試訳:映画評「ニュルンベルク裁判」

――実際の「戦争犯罪」裁判よりも公平なTV映画――

G. Raven

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2006年5月8日

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Greg Raven, Made-for-TV Movie More Fair than the 'War Crimes' Trial It Depicts, The Journal of Historical Review, volume 19 no. 3を「映画評『ニュルンベルク裁判』」と題して試訳したものである。(文中のマークは当研究会が付したものである。また、テキスト本文に関係しているシーンも、研究目的の参考資料として当研究会が補足したものである。)

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online: http://www.ihr.org/jhr/v19/v19n3p51_Raven.html

 

[歴史的修正主義研究会による解題]

 ニュルンベルク国際軍事法廷をあつかったTV映画「ニュルンベルク」に対する修正主義者G. Ravenによる評論。ヒトラーや第三帝国をあうつかう戦後の映画作品は、民族社会主義者を狂信的な「悪の化身」として描くことを義務づけられてきた(強制的「ナチ・バッシング」)が、この映画は、ゲーリングたちの人物像や彼らの主張をかなり「公平」に描いているという。

 

「ニュルンベルク」(テレビドラマ・ミニシリーズ)。Joseph E. Persicoの本Nuremberg: Infamy on Trial(ジョセフ・E・パーシコ、白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判』、上下、原書房、1996年)にもとづく。脚本David Rintels。プロデュース:Alec Baldwin、 Jon Cornick、 Gerry Abrams、 Suzanne Girard、 Peter Sussman。監督Yves Simoneau。Turner Network Television (TNT)。上映時間:180分(2部構成、CMを入れると4時間)。

映画「ニュルンベルク」

 

 国際軍事法廷、第二次世界大戦後にニュルンベルクで開かれた第三帝国の指導者に対する裁判を批判する人々は、事後法の適用、疑問のある証拠と偽証の採用、被告と証人に対する虐待、弁護活動の妨害といった点を指摘して、この裁判が正当な裁判ではなかったと主張している。(参照:Mark Weber. "The Nuremberg Trials and the Holocaust," Journal of Historical Review, Summer 1992)。このような深刻な欠陥を抱えていたにもかかわらず、ニュルンベルク国際軍事法廷およびその後のドイツ戦争犯罪裁判で下された判決は、現代の戦争観の枠組みを形作っている。この裁判は現代社会の中に定着しているので、その公判や判決についてのさまざまな文献が、裁判の欠陥を繰り返し指摘し、この裁判はフェアではなかったと論じたとしても、裁判が作り出した進歩的な基準が無効になったり、その価値が低下したりする恐れはほとんどない状況となっている。

 ハリウッドが製作するドキュメンタリー映画でさえも真実から程遠く、非常に誤解をまねきやすいものであることを思い起こしておかなくてはならない。まして、TNTがテレビ用に製作したこの映画「ニュルンベルク」はドキュメンタリーではなく、ドラマなのである。そのようなものとして、事実に関してはかなりの破格をしている。この映画「ニュルンベルク」は、歴史を実際に起こったように描いているふりをしているわけではないのだから、その中身を歴史記録と詳しく比較することは時間の浪費であろう。

 この時期をあつかった映画では、ナチ・バッシングが義務づけられている。例えば、ヒトラーやナチス、ナチズムに触れる場合には、必ずといってよいほど、ホロコーストについてくどくどと述べなくてはならない。だから、重要なことは、この映画が義務的なナチ・バッシング以外に、何を物語っているかを発見することである。もちろん、この映画は、ドイツの強制収容所で起ったことを考えれば、ニュルンベルク裁判が必要であり、法律的にも公平で正常であったという神話の普及に加担しているが、裁判の超法規的性格を取り繕うにあたって、たんに、目的(ナチズムの告発とナチ指導者の処罰)は手段を正当化するとだけ述べて、ナイーブにも裁判の不公平さを認めてしまっている。

 さらに、被告たちのうち何人か、とくに国家元帥へルマン・ゲーリング(Brian Cox)は、人間的な深みを持った人物として描かれており、このことは、1933年以降の大半の英米の映画に登場する「ナチ=悪の化身」という伝統的人物描写とはまったく訣別している。意図的ではないにちがいないが、この映画のニュアンスは、ニュルンベルク裁判に関する定番の扱い方とは異なっているのである。

米軍に出頭し、記念写真におさまるゲーリング元帥

 

この映画は次のような点を率直に描いている。すなわち、ドイツの指導者たちは、通常の国家的行動とみなされていた行為のために、犯罪者として告発されるとは考えてもいなかったこと。

後世の歴史的評価を確信するゲーリング

 

連合国側の人々の多くも、魅力的で機知にとんだゲーリングや聡明なシュペーア(Herbert Knaup)を裁判にかけることを嫌っていたこと。そのために、連合国側の人々は、彼らを逮捕するにあたって、彼らのことを、祖国に献身した名誉ある人物としてあつかったことなどである。

ドイツの軍需政策を米軍将校に講義している最中に逮捕されるシュペーア

 

 しかしながら、こうした雰囲気は、ルーズベルト大統領のスピーチライターで側近のサムエル・ローゼンマン(Max von Sydow)が最高裁判事ロバート・ジャクソン(Alec Baldwin)のもとを訪ね、「四大国」(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連)から構成される「国際」戦争犯罪裁判で合衆国首席検事となるように説得したときから、変わってしまう。

ジャクソン判事を説得するローゼンマン

 

上からの指示によって、逮捕時の雰囲気は不快なものとなり、裁判を待つドイツの指導者たちは殴打され、拷問を受けた。映画制作者は、ハンス・フランクが連合国兵士によって殴られ、地面に倒れると股の付け根を蹴飛ばされるシーンを描いている。

米軍兵士に殴打されるハンス・フランク

 

 ジャクソン首席検事の性格は、自分の妻に、「妻の同行は許されていない」のでドイツに連れて行くことができないと述べていながら、その一方で、秘書のエルシー・ダグラス(Jill Hennessy)を連れて行っていることから、突然何か興味深いものとなっている。ジャクソンが秘書のエルシーと親密な関係となることをさとらせるかのように、彼女が思いつめた目でジャクソンのことをながめている場面が繰り返し登場する。(この映画のもとになったパーシコの本では、彼女は「ミセス・ダグラス」として登場しており、二人のあいだに情事があったという証拠もないので、この件についてはまったく触れられていない。)だから、この映画の中では、ジャクソンは、世界をより良き場所にすることに専念しているので、自分が結婚記念日に妻に約束したことを守るというような些事に心を砕く時間もないような高潔な理想主義者として描かれていることになる。

妻ではなく秘書をドイツに同行させたジャクソン首席検事

 

ヨーロッパに向かう機中で、検事側スタッフ・テルフォード・テイラー(Christopher Shyer)が、自分たちの任務の超法規的性格にスタッフの関心を促し、「どのように始めたらよいのか?前例も、既存の法体系も、ひいては法廷もない」と質問している。ほかのスタッフが彼の質問を無視して、誰を訴追するかを勝手に議論し始めたので、テイラーはさらにこう主張した。「私は、この裁判の有効性にいまだ疑問を感じています。これまで、たとえナチによってであっても、戦時中になされた行為を犯罪としてしまうことは、実定法ではなく、事後法です。結局のところ、この裁判が強い者の勝利、勝者が敗者を厳罰に処することにすぎなかったとみなされるようになってしまうことを恐れています。」何とハリウッド映画であっても、テイラーを修正主義者の原形のように描くことができたのである。

ニュルンベルク裁判の法的根拠に疑問を呈するテイラー

 

 一行がニュルンベルクに到着してみると、ドイツの民間施設でさえも仮借のない空爆の対象となっていたことがはっきりとする。秘書エルシーは、兄の送ってくれた戦前の町の写真を思い出し、破壊と悪臭にショックを受ける。「瓦礫の下にはまだ30000の死体が埋もれています。それを殺菌消毒しているところです」とアイゼンハウアーの代理クレイ将軍が彼女に教える。

廃墟と化したニュルンベルク

 

 被告たちがニュルンベルク裁判所の隣にある監獄に着くと、帝国銀行総裁シャハト(James Bradford)、カイテル元帥(Frank Fontaine)が逮捕に抗議し、シャハトとデーニッツ提督(Raymond Cloutier)は『突撃隊』の発行人シュトライヒャー(Sam Stone)を、「不潔な奴」、「ゴミため」、「不快な奴」、「ポルノ発行人」、「ユダヤ人いじめ」と非難した。被告たち全員をユダヤ人に対する悪意と憎悪で満たされた人物として描くことは簡単であるが、この映画では、あえて、別のキャラクターを被告たちに与えている。

刑務所長アンドラスに逮捕を抗議するシャハト、カイテル、デーニッツたち

 

 ドイツの指導者たちは裁判を待つあいだ、刑務所心理学者グスタフ・ギルバート((Matt Craven)が刑務所長アンドラス大佐に語っているところの「完全自殺監房」――被告たちは気を紛らわしてくれるものが何もなく、また生存の希望もほとんどないために、自殺しようとするにちがいない――に収容されていた。アンドラスは、耳にしたことすべてを秘密裏に報告するとの条件で、ギルバートが被告たちと接して、彼らが置かれている荒涼とした環境を少しでも和らげることを認めた。

心理学者ギルバートと刑務所長アンドラスとの会話

 

 ギルバートも、他の検事チームのスタッフと同じく、ゲーリングの自信と洞察力にショックを受けていた。

ゲーリングの見解に耳を傾けるギルバート

 

多くの点で、この映画は、ゲーリングという人物が、どんどん力強くなっていき、裁判前や休廷中に他の被告たちを糾合して、ジャクソン検事を辱め、ひいては、裁判全体をコントロールする寸前まで行ったことを見せてくれるショーケースである。

 被告たちは、ニュルンベルクに連行されて裁判の開始を待つ数ヶ月前から、自分たちが処刑されることを予期しているかのように描かれている。コックスの演じるゲーリングは自分の運命を知っているという「自由」を大いに利用して闊達に振る舞っているのに対して、ボールドウィンの演じるジャクソン検事は、ゲーリングにうまく対処できない不器用な人物として描かれている。つまり、ゲーリングは自分が誰であるのか、何のために戦っているのか、世界が自分のことをどう見ているのかをよく分かっている人物として描かれているが、その一方で、ジャクソンは、ドイツの自分が何をどのような理由でしているのかほとんど分かっていない、まして、自分が引き受けた仕事を果たさなくてはならない義務を負っているのかどうかほとんど分かっていない人物として描かれているのである。裁判の進行とともに、ゲーリングは自分の同僚である被告人たちを糾合し、法廷ではジャクソンに勝利を収める。

証言席でドイツ国民に語りかけるゲーリング

 

あせったジャクソンはゲーリングの証言を制限しようとするが、それに失敗する。体制を立て直すことができたのは、ホロコースト・カードを使って、(絶滅が行われたと主張する研究者は誰もいない)西部地区収容所が解放された様子を写した映画を上映し、ハリウッド版のアウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘス(Colm Feore)を証言台に立たせてからのことであった。

ベルゲン・ベルゼンなど西部地区収容所の惨状を写したフィルムの上映

アウシュヴィッツのガス室を証言するもと女囚ヴェイラン・コトゥリエ

ハリウッド版アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘス

コックスも認めているように、「映画では、ゲーリングが少々負けたように見えるが、実際には、ゲーリングのほうがジャクソンよりもうまく立ち回ったのである。」(Los Angeles Times TV Guide, July 16,2000)

ゲーリングの方がジャクソンよりも一枚上手であると伝えるラジオ放送

 

 この映画は、ニュルンベルク裁判の審理が非常に不公平であったことをそれとなく認めている。ジャクソンはビドル判事とプライベートに会談しているが、これはアメリカ合衆国の司法制度ではまったくの法律違反であろう。

ビドル判事の公判指揮を非難するジャクソン検事

 

検事団は、ハンス・フランクの日記――フランクはこの日記を使えば自分の無罪を立証できると確信していた――などのドイツ側文書を大量に利用することができたが、弁護側は、まったくできないというわけではないが、このような文書を使用することは事実上不可能であった。連合国は、労をいとわずニュルンベルク裁判のための法廷の建物を整えさせた。その一方、ドイツ国民は飢えていたのである。今日のフランスでは、ニュルンベルク裁判という勝者の法廷の判決に異論を申し立てただけで、罰金を科せられたり、投獄されたりしている。このようなことを考えると、ニュルンベルク裁判のグロテスクな本質は、いっそう驚くべきものとなる。

 おそらく、この映画を理解するにあたっての最大の障害は、ニュルンベルク裁判に関する指針やインターネットに掲載されている材料すべてが、伝統的な(反修正主義的な)立場をとっていることであろう。たとえそうであったとしても、敗戦後、第三帝国の指導者たちが卑劣なあつかいを受けたことはほとんど知られていないので、その様子がテレビのミニ・シリーズ番組の中に挿入されたことは、時間の経過とともに、われわれの歴史解釈の方が優位に立ってきていることの証拠である

絞首台のカイテル元帥

 

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