試訳:「私たちが建てたのはガス室ではなく死体安置室でした」

――焼却棟建築技師の死の床からの証言――

W. ラデマッヒャー

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2004928

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Werner Rademacher , In memoriam Dipl.-Ing. Dr. techn. Walter Schreiber , Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung 4(1) (2000)、その英訳版Engineer’s Deathbed Confession: We Built Morgues, not Gas Chambers, The Revisionist, 2004, No.3を、英訳版の表題を採用して試訳したものである。なお、マークは当研究会が付したものである。
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

onlinehttp://vho.org/VffG/2000/1/Rademacher104f.html

 

ヴァルター・シュライバーとは誰か?

 ヴァルター・シュライバーは、1908年生まれで、1999年に91歳でウィーンで他界した。彼は、ウィーンの工科大学で建築工学を学び、1931年には、「グロースグロックナー・ホッホアルペンシュトラーセ(アルプス高高度道路)」の建設に、建設監督官助手として勤務した。長い失業期間ののち、1932年に、ソ連に移住し、1935年まで、ブリャンスク、スパッスク、ペトロフスクで、冷凍庫、アルコール飲料工場の建設に従事した。1936年、ドイツに帰国し、最初はテシュ社に、ついで、1937年から1945831日まで、フタ社に勤務した。シュライバーは、1943111日から、1945年に上部シレジエンから疎開するまで、カトヴィツェの支社に主任技師として勤務した。

 戦後、シュライバーは、ウィーンの市建設局、オーストリア・ドナウ・パワー・プラント会社、ヨヘンシュタイン・ドナウ・パワー・プラント会社、ウィーン連合会社に勤務した。退職後、ウィーンで恵まれた生活をおくり、死ぬまで、精神状態は明晰であった。

 

シュライバーの生涯のどこが興味深いのか?

 このオーストリアの建築技師の職業生活のどこが興味深いのか。彼は、自社の建設作業のために、カトヴィツェの支社に主任技師として勤務し、アウシュヴィッツ収容所とその衛星収容所の建設にも責任をおっていたからである。

 1998年、彼は、[資格を持つ技師ヴァルター・リュフトルから――英訳版]アウシュヴィッツについてのインタビューを受けている。[リュフトルは1992年まで、オーストリア建築技師協会議長を勤めていた――英訳版]。以下の質問(リュフトル:L)と回答(シュライバー:S)のやりとりは、歴史学的に興味深い。

 

L

どの分野で活動されていたのですか。

S

主任技師として、フタ社の建設計画を監督し、SS中央建設局と交渉していました。また、会社の発送状も検査しました。

L:

収容所に入ったことがありますか。どのような様子でしたか。

S:

はい。誰もが妨げられることなく、どこにでも歩き回ることができました。ただ、出入り口のところでだけ、看守に呼び止められました。

L:

囚人の殺害や虐待について何かを見たり、聞いたりしましたか。

S:

いいえ。しかし、収容所の通りでは、囚人たちの隊列が比較的劣悪な状態であったのを見ることができました。

L:

フタ社は何を建てていたのですか。

S:

いろいろありますが、とくに、大きな死体安置室を持った焼却棟UとVです。

L:

この大きな死体安置室についてですが、それは大量殺戮のためのガス室であったというのが定説(自明の理?)となっていますが。

L:

そのような類のことは、われわれの手元にある図面からは推測することはできません。私たちが作成した詳細な図面と発注書は、この部屋のことを地下室として言及しているだけです

L:

コンクリートで強化された天井にあったとされる投入穴について何かご存知ですか。

S:

知りません、私の記憶にはありません。しかし、この部屋は副次的目的として防空シェルターとしても使われることを意図されていたので、投入穴[換気口]が副産物として想定されることもあったのかもしれません。もし、そうなった場合には、私は強く反対したでしょうが。

L:

ビルケナウの地下水位は非常に高いのに、そのように大きな地下室が建てられたのはなぜですか。

S:

わかりません。しかし、もともとは、地上の死体安置室が建てられるはずでした。地下室の建設は、防水と水漏れ防止の面で大きな問題を引き起こしました。

L:

あなたはだまされており、SSは、あなたが知らないところで、あなたの会社にガス室を作らせたということは考えられませんか。

S:

建築現場を知っている人物であれば、それが不可能であることを知っています。

L:

ガス室について知っていましたか。

S:

もちろんです。東部地区にいたものであれば、誰もが害虫駆除室のことを知っているはずです。私たちもこのような施設を建てましたが、その外観はまったく異なっていました。私たちはこのような施設を建て、建設後にも、その外観を知っていました。建設会社として、設置される装置にあわせて、しばしば変更を行なわなくてはなりませんでした。

L:

あなたの会社は工業的な大量殺戮のためのガス室を建設していたという話をいつ耳にしましたか。

S:

戦争が終わってからです

L:

そのことで驚きましたか。

S:

はい。戦後に、ドイツにいた私の上司に連絡を取って、この件について尋ねました。

L:

何がわかりましたか。

S:

この人物も戦後にこの件をはじめて知ったとの話でしたが、フタ社は絶対に問題の部屋をガス室として建設してはいないと私に確証してくれました。

L:

フタ社がアウシュヴィッツを離れたのちに、改築が行なわれたとは考えられませんか。

S:

考えられるかもしれませんが、時間的な問題を考えると、その可能性はないと思います。改築にはやはり、建設会社が必要ですし、SSにはたとえ囚人の手を借りたとしても、自分たちの手だけでは改築できないからです。ガス室の稼動の詳細についてはのちに知ったのですが、それに必要な技術的要求から判断すると、私たちの建てた建物は、必要な装置と実際的作動の面から考えて、ガス処刑という目的にはまったく不適当であったに違いありません

L:

なぜ、そのことを公表しなかったのですか。

S:

戦争が終わった直後には、別も問題を抱えていました。そして、現在は、そのようなことは許されていません。

L:

この件で、証人として尋問されたことはありますか。

S:

連合国側も、ドイツ側も、オーストリア側も、焼却棟UとVの建設についての私の知識、および総督府での私のその他の活動について、まったく関心を示しませんでした。私がカトヴィツェのフタ社に勤務していたことは知られており、私もこの件について履歴書に記していたにもかかわらず、尋問されたことはまったくありませんでした。しかし、この事実を知っていることは危険でしたので、それについて、決して公にしようとは思いませんでした。だが、今日、嘘がますますまかり通るようになり、私のようなこの時代の証人たちが、ゆっくりとではありますが、確実に姿を消しつつありますので、この件について私の話を聞きにきて、その話を文字通りに書き留めていただけることに感謝しております。心臓病を患っており、いつ死んでもおかしくないので、今しか時間がないのです

 

 シュライバー氏は、自分の証言を自分の死後に公表してくれるように要請した。この同時代の証人に謝意を表しておきたい。

 SS将校ヘットルも1999年に他界しているが、彼のような同時代の証人たちは、自分たちの知っている真実を死後に明かすということに関心を向けもせずに、600万人という嘘の起源についての彼らの知識を墓場の中にまでもっていってしまった。

 したがって、資格を持つ技師で工学博士のヴァルター・シュライバーに敬意を抱きつつ、彼のことを永遠に記憶すべきであろう。

 

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