試訳と評注:F. ピペル、マイヤー論文の書評

 

歴史的修正主義研究会試訳・評注

最終修正日:20041115

 

本試訳および評注は当研究会が、研究目的でFranciszek Piper - Fritjof Meyer, “Die Zahl der Opfer von Auschwitz. Neue Erkentnisse durch neue Archivfunde, Review articleF. マイヤー論文の書評)を試訳し、それに評注を加えたものである。なお、マーカー部分[・・・・・・]内の評注は当研究会が付したものである。
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

onlinehttp://www.auschwitz.org.pl/html/eng/aktualnosci/news_big.php?id=563

 

T

[アウシュヴィッツの犠牲者数をめぐる研究史]

 アウシュヴィッツというドイツの強制収容所・国家施設が、占領下のヨーロッパで最大の絶滅現場の1つであったことは、戦時中からすでに知られていた。

 戦時中ロンドンにあったポーランド政府は、占領下のポーランドでの抵抗運動からの報告にもとづくこの情報を率先して広めた。この情報は、最初はポーランド政府の刊行物に登場したが、その後、世界中の出版物が報道するようになった。[ユダヤ人の「大量ガス処刑」の噂が伝えられるのは、1942年春からであった。いわゆるブンド(在ポーランド・ユダヤ人労働者同盟)報告は、「特別自動車(ガス室)」による処刑と毒ガス実験を伝えている。Gilbert Martin, Auschwitz and the Allies, Henry Holt & Co., NY., 1982, pp. 39-44.その後の報告でも、取り立ててアウシュヴィッツだけが強調されているわけではない。]

 犠牲者数が数百万に達するという考え方は、アウシュヴィッツの囚人たちのあいだに、ひいては、収容所での事件を目撃した何人かのSS隊員のあいだにも広まっていた[1]。このことは、囚人やSS隊員の証言、および死体焼却を担当した囚人(特別労務班員)が戦時中に作成したノートからも確認できる[2]

 ソ連軍が1945127日に収容所に入ったとき、犠牲者の数を伝える、もしくはその数を算出する根拠となるようなドイツ側文書資料を1つも発見できなかった。このような文書資料(輸送リスト、移送集団到着報告、選別結果報告)は、解放前に破棄された。このために、ソ連のアウシュヴィッツ強制収容所犯罪調査委員会は見積もりを行なわなくてはならなかった。[長らく、ホロコースト正史派の研究者たちは、ドイツ側がアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所関連の文書を破棄してしまったということを、同収容所が殺人ガス室を備えた絶滅センターであったことを立証する文書資料的証拠が欠如しているという事態の「言い訳」としてきた。しかし、ソ連崩壊後に、ソ連の文書館に保管されていたドイツ側文書資料が公開されるようになった今日では、この「言い訳」はまったく通用しない。正史派に属すると思われるマイヤーですら、「赤軍は、127000の文書資料からなる、中央建設局、死亡記録、司令部の命令、ひいては収容所の文書記録すべてを確保していた」と述べているほどである。Fritjof Meyer, Replik auf Piper. onlinehttp://www.idgr.de/texte/geschichte/ns-verbrechen/fritjof-meyer/meyer-replik-auf-piper.php その英訳版 Fritjof Meyer, Response to Piper. http://www.fpp.co.uk/Auschwitz/Osteuropa/Meyer_replies_engl.html

 ソ連調査委員会は、個々の焼却棟の稼動期間、その1日の処理能力を算出するにあたって、囚人たちの供述を利用した。これに2つの要素をかけあわせると500万人という数字が生み出された。そして、委員会は、メンテナンスと修理による中断期間を、少なくとも20%と見積もって、400万人を焼却することができた、したがって、400万人が収容所で殺されたという結論に達した[3]。この数字は、194558日にソ連委員会が『赤い星』紙上に発表したコミュニケに登場し、世界中の出版物が報道するようになった。収容所長ルドルフ・ヘスも、翌年のニュルンベルク軍事法廷の証言で、この数字を確認した。彼は、300万人が収容所で死亡したと証言したが。この数字は、1940年から1943年の彼の在任中の時期にあてはまるものとみなされた。[マットーニョは、ソ連・ポーランド調査委員会が「400万人という宣伝数字」を捏造したプロセスについて詳しく分析している。Carlo Mattogno, The Four Million Figure of Auschwitz, The Revisionist, 2003, No. 4. online: http://vho.org/tr/2003/4/Mattogno387-392.html その試訳

 アウシュヴィッツの囚人を尋問したポーランド犯罪調査官とポーランド最高裁も400万人という数字を受け入れた。この数字は、研究者ではなく、検察当局によって確定され、世論に認められた。そして、ポーランドその他で、長年にわたって、アウシュヴィッツというテーマに関する教会法的な知識となった。

 ドイツ側が保管していたアウシュヴィッツに関するもっとも重要な統計資料が欠けていたために、歴史家たちは犠牲者の数を研究することが実際上できなかった。また、どれほどの移送者が到着したのか、登録や記録をもされないまま、ガス室と焼却棟で処分された人々はどれほどであったのか、これについての完全なリストを作成することはほとんど不可能であると考えられていたために、歴史家たちはこの問題を研究することをためらった。そして、このような見解は、今日にいたるまでも、ベテランの研究者グループには存在している。

 このことは、すべての研究者が400万人という数字で一致していたことを意味しているわけではない。とくに、ユダヤ人がアウシュヴィッツの犠牲者の大半を構成していることを熟知していたユダヤ人研究者は、その他の絶滅現場で殺されたユダヤ人の数をこの数字に加えてしまうと、500万人から600万人とされるユダヤ人犠牲者の合計の2倍以上となってしまうことから、この数字にかなりの留保条件をつけていた。こうした研究者は、今度は、収容所に移送された他の民族集団の数を知らなかったために犠牲者全体の合計数を確定することを差し控え、ユダヤ人の損失だけに研究を限定した。

 研究書に登場するアウシュヴィッツの犠牲者数は、さまざまである。少なくとも90万(ライトリンガー)、100万人のユダヤ人(ヒルバーグ)、200万人のユダヤ人(ギルバート)、250万人のユダヤ人(ヴァイス)、350450万人(コゴン)。ピペルは、「破門」したプレサックの数字6371万人を完全に無視している。また、アウシュヴィッツ犠牲者数の変遷に関しては、フォーリソン論文が詳しい。Robert Faurisson, How many deaths at Auschwitz? , online: http://www.corax.org/revisionism/misc/auschwitz_deaths.html その試訳

 1950年代初頭、ライトリンガーは、他の研究者とは異なって、当時入手することのできた、アウシュヴィッツその他の死の収容所への特定の諸国からの移送者数についての不完全な情報にもとづいて、アウシュヴィッツの犠牲者数を算出しようとした。上記の研究者以外の誰一人として、もっと詳しい分析や、自分たちの見積もりの根拠を提供しなかった。一般的に、研究者は、ヘスが1946年、1947年にドイツとポーランドで、さまざまな機会に証言した数字(100万から300万)を繰り返していたと思われる。[要するに、ホロコースト正史派の研究者たちは、おもにヘス証言にもとづいて、アウシュヴィッツ・ビルケナウ絶滅収容所物語をオウム返しに繰り返していたにすぎないということ。しかし、ピペルは、ヘス証言および、ベンデル、ブロード、タウバーといった「職業的目撃証人」たちの証言が、ソ連・ポーランド調査委員会の結論にあわせるように調整されたものであることを看過している、もしくは、この事実から目をそらせようとしている。まったく、奇妙なことであるが、犠牲者数や焼却棟の処理能力に関する彼らの「目撃」証言はすべて、アウシュヴィッツの犠牲者400万人という、今日ではピペルも否定しているソ連側の宣伝数字を「立証」しており、一方、ピペルも支持している100150万人という数字を「立証」する目撃証言は皆無に近い。たとえば、1985年のツンデル裁判で証言した「目撃証人」ルドルフ・ヴルバは、「1765000名」のガス処刑を目撃したと証言しており、ヘスと自分は別の道を通って同じ数字に到達したのだと豪語している。戦後40年たってもである。参照(「目撃証人」ルドルフ・ヴルバの法廷証言)

 広く普及したアウシュヴィッツの犠牲者400万人という数字の起源と目的については、さまざまな意見がある。この数字は戦時中のホラー宣伝の産物であると考える人々もいる。この数字を作成・普及した人々は、それが水増しされていたことを知っていたというのである。のちに、この数字を認めてそれを公にした人々の場合も、同じだろうというのである。

 移送者の数と殺戮された人々の数に関する収容所のオリジナル記録が存在していないこと、ならびに、「無数の犠牲者」や「殺された数百万人」という目撃証言のきわめて主観的な性質を考慮すると、われわれは400万人という数字をアウシュヴィッツでの実際の人的損失を反映している数字として受け入れるべきである。この数字は、ソ連・ポーランド調査委員会のメンバーの最良の知識、のちには、検察側調査官とさまざまな出版物の著者の最良の知識に由来するものであった。

 ドイツが降服文書に署名したのは、ソ連委員会がコミュニケを発表した日であった。だから、ナチスの犯罪を戦争宣伝の道具として、敵愾心を煽る道具として利用する理由はまったくなかった。[ここで、ピペルは粗雑なすり替えを行なっている。たしかに、アウシュヴィッツの犠牲者数400万人が登場したのは、ドイツが降服した194558日であったかもしれないが、「ナチスの蛮行の象徴」=「ガス車」を喧伝したクラスノダル裁判、ハリコフ裁判が開かれたのは1943年後半のことであり、マイダネク収容所の「殺人ガス室」を喧伝したソ連・ポーランド調査委員会報告が公表されたのも1944年秋のことであるから、ソ連側が「ナチスの犯罪を戦争宣伝の道具として、敵愾心を煽る道具として利用」し始めたのは、戦時中の1943年にさかのぼることができるからである。]1つのことだけは疑いがない。当時、アウシュヴィッツの犠牲者の正確な数字を誰も知らなかったし、知りえなかったのである。そして、ソ連調査委員会がその見積もりに到達するために使った方法は、その数字を支持している人々、ひいてはその数字よりも多くの数字を掲げている人々、および、それを低く見積もっている人々のあいだでも、依然として認められているのである。[これは、ピペルが自分の生活ひいては生命を守るために、共産主義体制に迎合した歴史研究に従事せざるをえなかったことを「弁明する」ための嘘である。マットーニョはこう指摘している。「アウシュヴィッツに移送された人々の数についての文書資料は、すでに、ヘス裁判の前、19451216日に、共産主義者の判事ヤン・ゼーンのところにあったし、政治部の囚人が秘密裏にコピーした移送・登録リストを使って、実際の死者、推定上の死者の数を検証できたはずだからである。ダヌータ・チェクは『アウシュヴィッツ・カレンダー』の初版でこのリストを使っており、ヴェレールは、ここから、単純な計算(むしろ間違った計算)によって、400万人という数字の驚くべき修正を行い、1613455名の移送者、1471595名の死者という数字を算出している。(一方、ヤン・ゼーンはヴェレールと同じ資料を使いながらも、400万人という数字を修正して、500万人にまで増やしている。)」Carlo Mattogno, On the Piper-Meyer-Controversy:Soviet Propaganda vs. Pseudo-Revisionism, The Revisionist, 2004, No.2 onlinehttp://vho.org/tr/2004/2/Mattogno131-139.html その試訳

 ジョルジュ・ヴェレールは、この問題をはじめて詳しく分析した研究者である。彼は、人々――大半はユダヤ人――がアウシュヴィッツに移送された特定の国々の人的損失と、部分的に残っていた収容所の記録・目撃証言・抵抗運動の文書にもとづいたダヌータ・チェクの『アウシュヴィッツ・カレンダー』の分析結果を比較した。その研究の結果、ヴェレールは、少なくとも160万人がアウシュヴィッツに移送され、そのうち、少なくとも150万人が死亡したという結論に達した。ヴェレールは自分の研究成果を、1983年末、Le Monde Juifに発表した[4]

 オシフェンチムのアウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館は、設定された研究スケジュールの一部として、1970年代にこの問題を調査したが、いかなる結論にも達しなかった

 私が、5巻本のアウシュヴィッツ研究書を執筆する計画の一部として、この問題の研究を再開したのは1980年代であった。私は、1940年代の検察当局・司法当局の分析に十分な文書資料がかけていることを熟知していた。それは、犠牲者の民族的分類も行なっていなかった。私の分析結果は、198721618日にクラクフ・モギワヌで開かれた学会での論文の中で明らかにしたように、ヴェレールの結果とよく似たものとなった。そのとき、私は、「ヴェレールの計算方法とその結果は、留保条件なしで認めることができるが、例外は、ポーランド系ユダヤ人についての彼の見積もりに含まれている疑問の余地のある憶測である、60万のポーランド系ユダヤ人という数字は水増しされているにちがいない」と述べた[5][ピペルやアウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館が、400万人という数字への疑問を公表することができなかったのは、真摯な研究を続けていたけれども、明確な結論に達することができなかったためではなく、ポーランドの歴史研究者が、ソ連とポーランドの共産主義者に政治的に迎合していたためにすぎない。そのことは、ピペルによる数字の下方修正(1987年、1992年)、ビルケナウの記念碑の数字の修正の年代(1995年)を、ゴルバチョフ政権からソ連邦の崩壊という東ヨーロッパ・ロシア世界の事件誌と重ね合わせれば、すぐにわかることである。ポーランドなど旧ソ連圏の歴史家たちが置かれていた窮状については同情の念を禁ぜざるをえないが、自分たちの政治的御都合主義、ひいては「宮廷御用史家」という自分たちの存在を隠蔽すべきではないであろう。]

 私は、アウシュヴィッツへの移送に関するオリジナル資料と研究成果を全面的に分析したのち、合計で、少なくとも130万人が移送され、そのうち110万人が殺された、そして、約20万人は、労働力の再配分や収容所の解体のために、アウシュヴィッツから他の収容所に移送された、との結論に達した。

 高名なホロコースト研究者の一人ヒルバーグは、アウシュヴィッツの犠牲者数に関する「アウシュヴィッツと最終解決」という個別論文を発表している[6]。彼の分析結果も、彼が1961年に達していたアウシュヴィッツのユダヤ人犠牲者100万人という数字、ならびに私自身の結論を再確認している。[だとするならば、1961年から1992年までの30年間、ピペルは一体何を研究してきたのであろうか。]

 以上のような考察をまとめると、次のような結論となる。

 

1.          実際、検察当局・司法当局アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスの証言にもとづく、400万人までのアウシュヴィッツの犠牲者数という水増しされた数字は、戦後の数十年間にわたって、文献の中でしばしば引用されてきた。しかし、歴史学の諸原則――さまざまな資料の比較とその信憑性の評価――にしたがってこの問題を詳細に研究した研究者たちは、アウシュヴィッツの犠牲者数を100万から150万人のあいだであると明らかにしてきたし、明らかにしてきている[これまで、ホロコースト正史派の研究者たちは、ヘス証言を、まさに殺戮の当事者の目撃証言であるのだからとの理由で、アウシュヴィッツ・ビルケナウ絶滅収容所物語の根本資料とみなしてきた。絶滅物語の根幹である犠牲者数に関するヘス証言には信憑性がないとするならば、ホロコースト正史派の研究者たちは、一体へス証言のどの部分を信用しているのか、どの部分を信用していないのか、このことを明確にする必要があるであろう。そしてまた、なぜ、ヘスは、ソ連側の宣伝数字400万人に迎合するよう犠牲者数を「自白」したのかも、明らかにする必要があるであろう。]

2.          収容所に移送され、そこで殺された人々の全体数に関する収容所記録が欠如していることを考慮すると、犠牲者数を確定する唯一の根拠は、特定の地方、地域、国々からアウシュヴィッツへの移送についての資料囚人数の増減の変化についての資料でなくてはならない[これも、「大量ガス処刑」についての物的・文書資料的・法医学的証拠の欠如という窮状に陥ったホロコースト正史派が良く使う、まやかしの論法である。すなわち、ある収容所には○○人が移送された記録が残っているが、その後、彼らがどうなったかという記録は残っていない、ゆえに、○○人はその収容所で殺戮されたにちがいない、という論法である。チェクの『アウシュヴィッツ・カレンダー』の記載はその典型である。例えば、1943516日の項目には「約4500名のユダヤ人男性・女性・子供が国家保安中央本部のギリシアからの移送で、サロニカ・ゲットーから到着。選別後、…残った約3800名以上がガス室で殺された」とあり、このような記述が『アウシュヴィッツ・カレンダー』には繰り返し登場するが、「残った約3800名以上がガス室で殺された」という箇所は、文書資料的な根拠がなく、まったくの憶測にすぎない。すなわち、4500名の移送者のうち、約700名が労働力として登録されてアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所に収容され、残った約3800名は、別の収容所への移送、東部地区への再定住の移送を続けたかもしれないのである。]

3.          ソ連アウシュヴィッツ犯罪調査委員会は、焼却棟の処理能力と稼働期間にもとづいて犠牲者数を確定しようとしたが、その方法にそった試みは、依然として行なわれている。しかし、焼却棟の稼働期間、その処理能力を確定しうる信頼すべき資料がないために、このような計算方法は間違いである[7][これも、「盗人猛々しい」一文である。ホロコースト正史派の研究者は、ビルケナウの焼却棟の処理能力が、「大量ガス処刑」の犠牲者を想定するほどの高い焼却能力を持っていたことの文書資料的証拠として、1943628日の中央建設局長ビショフ書簡(焼却棟TからXまでの合計で14756体の処理能力)をしばしば引用してきたからである。ピペル自身も、自分の1998年の論文の中で、このビショフ書簡を使って、焼却棟の焼却能力=「14756体」を紹介している。F.Piper, Gas Chamber and Crematoria, Anatomy of the Auschwitz Death Camp, edited by Y.Gutman and M.Berenbaum, 1998.焼却棟の処理能力に関する数字が、プレサックや、修正主義者の批判によって、いちじるしく下方修正され、「大量ガス処刑」の犠牲者を想定したものではなく、通常の死体焼却を想定したもの、すなわち、ビルケナウ収容所が「絶滅センター」ではなかったことが明らかになると、ピペルは、豹変して、こうした研究を「間違い」と論じるようになっている。]

4.          まず、収容所への移送についての情報にもとづいてアウシュヴィッツの犠牲者数を見積もることは[8]、アウシュヴィッツ強制収容所の歴史のなかの、このもっとも重要な論点に対する、まったく信頼しうる回答として認められるべきである。今後の研究は、この数字の個々の側面を、小規模に、洗練するものにすぎないであろう。しかし、それは、この数字の根本的な変更にはまったく至らないであろう[一体、このような自信は、どこから出てくるのであろうか。つい最近まで、アウシュヴィッツの犠牲者400万人説は、ピペルの表現を借用すれば「教会法的な知識」であった。今日、その数字は、ピペルたちが100万人程度に修正したという。そして、今後、この数字は「根本的な変更」を被らない、やはり「教会法的な知識」となっているというのだから。]

 

 

U

[「殺人ガス室」問題]

 大量絶滅装置の処理能力、その稼働期間、その利用程度の分析にもとづいて、アウシュヴィッツの犠牲者数を低く見積もったり[9][この注にはじめて、プレサックの数字63万−71万人が登場する]高く見積もったりする[10]試みは、依然として散発的に行なわれているが、そのようなやり方は、文書資料が十分でないことを考慮すると、間違いとみなさなくてはならない。同様に、ガス室の存在を否定することで犠牲者数を最小化する試みも、退けなくてはならない。

 技術的にいえば、ガス室はまったく単純な装置であった。それは、毒ガスを閉ざされた空間の中に投入するという原則のもとで機能した。この目的のためには、どのような施設や可動式の建物であっても、利用することができた。安楽死センターではシャワー室かスチームバス室が、ヘウムノ(クルムホフ)では特別トラックが、トレブリンカではバラックが、ビルケナウでは一時、2つの農家がこの目的のために使われた。[この議論も、「殺人ガス室」の技術的不可能性という問題に回答できないホロコースト正史派がくるしまぎれに口にすることになる、まやかしの論法である。すなわち、例えばアパートの粗末な一室であっても、そこに毒ガスを注入すれば、その部屋の中にいる人々を殺すことができる、というのである。しかし、修正主義者が問題としているのは、毒ガスが人ひとりを殺すことができるか否かではなく、例えば、焼却棟Uの「殺人ガス室」を例にとれば、10003000名の人々を210uの空間に押し込めて、520分で彼らを殺戮し、その後すみやかに残留ガスを排出し、特別労務班員が死体を引き出し、その死体を狭いエレベーターを使って地上の炉室に運び、その死体をすみやかに跡形もなく灰に変えることができる「大量殺戮装置」、しかも、こうした作業を1年半近くにわたって連続的に繰り返すことのできる「大量殺戮装置」の技術的可能性、技術的リアリティなのである。]

 些細な改造――その大半は、すべての開口部を塞ぐことであるが――を行なうことによって、どのような部屋であってもガス室にすることができる。(おもにネオ・ナチ文献に見られるのであるが)、毒ガスとくにチクロンBを使った殺戮手順を、収容所の持つ施設以上の複雑な技術的設備を必要とする手順のように描くことは、単純な事実を歪曲してしまう企てであり、基本的には、意図的な詐術となってしまうであろう。[要するに、ピペルは、修正主義者たちが問題としてきた(そして、正史派のプレサックやペルトも関与してきた)、焼却棟および「殺人ガス室」の建築学上・技術上の諸問題に関して、まったくお手上げ状態であり、それゆえ、今後は無視すると宣言しているわけである。これは、ピペルが、「われわれは、このような大量殺人が技術的にどのように可能であったのか問うてはならない。それは起こったから、技術的に可能であったのである。このことが、このテーマに関するあらゆる歴史研究の出発点となるべきである」という、1979年のフランス人「研究者」の「信仰告白」の段階に先祖がえりしたことを意味している。]

 アウシュヴィッツでの大量殺戮を否定するもう1つの試みは、ガス室の実在を否定はしていないが、さまざまな技術的制約(換気、保全上の問題)、能力的制限(スペースの狭さ)の結果、アウシュヴィッツの殺戮能力を最小限にまで減らそうとしている人々によって行なわれている。否定派は、ガス室の能力を低く見積もろうとして、ガス室を1日数回使用することができるという事実を見過ごしている。処理能力を規定しているのは、利用しうるスペースではなく、人々を中に押し込み、彼らを毒殺し、その死体を除去する時間なのである。否定派は、現代の処刑ガス室とのさまざまな比較をこの問題に持ち込んでいるが、現代の処刑ガス室の技術的保全的必要措置はまったく異なっている、まして、手順はまったく異なっているのである。[ピペルが、このような議論で、「殺人ガス室」の建築学的・技術的不可能性という修正主義者の所説を論駁できたと考えているのであれば、この問題について修正主義者と公に議論するのは避けた方が良いであろう。アウシュヴィッツ国立博物館歴史部長が、自分のお膝元の収容所の焼却棟や「殺人ガス室」をふくむ諸施設についてまったく無知であることを、さらけだしてしまうだけだからである。]

 同じことが、犠牲者の死体の焼却技術についてもあてはまる。現存のドイツ側記録は、薪の山と死体焼却壕を含めずに、焼却棟だけで240万体以上が焼却可能であったことを示しているし[11][注を見ればわかるとおり、やはり典拠は1943628日のビショフ書簡の数字である]、特別労務班員によると、400万体以上である[前にも指摘しておいたが、ピペルは、特別労務班員たちの「目撃証言」が、自分の上げているアウシュヴィッツの犠牲者数ではなく、ソ連側の400万人という数字にマッチしてしまっていることに、なぜ疑問を抱こうとしていないのであろうか]戸外の薪の山と死体焼却壕は、技術的問題が発生したとき、絶滅のために到着した移送者が多すぎたときに、使用可能であり、その処理能力は実際上無制限である[12][ここでも、典拠資料はヘス証言である]これらがもっとも効率的で、単純であったことは一度ならず、観察されてきた。それらは、200万人ほどが焼却棟なしで焼却されたトレブリンカ、ベウゼック、ソビボル、ヘウムノのユダヤ人絶滅センターで、成功裏に利用された[これも、まやかしの議論である。トレブリンカ、ベウゼックなどでの「奇怪な焼却格子」をつかった戸外焼却については、ビルケナウの焼却壕に関する「目撃証言」よりも数少ない「目撃証言」があるにすぎず、また、その内容も多くの矛盾点をかかえている。つまり、ピペルは、より根拠薄弱なトレブリンカ、ベウゼックでの「大量戸外焼却」によって、やはり根拠薄弱なビルケナウでの「大量戸外焼却」を「立証」したつもりになっているのである。この問題については、Arnulf Neumaier, The Treblinka Holocaust, Ernst Gaus, Dissecting the Holocaust. The Growing Critique of 'Truth' and 'memory', (Ed.), Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2000, online: http://www.codoh.com/found/fndtreb.html, その試訳Carlo Mattogno, Jürgen Graf , Treblinka Extermination Camp or Transit Camp? Theses & Dissertations Press,PO Box 257768, Chicago, IL 60625, USA, June 2003, online: http://vho.org/GB/Books/t, その試訳Ingrid Weckert, What was Kulmhof/Chelmno ? The Revisionist, 2003, No.4, online: http://vho.org/tr/2003/4/Weckert400-412.html, その試訳を参照していただきたい。]アウシュヴィッツ強制収容所の焼却棟に加えて、死体が焼却された戸外の薪の山と壕が稼動していたために、限られた死体焼却能力に関するすべての議論、したがって、焼却棟の能力にもとづいて犠牲者の数を算出することは、まったく不適切なのである[またもや、不可知論。この問題については、前掲のマットーニョ論文を参照していただきたいが、何とか、文書資料的証拠・技術的証拠・法医学的証拠にもとづいてアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所をめぐる諸問題、ひいてはホロコーストをめぐる諸問題を検証することを回避したいという、正史教団司祭ピペルの願望がよくあらわれている一文である。]さらに、絶滅のために移送されてきた人々が多かったために、アウシュヴィッツ強制収容所のガス室の殺戮能力と収容所の焼却能力は、この時期に必要とされていたものよりもはるかに高かった[「ガス室」の殺戮能力とは一体何を意味しているのであろうか。犠牲者を収容するスペースのことなのであろうか。たとえ、スペースが広くても、残存ガスの排気能力、死体運搬能力、焼却能力が、ベルトコンベア式「大量ガス処刑」の「効率」を決定する重要な要因であるはずであるが、ピペルはそんなことをまったく気にかけていない。彼の妄想の中では、閉ざされたスペースと毒ガスがあれば、「大量ガス処刑」は可能であり、焼却棟の焼却能力には限界があっても、「無限の」処理能力を持つ「戸外の薪の山と焼却壕」を使えば、大量の死体をすみやかに灰と化してしまうことも可能となっている。]ごくたまにではあるが、移送者が滞留してしまったときに、大量殺戮装置は、通常のペースではすべての犠牲者を処理することができなかった。

 ドイツは、ベルリンのヴァンゼー会議で明らかにされたように、占領地域、衛星国、中立国、独立国、および、まだ征服していないイギリスやソ連のヨーロッパ地域での1100万のユダヤ人を絶滅する計画を立てていたが、征服目標を達成することができなかったために、その計画を実行することはできなかった。その結果、アウシュヴィッツの絶滅能力は十分に利用できなかったのである[いまどき、ヨーロッパ全体のユダヤ人の絶滅計画がヴァンゼー会議で決定されたなどと考えている研究者は、正史派のあいだでも数少ないであろう。]

 

以下続く(20041023日)

 

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[1]  詳しくは、Franciszek Piper, Ilu ludzi zginęło w KL Auschwitz. Liczba ofiar w świetle źródeł i badań 1945-1990 [How many people died in Auschwitz Concentration Camp? The number of victims in the light of sources and research, 1945-1990] (Oświęcim, 1992); German version: Die Zahl der Opfer von Auschwitz Aufgrund der Quellen und der Erträge der Forschung 1945-1990 (Oświęcim, 1993).

[2] Wśród koszmarnej zbrodni. Notatki więźniów Sonderkommando (Amidst a Nightmare of Crime: Notes by Prisoners from the Sonderkommando), (Oświęcim, 1975); German version: Inmitten des grauenvollen Verbrechens. Handschriften von Mitgliedern des Sonderkommandos (Oświęcim, 1996).

[3] ソ連委員会の見積もりについて詳しくは、Piper, Ilu ludzi.

[4] Georges Wellers, "Essai de détermination du nombre des morts au camp d'Auschwitz," Le Monde Juif, 112 (1983), p. 153.

[5] Franciszek Piper, "Stan badań nad historią KL Auschwitz. Archiwum Okręgowej Komisji Badania Zbrodni Hitlerowskich w Krakowie" [The state of research on the history of Auschwitz Concentration Camp: The Archive of the Regional Commission for the Investigation of Nazi Crimes in Cracow], conference materials, Cracow-Mogilany, February 16-18, 1987.

[6] Raul Hilberg, "Auschwitz and the 'Final Solution'," [in:] Y. Gutman and M. Berenbaum, eds., Anatomy of the Auschwitz Death Camp (Bloomington and Indianapolis, 1994), pp. 81-92.

[7] Igo Trochanowski, "Zadania Baubüro w KL Auschwitz" [The tasks of the Baubüro in Auschwitz Concentration Camp], Biuletyn Towarzystwa Opieki nad Oświęcimiem 18 (1993), pp. 61-73, presented at a research session at the Silesian University in Katowice.

[8] Wellers, ibid.; Raul Hilberg, "Auschwitz and the 'Final Solution'," [in:] Gutman and Berenbaum, eds., Anatomy, pp. 81-92.; Piper, Ilu ludzi.

[9] Jean C. Pressac, Die Krematorien von Auschwitz. Die Technik des Massenmordes (Munich and Zurich, 1995), p. 202 (631, 000 to 711,000 killed).

[10] アウシュヴィッツの囚人であったトロチャノフスキ(Trochanowski)は、この「インテイク(吸収量)」方法を使って、収容所で殺された人々4351000人という数字を打ち出している。op. cit.; Jerzy Sawicki, Tomasz Szkul-Skjoedkrön and Władysław A. Terlecki, . "Tam miała umrzeć Polska. Ilu ludzi zginęło w Konzentrationslager Auschwitz" [Poland was supposed to die there: How many people perished in Konzentrationslager Auschwitz?], Nasz Dziennik (Jan. 27, 2003).

[11] 4,756 corpses x 547 days = 2,601,532.

[12] Wspomnienia Rudolfa Hössa komendanta obozu oświęcimskiego [Memoirs of Rudolf Höss, commandant of Auschwitz] (Warszawa, 1965), p. 202.