですが、いずれにしても、換気装置が設置されていたと思います。
弁護人:ここでは、ブロード氏の証言が引用されていますね。
プレサック:はい。
弁護人:プレサックさん、先ほどの証言で、ブロード氏の証言について「虚偽が含まれている」とか、「このままでは利用できないものである」と証言されましたね。
プレサック:そのように自分の本には書きました。
弁護人:そして、ブロード氏のことを「絶滅施設の貧弱な観察者にすぎなかったのではないかと思っている」と断定しましね。
プレサック:そのように自分の本に書きました。
弁護人:私にはまったく理解できないのですが、焼却棟Tの換気装置というきわめて重要な問題に関して、同じ論文集の共同執筆者であるピペル博士の見解ではなく、「絶滅施設の貧弱な観察者にすぎない」ブロード氏の証言を採用しているのですか。まったく謎なのですが、ご説明いただけないでしょうか。
プレサック:・・・、・・・
弁護人:弁護側証拠1を提出いたします。
弁護側証拠1:現在の状態の焼却棟Tの平面図[30] |
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弁護人:プレサックさん、弁護側証拠1は、あなたの著書『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』159頁に掲載されている図面ですね。
プレサック:これは、戦後に再建された焼却棟Tの図面です。@からKまでの番号は、説明の便宜上、あとから付け加えたものです。@はガス室、AはチクロンB投下穴、Bは便所の排水口、Cの点線は、死体安置室と洗浄室を隔てていた旧隔壁、Dは換気穴、Eは入り口、Fは骨室、Gは石炭室、Hは戦後目撃者の証言にもとづいて再建された炉、Iは場所をずらして作り直された炉室とガス室との連絡通路、Jは古い炉の跡、Kは新しく付け加えられた煙突です。
弁護人:@を具体的に説明してください。
プレサック:今日、ガス室として見学者に提示されている部屋です。
弁護人:広さはどのくらいですか。
プレサック:床面積94uです。
弁護人:なんですって。死体安置室、いわゆるガス室は78.2uではなかったのですか。
プレサック:収容所が解放されたときに発見された焼却棟1は防空シェルターに改築されたときの状態でした。その後、ポーランド当局が、ガス室をそなえた焼却棟Tとして復元・展示しようとしたのです。
弁護人:現在の焼却棟Tは、解放直後の状態ではなく、ポーランド当局が復元・展示したものなのですね。
プレサック:はい。建物自体は、オリジナルなものなのですが、1945年に発見されたその内部構成は、再編されてきており、焼却とガス処刑活動に関連する設備は、再建・再構成されてきたのです。ですから、防空シェルターとなった死体安置室の隔壁が取り除かれているのです。
弁護人:それにしても、床面積が変ってしまうのは奇妙ではないでしょうか。
プレサック:ポーランド当局は、隔壁を取り外すにあたって、死体安置室と洗浄室を隔てていた隔壁、図面ではCですが、それも取り除いてしまいました。ですから、死体安置室78.2uプラス洗浄室=現在展示されているガス室となってしまったのです。
弁護人:ずいぶんと粗雑な復元ですね。
プレサック:・・・、・・・
弁護人:Aを具体的に説明してください。
プレサック:チクロンB投下穴です。
弁護人:チクロンB投下穴は、防空シェルターに改築されるときにふさがれたのではないですか。
プレサック:そのとおりです。
弁護人:弁護側証拠2を提出します。
弁護側証拠2:現在の焼却棟Tの屋根 |
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弁護人:弁護側証拠2は、現在の焼却棟Tの屋根を撮影したものです。キャプションには、「強制収容所1(アウシュヴィッツ)投下穴と換気口」とあります。今日、見学者に、チクロンB投下穴として説明されている穴とカバーは実物ではないのですね。
プレサック:実物ではありません。戦後に、ポーランド当局が、焼却棟Tを復元・展示するにあたって、新しく開けた穴です。
弁護人:ふさがれた穴はどうなりましたか。
プレサック:ふさがれた穴の痕跡の上に、新しく穴が開けられたので、その痕跡を現存の屋根に見ることはできません。
弁護人:もともとあった場所に、穴が開けられたというのですね。
プレサック:そのとおりです。
弁護人:弁護側証拠1の図面をよくご覧ください。あなたの著書に掲載されているものです。実際のガス室は、Cの隔壁まででしたね。
プレサック:そのとおりです。
弁護人:だとすると、Aの4つのチクロンB投下穴は、ガス室の左側に偏っていませんか。
プレサック:そのように見えます。
弁護人:ガス室には、チクロンBの丸薬をできる限り均等にまくほうが自然ですね。
プレサック:そう思います。
弁護人:そのためには、チクロンB投下穴をガス室の天井にバランスよく配置するのが自然ですね。
プレサック:そう思います。
弁護人:とすると、もともとの場所に復元されたとされるチクロンB投下穴の配置は、不自然だと思いませんか。
プレサック:・・・、・・・
弁護人:もう一度、この図面をご覧ください。現在のガス室は、死体安置室と洗浄室の隔壁、図面のCですが、それを間違って取り除いてしまって、オリジナルのガス室であるかのように展示されているのでしたね。
プレサック:そのとおりです。
弁護人:オリジナルの78.2uのガス室ではなく、現在の94uのガス室ならば、4つのチクロンB投下穴はバランスよく配置されていると思いませんか。
プレサック:そうかもしれません。
弁護人:ということは、ポーランド当局は、死体安置室と洗浄室のあいだにある隔壁を取り去ってしまい、そのスペースに対してバランスの良い位置にチクロンB投下穴を開けたのではないでしょうか。
プレサック:・・・、・・・
弁護人:だとすると、仮に、チクロンB投下穴が存在することを認めたとしても、それは、現在の場所とは別の場所に存在していたのではないでしょうか。
プレサック:そうかもしれません。
弁護人:プレサックさん、焼却棟Tの死体安置室の屋根や、部屋の天井に、ふさがれた穴の痕跡が残っていますか。
プレサック:残っていません。
弁護人:だとすると、そもそも、チクロンB投下穴は存在しなかったのではありませんか。
プレサック:・・・、・・・
弁護人:Eについて説明してください。
プレサック:現在の状態の焼却棟Tでは、ガス室への入り口です。
弁護人:焼却棟Tが通常の焼却棟であったときの図面、すなわち検事側証拠1の図面には、この入り口は記載されていませんね。
プレサック:はい。そのときには、この入り口は存在しませんでした。入り口は、図面でいえば、建物の左側にあったのです。
弁護人:たしかに、死体安置室に直接入る入り口はありませんね。死体安置室に直接入る入り口、すなわちEが設置されたのはいつのことですか。
プレサック:焼却棟Tが防空シェルターに改築されたときです。
弁護人:検事側証拠2の図面の右側下に設置された入り口ですね。
プレサック:そのとおりです。
弁護人:焼却棟Tの死体安置室がガス室として使用されたのは、検事側証拠1の図面にもとづいて焼却棟が存在していた時期のことですね。
プレサック:はい。
弁護人:ということは、ガス室として使用された死体安置室に直接入る入り口、たとえば、Eのような入り口は存在しなかったということですね。
プレサック:はい。
弁護人:弁護側証拠3を提出します。
弁護側証拠3:現在の焼却棟Tの入り口 |
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弁護人:弁護側証拠3は、現在の焼却棟Tの入り口を撮影したものです。キャプションに「強制収容所1(アウシュヴィッツ)囚人の入り口」とありますが、これは、囚人の入り口ではないですね。
プレサック:囚人の入り口ではありません。
弁護人:それでは、何の目的の入り口だったのですか。
プレサック:SS病院用の防空シェルターに入る入り口として設置されたのですから、SS隊員用のものでしょう。
弁護人:しかし、今日でも、この入り口は「犠牲者の入り口」として見学者に説明されていますね。
プレサック:この入り口はガス室とは関係がありません。ですから、歴史的事実を尊重するためにも、その入り口をふさぐべきであると考えています。[31]
弁護人:現在の焼却棟Tの「犠牲者の入り口」が歴史的真実ではないとしたら、犠牲者は、ガス室にどこから入ったのですか。
プレサック:検事側証拠2の図面の左側、@のところにある入り口からです。
弁護人:ということは、犠牲者は@のところの入り口を入って、そのまままっすぐ進んで炉室に入り、そこを右に曲がってガス室に入るか、すぐに右に曲がって、配置室もしくは洗浄室に入り、そこからガス室に入ったのですね。
プレサック:そういうことになりますね。
弁護人:図面から判断するかぎり、そのようなルートしかないですね。
プレサック:はい。
弁護人:すると、犠牲者たちは、ぞっとするような光景を見ながら、すでに殺されている同僚の死体のかたわらを苦痛に満ちて通っていかなくてはならなかったことになりますね。
プレサック:その可能性はあります。
弁護人:このような状況の下では、犠牲者たちはどのような反応を示すでしょうか。
プレサック:憶測することはできません。
弁護人:そうですか。しかし、犠牲者たちをだますこともできないし、ガス処刑をカモフラージュすることもできないことは確実ではありませんか。[32]
プレサック:・・・、・・・
弁護人:プレサックさん、次に、細かい点についてお尋ねします。Hの炉は、オリジナルの炉ですか。
プレサック:いいえ、オリジナルの図面がなかったので、解放後の収容所に残っていた金属パーツを使って、囚人たちの記憶にもとづいて、復元されたものです。
弁護人:弁護側証拠4を提出します。
弁護側証拠4:現在の焼却棟Tに展示されている炉 |
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弁護人:弁護側証拠4は、現在の焼却棟Tに展示されている炉を撮影したものです。プレサック、これはオリジナル、すなわち、ガス処刑された犠牲者の死体を焼却した炉ではないのですね。
プレサック:すでに申し上げましたように、解放後、収容所戸外保管場で発見された金属パーツを使って、囚人たちの記憶を頼りに、復元されたものです。
弁護人:Iのドアについて説明してください。
プレサック:焼却棟Tの復元の過程で、新しく作られたドアです。
弁護人:オリジナルの位置と同じ場所にあるのですか。
プレサック:いいえ、図面でいえば、右側にずれています。
弁護人:なぜ、そのような作業がなされたのですか。
プレサック:わかりません。
弁護人:ポーランド当局は、ガス室と炉室を結ぶ直接の連絡通路が存在しないとまずいと考えたのではありませんか。
プレサック:わかりません。
弁護人:だから、わざわざ、ガス室と炉室を結ぶドアを新たに開けたのではありませんか。
プレサック:わかりません。
弁護人:弁護側証拠2および3の右側に写っている煙突はオリジナル、すなわち、焼却棟Tがガス処刑の場として使用されていたときの煙突ですか。
プレサック:いいえ違います。アウシュヴィッツが解放されたときには、焼却棟Tには煙突が付いていませんでした。それは、この当時撮影された写真からもわかります。
弁護人:焼却棟Tをガス処刑の場として復元するときに、付け加えられたダミーの煙突なのですね。
プレサック:ダミーという表現で何を意味しているのかははかりかねますが、オリジナルな煙突ではありません。
弁護人:プレサックさん、ここで少しテーマを変えて質問させていただきます。あなたは、ご自分の著書『アウシュヴィッツ:ガス室の技術の作動』133頁で、アウシュヴィッツ・ビルケナウのガス室とされていた場所についてのシアン化合物の残余物を化学的に調査したロイヒター報告を援用して、焼却棟Tのガス室で採取されたサンプルの「うち6つがポジティブであり(3.8/1.9、1.3、1.4、1.3、7.9、1.1mg/kg)、1つがネガティブであった。ほとんどすべて(7つのうち6つ)がポジティブであるという結果は、焼却棟Tの死体安置室でのシアン化水素の使用、したがって、殺人ガス室としての使用を証明している」[33]とお書きになっていますね。
プレサック:はい、書いています。
弁護人:ということは、ロイヒター報告をお読みになったのですね。
プレサック:はい。
弁護人:ロイヒターは、大量の衣服などをチクロンBで害虫駆除したビルケナウの害虫駆除施設からもサンプルを採取していますね。
プレサック:はい。
弁護人:その数値はいくつでしたか。
プレサック:ロイヒター報告によれば、1050
mg/kgでした。
弁護人:焼却棟Tの死体安置室から採取されたサンプルの数値よりも、数百倍も多い数字ですね。
プレサック:そうなります。
弁護人:ロイヒター氏は、害虫駆除施設は大量のシアン化合物の残余物を残しているのに、焼却棟Tの死体安置室はほとんど残余物を残していないという実験結果から、焼却棟Tの死体安置室では、ガス処刑が行なわれなかったという結論を出したのではないですか。
プレサック:それは、ロイヒター氏の結論です。たとえ、微量とはいえ、シアン化合物の残余物が出ているのですから、焼却棟Tの死体安置室ではチクロンBが使用されたことは間違いありません。
弁護人:チクロンBは建物の燻蒸消毒に大量に使用されていましたね。
プレサック:囚人宿舎などの燻蒸消毒にも使われていました。
弁護人:焼却棟TもチクロンBを使って燻蒸消毒されたことはありますか。
プレサック:その可能性はあります。
弁護人:だとすると、微量のシアン化合物が検出されたことは、チクロンBの使用を立証していても、あなたのお書きになっているように「殺人ガス室の使用」を立証しているわけではないのではないでしょうか。
プレサック:・・・、・・・
弁護人:なぜ、微量なのですか。
プレサック:焼却棟Tの死体安置室は、実験的な小規模なガス室として使用され、ガス処刑の回数も多くなかったからです。
弁護人:ロイヒター氏は、大量ガス処刑が行なわれたとされるビルケナウの焼却棟UとVの死体安置室1、いわゆるガス室からもサンプルを採取していますね。
プレサック:はい。
弁護人:その数値はいくつでしたか。
プレサック:ロイヒター報告によれば、焼却棟Uの死体安置室1は0.0 mg/kg、焼却棟Vの死体安置室1は1.9、6.7、0.0 mg/kgでした。
弁護人:この数値は、焼却棟Tの死体安置室からのサンプルと同じように、微量ですね。
プレサック:そうなります。
弁護人:プレサックさん、先ほど、焼却棟Tの死体安置室からのサンプルにシアン化合物の残余物が微量であるのは、そこでは小規模で実験的ガス処刑しか行なわれなかったからであると説明されましたね。
プレサック:はい。
弁護人:一方、ビルケナウの焼却棟UとVの死体安置室1は、大量ガス処刑が行なわれたガス室でしたね。
プレサック:そうです。
弁護人:プレサックさん、どうして、小規模で実験的なガス処刑しか行なわれなかった焼却棟Tの死体安置室と、大量ガス処刑が行なわれた焼却棟U、Vの死体安置室1では、同じように微量なシアン化合物の残余物しか検出されていないのですか。明確にご説明ください。
プレサック:・・・、・・・
弁護人:ところで、ロイヒター氏は、焼却棟1の洗浄室からもサンプルを採取していますね。
プレサック:はい。
弁護人:その数値はいくつでしたか。
プレサック:ロイヒター報告によれば、1.3
mg/kgでした。
弁護人:焼却棟Tの死体安置室からの数値と同じように、微量ですね。
プレサック:はい。
弁護人:プレサックさん、この洗浄室は、ガス室としては使われなかったのですね。
プレサック:はい。
弁護人:にもかかわらず、微量のシアン化合物の残余物が検出されたということは、ここでも、チクロンBが使用されたということですね。
プレサック:はい。
弁護人:そして、プレサックさん、チクロンBの使用、すなわち殺人ガス室の使用ということでしたね。
プレサック:そのように書きました。
弁護人:もう一度おうかがいします。洗浄室ではガス処刑は行なわれなかったのですね。
プレサック:はい。
弁護人:それでは、同じように微量な化合物の残余物が検出されているだけの死体安置室では、ガス処刑が行なわれたのですか。
プレサック:・・・、・・・
弁護人:最後におうかがいいたします。簡潔にお答えください。
プレサック:現在展示されている焼却棟Tの死体安置室の屋根にあるチクロンB投下穴は、戦後に作られたのですね。
プレサック:はい。
弁護人:ガス室とされている場所の面積は、オリジナルのガス室の面積とは違うのですね。
プレサック:はい。
弁護人:煙突も戦後に付け加えられたのですね。
プレサック:はい。
弁護人:ガス室と炉室を結ぶドア、連絡通路も戦後に作られたのですね。
プレサック:はい。
弁護人:それでは、現在展示されている焼却棟Tの死体安置室、いわゆるガス室は、オリジナルを正確に復元したものですか。
プレサック:いいえ。
弁護人:学問的には、宣伝目的の偽造ではないでしょうか。
プレサック:・・・、・・・
弁護人:ウォータールー大学建築学教授ペルト博士を弁護側証人として喚問したいと思います。裁判長、よろしいでしょうか。
裁判長:許可します。
弁護人:ペルト博士、あなたはアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の歴史についてお詳しいですね。
ペルト:ドヴォルク氏と協力して、『アウシュヴィッツ:1270年から現在』[34]をあらわしています。
弁護人:戦後、アウシュヴィッツはポーランド当局の手によって博物館となったのですね。
ペルト:はい。
弁護人:アウシュヴィッツ博物館は、その運営にあたって、どのような方針を立てたのですか。
ペルト:アウシュヴィッツ中央収容所のある場所に、収容所全体の歴史を凝縮させるという方針を立てました。
弁護人:アウシュヴィッツ中央収容所から離れたビルケナウ収容所の歴史も、この中央収容所に凝縮させるということですね。
ペルト:アウシュヴィッツ中央収容所を訪れる見学者が、その場所で、アウシュヴィッツ・ビルケナウ、ひいてはホロコーストの歴史を如実にイメージできるようにするためです。
弁護人:このために、無理が生じたのですね。
ペルト:はい。大量殺戮の中心は中央収容所ではなく、ビルケナウのほうでしたから。
弁護人:大量殺戮というイメージを書き立てるシンボルは何ですか。
ペルト:ガス室を備えた巨大な焼却棟です。
弁護人:そのようなものは、中央収容所にはなかったのですね。
ペルト:はい。焼却棟Tの建物はあることはありましたが、防空シェルターに改造され、ガス室も煙突もない状態でした。
弁護人:そのままでは、大量殺戮のシンボルたりえなかったのですね。
ペルト:そのとおりです。
弁護人:そのために、残っていた焼却棟Tの建物の修整が行なわれたのですね。
ペルト:修整という言葉が適切かどうかわかりませんが、オリジナルな状態を復元したのです。
弁護人:それはどのようなやり方ですか。
ペルト:先ほど、プレサック氏が証言したとおりです。防空シェルターの隔壁が取り除かれて、ガス室が復元され、その天井にはチクロンB投下穴が開けられました。また、炉が組み立てられ、煙突が付け加えられました。
弁護人:そして、あなた自身の表現を使えば、「煙突とガス室を持つこの焼却棟は、収容所見学の荘厳な終末となった」のですね。
ペルト:そのとおりです。[35]
弁護人:以上で弁護側反証を終わります。
裁判長:検事側は最終陳述を行なってください。
検事側最終陳述
検事:陪審員の皆さん、弁護側は、検事側証人の証言に含まれている細かな食い違い、たとえばチクロンB投下穴の数の食い違いを指摘することで、彼らの証言全体の信憑性をおとしめようとしています。しかし、チクロンB投下穴がいくつであったのか、犠牲者が何人であったのか、ガス処刑は何月何日に行なわれたのかなどということは、本質的な問題ではありません。証人たちは、唯一つの点、すなわち、焼却棟Tの死体安置室ではガス処刑が行なわれたという点では一致しています。そして、このことを証言する証人は、本日の公判に出廷した検事側証人以外にも数多くいるのです。焼却棟Tの死体安置室でガス処刑が行なわれたということについては、すべての証人が一致しているのです。しかも、加害者であるSS隊員と、被害者である元囚人たちが一致して証言している点に関して、疑う根拠があるでしょうか。
裁判長:弁護側は最終陳述を行なってください。
弁護側最終陳述
弁護人:陪審員の皆さん、検事側証人プレサック氏も認めているように、焼却棟Tの死体安置室でガス処刑が行なわれたことを確証する物的・物理的証拠および文書資料的証拠はまったくありません。それゆえ、検事側も、ただ目撃者の証言を信用せよと繰り返しているだけです。
しかし、目撃者の証言ほどあてにならないものはないのです。本審理でも明らかになりましたように、検事側証人の証言には、多くの矛盾や間違いがあります。彼らの証言には信憑性がまったくありません。たとえば、焼却棟Tでのガス処刑がいつ始まったのかという基本的なことについても明らかにされておらず、また、研究者のあいだでも意見が一致していません。
とくに、重要であるのは、焼却棟Tの死体安置室の屋根にチクロンB投下穴が実在したのかどうかという問題です。今日、展示されている投下穴は、アウシュヴィッツ博物館研究員のピペル博士も認めているように、戦後に作られたものです。この穴が実在したという痕跡は、一つもないのです。そして、この穴が実在していなければ、焼却棟Tの死体安置室でのガス処刑も行なわれたはずがないのです。
そして、さらに重要であるのは、死体安置室、いわゆるガス室に直接入る入り口が存在しなかったことです。今日、展示されている「犠牲者の入り口」は、プレサック氏も認めているとおり、防空シェルターへの入り口であり、ガス室とはまったく関係がありません。
まさに、「ドアがなければ、ホロコーストもない」のです。
裁判長:以上で本件の審理を終了します。陪審員の皆さんは、別室で協議してください。陪審員の裁定がでるまで、休廷とします。
[1] Death Dealer The Memoirs of the SS Kommandant
at
[2] Van Pelt expert report, (online: http://www.holocaustdenialontrial.com/evidence/van.asp), p. 152.
[3] R. J. van Pelt, The Case for Auschwitz: Evidence from the Irving
Trial,
[4] Filip Müller, Eyewitness
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[5] Franciszek Piper, Gas Chamber and
Crematoria, Yisrael
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Anatomy of the
[6] Jean-Claude
Pressac,
[7] Jean-Claude Pressac, Les Crématoires d'Auschwitz. La Machinerie du meurtre de masse, CNRS éditions, 1993, Jean-Claude Pressac, Die Crematorien von Auschwitz/Die Technik des Massenmordes, Munich/Zurich, Piper Verlag, 1994, Jean-Claude Pressac with Robert-Jan Van Pelt, "The Machinery of Mass Murder at Auschwitz", Yisrael Gutman and Michael Berenbaum, Anatomy of the Auschwitz Death Camp, Indianapolis, 1994.
[8] Jean-Claude
Pressac,
[9] Ibid., p. 151.
[10] Ibid., pp. 131-132.
[11] Ibid.
[12] Ibid., p. 156.
[13] Ibid., pp. 131-132.
[14] Ibid., p. 127.
[15] Ibid., p. 162.
[16] Ibid., p. 126.
[17] Robert Faurisson, Witnesses to the
Gas Chambers of
[18] Franciszek Piper, Gas Chamber and Crematoria, op.cit., p. 157.
[19] Death Dealer The Memoirs of the SS Kommandant
at
[20] Jean-Claude Pressac, Les Crématoires d'Auschwitz. La Machinerie du meurtre de masse, 1993, p. 34. Jean-Claude Pressac, Die Crematorien von Auschwitz/Die Technik des Massenmordes, 1994, S. 41.
[21] Jean-Claude
Pressac,
[22] Danuta Czech,
[23] Ibid., p. 86.
[24] Jean-Claude
Pressac,
[25] Germar Rudolf, The
Rudolf Report.
Expert
Report on Chemical and Technical Aspects of the "gas Chambers" of Auschwit, Theses & Dissertations Press,
[26] D. D. Desjardins, My Visit to Auschwitz-Birkenau,
[27] Germar Rudolf, Some Technical and Chemical Considerations about the 'Gas Chambers' of
[28] Jean-Claude
Pressac,
[29] Jean-Claude Pressac with Robert-Jan Van Pelt, "The Machinery of
Mass Murder at
[30] Jean-Claude
Pressac,
[31] Ibid., p. 147.
[32] Germar Rudolf, The Rudolf Report.
[33] Jean-Claude
Pressac,
[34] Debórah
Dwork and Robert Jan van Pelt,
[35] Ibid., pp. 363f