試訳:ポーランドのユダヤ人に何が起ったのか?

C. O. ノルドリンク

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2006年4月21日

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Carl O. Nordling, What happened to the Jews in Poland?The Revisionist, 2004, No.2を試訳したものである。(文中のマークは当研究会が付したものである。)

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online: http://vho.org/tr/2004/2/Nordling155-158.html

 

 民族社会主義体制は約600万人のユダヤ人を絶滅し、そのうち約300万人がポーランド系ユダヤ人であったというのが定説となっている。ホロコースト正史では、ドイツ系ユダヤ人とフランス系ユダヤ人の一部、ハンガリー系ユダヤ人の半分以下だけが絶滅され、これに対して、ポーランド系ユダヤ人はほぼ完璧に駆逐されたことになっている。もしこれが事実であれば、ポーランド系ユダヤ人の運命こそがホロコーストの核心となる。たとえ、他のヨーロッパ諸国のユダヤ人は組織的な絶滅対象とならず、迫害を受けて他の場所に移送され、その地で多くが死亡したということが明らかとなったとしても、ポーランド系ユダヤ人の運命こそがホロコーストの核心であることに変わりないことになる。それゆえ、ポーランドのユダヤ人に何が起ったのかは、ホロコーストの規模を評価する上でもっとも重要なのである。この問題を徹底して解明することは重要である。手始めに「正史」を眺めておこう。

 ヒルバーグは1961年版の『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の中で、ホロコーストを生き延びたのはポーランド系ユダヤ人のうち50000名、すなわち1.5%だけであると述べている[1]。24年後、同書の1985年版では、生存者の数は35万人ほど、すなわち10%ほどであると述べている[2]。24年間で7倍も変ってしまっているので、この数字はどれほど信用できるのであろうか?ヒルバーグの頭の中では、今でもユダヤ人生存者の数は変わり続けているのであろうか?

 幸いなことに、ヒルバーグの著作以外に、この分野では、『ユダヤ百科事典』[3]、『ホロコースト百科事典』[4]、『民族殺戮の規模』[5]といった3つの標準的研究書がある。これらの研究書は、ポーランドのユダヤ人の戦時中の運命についてどのように記しているのか?

 『ユダヤ百科事典』によると、1939年9月の時点でポーランドには3351000人のユダヤ人がいた[6]。このうち、1945年6月の時点で、55509人が生存者として登録されたという。この数は、ポーランドにいて生き残ったユダヤ人、戦時中はソ連に避難していて、戻ってきたユダヤ人の数であったという。さらに13000名のポーランド系ユダヤ人がポーランド軍のメンバーとして生存し、1000名が(何らかの理由で55509名の中には登録されず)「アーリア人」として生存したとされている。『ユダヤ百科事典』は、ソ連にいる生存者25万名とドイツの収容所にいた50000名をこれに加え、合計369000名が生存していた、すなわち、1939年時点の数の11%が生存していたと述べている。

 『ホロコースト百科事典』は、合計38万名が生存していた、そのうち、ソ連から戻ってきた人々165000名、ポーランド国内で生き残った人々75500名と述べている[7]。合計で240500名となるこれら二つのグループは、1946年6月にポーランドで登録されたという。残りの139500名は、国外で生き残り、戦後もそこにとどまったユダヤ人であろう。ポーランドに戻ってきた人々でさえも、できるだけすみやかに、自分たちの靴からポーランドのゴミを取りさることに熱心であった。『ホロコースト百科事典』によると、翌年だけで、登録者のうち160500名がポーランドを離れ、残ったのは80000名だけであった。ポーランドから「ドイツ人が一掃され」、民族社会主義者がいなくなった時点でも、ポーランド系ユダヤ人はポーランドを自分たちの生活地として選択しようとはしなかったのである

 『民族殺戮の規模』は、270万名のポーランド人がホロコーストの犠牲となったと述べている。隠れていたユダヤ人の数はさまざまな研究者によって異なり、30万名から10万名のあいだであったという。『民族殺戮の規模』は、生き残ることに成功した「不法者」と囚人を含む合計80000名が生存したと見積もるShmuel Krakowskiなる人物を引用している。『民族殺戮の規模』は、ソ連から戻ってきたユダヤ人の数を13万名に減らしているが、その一方で、98071名のユダヤ人が(赤軍の中の)ポーランド愛国者部隊に属していたと述べている。その他さまざまな数字があげられているが、ポーランドについての章を執筆したFrank Golczewskiは、「1945年以降のポーランド国家の国境内部で生活するユダヤ人生存者の現実的な数を」30万名と裁定している。

 まとめておこう。標準的な研究書は、ポーランドユダヤ人にホロコーストがどのように襲いかかったのかについて、明確な情報をまったく提供していない。大半が憶測にすぎず、『民族殺戮の規模』の495頁のリストに掲載されているような収容所での犠牲者数――(2019000名のポーランド系ユダヤ人がクルムホフ、ソビボル、ベウゼッツ、トレブリンカ、アウシュヴィッツ、マイダネク収容所で絶滅された)(そのうち、トレブリンカだけで974000名が絶滅されたという)――に依拠しているにすぎない。また、70000名ほどがゲットー、労働収容所で死亡するか、特別行動部隊や通常の犯罪者の手で殺されたという。

 270万人の犠牲者のうち、200万人ほどがドイツ人よって絶滅されたことになっているが、『民族殺戮の規模』は、2000名の人々が、ましてや200万人が収容所の中で死亡したことについての証拠をまったく挙げていない。大量殺戮が行われた証拠は、これらの収容所が存在していた場所にはまったく残っていない。大量埋葬地も、人骨や人灰の山もまったく発見されていないのである。

 1943年に刊行されたE. M. クーリッシャーの『ヨーロッパの人口配置』[8]にある詳しい情報からも同じような印象を得る。この本には、ポーランド系ユダヤ人の移送に関する詳しいデータがある。クーリッシャーはThe Black Book of Poland (1942), S. Segal, The New Order in Poland (1942), Poland Fights (1942), Contemporary Jewish Record (April 1943), Polish Review (1943)といった資料を引用している。しかし、『民族殺戮の規模』によると、1942年末までにアウシュヴィッツ、ベウゼッツ、ヘウムノ、トレブリンカですでに絶滅されていたはずである[9]数十万のユダヤ人の数のことを示唆するものは何もない。

 それゆえ、絶滅されたポーランド系ユダヤ人2019000人という数字はひとまず無視して、絶滅された犠牲者の数やガス室については何も知らないという前提から出発しなくてはならない。絶滅されたユダヤ人の数について、まったく先入観を抱くことなく、事件の論理的な進行について考察してみよう。

 ホロコースト正史は、ポーランド系ユダヤ人が屠殺場に連れて行かれる羊の群れのように振る舞ったという憶測にもとづいているようである。しかし、ここでは、ポーランド系ユダヤ人が、普通の人々と同じように明晰な観察者であり、迫り来る危険から自分の身を守る手段を講じたと考えておこう。

 戦前の最後の人口調査、1931年の人口調査からはじめよう。ポーランドには310万人のユダヤ人が登録されていた。当然のことながら、1939年9月までに、この数字は劇的に少なくなっていったにちがいない。この時代のポーランドの状況を考えると、ユダヤ人たちが移住していったのは当然のことである。1933年までに、大量のポーランド系ユダヤ人がアメリカ、ドイツ、フランスに移住していた。アメリカに親戚を持つポーランド系ユダヤ人の移住は簡単であった。ヒトラーがドイツの権力を握り(1933年)、ポーランド政府が10年以内に150万人の東ヨーロッパ・ユダヤ人をパレスチナに移住させるというJabotinsky計画を支持すると(1937年)、移住はさらに進んでいった(『ユダヤや百科事典』)。

 さらに、1938年10月、ポーランド政府は、公式の延長許可がない場合には、ポーランドのパスポート所持者のポーランド再入国を無効とする布告を発した。その布告の対象は、ドイツで暮らすポーランド系ユダヤ人であった。ドイツ政府はこれに対抗して、ドイツで暮らすポーランド系ユダヤ人を特別列車でドイツ・ポーランド国境にまで移送し、失効する前にパスポートを更新させる措置をとった。しかし、ポーランド国境警備隊は、たとえ有効であっても、これらのポーランド市民の再入国を拒んだ。ドイツが最終的にあきらめて、無国籍のユダヤ人を再承認するまで、ドイツ・ポーランド国境で数日間安住の地を見つけることのできなかった数千のユダヤ人と一緒にいたのが、この当時パリで暮らしていたHerschel Grynspanの両親Grynspan夫妻であった。彼は、自分の両親のおかれている境遇を知って、ドイツ大使秘書Ernst von Rathを暗殺しようとした。Ernst von Rathは知ってのとおり、この傷がもとで119日に死亡し、この事件を契機に、ユダヤ人に対するポグロム「水晶の夜」が起った。

 この当時のポーランドでは、公私を問わず反ユダヤ主義が荒れ狂っており、それはドイツでの反ユダヤ主義に匹敵するかそれ以上であった。このことを考慮すると、1930年代末から開戦までの時期に、ポーランドからのユダヤ人の脱出・移住が大規模なものであったことは驚くには値しない。前述したように、反ユダヤ主義の危険性がなくなった戦後であっても、ポーランド系ユダヤ人はポーランドを離れていったのである。だから、1933年から1939年のあいだに、ポーランド系ユダヤ人の人口が35万人ほど減ったとしても(10万人ほどが自然減)、それはありうることである。Zukowskiは、約35万人のユダヤ人が1918-1938年のあいだに海外に移住したことを明らかにしているポーランドの研究書をあげている[10]。多くの人々は、ドイツのポーランド侵攻を恐れていたので、それに先立つ数ヶ月間にポーランドを離れたのであろう。例えば、Zygmunt Nissenbaumはこう述べている[11]

 

「私たちは全員、開戦をかなり前から恐れていたので、開戦自体には驚かなかった。」

 

 そのあと、ポーランドは分割された。誰もがそれまでの居住地に残ったとすれば、1830000名ほどのユダヤ人が、DabrowskaWaszakGrynberg[12]によると、ドイツ側に残ったことであろう。しかし、Richard Korherr博士はその有名な報告書[13]の中で、ドイツ支配地域にいるポーランド系ユダヤ人の数は1939年から1942年のあいだの移住と出生率に対する死亡率の高さのために763000人減少したと述べている。最近では、対ポーランド戦争とそれに続く数ヶ月のあいだに、85万人ほどのユダヤ人がドイツ支配地区となる予定の地域から脱出したと算定されている[14]。一見すると、この数字は驚くほど高いかもしれない。しかし、他の同じような事件と比べてみよう。例えば、少なくとも150万人のベルギー人が、1940年の短期間の西方戦役のあいだにフランスに逃げている。その少しあと、オランダ系ユダヤ人の90%が、危険が迫っていることを知ると、国外に逃亡した。それに比べると、赤軍が2週間後に占領することになる東部ポーランドに逃亡するのを妨げる海は存在しなかったのである。ポーランド人自身も大量に逃亡している。

 ポーランド系ユダヤ人の方が、ベルギー人やオランダ系ユダヤ人よりも、逃亡の準備を整えていたにちがいない。さらに、ドイツ側は、1年後にフランスでの自分たちの支配地区からユダヤ人が出て行くことを望んでいたように、ポーランドでもそう望んでいたはずである[15]。1年後の1940年夏には、ユダヤ人はポーランドを離れることを禁止されるが[16]、それでも、1942年になっても、ポーランドから逃亡していたとの報告がある。1942年7月2日ウッチ発のSS隊員の報告は、「地方のユダヤ人が近くの国境を超えようとして居住区を絶えず離れようとしている」と述べている[17]。ヘルベルト・シュトラウス教授の事例があるが、彼は、ワルシャワ・ゲットーに移送された1年後にドイツ支配地域を離れている[18]

 もしも、85万のユダヤ人がソ連側に逃亡したというサニング説を支持すると、1941年春の時点で、180万人ほどのポーランド系ユダヤ人がソ連の保護拘束下にいたことになる。この数字はElizibieta Hornowaの見積もり(1694000人)、Eugene Kulisherの見積もり(2000000人)と一致している。また、50万人から120万人という数字をあげている研究者もいる[19]

 ソ連以外の国に逃亡することができた人々は幸運であった。一方、ユダヤ人の大半は不幸な事態に見舞われた。緒戦から、多くのユダヤ人が、地元住民とともに多数死亡した。『ユダヤ百科事典』によると、32000名のユダヤ人が、ポーランド軍兵士として戦死し、20000名がワルシャワ爆撃の中で死んでいった。この数字は高すぎる。かなり誇張されているにちがいない。ポーランド側の損失の合計を考えると、10000名ほどのユダヤ人兵士、最大でも2000名のユダヤ系市民が1939年9月の戦役で犠牲者となったと考えられる。(人口380万のフィンランドは、105日間続いた冬戦争での空襲によって、600名の民間人犠牲者を出している。)

 1939年の損失と脱出のあと、仮説上の数字ではあるが、838000名のユダヤ人がポーランドのドイツ支配地域に残っていたにちがいない。彼らに何が起ったのか?

 無作為抽出検査をしてみよう。『ユダヤ百科事典』には、1940年1月の時点で、ドイツ支配地域で暮らしていた1860年−1909年生まれの67人の著名なポーランド系ユダヤ人が掲載されている。そのうち、13名(19%)が1940年と1941年にポーランドからの脱出に成功している。54名がポーランドに残り、うち33%が強制収容所で、4%が捕虜収容所で死亡し、19%が(収容所以外で)殺され、44%がドイツの逮捕・迫害を逃れることができた。ドイツによるポーランドでのユダヤ人迫害は、まったく効果的でなかったといえよう。これらの54名はユダヤ人「知識人」であった。民族社会主義イデオロギーでは、ユダヤ人知識人は、もっとも有害な民族集団とみなされていた。民族社会主義者たちは、ユダヤ人知識人除去政策を追求していたとすれば、すべてのユダヤ人大学教授、作家、政治指導者などを占領下のポーランドですみやかに片付けなくてはならないと考えたことであろう。そして、普通のユダヤ人、すなわち、服職人、靴職人、音楽家、店主に対しては寛容な姿勢がとられたと推定できる。(戦時中のドイツではとくに服職人、靴職人は必要とされていた。) 一方、国外移住は知識人よりも、普通のユダヤ人にとっての方が難しかった。

 ポーランドの「VIP」ユダヤ人の運命を念頭におくと、ポーランド系ユダヤ人のうち約40万人がドイツの強制収容所で死亡し、ほぼ同数(仮説上は438000人)がゲットーにとどまるか、身を隠していた。後者のユダヤ人グループはガス処刑されなかったが、多くの困難を経験したにちがいない。彼らは、辛うじて戦争を生き延びたか、老齢、疫病、飢え、偶然の殺人、敵の爆撃で死亡したか、もしくは、ワルシャワの場合には、反乱の最中に戦死した。

 よく知られていることであるが、ドイツ側は、手始めに、ポーランド系ユダヤ人を町のゲットーに集めることを命じた。最大のものはワルシャワ・ゲットーであった。ワルシャワで暮らしていた40万のユダヤ人のうちの大半が戦前か緒戦に逃亡したと思われるので、ゲットーで暮らしていたのは20万人ほど(多くても30万人)であろう。ポーランド系ユダヤ人の多くが(『ユダヤ百科事典』では61000人)が何年間も捕虜収容所で難儀していた。それゆえ、民間人収容所におけるユダヤ人囚人の数は(上記の見積もりの40万人のうち)34万人ほどであったであろう。

 戦時中の囚人収容所の死亡率は多くの場合かなり高かった。1918年にフィンランドでの内戦が終わったのち、投獄されていた反乱分子の死亡率は一月だけでも11%であった。すべての囚人のうちの16%が、平均的な収容期間が4ヶ月にすぎなかったにもかかわらす、釈放前に死亡している[20]。北朝鮮のアメリカ軍兵士捕虜収容所の死亡率は39%であった[21]。1941−44年のフィン・ソ戦争のときのフィンランド捕虜収容所での赤軍兵士の死亡率は29%であった。ソ連捕虜収容所にいたフィンランド軍兵士のうち、戦後帰国してきたのは30%にすぎなかった。残りの70%の大半は収容所で死んだのであろう[22]。いずれの場合にも、意図的な殺戮が行なわれたわけではない。こうした数字、および終戦間際のチフスの流行や食料の欠乏を考慮すると、ポーランド系ユダヤ人囚人の死亡率は30−70%であったと推定できるが、ここでは、ひとまず50%もしくは20万人という数字を設定しておこう。そうすると、これまでの見積もりを次のようにまとめることができる。

 

戦争による死亡:

12,000

±4,000

捕虜収容所での死亡:

30,000

±10,000

反乱での戦死:

10,000

±5,000

戦争犠牲者の合計:

52,000

±19,000

強制収容所での死亡

 

 

(老衰を除外):

170,000

±70,000

犯罪としての殺人

 

 

(例えば、ポーランドとドイツの反ユダヤ主義による):

18,000

±7,000

迫害の犠牲者の合計:

188,000

±77,000

 

 強制収容所での死者17万人という数字は、スウェーデンに残っているユダヤ人犠牲者のサンプルと比較できるかもしれない。ストックホルムのシナゴーグの外には、ドイツ占領下の母国で死亡し、その家族や友人がスウェーデンに暮らしていた5000名以上のユダヤ人の名を刻んだ多数の石碑が建っている。その犠牲者のほぼ80%がポーランドからのユダヤ人である。大半の死亡地が記されている(全体の76%)。そのうち56%が、6つのいわゆる「絶滅収容所」、とくにアウシュヴィッツ(25.1%)に属している。プレサックは、ポーランド系ユダヤ人を載せた100の列車がアウシュヴィッツに送られたとみなしている[23]。それぞれ1000名の移送者が列車に乗り込んでおり、プレサックによると、最大でも1500名であった。だから、125000人ほどのポーランド系ユダヤ人がアウシュヴィッツに移送され、プレサックによると、そのうち49000人が収容所に登録された。プレサックは、非登録囚人は殺されたと推定しているが、その証拠をまったく提示していない。プレサックの分析によると、100000人ほどのポーランド系ユダヤ人がアウシュヴィッツで死亡したことになっている。

 ストックホルムの記念碑に掲載されている死亡したユダヤ人がポーランド系ユダヤ人のランダム・サンプルであるとすると、約225000人のポーランド系ユダヤ人がポーランドのいわゆる6つの「死の収容所」で死んだことになる(56.5/25.1×100000=225000)。

 迫害によって死んだわけではない人々の一定部分は、通常の自然死であったにちがいない。6年間の戦争のあいだでは、610000人のうち10%ほど、すなわち60000人ほどが自然死であったろう。同時に、出生率もひどく低下したことであろう。戦時中のポーランドで生まれたユダヤ人の子供は20000人であったと推定しておこう。ゲットーでの人口過密、食料不足、戦争一般にまつわるさまざまな難儀を考慮すると、さらに10万人ほどが、こうした異常事態にまつわる病気のために死んだことであろう。そうすると、組織的な絶滅による死を推定しなくても、合計40万人(±15万人)のユダヤ人が旧ポーランドのドイツ支配地域で死亡したと考えられる。

 したがって、仮説上の数字ではあるが、(新生児も含めて)47万人が生存したことになる。その後、そのうちの多くが、戦争が終わって越境が可能となるとすぐに、ポーランドを離れたようである。さらに、生存者の多くが、名前や風貌をユダヤ人から地元の住民に変えることで生き残ってきたと考えられる。生存者のうち15%(すなわち70000人)が自分たちのことをユダヤ人とは称さなくなったとしよう。そして、ユダヤ人と称していた人々の80%(32万人)が1946年6月以前にポーランドを離れることに成功していたとしよう。そして、1946年6月にポーランド政府当局に自分たちはユダヤ人であると報告したのは80000人のポーランド系ユダヤ人であった。そしてその2倍の数、すなわち160000人が、東部地区から戻ってきた難民であると報告されていた。

 ドイツの政策がどのようなものであれ、実際には、数十万の囚人が1945年5月までに収容所を生き残った。例えば、The Oxford Companion to the Second World Warは、300000人ほどのユダヤ人(ポーランド系その他)が、「収容所と[収容所からの]死の行進を生き残った」と述べている[24]。それゆえ、150000人、ひいては200000人のポーランド系ユダヤ人が戦時中のドイツの収容所を生き残った可能性は否定されていないのである。

 ドイツ支配地域の外にとどまったかそこに脱出することに成功した1840000人のユダヤ人が残っている。これらのユダヤ人も、とくにソ連の支配下に入った多数のユダヤ人も高い死亡率に苦しんだことであろう。3分の1ひいては半分が終戦の前に死亡したかもしれない。ソ連国内の多くの制限や情報不足を考えると、生存者のうち解放後にポーランドに帰国することができたのはほんの少数であったろう。

 もちろん、ソ連の支配下に入っていたユダヤ人の一部は、ドイツ軍によって駆逐された。彼らが共産党員、人民委員、役人、非正規兵であれば、命令にしたがって、特別行動部隊によって射殺された。ソ連の役人は、ユダヤ人であれば射殺された。その他のカテゴリーは、人種にかかわらず、ブラックリストに掲載された。特別行動部隊のライフルの前で最後を向えた人々の数を見積もることは不可能である。東部戦線の後方地帯で殺された人々のうち、ポーランド系ユダヤ人はごく少数であったろう。

 それゆえ、ホロコースト正史の38万人とは異なり、140万人ほどの生存者がいたにちがいない。すなわち、報告・記録されている38万人の生存者と並んで、約100万人の報告・記録されていない生存者がいたのである。

 ドイツの迫害によるもっとも蓋然性の高い犠牲者数の合計は、20万人ほどであろう。たしかにその一部はドイツ人によって殺されているが、絶滅計画の一部として殺されたことを示している証拠はまったくない。100万人ほどのポーランド系ユダヤ人がドイツの強制収容所や戦場以外の場所で死んでいる。これらの死者は、戦争の悲しむべき帰結、東部戦線で戦った双方の反ユダヤ政策の悲しむべき帰結であるが、用語を適切に定義すれば、この事態をジェノサイドと呼ぶことはできない。

 ポーランド系ユダヤ人は数の面でも、社会的地位や個人的価値の面でも多大な損失を被ったが、人口学的な分析によると、数百万におよぶ意図的な絶滅政策が実行されたわけではない。ポーランド系ユダヤ人は民族的統一体としては姿を消したが、このことは、「ジェノサイド」と言う用語から人々が想像するような事態が起ったことを意味しているわけではない。(Ethnocladというのがこの犯罪を指すのに適切な用語であろう。(ethnocはギリシア語で民族を、cladisはラテン語で破滅、消滅を意味する)。

 人的な損失という点では、ポーランド系ユダヤ人問題は、1909年から1923年に生まれたロシア人男性集団やレニングラート住民に生じた問題と比較できる。この二つのグループは、全体の約3分の1を失っているからである。民族的絶滅という点では、ポーランド系ユダヤ人の運命は、1945年のドイツの新しい東部国境の外で生活していたドイツ人という民族的統一体の運命と比較できる。この民族的統一体も、用語の的確な意味合いでEthnocladという運命を経験しているからである。罪の重荷はこれらすべての破局に責任のある人々にかかっているが、少なくともポーランド系ユダヤ人の場合には、意図的かつ大規模な絶滅計画が実行されたという証拠はない。

 

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[1] Raul Hilberg, The Destruction of the European Jews, Quadrangle Books, Chicago 1961 pp. 670, 767.

[2] Raul Hilberg, The Destruction of the European Jews, New York, Holmes and Meier, 1985, pp. 1212, 1220.

[3] Encyclopaedia Judaica, Jerusalem 1971.

[4] Y. Gutman (ed.), Encyclopedia of the Holocaust, Macmillan, New York 1990.

[5] W. Benz (ed.), Dimension des Völkermords, Oldenbourg, Munich 1991.

[6] Encyclopaedia Judaica, Jerusalem 1971, vol. 13, p. 771.

[7] Y. Gutman (ed.), op. cit. (note 4), vol. 3, p. 1174.

[8] Eugene M. Kulischer, The Displacement of Population in Europe. Published by the International Labour Office, Montreal 1943.

[9] W. Benz (ed.), op. cit. (note 5), pp. 462-469.

[10] Arkadiusz Zukowski, "Emigration of Polish Jews to South Africa during the Second Polish Republic 1918-1939," Scandinavian Jewish Studies, vol. 17, no. 1-2, p. 61.

[11] Zygmunt Nissenbaum »I was in the Umschlagplatz," Dialectics and Humanism, 1 (1989), p. 129.

[12] Quotet in W. Benz (ed.), op. cit. (note 5), p. 419.

[13] Poliakov & Wulf, Das Dritte Reich und die Juden, Berlin 1955, p. 243-248.

[14] Walter Sanning, Die Auflösung des osteuropäischen Judentums, Grabert, Tübingen 1983, p. 44.

[15] Rudolf Aschenauer (ed.), Ich, Adolf Eichmann, Druffel, Leoni 1980 p. 315.

[16] Y. Gutman (ed.), op. cit. (note 4), p. 1156.

[17] Joseph Wulf, Aus dem Lexikon der Mörder, Gütersloh 1963, p. 25.

[18] International Biographical Dictionary of Central European Emigrés 1933-1945, vol. II, p. 1138.

[19] W. Benz (ed.), op. cit. (note 5), p. 442.

[20] J. Paavolainen, Röd och vit terror. Stockholm 1986, pp. 182f.

[21] Ibid., p. 183.

[22] Uppslagsverket Finland, vol. 2, Helsingfors 1983, p. 132.

[23] J.-C. Pressac, Die Krematorien von Auschwitz, Piper, Munich 1994, pp. 196f.

[24] Oxford 1995, p. 371.