歴史的修正主義研究会
最終修正日:2004年3月06日
<質問11>
わが国の正史派の研究者○○氏は、最近刊行されたホロコースト研究書の中で、東部占領地域における特別行動部隊などの行動=「虐殺行為」に多くの頁を割いています。しかし、その記述は、たんなる「目撃証言」や「自白」を歴史的事実として扱っているかのようにみえるのですが、歴史的修正主義者はこの点についてどのように考えていますか?
<回答>
たんなる「目撃証言」や「供述書」、「自白」などを、その中身の検証を行なわずに、そのまま歴史的事実として提示してしまうやり方は、正史派の研究者の「歴史叙述」に特徴的な「方法」ですが、その「方法」は、ニュルンベルク裁判その他の戦勝国による戦争犯罪裁判に起源を持っています。
ニュルンベルク裁判の判決文をご覧になればわかりますが、特定の犯罪が「目撃者」の「供述」や実行犯の「自白」を引用することだけで、立証されているかのような調子で書かれています。判決文から引用しておきます。
「…ドイツ人技師グレーベが語っているロヴノとドゥブノでの虐殺は一つの方法の事例である。…アウシュヴィッツに関していえば、法廷は1940年5月1日から1943年12月1日までその所長であったヘスの証言を審理している。彼は、アウシュヴィッツ収容所だけで、そのあいだに250万が絶滅され、さらに、50万人が病気や飢えで死亡したと述べている。」
この判決文に登場しているグレーベの供述書(PS-2992)とは、次のようなものです。
「ヘルマン・フリードリヒ・グレーベの二つの供述、1945年11月10日:1942年7月13−14日のロヴノでのユダヤ人の虐殺についての記述:1942年10月5日のロヴノでのユダヤ人の虐殺についての記述。1945年11月13日の追加供述、大量殺戮を実行したSS隊員とSD隊員の記述。… 私、ヘルマン・フリードリヒ・グレーベは次のように証言する。… 私は、上記の話を1945年11月10日、ドイツのヴィスバーデンで行なった。私は、これがまったくの真実であることを神の前で宣誓する。フリードリヒ・グレーベ」
このグレーベは、彼の供述書がニュルンベルク裁判に提出されただけで、本人自身は反対尋問も受けていません。さらに、彼の供述にあるロヴノでのユダヤ人虐殺事件については、他の証拠資料や証言でも確証されていません。唯一、グレーベの供述の信憑性を「保証」しているのは、「私は、これがまったくの真実であることを神の前で宣誓する」という彼自身の言葉だけなのです。(さらに、供述書や自白がいかに通常の司法裁判の手続きに反するかたちで作成されたのかについては、ベルゲン・ベルゼン収容所のクラマーやイルマ・グレーゼたちに死刑判決を下したベルゼン裁判記録に描かれていますので、詳しくは、それを参照してください[1]。)
通常の司法裁判でならば、供述書や自白がそのまま犯罪を立証する証拠として採用されることはありません。かならず、反対尋問を受け、他の証拠資料や証言とつき合わされ、信憑性が確証された上で、証拠として採用されるのです。
ところが、ニュルンベルク裁判は、そのような司法手順には拘束されませんでした。ニュルンベルク国際軍事法廷憲章第19条には、こうあります。
「法廷は、証拠に関する法技術的規則に拘束されない。法廷は、迅速かつ非法技術的手続を最大限に採用し、かつ、適用し、法廷において証明力があると認めるいかなる証拠をも許容するものである。」
極端にいえば、提出されたあらゆる証拠は、「ヨーロッパ枢軸国の主要戦争犯罪人」の「有罪」を立証するものであれば、たとえ、それが厳密な証拠手続きにそぐわないものであっても、すべて「許容する」ということになっているのです。
この問題について、ベルゼン裁判では、興味深いやり取りがあります。そして、ここでの検事側と弁護側、そして裁判所の裁定こそ、ニュルンベルク裁判その他の戦争犯罪裁判の「立証方法」、そして、この裁判に依拠するホロコースト正史の「歴史叙述」の「方法」を象徴しているのです。
「<検事バックハウス大佐>:供述書を提出する段階に入りました。規定8(I)によると、法廷は、供述が軍事法廷以前には証拠としては認められなくても、罪状の立証・反証に役に立つという条件のもとで、それが信頼できるものであれば、採用することができます。私は、できるかぎり証人を召喚するように努力してきましたし、弁護側が誰かの召喚を要請すれば、そのようにしてきました。ベルゼンにいる証人はすべて探しましたが、何人かはすでに国外にいました。
<弁護人フィリップス大尉>:この本に含まれている供述書は、証拠として提出されていますが、私たちは、これらすべての供述書に異議を申し立てます。私たちの見解では、この本の中の証言はまったく信頼できるものではありません。この本に登場する証人の何人かは、すでに当法廷で証言しました。そこから判断すると、残りの証言はまったく価値がないので、受け入れるべきではありません。法廷は、これらを認めることによって、刑事法廷や軍事法廷の正常なやり方から、遠く隔たるべきではありません。
<法廷弁務官>:提出される展示証拠はすべて証拠として受け入れるべきであると思います。ただし、受け入れたとしても、全体の状況を考慮して、他の証拠と照らし合わせたのちに、特定の資料にどの程度価値を与えるかどうかは、法廷が決定することです。いくつかの供述書の信憑性がかけているからといって、法廷がその他の80か90にまったく関心を向けるべきではないというのは適切ではないと思います。」[2]
前置きが長くなりましたが、○○氏の「歴史叙述」を検証しましょう。ヒムラーが1941年8月中旬に、東部占領地域での大量射殺現場を視察して、占領地域でのユダヤ人の殺害命令を出すと同時に、実際に、射殺現場を目撃して、そのあまりのむごさに「動揺」して、「より人間的な」処刑手段を求めたという「話」です。
○○氏の研究目的の中心は、「抹殺政策・絶滅政策」の形成過程の解明におかれていますので、この「事件」はエポック・メイキングな「事件」であるはずです。
○○氏はこの「事件」について次のように書いています。
(a)「このような状況下で、ヒムラーは8月14日、15日、中央軍集団後方地域にあるミンスクとバラノヴィッチに出向き、コミュニスト、ユダヤ人の射殺現場を視察した。そして、ロシア中部担当高級親衛隊警察バッハ=ゼレウスキー、アインザッツコマンド隊長ブラートフィッシュ、アインザッツグルッペB隊長ネーベに対し、ソ連占領地域で遭遇した全ユダヤ人無差別処刑を命じたとされる。ただし、このヒムラーの命令は口頭命令であり、文書証拠が残っているわけではない。したがって、文字通り『無差別に処刑せよ』といったかどうか確認できない。」[3]
(b)
「1941年8月〜12日:チャーチル・ローズベルト会談(14日、大西洋憲章発表)。8月15〜16日:ヒムラーのミンスク現地視察、ソ連地域におけるユダヤ人殺害の過激化。老若男女を含めユダヤ人無差別殺戮へ。ガス自動車の開発等、ユダヤ人殺害の種々の方法の検討開始。9月1日:ドイツ・ユダヤ人にユダヤ人記章『黄色の星』着帯命令(9月19日から実施)」[4]
(c)「ところが、射殺部隊の隊員はしばしば精神・神経の崩壊状態に陥った。ヒムラーも射殺現場の阿鼻叫喚と血しぶきを自分の目で見て「動揺」(バッハ=ゼレウスキー証言)した。精神病院に入院中のアインザッツグルッペ隊員を見舞って、女性と子供を含む無差別射殺がどんなに負担になるかも確認した。この経験からヒムラーは『射殺はもっとも人間的なやり方ではない』との結論に達し、ネーベにこの隊員たちの苦しみをできるだけ早く終わらせるような方法を探すように命じた。隊員にとって『より人間的な』処刑方法が求められたのである。」[5]
次に、参考資料として、○○氏の記述のもとになっているバッハ=ゼレウスキー(ツェレフスキ)の証言に近い資料をあげておきます。ヒルバーグの『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』にも掲載されており、その典拠資料は、バッハ=ゼレウスキー(ツェレフスキ)SS上級集団長の証言なるものにもとづいた1946年8月23日のドイツ語の合衆国ユダヤ新聞Aufbauの記事となっています。
(d)「一度、1941年8月半ばに、ヒムラーは自らミンスクを訪れたことがある。彼は、行動部隊Bの司令官ネーベに、100人の人間の集団を射殺するように要請した。このような『一掃』が現実にどんなものか見てみたいからであった。ネーベは行動した。犠牲者は二人を除けばすべて男であった。ヒムラーは一団のなかに、青い目と金髪の20歳ぐらいの青年を見つけた。発砲する直前に、ヒムラーは、死を運命づけられたこの男に近づき、質問をした。
『おまえはユダヤ人か』
『はい』
『おまえの親は二人ともユダヤ人か』
『はい』
『ユダヤ人でない先祖はいないのか』
『いません』
『それでは、私はおまえを助けられない』
射撃が始まると、ヒムラーはしだいに落ち着きがなくなっていった。一斉射撃のたびごとに、彼は地面を見た。二人の女が死にきれないでいると、ヒムラーは巡査部長に、彼女たちを苦しめるなとわめいた。
射殺が終わると、ヒムラーともう一人見ていた同僚が話をした。もう一人の目撃者とはフォン・デム・バッハ=ツェレフスキSS大将で、のちに病院に運ばれたあの人物である。フォン・デム・バッハはヒムラーに向かって言った。
『全国指導者殿、たった100人ですよ』
『どういう意味だ』
『部隊の隊員の目をご覧なさい。どんなに彼らが動揺していることか。この隊員たちは一生だめになってしまったんですよ。どんな部下を、私たちはここで訓練しているんでしょう。神経症か野蛮人かのどちらかですよ!』
ヒムラーは目に見えて動揺し、そこに集まっている者全員に話をした。彼は以下のように言った。行動部隊は、不愉快極まる任務を遂行するために召集された。もしドイツ人が喜んでそんなことをしているとするなら、私には気に入らない。しかし、諸君の良心はまったく害されていない。というのは諸君はあらゆる命令を無条件に実行すべき兵士であるからだ。自分だけが神とヒトラーの前で起こっていることすべてに対して責任をとる。…
この演説ののち、ヒムラー、ネーベ、バッハ=ツェレフスキ、そしてヒムラーの幕僚長ヴォルフは、精神病院を視察した。ヒムラーはネーベに、できる限り早くこの人々の苦しみを終えさせるようにと命令した。同時に、ヒムラーはネーベに、射殺よりももっと人道的方法を『心の中でじっくり考える』ように依頼した。ネーベは、精神病患者にダイナマイトを使う許可を求めた。バッハ=ツェレフスキとヴォルフは、この病人たちはギニアの豚ではないのだと抗議した。しかし、ヒムラーはこれを試してみるように決定した。ずっとあとになってネーベがバッハ=ツェレフスキに打ち明けたところによると、患者に試みられたダイナマイトはひどい結果をもたらしたとのことである。」[6]
論点
@
まず非常に不可解なのは、○○氏の記述(a)では、「口頭命令であり、文書証拠が残っているわけではない。したがって、文字通り『無差別に処刑せよ』といったかどうか確認できない」と、推論・憶測の域を出ていないヒムラーのユダヤ人の無差別処刑命令が、巻末関連年表の記述(b)では、チャーチル・ルーズベルトの洋上会談、ユダヤ人記章『黄色の星』着帯命令といった文書資料的にも確認されている「歴史的事実」と同じ位置を与えられていることです。
A
普通の歴史研究者であれば、「口頭命令であり、文書証拠が残っているわけではない」ことを年表に記載する勇気を持ち合わせていないと思いますし、このようなことを「歴史的事実」とはみなさないと思います。
B
「口頭命令であり、文書証拠が残っているわけではない」ことを、たんに状況証拠――それも疑わしいのですが――だけから、「歴史的事実」として扱えば、望みどおりのことを「歴史的事実」とみなすことができてしまうからです。
C
だから、歴史家たちは、「歴史的事実」を確定するにあたって、いつも文書資料的証拠を求めているのです。
D
こうしたごく普通の歴史学上の常識が、通用していないのが、唯一ホロコースト正史の分野です。
E
ヒトラーの絶滅命令も口頭ですし、ヒムラーのユダヤ人処刑命令も口頭ですし、○○氏も本文や巻末年表に記載しているヒムラーの「絶滅中止」命令も口頭です。一切の文書資料的証拠はありません。
F
にもかかわらず、○○氏も含めた正史派の研究者が、何の疑問も抱かずに、こうしたことを「歴史的事実」とみなしているのは、非常に奇異な感じを抱かざるをえないのです。
G
細かいことですが、記述(a)では「8月14日、15日」となっているのが、記述(b)では「8月15〜16日」となっています。たんなる誤植なのでしょうが、このような重大な「事件」の期日さえも不明瞭なのかという印象を与えてしまいます。
H
また、○○氏の記述(c)のもとになっているバッハ=ゼレウスキー(ツェレフスキ)証言の素性も不可解です。
I
ヒルバーグに引用されている文章(d)と、○○氏の記述(c)を比較すると、ヒムラーの「動揺」とか、「もっと人道的」、「より人間的」処刑方法というように、細かな表現も一致していますので、○○氏が参照された「バッハ=ゼレウスキー証言」のオリジナル文書と、ヒルバーグが、この証言にもとづいて書かれたとされる新聞記事から引用した(d)は同一のものなのかもしれません。
J
ただし、(d)の中には、証言者のバッハ=ゼレウスキーが第三者として登場しており、これがバッハ=ゼレウスキー自身の「証言」「自白」であったとは考えられませんので、あくまでも、本人の「自白」を聞いたという新聞記事なのでしょう。だとすると、伝聞資料であり、証拠としての価値はゼロです。
K
残念ながら、当研究会は、○○氏の記述(c)の脚注に典拠資料としてあげられているベーア論文「ユダヤ人殺戮におけるガス車の発展」(Matias
Beer, Die Entwicklung der
Gaswagen beim Mord an den Juden)を所持しておりませんので、オリジナルのバッハ=ゼレウスキー(ツェレフスキ)証言の中身を検証することができません。いずれ、入手しましたら、検証することにします。
L
ちなみに、スイスの修正主義者グラーフは、証言の信憑性、ひいてはこの「自白」のオリジナル文書の実在性自体に疑問を呈しておりますし、やはり修正主義者のヴェッカートは、ガス車問題との関連ですが、ベーア論文を手厳しく批判しております。
M
また、ヒムラーから「射殺よりももっと人道的」処刑方法を考えるように依頼されたネーベが、ダイナマイトでの殺戮を提案し、実際に実行したなどという話は、数多く存在するホロコースト・ホラー物語にすぎないか、バッハ=ゼレウスキー(ツェレフスキ)がすべての責任をネーベになすりつけるために作り出した話のように思われます。
N
いずれにしても、○○氏は、このヒムラーの視察が、「抹殺政策・絶滅政策」の実行手段が大量射殺から「ガス車」、「ガス室」へと転化していく重要な契機となったと考えているようですが、その「重要な契機」は、文書資料的証拠にはまったくもとづいておらず、信憑性に疑問の余地のある「目撃証言」や「自白」にもとづいているにすぎません。
結論
@
○○氏が、東部占領地域における特別行動部隊などの行動=「虐殺行為」について、あたかも、「歴史的事実」であるかのように記載している「出来事」は、文書資料的根拠にもとづいておらず、その信憑性に疑問の余地のある「目撃証言」や「自白」にもとづいているにすぎません(ここでは一つの事例を取り上げたにすぎませんので、あくまでもその限りにおいてということですが)。
A
このようなやり方は、「ヨーロッパ枢軸国の主要戦争犯罪人」の「有罪」を立証するものであれば、たとえ、それが厳密な証拠手続きにそぐわないものであっても、すべて「許容する」という「方法」をホロコーストの歴史叙述に適用したにすぎません。
B
○○氏の研究書の中のその他の事例については、また取りあげたいと思います。
補足
たんなる「目撃証言」、「自白」を、その中身の信憑性を検証せずに、そのまま歴史学上の証拠として多用してしまうという傾向は、ヒルバーグの著作『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』に典型的です。ヒルバーグが文書資料的証拠にもとづいて記述することができたのは、ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅ではなく、移送についてだけでした。ですから、○○氏の研究書を検証するにあたっては、ヒルバーグの著作を徹底的に批判したグラーフの『粘土足の巨人』[7]が非常に参考になると思います。
[1] Trial
of Josef Kramer and forty-four others (The
[3] 『ホロコーストの力学』、青木書店、160頁。
[4] 同上書、巻末関連年表、2頁。
[5] 同上書、160頁。
[6] ラウル・ヒルバーグ、望月その他訳『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』、柏書房、1998年。上巻、255−256頁。
[7] Jürgen Graf, The Giant with Feet of
Clay, Raul Hilberg and his Standard Work on the
“Holocaust”, Theses &
Dissertations Press, Capshaw, AL, 2001. online:
http://vho.org/GB/Books/Giant/、(その試訳)。