試訳:オットー・レーマー少将は語る

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2006年5月6日

 

[歴史的修正主義研究会による解題]

オットー・エルンスト・レーマー旧ドイツ国防軍少将(1912-1997)は、1944年7月20日の反ヒトラー陰謀・反乱を鎮圧するにあたって、中心的な役割を果たした人物である。敗戦後、同将軍は、西ドイツ社会においてドイツの民族的尊厳の再建に尽力し、晩年には修正主義的文献の出版の咎で刑事訴追された。そのために、彼はスペインに亡命し、その地で1997年に他界した。

当研究会は、研究目的で、このレーマー将軍に関連する記事および将軍自身の発言・講演を、「オットー・レーマー少将は語る」と題して、編集・試訳することにした(文中のマークは当研究会が付したものである)。

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

目次

(1) レーマー将軍、亡命地で他界

M. ウェーバー

M. Weber, Remer Dies in Exile, The Journal for Historical Review, Volume 17 number 1

online:http://www.ihr.org/jhr/v17/v17n1p-7_Weber.html

 

(2) レーマーの談話

Remer Speaks, The Journal for Historical Review, Volume 17 number 1

online:http://www.ihr.org/jhr/v17/v17n1p-9_Remer.html

 

(3) オットー・エルンスト・レーマー将軍とのインタビュー

シュテファニー・シェーマン、M. ウェーバー訳

An Interview with General Otto Ernst Remer, The Journal of Historical Review, vol. 10, no. 1

online:http://www.ihr.org/jhr/v10/v10p108_Schoeman.html

 

(4) 反ヒトラー反乱の鎮圧における私の役割

オットー・エルンスト・レーマー

Otto Ernst Remer, My Role in Berlin on July 20, 1944, The Journal of Historical Review, vol. 8, no. 1

online:http://www.ihr.org/jhr/v08/v08p-41_Remer.html

 

レーマー将軍、亡命地で他界

M. ウェーバー

 

 オットー・エルンスト・レーマーが1997年85歳で他界した。彼は、1944年7月の反ヒトラー反乱の鎮圧に重要な役割を果たした旧ドイツ軍将校であり、戦後は、修正主義的文献の出版に尽力した。1994年以来、スペインのリゾート地マルベラで亡命生活を送っていた。数ヶ月間病床についたのち、他界した。

 妻アンネリーゼが残された。彼が他界したとき、遺骸は焼却され、その灰はあとでドイツに埋葬されるとの話であった。

 レーマーは1912年8月18日に生まれ、1930年にドイツ国防軍に志願した。第二次世界大戦中は、フランス、バルカン、東部戦線で前線将校として戦った。

 少佐、大佐と昇進したのち、1944年、ベルリン防衛大隊「大ドイツ」の指揮を任された。この職務にあるとき、この31歳の将校は、ヒトラーを暗殺して政府の権力を奪取しようとする反乱将校集団の陰謀を鎮圧するという歴史的に重要な役割を果たした。

 1944年7月20日の午後、ベルリン防衛軍司令官で反ヒトラー陰謀の指導者であったパウル・フォン・ハーゼ将軍は、ヒトラーが死亡し、混乱が起きているので、軍がベルリンでの全権力を掌握するとレーマーに告げ、ベルリン中央部の重要官庁をすぐに封鎖するように命じた。

 レーマーは、きわめて異常な命令の実行をためらい、直接ゲッベルスと連絡を取って確かめようとした。宣伝大臣かつベルリン管区指導者であったゲッベルスは、ヒトラーは死んでいないとレーマーに話したが、レーマーがそれでも不信の念を抱いていたので、東プロイセンの本営にいる総統と電話で直接話す手はずを整えた。(会議中に陰謀の指導者シュタウフェンベルク大佐のおいた爆弾は4人の将校を殺したが、ヒトラーは軽傷だけで助かっていた。)

 「聞こえるか?私の声がわかるか?」とヒトラーは話しかけた。彼は、暗殺計画の失敗を説明してから、ベルリンの全権をレーマーに与え、反乱を鎮圧させた。レーマーと彼の部下は、十分に計画・組織されていなかった反乱をすみやかに鎮圧した。

 5ヵ月後、レーマーは、失敗に終わった「バルジの戦い」=アルデンヌ攻勢でエリート部隊「装甲総統警護師団」を指揮していた。1945年1月30日、ヒトラーによって少将に昇進し、続いて、伝説的な「装甲総統警護師団」の兵1万を率いることになった。戦争最後の数ヶ月、彼と彼の部下は圧倒的なソ連軍と戦い、それによって、赤軍の侵攻から逃れてくる数十万の難民を救った

 レーマーは戦闘では際立った勇気と大胆さを発揮し、何度も負傷した。ドイツでもっとも名誉のある勲章のいくつか、すなわち、騎士戦功鉄十字章、ドイツ金十字章、柏葉つき鉄十字章、戦傷金章、近接戦闘銀章を授与されている。

 戦争末期、彼はアメリカ軍に捕らわれ、1947年まで捕虜であった。この時期、ドイツ軍捕虜収容所のアメリカ軍司令官、第一歩兵師団将校スタンレー・サムエルソンはレーマーのことを「この収容所に収容されていた87名のドイツ軍将軍のうち、その勇気と尊厳を尊敬できたのはレーマー将軍だけであった」と述べている。

 戦後、レーマーは「社会帝国党」の創設に指導的な役割を果たした。同党は国会で16議席を獲得したのちに、1952年、禁止された。レーマーもエジプトとシリアで数年間の亡命生活をおくった。『ヒトラーをめぐる陰謀と裏切り』を含む2冊の著作を執筆している。

 レーマーは第8回歴史評論研究所大会(1987年)で、「1944年7月20日のベルリンでの私の役割」と題する優れた講演を行なっている(この講演は『歴史評論』誌1988年春号に掲載されており、歴史評論研究所のオーディオテープ、ビデオテープでも内容を知ることができる)。

 1992年10月、シュヴァインフルトのドイツ裁判所は、「民衆煽動」と「人種的憎悪の教唆」の咎で22ヶ月の禁固刑をレーマーに宣告した。彼のタブロイド版のニューズレターRemer Depescheが5号にわたって、反ユダヤ主義的な「ホロコースト否定」論文を掲載したためであった。この案件では判事は、レーマーの弁護士が提出した広範囲にわたる証拠の採用をまったく拒否した(『歴史評論』誌1993年3-4月号29-30頁、1994年5-6月号42-43頁参照)。

 1994年2月、レーマーは投獄を避けるために、スペインに亡命した(『歴史評論』誌1995年7-8月号33-34頁)。ドイツ当局は引渡しを要求したが、スペインの最高裁は、レーマーの「思想犯罪」はスペインでは非合法ではないとの理由でこの要求をしりぞけた。にもかかわらず、ドイツ当局は、最後の最後まで執拗に、瀕死の80歳の老人の引渡しを求め、彼をドイツの刑務所に投獄しようとした

 レーマーについては長年にわたって数多くの新聞記事が登場したが、その多くにひどい嘘がある。例えば、彼は再三にわたって、「SS隊員」であったとか、「SS将校」であったと言われてきたが、それはまったく間違っている。彼が民族社会主義ドイツ労働者党員であったことはまったくない。

 また、レーマーは「ユダヤ人の殺戮を否定した」とか、「民族社会主義体制の下で殺されたユダヤ人は一人もいなかったと主張した」とか言われている。しかし、レーマーは「私は、第三帝国でユダヤ人が殺されたことを否定していない、論点としているのはアウシュヴィッツで死んだユダヤ人の数と殺害方法(すなわちガス室)である」と指摘している。

 レーマーはガス処刑説を反駁するにあたって、アウシュヴィッツの「ガス室」に関するさまざまな法医学的調査、とくにドイツ人化学者ゲルマール・ルドルフとアメリカ人ガス室専門家フレッド・ロイヒターの調査を引用した。

 レーマー事件は、今日のドイツにおける奇妙な事態、ひいては捻じ曲がった事態を象徴している。彼の「犯罪」は非暴力的な見解の表明であるにもかかわらず、戦時中の強制収容所での大量ガス処刑説に反駁することは、今日のドイツでは、そこで特権を享受しているユダヤ人に対する犯罪行為であるとみなされているのである。

 第三帝国と第二次世界大戦が終焉を迎えてから半世紀以上が経過した今日であっても、ドイツ人は、ヒトラー時代の反ユダヤ主義的措置を「決して忘れないこと」、史上もっとも恐ろしい犯罪をあがなうこと、自分たちのことを犯罪者・道徳的不適格者とみなすことを絶えず求められている。1944年7月の反乱首謀者たちは公的に称えられ、その一方で、レーマーのような傑出した戦争中の英雄、自己犠牲的愛国者は中傷されている。これこそ、ドイツ国民の自虐的世界観である

 とくにドイツでは、歴史的真実を求める戦いは、アカデミックな問題としてだけではない。民族的生存をかけた問題なのである。

 もしも、ドイツがふたたび戦争に突入することがあるとすれば、国家的危機の時期に、反乱を起こして国民の指導者を暗殺し、政府を転覆しようとするような人々を兵士や将校の亀鑑とすることは、まったく馬鹿げた自殺行為であろう。

 健全な生存本能をもつ民族であれば、とくに戦時にあっては、オットー・エルンスト・レーマーのような、自己犠牲精神、愛国心、ヒロイズムをもった人々を称えるのがごく自然であろう。(目次へ)

 

レーマーの談話

 

       1944年7月20日の蜂起、もっと肯定的な用語を使えば反乱が失敗したのは、私が干渉したためではなく、反乱首謀者のあいだで目標や見通しが欠けていたためです。彼らは、雑多な集団であり、もちろん、総統に反対している点では一致していましたが、その他の問題ではまったくばらばらの、特権的ではありますが、抑圧されていた貴族階級でした。反乱が失敗したのは、不明瞭な理念のもとで計画され、十分な準備も行われず、驚くほど粗雑に実行されたためでした。さらに、ドイツ国外からの政治的支援も約束されていませんでした。ですから、唯一可能な結果は無条件降伏でしかありえなかったのです。

       1944年7月20日の企てが成功していたとすればどのような事態となったのか?これはまったくはっきりしています。東部戦線では、この当時すでに熾烈な防衛戦闘が繰り広げられていましたが、内乱が生じて、補給が途絶えてしまえば、東部戦線は崩壊してしまったに違いありません。…しかしながら、東部戦線の崩壊は、さらに数百万のドイツ軍兵士をロシアの死の捕虜収容所に送り込むことを意味するだけではなく、ドイツ帝国の東部地域で暮らしていた数多くの女子供の疎開、もしくは、西側連合国のテロル的空襲の結果東部地域に疎開してきていた人々の疎開を妨害してしまうことを意味するでしょう

       思考力のある兵士であれば、東部戦線での自分たちの経験にもとづいて、この戦争に負ければ何が起るのかを知っていました。ドイツ軍兵士は、わが国の生存のためにこの戦いが必要であることを深く確信していました。われわれは征服欲からロシアを攻撃したわけではありません。むしろ逆です。ソ連が256個以上の師団からなる優勢な兵力を配置して、適切な時期を捉えてヨーロッパに侵攻しようとしていたので、われわれは行動せざるをえなかったのです。

       私は自分の人生を通じて、50カ国以上の国々、とくにアラブ世界とブラック・アフリカの国々のことを理解するにいたりました。これらの国々の国民はさまざまな政治システムのもとで暮らしていますが、われわれドイツ国民とは逆に、自分たちの祖国を尊敬し、自分たちの国とその伝統に誇りを抱いています

       1945年以降のドイツ人「再教育」制度は、ドイツ人をノイローゼにかかった民族にしてしまいました。ドイツ連邦共和国で支配的となったノイローゼ的な精神心理状態のために、ドイツ民族は、民族的自覚を失い、民族生活秩序に対する左翼的評価に対して、決定的な対抗措置をとることができていません

       民主主義は、民主主義だけを提唱し、民族共同体の伝統的・日常的価値を認め、尊重しようとしなければ、良いものでも受け入れることができるものでもありません。ドイツも含む西側民主主義諸国では、民族、国家、国民を尊重しない民主主義に誰も好感を抱くことはできないと思います。一般的に流布されているドグマとは逆に、非常に多様な文化的見解を考慮すると、人間というものは等質な存在ではないとの印象を受けています。世界各地では、民族主義者たち、自分たちの祖国を愛している人々こそが、同じ言葉を使って対話し、相互理解を達成しています。このようなことは、各国の民主主義者にはできないことです。

       第三帝国は喧騒なほど中傷されています。また、ドイツ国民は自己非難を強制され続けています。ドイツの無知な市民にこの民主主義の価値を納得させるには、長く続いた自虐的な告白をいくどとなく繰り返すほかに方法はないのでしょうか?それほど、ヒトラーの遺産は強力で、ドイツ連邦共和国は脆弱なのでしょうか?私は、自己非難的、自虐的歴史観を信じてはいません。長い目で見れば、歴史的真実を抑圧することはできないからです。(目次へ)

 

 

オットー・エルンスト・レーマー将軍とのインタビュー

シュテファニー・シェーマン、M. ウェーバー訳

 

Q:レーマー将軍、第二次世界大戦ではどのような役割を果たされたのですか?

A:…私は前線指揮官でした。戦争中はずっと戦闘部隊を率いていました。ベルリンでベルリン防衛大隊指揮官としてすごした3ヶ月と、総統の本営で警護隊長としてすごした3ヶ月だけが例外です。

 その後、私は将官、師団長となりました。総統の個人的命令で、私の師団は東部戦線のもっとも重要な地区での戦闘に投入されました。そして、私は終戦まで戦闘部隊の指揮官でした。

 

Q:1939年のポーランド回廊をめぐる危機と開戦についてはどうお考えですか?

A:1944年9月、総統の本営の警護隊長であったとき、歩きながら総統とお話しする機会がありました。「総統、率直に少しお話してもかまいませんか?」と尋ねると、「もちろん」との答えでしたので、「なぜポーランドを攻撃されたのですか? 我慢することはできなかったのですか?」と尋ねてみました。

 総統が求めていたのはポーランド領を横切る高速道路と鉄道だけでした。また、ダンツィヒがドイツ帝国に戻ることも望んでいました。非常につつましい要求でした。もう少し我慢すれば、オーストリアとズデーテンランドがドイツ帝国と統合されたように、これらの要求も達成できたのではないかということです。

 総統はこう答えました。

「君は間違っている。私は、すでに1939年3月にルーズベルトが世界大戦を決意していること、イギリスがこれに協力していること、チャーチルが関与していることを知っていた。戦争を望んでいないのは私だけだということを知っていたのは神だけだった。だから、私は、宣戦布告無しで、懲罰行動のかたちでポーランド問題を解決しようとしたのである。当時、数千の民族ドイツ人が殺され、120万の民族ドイツ人が難民と化していた。どうすべきであったのか?行動しなくてはならなかったのである。

 このために、開戦から4週間後に、私は、これまでの戦勝国の指導者が行なったことのないような寛大な講和条件を提起した。不幸なことにそれはうまくいかなかった。

 もしも、ポーランド問題について、第二次世界大戦の勃発を防ぐために、実際に行なったことを行なわなかった場合には、1944年に経験していることを、遅くとも1942年末には経験していたことであろう。」

 

Q:ヒトラーはイギリスに寛容すぎたのではないですか?

A:・・・これは総統の誤りでした。総統はいつもイデオロギーにもとづいて政策を追求していました。ファシストのイタリアとの同盟もそうでしたが、結局はイタリアの裏切りに終わりました。さらに、総統は北方ゲルマン的人種と、イギリス人も含む北方民族をいつも信用していました。総統が繰り返しイギリスに講和を申し出たのもそのためです。しかし、イギリスはこれを無愛想に拒み続けました。イギリスに上陸すれば、イギリスを戦争から離脱させることができたと思いますが、上陸しなかったのは、この重要な理由のためでした。イデオロギー的な理由から、総統はそうしませんでした。これはたしかに誤りでした。しかし、誰もが過ちをおかすものです。

 総統はあるとき、「戦争を続けているために、ドイツ国民の安寧を目指して成し遂げなくてはならない仕事から、日々遠ざけられている」と話してくれました。

 総統は国内政策とその計画のことを言っていたのです。総統は、国内政策を完遂できないままで、戦争に全力を傾注しなくてはならないことにひどく不満でした。平和が続いたのはわずか6年でしたが、その短い期間のあいだでも、大変革が成し遂げられていたのです。

 

Q:ダンケルクについてはどうお考えですか?

A:「アシカ」作戦として知られていたイギリス侵攻計画のことを知っていた背信的な将校たちが、海からのイギリス侵攻は軍事的に不可能であると総統に報告したのです。彼らは、政治的理由から侵攻を妨害するために、本当ではないことを知っていたにもかかわらず、そのような内容の報告書を作成したのです。戦後になって、この間の事情がすべて明らかとなりました。[ファビアン・フォン]シュラブレンドルフが、私の裁判でこのような内容の証言をしています。

 

Q:ヒトラーの政策、とくに対ソ政策に賛成していましたか?

A:対ソ戦についてですね。

まず、1941年初頭のユーゴスラヴィアとギリシアでのバルカン作戦時点で、われわれがソ連国境全体に10個師団しか配置していなかったのに対して、ソ連軍はわが国との国境地帯に247個師団を配備していたことを知っておかなくてはなりません。バルカン作戦が終わると、われわれはソ連との国境地帯にすみやかに170個師団を配備しました。ソ連軍は攻勢に出る準備をすでに整えていたのです

 緒戦でわが軍がソ連軍に対して勝利を収めたのは、ソ連軍が守備的な地点に駐屯しているのではなくて、攻勢に出るために前線近くに駐屯していたためです。このために、わが軍はすみやかにソ連軍を包囲することができました。ですから、戦争の最初の数週間で、わが軍は300万以上の捕虜と膨大な軍需物資を手に入れることができました。そのすべてが、攻勢に出るために、前線近くに配備されていたからです。

 これが真相ですし、それを証明もできます。最近、長距離偵察機のパイロットであったペムゼル氏と話す機会がありました。対ソ戦がはじまる前、彼はドン川付近にまで飛行して、国境地帯にソ連軍が多数集結していることを観察し、それを報告しています。

 ソ連軍がヨーロッパに侵攻する準備をしていたことについては、対ソ戦での私自身の経験、ソ連軍捕虜の尋問から知っていました。ロシア人は、われわれがイギリスに進撃する機会を利用して、ヨーロッパを蹂躙しようとしていたのです

 

Q:対ソ戦が1940年11月のヒトラー・モロトフ会談ののちには不可避であると考えていましたか?

A:ソ連の外務大臣モロトフはダーダネルス海峡を要求しました。これは、トルコ領である外国の領土を引き渡してしまうことになります。ですから、モロトフは、答えることのできない挑発的な要求を突きつけてきたことになります。総統は、ソ連がルーマニア領を平時に奪ったことも知っていました。また、ソ連がユーゴスラヴィアのベオグラードで反ドイツ蜂起を組織していたことも知っていました。ドイツとソ連の関係を引き裂いたのはロシア人なのです。

 総統がソ連攻撃に傾き始めたのは、ドイツとヨーロッパに対するソ連の攻撃の準備が進んでいることについて、再三報告を受けたあとのことです。ですから、私は、総統がもともとはソ連攻撃を計画していなかったと確信しています。総統は、状況の変化に対応していたのです

 

Q:ドイツ人はロシア人のことを「下等人種」と呼んでいたのですか?

A:ナンセンスです!ロシア人は他の人々と同じように人間です。

われわれがロシア人のことを「下等人種」と呼んでいたかどうかというあなたのご質問はナンセンスです。われわれはロシア人と良好な関係を築いていました。われわれが対処しなくてはならなかった唯一の例外は、ソ連の人民委員でした。彼らすべてがユダヤ人だったのです。人民委員たちは、機関銃を手にして前線の後ろに立ち、ソ連兵を戦闘に駆り出していました。われわれは彼らにすみやかに対処しました。命令にそっていたのです。この戦争は基本的生存のためのイデオロギー戦争であり、その中で、こうした政策は当然のこととされていたにすぎません。

 ロシア人のことを野蛮なアジア系遊牧民とみなすような話もあり、兵士たちが下等人種についておしゃべりしていることもありましたが、「下等人種」という用語が公式に使われたことはありません。

 

Q:ロシア人たちは虐待されなければ、ドイツ人と戦わなかったでしょうか?

A:ウクライナ人やカフカース地方の人々はわれわれの側に立って、戦おうとしましたが、われわれはそれを活用できませんでした。十分な武器がなかったからです。戦争では、理論的にはこうすればよかったという点が多々ありますが、実際には、実行できないことも多いのです。

 アラブ系の人々も、自分たちの解放を求めて、われわれに武器を要求しました。スペインの指導者フランコも、参戦の条件として武器を要求しましたが、われわれ自身にも武器は不足していたのです。

 ドイツの軍需産業計画は、対ソ戦の進行まで見通していませんでした。われわれは3260両の戦車から始めました。それがすべてでした。しかし、ソ連軍は10000両を持っていたのです。当時、ドイツの戦車生産は月35両でした。想像できますか!月1000両という頂点に達したのはやっと1944年10月のことでした。ドイツの戦車生産は1941年の月35両から、1944年末の月1000両にまで上昇しました。これほどの相違があったのです。これこそ、われわれが世界戦争など軍事的に準備していなかった証拠です

 

Q:ソ連軍がドイツに接近してきたとき、どこに勤務していましたか?

A:東プロイセンの総統本営ヴォルフスシャンツェの警護隊長でした。私の部隊の一部と一緒にいました。まだ組織中であり、準備が整っていませんでした。ソ連軍を押し戻すためのゴルダプ付近での反撃に参加しました。しかし、この作戦はわずか8日続いたにすぎませんでした。

 

Q:ドイツの民間人に対するソ連軍の虐殺行為についてはどうですか?

A:女性が殺され、足がばらばらとなり、切り刻まれて、胸も切断されている例を目撃しました。私自身がポンメルンで目撃したのです

 この事件のことをラジオで話したことがあります。詳しく報告するようにとの要請がゲッベルス博士からあり、彼はインタビューのためにラジオ放送チームを送ってきました。私が事件を目撃したのは、スタルガルト周辺地区です。

 

Q:ソ連軍の中の「アジア系」兵士についてはどうですか?

A:ひどいものでした。前線でこうした行為におよんだ兵士は、…アジア人、モンゴル人などでした。

 

Q:虐殺は意図的な政策の結果でしたか?

A:きわめて意図的でした。われわれの「階級」もしくはエリートを心理的に打ち壊そうとしたのです。

 

Q:以前、ユダヤ人人民委員について話されていますね?

A:問題は、ドイツ軍やその他の国々の軍隊とは異なって、ソ連軍には、指揮官とともに、命令を発する権限を持つ政治人民委員がいたことです。ほとんどがユダヤ人でした

 例えば、[ウクライナの]リヴォフの東のタルナポリとゾロチェフで、軍事攻勢がすみやかな成功を収めたときの事例をあげておきます。私自身が経験したものです。

 われわれはゾロチェフを占領し、2両の戦車が遅れて続いていました。敵の反撃があるのか、それともこのまま攻撃を続けるのかはっきりしていなかったので、わが軍は町外れで休息をとっていました。戦車の到着待っていたのです。この小さな町で、私は幼い子供たちが窓から放り出されているのを目にしました。また、通りに倒れた女性が棍棒で死ぬほど殴られているのを目にしました。彼らはユダヤ人でした。

 私は[地元の]女性を呼びつけました。彼女は私の車にやってきて、「私たちがなぜ困難ことをしているのか教えてあげます」と言いました。

 われわれは車で地元の刑務所に向かいました。囚人が散歩するための、壁で囲まれた区画がありました。そこには、死体がうずたかく積み上げられていました。まだ、血を流している死体もありました。

 2時間ほど前、ソ連軍が撤退するときに、ソ連兵は、投獄されていた地元をウクライナ人民族主義者たち全員を機関銃で銃殺したのです。

 これをやらせたのがユダヤ人人民委員でした。だから、地元のウクライナ人たちがユダヤ人にポグロムを行なっていたのです。ウクライナ人は、ユダヤ人を見かければ、すぐに殺しました。われわれはこの当時、地元の事柄に影響を与えることがまったくできなかったにもかかわらず、このポグロムの件で非難されているのです。われわれが秩序を回復することができたのはかなりあとのことでした。

 

Q:ウクライナ人によるポグロムは、ドイツ人の名誉を傷つけるために意図的に行われたのですか?

A:いいえ、こうした反ユダヤ主義的ポグロムは、人々の怒りの表現でした。彼らはユダヤ人を憎んでいたのです。

 ポーランドでも、ポグロムがたびたび起りました。ご存知のとおり、戦後になってからも、ポーランドではユダヤ人に対するポグロムが起りました。東ヨーロッパでは、ユダヤ人たちはいつも上品な人々・良き商人と称してきましたが、彼らに対する人々の怒りは、筆舌に尽くしがたいものです

 

Q:身近で見るヒトラーはどのような人物でしたか?

A:総統は完璧なホストでした。私は、ヴォルフスシャンツェの総統本営にいたとき、総統が、誰であろうとゲストをスケジュールどおりに出迎えることに特別な関心を支払っていることをたびたび目にしました。

 総統は、鉄道の駅でゲストを出迎える前に、本営ではすべての準備が整っていることを確認しようとしていました。

 総統は、絨毯と食器がマッチしているかどうかをチェックし、ゲストが快適にすごせるように誰もが配慮するように熱心に促していました。総統は、ゲストのことに心を砕いていたのです。

 総統の建築家へルマン・ガイスラーが総統についての本を書いています。[『もう一人のヒトラー、回想』]。素晴らしい本であり、おすすめします。ガイスラーはとても優れた人物で、よく物まね、とくにロベルト・ライ[ドイツ労働戦線指導者]の物まねが上手でした。総統はこのことを知っていたので、ガイスラーにライの演説を真似するように求めました。ガイスラーはユーモアたっぷりに「総統、できません。そんなことをすれば、彼は私のことを収容所に送ってしまいます」と答えました。すると、総統は、「私が連れ戻してやるから」と楽しげにいいました。総統はこのような人物だったのです。そこで、ガイスラーはライの物まねをしました。[レーマーはライの物まねの真似をする。]総統は、目から涙があふれるほど大笑いしました。

 

Q:ヒトラーの恋愛生活はどうでしたか?

A:総統にはそんな時間はありませんでした。総統は、妻に割くような時間はないといつも言っていました。エファ・ブラウンは彼女なりの役目をよく果たしました。二人の関係を知っているものは誰もいませんでした。秘密が保たれていたのです。エファは、ゲストが多くいたときにも、うまく立ち回っていました。

 総統が恋愛経験豊富だったとは思いません。首相になるために戦っている時期に、ゲリ・ラウバルという姪がいました。総統は彼女に十分な関心を向けることはできませんでしたが、彼女は総統のことを愛しており、そして自殺してしまいました。ゲリは、総統が本当に愛したたった一人の女性でした。

 

Q:ヒトラーには子供がいましたか?

A:ナンセンスです。総統は子供を望んでいませんでした。

 総統は自分のことを国民の代表とみなしており、このイメージと矛盾してしまうようなことを私的生活でも拒んでいました。自分のことを政治家とみなしており、国民が自分に期待しているイメージに一致するようにいつも心がけていたのです。

 

Q:国民は自分たちの総統が子供を持つことを望まなかったのですか?

A:望んでいたかもしれませんが、そのためには、総統は結婚して、夫にならなくてはなりませんでした。しかし、総統は、そのような時間はないといつも言っていました。

 総統が、数mのコンクリートで保護された新しいヴォルフスブルクの本営に移動したときにも、私は同行しました。総統が新しい寝室に入ったとき、そこには通常の兵士用のベッドが置かれていましたが、その上にはマットレスが二つ敷かれていました。これを目にすると、総統はそれとなく「兵士は二つのマットレスの上で眠るからか?」と尋ねました。副官が困惑の様子を見せると、総統は、「一つを片付けてくれ」と言いました。総統はこのような人物でした。ご自分のことにはとくに気にかけなかったのです。

 総統は本営の周辺の防衛ラインを私費でまかなっていました。政府から1ペニーの給料も受け取ったことはありません。戦争末期まで、費用のかかる6kmの道路も含む防衛ラインを私費でまかなっていました。

 総統は、1億部以上も売れた『わが闘争』からの印税によって、金持ちでした。しかし、政府の金は1ペニーも受け取っていません。

 

Q:レーマー将軍、あなたはドイツとソ連との協力を呼びかけてきましたね。そのことについてお話ください。

A:われわれドイツ人はNATO同盟を離脱すべきです。軍事的に自立すべきです。非核地帯を設置すべきです。ロシア人との理解を深めなくてはなりません。すなわち、ロシア人とのあいだで合理的な国境を定めなくてはなりません。そうすることができるのはロシア人だけです。この点ではアメリカ人は影響力を持っていません。

 見返りとして、[ロシアの]原材料を購入し、ロシア人と協力して数百のプロジェクトを実行することを約束します。それによって、ドイツの失業問題も解決されます。イデオロギーとはまったく関係ありません。ロシア人は経済的に遅れているので、喜んでこの件に賛同するでしょうし、イデオロギーからも解放されるでしょう。

 

Q:フランス人はどのように反応するでしょうか?

A:フランスはわれわれと協力しなくてはならないでしょう。フランスはドイツよりも経済的には脆弱なので、西側ではドイツと交易しなくてはならないからです。ドイツにとっては、アメリカが死活を賭けたライバルなのです。

 

Q:独ソ同盟は戦争をもたらしませんか?

A:いいえ、逆です。われわれは戦争を防止するでしょう。ロシア人も戦争を望んでいません。ゴルバチョフ提案の意味はそこにあります。戦争を望んでいるのはアメリカです。

 

Q:アメリカは紛争を引き起こそうとしていませんか?

A:ドイツがロシアとの理解に達することができれば、アメリカにとってはそれで終わりです。

 率直に言わせてください。アデナウアー[西ドイツの戦後最初の首相]の政府は戦時中のゲッベルスのスタッフすべてを受け入れて、ボン政府の役職に就けました。その結果、ゲッベルス博士の戦時中の反共産主義的世界観――戦時中には適切なものでした――が、現在まで続いているのです。彼らはすべてゲッベルス・チルドレンでした。…誰が今でも共産主義を信じているでしょうか?われわれは心から共産主義に反対しています。

 

Q:ユダヤ人はソ連の中でどのような役割を果たしているのでしょうか?

A:レーニンのソ連指導部をまかなっていたのはユダヤ人でした。彼らは2億2000万ドルを使いました。この当時、ルーデンドルフ将軍も戦争を終わらせるためにレーニンに資金を提供していました。これは理解できることです。

 この当時、ソ連の指導部の97%がユダヤ人でした。その後、スターリンが権力の座に着き、政治家たちは、ロシアの国益にかなった[非イデオロギー的]製作を追求しました。その中には、「大祖国戦争」[すなわち第二次世界大戦]もあり、スターリンはこれに勝利をおさめたのです。

 スターリンは農民のような権力の周辺部にいた数百万の人々を殺しただけではなく、トロツキーも含むレーニンの支持者たち160万人も組織的に銃殺しました。その結果、今日、ロシアは反ユダヤ主義的な唯一の国、シオニストの影響力から解放されている唯一の国とみなされています。われわれドイツ人は、ワシントンとモスクワのライバル関係に感謝すべきです。漁夫の利を得なくてはなりません。

 

Q:第二次世界大戦中のソ連には、そのような種類のユダヤ人の影響がありましたか?

A:戦後、多くのユダヤ人がウラル地方に移送され、ポーランド系ユダヤ人は逃亡しました。ソ連軍は兵士を必要としており、パルチザンとして使われたユダヤ人もいました。しかし、ロシア人は、ユダヤ人が必要とされていないことを知っていました。ロシア人はユダヤ人と一緒にいても幸せではなかったので、彼らを移送しました。正確にはわかりませんが、戦時中のソ連には180万もしくは200万のユダヤ人がいたと思います。

 

Q:今日のソ連におけるユダヤ人の影響はどうですか?

A:少数のユダヤ人が存在していますが、彼らの影響力は劇的になくなっています。今日の最高会議では、4%以下がユダヤ人です。これに対して、[レーニンの時代には]97%でした。大きな変化が起こったのです。

 

Q:ソ連の専門職ではユダヤ人の影響力はどうですか?

A:あることはありますが、たいしたものではありません。政治的影響力はまったくありません。

 

Q:ロシア人と話したことがありますか?

A:はい、ソ連大使ヴァレンチン・ファリンと話したことがあります。ボンを訪問したときに、彼と会いました。もしくは、ケルンで広報秘書官とともに。彼らは私を歓迎してくれました。私たちは、このインタビューと同じように自由かつ率直に話をしました。政治生活においては、自分の敵と率直に話すのはごく当たり前のことです。

 

Q:ロシア人は本当に協力する姿勢を見せてくると考えているのですか?

A:今のところは、当てにできません。われわれが政治勢力ではないからです。政治的な力を持ったときに始めて、政治的要素として振舞えるからです。

 私はパンフレットを執筆し、それをモスクワに送りました。その件についてソ連の大使館員と議論しました。彼ら全員が、もしすべてのドイツ人が私のように考えているのであれば、両国のあいだの政治的関係はもっとわかりやすいものとなるであろう、しかし、対処しなくてはならないのはボン政府であり、ボン政府はNATO同盟の一員、わが国の敵であると言っています。これが、今の状況です。

 

Q:あなたの団体の出版物が『ビスマルクのドイツ』と呼ばれているのはなぜですか?

A:ビスマルクが東方政策を追求し、ロシアとの「再保障」条約のおかげで、44年間の平和を享受できたからです。(目次へ

 

 

反ヒトラー反乱の鎮圧における私の役割

――1944年7月20日、ベルリン――

オットー・エルンスト・レーマー

 私がベルリン防衛大隊「大ドイツ」に配属されたのは、実際には、休息と休暇のためのようなものだった。私は何度も負傷し、柏葉付き騎士鉄十字章、近接戦闘銀章(48日間の近接戦闘)などの戦功勲章を授与された。そのことが認められた結果なのであろう。前線からひきあげたのは初めての経験であった。その後、ふたたび負傷した。私は、戦友とともに前線に戻らなくてはならないと考えていたので、防衛大隊を指揮したのは4ヶ月間だけであった。

 防衛大隊「大ドイツ」の指揮官の職務を引き受けたのは1944年5月末だったが、その任務は、純粋にセレモニー的な仕事以外には、ドイツ帝国の政府と首都を防衛することだった。ベルリンとその近郊には100万以上の外国人労働者がいたので、騒乱が起る可能性が想定されていた。1944年7月20日正午ごろ、前線で重傷をおっていたハンス・ハーゲン博士中尉が、大隊将校と下士官の前で行なっていた文化史についての講演を終えた。彼は私の大隊の民族社会主義政治将校であったとの報道がしばしばなされてきたが、彼が私の大隊に配属されていたのはまったく職務上のことであった。民族社会主義政治将校ではなかった。私が、政治的にも軍事的にも、唯一の大隊指揮官であった。

 私は、副官のジーベルト中尉とともにハーゲン博士をラーテナウ兵舎にある私の宿舎での昼食に招いた。戦闘で目を失っていたジーベルトは告白教会[ヒトラーに反対したドイツ・プロテスタント教会の一派――訳者]の牧師だった。私自身は教会を離れていたが、ジーベルト中尉は、私の特別許可を得て、日曜日ごとに守備隊教会のミサに出かけていた。私たちのあいだでは、個人的な自由がルールだった。ジーベルト中尉は、総統が権力の座につく前の戦いの年月に、突撃隊員および党員となっていたが、イエス・キリストの家系についての地元の党指導者による中傷に抗議して、突撃隊も党もやめていた。しかし、このことで彼が不利益を被ったことはなかった。

 この当時、このようなことは、まったく可能であり、穏やかに行われていた。ジーベルトは、私が彼のことをその人格ゆえに副官に選ぶ前に、突撃隊員だった頃、ゲシュタポの事務所に押し入って、告白教会の仲間を告発するような文書を奪ったことがあると打ち明けてくれた。私は彼の個人的な誠実さをいっそう確信し、信頼できる副官として彼を登用した。第三帝国は今日ではひどく嫌われているが、この当時、第三帝国ではこんな風だった。私の部隊でも将校団でも、頑迷な狭量さは存在しなかった。まして、今日の西ドイツで憲法擁護庁が民族主義者たちに行なっているような、異論に対するテロ攻撃といったものは存在しなかった。ジーベルト牧師が自分のことを「レジスタンス戦士」とみなしていたとか、のちになって、そのようなふりをしたという話しを耳にしたことはまったくない。

 精神的に寛容であるという特徴は、一流文化史家ハーゲンとジーベルト牧師が『ヘリアンド[古いザクセンの聖書のバリエーション――訳者]』について昼食後に行なった議論の中に現れていた。外からの新しい教義を理解しやすくするために、ゲルマン的な伝統の仕組みがどの程度利用されたのかと言う問題だった。キリストは戦士の長として、弟子たちは戦士団として表現されたというのである。しばらくして、私は言葉の遊びのような二人の学者の議論に興味を失ってしまったので、二人を取り持つために、テーブルの上にワインのビンをおき、次の前線勤務に備えるために、近くのスポーツ・アリーナのプールに向った。

 1944年7月20日午後はやく、私の大隊は、他の補充部隊すべてと同様にコードネーム「ヴァルキューレ」警戒警報に接した。「ヴァルキューレ」とは、国内で騒乱が起きた場合に国内軍の動員を発令する警告だった。私は、自分の大隊があらかじめ指示されていた措置を実行しているときに、プールから呼び出され、命令に従って、指定されていた場所、すなわちベルリン防衛軍司令部に車で駆けつけた。他の部隊の指揮官は前室で待機していたが、私だけがベルリン防衛軍司令官ハーゼ少将と会うことを許され、次のような状況報告を受けて、任務を与えられた。「総統は死んだ。騒乱が起り、国内軍が行政権を掌握した。防衛大隊は兵力を集めて、反撃の準備を整え、官庁街を封鎖して、たとえ将軍や大臣でさえもそこに入ること、そこから出ることを許さないように。通りと地下鉄を封鎖する貴下の部隊を支援するために、ヴォルター中佐の部隊を貴下の指揮下に送る!」

 このような命令が発せられているとき、私は、参謀本部の若い将校ハイェッセン少佐が補佐しており、その一方で、私が個人的に知っていた参謀本部の上級将校たちが何もせずにぶらぶらしており、かなり神経質になっていることに驚いた。

 当然なことだが、ハーゼ将軍の話にショックを受けた。総統が他界したことで、戦局が好転する可能性が失われたと考えたからである。だから、すぐにこう尋ねた。「総統は本当に死んだのですか?事故なのですか、それとも暗殺されたのですか?騒乱はどこで起きているのですか?車でベルリンを走っているときには、変ったことを目にしなかったのですが。なぜ行政権は国防軍ではなく国内軍に移行したのですか?誰が総統の後継者なのですか?総統の遺言では、ゲーリングが自動的に後継者となることになっていますが、彼は、命令や声明を発しているのですか?」

 詳しい情報がなく、私の質問に対してもはっきりとした答えがなかったので、状況は胡散臭いものとなった。最初から、不審の念を抱いていた。私の前のテーブルの上におかれている書類を見ようとすると、ハイェッセン少佐がそそくさとそれを集めて、書類かばんの中にしまってしまった。大隊に戻ると、「総統が死に、混乱が生じている。さまざまな人々が権力を奪おうとしている」という念に捉われ、後継者争いが起ると予想した。

 いずれにしても、ベルリンで唯一つのエリート部隊の指揮官としての私の権限が、ほかの誰かに利用されないようにしようと決意していた。私の大隊は、戦闘の中で勇敢であることを証明したために、レベルの高い勲章を授与された、選抜兵士から構成されていた。将校全員が騎士鉄十字章を授与されていた。私は、1918年、行動を躊躇したために、革命の成功を許してしまい、そのことで非難されたベルリン守備隊のことを思い出していた。歴史という裁判官の前で、同じような非難を受けたくないと考えていた

 部隊のところに戻り、将校たちを集め、状況を説明し、命令を伝えた。総統の死は将校とその部下たちにショックを与えていた。生涯を通じて、ドイツの敗戦のときでさえ、これほど意気消沈している様子を見たことはない。今では、多くの物語が語られているが、これこそが真実である。断言する。

 私は部下の将校たちに、私にも不明確な点、ミステリアスな点が数多くあると包み隠さず伝え、自分の部隊を利用させるようなことは許さないという決意を明らかにした。そして、前線でと同じような無条件の信頼と絶対的服従を部下の将校たちに求めた。いかさか尋常ではない要求をしたのは、国内軍司令部で将軍からブリーフィングを受けているときにかかってきた電話のためだった。誰からとははっきりとわからなかったが、おそらく、フリードリヒ・オルブリヒト少々だったと思う。私の部隊の一部を引き抜いて、特別任務にまわすという内容の電話だった。私は、はっきりとした任務をすでに受けており、私の部隊の兵力を分散することは適切ではないと指摘して、この要請をきっぱりと拒否した。

 ブリーフィングのあと、二つの報告を耳にしたが、私はさらに困惑した。最初の報告は私のスタッフのハーゲン博士中尉からのもので、兵舎に向かう途中で、ブラウチッヒ元帥が正装して、ベルリンの通りを車で進んでいるところを目撃したという内容だった。ブラウチッヒ元帥はすでに退役していたので、不可解な話だった。軍装しているというのは異常なことのようだった。あとでわかったのが、ハーゲン博士が目撃した将校はブラウチッヒではなかった。おそらく、反乱首謀者の一人だったのであろう。

 不信をかきたてた二番目の報告は、司令部との連絡将校として私の大隊に派遣されていたヴォルター中佐からのものだった。自分がそこにいるのは私に関する密告者としてであるということを信じてはならないというのであった。このような指摘はまったく必要なかった。そのような指摘はその場に不釣合いでわずらわしいだけではなく、誰かが何かをたくらんでいるのではないかという疑惑を呼び起こしたにすぎなかった。あとでわかったのだが、私が自分の将校たちに行なったブリーフィングに、ヴォルター中佐は疑いを抱いたのである。彼は責任を回避するために、帰宅してしまった。当直将校としては考えられない振る舞いだった。

 私はハーゼ少将の状況報告に疑問を抱いたが、それは事実に合致していた。さらに、ヒトラーはSSによって殺されたという話も伝わってきたので、自分自身で事実を確かめなくてはならないと考えた。できうるかぎりすべての指揮所に電話をかけてみた。指揮官であれば、自分の部隊を動かす前に誰もが行なうような、基本的な偵察行動だった。第三帝国の軍隊を否定しようとして人々は、第三帝国の軍隊が死体のように従順であったとみなしているが、この時の私たちの思考様式、行動様式が、そうした紋切り型の性格とは合致していないことは言うまでもない

 さらに、私は、ハーゲン博士中尉が熱心に望んでいたので、彼を帝国ベルリン防衛全権委員ゲッベルス博士のもとに派遣した。ハーゲン博士は以前、宣伝省でゲッベルス博士のもとで働いており、その彼をゲッベルス博士のもとに派遣することで、軍事情勢だけではなく政治情勢もつかめると思ったからである。ゲッベルス博士は、ベルリン管区指導者、ベルリン防衛全権委員ならびに宣伝大臣だったので、帝国各地からの兵士で構成されている「大ドイツ」師団の保護者でもあったからである。

 「ヴァルキューレ」が発令されてから1時間半後、戦闘準備を整えていた私の大隊が、命令に従って官庁街を封鎖する地区に移動した。戦争記念碑、ベンドラー街、国内軍司令部、防衛生産局にいた通常の守備隊は持ち場に残っていた。午後4時15分、ベンドラー街の当直将校アレンヅ少尉が、建物のすべての入り口を封鎖するようにとの命令を受けたと報告してきた。メルツ・フォン・クヴィルンハイム大佐――アレンヅ中尉は面識がなかった――この任務を彼に与え、さらに、SSの部隊が近づいてきたならば、発砲せよとの命令をオルブリヒト将軍から受けたとのことであった。

 午後5時ごろ、新しい持ち場にいる私の部隊を視察したのち、もう一度防衛軍司令官ハーゼ将軍のもとにいき、命令を実行したことを伝えた。このとき、戦争記念碑の向かいにあるベルリン防衛軍司令部に指揮所を設置するように要請された。私は、ラーテナウ兵舎に、ギース少尉の指揮する通信所を設置していたので、そこを介して、電話連絡を取っていた。ハーゼ将軍は、アンハルター駅北側の建物を密に封鎖するという追加の任務を私に与えてきた(彼はその場所を地図で指し示してくれた)。

 これらの命令を遂行し始めたとき、問題の建物には国家保安中央本部が入っていることに気がついた。命令の内容が不可解であったので、私の疑惑はいっそう強まった。なぜ、国家保安中央本部を警護せよとの命令が出されないのか?出されていれば、この命令を実行したはずなのだが。

 このために、ハーゼ将軍のもとを再度訪れたときに、「将軍、私に与えられている命令はなぜあいまいなのですか?なぜ、国家保安中央本部にとくに配慮しろと命令されていないのですか?」と率直に尋ねた。ハーゼ将軍はいらだっており興奮していた。私の質問に答えようともしなかった。私のような若い将校が、どうして将軍たちとこのように自由な会話ができたのかといぶかしがる人もいることであろうが、われわれ若い指揮官たちは、自分たちのことを前線での戦闘の中で鍛えられ、その勇気を証明された戦闘指導者であるとみなしており、後方地帯にいる椅子に腰掛けた上官たちにはほとんど敬意を払っていなかったことを念頭におくべきである

 第一次世界大戦では、前線の経験を伝えたのは、突撃部隊のベテラン指揮官であったが、第二次世界大戦では、自分たちの部隊に戦友精神・同志愛を叩き込んだのは、前線にいた若い指揮官であった。彼らは戦うことができただけではなく、ドイツの勝利を信じていたので、戦うことを望んでいたのである。これが、長い前線での生活から得た私の経験であった。

 ハーゼ将軍の司令部にいたとき、ゲッベルスを逮捕すべきである、その任務を私に与えるべきであるという内容の話を、将軍とその作戦将校シェーネ中佐との会話から耳にした。私はゲッベルス博士と連絡をつけようとしていたので、この任務が不愉快な任務であると思い、ハーゼ将軍のところにかけよって、こう述べた。「将軍、私はこの任務には適格ではありません。ご存知のとおり、私は何年も、『大ドイツ』師団とともにいました。この任務は私にとって騎士道に反するものです。ご存知のとおり、ベルリンの管区指導者ゲッベルス博士は、『大ドイツ』の保護者でもあるからです。ほんの2週間前、私は新しい防衛大隊司令官としてゲッベルス博士のもとを表敬訪問しています。ですから、自分の保護者を逮捕せよとの命令の実行には適格ではないのです。」

 ハーゼ将軍は私の話に共感したのかもしれない。どのような理由からかはっきりとはわからないが、彼は、ゲッベルス博士大臣の逮捕・拘束を憲兵隊に命じた。

 ハーゲン博士中尉は、宣伝省でゲッベルス博士に会おうとしていたが会うことができなかった。しかし、午後5時半頃、ブランデンブルク門の近くのヘルマン・ゲーリング通り20番地の私邸でゲッベルス博士に会うことに成功した。ゲッベルス大臣は自分のおかれている危険性をまったく自覚していなかった。ハーゲンが事態の深刻さを強調するために、防衛大隊の兵士たちが乗っている車両が官庁街に向かっていることを指摘してはじめて、ゲッベルス博士は恐怖に捉われた。「何ということだ、どうすればいいのだ」と彼は叫んだ。

 これに対して、ハーゲン中尉は、「あなたがお出来になる最良のことは、私の司令官をここに召喚することです」と答えた。

 ゲッベルス博士は、「その司令官は信頼できるのか」と尋ねると、ハーゲン中尉は「彼のためなら命を投げ出します」と答えた。

 私は防衛軍司令官の司令部を退去して廊下を歩いているときに、ハーゲン中尉がゲッベルス博士とコンタクトをとった結果を待って、自分の態度を決することに決めていた。

 ハーゲン中尉は、兵舎に戻ってきたギースに指示を与え、その後、車で、防衛軍司令部にある私の新しい指揮所にやってきた。司令部の警護は厳重であった。彼は、妨害を避けるために、建物には入らず、私の副官ジーベルト中尉と、衛生中尉ブックに事情を話し、すぐに私にこのことを伝えるように頼んだ。彼らの報告は次のようなものであった。「まったく新しい状況である。おそらく、軍事反乱だ。それ以上のことはわからない。帝国防衛全権委員ゲッベルス博士が、できるだけはやく会いに来るように要請している。20分以内に来なければ、無理やり押しとどめられたと判断し、武装SSに警告せざるをえない。それまでは、内戦を避けるために、ライブシュタンダルテ[ヒトラー警護隊、武装SS第一師団――訳者]に待機を命じている。」

 副官からこの件を耳にしたとき、もう一度ハーゼ将軍に会うことにした。私はそのときまだハーゼ少将を信用していたが、そのことは、ブック中尉にゲッベルス博士からのメッセージを少将の前で復唱させたことからもわかる。陰謀家と思われたくなかった。ベテランの前線指揮官として、すべてのカードを見せておくのが私のやり方だった。ハーゼ少将は、帝国ベルリン防衛全権委員の召喚に答えようとする私の求めを無作法に拒絶した。私が事の真相を知ってしまうことを恐れたためであろう。私は誰にも邪魔されずに司令部を退去したのち、副官ジーベルト中尉――現在では、ニュルンベルクで牧師をやっている――とともに、何をすべきかじっくりと考えた。この困難であいまいな状況を作り出したのは私ではなかったが、私の役割はますます重要なものとなっていることが明らかだった。状況をできるかぎり注意深く分析してから、ハーゼ少将の命令にもかかわらず、ゲッベルス博士のもとに行くことを決意した。その理由は以下の通りであった。

 

       第一に、私はいかなる状況の下でも行動の自由を奪われたくなかった。前線ではしばしば起ることなのだが、勲章を授与されることと軍法会議で死刑判決を受けることは紙一重の差である。

       第二に、私は、総統の死の知らせが少なくとも疑わしいものであるかぎり、自分の宣誓に拘束されていた。だから、旗にかけて誓った宣誓にしたがって行動しなくてはならなかった。

       第三に、私は自分自身で何回となく、責任ある決定を下してきたが、その正しさは、勲章を授与されたことで確証されていた。決定的な行為だけが状況を制することができる。もしも、私が臆病のために何もしないで立ちつくしてしまったならば、私の戦友は私のことを理解してくれないだろう。そのまま事態が致命的な方向に進んでいってしまう責任を引き受けることはできなかった。念頭にあったのは1918年の事態であった。

       第四に、私は切迫した状況にあった。ゲッベルス博士が武装SSに警告を出すことを計画しており、そのことで、戦闘に習熟した二つの勢力のあいだで兄弟喧嘩が起る可能性があったからである。私は当直中のベルリンの唯一のエリート部隊の指揮官として、私を信頼してくれている部下たちの生命に責任を負っていた。混乱した事態に彼らを巻き込むのは、私の職務ではなかった。

 

 しかし、私はゲッベルス博士も信頼していなかった。総統が死んだと思っており、後継者争いの可能性を信じていたからである。私と私の部隊を後継者争いに投入することはぜひとも避けたかった。ゲッベルス博士の立場がまだはっきりとしていなかったので、私はブック中尉と一戸小隊を連れて行った。もし私が15分以内にゲッベルス博士の私邸から出てこなければ、私を連れ出してくれと命じておいたのである。

 そして、私は拳銃の安全装置をはずしてから、大臣の執務室に入り、事態を明らかにして、指示を与えてくれるように頼んだ。ゲッベルス博士は、知っていることすべてを話してくれと言った。私は、ゲッベルス博士の立場をまだ知らなかったので、ハーゼ少将が彼の逮捕を命じたこと以外は、知っていることを話した。これから何をするつもりかと尋ねられたので、命令にしたがい、それを遂行するつもりだ、たとえ、総統がもはや生きていないとしても、宣誓に拘束されており、将校としての良心にしたがって行動するつもりだと答えた。これに対して、ゲッベルス博士は驚きながら、「何を言っているのか!総統は生きていらっしゃる。電話で話しをしたばかりだ。暗殺計画は失敗した。騙されているのだ!」と叫んだ。

 この話にはとても驚いた。総統が生きていらっしゃるということを聞いたときには、ひどく安心したが、まだ疑っていた。それゆえ、私は、ゲッベルス博士の話が真実であり、彼が無条件に総統を支持していることを名誉にかけて確言してほしいと述べた。ゲッベルス博士は、私の求めの理由を理解できず、最初はためらっていた。彼が名誉にかけて確言したのは、私が自分の道を明らかにするために将校としてゲッベルス博士の名誉にもとづく確言を求めていることを繰り返してからであった。

 私は総統本営に電話をかけようとしていたが、ゲッベルス博士もそれを望んでいた。数秒で、東プロイセンのラステンブルクの狼の巣とつながった。驚いたことに、総統自身が電話に出た。すばやくゲッベルス博士が総統に状況を説明してから、受話器を私に渡した。

 ヒトラー総統は、次のようなことを私に話した。「レーマー少佐、聞こえるかね、私の声がわかるかね?私の言っていることがわかるかね?」私は、「はい」と返答したが、まだ疑問を持っていた。誰かが総統の声を真似ているのではないかとひらめいた。去年、総統が私に柏葉付き騎士鉄十字章を私に授与してくれたとき、前線の状況と苦難とを1時間ほど一人だけで総統と率直に話す機会があった。だから、総統の声をよく知っていたはずだった。しかし、たしかにヒトラー総統と話しているとの確信がもてたのは、騒動がかなり長く電話で話し続けてからのことであった。総統の話はこうであった。「私は生きている。暗殺は失敗した。神がお望みにならなかったのだ。野心を抱く背信的な将校たちの小さなグループが私を殺そうとした。このような破壊工作員たちをやっつけなければならない。必要とあれば、仮借のない力を行使して、背信的な黴菌どもを片付けよう。レーマー少佐、今後、ベルリンでの全権を君にゆだねる。君は、帝都の平和と治安の回復について、もっぱら私個人に責任を負う。君は、全国指導者ヒムラーがやってきて、君の任務を引き継ぐまで、この目的のために、私の個人的な指揮下に入る。」

 総統の言葉は非常に落ち着いており、毅然としていて納得のいくものだった。総統と話したことですべての疑念が消え去り、救いの息をすることができた。総統に対する兵士の誓いはまだ有効であり、私の行動の指針であった。唯一の関心は、誤解を解いて、すみやかかつ毅然と行動して不必要な流血を避けることだった。

 ゲッベルス博士は総統の話の中身と今後の行動予定を私に尋ねた。彼の私邸の階下の部屋を自由に使わせてくれたので、私はそこに新しい指揮所を置いた。6時半ごろであった。15分ほどすると、大ドイツラジオ放送が、総統本営に対する爆弾攻撃のニュースをはじめて伝えた。

 ベルリン防衛軍司令部を訪ねたことがあったために、大まかではあるが、ベルリンに進撃してくる部隊の配置をつかんでいた。本当の状況を部隊の指揮官たちに知らせるために、私は本部付き将校たちをあらゆる方向に派遣した。完全な成功であった。「総統の側につくのか、それとも総統に敵対するのか?」という質問は奇跡的効果を発揮した。私と同じく事態の進行に怒っていた指揮将校たちの一人一人が、たとえ私よりも階級が上であっても、無条件に私の指揮下に入った。彼らは、兵士として宣誓に拘束されていることを明らかにした。個人的な説明をすることができなかったところでは、問題が生じたが、それも一時のことであった。

 状況が不確定で誤解をまねく要素があったので、指定地区を封鎖する大隊が反乱を起こしていると考える者もいた。私の大隊は二度にわたって、他の部隊から発砲を受ける寸前にまでいたった。フェールベリンナー広場には、装甲部隊が反乱首謀者たちの命令で終結していたが、グーデリアン中将の命令が放送されると、反乱派たちの指揮下から離脱した。そのあとこの部隊は偵察行動を行なったが、「大ドイツ」は反乱派たちに味方しており、ゲッベルス宣伝大臣を逮捕したという誤った結論を出していた。部隊の戦車数両が前進してきたので、一速触発の状態となっていたが、私が介入してかろうじて混乱を収拾した。

 同じようなことが、防衛軍司令部のあるベンドラー街でも起った。装甲擲弾兵部隊が、総統からの命を受けている私の防衛大隊から司令部を奪おうとしたからである。私の大隊の将校たちが懸命に説明したので、ドイツ軍兵士がたがいに発砲するという事態はやっとのことで回避された。ここでも、「総統に味方するのか、敵対するのか?」という質問が決定的だった。私は混乱を収拾するために部隊指揮官の一人シュレー大尉をベンドラー街に派遣した。この時点では、反乱の首謀者が反乱の本部をそこにおいているとは思っていなかった。私はできるかぎり流血を避けたかったので、シュレーにはわれわれの部隊をひきあげる命令を与えていた。シュレー大尉がベンドラー街に着くと、オルブリヒト将軍に会いに行くようにとの命令を受けた。シュレー大尉は警戒して、もし自分がすぐに戻らなかった場合には力ずくでも連れ出してくれと大隊兵士に指示した。事実、彼は、将軍の待機室で、メルツ・フォン・クヴィルンハイム大佐によって逮捕状態におかれた。クヴィルンハイム大佐は残っているように命じたが、シュレー大尉は、大佐がオルブリヒトの執務室に入っていったときに、歩いて出ていった。

 シュレー大尉が大隊に戻ってきたとき、アレンヅ少尉が奇妙な事件を彼に知らせた。建物の上階から叫び声が聞こえ、そのあとで、タイプライターと電話が窓から庭に投げ捨てられたというのである。シュレー大尉は回れ右をして、戻って事態を把握するようにパトロール部隊に命じた。彼は、すぐに音が聞こえてきた部屋を発見した。閉じていたが、衛兵はおらず、鍵が鍵口についたままだった。中には、ベルリン軍管区司令官フォン・コルツフライシュ将軍がいた。窓から物を投げ捨てていたのは彼だった。将軍は命令を受領するために、ベンドラー街に呼ばれていた。彼は、到着しても、反乱派たちとの協力を強く拒んだので、逮捕され、部屋に閉じこめられたが、衛兵はいなかった。彼は自由になり、反乱指導部のことをはじめてつまびらかにしてくれた。

 午後7時30分、われわれの防衛大隊は、命令を受けて交替させられた。オルブリヒトはわれわれの防衛大隊を自分の部下の将校たちと交替させなくてはならなかったのである。新しい衛兵の指揮官はフリッツ中佐であった。シュレー大尉は出てくるとき、ベンドラー街の通信本部長から、レーマー少佐が反乱の鎮圧を総統から命令されたことを知った。通信本部員たちは総統と私との会話の様子を耳にはさみ、また、彼らが発送しようとしているテレックスが反乱派の命令であることを知ることができた。このために、通信本部員たちは意図的に連絡文書の発送を遅らせたり、まったく発送しなかったりした。

反乱派に同調する者はいなかった。さらに、テレックスや電話が総統本営とつながっており、事の真相が明らかとなっていった。

7月20日の午後遅くには、無数の命令が発せられた。私は「大ドイツ」の補充部隊をコットブスから、予備兵力としてベルリン周辺に移動させた。この部隊は、これ以前に、反乱派からまったく別の命令を受けとっていた。部隊の本当の指揮官は戦闘で腕を失っていたシュルツェ-ノイハウス大佐であり、私は前線にいたときから彼のことを知っていた。その彼が私の指揮所にやってきたので、ゲッベルス博士に紹介した。その間、私は官庁街に私の部隊を密に配置し、ゲッベルス博士の公邸の庭に強力な予備隊を編成した。ゲッベルス博士が部隊をそこに集めるように求めてきたので、そのようにした。背信的行為に対する兵士たちの怒りは非常に大きかったので、反乱派は、もしそこにいれば、一人残らず切り刻まれてしまったであろう。

その後、私は防衛軍司令部を封鎖した。そこには不審者が数多くいるとの印象を抱いたためであった。また、私がゲッベルスの逮捕を拒んだのち、その命令が憲兵隊に出されたことを知った。彼らの到着を待ったが無駄であった。あとから知ったのであるが、ゲッベルス博士を逮捕しようとする部隊は一つもなかったので、ハーゼ将軍自身がその任務を引き受けなくてはならなかったのである。ハーゼ防衛軍司令官はこの時点で、副司令官の司令部にいた。ハーゼ司令官は、その司令部に車で乗り付け、反乱派が任命した将軍と今後の行動計画を作り上げようとしていた。彼らは2時間ほど協議したが、何の結論も出せなかった。戦いに不慣れな反乱派の特徴であった。

私は、ハーゼ将軍が防衛軍司令部に戻ってきたとの報告を受けると、自体を明らかにするために、ゲッベルス博士の私邸にある私の指揮所にやってくるように電話で要請した。最初、彼は私の要請を拒んでいた。私の方が部下なのであるから、防衛軍司令部に出頭すべきであるというのである。私は、総統直属の部下として平和と秩序を回復するように、総統から命令されている、ですからハーゼ将軍は私の指揮下にある、もし自分の意志で出頭しなければ、逮捕に赴くとハーゼ将軍に伝えると、彼はやっと出頭することに同意した。ハーゼ将軍は将校クラブでいくどとなく私のゲストとなり、前線の兵士との連帯を何度も表明し、演説の中では敬愛する総統に対する「ジーク・ハイル」という挨拶を欠かしたことのない人物だった。だから、この時点にあっても、私は、彼が私と同じように騙されていて、事の真相を知らないのだと思っており、自分の非礼をわびた。ハーゼ将軍は到着しても非常に愛想が良かった。彼は、私の自立心と毅然さ、そしてゲッベルスを探し出したことを賞賛さえもした。

ハーゼ将軍はゲッベルス博士に対しても、まったく邪念がなく、陰謀のことなど何も知らなかったかのように振る舞った。彼は、沙汰のあるまでそのまま待機するように求められ、一部屋を割り当てられた。ハーゼ将軍がゲッベルス博士の執務室を退去するとき、ドイツ軍将校としての私に赤恥をかかせるような事件が起きた。ハーゼ将軍はこうした緊張した雰囲気にもかかわらず、一日中忙しかったので何も食べていないと申し立てたのである。ゲッベルス博士はすぐに、サンドウィッチを用意するように命じ、モーゼルかラインワインもお望みかどうか尋ねた。そして、ハーゼ将軍が執務室を退去するとすぐに、「私の名はウサギ[ハーゼ]です。私は何も知りません」とあざけった。これこそが、革命とでも呼べるような反乱を企てた将軍たちの真の姿だった。火の中にまだ灼熱の鉄があるときに、彼らはワインと食事をほしがり、電話で自分たちの母親を呼び出しているのである。もし私が彼らと同じ立場にいたとすれば、そのような恥ずべき要求をする前に、自分の舌を噛み切っているであろう

二つの事件が、反乱計画のずさんさを物語っていた。私の話や命令は、陰謀家たちの命令が各所に発せられている同じ場所、すなわち、ベンドラー街の反乱派の通信本部から発せられていた。通信将校たちは私の命令を遅らせたり、まったく伝達しなかったり、私の電話を遮断したりすることができたはずである。しかし、どれ一つとして行わなかった。私は、事態を問い合わせる帝国放送局からのメッセージさえも受け取っていた。その結果、私は、予定にない放送はいかなる状況の下であっても行なってはならないという命令を出すことができた。ヤコプ少佐は、マズーレン通りの放送局を占拠することを命じられていた。驚くことに、彼は、何らかの声明を出したり、放送局を閉鎖するというような命令を受けていなかった。彼は、反乱首謀者たちに放送局の占領を電話で報告し、次の指示を求めようとした。しかし、多くの事務所でしばしば起っているように、電話がうまくつながらなかった。前線の兵士であれば、電話の不通という事態はあたりまえのことであり、無線で連絡を取るか、伝令を送るという措置をとるのが普通であった。ヤコプ少佐はテレタイプも持っていたが、このような方法のどれひとつとして利用しなかった。この反乱を計画した参謀本部付き将校シュタウフェンベルクは、オートバイの伝令を備えておくなどということを思いもつかなかったのである。愚かなことに、こうした細かなことが見過ごされていた。

反乱派の声明を放送することになっていたルドルフ-ギュンター・ヴァーグナーはのちにこう述べている。「私は、何年も前から、反乱のあかつきには私が声明を放送することになることを知っていましたので、声明文を持ってくる予定の少尉の到着を、ひどく興奮しながら待っていました。不幸なことに、それは無駄になってしまいました。ゲッベルスが暗殺は失敗したとがなりたてている放送を聞いたのです。」

よく知られているように、声明文を持っていたリンデマン中将が、どこに行ったのかわからなくなっていたのである。ベック将軍は情報部のハンス-ベルント・ギゼヴィウスに声明文を持ってくるように命じた。しかし、反乱首謀者のシュタウフェンベルク、ヘップナー、ヨルク、シュヴェリン、シューレンブルクが文案を叫んでいるところで、ギゼヴィウスは新しい声明文を起草しなくてはならなかった。この混乱に責任をおっているのも、陰謀の「立案者」シュタウフェンベルクである。放送局を稼働させておくには、能力のある信頼できる人物が必要であった。技術チームが防衛軍司令部に出頭するように命じられていたが、何もせずに待機し、そのまま逮捕されてしまった。ヤコプの作戦を担っていたハンス・カスパーはのちにこうコメントしている。「7月20日の反乱が崩壊したのかこの時間の頃でした。放送技師の観点からすると、悲劇でした。事態の処理の仕方を見れば、反乱の成功の可能性がきわめて少ないことが明白でしたので、悲劇だったのです。」一方、シュレー中尉はベンドラー街で何が起っているのか、私に報告してきていた。私は、事件の内側を知らなかったし、国内軍司令官フロム中将が陰謀への参加を拒んで、反乱派の手で逮捕されていたことも知らなかった。シュレー中尉には、われわれ防衛大隊が交替されたあとも、建物には入らずに、ベンドラー街を包囲・封鎖し続けるように命じた。午後7時ごろ、ベルリンの事態を掌握することができたと感じた。緊張は静まり始めた。(目次へ)

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