試訳:フランケ・グリクシュ「再定住行動報告」:偽造の分析

ブライアン・レンク

 

歴史的修正主義研究会

最終修正日:2003928

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Brian A. Renk, The Franke-Gricksch 'Resettlement Action Report': Anatomy of a Fabrication, The Journal of Historical Review, vol. 11, no. 3, pp. 261-279試訳したものである

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

(onlinehttp://www.ihr.org/jhr/v11/v11p261_Renk.html

 

 

 いわゆるドイツによるヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策は、文書命令ではなく、ヒトラーからの直接命令によって発動されたと長いあいだ考えられてきた。この「命令」は、194546年のニュルンベルク国際軍事法廷、その後の「ナチ戦争犯罪人」裁判でも引用されてきた。「総統命令」の文書資料的証拠はあいまいなままであったけれども、絶滅派の歴史家たちは1977年まで、それが実在していたことを当然のこととして受け取っていた。

 その年、イギリス人歴史家アーヴィングが『ヒトラーの戦争』を出版し、それはエスタブリッシュメントの歴史家たちのあいだで広い論争を呼びおこした。アーヴィングは、文書記録を渉猟すると同時に、現存しているヒトラーの側近たちにインタビューを重ねた結果、ドイツ国総統はユダヤ人の大量殺戮を命じていない、彼が絶滅政策について知ったのは1943年以降のことであると論じた[1]

 ユダヤ系イギリス人の歴史家ジェラルド・フレミング――Surrey大学(イギリス)名誉講師――は、この問題に対処し、とくに1977年のアーヴィングの挑発的なテーゼに回答しようとして、ヒトラーはヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅命令をたしかに出したことを決定的に証明する著作を出版しようとした。彼は、数年間の研究・執筆ののちに、『ヒトラーと最終解決』(ドイツ語版1982年、アメリカでは1984年に出版)の中で自分の立場を明らかにした。この著作は、アーヴィングとその他の修正主義者に対する決定的回答として広く歓迎された。

 フレミングがこの本の中で引用している最重要資料は、"Umsiedlungs-Aktion der Juden"(「ユダヤ人再定住行動」)と題する2頁の報告である。もっともフレミングはそれを「ユダヤ人再定住」と呼んでいるが。そして、これは、アウシュヴィッツのガス室でのユダヤ人の大量殺戮を描いており、「総統命令」の存在を示唆しているというのである。フレミングによると、この文書は、長い報告の一部であり、それは、ベルリンのSS人事中央局の高官アルフレード・フランケ・グリクシュSS少佐が、19435月にアウシュヴィッツ・ビルケナウを視察した直後に執筆したものであった。

 「再定住行動」文書を始めて引用したのはアメリカの歴史家Charles W. Sydnor(彼の著作『破壊の兵士』Princeton Univ., 1977, p. 3371)であった。最近では、フランスの反修正主義的歴史家プレサックが、『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』(The Beate Klarsfeld Foundation, New York, 1989 [pages 236-239])の中で、ファキシミリ版と英訳版を掲載している。

 フレミングはこの報告を非常に重視しているが、そのことは、彼が『ヒトラーと最終解決』の1章全体をこの報告にあてていることからもわかる。この章の題は「アウシュヴィッツ・ビルケナウからの公式報告」である。

 「再定住行動」報告が本物であれば、それは次のような絶滅派のテーゼの諸点を確証することであろう。

 

    「ユダヤ人の再定住」という用語は、とくに「ガス処刑」による大量絶滅政策の婉曲語法である。

    アウシュヴィッツの大量殺戮は、ヒトラーがユダヤ人を絶滅せよとの秘密命令の一部であった。

    アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の殺人ガス室は、1943年春にユダヤ人を殺すために使われた。

 

しかし、「再定住行動」報告は本物なのであろうか。本小論では、まったく本物ではないことが明らかにされるであろう。テキストを丹念に検証すれば、およびフレミングとプレサックのテキスト分析を検証すれば以下のことが明らかとなるであろう。

 

    「再定住行動」報告は戦後の偽造である。この文書のオリジナル、カーボン・コピー、ファキシミリが提出されたことも、存在していたことも知られていない。まして、この文書のもととなる長い報告書が提出されたこともない。

    「再定住行動」報告のドイツ語正字法に見られる特殊性は、それを転記した人物がドイツ語のオリジナル・テキストを持っていないことを示唆している。

    フレミングとプレサックはこの「報告」の事実上の「あやまち」やまったく馬鹿げた点を無視するか、見過ごしているが、そのことは、彼らがまがい物の研究者精神、さらに言えば、反倫理的な研究者精神しか持っていないことを示している。

 

 

「再定住行動」文書

 以下は、「再定住行動」報告全文の翻訳である。

[英語のヘッダー]

 194354日から16日に総督府を視察旅行した件についてのSS少佐フランケ・グリクシュが提出した報告の一部。

 

ユダヤ人の再定住行動

 

アウシュヴィッツ収容所は、ユダヤ人の定住において特別な任務を持っている。もっとも近代的なやり方によって、総統命令がきわめて速やかに、秘密裏に実行することが可能となっている。

ユダヤ人のためのいわゆる「再定住行動」は、次のように進んでいる。

ユダヤ人は特別列車(貨物列車)に載せられて夕方到着し、特別線を介して、この目的だけに設置された収容所の特別区画に運ばれてくる。そこで、彼らは降ろされ、所長と数名のSS高官の前で、医療班によって調べられ、彼らが労働に適しているかどうかを判断される。ここで、労働過程に組み込まれることのできた人々は、特別収容所に送られる。一時的な病気にかかっている人々は、すぐに検疫収容所に送られ、特別食を与えられて治療される。できるだけ多くの囚人を労働可能にするというのが基本原則である。この古いやり方の「再定住行動」は、完全に否定されている。本質的な労働能力を組織的に破壊することが許されないからである。

労働不適格者は比較的大きな家に向かい、外側から入ることのできる地下室に向かう。彼らは56段下り、長い、うまく作られた、換気された地下室に向かう。そこには両側にベンチがある。明るく照明されており、ベンチの上には番号がある。囚人たちは、これから殺菌駆除を受け、新しい仕事のために洗浄される、だから、服を脱いで、完璧に洗われると話される。パニックや混乱を避けるために、彼らは、衣服を整頓して、入浴後に自分たちの持ち物を発見できるように、番号の下に置くように命じられた。すべてがまったく穏やかに進む。それから、彼らは小さな廊下を通って、シャワー室に似た大きな地下室に着く。この部屋には、3つの大きな柱がある。このなかには、外の上から、ある製品を落とすことができる。300から400名がこの部屋にはいると、ドアが閉じられ、製品のはいったコンテナー[缶]が上から、これらの柱の中に落とされる。コンテナーが柱の床に着くと、ある物質を生み出し、それは、1分間で人々を眠らせる。数分後、エレベーターにつながっている別の側のドアが開けられる。資格のある人々(ユダヤ人)によって、死体の髪が切られ、歯が抜かれる(金歯)。ユダヤ人は宝石、金、プラチナなどを中空の歯の中に隠していることが知られていた。その後、死体はエレベーターに載せられ、the first floorに向かう。そこには、10の大きな焼却炉があり、死体はそこで焼却される。(新鮮な死体はとくによく燃える。全過程では2分の11ツエントナーしか必要ではない)。作業自体は、この収容所を離れることのないユダヤ人囚人によってのみ行なわれる。

今日までの、この「再定住行動」の結果は50万のユダヤ人である。

「再定住行動」炉の現在の能力は24時間で10000体である。

 

[手書きの英語の表記]

 私は、これがオリジナル報告の本物のコピーであると確証する。Eric M. Lipman.

 

本報告のファキシミリ版

 

文書の起源

 フレミングは『ヒトラーと最終解決』に取り組んでいるとき、フランケ・グリクシュが彼の手によるものとされている「再定住行動」報告を実際に執筆した証拠を捜し求めた。フレミングは、フランケ・グリクシュ未亡人あての1978718日の私信の中で次のように書いている。

 

「今日、この手紙を差し上げているのは次の理由によるものです。10ヶ月前、イギリス[学芸]アカデミーは、今日まで現代史家によって解決されていない重要なテーマについて研究・調査するように私に公的に依頼してきました。そのテーマというのは、ヒトラーが第二次世界大戦中に[ユダヤ人の]大量絶滅を個人的かつ直接に命じた[証拠を発見する]というものです。…そこで、あなたの夫が署名している1943515日の報告の一部を引用したいと思います。それは、私のテーマ、すなわち、ヒトラー個人の絶滅命令に直接かかわっているからです。…」

 

 予備的コメント:フレミングはフランケ・グリクシュの署名に言及しているが、それは誤りである。実際には、「再定住」報告には、それを写し取ったというリップマンの署名があるだけである。また、フレミングは、この書簡の中で、フランケ・グリクシュ報告が書かれたのは1943515日と述べているが、著作の中では、「54日から16日のあいだのいつか」とあいまいに述べている。

 プレサック(23839頁)によると、ドイツ占領下のポーランド、すなわち総督府の視察旅行に関するフランケ・グリクシュ報告のカーボン・コピーは、戦後、Eric M. Lipman(プレサックは誤って「Lippmann」と呼んでいる)によって「バイエルンのどこか」で発見されたという。リップマンは合衆国第3軍戦争犯罪局の将校であった。リップマンはフランケ・グリクシュの「経歴ファイル」にある全文を発見したのちに、アウシュヴィッツに関する報告の部分、すなわち「再定住行動」報告をタイプ・コピーしたとされている。プレサックは、全文のカーボン・コピーはニュルンベルクのアメリカ検事チームに引き渡されたが、「国立文書館第二次世界大戦、戦争犯罪記録集に、典拠番号NA RG 238として保管されていると思われる」と書いている。しかしこの文書のことを始めて言及しているCharles Sydnorは、「この文書のオリジナルは、まだ整理されていないニュルンベルク検事側資料集の中に埋もれてしまっている」[2]と書いている。

 もし報告全文のカーボン・コピーがニュルンベルクのアメリカ検事チームに引き渡されていたとすれば、なぜ、この爆弾文書が証拠として提出されなかったのであろうかという疑問が生じる。そして、1970年代まで、これについて知っていたのは、なぜリップマンだけであったのかという疑問も生じる。

 リップマン氏は現在、ヴァージニア州リッチモンドに住んでいるが、私は、手紙を送って「再定住行動」文書について尋ねてみた。すると、リップマン氏は1991123日の書簡で次のように知らせてきた。

 

「私は自分の持っていたナチ資料を、イェルサレムのヤド・ヴァシェム、Brandeis大学タウバー研究所、リッチモンドのTemple Beth Ababa文書館に渡しました。」

 

これに対応して、プレサックは、リップマンのタイプした2頁の報告は「第三帝国のその他の文書とともに、Brandeis大学タウバー研究所に保管されている」と記している(238頁)。[3]

それゆえ、ヴァージニアのHampden-Sydney Collegeで教鞭をとっているSydnorが、自著『破壊の兵士』の研究に取り組んでいるときに、リップマン自身から彼のタイプ原稿のことを知ったか、Brandeisでそれを発見したことはまったくありうることである。

フレミングは、「報告」の由来についての『ヒトラーと最終解決』の脚注の中で、現存している「再定住行動」文書について、次のように述べている。

 

Charles W. Sydnorが合衆国国立文書館に預けたタイプで書かれたコピー、総督府の視察旅行について、1943514日から16日のあいだに書かれたアルフレード・フランケ・グリクシュ報告の3つのカーボン・コピーのうちの1つは、私が所持している。」

 

 私は1991219日のフレミングあての書簡で、次のように書いた。

 

「私は、タイプで書かれた報告のもととなったカーボン・コピーを捜し求めてきました。Brandeisも合衆国国立文書館もそれを所有していないことがわかりましたので、直接お便りを差し上げた次第です。」

 

 フレミングは31日に返信をくれて、「お求めの写真コピーを送ります」と知らせてくれたので、私は、フランケ・グリクシュのものとされている報告全文のカーボン・コピーが送られてくるものと期待していた。しかし、フレミングが送ってきたのは、英語のヘッダーのついたタイプが気「コピー」、すなわちプレサックが掲載しているファキシミリ版の写真コピーにすぎなかった。[4]

 したがって、「アルフレード・フランケ・グリクシュ報告の3つのカーボン・コピーのうちの1つは、…私が所持している」というフレミングの話は、まったく真実ではない。

 まとめ:オリジナル報告のカーボン・コピーがSS将校の経歴ファイルの中で「発見された」という証拠はまったくない。また、この曖昧模糊とした「カーボン・コピー」が国立文書館に存在している、ひいては、このような文書が存在していたという証拠もまったくない。何らかのかたちで存在しているのは、失われた報告書から抜粋したとされるリップマンのタイプ書きの「コピー」だけである。

 

文書の分析

 リップマンがタイプしたというオリジナルのカーボン・コピーのコピーは、本物の公式報告にはついているはずの、そしてオリジナル文書であるならば当然ついているはずのレターヘッドや分類番号に触れていない。また奇妙なことに、リップマンは、報告の日付を1頁の冒頭に示すかわりに、フランケ・グリクシュの総督府(General Gouvernement――ママ、正確なドイツ語の名称はGeneralgouvernement)視察旅行の日付を記している。もっとも、彼は年の記載には苦しみ、最後の数字3――筆者の手元にあるコピーでは判読できない――を手書きで書かなくてはならなかったが。

 「再定住行動」報告のテキストを分析すれば、これが偽造であることが明らかとなる。リップマンはドイツ語のオリジナル文書から「ユダヤ人の再定住行動」をたんにタイプしただけであるとされているが、この文書には英語の綴りの影響が存在している。訂正されていないものもあれば、ドイツ語の単語で上書きされているものもある。いわゆる報告の第1行では、hatのかわりにhadとなっており、2行目の2番目の単語derは、theに上書きされている。3行目では、hierhereに上書きされている。報告2番目のパラグラフの8行目では、コピーしたとされる人物は、hadとタイプしたが、それをhatに訂正しており、正確なドイツの定冠詞dieとタイプしようとして、tから始めてしまっている(theと綴ろうとしたにちがいない)さらに、1頁目の最後のパラグラフでは、英語の時制語尾dがドイツ語の時制語尾tのかわりに2回タイプされている、すなわち、5行目では、ausgestattetのかわりにausgestatted――それは訂正されている――、また9行目では、gebadetのかわりにgebadedとなっている。そして、1頁の3番目のパラグラフの6行目からはじまるセンテンスでは、同じ主語にkommtという動詞が2回使われている。

 以上が、フレミングとプレサックがドイツ語のオリジナル文書をたんに書き写したものであると考えている文書の顕著な特色である。あまり能力のない(もしくはもっと誠実な)翻訳者であれば、この文書がドイツ語の資料ではなく、英語にもとづいていると考えることができるであろう。

 

フレミングの分析

 フレミングは、この文書のテキストの特色を検討することも、ひいては触れることも避けている。その代わりに、「報告」の一部が不正確であることだけに触れている。彼は次のように記している(144頁)。

 

「フランケ・グリクシュの『総統命令の実行』についての話、すなわち、『ある製品』を『シャワー室』に似た大きな地下室に落とすこと、『1分で人を眠り込ませるある物質』を放出するという話は、ガス処刑の話としては間違いであり、ごまかしである。」

 

 フレミングは、ホロコースト正史の絶滅物語にしがみついており、そのあとすぐに続く馬鹿げた話については、まったく正確なものとみなしている。彼は、特別に選別されたユダヤ人が死体から金歯を抜き出し、そのあとで、死体はエレベーターに積み込まれるという話を受け入れている。彼は、死体が「10の大きな焼却棟」で急速に焼却されると信じている。フレミングは、19435月半ばまでに50万人のユダヤ人がこの「再定住行動」の一部として殺された、収容所の焼却炉は24時間で1万の死体を「処理する」ことができたと信じている。そして、このことを確証するために、同じような話をしている「特別労務班」員フィリップ・ミューラーの信じられないような、空想的な「証言」を引用しているのである。[5]

 この報告が誰のために書かれたのかという件についても、フレミングの説明は満足のいくものではない。彼は、フランケ・グリクシュの上司SS上級集団長マキシミリアン・フォン・ヘルフの書簡を引用している。ヘルフはSS人事本部長であり、194354日にアウシュヴィッツ収容所を視察する意図について、SS全国指導者ヒムラーに直接報告している。フレミングは、ヘルフが結局はアウシュヴィッツを訪問しなかったと論じているが、それにはまったく根拠がない。もっとも、ヘルフがアウシュヴィッツ以外の視察旅行は行なったことを認めているが。フレミングがどうしてこのように主張しているのかは、彼の著作の次の頁を見ればわかる。すなわち、フランケ・グリクシュはヘルフのために「再定住行動」報告を書いたというのである。フレミングが挙げている事実と論理はきわめて危ういものであるが、それだけが、フランケ・グリクシュがこのような報告を書いたことを説明する理由なのである。[6]

 要するに、フレミングは資料批判の基本を無視することで、この「書き写し」の明らかな欠点、テキストの一貫性のなさを見過ごしてしまい、この「書き写し」の存在理由だけを作り出そうとしているのである。

 いずれにしても、「再定住行動」報告が本物であるという権威をフレミングに与えているのは、戦後の別の文書なのである。それもまた、『投降したSS指導者の日記から』と題する、やはりアルフレード・フランケ・グリクシュが書いたとされる文書なのである。本小論では、フランケ・グリクシュがヴァイマール共和国の最後の年月から戦後の占領時代にいたるまで、政治にかなり関与していたこと、政治活動を行なっていたことと照らし合わせながら、この文書を分析することにする。

 

プレサックの分析

 フレミングがこの文書を表面的にしか検討していないのに対して、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の絶滅派の専門家でフランス人研究者のプレサックは、1990年の『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』の中で、かならずしも報告の信憑性に疑問を呈しているわけではないけれども、この「再定住行動」報告と格闘している。[7]

 プレサックはフランケ・グリクシュ報告なるものの「カーボン・コピーのタイプ・コピー」のファキシミリ版を彼の著作に掲載している。これは、フレミングが私に送ってくれたものにはリップマンの手書きの文章と署名が含まれていない点を除けば、フレミングが送ってくれたものと同じものである。

 プレサックは「再定住行動」報告が本物であるとみなしているけれども、そこには多くの重大な誤りがあることを認めている。そして、それらの誤りは理解可能な誤りであると説明することで、その誤りがさして重要ではないかのように提示しようとしている。しかし、これから明らかにするように、プレサックの釈明は恐ろしいほど不十分である。

 プレサックは、報告に記載されている大量殺戮の現場がビルケナウの焼却棟Uであると考えている。「再定住行動」報告は死の部屋には「3つの大きな柱」があったと述べているが、プレサックの指摘では(239頁)、この部屋(死体安置地下室であった)には、実際には4つの柱があった。プレサックはまた、この建物には10の大きな焼却炉があったという報告の話が誤りであることも認めている。実際には、焼却棟Uには5つの3燃焼室炉があったのである。プレサックは、フランケ・グリクシュが述べているのは焼却棟UとVの炉の合計であったと説明しているが、この文書は、これらの10の焼却炉は一つの建物にあったととくに述べているので、プレサックの説明は意味を成さない。

 「再定住行動」報告は11万体が焼却されたと述べているが、プレサックは、この数字が物理的に不可能であることを認めている(239頁)。彼は、この馬鹿げた数字がSSのプロパガンダの産物であると説明しているが、それでは、不十分である。なぜ、SSの内部文書でプロパガンダ目的の偽りの数字が登場しているのか説明していないからである。プレサックが馬鹿げたものと認めているこの数字は、ヘス、ミクロス・ニーシュリ、フィリップ・ミューラーといった「権威のある」「目撃証人」、ならびに19455月のソ連戦争犯罪委員会報告(Nuremberg document USSR-008)によっても引用されているが、プレサックはその件についても触れていない。[8]

 プレサックは、50万のユダヤ人が19435月までには殺されていたという「再定住行動」報告の話が間違っていることを認めている。彼は、本当の数字は「20万から25万のあいだであろう」と根拠もなく主張している。プレサックは、殺人者たちが自分たちの容赦のない数字を少なくとも2倍も誇張しようとしていたい理由を十分に説明していない。さらに、ビルケナウの4つの焼却施設が完成したのは19433月から6月のあいだであること[9]を念頭に置くと、この減らされた数字でさえも認めることはできない。

 プレサックによると(239頁)「再定住行動」報告の中で、「もっとも驚くべき、そしてもっとも重大な誤り」は、「ガス室」の両端にドアがあったと述べていることである。実際には、この部屋にはドアは1つしかなかった(「そこを通って犠牲者が室内に入り、そこから死体が取り除かれた」)。プレサックは、フランケ・グリクシュの「混乱」を、「焼却棟を訪れているあいだに中断があり、そのために方向感覚を失ったのかもしれない」と説明しているが、この説明では不十分である。

 プレサックはこのような誤りの存在を認めてはいるが、この文書の基本的問題点については見過ごしている。たとえば、この文書では、ユダヤ人「特別労務班員」が、処刑のわずか「数分後」に「ガス室」に入って、残っているガスによって中毒死することなく、身の毛もよだつ死体除去作業に取りかかることができたとあるが、プレサックはその理由を説明しようともしていない。[10]

 「再定住行動」報告(そして、さまざまな「目撃証言」)では、致死性の物体(チクロン)は中空の柱を介して室内に降ろされた、もしくは投下されたことになっているが、この部屋(死体安置室T)の廃墟を訪れれば、この柱が中空ではなく、しっかりとした鉄筋コンクリートで作られていることにすぐに気づくであろう。[11]

 さらに、この文書は「新鮮な死体はとくによく燃える」と述べているが、プレサックはこの馬鹿げた話についても説明していない。

 また、報告は「この目的のために設置された収容所の特別区画への特別線」について触れているが、プレサックはこれについて説明しようともしていない。これは、アウシュヴィッツの幹線(ウィーン・クラクフ間)からビルケナウへの支線についてのことちがいない。しかし、ビルケナウ支線の建設作業が始まったのは、19441月以降のことである。[12]

 「再定住行動」報告が「特別線」に言及していることだけでも、この文書が虚偽であり、戦後の偽造文書にちがいないことを証明するのに十分である。しかし、フレミングは、この「再定住行動」報告を本物とみなしているだけではなく、ヒトラーはヨーロッパ・ユダヤ人絶滅命令を明白にだしていたという自説を確証する中心としている。そして、プレサックは、その信憑性を保証するために、まったく効果のない滑稽な説明を行なっている。このことは、今日の絶滅派の研究者の学問的実態を如実に示している。

 

フランケ・グリクシュの疑わしい日記

 残る問題は、アルフレード・フランケ・グリクシュのものとされている戦後の文書の謎である。フレミングは「再定住行動」報告の信憑性を確証するにあたって、この文書にかなり依拠しているからである。

 フランケ・グリクシュは、1948年に、イギリス軍から釈放された数ヵ月後、『投降したSS指導者の日記から』と題する口述を妻に対して行なったとされている。フレミングは『ヒトラーと最終解決』の中でこの陳述をかなりのスペースをさいて引用しているが(146151頁)、それは、「ユダヤ主義の生物学的土台をきっぱりと根絶せよ」というヒトラーの命令も含む、絶滅説を確証しているようである。

 この日記(フランケ・グリクシュの実際の戦時中の日記は――もし存在していたとすれば――、失われているようである)は、19435月の「総督府」視察旅行直前に行なわれたとされる、ヒムラー、ヘルフ、フランケ・グリクシュの会談について触れている。(スペースの関係から、この文書を掲載することはできない。)

 フレミングも認めているように、この文書の題さえも誤解を生むようなものである。フランケ・グリクシュは戦時中に「投降」していない。フレミングは、この「日記」のがその当時のものではなく、戦後に記載されたものであることを認めている。[13] フレミングはフランケ・グリクシュ未亡人あての1978年の書簡で次のように書いている。

 

「『SS指導者の日記から』(ママ)を理解するには、あなたのご主人が19435月中旬にマキシミリアン・フォン・ヘルフのために書いた報告と一緒に読んで、それと比較することが必要でしょう。」

 

 フランケ・グリクシュの息子エッケハルトの見解はこれとは異なる。彼は、1990114日の私あての書簡でこう説明している。

 

「終戦時、私の父は、SS人事局長マキシミリアン・フォン・ヘルフの事務局長で、ヒムラーの内部スタッフでした。この内部スタッフとして、父がとくに関与していたのは、SSが実行しなくてはならなかった社会・政治的、経済的、財政政策でした。…

 父は、ヘルフとの仕事を介して、SS指導者のあいだの道徳について鋭く洞察するようになりました。『投降したSS指導者』の中で指摘されていますように、強制収容所に勤務しようとするSS隊員は一人もいませんでした。労働収容所の監督は無意味なようでした。SS隊員のあいだでは不満が高まっていましたので、ヒムラーとの会談では、この件が繰り返し取り上げられました。

 ヒムラーが、これらの収容所の管理・監督というSSの任務について話しているのは、この文脈においてでした。これが[彼の言っている]総統命令でした。フレミングは、これを、[いわゆる]ユダヤ人絶滅に関する総統命令に変えてしまいました。日記は父が戦後に口述したものです。私は、多くの手紙を持っていたので、この日記は父のタイプライターを使って書かれたものであることがわかります。…父は、SS人事局での立場から、強制収容所を訪問しましたが、これは、ここに勤務するSS隊員への関心から出たものです。偽造が生まれたのはここからでした。」

 

 エッケハルトの解釈は納得できるものであるが、彼の父が自分の日記をなぜ『投降したSS指導者の日記から』と名づけたのか、なぜこの奇妙な文書が1965年のトレブリンカ裁判に証拠として提出されたのか説明していない。

 アルフレード・フランケ・グリクシュが『投降した兵士の日記から』を書いたとすると、その執筆の動機は何であろうか。

 フレミングは、この文書は謎めいているので、その解読には「再定住行動」報告の助けがいると考えている。そして、たんに信頼を損なうような憶測しか述べていない(152153頁)。

 

「この話[『日記』]の書かれた1948年秋には、ヘルフは(1945年にイギリスに捕まっていたときに死んでいたので)もはや証言できなかった。それゆえ、アルフレード・フランケ・グリクシュは、自分がアウシュヴィッツ・ビルケナウの絶滅機構について作成した報告の背景について、できるかぎり説得的、納得できるかたちで、説明しようとしたのである。この当時、彼は、アウシュヴィッツ[「再定住行動」]報告がすでに発見・記録されているかどうか知らなかったが、この妥協的な文書が遅かれ早かれ発見される可能性に対処しなくてはならなかった。」

 

 しかし、すでに明らかにしてきたように、[再定住行動]報告は、フレミングたちが考えているような文書ではない。信憑性のある個人の手による当時の報告として書かれたものではない。だから、フランケ・グリクシュには、『日記』をかいて「自分を守る」理由はまったく存在しないであろう。事実、『日記』をざっと読んでみても、それはフランケ・グリクシュを免罪しようとしているというよりも、彼の犯罪を明らかにしようとしていることが明らかである。とくに、「再定住行動」文書には、戦後の粗雑な偽造の痕跡すべてが存在していることを考慮すると、なおさら、明らかである。

 幸運なことに、フランケ・グリクシュのイデオロギーや背景、とくに1948年末から1953年末のあいだの彼の政治活動についてはよく知られている。これを念頭に置くと、この『日記』が偽造された説明がつくであろう。

 オットー・シュトラッサーは、兄弟グレゴールとともに一時はヒトラーの同志であり、のちには彼の敵となった。フランケ・グリクシュは1930年代初頭、このオットー・シュトラッサーの政治運動の指導的な活動家であった。

 エッケハルト・フランケ・グリクシュは、私あての1990114日の書簡の中で、父親の戦前の活動についてこう述べている。

 

「父と母は、シュトラッサー派で、ヒムラーとは1927年以来知り合いでした。彼らは献身的な民族社会主義者で、ヒトラーに従っていました。父は1928年に入党し、1930年に離党しました。グレゴール・シュトラッサーは、両親の結婚式の証人でした。…

 ヒトラーが1933年に政府の長となり、もともとの民族社会主義の目標から離れていくと、…父はグレゴール[オットー]シュトラッサーとともにドイツから逃げ出しました。…帝国最高裁は、父を欠席裁判にかけて、裏切りの罪で死刑判決を宣告しました。父は、シュトラッサーの組織のメンバーであったからです。…[しかし]父はヒムラーと話しあって、党が民族社会主義革命を裏切った事情について理解するようになりました。ヒムラーと父は合意に達し、父は[帰国して]アルフレード・フランケという名前で武装SSに加入しました。ヒムラーが父に求めたのは、時期が来るまで政治活動を控えるようにとのことだけでした。」

 

 アルフレード・フランケ・グリクシュは、イギリスに捕まっていたときに作成した短い自伝的陳述("Mein Lebenslauf in Stichworten")の中で、プラハのシュトラッサー組織の中で活動家として行動していた時期を次のように回想している。

 

「政治問題での基本的な意見の相違によるオットー・シュトラッサーからの離反。シュトラッサーは、ザールとメーメル[地方]の[帝国への]返還に反対する方向に、自分の新聞をもっていきたがっていました。…私は、ザールとメーメル地方はドイツに帰属すべきであるという別の意見を持っていました。ドイツでのわれわれの同志の信頼を失いたくなければ、反ヒトラー闘争は、反ドイツ闘争になるべきではないとの意見でした。」[14]

 

 フランケ・グリクシュは、オットー・シュトラッサーの「黒色戦線」と決別し、SSに入隊したにもかかわらず、開かれた、かなり批判的精神を維持していた。19412月、フランケ・グリクシュは、収容所の看守となるSS髑髏部隊の隊員のイデオロギー教育を担当する将校として勤務していたダッハウから、ヒムラーに覚書を送っている。Charles Sydnorによると、その覚書は次のように要約される(31516頁)。

 

「その訓練では、人種的な敵を憎悪せよ、命令には服従せよと粗野なかたちで強調されていたが、フランケ・グリクシュは、これがSS髑髏部隊の政治的教化の中心となっていると考え、このことに鋭く批判的であった。この文書は、ヒムラーがSSの思想的訓練を修正して、SS兵士が確信的な民族社会主義者となるために知っておかなくてはならないとフランケ・グリクシュが考えている、政治問題、経済問題、地理的な問題を訓練に含めるように要請して、終わっている。」

 

 1948年にイギリスから釈放されると、フランケ・グリクシュは「ドイツ兄弟団」(Deutsche Bruderschaft)の組織化に大きな役割を果たした。それは、おもに旧ドイツ国防軍将校、ヒトラー・ユーゲント指導者、SS隊員で構成される半地下グループであった。フランケ・グリクシュはこのグループのスポークスマン、「代表」となった。[15]

 「兄弟団」のイデオロギーは、「赤色−褐色」シュトラッサー組織の指導者としてのフランケ・グリクシュの自身の過去を反映していた。「兄弟団」は共産主義者の「国民戦線」と提携し、ソ連との協力を支持していた。1950年のミュンヘンの新聞記事は、「兄弟団」がその組織をソ連軍に移すことさえも提案していたと伝えている。

 こうした話を総合すると、フランケ・グリクシュは、戦前、戦中、戦後、ずっとヒトラー(と「ヒトラー主義」)に反対してきた。この記録を考慮すると、彼は連合国の情報部員と協力して、「再定住行動」報告に信憑性を与える情報を提供したと結論するのが論理的である。こうした協力姿勢を考えると、SS将校フランケ・グリクシュが「戦争犯罪人」として裁かれたのではなく、イギリスによって釈放された理由も納得しうる。フランク・グリクシュが、時代をさかのぼって、反ヒトラー色の強い『日記』を作成した動機も十分に理解できる。いずれにしても、フランケ・グリクシュの政治活動と政治的志向性を考えると、彼は、「ガス室」その類に関する連合国の宣伝を受け入れ、ひいてはその普及を、何らかの現実政治の理由から、喜んで助けたのである。[16]

 しかし、フランケ・グリクシュの政治活動は短命であった。フレミングは次のように書いている(141頁)。

 

195110月、彼[フランケ・グリクシュ]は、ポツダムにいる自分の母を訪ね、そこで、妻とともに起訴された。フランケ・グリクシュは、19428月から冬のあいだにロシアでSS警察部隊で活動していた罪で、195110月にカールスホルシュト[ベルリン郊外]で、ロシア人から死刑判決を受けた。彼の妻は、労働収容所での25年間の刑を宣告された。1955年、彼の妻はヴォルクタを離れ、西ドイツに帰国した。」

 

 エッケハルトは、私あての書簡の中で、父親の逮捕と移送について次のように書いている。

 

「父は、兄弟団の指導者として、19519月末に東ベルリンに誘い出され、ソ連の秘密情報部員に逮捕されました。一両日後、彼の妻[エッケハルトの義理の母]も、夫が重いせん痛をわずらって、ポツダムの母のもとで寝ているとのメッセージを含む偽造書簡によって、ソ連地区に誘い出されました。

 彼は、1953818日、ソ連のヴォルクタ収容所で死にました。義理の母は25年間の強制労働を宣告されましたが、1956年に釈放されました。」

 

 フランケ・グリクシュはなぜ、この時期に逮捕され、刑を受け、収容所に移送されて死んだのか。この問題の解決は、彼が偽造日記を書いた動機と同じように、憶測の域を出ていない。フランケ・グリクシュは、東側と西側、イギリスの情報局とソ連の情報局との複雑なスパイ・ゲームに関与していたのであろうか。資本主義でも共産主義でもない「第三の道」に沿って中立的なドイツを再建しようと努力していたのであろうか。

 すでに指摘したように、リゼロッテ・フランケ・グリクシュ夫人は、1965年に西ドイツで開かれたトレブリンカ裁判の検事側証拠として、『日記』を提出している。興味深いことに、フランケ・グリクシュ夫人は、ドイツ赤十字追跡局への196923日の書簡の中で、自分の夫の運命と所在を問い合わせている。彼女は、自分の夫がソ連のどこかで生きていると信じていた、少なくともそのように願っていたにちがいない。これこそ、彼女が『日記』をトレブリンカ裁判証拠として提出した理由であろう。協力すれば、夫が釈放されると信じていたのであろう。

 

結論

 すでに明らかにしたように、現存資料を丹念に検証すれば、フランケ・グリクシュによるとされている「再定住行動」報告は、――おそらくはリップマンによる――戦後の偽造であることがわかる。

 この「報告」が歴史資料としては無価値なものであるにもかかわらず、フレミングやプレサックといった絶滅派の歴史家たちは、この「報告」を利用してきた。こうした歴史家たちは、ホロコースト物語を立証する証拠を死に物狂いで捜し求めようとして、文書のテキストにある明らかな虚偽の話を、歪曲し、無視し、あいまいにし、一方では、それが偽造文書であることを示しているその他の証拠――その疑わしい性格を示しているテキスト自体も含めて――を無視してきた。

 フレミングとプレサックは、証拠を冷静に評価し、それを批判的に分析し、そこから結論を引き出すのではなく、偽りの「再定住行動」報告を本物の、信憑性のある資料と描き、前もって想定されている見解を「立証する」「証拠」として利用した。このようなやり方は、もっとも好意的に解釈しても、自分たちの意図を現実のものとするやり方と呼ぶことができるであろう。そして、このようなやり方は、公平な歴史家たちの研究方法の対極に位置しているのである。

 

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[1] 『ヒトラーの戦争』の出版の11年後、アーヴィングはこの問題での自分の立場をさらに修正した。彼は、自分の研究を深めると同時に、アウシュヴィッツの「絶滅ガス室」に関する処刑専門家ロイヒターの研究結果に影響を受けて、ドイツの戦時中の絶滅政策などありえなかったと主張するバッツ博士やフォーリソン博士などのホロコースト修正主義者に同調するようになった。絶滅計画に関する文書資料的証拠の欠落について詳しくは、Carlo Mattogno, "The Myth of the Extermination of the Jews," The Journal of Historical Review, Summer 1988 (Vol. 8, No. 2), pp. 133-140を参照。.

[2] C. Sydnor, Soldiers of Destruction (1977), p. 337, footnote.

[3] 19911月、リップマンは電話で、自分はフランケ・グリクシュの「再定住」資料を思い出すことができないと知らせてきた。

[4] しかし、フレミングの送ってきた写真コピーでは、末尾にあるリップマンの手書きの文章と署名は、消し去られている。

[5] フレミングはまた、「再定住」報告を確証しようとして、ガス処刑の手順に関するミューラーの記述も引用している。しかし、それは、「再定住」報告に登場するビルケナウの焼却棟Uでのガス処刑ではなく、(アウシュヴィッツ中央収容所の)焼却棟Tのガス処刑の記述なのである。フレミングはまた、ミューラーの記述によるガス処刑手順と「報告」の記述との相違を無視している。

[6] G. Fleming, pp. 144-145.

[7] J.-C. Pressac, pp. 236-239.

[8] プレサックは、「4つのビルケナウの焼却棟の毎日の最大処理能力は3000体である」という彼の主張(239頁)について、納得のいく説明をしていない。石炭消費量(1体につき2550kg)は1日なんと75000150000kgとなるであろうし、燃焼室はそのような割合で稼動しえないからである。

[9] J.-C. Pressac, pp. 246, 348.

[10] 「再定住」報告によると、「ガス室」は300400名を収容することができたとなっているが、フレミングとプレサックは、フィリップ・ミューラーやその他の「目撃者」が一時に3000名ほどを収容できたと述べていることについては触れていない。

[11] 「ガス処刑」手順のもう1つの記述は、1944年のヴルバ・ヴェツラー戦争難民局報告にある。

[12] Martin Gilbert, Auschwitz and the Allies (1981), p. 34 (fn 3), p. 175.

[13] G. Fleming, pp. 152, 153.

[14] エッケハルト・フランケ・グリクシュが私に提供してくれた2頁のタイプ・コピーの1頁目から。

[15] Der Tagesspiegel (Berlin), Nov. 17, 1950も含む、1950年からのさまざまなドイツの新聞記事。エッケハルト・フランケ・グリクシュが提供してくれたコピー。

[16] フランケ・グリクシュのケースは、ある面でクルト・ゲルシュタインのケースと似ている。Henri Roques, The "Confessions" of Kurt Gerstein (IHR, 1989)を参照。