試訳:トレブリンカ・ホロコースト

アルヌルフ・ノイマイアー

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2006年8月10日

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Arnulf Neumaier, The Treblinka Holocaust, Ernst Gaus, Dissecting the Holocaust. The Growing Critique of 'Truth' and 'memory', (Ed.), Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2000を試訳したものである
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online: http://vho.org/GB/Books/dth/fndtreb.html

[歴史的修正主義研究会による解題]

トレブリンカ収容所では、戦争直後の証言では350万名、今日のホロコースト正史では875000名が、おもにディーゼル・ガス室で処刑されたという。しかし、この90万名ほどの大量殺戮についての、物的・物理的証拠(ガス室の痕跡、死体の灰や骨や歯、大量埋葬地の痕跡)、文書資料的証拠(絶滅施設の設計図や絶滅命令)は何一つとして存在しておらず、唯一、大量ガス処刑、大量焼却が行なわれたとする数少ない「目撃証言」だけが存在しているだけである。ノイマイアーは、たがいに矛盾を抱えた、物理的に不可能な妄想で構成されている「目撃証言」を法医学的、技術的見地から詳細に分析・批判している。論集『ホロコーストの解剖』の論文。

 

 

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「『新しい世界秩序』というわれわれの目標の達成は、ホロコーストの教訓を学ぶことにかかっている」

イヤン・カゲダン[1]

 

1. 序文:ホロコースト教があるのか。

 ホロコーストや「ユダヤ人の犠牲」を「否定」する市民は、ますます多くのヨーロッパ諸国で、司法・立法システムによって、犯罪とされている。一方、「ホロコースト宗教」という用語はいまだ、司法的な不快感を呼び起こしてきていない。[2]

 イエス――ユダヤ人は彼を十字架に釘で打ちつけることに成功した――の「神的実在」はほぼ2000年間にわたって世界宗教の土台であったけれども、今日、イエスが神の子であることを否定することは許されている。しかし、イエスの神性を否定したり、それに疑問を投げかけることが死をもって処罰されたのはそんなに昔のことではない。この宗教の創設者イエスとその母マリアはダヴィデの一族の出身であり、その子孫のためにまったく痕跡を残さずに昇天していったという。これと同じように、ホロコースト教によると、600万人のユダヤ人は地球上に痕跡を残さず燃え尽き、その煙は空に消え去って行ったのである。

 宗教なるものの本質的特徴の一つは、教義が証明しえない非合理的な性格を持っていることであり、異なる信仰を持つ人々、自分の信仰の反対者を絶滅しようという冷酷な衝動が存在することである。このような振る舞いは、「使徒たち」が火刑に処せられたのは、彼らが真実を述べており、卓越しており、力を持っていたためであると考えられていることを念頭におくと理解できる。

 ローマ・カトリック教会の権力者集団は、科学的な地動説によって信仰の柱の一つが危険にさらされることを察知したとき、宗教裁判所というテロルと暴力機関を発足させた。地動説の信憑性を覆すことができなかったので、間違った天動説を修正しようとしていた人々、すなわち修正主義者は絶滅されねばならなかった。今日使われている方法も同様である。

 このように、あらゆる信仰には2つの前提条件がある。1つは、虚偽、あるいは少なくとも証明されていないか証明できない主張を提唱する人々の権力であり、もう1つは、大衆の無気力な状態である。この大衆に対しては、ニーチェの次のような警句がふさわしい。

 

「信仰とは真実を知りたがらないことである」[3]

 

 宗教のもう1つの顕著な特徴は、時とともに増えていく奇跡的な事件の数である。一方、科学的な真実は次第に広まっていき、信仰だけにもとづく奇跡的な事件の虚偽性を明らかにしていく。これが普遍的で、時の経過とは関係のない真実である。

 ドイツ連邦共和国では、1993年5月のミュンヘン地方裁判所の判決によると、F. シェンク判事はホロコーストを疑う権利を被告に認めた。ユダヤ人の大量殺戮の否定とは異なり、ホロコーストに疑問を呈することは認められるというのである[4]。したがって、ドイツ市民のおかれている環境は改善されているようである。

 本小論は、トレブリンカ・ホロコーストを否定したり、それについて議論しようとするものではなく、トレブリンカ・ホロコーストについての事実を検証し、それを考察しようとするものである。そのこと自体から、あらゆる結論が論理的に登場してくるであろう。

 

2. デムヤンユク裁判とトレブリンカ

2.1 デムヤンユク裁判の背景

 ソ連時代、アメリカにおけるウクライナ系移住者は2つの派に分かれており、その1つはモスクワに好意的な姿勢をとっていた。当時、このグループは『ウクライナからのニュース』という週刊誌を発行していた。この出版事業に関与していたM. ハヌシャク(Michael Hanusiak)は、モスクワのソ連当局との結びつきについてまったく否定していなかった。H.P. ラルマン(Rullman)は、このグループの最優先の課題は反共主義者、亡命中のウクライナ民族主義者を中傷することであると考えており、第二次世界大戦中に「ドイツ・ファシスト」と協力した咎で彼らを告発していた[5]。このようなやり方はすでにその他の事件でも実行されており、亡命ウクライナ人のあいだに内部対立をもたらしただけではなく、彼らの評判を落としめていた[6]。情報の操作や偽造・捏造証拠を使って反対派を貶めるソ連のやり方は、よく知られている。1980年代中頃に、西ドイツ内務省さえもこのやり方について警告を発している[7]。だから、アメリカ当局が、1970年代中頃のデムヤンユク事件で、亡命中の共産主義的ウクライナ人に引っ掛かったのは驚くべきことである。

 1975年、ハヌシャクはソ連の文書を「丹念に」調査したのちに、民族社会主義者に協力したとされるウクライナ系の70名のリストをニューヨークの合衆国移民局に提出した。そこには、ジョン・デムヤンユクの名前もあり、彼は1981年まで、オハイオ州クリーブランドで合衆国市民として暮らしており、自動車工として働いていたという。ハヌシャクはデムヤンユクに関して、彼がソビボルとフロッセンビュルク強制収容所に勤務していたという、H. ダニルチェンコ(Daniltschenko)による犯罪証明供述書を添付していた[8]。さらに、この2つの収容所にデムヤンユクが勤務していたことを文書資料的に証明するような身分証明書の写真も添付されていたので、合衆国移民局はジョン・デムヤンユクのケースを取り上げるようになった[9]。親共産主義者のハヌシャクが、デムヤンユク=イヴァン雷帝像を作り上げるにあたって大きな役割を果たしたことはまったく疑いない。この事件は新たなアイヒマン裁判となったのであるが、この仕掛け人を発見することは難しくはない。『ウクライナからのニュース』が1976年に、デムヤンユクに対して措置を講じるようにアメリカ当局にせきたてたのち、合衆国司法省は、移民文書に虚偽の記載をした件でデムヤンユクから市民権を剥奪するように求めた。その一方で、写真に写っているジョン・デムヤンユクがトレブリンカのイヴァン雷帝であると証言する証人がイスラエルで発見された。ソビボルおよびトレブリンカについての調査がそれに続いた。1979年、カーター大統領の下に設置されたアメリカの「ナチ・ハンター」局であるOSI(特別調査局)がこの事件を正式に取り上げた。

 デムヤンユクという名の人物に対して発行されていたトラヴニキ身分証明書1393号――『ウクライナからのニュース』に掲載され、のちに、裁判での文書資料的証拠のほんの一部として利用された――には、2つのバリエーションがある。1393番という数を与えられており、デムヤンユクの名を持っている2番目の証明書は、コブレンツの連邦文書館に保管されているフロッセンビュルク強制収容所文書にある。ウクライナでは同じような名前は非常に一般的である。しかし、この番号はトラヴニキでのデムヤンユクの滞在に対応しておらず、さらに、身分証明書の番号は1回しか使われなかった。

 「オリジナルの身分証明書」はイェルサレムでの予備審問では利用されなかった。この中心的な証拠はソ連からは公式には利用できなかった。このために、ユダヤ系のアメリカ人億万長者アルマンド・ハマー(Armand Hammer)が招請された。ハマーはすでにレーニン時代からソ連の各界と非常に良好な仕事上の関係を築きあげていた[10]。いずれにしても、トラヴニキの身分証明書がイェルサレムにやってきたのは、公式のルートではなく、ハマー個人を介してであった。もしも、身分証明書が公式に発送されていれば、それに関連する文書がモスクワとイスラエルに存在していることであろう。

 デムヤンユクの弁護団の専門家ディター・レーナー(Dieter Lehner)は、身分証明書がまったくの偽造であることを暴露したが[11]、それは、ドイツ連邦刑事警察局の発見と一致していた。イスラエル当局はすでに1987年に連邦刑事警察からこの事実を伝えられていたにもかかわらず、法廷はこの情報をふせていた。首席検事シャデク(Michael Shadek)は次のようにコメントしているにすぎない。

 

「私の知る限り、デムヤンユクは殺人を犯している。それがトレブリンカであったのか、ソビボルであったのか、また別の場所であったのか、そんなことは二義的にすぎない。」

 

 連邦刑事警察局がSSの身分証明書が偽造であることを証明しているではないかという異議申し立てに対しても、次のように答えている。

 

「われわれは自分たちの専門家報告に依拠しており、それが以前のものよりも確証的であるとみなしている。」[12]

 

 しかし、ドイツ当局も偽造されていたトラヴニキ身分証明書に関しては、奇妙なゲームを演じた。たとえば、Münchner Merkur紙によると、連邦官房庁は、デムヤンユクの弁護団がレーナーとドイツ連邦刑事警察局を介してドイツの専門家報告の存在を知ることがないように監視しており、連邦刑事警察局はその発見について沈黙を守るように上のほうから命令されていたという。さらに、刑事警察局の専門家証人――結局はイェルサレムの法廷には出廷しなかったが――は、修整された身分証明書の写真とデムヤンユクの実際の写真には類似点があることだけを扱った部分的な報告書をこの裁判のために執筆するようにドイツ当局から求められたという。こうして、身分証明書が本物であるという印象がイェルサレム裁判では作り出された。連邦刑事警察局の専門家アルトマン博士がこの部分的な報告書を提出した。連邦刑事警察局長ヴェルナー博士は、当時作成したメモの中で、ドイツ当局の行動を次のように記している。

 

「明らかに、事実関係の疑いは政治的な配慮に従属しなくてはならなかった。」[13]

 

 結局、身分証明書の写真は、デムヤンユクのアメリカ移民ファイルから取られた1947年の古い写真であり、それが身分証明書用に修整されたことが分かった。

 それまでは知られていなかった身分証明書の信憑性に疑いが投げかけられると、イェルサレムの法廷は突然、身元を確証するほかの資料を利用し始めた。これらの証明書も偽造であったが、その由来については確定されてこなかった。11

 KGBが公的に身分証明書を偽造したのではないかという推定があったが、それについては、専門家のレーナーが確証しているように、その身分証明書の偽造の質が劣悪なこと、この種の身分証明書を発行する警察部局の組織構造に無知であることによって反駁されている11。だからといって、KGBのある組織が証明書の偽造に関与していた可能性をまったく排除しているわけではない。この組織は写真の出所であるアメリカ移民局組織と関係を持っていたにちがいない。これらの組織は、当初から、デムヤンユクをイヴァン雷帝として、ホロコースト教をふたたび活性化させようとしていた人々と同一集団であろう。

 デムヤンユクを国外追放にしようとする公判は、1981年に、クリーブランド地方裁判所で始まった。トレブリンカの5名の生存者がデムヤンユクをイヴァン雷帝とみなし、トラヴニキ身分証明書1393号の裁判所コピーは、バティスティ(Battisti)がデムヤンユクからアメリカの市民権を剥奪する主要な証拠となった[14]

 イスラエルの要請で、国外追放作業が1984年に始まり、追放は1986年2月に行なわれたが、それは国際法のあらゆる慣習に違反していた。いわゆる犯罪現場(トレブリンカ)はポーランドにあり、その当時、イスラエルという国家は実在すらしていなかったからである。OSIはイスラエル当局とともに、この偽造された身分証明書の信憑性を何人もの証人に確証させようとした。この事実は、トラヴニキ身分証明書がこの裁判でのOSIにとっていかに重要であったのかを明らかにしている[15]

 

2.2 イェルサレムでのデムヤンユク裁判

 1987年2月16日、イェルサレムでデムヤンユク裁判が始まると、トレブリンカ・ホロコーストは世界中の世論の記憶にふたたび登場するようになった。ユダヤ人証人の証言によると、トレブリンカは、典拠資料によって異なるが、70万から300万という膨大な数のユダヤ人が殺された第二次世界大戦中の絶滅収容所であった[16]。イェルサレムの法廷は勝手に、 犠牲者の数を875000名と定めている[17]

 トレブリンカ・ホロコーストの記憶を復活させようとするキャンペーンの要はウクライナ人ジョン・デムヤンユクであった。この人物はトレブリンカの「イヴァン雷帝」とされ、この収容所で、想像できる限りの殺戮、残虐行為、非道な行為を行なったとされた。自分で、鉄の杖や剣を使ってユダヤ人をガス室に追い込んだ、銃剣で女性の胸を切ったという告発だけでは十分ではなく、彼自身がディーゼル・エンジンを操作して、その排気ガスをガス室に送り込み、ユダヤ人を殺したというのである。デムヤンユクはソビボルとフロッセンビュルク収容所(だけ)に勤務していたことを示す文書的証拠があるが、このような主張はこの証拠と矛盾していた。しかし、このことは寛容にみすごされた。

 イェルサレム裁判での検事側証人の中心エリアフ・ローゼンベルク(Eliahu Rosenberg)は、1947年12月24日、ウィーンで、「事実報告書」――12頁の頁ごとに彼が署名している――のなかで、ウクライナ人のイヴァンは寝ているときに、殴られて死んだと述べていた[18]。デムヤンユクの弁護士ドフ・エイタン(Dov Eitan)が、ローゼンベルク自身の証言によると、イヴァンは1943年にすでに死亡しているのだから、ここにいるジョン・デムヤンユクはイヴァン雷帝ではありえない、とイェルサレム裁判でローゼンベルクに指摘すると、ローゼンベルクは、これはこの当時自分の報告を記録した書記の誤解であり、しかも、イヴァン雷帝の死については、伝聞情報でしか知らなかったと答えた。問題の書記T. フリードマン(Friedman)はこの件についての証言を拒んだ。ユダヤ人側が、当時ローゼンベルクが自分の体験にもとづいてイヴァン雷帝の死を報告していたことをフリードマンが確証すれば、彼を殺すと脅迫していたためであった[19]。ローゼンベルクはイヴァン雷帝の死を宣誓のもとで確証していたのである。

 だとすると、イヴァン雷帝はよみがえったのであろうか。

 特別な現実を明らかにしたいという願望によってあやまちをおかしてしまうのは、この種の証人の心理状態には特徴的である。真実が意図と願望に従属してしまうのである。ユダヤ人出版者A. メルツァー(A. Melzer)は、この裁判を推し進めようとするイスラエル国家の動機について、1980年代中頃、ホロコーストについてのイスラエルの集団的意識が薄れかかっていたと述べている。さまざまな事件の中の1章にすぎなくなってきていたというのである。さらに、イスラエルのパレスチナ人に対する行動は、ヒムラーのSSのようなものに似始めており、世界の世論もユダヤ人をそのようなものとしてみなし始めていた。このために、イェルサレム地方裁判所もジョン・デムヤンユク事件ではなく、むしろ、ヨーロッパのユダヤ人の絶滅の方に関心を向けようとしていたのであろう。「アウシュヴィッツの棍棒」がふるわれる必要があったのであった[20]

 1970年代中頃以来、ジョン・デムヤンユクに体現されたイヴァン雷帝は、組織的にトレブリンカ・ホロコーストの象徴として描かれ始めていた。トレブリンカの怪物がウクライナ人でなくてはならないという状況は、カザークがユダヤ人抑圧者と徴税人からウクライナの西半部を解放した時代に歴史的ルーツを持っていた[21]。旧約聖書にしたがった復讐心と本能的憎悪は数世紀にわたって生き残っていた。

 トラヴニキ身分証明書についての事件や関連をさらに検証するには、2つの重要な関連事件が役に立つであろう。

 1988年11月29日、イェルサレムで奇妙な事件が起った。1988年11月20日、デムヤンユクの弁護士ドフ・エイタンは、弁護側の主要な専門家証人から、デムヤンユクに対する主要な証拠であるトラヴニキ身分証明書が偽造であることを証明する多岐にわたる報告を受け取った。エイタンは1988年12月4日の控訴期限に、イェルサレムの法廷にとって驚くべきことを声明するとしていたが、1988年11月29日に、不可解にも、エイロン・ホテルの15階の窓から落ちた[22]。ドフ。エイタンの都合の良い(悪い?)死の真相は解明されていない。彼の葬儀の際、2番目の弁護人は、誰かから顔に酸を投げつけられた[23]

 身分証明書問題はデムヤンユクのイスラエルへの追放にあたっては重要な役割を果たしたが、1988年4月のデムヤンユクへの判決ではもはや重要な役割を果たしていなかった。イェルサレム法廷は、デムヤンユクの有罪を疑問の余地なく立証したのはまず第一に証人であったと指摘している。しかし、これらの証人の証言の証拠としての価値は、目撃証言についての専門家であるユダヤ系アメリカ人エリザベス・ロフトゥス(Elisabeth Loftus)博士が指摘しているように、非常に疑問である。ロフトゥスは数百の裁判での目撃証言が信憑性にかけていることを立証している[24]。デムヤンユクに対する証人の多くは、たがいに矛盾していたり、それ以前に行なった陳述とも矛盾していただけではなく、まったく、信じられないような、ときとしてきわめて醜悪で非現実的なシナリオについて証言している。ロフトゥス博士にとって決定的な要因となったのは、高齢のために自分の子供の名前も思い出せず、どのように出廷したのかも記憶していない証人が、その一方で、ジョン・デムヤンユクの身元確認ができると証言しており、トレブリンカ収容所その他での事件の詳細を覚えていると証言していることであった。ロフトゥス博士は、ジョン・デムヤンユク、トレブリンカ収容所、過去数十年間に行なわれた目撃証言のために、公平で、影響を受けていない、証拠としての価値を持つ証言が不可能となってしまったことを知っていたけれども、弁護側の専門家証人として証言することを拒んだ。彼女は、そのようにすることが正義の真実に反することを自覚していたけれども、この裁判ではイスラエルとユダヤ人に味方しようとしていたからである。彼女は自分のおかした過ちを認めているが、それは痛烈なものであり、一読に値する。

 以上のような証人工作以外に、H.P. ラルマン(Rullmann)は、弁護側証人に対するさまざまな侮辱、疑惑、脅迫が多数存在したことを指摘している。証人たちは逮捕されることもあった[25]。法廷は検事側証人に「便宜」をはかるような、すなわち、その証言を検証しない、反対尋問にかけないというような命令を発した[26]。検事側証人が信じられないような、醜悪な、犯罪を告発する証言を行なったとき、傍聴人は拍手などを行なったが、それは静止されなかった26。イスラエルの学校では、裁判の実況テレビ中継が映しだされ、裁判のハイライト部分が世界各国で報道された[27]。デムヤンユクの無罪申し立ては後悔の念が欠けていることによる強情な否認と解釈された[28]。裁判のハイライトは、もっぱら目撃証言にだけもとづく判決であった。それはデムヤンユクに絞首刑を宣告し、その結果、法廷ではユダヤ教のプリム祭のように喜びで満ち溢れるダンスが行なわれた。もちろん、デムヤンユクの弁護側は控訴した。

 目撃証言についての最良の専門家エリザベス・ロフトゥス博士は公の声明を発表していたが、それだけでも、デムヤンユクの控訴審を担当するイェルサレム法廷を打ち砕くには十分であった。控訴審はSSの身分証明書が偽造であることを明らかにするだけではなく、ユダヤ人専門家によって証人が先入観を持った嘘つきであることが明らかにされることが予想されたからである。それだけではない。1990年代初頭から、この事件は広く関心を集めつつあり、イスラエルにとっては不愉快な状況となってきていた。デムヤンユクの市民権剥奪と国外追放が、虚偽の手順を使って、すなわち偽造身分証明書を使って行なわれたという事実を考慮して、合衆国ではしだいにロビー・グループが強力となり、イェルサレムの判決の否定、デムヤンユクの本国送還を求める声が出始めてきた。イスラエルは、アメリカ市民であった人物に対して法にかなった裁判を行なう意志も能力も持っていなかったからである。

 これらのロビー活動を積極的に行なったのは、下院議員ジェームズ・トラフィカンテ(James V. Traficante)、パトリック・ブキャナン(Patrick Buchanan)であった。ブキャナンは著名なアメリカのジャーナリストで、レーガン大統領の補佐官であった。彼はすでに1986年に、デムヤンユク裁判を新たなドレフュス事件と呼んでいた[29]。しかし、1990年には、ブキャナンは、トレブリンカでのデムヤンユクの大量殺戮事件を読んで、もっと足を踏み出し、『ワシントン・タイムズ』と『ニューヨーク・ポスト』に次のように書いている。

 

「問題はこうである。ディーゼル・エンジンの排気ガスは、人を殺すのに十分な一酸化炭素を排出しない。環境保護局はディーゼル自動車やトラックの排気ガス検査を求めていない。1988年、97名の若者が、400フィートの地下のワシントンのトンネルに迷い込み、2両の列車がディーゼル排気ガスを車に流し込んでいたが、45分後に無傷で姿を現した。デムヤンユクの大量殺戮の凶器では人を殺すことはできないのである。」[30]

 

 1991年、ブキャナンは共和党の大統領候補選挙でブッシュの最大のライバルとなった。彼は、選挙運動期間中にも自説を曲げなかった。テレビ番組で、彼は前の話を補足して、トレブリンカは数十万のユダヤ人が収容され、数千が死亡した恐ろしい場所であったにちがいないと述べている。すなわち、定説のように数十万が殺されたというのではなく、数千が殺されたと述べているのである[31]。したがって、イスラエルは、合衆国の次期大統領に近いだけではなく、トレブリンカが絶滅収容所であったことに疑問を呈する強力な潮流がアメリカの政治とジャーナリズムに存在するという事実に直面したのである。

 このような事態の進行と平行して、いくつかのヨーロッパ亡命者グループが、デムヤンユクを擁護する報告を執筆し、物的証拠にもとづいて、トレブリンカでは大量殺戮はまったく起こらなかった、そして、まさにこの理由から、他の被告と同様に、デムヤンユクは無罪であるべきであると結論した[32]

 イェルサレムの控訴審は、1993年夏にデムヤンユクの無罪を宣告したが、以上のような事態の進行を知っていれば、何も驚くべきことではない[33]。デムヤンユクが無罪となったのは、彼に死刑宣告をもたらすことになった証拠の欠如のためであった。奇妙なことに、アメリカとヨーロッパのメディアの大半は、デムヤンユク裁判の審理が法の支配とはほど遠かったにもかかわらず、イスラエルを法の支配の下にある国家と声高に呼びはじめた。死刑と無罪とのあいだの距離はきわめて大きい。しかし、もしも裁判所が、正義の執行を誤らせたのは証人の偽証であることを知っていたとすれば、このような証人こそが告発されるべきであった。イスラエルでは、ソビボルとフロッセンビュルク収容所での犯罪の咎でデムヤンユクを告発すべきかどうか議論されたが、この選択肢は採用されなかった[34]。鉄はイスラエルには熱すぎてしまうようになっていた。別の裁判を開けば、ホロコーストのその他の局面が、不本意にも、論争の対象として引き出されてしまうからである。ソ連邦の解体によって、文書や犯罪現場に容易にアクセスすることができるようになったために、デムヤンユクは1993年9月に帰国し、無罪放免となった(しかし帰国の旅では手錠をかけられていた――まったく法律違反である)。合衆国は、デムヤンユクをウクライナに移送し、そこで戦争犯罪の咎で起訴するという方法をしばらく考えていた[35]。しかし、結局、1998年に、デムヤンユクは合衆国市民権を回復した[36]。もちろん、OSIはこのような事態に臆することなく、1999年5月19日、新しく発明した、デムヤンユクに対する告発を使って、彼の市民権の剥奪を求めた[37]

 デムヤンユク裁判は文字通り、壁の書付となるであろうか。それは、「ユダヤ人の生贄」のなかにおけるトレブリンカ・ホロコーストの転換点をもたらすであろうか。預言者ダニエルは、ダニエル書第5章で、「メネ、テケル、ウパルシン」、すなわち、「はかりで量られて、その量の足りないことがあらわれた」と記しているように。

 

 

3. トレブリンカ地域の収容所

 トレブリンカ収容所群についての目撃証言や話を分析するにあたって、最初に気づくことは、それらがたがいにまったく矛盾していることである。証人の話は、犠牲者の数だけではなく、「殺人方法」についても、死体や証拠の隠滅方法についても、「絶滅収容所」の場所、大きさ、形態、施設についても非常にばらばらであり、この資料全体から、全体像を作り上げるのはできないほどである[38]。ウド・ヴァレンディがこれらの矛盾や首尾一貫性のなさについて詳しい研究を行なっているが、これについて関心のある読者はご一読いただきたい[39]。ここでは、奇怪な相違点だけに触れておきたい。ホロコースト正史派の歴史家たちは、資料操作するにあたって、「利用可能な目撃証言」から選別を行なっており、そのようなやり方には学術的な価値はない。にもかかわらず、彼らは50年かかって、特定のシナリオを作りかけてきている。それについて焦点をあてておこう。

         

3.1 マルキニア収容所

 トレブリンカU(すなわちB)収容所については多くの混乱した、その多くが矛盾した記述とこの収容所のスケッチが存在し[40]、それらは1950−51年、1964−65年、1969−70年のトレブリンカ裁判でも利用されていた[41]。それらの中には、トレブリンカT(A)とU(B)以外に、トレブリンカの3.7マイル北にもう1つの収容所、すなわちマルキニア収容所が存在したことを確証しているものはない。これは、740×820フィート(607000平方フィート)という規模の通過・害虫駆除収容所であり、おそらく、ベラルーシとウクライナに移送されるユダヤ人用であった。

 事件の15年後に、1965年のトレブリンカ裁判の主要被告クルト・フランツ(Kurt Franz)は獄中で記憶を頼りに、自分が1942年11月から勤務した収容所のスケッチを描いている[42]。このスケッチは、多年にわたる外からの影響を受けたために、細部においてやむを得ず不正確になっているだけではない。公式のポーランド側の配置図面にあるトレブリンカU(B)とまったく異なっており、それも外見だけではない[43]。われわれが今日知っているように、証人の描く収容所は、トレブリンカU収容所とマルキニア収容所の状況や構成要素が交じり合ったものである。国立文書館には1944年5月13日の航空写真が保管されているが、それは、フランツによる収容所のスケッチの正しさを確証している[44]。この収容所はまた、フランツがすでにスケッチで指摘しているように、「下部」収容所と「上部」収容所という用語の由来ともなっている。小さいほうの「上部」収容所は、道で「下部」収容所と隔てられていた。フランツは収容所の建物の名前をあげることができ、収容所の特定の区画に関しては、自分の姓フランツも含む、多数のマルキニアの勤務員の姓で自分のスケッチに印をつけることができた。多くの目撃証人がこの収容所のことを話しているが、このことは、これらの証人の陳述に疑問を投げかけている。マルキニア通過収容所が、絶滅センターを隠匿していると疑われたことはまったくないからである。

 

3.2 トレブリンカU(B)収容所

 トレブリンカUはホロコースト史の中では絶滅収容所として登場しており、一方、砂利壕と結びついたトレブリンカTは、ホロコーストに関する研究書ではそのように扱われたことはない。トレブリンカUについてのすべての話を分析することは本小論の範囲を超えており、本小論の目的は証人が物語っている大量殺戮の必要条件とその結果を考察することであるので、以下の注目すべき点だけに焦点をあてて、議論をすすめることとする。

 世界ユダヤ人会議は、1943年の小冊子の中で、ポーランドやその他のヨーロッパ諸国からのユダヤ人の「屠殺場」が12350エーカーの区画で、1942年3月に建設されはじめたと報告している[45]。たとえ脳みその足らない人物であっても、ほぼ20平方マイルの収容所の建設を真剣に提案することなどないであろうが、この数字は、ニュルンベルク国際軍事法廷の検事側資料の中にも登場している[46]。この事実だけでも、トレブリンカUの絶滅シナリオがプロデューサー=監督の作品であるという疑問を抱かせるのに十分である。

 筆者はトレブリンカU収容所の公式の図面のコピー(下記)を所有している。そこには文書番号、2つのゴム印と表題が載っているが、日付はついていない。縮尺は1:2000となっているが、それは誤りである、トレブリンカ博物館の小冊子の収容所のスケッチは、同じものを公式の図面としているが、縮尺を1:4000としている。今日知られているすべての収容所のスケッチには、その細部の面で、多かれ少なかれ、かなりの相違がある。方角の面では、さまざまな図面は一致しているが、専門家ジョン・ボール(John C. Ball)の航空写真とは一致していない[47]

 T. スコヴロン(T. Skowron)は、目撃証言にもとづいて描かれてきた収容所のスケッチを検証しているが、彼によると、

40以上の異なったスケッチがあるという[48]

 

4. トレブリンカ絶滅収容所

 今日の(1994年)ホロコースト正史によると、ポーランド系ユダヤ人の大半がトレブリンカ絶滅収容所に移送されたのは1942年夏のことであった。彼らは収容所に登録されることなく、ディーゼルガス室でガス処刑され、冬まで大量埋葬地に埋められた。1943年春からは、ガス処刑された犠牲者はすぐに跡形もなく焼却され、掘り起こされた死体も同じように焼却されたという[49]。この焼却は非常に長く、深さ数メートルの壕(それまではこれらの壕は「大量埋葬地」であった)のなかで、コンクリートの支柱が支える金属製の焼却格子の上で行なわれたという。1943年秋、収容所は完全に解体され、すべての証拠は消し去られたという。報告によると、87万名から120万名のユダヤ人が、このシナリオにしたがって、犠牲者となったという[50]。この話の詳細を検証する前に、問題全体を概観しておこう。

 

4.1 犯罪現場と凶器に関する一般的事項

 通常の条件のもとでは、犯罪の解決は、犯人を確定する反駁の余地のない証拠を手に入れるために、犯罪の調査を行なう。目撃者の証言は不正確であることが多いので、疑問の余地のない事実と証拠にもとづいて事件の本質を確定することが法廷の仕事である。殺人はもっとも凶悪な犯罪であるので、適切な事実を正確に確定することがとくに必要となっている。殺人事件の場合、殺人犯を確定するために、犯罪現場、凶器、事件の進行、死因、動機が広く調査される。犠牲者の所在も非常に重要である。

 犯罪の犠牲者の所在が特定されなければ、まったく不可能というわけではないが、犯罪が行なわれたことを証明するのは困難である。犠牲者が一人か数人であれば、もし犯罪現場と殺人方法が分からなければ、証拠の隠滅は可能であろう。しかし、犠牲者の数が多ければ、そして、犯行現場が図面の上で正確に明らかとなっていたり、航空写真に記録されていれば、近代の技術を使えば、犯罪の事実をきわめて正確に確証することができる。たとえば、考古学的な発掘調査によって、人の骨の灰が発見されれば、たとえ数十万年経過していても、そこには人間の居住地があったことが確定できることであろう。今日まで、ホロコーストについての法医学的調査はもっぱら目撃証言にもとづいてきた[51]1つの事件だけに、発掘報告がある。シエドリチェ裁判所が依頼したものである[52]。この発掘は1945年11月9−13日にトレブリンカUで行なわれた。あとでこの調査の結果については触れることになる。

 ホロコースト教義の支持者によると、第二次大戦中のユダヤ人の移送・収容・殺戮はヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅のための組織的、計画的なプログラムであった。このキャンペーンの計画的、組織的な性格は、それを実行する計画を前提としている。しかしながら、ユダヤ人問題の解決に関して出されたとされるすべての命令や布告が秘密のコード言語で書かれていたとすると、研究者が利用できる資料には、このような計画とその実行に関する証拠はまったく実在しない。また、秘密の言語を作成するようなコードの定義を含む資料もまったく発見されていない。すなわち、命令を発した者と命令を受けた者のあいだに適切な理解を存在させるためには、「ロゼッタ・ストーン」のようなものが不可欠なのである。細部にいたるまで組織的に対処し、あらゆる措置を文書化することがドイツ人の特徴的習慣であったし、今もそうである。このやり方は、第三帝国時代の官庁にとくに顕著であった。ホロコースト教義理論では、大量殺戮は、即興性、偶然の一致、自然発生性、ひいては心を読むことにもとづく意思決定によって行なわれたという[53]。しかし、このような解釈は、ドイツだけではなく、その他の国々を例にとっても、まったくありえないことであるし、まったく馬鹿げている。

 ホロコーストに関する今日の出版物によると、ユダヤ人の大量殺戮は、閉ざされた部屋の中で、毒性を持つと考えられていたさまざまなガスを使って行なわれたという。ベルゼク「絶滅」収容所についても、さまざまな資料がさまざまな殺害手段をあげている。たとえば、犠牲者は水に沈めることのできる大きな板の上で電気を使って殺され、犠牲者の死体は電気を使ってすぐに焼却されたという[54]。この話には技術的、科学的知識がかけている。想像力の力が上回ると、普通の人間でも途方もないことを話すものである。だから、この話がニュルンベルク裁判で記録されたものであるとしても[55]、ここで真面目に評価する必要なないであろう。

 やはり目撃証言にもとづいているその他の出版物には、生産工程ラインの処刑、スチーム、真空、高圧空気、塩素ガス、ディーゼル・エンジン排気ガス、青酸(チクロンB)が殺害手段として登場している。ガス処刑が行なわれたとされる施設はガス車かガス室となっている。目撃証言から引用すると、トレブリンカでは次のような殺害手段が使われたという。

 

1.      生産工程ラインによる首筋への発砲による殺害、戸外

2.      塩素ガスによる殺害

3.      スチームによる殺害[56]

4.      ディーゼル・エンジンの排気ガスによる殺害

5.      大きな特別ポンプを使って部屋から空気を排出することによる殺害

 

1と3と5は1946年の『黒書』[57]に登場しているが、倒錯的な想像の典型にちがいない。たとえば、部屋から空気を排出すれば、大気圧の数十分の一を下げただけで、建物全体が崩壊してしまうであろう。スチームによる処刑は『黒書』の同じ場所のA. クルゼピツキ(A. Krzepicki)の陳述[58]に登場しており、ポーランドの文献にも繰り返されている[59]H.P. ラルマンは、1943年の『黒書』54の情報が、存在していない出版物『イースト・ロンドン・オブザーバー』を上げているがゆえに、信用できないと述べている[60]。リュッケルルは、これが、絶滅の事実は知っていたが、どのように絶滅が行なわれているのか知ることができなかった証人によって広められた噂であると考えている[61]。さらに、スチームの話は今では否定されているが、ニュルンベルク裁判では、確証された殺害手段として提示されている46。今日では、ディーゼル排気ガスを使って殺人が行なわれたというのが定説であるが、ディーゼル排気ガスが不十分な殺害能力しか持たないことは、本書のベルク論文によって明らかにされている。

目撃証言によると、さまざまな殺害手段が同じ時期に登場しているが、このことは、当初から、計画的、組織的な殺戮が存在していなかったことを意味する。

 

4.2 犯罪現場:上部の死の収容所

 前述したように、目撃証言は疑わしく、裁判所も調査委員会も殺害の本質について確定していない。このために、犯罪現場を正確に再現することは不可能である。さらに、長方形の収容所区画その他を描いている現場のスケッチがあるが、それはさまざまな縮尺で斜めアングルの枠線を描いている。この事実自体が事件全体に疑問を抱かせる。それゆえ、公式の図面に描かれており、1944年のドイツ軍の航空写真に登場する『トレブリンカU』収容所を犯罪現場とみなすのが最上であろう[62]。トレブリンカ文書館の図面によると、収容所全体は1447200平方フィートであり、そのうち「絶滅区画」は193700平方フィートである。航空写真から判断すると、絶滅区画は230フィート×295フィートであり、それは67800平方フィートとなる。手元にある話によると、絶滅区画には、合計13の気密ガス室をもつ2つの建物があったという62。すなわち、第一の死の家には、それぞれ16×16フィート(13×13フィートという説もある)、高さ8.5フィートほどの3つのガス室があり、それは、1942年の夏の終わりか秋の始めに建設されたコンクリートの建物であった。少々のちに建設された第二の死の家には、それぞれ26×13フィート(23×23フィートという説もある)の広さの10のガス室があり、コンクリートの土台に上に立つ石造の建物であった。5つのガス室にはそれぞれ幅5フィートの廊下が付いていた。外壁にはガス気密ドアが付いており、それを引き上げることで、ガス室の排気を促進することができた。切妻の壁の隣には、エンジン室があり、ここから、パイプを介してディーゼル排気ガスが部屋に送り込まれた。

 1946年の『黒書』は一時に4000−6000名がガス室に詰め込まれたと述べているが、大半の文献は2000名以下としている。死体を収用する大量埋葬地も犯罪現場の一部である。エリアフ・ローゼンベルク(Eliahu Rosenberg[63]によると、これらの大量埋葬地はガス室の近くにあり、394×49×20フィートであった[64]。しかし、これらの規模は、文献によって、長さ164フィート、幅33フィート、深さ16.4フィートから、長さ492フィート、幅82フィート、深さ33フィートまで変わっている。のちに、犯罪現場には、死体の焼却のために、格子やグリルが追加されて、その機能が向上したという。

 目撃証言や文献にある話にもとづいて、技術的必要条件とその根拠薄弱な点に関心を向けながら、この問題のいくつかを検証してみよう。このようなことは、昔に実行され、関連裁判で考慮されなくてはならなかったことである。判事や検事は批判的な精神を持っておらず、技術的な概念については恐るべきほど無能力であったが、その実例を『毒ガスによる民族社会主義者の大量殺戮』からあげておこう。

 

「建物は、背が低く、長く、幅広かった…それは灰色のコンクリート製であり、屋根葺きフェルトの平らな屋根の持っていた[!!!A.N.…]。手すりの付いた3つのステップが建物につながっていた…部屋は地上5フィートの高さであった…」[65]

 

 これでは、1つ1つのステップが、驚くべきことに、1.6フィートの高さとなってしまい、ガス室にガス処刑される人々を押し込めるのに障害となってしまうであろう。

 

4.3 凶器

 最近では、大量殺戮のための、高温スチーム施設、大気圧以下の気圧施設、塩素ガス施設について真面目に考えている人は誰も存在しない。これらの説は、馬鹿げているためにまったく認められていない。しかし、証人たち、歴史家たち、裁判所が、ディーゼル排気ガスこそがトレブリンカ、ベルゼク、ソビボルの「凶器」であると意見の一致を見るようになったのか説明できない。信じがたいほどの大量のユダヤ人の絶滅を計画した人々が、ディーゼル・エンジンの排気ガスを採用した理由も理解できない。われわれは今日、ガソリン・エンジンの排気ガスの方が、ディーゼル・エンジンの排気ガスよりも百倍も毒性があることを多くの研究報告書から知っているからである。さまざまな目撃証言を比較しても、ガス室に閉じ込められた人々に対してガスがどのように作用したのか定かではない。ディーゼル・エンジンの排気ガスは、一酸化炭素の量が少ないために、深刻な毒性を持たない[66]。ディーゼル・エンジンの排気ガスをパイプを介してガス室に送り込んだとしても、ガス室内には、減ってはいるがまだ十分な量の酸素が供給されるであろう。

 さらに奇妙なことに、1943年の『黒書』54はディーゼルの排気ガスのCO濃度を2−3%と引用していることである。ディーゼル排気ガスの致死性はホロコーストの土台の要石であるのだから、これは誤植ではないだろう。どの目撃証言も、ディーゼル排気ガスのCO濃度を2−3%とはしていない。世界ユダヤ人会議にはこの問題についての専門家がいたのであろう。ヘモグロビンへのCOの生物化学的影響が記されているが、このことも、専門家がいたことを示唆している。

 内燃機関の排気ガスは、燃焼室を出たあと排気管に入り、そこから戸外に排出される。もしも、排気管から排出されるガスが止まってしまえば、圧力が増し、エンジンは止まってしまう。この圧力をどの程度まで高くすることができるかどうかは、エンジンの形式・様式で変わってくる[67]

 証人によると、ガス室にガスを供給したエンジンは、ソ連のタンクからの大きなディーゼル・エンジンであり、その出力は550馬力にまで達していた。ディーゼル・エンジンは高い圧縮比(1:15)なので、排気ガスの圧力が、シリンダーを出たのちにも、0.5 atm.まで増えても、作動することができる。

 この排気ガスが気密室に流し込まれたとすると、圧力はやはり0.5 atm.にまで増えることができる(重さでいえば、500g/ cm2、もしくは1平方フィートあたり1024ポンド)。5トンの外へ押し出す力が1uの表面にかかることになるのである。証人たちが、気密ガス室でのガス処刑について証言しているような状況では、このようなことが起こるであろう。ガス室の壁全体にどれほどの力が働くのかを知るために、死の家2の大きさを見ておく必要がある。高さが6.6フィート、長さが26.25フィートであるとすると、壁の面積は173平方フィートほどになる。壁を押す力は80トンほどになる。25トン以上のトラクター・トレーラー3台が、同時に壁を押すのと同じである。

 この施設の天井の面積は603平方フィートである。下からの力は280トンの重さに等しい。このような天井が耐えられる重さの最大は10トンほどである。天井が実際に持ち上がらないとしても、立面図にあるように、天井の鉄筋は天井の下3分の1のところにあるので、少なくとも半ば上方に向かって折れてしまうであろう。リュッケルルその他によると、ガス室の床は地上5フィートのところにあるので、部屋の下には空間があったにちがいない。だから、その床は、1uあたり5トン以上の積載能力を持っていたにちがいない。1uあたり6トンの重さに耐えられる天井と床は、戦後にたんに消え去ってしまったのではないであろう。

 このような事情はガス室のドアにも適用される。上記のドアは、幅8.2×高さ6.6フィートほどであり、面積は54平方フィートとなる。これらのドアにかかる、外側に押し出す圧力は25トンにまで達する。しかも、気密を保っていなくてはならない。このようなハイテク・ドアは賞賛を受けて、博物館の陳列品となるにちがいない。

 壁、天井、ドアに対してかかる重さについては、1946年の『黒書』16を引用しておこう。

 

「もっとも広く使われた第二の手段は、犠牲者が死ぬまで部屋から空気を吸い上げてしまうことであった。」

 

 ラヘル・アウエルバッハ(Rachel Auerbach)、ディーゼル排気ガスが注入されるまえに、空気が排出されるという、修正された話を引用している[68]。建築学的にいえば、もしガス室がそのまま残っているとすれば、前者の手順だけで犠牲者を殺すことができるであろうが、このようなことを、アウエルバッハ女史は思いつかなったにちがいない。こうした殺害手段を使えば、建物にかかる力は、前の手順とは逆に、外側から内側にかかることになる。通常の部屋と真空状態の部屋の圧力の相違は1 atm.ほどにも達し、2倍の圧力が働くことになってしまう。ガス室と大気の圧力が少しでも違えば、建物は崩壊してしまうであろう。このことを強調しておかなくてはならない。

 603平方フィート×高さ6.6フィート=3980立方フィートのガス室のなかに0.5 atm.の超過圧力を作り出すにはどのくらいかかるであろうか。ソ連製の38リットル立方能力をもつW2がその可能性を持っている66。ガス処刑では、ガス室の空気容積は(部屋の容積マイナス閉じ込められた犠牲者の容積)2684立方フィートほどとなるであろう。エンジンが500rpmで作動すると、排気ガスの容量は毎分335立方フィートとなる。合計1342立方フィートの排気ガスを注入すると、4分以内に、ガス室内の圧力は1.5 atm.にまで上がるにちがいない。フル稼働させても、もっとも不都合な条件であっても、ディーゼル・エンジンはこの短い時間に、人を殺すまでの十分な毒を提供しないが、その反面、排気ガスの容積は気密煉瓦壁を破壊するには十分となる。

 たとえば、『黒書』は死の家2の10のガス室に同時に6000人が押し込まれたと述べているが、この場合、どのようにしたら殺人ガス処刑が可能となるのであろうか。ガス室につながる廊下の幅は5フィートであったという。これは、2名が横に並んで通ることのできる幅である。犠牲者が死の家の外に整列しているとすると、2名ずつ2フィートの長さで次々に整列するとするとほぼ11/4マイルの長さとなる。犠牲者が整然と協力的に進んでいくとすると、死の家に入り、ガス室に押し込め、満杯にするには、1時間に11/4マイルの列の行進速度となる。しかし、1時間では6000名を部屋に押し込めることはできないであろう。このことは、このもっとも好都合なシナリオであっても、その状況がまったく馬鹿げていることを示している。最初に部屋に押し込められた犠牲者たちは、ガス処刑が始まる前に、すでに1時間も気密室のなかに閉じ込められていることになる。また、ガス処刑は最初の部屋が満杯になるとすぐに始められたと推定することは、たとえば、イヴァン雷帝が犠牲者を部屋に押し込んだだけではなく、ディーゼル・エンジンも操作したという目撃証言と矛盾している。彼は2つのことを同時にはなしえなかったからである。そして、最初に満杯となった部屋に閉じ込められた犠牲者には、16㎥以下の酸素しかなかったことも示している。

 技術者のための技術仕様によると、激しい作業をしていない場合であっても、人々が必要とする酸素の量は1分間に3分の2リットルである。小さな部屋に押し込められるという条件のもとでは、これは最小限の必要量である。したがって、この条件のもとで600名には1分間で400リットルほどの酸素が必要となり、消費量が変わらないとすると、酸素は40分以内に完全に消費されることになる。つまり、ガス処刑が始まる前に、全員が部屋の中で死亡してしまうのである。実際には、死が近づくと、酸素消費量は下がってしまうので、犠牲者が窒息死するには1時間ほどかかるであろう。目撃者はこのことに気づくはずである。しかし、目撃者は、ディーゼル・エンジンが動かない場合には、窒息死するには24時間か48時間かかったと述べている。それゆえ、この話は、まったくの空想の産物なのであり、認めるべきではない[69]

 しかし、部屋が気密状態ではなく、いわば、ディーゼル排気ガスが充満したにすぎないとすれば、排気ガスの中の15−17%の酸素は命を長らえてしまうであろう[70]

 ちなみに、上記のシナリオの描くように排気ガスや空気を満たしたり、排出したりするには、1つの大きな部屋の方がはるかに実用的であるので、個々の小さな部屋をガス処刑のために使うことは無意味である。

 収容所におけるディーゼル・エンジンの機能に関するさまざまな目撃証言について、さらに検証しておかなくてはならない。ガス処刑のために使われたエンジンは収容所に電力を供給していたという話がある[71]。トレブリンカUについての話によると、下部収容所は上部収容所が建設される前に存在していた。上部収容所のためのディーゼル・エンジンがトレブリンカU収容所全体に電力を供給していたとすると、下部収容所は、上部収容所が建設されるまで、別のところから電力を入手しなくてはならなかった。しかし、そのエンジンが上部収容所だけに電力を供給するものであったとすると、これは技術的にナンセンスであったであろう。その施設の性格上、必要であったのは、照明目的の、100の電球×75w=合計7.5kwであったからである。ソ連戦車のエンジンは550馬力(約400kw)であったので、7.5kwの電力を発生させるために、このエンジンを使おうなどと誰も考えなかったであろう。このような低いレベルの使用では、ディーゼル排気ガスの構成はアイドリング状態とエンジンとほぼ同様である。また、戦争中に、捕獲したソ連車両のエンジンの修理パーツを手に入れることは困難であるので、停止した場合を考えると、電力供給用にこのようなエンジンを使うことはありえないことであろう。このことも念頭においておかなくてはならない。目撃証人は、このような故障や停止についても言及しており、そのためにガス処刑がたびたび中断されたと述べている。

 水の供給(収容所には専用の井戸があった)も電力に依存していた。証人たちは、ガス処刑用のエンジンがガス処刑のたびに稼動され、ガス処刑が終わると(5−45分後)に停止されたと繰り返し述べているが[72]、電力と水の供給は常時稼動していなくてはならない。したがって、上部収容所のガス処刑エンジンは、下部収容所の電力供給には使われていなかったことであろう。トレブリンカUは近くの町の発電所から電力を供給されていたであろうし、停電の場合には、緊急自家発電装置を持っていたのであろう。

ディーゼル・エンジンの故障によるガス処刑の中断はトレブリンカだけのことではなかった。SS将校ゲルシュタインはベルゼクについての、ガス処刑だけに使われたディーゼル・エンジンの故障について記述している66。このエンジンは、ゲルシュタインの報告が正しいとすれば、アイドリング状態で稼動したにちがいないが、そのようなことはありえない[73]。ゲルシュタインによると、エンジンが停止しているあいだ、ガス室のなかの人々は数時間生存していたというが、その場合には、密閉された部屋は十分に換気されていなくてはならないからである。

 排気ガスを使って大量殺戮を行なうという計画を真面目に立てれば、別の種類(非ディーゼル)のエンジンが必要なだけではなく、バックアップ施設も必要となるであろう。

 以上のような考察と計算はきわめて単純である。だから、このような技術的分析が委託されたり、実施されてこなかったことはまったく理解に苦しむことである。ディーゼル・エンジンの排気ガスによる自殺のケースは一例も知られていないのに、ガソリン・エンジンの排気ガスによる自殺は不幸なことにまれではない。したがって、ホロコースト正史のドグマティストが主張しているディーゼル排気ガスの毒性は虚偽であり、事実上、ガス室の外では適用しえない、と裁判所はこのことに気がつくべきである。

 以上のような考察から明らかになったことは、目撃証言が述べているようなガス室は、そのようなものであったと考えられているような凶器としては、物理的に使うことができないということである。以下では、なんらの痕跡も残していないとされている死体の除去の件を検証してみよう。

 

 

5. トレブリンカ:痕跡のない死体の除去

5.1 埋葬壕

 エリアフ・ローゼンベルク18によると、ガス室のドアが引き上げられたのち、死体(合計85万ほど)は、長さ394フィート、幅49フィート、深さ20フィートの壕に運ばれた。ローゼンベルクの証言にもとづいて、トレブリンカの砂粘土質の土壌だと65度の傾斜となり、大量埋葬地を覆う土の層が1.6フィートであるとすると、埋葬壕は282500立方フィートの容積であったことであろう。

 死体は壕に横たえられて、死体の各層に土の層がかぶせられたという証人もいれば、死体はでたらめに壕に投げ込まれたという証人もいる。どちらであっても、1㎥につき8体ほど(44立方フィート10体)となる。したがって、それぞれの壕は64000名を収用したことになる。興味深いことに、証人の誰一人として、大量の掘り起こされた土――土の20%がばらけてしまうと考えると、339000立方フィートとなる――については言及していない。自然の地面に掘られた壕の傾斜は、掘り起こされた土の山の傾斜よりもはるかに険しいことが知られている。いわれているところの埋葬壕の面積が19300平方フィートであり、掘り起こされた土や砂の傾斜は30度ほどであり、そして、死体を覆っていた土35300立方フィートを引くと、掘り起こされた土が占める面積は高さ20フィート、広さ28000平方フィートとなり、それが壕のそばに存在することになる。

 スロヴェニアの歴史家トネ・フェレンツェ(Tone Ference[74]によると、トレブリンカU収容所区画の中にあったとされる上部絶滅区画は、172000平方フィートであったという。しかし、この数字に対する異論を未然に防ぐために、ここでは、文書資料による計画の指摘する絶滅区画の規模、すなわち193700平方フィートを考察の土台とすることにする。この区画には、埋葬壕と、それを発掘したときに掘り起こされた土だけではなく、ガス室その他の建物も存在したという。デムヤンユクに対するイェルサレム裁判での875000名の死者という数字を認めるとすると、ローゼンベルクによる14の埋葬壕、掘り起こされた460万立方フィートの土が、これらの死体の収用には必要となる。これらの14壕は271150平方フィートの区画を占有するので、193700平方フィートにすぎない絶滅区画にはあてはめることができない。さらに、14の埋葬壕を掘り起こしたことによる掘り起こされた土の山は、さらに392000平方フィートを占有することになるであろう。

 もしも、300万の犠牲者という説が正しいとすると、910000平方フィートを占める47の埋葬壕が必要となるであろう。掘り起こされた土の占有区画を含めないでも、これだけでも、トレブリンカUの区画のほぼ3分の2を占有することになるであろう。

 最後に、20フィートの深さの埋葬壕についてもコメントしておこう。第一に、このような深さの壕を掘ることは、傾斜路を建設するにあたって複雑な重機が必要であり、費用もかかってしまうので、ありそうもないと思われる。トレブリンカで使われたと思われる発掘器はこの仕事を果たすには十分ではなかったに違いない[75]20フィートの深さにまで掘れば、地下水の浸透がはじまり、このような深さの壕を建設したり、使用したりすることが、妨げられ、困難となることであろう。大きな埋葬壕をもったトレブリンカTはトレブリンカUの近くにあったとされているので、地下水のレベルが20フィート以下であったことは十分にありうるであろう。より現実的な10フィートほどの深さの壕を想定するとすれば、上記の面積の壕には35000名ほどの死体を収用できる。その場合には、掘り起こされた土が占有する区画を除いても、484200平方フィートを占める25の壕が必要である。掘り起こされた土自体は570300平方フィートを占有し、合計で110万平方フィートとなるであろう。300万の犠牲者を処理するには、167万平方フィートを占める86の壕が必要であり、これに加えて、掘り起こされた土が占める区画が必要となる。

 アウシュヴィッツの場合には、事件についての証人の証言にもとづく犠牲者数が、事件についての技術的・物質的検証結果にもとづいて、絶えず、そして現在も下方修正されている[76]。化学的事実というものは、いつも宗教的ドグマの敵なのである。

 

5.2 死体の除去、痕跡なしではない

 痕跡なしの犠牲者の除去は、ホロコースト全体の証拠の要である。痕跡なしの除去は、犠牲者の数がばらついていることの前提条件となっている。だから、トレブリンカでの犠牲者の数は70万から300万にまでわたっているし、このような事例はその他のケースでも生じている[77]。大量殺戮に関する証言には技術的に不可能な話が多いが、この話は、痕跡なしで死体を処理したというまったく信じられないような話と交じり合っている。数百万の死者を簡単に消し去ることはできない。カチン事件では、ソ連は4500名のポーランド軍将校を殺害し、この件は1943年に露見しているが、この事件について考えていただきたい[78]

 目撃証言によると、ヒムラーは、殺害の証拠を除去するために、トレブリンカ絶滅収容所の死体の焼却を命じ、この命令は1943年3月に出されたという[79]。ここには、すでに埋められていた死体を掘り起こし、それを焼却する作業も含まれていた。トレブリンカでのこの作業は1943年3月から8月まで行なわれたというが、これについては、さまざまな目撃証言が存在する。

 エリアフ・ローゼンベルクは死体の焼却について次のように述べている。

 

「ヒムラーは、収容所を巡察したのち、壕にある死体すべての焼却を命じました。…この目的のために、2本の鉄のレールがたがいに平行に地面に敷かれ、発掘器が壕から掘り出した死体が、焚き木のように積み上げられました。とくに、最近殺された死体がよく燃えないことがしばしば起こりましたので、私たちは、ガソリンを注がねばなりませんでした。…この当時、焼き場は一つしかなく、もちろん十分ではありませんでしたので、1日100体以上を焼却することはできませんでした。ヘルベルト・フロスという名のSS上級隊長が隣の収容所から連れてこられました。…彼は、5つか6つの焼き場を設置して、死体を積み重ねる新しい方法も導入しました。…」[80]

 

 彼は、イェルサレムでのデムヤンユク裁判でも、こう証言している。

 

「トレブリンカでは、私たちは子供たちの方が大人よりもよく燃えることを学びました。火をつけるにはマッチだけで十分でした。だから、ドイツ人は、子供たちを追い立てて、私たちに子供を最初に壕に投げ込むように命じたのです。」[81]

 

 証人スジャ・ワルシャフスキ(Szyja Waszawski)は1942年7月にトレブリンカにやってきて、塩素を使って、少なくとも1日10000名をガス処刑したと証言しているが、焼却については次のように述べている。

 

「…普通、死体は、深さ33フィート、長さはその何倍もの壕に投げ込まれました。1943年1月、…5つか6つの格子が設置されました。格子は鉄のレールから作られており、それを地上2フィートほどのセメントの柱が支えていました。格子は長さ33フィート幅13フィートでした。下で、火が付けられました。死体は発掘器によって焼却格子の上に積み重ねられました。いったん死体に火がつきますと、そのまま燃え続けます。大量焼却は1943年2月末に始まりました。焼却のあとに残った灰は、死体が前もって引き出されていた壕に投げ捨てられました。現場をカモフラージュするために、えんどう豆の種がまかれ、森から木が運ばれて植えられました。…いくつかの壕では、上の死体の層だけが掘り起こされました。残りの死体は土で覆われ、やはり、現場はカモフラージュされました。」[82]

 

 これらの話にある、奇妙な点、矛盾した点についての詳細については立ち入らずに、さらに、ヴァシリイ・グロスマン(Wassily Grossmann)の著作『トレブリンカの地獄』から、焼却のことが記載されている箇所を引用しておこう。

 

「当初、死体の焼却はうまくいきませんでした。死体に適切に火がつかなかったのです[ママ]。しかし、女性の死体のほうが簡単に燃えることがわかりました。大量の高価なガソリンとオイルが死体に火をつけるために[ママ]消費されましたが、結果は哀れなものでした。…SSの専門家が…ドイツからやってきました。ヒトラー体制は、多彩な能力を持つ専門家を生み出したものです。…数百万の死体を掘り起こして、焼却する専門家も発見されました。

 彼の指示のもとで、焼き場の建設が始まりました。特殊なもので、焚き木と炉を混ぜ合わせたようなものでした。…発掘器が、長さ820−980フィート、幅80フィートほど、深さ16フィートの焼却壕を掘りました。地面から40−50インチほど突き出た強化コンクリートの柱が、壕全体に沿って、3列に均等に配置されました。これらの柱は壕全体にかかっている梁を支えていました。この梁の上に2−3インチずつ離れてレールが敷かれていました。このようにして、格子状の巨大な焼き場が作られました。…まもなく、同じ大きさの2番目、3番目の焼き場が作られました。1つの格子には一時に3500−4000名が積み上げられました。

 死体の焼却に参加した人々は、この焼き場が巨大な火山に似ていたことを覚えています。…真っ黒で大きな煙の列が空に向かって昇っていました。…20−30マイル離れていても、収容所の周囲の松林の上を立ち上る炎を、夜でも見ることができました。あたりいったいは燃える人肉の悪臭で一杯になりました。…その痕跡は消し去ることができないものです。」[83]

 

 ヤンキエル・ヴィエルニク(Jankiel Wiernik)は、長いあいだ焼却に直接参加したと証言しているただ一人の証人であるが、次のように書いている。

 

「女性の死体は男性の死体よりも簡単に燃えることがわかりました。したがって、女性の死体は火をつけるために使われました。」[84]

 

リチャード・グラザールは簡潔に次のようにコメントしている。

 

「人間の死体はよく燃えるわけではない、まったく逆である。」[85]

 

 ラッヘル・アウエルバッハは、さまざまな目撃証言をまとめて、次のように要約している。

 

「ポーランド人は、ユダヤ人の死体から石鹸を作る方法について依然として語っている。…ラングフールのシュパンナー教授の石鹸工場の発見は、それらの疑惑には十分根拠があることを証明した。証人たちは、死体が焚き木のうえで燃やされたとき、流れ出した脂肪をためるために皿が棚の下に置かれたと述べているが、このことは確証されていない。しかし、たとえ、その他の死の工場でドイツ人がこれに失敗し、何トンもの貴重な脂肪を無駄にしていたとしても、それはドイツ人の失策にすぎない。[86]

 トレブリンカでは、その他の場所と同様に、絶滅の科学の点で、かなりの前進が見られた。すなわち、女性の死体は男性の死体よりもよく燃えるという、きわめて独創的な発見などである。

 『男性の死体は女性死体なしでは燃えないものである。』…女性の死体は火をつけるために、もっと正確にいえば、死体の山のあいだに燃えている場所を設定するために使われた。…血も、第一級の燃焼資材であることがわかった。…若者の死体は、老人の死体よりも速く燃える。…ガソリンと、太った女性の死体の助けを借りて、死体の山は炎になっていった。」[87]

 

 イツァク・アラド(Yitzhak Arad)は科学的なふりをしながら、次のように述べている。

 

「死体は、2mの高さで焼き器の上に積み重ねられた。…すべての準備が整ったとき、焼き器の下に置かれた乾燥した木材に火がつけられた。死体を積んだ全体がすぐに炎に包まれ、…炎は10mの高さにまで達した。…焼却に責任を負ったSS隊員は、死体は余分な燃料なしで十分に燃えることを知るようになった。『焼却グループ』メンバーであるイェチエル・ライヒマンは、『死体焼却のSS専門家が、グリルの最初の層に、女性を、とくに、太った女性を積むように命じた。第二の層は、男性であっても、女性であっても、子供あってもよかったし、それは一番上の層もそうであった…』と述べている。[88]

 これらの[新鮮な]死体は、壕[すなわち、墓]から掘り起こされた死体と同様に、よく燃えなかったので、火をつける前に、燃料をその上にまかなくてはならなかった。」[89]

 

 しかし、ホロコースト正史派の人にも、何かが奇妙であるとうつったようである。Jean-François Steinerは、焼却に必要な膨大な木材(燃料)から生じる問題点について生き生きと描いている。

 

「おもな費用は法外となる。大量のガソリンは別として、やはり大量の丸太が必要であった。最後の手段として、ポーランドの森林すべてが残っているとしても、ガソリンは不足してしまうであろう。スターリングラートが陥落し、それとともに、カフカース地方の豊かな油田は、まぼろしのように無に帰してしまった。」[90]

 

 しかし、J.-F. Steinerは多くの目撃証言を編集しているが、この苦境から抜け出す道をうまく見つけている。彼もまた、自発的に燃えていく死体に偶然出会っているのである。

 

「簡単に火のつく死体と、なかなかつかない死体があった。火のつかない死体を燃やすために、火のつく死体を利用するという工夫がなされた。彼の[ヘルベルト・フロス]研究によると、古い死体のほうが新しい死体よりも、太った死体のほうがやせた死体よりも、女性の死体のほうが男性の死体よりも、女性ほどではないが子供の死体のほうが男性の死体よりもよく燃える。ここから、太った女性の古い死体が理想的な死体となった。」[91]

 

 収容所には、焚き木を供給することを職務とする集団が存在したこと指摘している目撃証言がある。これに対して、アブラハム・クルツェピツキ(Abraham Krzepicki)とサミュエル・ヴィレンベルク(Samuel Willenberg)は、カモフラージュ目的で絶滅収容所のフェンスを飾るために、木から枝を切り落とす集団についてだけを言及している[92]。アラドは、当初は建設と焚き木用木材を提供していた「木材労務班」がのちには焼却用の木材も提供しなくてはならなくなったと述べている[93]。しかしながら、証人やホロコースト信者のあいだでは、木材は死体の山が燃え出し、自分自身で燃えていくまでの、キャンプファイアーの火付け手段にすぎなかったという点については、意見が一致している。グラザールだけが「木材労務班」の詳細を提供している唯一の人物である。それによると、木材労務班は25名から構成されており、それが提供する枝や小枝は少なかったので、25名の「カモフラージュ作業班」は伐採されていない木に登って余分な枝を切り離さなくてはならなかった。切り離された枝は、外部から収容所を遮断するために、収容所のフェンスに組み込まれたという[94]。明らかに、[木材作業班]はそんなに多くの木を伐採しなかったのである。

 ちなみに、スティーブン・スピルバーグは、前述の「証人たち」からすぐに学び取ったようである。『シンドラーのリスト』の中で、彼は、死体を巨大な死体の山に運んでいく巨大なコンベア・ベルト、自分自身で燃えていく死体のシーンを描いている[95]

 

5.3 死体の焼却もしくは犠牲者の焼き殺し?

 多くの目撃者は、その話が矛盾していようとも、トレブリンカUでの絶滅活動の詳細を数多く物語っている。しかし、死体の除去、すなわち、焼却に必要な燃料問題は無視されているか、容認しがたい説によって、ごまかされているか、拒まれている。このような一貫した姿勢は、解決できていないこの問題が意図的か無意識的に押さえつけられていることを示唆している。ヴァシャフスキは、次のように述べているが、それは、燃料問題についてのもっとも安易な解決である。

 

「…いったん死体に火がつきますと、そのまま燃え続けます。」

 

 グロスマンは方向を変えている。

 

「死体に適切に火がつかなかったのです。…死体に火をつける」

 

 証人たちは、女性の死体が自分自身でとくによく燃え、他の死体に火をつけたり、燃やすことに役立ったという点では意見が一致している。こうした主張は、たんに火をつけるだけで、死体を燃やすには十分であることを前提としている。

 しかし、このような安易な方法では、死体の焼却問題を真に解決できない。オイル燃料焼却棟、天然ガス燃料焼却棟、石炭燃料焼却棟が世界各地に存在し、使用されているという事実自体が、このように安易な方法を反駁しているし、また、自然の法則にも反しているからである。人体の65%は燃えることのない水でできているからである。

 1993年9月に大地震がインドで起き、20000名ほどの命が失われたとき、死体の焼却に必要な燃料(木材)が適時に提供されなければ、疫病が蔓延することであろうと恐れられた。インドでは死体の焼却は、長いあいだ一般的であったが、それでも、国が燃料不足であるにもかかわらず、自分自身で燃えていくような死体は発見されていない。

 心理学者は虚偽証言を研究すべきである。この証言が扱っている事件に、科学的、文学的に類似した事件がこれまでまったく存在していない場合、文学的な経験というかたちで証人のサブ意識に入り込んでいるにちがいないからである。証人たちの主張に何らかのかたちで関係した事件は、ドイツの有名な子供用の絵本Der Struwwelpeterの中に見出すことができる。マッチで遊んでいる少女パウリンヘンの恐ろしい運命が、子供たちに同じようなことをしてはならない教訓として描かれている。パウリンヘンに残ったものといえば、灰の山と少女靴だけだったのである。

 

 

2:

The sad tale of the matches, from Der Struwwelpeter by Dr. Heinrich Hoffmann.

 

 パウリンヘンは完全に燃え尽きてしまい、残ったのは小さな灰の山であったが、この話はヴァシャフスキその他の話の心理的な鍵である。とすれば、燃えなかったパウリンヘン靴はベルゼクについてゲルシュタインの物語の鍵であろう。ベルゼクでは、5歳になるという子供が、ガス処刑されるユダヤ人の靴を集めて、その結果、何と40フィートほどの靴の山ができたという73。このような話は奇妙なことに類似しているが、子供のときの重要経験を反映しているような未知の共通資料にさかのぼることができるかもしれない。物語の作者はハインリヒ・ホフマン博士である。オリジナル版では、引用箇所のところにダヴィデの星がのっているが、これ以上の考察はやめておこう。

 焼却格子についての目撃証言がまったく信じられないものであるすれば、グロスマンが本のなかに記している話も、まったく病的な想像の産物にすぎない。「ボイラー壕」という単語は、ほかの文書にもなく、まったく意味をなさないが、心理学者の研究対象には十分になる。このような用語法の目的は、素人の聴衆に話し手の権威を納得させ、無知に付け込んで、罪の意識を植え付け、嘘を本物として信じさせることである。

 さらに、グロスマンは焼却格子について、何と強化コンクリートの柱と40インチの高さの鉄製の梁が壕全体に設置され、それに沿って、レールが2−3インチずつ離れておかれていたと述べている[96]。ということは、1mごとに約5本のレールがあることになる。壕の幅は82フィートほどであるといわれているけれども、レールの長さを40フィートとすると、レール全体の長さの合計は11マイル以上となってしまう。グロスマンは、数百万の死体を焼却するために、さらに2つのボイラー壕が存在したと述べている。とすると、レールの長さの合計は33.5マイルとなる。これらのレールは一体どこから運ばれてきたのであろうか。グロスマンによると、焼却格子には3500−4000の死体が積まれたという。この数をどのような勘定したのか。誰が格子の上に積み上げたのか。どのようにして積み上げたのか。

 その規模から考えると、1つの焼却格子の面積は38700平方フィートとなる。3つのボイラー壕があったというのだから、合計の面積は116100フィートとなる。すなわち、ほぼ、この死の収容所全体の面積に等しいのである。掘り起こされた土の量は286万立方フィートとなり、大量埋葬地よりも多い。ワルシャフスキのはるかに小さな焼却格子が死体の山を処理していた一方で、グロスマンは1平方ヤードの格子につき1体で満足している。グロスマンの場合、焼却が5時間で終わる(骨を灰にする作業なしで)と仮定すると、焼却が「24時間連続」で行なわれた理由は理解しがたい。いずれにしても、灰を取り除き、燃料を補充するために、火を消さなくてはならないであろう。しかし、グロスマンによると、死体は自分自身で燃えるだけではなく、まったく残余物を残さずに燃えるというのである。さらに、グロスマンは燃料についてはまったく触れていない。

 このような話は妄想から作り出されており、驚くべきものであるが、数百万の人々がこの話を信じているというのも驚くべきことである。一体、どれほどの数のレールや鉄筋コンクリートの柱が必要となるのであろうか。また、誰がこれらの資材を運んだのであろうか。

 死体はトレブリンカUの壕の中で、液体燃料によって焼却されたという証言もある。メチル・アルコールやガソリンが使われたというのである。[97] 一般的に、戸外焼却では、燃料からのエネルギーのごく少ない割合しか、焼却物体に作用しない。これとは逆に、隔壁を持つ炉では、熱は狭いスペースに集中する。

 高温と高密度の燃料を使ったレベルの高い焼却には、十分な酸素供給と、燃料の散布が必要である。このことは単純な事実であり、実際にも、たとえば、アルコール・ストーブやトーチランプでは、燃料と空気ノズルが重要である。このようなやり方が、燃料噴射や空気拡散というかたちで内燃機関でも広く使われている。数ヤードの深さの壕では酸素供給が不十分であるために、目撃証言のようなかたちでの死体の焼却は物理的に不可能である。古代ローマ人の使った暖炉を参考にしていただきたい。このように古い時代にあっても、ローマ人たちは、地下の導管から暖炉に空気を供給することを知っていたのである。

 戸外で、液体燃料を使って死体を焼却しようとすれば、焼却格子の下に金属皿を敷いて、燃料が地中にしみこんでしまうのを防がなくてはならない。そうでなければ、液体燃料を使った焼却に必要なエネルギーは、木材や石炭といった固形燃料を使った焼却に必要なエネルギーよりも多くなってしまう。また、焼却格子の様子を考えると、死体の一部がガソリンの入った金属皿におちこんでしまうという問題も発生するであろう。人間に死体に液体燃料を注ぎかけても、死体は焼却されるのではなく、炭化するだけである。[98]

 焼却棟の燃焼室で1体を完全に焼却するには少なくとも66ポンドの石炭が必要であるとすると[99]、戸外で、それも適切な設定を使った場合に、同じように焼却するには少なくとも16ガロンのガソリンが必要である。トレブリンカについての証言からの技術的条件のもとでは、イェルサレムのいうところの875000名の犠牲者の死体の焼却には1320万トンのガソリンが必要となる。毎日10両のガソリン燃料運搬貨車――せいぜい合計2000――が必要であるとすると、この燃料運搬車の長さは9.3マイルとなる。しかも、このような運搬が行なわれている時期は、戦闘機や車両がガソリンを緊要に必要としていた時期に重なっているのである。

 1986年11月27日のニューデリーのSchenectady Gazette紙の記事によると、長年の死体の焼却のために森全体が伐採されてしまったために、焼却問題と木材消費が、インドの住民の切実な関心となっているという。この記事によると、毎日の21000体の焼却には6433トン、すなわち1体あたり675ポンドの木材が必要であるという。

 反論が予想されるであろうから、あらかじめ、大量焼却のための木材消費量を、1体に付き675ポンドから440ポンドに減らしておこう。さまざまな目撃証言によると、焼却は8月初頭まで、合計185日間ほど続いたという。とすると、毎日最低でも4700体が焼却され、乾燥木材950トンが必要となる。技術ハンドブックHütteによると、1トンの木材の容積は74.15立方フィートで[100]、燃料用の木材1トンの容積は109.5立方フィートである[101]。ということは、毎日の焼却のためにトレブリンカが必要とする木材の容積は、104000立方フィートとなる。この容積をイメージするには、高さ3フィート、幅3フィート、長さ1.75マイルを思い浮かべればよい。これが、毎日である!

 ワルシャフスキのいうところの焼却格子は幅13フィート、長さ33フィートであり、地上から1.5フィートの高さであった。したがって、格子の下には650立方フィートほどのスペースがある。木材に十分な空気(酸素)を送るためには、最大でも、このスペースは530立方フィートとなる。これに対応する木材の重さは、10600ポンドとなり、何と24体を焼却できるだけである。この場合、死体の焼却に2時間(これはきわめて非現実的であるが)しかかからないとしても、「24時間連続」の焼却でも、せいぜい288体を処理できるだけである。目撃証言は格子の上に死体を山のように積み上げたと述べているが、そのようなことをやっても、炎から遠ざかってしまうので、うまくいかないであろう。そして、4700体を毎日焼却しなくてはならないとすれば、16以上の焼却格子が必要となり、その面積の合計は6890平方フィートなってしまう。

 木材を焼却場所にストックすること、灰と骨を取り除くことは、今日まで無視されてきた問題である。格子の下の熱、燃え上がる死体からの悪臭を考えると、火をつけたままでこの作業を行なうことは不可能であろう。それゆえ、目撃証言が述べているような、連続的焼却や焼却格子の使用は不可能であろう。だから、4700体を焼却しようとすれば、少なくとも倍の数の焼却格子が必要となるであろう。

 焼却された死体の数を調べるには、それに必要な木材の元手、処理、搬送をさらに検証しなくてはならない。トレブリンカでの焼却全体には、4億3000万ポンド、すなわち195000トンの乾燥木材が必要であった。ヒムラーはこの焼却を短期間で行なえと命令したことになっているので、このように大量の乾燥木材を手に入れることは不可能であろう。このために、新鮮な(緑の)木材が必要となるが、その燃焼カロリーは低い。乾燥木材の燃焼カロリーは1kgあたり3600キロカロリーであるが、緑の木材は、2000キロカロリーにすぎない。このために、必要な木材の総量は351000トンに増え、毎日必要な緑の木材の合計は1900トンほどとなる[102]。普通の木の重さが1500ポンドとすると、必要な木の合計は51500本ほどになる。

 必要な量の木材を手に入れるには、2つの選択肢がある。1つは、収容所の近くに広い森林地帯があり、そこから必要な量の木材を車両で搬送する方法である。もう1つは、木材を遠方から貨車で搬送する方法である。

 まず、木材供給地が近くにあった場合を考察しよう。15トン・トラックが毎日3回積み下ろしをしたとすると、126回の搬送が必要となり、42台ほどのトラックを使うこととなる。しかし、このようなトラックの列を証言している目撃証言は1つもない。毎日、2800本の木を伐採・枝落とし・切断および積み下ろしに必要な労働力についても同じことがいえる。当時の原始的な条件を考慮すると、二人の男で、1本の木の伐採・枝落とし・切断および積み下ろしをすると仮定すると(まったくの妄想であるが)、必要な木こりの数は少なくとも5600名となる。

 このように大量の木材を供給するにはどれほどの森林が必要であるかといえば、1エーカーに付き325本とすると、515000本では1590エーカー、すなわち2.5平方マイル弱の森林が必要であろう。しかし、目撃証人も地元住民も、このように広大な森の木が伐採されたことに気がついてはいない。そして、もし存在していたとすれば、この現場は今日でも残っているはずである。

 次に、必要とされる量の木材が地元になく、たとえば、鉄道貨車に積まれて搬送されてこなくてはならなかったとしよう。このシナリオの算術計算をしてみると、30トンの資材をつむ63両からなる貨物列車が、毎日、収容所で木材の荷おろしをすることになる。合計185回の貨物列車である。この列車の長さの合計は、なんと116km、すなわち72マイルとなる。ここで問題が生じる。この膨大な木材輸送に関する、ドイツ鉄道の文書はどこにあるであろうか。ドイツ鉄道当局は、無償でこのような輸送はしないであろうし、記録文書を残さないこともないであろう。

 875000名の死体が跡形もなく消しされられたという説に関しては、残った灰の量も考えておかなくてはならない。少なく見積もると、乾燥木材1トンに付き6.6ポンドとなる101。とすると、残された灰の量は1000トンほどになる。10トントラックで100台である。

 人体のうち灰の占める割合は、体重の5.6%である[103]。体重132ポンドであれば、灰は7.3ポンドである。875000名の死体からの灰の量は6387500ポンドとなる。木材からの灰と人体からの灰の量を合計すると、ほぼ4000トン、すなわち860万ポンドとなり、(目撃証人によると)そのすべてが土と混ぜ合わされて、壕の中に投げ返されたという[104]。この量の灰が、焼却壕からのほぼ353万立方フィートの土と混ぜ合わされてとしても、大量の灰の痕跡を発見することは簡単であろう。また、目撃証人の述べているような条件のもとでは、死体を焼却しても、骨は灰にはならず、そのまま残ってしまうことも指摘しておかなくてはならない。

 目撃証人たちは、死体の骨は砕かれ、何回も細かくされて、証拠が残されないようにされたと述べている。彼らの述べているような原始的な道具、すなわち、骨を砕くための木製のローラーと薄い金属板では、1時間に2体の骨を砕くことができるだけであろう。したがって、一人のユダヤ人労働者が1日20体の骨を砕くとすると、この仕事だけで240名のユダヤ人労働者が必要となる。木材を手に入れる要員5600名、骨を砕く要員240名、火をくべる要員150名を合計すると、ほぼ6000名のユダヤ人労働者が、週7日の仕事をすべて片付けるのに必要となる。さらに、目撃証人の話によると、壕から土を掘り出したり、埋めたりする作業、カモフラージュ作業、殺されたユダヤ人の貴重品の区分け作業、犠牲者の毛を切ったり、金歯を抜き出す作業、SSへの奉仕作業、食料の割り当てや配給作業などがあったというから、これ以外にも数百名のユダヤ人労働者が必要であったろう。そして、いつでも、補充がなされなくてはならなかった。このために、収容所は、恒常的な労働力として少なくとも8000名を必要としたであろう。しかし、目撃証人によると、これとはまったく対照的に、トレブリンカでのユダヤ人労働者は700名にすぎなかったといわれているのである[105]

 最後に、犠牲者の歯は、目撃証人の言うところの原始的な方法では破壊されなかったことを指摘しておかなくてはならない[106]。普通の人の歯は32本であるが、犠牲者の歯が20本であったとしても、トレブリンカでは、少なくとも1750万本の歯が処理されなくてはならなかったはずである。ということは、犯罪現場で掘り起こされた353万立方フィートの資材1立方フィートにつき5本ほどの歯が発見されるはずである。

 以上の計算すべては、イェルサレムの法廷が特定した犠牲者数(875000名)にもとづいている。もしも、グロスマンその他のいうように、トレブリンカの犠牲者が300万であるとすると、これまでの数字を3.5倍しなくてはならないことになる。死体を毎日焼却する木材6650トン、木材の合計120万トン、200万本ほどの木、252マイルの長さとなる輸送貨車が必要となる。13700トンほどの灰と、少なくとも6000万の歯を隠匿しなくてはならない。この作業に必要な20000名のユダヤ人労働者は一体どこに存在していたのであろうか。

 

5.4 トレブリンカでは実際には何が起ったのか

 ここでは、われわれの見解ではなく、ポーランド歴史学会のAmicus Curiae Brief(ジョン・デムヤンユクの弁護のために提出された)の一部を引用しておこう。この報告は、ポーランド当局が行なったトレブリンカの調査結果をあつかっている。

 

「航空写真と現場の発掘写真を組み合わせて、われわれはトレブリンカUの大量埋葬地の現場とその大きさを確定することができた。ガス室であったといわれている大きな建物(30×15m)の土台は、見ることができない。

 航空写真[1944年にドイツの偵察機が撮影した]では、トレブリンカUの大量埋葬地の面積は、4500体が埋められていたカチンの森の大量埋葬地の一つよりも10%ほど小さい。同じ航空写真には、トレブリンカT収容所から3kmほど離れたところに41の小さな大量埋葬地が写っている。ナチスはトレブリンカTの犠牲者を掘り起こして焼却しなかった(展示証拠83[[107]…])トレブリンカTの小さな大量埋葬地の大きさは、1945年にポーランド裁判所当局が発掘して裁定しており、ほぼ10000体が埋められていた。展示証拠85[[108]…]

 また、1944年8月に何回か撮影された地上写真を使って、トレブリンカUの大量埋葬地の正確な幅を確定できた。展示証拠87[[109]…]この情報と、航空写真による長さを組み合わせると、埋葬地の大きさを正確に確定し、この埋葬地にはどのくらいの死体が埋められていたのかを算出できる。それは、2000体から4000体のあいだであろう。この数字は、いわれているところの900000名の死者という数よりもはるかに少ない。1年にほぼ100万人がトレブリンカU収容所を通過していき、そこに行き着くまでには平均3日間のつらい鉄道移送があったので、2000−4000名という死者は、ワルシャワゲットーの住民の非常に高い死亡率に一致する。

 われわれが集めた情報によると、トレブリンカUの死体は、証拠を隠匿するために、掘り起こされて、焼却されたのではなく、ブク川の水位が上昇したときに、疫病の蔓延を防ぐために、掘り起こされて、焼却されたのである。トレブリンカTの大量埋葬地の10000名ほどの死体は、上昇した水位よりも上にあったので、掘り起こされもせず、焼却もされなかった。

 トレブリンカ収容所に対しては、解放後に2回調査が行なわれた。1つは第65赤軍に所属するソ連・ユダヤ委員会が1944年に実施したもの、もう1つは、シエドルツェのポーランド地方裁判所当局が1945年に実施したものである。…

 ソ連・ユダヤ委員会はトレブリンカTの大量埋葬地についてかなり良質な検証を行ない、詳細な報告書を執筆した。展示証拠89A。トレブリンカTの埋葬地には10000名ほどが埋められており、それは、トレブリンカUの大量埋葬地よりも、少なくとも3倍多かった。展示証拠90。

 1945年11月、シエドルツェのポーランド地方裁判所当局は、ニュルンベルク(国際軍事法廷)裁判にむけて、目撃証言のいうところの、トレブリンカU収容所での虐殺事件について調査するように命じた。ポーランド委員会は、生存者の話と、ソ連委員会による350万という膨大な数の犠牲者数に疑問を呈した。展示証拠91。その結果、ナチの犯罪の物理的証拠の発掘が熱心に試みられた。シエドルツェの地方裁判所ユダヤ人議長シュレブザクの監督の下で、30名以上の作業員の手を借りて、1945年11月に、法医学的調査と発掘が行なわれた。『トレブリンカ囚人協会』を代表する4名の旧囚人、ライツマン、グリンベルク、フリードマン、ミッテルベルクがいた。[110] 彼らの役割は、忘れがたい施設の場所を指摘することだけであった。彼らはほぼ1年にわたってその施設を目撃しており、そして、その施設は24ヶ月ほど前に解体されていた。すなわち、50000名の病人、老人、子供もが故意に射殺された野戦病院、巨大な大量埋葬地、赤いテラコッタのタイルが敷かれていたという13(10+3)のガス室のある2つの石造建築の場所である。展示証拠92。

 野戦病院の場所はすぐに見つかった。生存者は、50000名がこの場所で射殺されたと主張していた。しかし、徹底的な法医学的検証が行なわれた結果、移送されてきたユダヤ人の大量の小さな個人所持品、半分焼けた収容所の廃棄物、数十の外国コインが発見されたけれども、人骨の残余物、処刑に使われたはずである(少なくとも)50000発の弾丸の痕跡、50000発の薬莢の痕跡はまったく発見できなかった。展示証拠92A。

 トレブリンカUのガス室、すなわち2つの石造の大きな建物(1つは30m×15m)の場所については、生存者の意見が一致しなかった。これらの建物は、2ヘクタールの小さな『上部収容所』にあったはずなので、委員会は南北方向に、多くの長く深い壕を掘ってみた。しかし、1つの赤い、あるいは別の色のテラコッタタイルの破片も、この徹底した発掘調査では発見されなかった。展示証拠93。ガス室に使われていたセラミックタイルの壁や床の土台となるはずである厚いコンクリート板の痕跡、トレブリンカの砂混じりの土壌(深い凍結のため)で重い建造物を支えることのできるコンクリートか石の土台の痕跡もまったく発見されなかった。展示証拠94。」[111]

 

 1999年10月、専門家チームが、地中レーダーをつかってトレブリンカ「絶滅収容所」の地中を探索した。この装置は、65フィートの深さまで、物体の存在や掘り起しによる地層の乱れを検知することができる。そのデータによると、地中には地層の乱れが存在するいかなる証拠もなかった。[112]

 

6. まとめ

これまで論じてきたもっとも重要な点を要約すると以下のとおりである。

 

@          トレブリンカ「絶滅収容所」の場所、大きさ、内部構造に関する目撃証言は、首尾一貫しておらず、矛盾しており、実際の事実ともまったく合致しない。

A          いわれているところの殺戮手段はまったくの妄想にすぎない。このために、ディーゼル・エンジンを使う方法以外の殺戮手段は、記憶の穴の中に引き渡されてきた。

B          しかし、ディーゼル排気ガスは、人間の大量殺戮には向いていない。

C          重いディーゼル・エンジンから排気ガスを、密閉された煉瓦壁の部屋に注入すれば、この施設は破壊されてしまう。同じことが、この部屋から空気を除去するときにも起る。

D          目撃者が述べている、部屋の大きさ、密閉された部屋に閉じ込められた犠牲者の多さを考えると、比較的短時間で窒息状態が起ってしまうであろう。

E          いわれているところの焼却壕や焼却現場の面積は、いわゆる「死の収容所」全体の面積よりもはるかに大きくなってしまう。

F          経験的な知識および物理学の法則によれば、死体が自分自身で燃えることはない。

G          犠牲者の焼却に必要な木材の量は非常に大量であるので、この輸送を記録したドイツ鉄道管理局の文書があるはずであるが、そのような文書は今日まで発見されていない。また、トレブリンカの周囲で、広い森林地帯で伐採が行なわれたという証拠もない。

H          目撃証人は、大量の燃料が存在したこと、それが収容所や焼却現場に輸送されたことについてまったく触れていない。

I          660万ポンドもの骨を木製ローラー、金属板、すりこぎで細かく砕くことは、人体各部の証拠を一切消滅させるのにふさわしい方法ではない。

J          数百万の歯をこのような方法で砕くことはできない。

K          トレブリンカのガス処刑の犠牲者の死体を痕跡もなく消滅させる作業には、少なくとも3200名のユダヤ人労働者が必要であろう。

L          もしも、大量の灰、骨、数百万の歯が存在していたとすれば、それは今日であっても発見しうるであろう。

M          トレブリンカの発掘も含む、ポーランドの裁判所が命じた調査は、目撃証言をまったく確証していない。大きな大量埋葬地、人の灰、大量埋葬地や焼却壕を作るときに発生するはずである土壌の乱れは、まったく発見されなかった。

N          ドイツの航空写真や地中レーダーによる最近のデータを分析すれば、トレブリンカUもしくはその周囲で大きな地中構造の乱れはまったくなかったことがわかる。

O          目撃証人はドイツ人が収容所が解体されてから、草木を植えるなどのカモフラージュ活動を行なったと証言しているが、そのような活動が行なわれた痕跡はまったく存在しない。

P          ドイツ占領軍の公式Amtlicher Anzeiger1941年12月2日版によると、トレブリンカは労働収容所となるはずであった。[113] ドイツ軍当局が、収容所の開設を公式発表するのは意外なことかもしれないが、労働収容所については秘密のことなどまったくなかったのである。マルキニア収容所は、ベラルーシやウクライナの東部収容所へのさらなる移送のための通過収容所であったろう。

 

 最後に、ドイツ連邦共和国では、ホロコーストを議論する(「否定する」)ことは依然として刑事訴追の対象であることを強調しておかなくてはならない。裁判所は、ホロコーストの「自明的性格」を唱えているが、それはまさに、目撃証言だけにもとづいているのである。

 以上のことを考慮すると、イェルサレムのホロコースト記念館のスタッフでさえも、トレブリンカ収容所問題の核心が目撃証言にあることを認めている[114]ことは驚くべきことではない。[115]

 

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[1] Director of government relations for B'nai B'rith Canada, "Memory of Holocaust central to new world order", Toronto Star, Nov. 26, 1991, p. A17.

[2] とりわけ、多くのユダヤ人にとってのホロコーストの神学的意味についての以下の注釈ならびにPaulinchen の話についての注釈(5.3.)は、筆者がテュービンゲン地方裁判所によって法的に処罰された理由であり、裁判所は1995年初頭に本書を没収・破棄した。なんと、ユーモア、皮肉、冷笑はドイツでは法的訴追の対象となっているのである。

[3] F. Nietzsche, Der Antichrist, Insel-Verlag, Frankfurt/Main 1996, para. 52.

[4] Trial of E. B. Althans, Münchner Merkur, May 26, 1993; cf. The Journal of Historical Review (JHR) 13(5) (1993), p. 37.

[5] H. P. Rullmann, Der Fall Demjanjuk, Verlag für ganzheitliche Forschung und Kultur, Struckum 1987, p. 76.

[6] Cf. the cases of K. Linnas, F. Wallus and Feodor Fedorenko: H. P. Rullmann, op. cit. (note 5), pp. 87, 96ff., 164; U. Walendy, Historische Tatsachen (HT) no. 25, Verlag für Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1985, p. 35 (Wallus); U. Walendy, HT 34, ibid., 1988, p. 14 (Linnas).

[7] Memo of the Federal Minister of the Interior, Innere Sicherheit no. 1, Bonn, March 20, 1985.

[8] H. P. Rullmann, op. cit. (note 5), p. 77f., from News from Ukraine.

[9] Cf. memo from H. E. Wagner, Deputy Director of the Immigration and Naturalization Service, New York, Jan. 29, 1976.

[10] Cf. A. Hammer's correspondence, in H. P. Rullmann, op. cit. (note 5), p. 87ff.

[11] D. Lehner, Du sollst nicht falsch Zeugnis geben, Vowinckel, Berg am See n.d. [1988]; cf. H. P. Rullmann, op. cit. (note 5), p. 103ff.

[12] stern, March 5, 1992, pp. 198ff.

[13] For details cf. A. Melzer, "Iwan der Schreckliche oder John Demjanjuk, Justizirrtum? Justizskandal!", SemitTimes, spec. ed., Dreieich, March 1992, esp. pp. 3, 13; also Münchner Merkur, March 26, 1992. I am grateful to D. Lehner for further information, cf. op. cit. (note 11).

[14] Personal info. D. Lehner, July 26, 1993.

[15] H. P. Rullmann, op. cit. (note 5), pp. 118ff., 174ff.

[16] 700,000 is the figure cited, for ex., by the Institut für Zeitgeschichte; cf. the chapter by G. Rudolf, this volume; the highest figure is given in World Jewish Congress et.al. (eds.), The Black Book - The Nazi Crime against the Jewish People, New York 1946, reprint: Nexus Press, New York 1981, pp. 400ff.

[17] Jerusalem District Court, Criminal Case 373/86.

[18] E. Rosenberg, Tatsachenbericht, Jewish Historical Documentation, Dec. 24, 1947; pub. in H. P. Rullmann, op. cit. (note 5), pp. 133ff.

[19] Ibid., pp. 132, 145.

[20] Cf. A. Melzer, op. cit. (note 13).

[21] Cf. S. T. Possony, "The Ukrainian-Jewish Problem: Historical Retrospective", Ukrainian Quarterly 2 (1975), pp. 141ff.

[22] United Press International, Nov. 30, 1988, p. 2; cf. Annales d'Histoire Révisionniste (AHR) 6 (1988/89), p. 167.

[23] United Press International, Dec. 2, 1988, p. 2; cf. AHR 6 (1988/89), p. 167; デムヤンユクの2番目の弁護人はこの裁判にまつわるスキャンダル全体を公表している。Yoram Sheftel, The Demjanjuk Affair. The Rise and Fall of the Show Trial, Victor Gollancz, London 1994. ぜひ、お読みいただきたい。

[24] E. Loftus, K. Ketcham, Witness for the Defense, St. Martin's Press, New York 1991; cf. J. Cobden, JHR 11(2) (1991), pp. 238-249 (online: vho.org/GB/Journals/JHR/11/2/Cobden238-249.html); more general: E. Loftus, K. Ketcham, The Myth of Repressed Memory, ibid., 1994; in abbreviated form: E. Loftus, "Creating False Memories", Scientific American, Sept. 1997, pp. 50-55.

[25] H. P. Rullmann, op. cit. (note 5), pp. 23, 100, 124, 145, 191.

[26] Ibid., p. 19.

[27] Ibid., pp. 17, 21.

[28] Ibid., p. 26.

[29] The Plain Dealer (Cleveland/Ohio), Oct. 1, 1986; cf. H. P. Rullmann, op. cit. (note 5), p. 26.

[30] New York Post, March 17, 1990; The Washington Times, March 19, 1990; The New Republic, Oct. 22, 1990.

[31] "The Week with David Brinkley", ABC Television, Sunday, Dec. 8, 1991.

[32] T. Skowron, Amicus Curiae Brief, Polish Historical Society, PO Box 8024, Stamford, CT 06905, 1992; similar efforts were undertaken by the Ukrainian Friends of Fairfield Association, ibid., which, however, is probably to some extent identical to the Polish Historical Society.

[33] The daily press of July 30, 1993.

[34] Die Welt, Aug. 2, 1993.

[35] For the history of the Demjanjuk Trial, cf. J. A. Brentar, JHR 13(6) (1993), pp. 2-8; J. Sobran, JHR 13(6) (1993), pp. 9f..

[36] The Plain Dealer, Cleveland, Feb. 21, 1998.

[37] "Accused Nazi Death Camp Guard Seeks $5 Million From Justice Department", AP, March 14, 2000.

[38] For the most important witness accounts, cf. E. Klee, W. Dreßen, V. Rieß (eds.), "Schöne Zeiten". Judenmord aus der Sicht der Täter und Gaffer, S. Fischer, Frankfurt/Main 1988; see also the works cited further on, as well as World Jewish Congress (ed.), op. cit. (note 16).

[39] U. Walendy, Historische Tatsachen no. 12: "Das Recht, in dem wir leben", Verlag für Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1982, pp. 28-35; and esp.: ibid., no. 44: "Der Fall Treblinka", 1990.

[40] Some examples: H. P. Rullmann, op. cit. (note 5), p. 151; G. Sereny, Am Abgrund, Ullstein, Frankfurt/Main 1979, p. 154; R. Glazar, Die Falle mit dem grünen Zaun, Fischer, Frankfurt/Main 1992, p. 191; A. Donat (ed.), The Death Camp Treblinka, Holocaust Library, New York 1979, pp. 259 and 318f.; Y. Arad, Belzec, Sobibor, Treblinka: The Operation Reinhard Death Camps, University Press, Bloomington 1987, p. 39; E. Kogon, H. Langbein, A. Rückerl et.al. (eds.), Nationalsozialistische Massentötungen durch Giftgas, Fischer, Frankfurt/Main 1983, pp. 243f.; E. Jäckel, P. Longerich, H. J. Schoeps (eds.), Enzyklopädie des Holocaust, v. 3, Argon, Berlin 1993, p. 1431.

[41] District Court Frankfurt, Ref. 14/53 Ks 1/50; District Court Düsseldorf, Ref. 8 I Ks 2/64; ibid., Ref. 8 Ks 1/69.

[42] Sketch by K. Franz, in U. Walendy, "Der Fall Treblinka", op. cit. (note 39), p. 24; this also contains almost all the sketches mentioned in note 40, as well as those by R. Ainsztein, Jewish Resistance in Nazi-occupied Eastern Europe, Elek, London 1974, pp. 716ff. (p. 26).

[43] Camp sketch from the brochure Vernichtungslager Treblinka, Treblinka-Museum; U. Walendy, "Der Fall Treblinka", op. cit. (note 39), p. 29.

[44] Ref. No. GX 72 F-933 SK, exp. 139; cf. the chapter by J. C. Ball, this volume, as well as J. C. Ball, Air Photo Evidence, Ball Resource Service Ltd., Delta, BC, 1992, p. 88.

[45] World Jewish Congress (ed.), Lest we forget, Spett Printing Co., New York 1943.

[46] International Military Tribunal, Trial of the Major War Criminals, IMT, Nuremberg 1947, v. III, p. 567; Document PS-3311.

[47] J. C. Ball, Air Photo Evidence, op. cit. (note 44).

[48] T. Skowron, op. cit. (note 32), pp. 29ff.

[49] 焼却が始まったのは1942年秋のことであったという証人もいる。cf. R. Glazar, op. cit. (note 40), p. 34.

[50] E. Jäckel et.al. (eds.), op. cit. (note 40), p. 1430: 0.87 million; W. Benz (ed.), Dimension des Völkermords, Oldenbourg, Munich 1991, p. 468: 1.2 million.

[51] 例外は、とくにアウシュヴィッツについての最近の調査である。F. A. Leuchter, An Engineering Report on the alleged Execution Gas Chambers at Auschwitz, Birkenau and Majdanek, Poland, Samisdat Publishers, Toronto 1988 (online: www.zundelsite.org/english/leuchter/report1/leuchter.toc.html); Ger.: F. A. Leuchter, Der erste Leuchter Report, ibid.; R. Kammerer, A. Solms, Das Rudolf Gutachten, Cromwell Press, London 1993 (online: vho.org/D/rga/rgatoc.html); cf. the chapter by G. Rudolf, this volume.

[52] Central Commission for Investigation of German Crimes in Poland, German Crimes in Poland, Howard Fertig, New York 1982; cf. U. Walendy, Historische Tatsachen no. 44: "Der Fall Treblinka", op. cit. (note 39), p. 15. Walendy has recently reported about a hushed-up analysis of soil samples taken from the vicinity of the supposed mass cremations in Auschwitz, Historische Tatsachen no. 60: "Naturwissenschaft ergänzt Geschichtsforschung", Verlag für Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1993, pp. 6ff.

[53] E.g., cf. the statements of Jewish Holocaust expert Professor Dr. R. Hilberg, in Newsday, Feb. 23, 1983, part II/3: "an incredible meeting of minds, a consensus - mind-reading by a far-flung bureaucracy."

[54] M. Tregenza, "Belzec Death Camp", The Wiener Library, 41-42 (1977), pp. 16f.; Biuletyn Zydowskiego Instytutu Historycznego (Warsaw) 9-10 (1954), p. 307; Polish Fortnightly Review, Dec. 1, 1942, p. 4; New York Times, Jan. 20, 1942, p. 23, and Feb. 12, 1944, p. 6; Documents of the Foreign Office, FO 371-30917-5365 and 371-30924-5365; World Jewish Congress et.al. (eds.), The Black Book of Polish Jewry, Roy Publishers, New York 1943, p. 131; A. Silberschein, Die Judenausrottung in Polen, manuscript, Geneva 1944, pp. 21f.; S. Szende, Der letzte Jude in Polen, Europa-Verlag, Zürich 1945, pp. 291f.; cf. also C. Mattogno, AHR 1 (1987), pp. 82ff.

[55] IMT v. VII, pp. 576f.

[56] Regarding killing with steam cf. M. Weber, A. Allen, JHR 12(2) (1992) pp. 133-158, here 134-136 (online: vho.org/GB/Journals/JHR/12/2/WeberAllen133-158.html).

[57] World Jewish Congress et.al. (eds.), op. cit. (note 16), pp. 398, 407ff.

[58] A. Krzepicki, in A. Donat, op. cit. (note 40), p. 130.

[59] Biuletyn Zydowskiego Instytutu Historycznego (Warsaw) 1 (1951), pp. 96, 99.

[60] H. P. Rullmann, op. cit. (note 5), p. 130.

[61] A. Rückerl, Nationalsozialistische Vernichtungslager im Spiegel deutscher Strafprozesse, dtv, Munich 1978, pp. 39f., 43ff., regarding Treblinka Trial, p. 14.

[62] Cf. the Düsseldorf verdict in the trial of K. Franz, District Court Düsseldorf, Ref. 8 I Ks 2/64, reprinted in A. Donat, op. cit. (note 40), pp. 296, esp. pp. 300f., also pp. 34, 157, 161; Y. Arad, op. cit. (note 40), pp. 42f., 119.

[63] E. Rosenberg, in H. P. Rullmann, op. cit. (note 5), p. 137.

[64] Cf. Y. Arad, op. cit. (note 40), pp. 33, 42; A. Donat, op. cit. (note 40), pp. 92, 153, 170f.

[65] E. Kogon, H. Langbein, A. Rückerl, op. cit. (note 40), p. 183.

[66] Cf. F. P. Berg's detailed chapter, this volume.

[67] 排気ガスを使ったターボ・スーパー・チャージャーの圧力は0.5 atm.以上である。

[68] R. Auerbach, in A. Donat, op. cit. (note 40), pp. 35, 50.

[69] R. Auerbach, ibid., pp. 49f.; J. Wiernik, ibid., p. 172.

[70] 心肺機能蘇生には経口蘇生があり、蘇生させる息(蘇生を行なう人からの)には15%の酸素が含まれていることに言及しておかなくてはならない。

[71] J. Wiernik, in A. Donat, op. cit. (note 40), p. 157; verdict, Düsseldorf, ibid., p. 300; Y. Arad, op. cit. (note 40), p. 42. しかし、これらの証人は、電力のために使われたエンジンは、ガス処刑のエンジンとは別に使われたディーゼル・エンジンであったと述べている。この証言は間違っており、ガス処刑のエンジンと電力発生エンジンが同一のものであるとの前提で検証を進めている。

[72] Y. Arad, op. cit. (note 40), pp. 69, 71, 86; A. Donat, op. cit. (note 40), pp. 36, 49, 159, 172, 311; R. Glazar, op. cit. (note 40), p. 19; J.-F. Steiner, Treblinka, Stalling, Oldenburg 1966, pp. 180, 213.

[73] Cf. H. Roques, Die "Geständnisse" des Kurt Gerstein, Druffel, Leoni 1986 (online: abbc.com/aaargh/deut/
HRgerstein1.html).

[74] In U. Walendy, "Der Fall Treblinka", op. cit. (note 39), p. 11.

[75] Cf. the pictures from K. Franz's photo album, in G. Sereny, op. cit. (note 40), p. 210; A. Donat, op. cit. (note 40), p. 264; Y. Arad, op. cit. (note 40), p. 95.

[76] ホロコーストの犠牲者統計に関する本書のルドルフ論文参照。

[77] For ex., cf. the chapters by H. Tiedemann about Babi Yar, G. Rudolf about Auschwitz.

[78] F. Kadell, Die Katyn-Lüge, Herbig, Munich 1991.

[79] Cf. Y. Arad, op. cit. (note 40), p. 170.

[80] E. Rosenberg, Tatsachenbericht, pp. 9f., in H. P. Rullmann, op. cit. (note 5), pp. 141f

[81] E. Rosenberg's testimony at the Demjanjuk Trial in Jerusalem, quoted from U. Walendy, HT no. 34, Verlag für Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1988, p. 24.

[82] S. Waszawski, document of the Main Commission for the Investigation of the Hitlerite Crimes in Poland. The author has a German copy of the interrogation transcript. (cf. Glowna Komisja Badania Zbrodni Hitlerowskich w Polsce, Obozy hitlerowskie na ziemiach polskich 1939-1945. Informator encyklopedyczny. Panstwowe Wydawnictwo Naukowe, Warsaw 1979).

[83] W. Grossmann, Die Hölle von Treblinka, Verlag für fremdsprachige Literatur, Moscow 1947.

[84] J. Wiernik, in A. Donat, op. cit. (note 40), p. 170.

[85] R. Glazar, op. cit. (note 40), p. 34.

[86] R. Auerbach, in A. Donat, op. cit. (note 40), pp. 32-33.

[87] Ibid., p. 38.

[88] Y. Arad, op. cit. (note 40), p. 175.

[89] Ibid., p. 176.

[90] J.-F. Steiner, op. cit. (note 72), p. 294.

[91] Ibid., p. 295.

[92] In: A. Donat, op. cit. (note 40), pp. 124, 192.

[93] Y. Arad, op. cit. (note 40), p. 110.

[94] R. Glazar, op. cit. (note 40), pp. 59, 108, 116, 126ff., 134ff.

[95] 本書のヴァレンディ論文参照。

[96] Cf. Y. Arad, op. cit. (note 40), p. 171, 174; A. Donat, op. cit. (note 40), pp. 170f.

[97] E.g., B. A. Krzepicki, in A. Donat, ibid., p. 92: 彼は、古着、バッグ、あらゆるゴミが燃料として使われたと述べている。cf. also J. Wiernik, in A. Donat, ibid., p. 181: 火をつけると、死体は自分自身で燃えた。

[98] 二つの報告がこの点を確証している。それは、共産主義者のものであり、したがって、ナチスに共感を寄せているものではない。この報告書は東ドイツ軍当局とソ連軍当局のために書かれたものであり、戦争で大量死が発生した場合、戸外で死体を処理することができるかどうかを検証している。J. Loscher, H. Schumann (eds.), Militärhygiene und Feldepidemiologie, Militärverlag der DDR, Berlin 1987; F. G. Krotkov, Uberka polej crasgenij - opyt sovetskoj mediciny v veli koj otetshestvennoy vojne 1941-1945, tom 33: "gigiena", Moscow 1955, esp. pp. 236ff.; cf. also the chapter by C. Mattogno, this volume.

[99] 本書のマットーニョ論文参照。

[100] Akademischer Verein Hütte, Hütte, v. 1, Ernst & Sohn, Berlin 1955, p. 1037.

[101] Ibid., p. 1035.

[102] Ibid., p. 1243.

[103] Schlag nach! Natur, Bibliographisches Institut, Leipzig 1952, p. 512.

[104] Cf. A. Donat, op. cit. (note 40), p. 181; Y. Arad, op. cit. (note 40), pp. 171, 176.

[105] J. Wiernik, in A. Donat, op. cit. (note 40), p. 155.

[106] Cf. some relevant forensic studies, set out by A. Summers, T. Mangold, The File on the Tsar, Victor Gollancz Ltd., London 1976; also C. Loos, " sont les traces de millions de brûlés?", Revue d'Histoire révisionniste 5 (1991), pp. 136-142 (online: www.lebensraum.org/french/rhr/Loos.pdf).

[107] The eye level photo was found in the Archive of the Jewish Historical Institute in Warsaw without any legend given.

[108] Bilatyn Glownej Komisji do Badania Zbrodni Hitlerowskich w Plosce, vol 26 (1975), pp.117-195.

[109] This and most of the following documents quoted in the Amicus Curiae Brief stem from the Archivum Glownej Komisji do Badania Zbrodni Hitlerowskich w Plosce, Warsaw. Unfortunately, the author of the Amicus Curiae Brief was severely injured and cannot give more details about this at the moment. Thus, a more thoroughly investigation has to be performed on this topic in future times.

[110] Cf. also the theatrical but entirely worthless account of this event by R. Auerbach, in A. Donat, op. cit. (note 40), pp. 70f.

[111] T. Skowron, op. cit. (note 32), pp. 25ff.

[112] Richard Krege, "'Vernichtungslager' Treblinka - archäologisch betrachtet", Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung 4(1) (2000), in print. (online: vho.org/VffG/2000/1/1_00.html)

[113] Cf. M. Weber, AHR 3 (1987), pp. 127-142; M. Weber, A. Allen, op. cit. (note 56).

[114] 本書のヴェッカート論文の中の彼女の経験も参照。

[115] この論文の筆者は、私の友人であるが、1998年4月20日に他界した――編集者