試訳:敗戦国ドイツの惨状

――Nigel Jones、書評『ライヒが崩壊してから』(G. MacDonogh)――

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2007年5月07日

本試訳は当研究会が、研究目的で、Nigel JonesによるAfter the Reich: From the Liberation of Vienna to the Berlin Airlift (Giles MacDonogh)の書評を「敗戦国ドイツの惨状」と題して試訳したものである。(文中のマークは当研究会が付したものである。)

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online: http://cgi.stanford.edu/group/wais/cgi-bin/index.php?p=8097

http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2007/04/15/bomac14.xml

[歴史的修正主義研究会による解題]

敗戦国ドイツおよびドイツ国民に対する西側連合国の暴虐の実態に焦点をあてた研究書『ライヒが崩壊してから』(Giles MacDonogh)の紹介と書評。

 

 

 

 Giles MacDonogh『ライヒが崩壊してから(After the Reich)』は、イギリスでは4月にJohn Murray社から出版予定であり、おそらく、合衆国でも同じ時期に出版されることであろう。

 本書は、連合軍とソ連軍の占領下に置かれていた、第二次世界大戦が終わった時期から1949年のベルリン空輸までの期間のドイツとオーストリアに関する研究である。この本を読むと非常に陰鬱な気分となる。MacDonoghは、著名なドイツ史家であり、フリードリヒ大王、ヴィルヘルム二世、反ナチレジスタンス英雄アダム・トロットの伝記、ベルリンの歴史、ドイツの食べ物とワインの研究を刊行している。疑いもなくドイツびいきであるが、そのことで本書の客観性が歪められているわけではない。著者は、広範な文書資料にもとづいて、この占領が比較的に「クリーンで」平和的に行われていたという既成のイメージとは程遠く、むしろ、小規模なホロコーストに匹敵するものであった、ドイツは文字通りかつ象徴的にも、組織的にレイプされた、と主張している。

 彼の主張はこうである。

 

       200万人ほどのドイツ人民間人が戦後に死亡した――殺された、餓死した、絶望して自殺した(健康な男性の多くは軍隊にいたので、これらは民間人――おもに、老人、病人、女子供――であった)。

       ドイツ東部のソ連占領地区のドイツ人女性の大半――8歳から80歳まで――は、ソ連の国策として、ソ連軍兵士にレイプされた。

       チェコスロヴァキアのズデーテン地方のドイツ語を話す人々の小コミューニティ(100万人ほど)のうち、25万人がチェコ人によって虐殺された。チェコ人は時としてぞっとするほど残酷であった。チェコ人に対するナチスの支配は、ロシア人、ポーランド人、フランス人に対する支配よりも過酷ではなく、SS長官ハイドリヒ暗殺事件は別として、チェコ人はナチスの支配にかなり迎合的であったがために、チェコ人はとくに復讐心に燃えていた。

       4万人ほどのドイツ軍兵士が、米英軍がライン河畔に設置した収容所の中で餓死するか、風雨にさらされたまま死亡した。

       数多くのドイツ軍捕虜が、多くの国々、とくにフランス、合衆国、ソ連、イギリスにおいて、戦後何年にもわたって、奴隷労働として利用された。

       悪名高いナチの強制収容所――アウシュヴィッツ、ザクセンハウゼン、ダッハウ、ブッヘンヴァルト――は、その「解放」以後も強制収容所として機能し続けたが、今度は、囚人というよりもドイツ人であふれた。

       ニュルンベルクは国際法から見ても法律に反しており、勝者の「正義」にすぎなかった。

       1979年までソ連に抑留されていたドイツ軍捕虜もいる。

       ドイツ人捕虜に対する拷問は広く行なわれており、ナチスを逃れて連合軍に勤務したユダヤ人たちがその多くを担当していた

 

MacDonoghは、自分の本――おもにドイツ側資料から集めた情報にもとづいている――は、こうした衝撃的な事実を明らかにした英語によるはじめての資料集であると述べている。彼は、100万人のドイツ軍捕虜が連合軍の意図的な政策によって殺されたという、カナダ人ジャーナリストJames Braqueの『Other Losses(消えた百万人)』の主張を退け、民間人の損失に焦点を移しているが、「四巨頭」による連合国の政策が、新しい民主主義的なドイツの建設という願望ではなく、まったくの復讐心にもとづいたものである点には疑問を抱いていない。新しい民主主義的なドイツの建設しなくてはならなくなったのは、冷戦が進行していって、ソ連の膨張に対する防波堤が必要になってからのことにすぎなかったという。

 MacDonoghは、「自業自得だった」、すなわち、ナチの犯罪は恐るべきものであるので、民間人に対する大衆的復讐にはそれなりの理由がある、もしくは正当化しうると論じているが、本書の中で、まず異論があるとすれば、この主張に対してである。もちろん、この主張に対しては、他人の悪行を自分の悪行で正すことはできない、敗者をナチと同じような野蛮な方法で取り扱うことは、連合国の大義の気高さ、「正しさ」を損なってしまうと反論しうる。

 私は、オーストリアとドイツ両国で暮らしたことがあるので両国の歴史にかなり通暁しているつもりであるが、それでも、本書の内容には驚愕した。MacDonoghは文書資料にもとづいてドイツ人に対する虐殺行為をあとづけているが、よくも、これまで、ドイツにおいて、この虐殺行為に対する復讐を求めて、強力なネオナチ的「巻き返し運動」が起こらなかったものであるとの感を抱く

 私見では、今日のわれわれにとっての教訓は、どのような占領であっても、正義は寛容によって和らげられなくてはならない、アブグレイブの暴行事件のような事件は予想されたはずであったということである。結局、そのようなことは以前にも起きてきた。本書を、第二次世界大戦では、「正義」が「悪」に勝ったと、私と同じように愚かにも信じていた本誌(World Association of International Studies
(WAIS))の読者すべてにおすすめする。悲しむべきことに、実はそうではなかったのだから

 

対独戦勝利の日以降、何と300万人のドイツ人が死亡した

Giles MacDonoghは多彩な趣味を持つ享楽家であり、ワインと美食の歴史家でもあるが、本書の中では、ドイツの歴史というもう一つの強い関心を追求して、非常に刺激的な料理を提供している。本書を読むことは、破滅的なイラク占領をドイツとオーストリアに対する戦後処理になぞらえようとしている人々にとっては、とくに不快なものであろう。

MacDonoghは、1945年5月以降の月々がヒトラーのライヒの粉々になった骨格にもたらしたのは平和ではなく、戦争による破壊よりもひどい苦難であったと主張している。ナチスがヨーロッパに加えた残虐行為のあとでは、その犠牲者による復讐はある程度必然的であり、また正当化できるかもしれないが、MacDonoghが文書資料にもとづいて明らかにした恐るべき野蛮さは、必然性と正当化の限界をはるかに超えている。彼の勇敢な本の最初の200頁は、人間の苦難についての耐え難いほどの年代記である。

彼の見積もりでは、戦闘行為の公的な終結以降も、約300万人のドイツ人が不必要に死んでいった。100万人の兵士が、かつては自分たちの家であった穴に何とかたどり着く前に消え去った。その大半はソ連抑留中に死んだ(スターリングラードで降伏した90000人の兵士のうち、帰国できたのは5000人だった)。しかし、恥ずべきことに、数千名が米英軍の捕虜として死んだ。ライン沿岸の檻に押し込められ、夜露を過ごす場所もなく、ほとんど食べ物を与えられないまま、彼らはハエのように落ちていった。これよりも「運が良かった」人々は、いくつかの連合国で奴隷労働者としてこき使われた。信じられないことであるが、1979年になっても、ソ連に抑留されていたドイツ人がいた。

死亡した200万人のドイツの民間人は、おもに老人、女子供だった。病気、寒さ、飢え、自殺、そして、大量殺戮の犠牲者だった。

不幸にもソ連占領地区にいた少女・女性に対して繰り返し行なわれたレイプ事件についての話はよく知られているが、この話は別として、MacDonoghが(英語ではじめた)記録したもっとも衝撃的な残虐行為は、復讐心に燃えたズデーテン地方のチェコ人が100万のズデーテン・ドイツ人のうち25万人を殺戮したことである。かろうじてこの民族浄化を生き残った人々は、裸で震えながら、国境の向こう側に投げ捨てられ、二度と故郷に戻ることはできなかった。同じような光景がポーランド、シュレジエン、東プロイセンで繰り広げられ、昔からのドイツ人コミューニティが情け容赦なく追放された。

 西側連合国は、程度の低いホロコーストとなっているような事件が自分たちの足元で起っていたことを知っていながら、この長く抑えられていた復讐心が(おもに)罪のない人々に向かうのをなぜ抑えようとしなかったのであろうか? MacDonoghの答えは、もし、抑えていたとすれば、事態はもっと悪くなったにちがいないというものである。合衆国財務長官(ヘンリー・モーゲンソー)はドイツを巨大な農場に変える案を支持しており、空襲で破壊された町に残された住民を餓えさせる、不妊化処置をする、追放するというようなナチスまがいの計画が進行中だったからであるという。

ナチの死の収容所の発見は、連合国の憤激をかき立てた。ジョージ・パットン将軍は、ブッヘンヴァルトの恐怖の只中で側近に、『君は、まだ 彼らを憎むことができないというのか?』と尋ねたという。 しかし、まもなく、生き残っていた収容者のかわりに、ドイツ人捕虜が収容された。ダッハウ、ブッヘンヴァルト、ザクセンハウゼン、そしてアウシュヴィッツさえもが、終戦後も仕事を続けた。ただ、今度は、鉄条網の向こう側にいるのがドイツ人になっていた

元の敵に対する西側の態度のすみやかな転換をもたらしたのは、人道的な配慮ではなく、リアルポリティクスだった。ヨーロッパの中心部に広がっていく共産主義に対する恐怖とロシア人の野蛮な行為――自分たちの敵であると見なした人物を数百人もベルリンとウィーンの西側地区から拉致・殺害した――のおかげで、西側諸国は、自分たちは、一つの全体主義国家を打ち倒したが、にもかかわらず、もう一つの全体主義国家の脅威にさらされることになってしまったと遅ればせながら悟ることになったという。

ひどいドイツ人嫌いのパットンさえ、対ソ先制攻撃を主唱することで免職となった。西ドイツを建設して、1948年の空輸でベルリンをソ連による絞殺から救うことは、冷戦の最初の戦闘となった。たとえ、それがナチ犯罪を見のがして、ナチ犯罪者をドイツの再建という『経済的奇跡』の中に入れてしまうことを意味したとしても。

MacDonoghは痛烈に占領諸国を非難しているけれども、イギリス人には若干の名誉を与えている。芸術品を略奪した1人の空軍元帥、私的な拷問部屋を運営していた「ブリキの目」Stephensというあだ名のMI5尋問官は別として、イギリスの手は汚れていたかもしれないが、血まみれというわけではなかった。イギリス軍兵士達は、ソ連スタイルのレイプではなく、1箱のタバコやナイロンの靴下で女性を獲得するのを好んでいたという。

 MacDonoghは、つらい内容であるが、重要な本を上梓した。この不幸な物語は、それを口にすることが誰にとっても好都合ではなかったので、長く、語られることなく、隠されてきた。連合国にとっては、この話が自分たちをナチスの道徳的などん底の近くにまでおとしめてしまうために、ドイツ人にとっては、どのような基準であっても戦争犯罪に他ならない事件を明るみに出すことによって、自分たちがヒトラーを免罪しようとしていると非難されることを望んでいなかったために、この話は語られることはなかった。MacDonoghは、きわめて都合の悪い真実を語ったことになる。

 

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