試訳:独ソ戦の歴史的修正
ドイツとロシアの歴史家論争
D. マイケルズ
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年7月14日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Daniel Michaels,
Revising the Twentieth Century's 'Perfect Storm'(20世紀の『完璧な嵐』を修正する), The Journal for Historical Review, September/December
2001を「独ソ戦の歴史的修正」と題して試訳したものである。 |
独ソ戦は第二次大戦の決定的局面であるが、その歴史の修正は、何よりもロシアとドイツで進行中である。10年前、ヴィクトル・スヴォーロフ(ヴラヂミール・レズン)が、センセーショナルな著作『砕氷船』で氷を打ち砕いて以来、ロシアの歴史家たちは、共産主義と民族社会主義との決闘の勃発に関連する多くの神話、伝説、ファンタジーを再検証してきた。なかでも、スターリンの役割が、もっともヒートアップした論争の対象である。
二つの論争グループ
ロシアでは、大別すると二つのグループがこの論争に関与している。第一のグループは、ソ連はドイツとヨーロッパに対する攻撃計画をまったく持っておらず、戦争の準備を整えていなかったと主張しており、第二のグループは、スターリンと赤軍はドイツ奇襲計画を作成していたが、ヒトラーに粉砕されてしまったと論じている。
第一のグループには、故グレゴリイ・シューコフ元帥、ジャーナリストのレフ・ベジメンスキイ(軍事科学アカデミー教授)、M. A. ガレイェフ将軍、V. A. アンフィーロフ、Yu. A. ゴルコフが属している。大雑把に言えば、このグループは、スターリンは、開戦直前に多数の高級将校を粛清することで赤軍の首脳部を麻痺させてしまった、また、ヒトラーが二正面戦争を意識的に開始することはありえないと盲信して、ヒトラーを信用してしまった、スターリンは共産主義の失敗の原因であると論じている。政治的傾向にかかわらず、この見解を支持している人々は多い。
英語圏で鳴り物入りで宣伝されているイスラエル人ガブリエル・ゴロヂェツキイもこのグループにあてはまる。ゴロヂェツキイは、故ドミートリイ・ヴォルコゴノフ将軍の仲間であったと同じく、レフ・ベジメンスキイの仲間でもある。スヴォーロフによると、ゴロヂェツキイは、研究者、とくに、深く研究することができるはずである修正主義者には閉ざされてきたロシア外務省、参謀本部、内務人民委員部、ゲー・ペー・ウーの選別される文書資料にアクセスする権利を誰にも増して与えられてきた。だから、スヴォーロフは、ゴロヂェツキイが、ロシア政府の選別した情報をばら撒く導管となっているのではないかと疑っている。
第二のグループには、ヴィクトル・スヴォーロフ、ミハイル・メルチュホフ、V. A. ネヴェジン、V. D. ダニーロフといった軍事史家、アレクサンドル・ソルジェニーツィン、および何名かのドイツ人(ヨアヒム・ホフマン、ヴォルフガング・シュトラウス、フリッツ・ベッカー)とオーストリア人(ハインツ・マゲンハイマー、エルンスト・トピッチュ)が属している。彼らは、スターリンは誰も信用していなかった、ましてヒトラーを信用していなかった、ジューコフ元帥と一緒に、ヨーロッパでの共産主義体制の確立を最終目的とする、ドイツ奇襲計画を作り上げた、戦争準備を整えていたのはドイツではなくソ連であったと論じている。スヴォーロフはまた、スターリンの粛清は現実には、赤軍から高圧的な政治委員たち――国民からトロツキストの悪党集団と軽蔑されていた――を取り除くことで、赤軍を改善したとも論じている。よく知られているように、トロツキイ派の多くは、トロツキイと同じくユダヤ人であり、ロシア生まれではなく、外国生まれの人物が多かった。
アメリカの歴史家リチャード・ラアク(Richard Raack)とR. H. S. ストルフィ(R. H. S. Stolfi)もこの論争に加わり、論争は世界的な広がりを見せることになった。とくに、ラアク教授は、スヴォーロフ・グループの議論を支持し、「議論はいまや国際的となっている。…真理の魔神はびんの外に出た」と記している。
第一のグループは、スターリン流に古いソ連の正史を弁明するという重荷を背負っており、第二のグループは、ヒトラーのドイツによる侵攻を正当化しようとしているという重荷を背負っている。論争自体はさておいて、双方の方法論が歴史学的に対立してしまっていることは明らかである。すなわち、第一のグループは、ソ連の政治文献に依拠して、自説を展開しているのに対して、第二のグループの歴史分析は、軍事学、部隊の配置や武器システムなどの研究・比較にもとづいているのである。
過去数年間に、論争の当事者双方から、いくつかの浩瀚な研究書が登場している。イスラエルで生活している多数のソ連系ユダヤ人から研究面での支援を受けているゴロヂェツキイは、Grand
Delusion: Stalin and the German Invasion of Russia, New Haven: Yale
University Press, 1999.を出版した。この著作は、西側で広く読まれ、アングロ・アメリカン系の書評の多くでは高く評価された。一方、不満を抑えることのできないスヴォーロフは、開戦直前の諸事件を扱ったSamoubiystvo (Suicide)と題する4番目の研究書を上梓し、全ロシア文書資料・文書資料学学術研究所と協力しているメルチュホフは、つい最近、Upushchennyy shans Stalina
(Stalin's Lost Opportunity) , Moscow, Veche, 2000.を上梓した。残念なことに、『砕氷船』を除けば、スヴォーロフの著作もメルチュコフの著作も英訳されておらず、英語圏で書評の対象となることはまれである。最後に、ドイツ軍事史研究局(MGFA)の歴史家ホフマンの著作の優れた英訳Stalin's War of
Extermination, 1941-45: Planning, Realization, and Documentation , Capshaw, Ala.: Theses and Dissertations
Press, 2001が、英語圏で利用できるようになった。この著作はドイツでは数版を重ねており、広く読まれている。
スヴォーロフの著作は、戦争に関するロシアの研究書の中では、もっとも多く販売されており、広く流通している。当初、スヴォーロフ説に反対の人々(大半が専門的歴史家)は彼のことを無視しようとした。だが、彼の研究を認めざるをえなくなると、彼の説は、政府関係資料にまったくアクセスできない素人空想家の産物であると退けようとした。だが、スヴォーロフは、公開されているソ連側の戦争資料だけにもとづいて研究をすすめ、ソ連によるドイツ侵攻計画の実在を推定し、いずれ、自分の結論を確証するような公式資料が発見されるであろうと予測した。ソ連の崩壊とともに、このような資料が、どんどん登場してくるにちがいない。近年、メルチュホフがスヴォーロフにまったく協力するようになっている。彼は、文書資料学に通暁しており、ソ連時代の文書記録にアクセスすることができるために、スヴォーロフ説を確証する文書資料を提供している。
攻撃計画
1941年5月15日のジューコフ計画は、昨年、少々議論の対象となったが、今でも、分析と議論の焦点となっている。最近、ドイツ侵攻59周年に、ヴラヂーミル・セルゲイエフは、数年前にロシア連邦大統領文書館で発見されたジューコフ文書から一部を抜粋し、それを公表した。機密保持のために、A. M. ヴァシレフスキイ少将(のちに元帥)が12頁のオリジナル・テキストを手書きし、それを、ソ連邦人民委員会議議長スターリンあてに送った。この文書には、「極秘! 最重要! スターリンの目にだけ! 複写は一つだけ!」と記載されており、国防大臣S. K. チモシェンコと当時の赤軍参謀長ジューコフが承認・賛同したものであった。
以前には引用されたことのない戦争計画の重要な一説は次のとおりである。
「私は、ドイツの奇襲を阻止し、ドイツ軍を撃破するために、いかなる状況の下であっても、行動の自由をドイツ軍総司令部に与えるべきではないことが是が非でも必要であると思う。ドイツ軍が部隊配置の段階にあって、まだ、前線を組織し、補給部隊とのあいだの相互連絡を組織するのに十分な時間を持っていないときに、敵軍の部隊配置の先手を封じて、ドイツ軍を攻撃することが[是が非でも必要であると思う]。[オリジナル文書では、「先手を封じる」という単語に二回下線が引かれている――D. M.]」
そして、ジューコフは、一ヵ月後、スターリンの軍隊に対してドイツ軍がどのような行動をとるかということをスターリンに詳しく報告した。
スヴォーロフ学派とドイツの軍事史家たちは、スターリンが1941年6月22日のドイツ軍の侵攻以前に攻撃することに失敗したのは、攻撃のための赤軍の戦闘配置がまだ完了していなかったためであったと推測している。これに対して、セルゲイエフは、ジューコフの攻撃計画には欠陥があったと考えている。
ジューコフ元帥はモンゴリアのハルヒン・ゴール(ノモンハン)の戦い(1939年8月)で自分が計画した電撃作戦に成功を収めたのち、キエフ特別軍管区の司令官となり、ソ連軍南西戦線と西部戦線を指揮した。彼の1941年5月15日の計画では、この戦線軍が、対峙するドイツ国防軍を粉砕し、ポーランドに沿って南西に前進し、ドイツ国境に至るというものであった。この作戦の目的は、ドイツ軍をバルカンの戦場と、油田も含むルーマニアとハンガリーというドイツの同盟国から切り離すことであった。
ジューコフは、ドイツ軍の主力がソ連の左翼に向けられているのではなく、もっと北よりの中央軍集団にあることを知らなかった。だから、ジューコフの計画にしたがって、ソ連軍がクラクフ・ルブリン方向で攻撃に出たとすれば、ドイツ軍中央集団は伸びきったソ連軍の突出部の右翼(北部)を突破して、ソ連軍の攻勢を頓挫させ、その後、ミンスク・スモレンスク線に沿って前進して、モスクワに迫っていったことであろう。この場合には、赤軍の状況は、実際の6月22日のドイツ軍の侵攻以降の状況よりも悪いものとなっていたことであろう。のちになって、ジューコフは、「今ふりかえれば、彼[スターリン]がわれわれに賛同しなかったのは良かったことである。もし賛同していれば、わが軍は破局におちいったことであろう」と自分の計画の案の欠点を軍事史家V. A. アンフィーロフに認めている。
スターリンの目的
ベジメンスキイは、5月15日の文書をさらに詳しく研究して、この計画ではもっと野心的な目標が追求されていたと記している。すなわち、ソ連軍は、攻勢の一段階が終わったのちに、北、北西に転じ、ドイツ軍の前線の北翼を撃破し、東プロイセンとポーランド全域を占領する。その一方、北部方面では、赤軍はもう一度フィンランドに侵攻するというのである。スターリンはソ連軍事アカデミー卒業生に対する5月5日の演説の中で、防衛計画よりも攻撃計画の方が優位に立つべきであると主張していたが、ベジメンスキイによると、ジューコフの大胆な攻撃計画は、この演説の影響を受けていた。
1941年1月−6月のソ連軍の動員と配置は、3段階で実施された。
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第一段階:1月−3月、約百万の予備役を招集する、T-34戦車、KV戦車の生産促進を軍需産業に命じる、第一次攻撃部隊を増強する。
・
第二段階:4月−6月、第二次攻撃部隊を西部国境に移動する、極東軍は西に移動する。
・
第三段階:6月1日−6月22日、スターリンは公然とした動員と、第二次攻撃部隊の前線への移動を承認する。これらの作戦は、敵に気づかれないように、極秘裏に遂行されなくてはならない。ソ連軍は、ひとたび動員され、配置についた場合には、ドイツとその同盟国部隊に、断固とした奇襲を仕かけなくてはならない。
メルチュホフによると、ジューコフの攻撃計画の時点では、オストロレカ(ポーランド)からカルパチアまでの前線の兵力関係は以下の表のとおりである。
|
赤軍 |
ドイツ国防軍 |
兵力比 |
師団 |
128 |
55 |
2.3:1 |
総兵力 |
3,400,000 |
1,400,000 |
2.1:1 |
野砲 |
38,500 |
16,300 |
2.4:1 |
戦車 |
7,500 |
900 |
8.7:1 |
航空機 |
6,200 |
1,400 |
4.4:1 |
攻撃は典型的な電撃戦様式にしたがって始められることになっていた。すなわち、警告なしで、敵の飛行場を空襲し、重砲部隊が敵軍の前線に砲弾を浴びせかけることから始められる。こうして、ソ連は兵力の優位を利用し、こちら側から奇襲するという利点を確保することになる。スターリンが攻撃命令をなぜ出さなかったのかは知られていない。
メルチュホフは、『スターリンの失われたチャンス』の中で、丹念な文書資料研究にもとづきつつ、ソ連は1938−40年に強大な軍事力の建設を実行し、どの敵の軍事力も凌駕する、当時の超大国となっていたことを明らかにしている。メルチュホフは、上記の表にあるように、ドイツのポーランド侵攻前夜の1939年6月の兵力比を比較している。
スターリンが遅れをとった理由
メルチュホフは、スターリンの意図について、次のように率直に述べている。
「ソ連の作戦計画の内容、イデオロギー的ガイドライン、軍事宣伝、および赤軍の即時攻撃準備についての情報は、ソ連政府が1941年夏にドイツを攻撃する意図を持っていたことを明白に確証している。」
メルチュホフによると、当初、対ドイツ奇襲作戦(「雷」作戦)の開始は1941年6月12日に予定されていたが、その後、クレムリンは運命的に、その日付を7月15日に移したという。すなわち、「不幸なことに、われわれが今日知っていることは1941年には秘密であった。ソ連指導部は、こちらから奇襲を仕かけなかったことによって、運命的な誤算を行なってしまった」というのである。
メルチュホフは、スターリンが攻撃を延期したのは、ルドルフ・ヘスが飛行機でスコットランド到着したことを、5月12日に、知ったときであったと推測している。スターリンは、もしもヘスの講和交渉が成功すれば、イギリスは戦争から離脱することになり、赤軍が単独でドイツと戦わなくてはならなくなることを恐れたというのである。そして、スターリンは、ヘスの交渉が失敗したことが明らかになったとき、「雷」作戦の開始を7月15日に設定した。それは、ヒトラーがバルバロッサ作戦を開始した22日後のこととなった。メルチュホフは、もしも赤軍が当初の計画通りに攻撃を始めていれば、成功を収めたであろうと考えている。
ソ連情報局は、日本にいたスパイのゾルゲ、ベルリンの「コルシカネツ」、「スタルシナ」という情報源から、ドイツの攻撃の正確な開始時期を知っていたにもかかわらず、スターリンは、これを認めることを拒んだ。さらに、チャーチル首相とルーズベルト大統領もスターリンに警告したが、無駄であった。スターリンは、イギリスが自国の利益のために、ソ連の対ドイツ参戦を必死で望んでいると考えていたからである。ソ連は、当初計画されていたように、最初に攻撃しなかったことによって、開戦2週間半で、80万の兵力(ドイツは8万)、4000の航空機(ドイツは850機)、21500の野砲と11800の戦車(ドイツは400)を失った。1941年末までに、ソ連は300万の赤軍兵力を失った。
メルチュホフは、「予防戦争」という用語を使うことを拒んでいる。本当の予防戦争であるためには、攻撃側が、敵側の侵攻をはっきりと知っていることが必要であるというのである。メルチュホフによると、ドイツとソ連双方とも、相手側が兵力を配置していることは知っていたけれども、ドイツ側もロシア側も、相手方の攻撃予定をはっきりとはつかんでいなかった。スターリンは、幾分か論理的であるのだが、ヒトラーは、イギリスがまだ降伏していない段階で、第二戦線を開くはずがないと信じていたが、ヒトラーは赤軍が攻撃を開始するまで待たないことを選択していた。彼は自分独自の電撃作戦をスタートさせたのである。この状況は、二匹の猫がフェンスの両側にいて、どちらが最初に跳びかかってくるのか見極めようとしている場面に酷似している。ヒトラーは、攻撃開始の前日に、自分の心中を、ムッソリーニあての書簡の中で明らかにしている。
「たとえ、この年の終わりまでにロシアで60−70個師団を失うことを余儀なくされたとしても、それは、現在の状況の下で、東部国境を維持するために保持していなくてはならない兵力のごく一部にすぎないでしょう。」
メルチュホフによると、結局のところドイツが失敗したのは、長期戦に勝利を収めることができるような人的・物的補充資源を持っていなかったためにすぎない。
自殺的侵攻?
聖像破壊論者のスヴォーロフは、前にも増して論争を好んでおり、新著を自分の敵に献呈している。「[『自殺』]という表題を持つ本を友人には献呈することができないので、私は自分の敵に献呈している」というのである。スヴォーロフはソ連体制の敵としてイギリスに亡命しており、欠席裁判で死刑を宣告されていた。彼の敵は、ソ連邦解体後のロシアとアングロ・アメリカンのエスタブリッシュメントのあいだでも依然として多いが、それにもかかわらず、今日のロシアでは、第二次大戦史に関するもっとも人気のある著述家である。
スヴォーロフは、その後の戦争にどちらの方が準備不足であったといえば、それはドイツであると考えている点でメルチュホフと一致している。ドイツが絶望的な攻撃を開始した1941年6月22日の時点で、ヒトラーが2500の航空機を所持していたのに対し、スターリンは約13000の航空機を持っていた。さらに、赤軍は戦車の量と質の面でもはるかにドイツを上回っていた(24000:3700)。
スヴォーロフは、ロシアの戦争計画についての著作と同じように、ドイツ語の第二次資料を分析して、ヒトラーは、第一発が放たれる以前にすでに戦争に負けていたと結論している。スヴォーロフの見解では、ヒトラーとナチスの指導部は、ソ連を90日、すなわち、7月、8月、9月の三ヶ月間で打ち負かすことができると愚かにも考えて、自分たちよりもはるかに大兵力で、準備されており、装備も優れていたソ連に対する戦争を始めてしまった点で、無責任であった。ヒトラーとドイツ国防軍司令部は、スターリンが1920年代中頃から築きあげてきたソ連軍の強さを過小評価してきたが、それは取り返しのつかないことであった。ドイツが再軍備を開始したのは1930年代中頃のことであり、総力戦の準備を整えることができたのはやっと1943年頃のことであったというのである。
スターリンと彼の側近たちは、ドイツ国防軍が厳寒の条件のもとでの長期戦に耐えることができないことを知っていた。ソ連側は、情報機関やスパイを介して、ドイツ軍戦車が質的量的にソ連軍よりも劣っていること、ドイツは石油の備蓄を欠いていること、ドイツは寒さに強い潤滑油を製造していないこと、ドイツ軍は冬装備をしていないこと、ドイツの戦争遂行能力は原材料の輸入に依存していることなどを学んでいた。
スヴォーロフは、3ヶ月での勝利というドイツ側の先見の明のない、表層的な計画にいらいらして、いくつかの修辞的な疑問を発している。ヒトラーは、ロシアでは10月の次には5月がやってくると思っていたのか?彼は、ナポレオンのロシア遠征から何も学ばなかったのか?ヒトラーは、もし自分がモスクワに到達したとしても、ロシアは、ドイツの長距離爆撃機がはるかにとどかない内陸のウラルから戦争を継続することができることを知らなかったのか?
バルバロッサ作戦第4ヶ月目の終わり頃、すでにドイツ経済は悲鳴を上げていた。軍需生産の責任者フリッツ・トットは、休戦の締結をヒトラーに進言している。ドイツ軍は、燃料不足のために、大規模な戦車作戦を遂行できなくなっていた。ドイツの機甲部隊は、戦車の数が限られていたために、予測しえない緊急事態に備えて長い戦線をカバーしなくてはならず、そのことがまた、燃料不足をもたらした。(大規模な電撃戦は、敵軍を広範囲に包囲して、投降に追い込むことができる。その際、戦車はある地点からすぐに別の地点に移動し、また、すぐに戻ってくることで、広範囲な包囲網を閉じなくてはならなかった。)
宣伝を超えて
スヴォーロフの犯人リストは長い。ヒトラー、ゲッベルス、卑屈などいつの将軍たちが、その優柔不断さゆえに酷評されている。しかし、スヴォーロフの酷評は、党の方針をオウム返しし続けている共産主義者と、共産主義体制以後のエスタブリッシュメントに向けられている。マルクス・レーニン主義研究所や軍事研究所――その研究者たちはスヴォーロフの分析結果を「非学問的」としてしりぞけようとしてきた――などの様々なソ連およびソ連以後の「学術機関」は、独ソ戦について、馬鹿げた話、誤解、神話、誤りを生み出し、それを広めてきたが、スヴォーロフはそれらを嘲笑している。
スヴォーロフは、公式のソ連側戦争資料を、事実と数字を欠いた表層的な宣伝としてしりぞけている。スヴォーロフによると、6巻本の『ソ連邦大祖国戦争史、1941−1945年』のメインテーマは、フルシチョフ(彼のもとでこの著作が編纂された)が一人で戦争に勝利を収めたというものであった。また、12巻本の改訂版がブレジネフのもとですすめられたが、それは、大祖国戦争に勝利をもたらしたのはブレジネフであったというように改訂されたという。
スヴォーロフは、ジューコフ元帥の回想録をとくに批判している。彼によると、おそらく、それはグラヴプル(赤軍中央政治指導局)によって書かれたものであった。だから、1941年6月22日時点での、ドイツ軍とソ連軍の兵力はソ連軍のほうが優位であったにもかかわらず、5−6:1でドイツ軍のほうが優位であったというように、「ジューコフ」が書いているというのである。
スヴォーロフは、その賢明さ、合理性、情緒的安定、国際政治の理解、流血をいとわないことの面で、スターリンの方がヒトラーよりも優れていたと考えている。スターリンは、ヒトラーがロシアの戦闘能力について知っていたよりも、はるかにドイツの戦闘能力について知っていた。スヴォーロフは、「ペテン師をペテンにかけてはならない」というロシアの格言を引いて、ヒトラーがスターリンよりも優位に立とうとした試みを皮肉っている。スヴォーロフによると、緒戦でヒトラーが成功したのは、ただひとえに、まったく論理的な思考を行なっていたスターリンには予期できないほど非合理的な決断によっていた。筆者の見解では、まさにヒトラーはギャンブルを仕かけたのであった。スヴォーロフは「ロシアを打ち負かすことができると考えるのは馬鹿だけである。まったくの愚か者だけが、3ヶ月でロシアを打ち負かすことができると考えるのである」と書いているが、彼のロシアへの思い入れは鮮明である。
スヴォーロフは、腐敗した共産主義体制とポスト共産主義体制の歴史的嘘を暴露するにあたって、優れた能力を発揮してきた。ただし、彼に共感を寄せる読者であっても、特定の論点では、彼と意見を異にしている。スヴォーロフの分析結果は、シュリーマンのトロイの発見と同じように、その細部では、専門的歴史家たちからの反論を呼び起こすことであろう。彼の分析結果のいくつかは修正されなくてはならないであろう。
スターリンの過大評価
スヴォーロフも自己矛盾におちっている点がいくつかある。例えば、彼は、ヒトラーはモスクワを占領する前に、軍を南に向けてキエフに向かわせたために、勝機を逸してしまったと論じている。しかし、その一方で、スヴォーロフは、もっとも優れた戦略は大都市の占領ではなく、敵の主力を撃破することであると論じている。事実、ドイツ軍が南に向かったのは、キエフの占領ではなく、別のソ連軍集団を撃破するためであった。ドイツの将軍たちも戦争指導で経験を積んでいたので、優勝カップを求める目的だけで、大都市を占領することの無意味さを熟知していた。敵軍が撃破されれば、その町は自然に陥落するからである。
スターリングラートにかぎって、ドイツ軍は全兵力を町の占領に投入し、壊滅的な結果を招いてしまった。モスクワ占領に失敗した前年の冬には、まだ理性が支配していた。ドイツ軍は、防衛可能な線にまで後退して、そこで、軍の補充・再編成を行なったのである。ドイツ軍はフィンランド軍の支援なしではレニングラートを占領できなかったので、迂回した。しかし、スターリングラートに関しては、ヒトラーはいかなる後退も禁止してしまった。その占領の目的は、まず、ヴォルガ川を使ったソ連軍への燃料輸送を阻止することであった。ドイツ国防軍も自分の戦争マシーンへの燃料供給に少なからず配慮していたからである。ルーマニアとハンガリーにあった主要燃料資源に対するクリミア半島からの空襲を阻止するために、クリミアを確保していた。
スヴォーロフはスターリンの指導力を過大評価し、一方では、ヒトラーを酷評しているが、そのことは、ドイツ軍は赤軍の撃破寸前にまで到達していたという事実を無視している。アメリカ、イギリス、フランス、その他の同盟国が、武器、トラック、糧食、その他の軍需物資をスターリンに提供しなかったとすれば、独ソ戦の推移はまったく異なったものになったことであろう。さらに、長期にわたる独ソ戦を通じて、ドイツ側は、戦争努力の20−30%を西部戦線に向けなくてはならなかったという事実も忘れてはならない。
スヴォーロフは、スターリンがヒトラーを操って、ヨーロッパでの汚れ仕事を行なわせたと考えているが、これは支持しがたい。それは、ソ連の指導者の買かぶりすぎである。ドイツは西方での戦争を望んでいなかった。まして、イギリスに対する戦争を望んでいなかったからである。たしかに、フランスは、とくに、ブルムの人民戦線時代には、ドイツに敵対的な政策を採っており、ドイツはこのフランスを疑ってはいたが。
ドイツがソ連に対する不運な侵攻を企てたのは、敵がドイツを包囲することに成功したためであったことを想起しなくてはならない。1930年代、イギリスとフランスの外交政策は、ドイツを敵国で包囲することに成功した。そして、スカンディナビアでもバルカンでもドイツは包囲され、最後に、アメリカ、イギリス、ソ連によって包囲された。ドイツは、ソ連と西側諸国の軍備が増強されていく中で、赤軍が奇襲のチャンスをつかむ以前に、この包囲網を断つという絶望的なギャンブルにでたのである。たしかに、このギャンブルは失敗してしまった。しかし、今日のドイツは、それが望んでいたよりも小国となってしまったが、繁栄した国となっており、一方、スターリンのソ連邦の残骸は、帝政ロシアの遺産を奪われて、経済的なバスケットボールの籠にすぎなくなってしまっている。
スヴォーロフは、スターリンの「天才性」を過大評価している。たしかに、スターリンは警察国家を設立し、赤軍を育成してソ連を超大国の地位にまで押し上げたかもしれないが、スターリンの軍隊は、その力がもっとも必要とされていた1941年6月には、惨めな敗北を喫してしまった。また、スターリンは、戦後の国際秩序を定めた一連の「三巨頭」会談では、チャーチルやルーズベルトを圧倒したかもしれないが、西側の指導者たちは、ドイツを押しとどめ、打ち負かすために赤軍を必要としていた嘆願者の役割を演じていたにすぎなかったのかもしれない。
にもかかわらず、スヴォーロフは、共産党の宣伝家たちが作り上げ、その同調者が西側諸国で広めてきた、平和愛好国ソ連という神話を粉砕することで、第二次世界大戦史の修正に多大な貢献を成し遂げたのである。
スターリンへの信頼
大祖国戦争についてのゴロヂェツキイ版によると、ソ連は祖国防衛のための反撃だけを計画しており、スターリンはヒトラーを信用していた。しかし、ゴロヂェツキイは、ソ連の軍備増強が1930年代から1941年の開戦まで進んでいたことをまったく無視している。数万の先進的な戦車と航空機、数十万の空挺部隊隊員の訓練、1941年6月前夜には、飛行場、補給場、攻撃部隊が前線に配置されていたことは、スターリンの真意を明らかにする物的証拠である。
このイスラエルの研究者は、公式のソ連資料からの声明を検証することだけですましている。一方、軍事的能力や設計について自分よりの能力のある軍事専門分析家(ロシア人であれ、ドイツ人であれ、アメリカ人であれ)を無視している。こうした分析家たちはむしろスヴォーロフ説に傾きつつあるというのに。
旧ソ連のエスタブリッシュメントがゴロヂェツキイを陳腐なかたちで支持しているのに対し、ソ連解体以降の近年の研究者たちがスヴォーロフを支持している。ゴロヂェツキイの読者の多くが、かつてのスターリンのロシアの同盟者であるイギリス人やアメリカ人であるのに対して、スヴォーロフは、スターリンとヒトラーの戦争をみずから体験したロシアとドイツで広く読まれている。
騎士道の余地はなかった
ヨアヒム・ホフマンは、『スターリンの絶滅戦争』の中で、その広範囲性、客観性、文書資料性の面では、これまでなされてきたことのないような体系的な研究をすすめ、ロシア人とドイツ人双方の底流にある戦争原因と戦争遂行様式を検証している。ドイツ軍は戦時中に、将軍から一兵卒にいたるまでのソ連軍捕虜を尋問しているが、ホフマンはこの尋問記録を広範に利用している。こうした尋問記録を検証し、公開資料、極秘扱いではない文献、最近極秘扱いを解除された資料を利用するという伝統的な方法とを組み合わせてみると、信頼できる、平和的なスターリンが指導した平和愛好的なソ連という神話は完全に覆される。ホフマンの研究によると、ドイツ国防軍が攻撃を始めたとき、ソ連は機先を制した攻撃の最終的準備を進めていたことが明白になっている。
ホフマンは、捕虜の尋問とは別に、ドミートリイ・ヴォルコゴノフのような軍事的権威を引用して、数週間すれば、スターリンが自軍を完全な戦闘準備状態におくことができたと論じている。すなわち、ソ連の軍事分析家ダニーロフ大佐は、「ヴォーシチ(スターリン)にはほんの少々の時間が必要であった」ことに同意している。また、カルポフ大佐も次のように記している。
「次のような事態が生じたかもしれない。5月か6月の灰色の早朝、わが軍の数千の航空機と数万の大砲が、密集したドイツ軍に放火を浴びせる。ドイツ軍の配置は大隊レベルまでわかっていた。それは、実際のドイツ軍の奇襲よりも、不意打ちとなった。」
ホフマンによると、敵対関係にあり、ともにイデオロギッシュな国家であったドイツとソ連とのあいだの戦争は不可避であった。どちらが最初に手を出すかの問題にすぎなかった。第一次世界大戦によって、共産主義の覇権は、旧ロシア帝国、すなわち地球の6分の1にまで及んだ。そして、レーニンが予言したように、その次の戦争は、ヨーロッパ全体に共産主義を広げるであろう。共産主義を広めるにあたってレーニンの忠実な弟子であったスターリンは、自分の支配の最初から、この目的のためにソ連の軍事力を増強してきた。1941年までに、赤軍の航空機、戦車、野砲は、それぞれ少なくとも6:1ほどドイツを上回っていた。この年、もっぱら攻撃部隊であるソ連の空挺部隊と潜水艦は、ソ連以外すべての国々の空挺部隊と潜水艦を上回っていた。
1941年春のソ連ドクトリンの主要な原則は、(1)赤軍は攻撃軍である、(2)戦争はつねに敵国領内で遂行されねばならず、友軍の損失を最小に抑えて、敵軍の撃破をめざすべきである、(3)敵国の労働者階級は潜在的な同盟軍であり、自国の支配者に対し反乱を起こすように促すべきである、(4)戦争準備は攻撃能力を確保するために行なわれなくてはならない、というものであった。
ホフマンによると、スターリンはソ連の軍事的優位を確信していたので、ドイツがとりわけイギリスの参戦中に攻撃を仕かけてくるほどおろかではないと考えていた。ソ連の独裁者は、バルバロッサ当初のドイツの成功に困惑してしまい、赤軍を撃破するドイツ軍のチャンスを過小評価していたことを悟った。スヴォーロフは、この当時のスターリンの心境を、タイタニック号が沈没することを知ったタイタニック号の設計者の心境になぞらえている。しかし、スターリンは、復讐を誓い、依然として最終的勝利を確信していたので、ドイツ侵略軍の全面的絶滅を要求した。1941年11月6日、彼は次のように声明している。
「今日、ドイツ人が絶滅戦争を望んでいるとするならば、そのような事態となることであろう。今後、わが祖国に侵略者として侵攻しているすべてのドイツ人を、最後の一人まで絶滅することが、われわれの任務、ソ連諸民族の任務、わが陸海軍の兵士、将校、政治将校の任務となるであろう。」
一方、ヒトラーはソ連の軍事力を過小評価することで、自国を壊滅的な敗北に導いてしまった。ゲッベルスはその日記の中で、もしもヒトラーが赤軍の実力を知っていたとすれば、運命的なギャンブルを仕かける前に少なくとも立ち止まったにちがいないと示唆している。しかし、ホフマンは、たとえ、枢軸国の攻撃がドイツ国民を破局に追いやってしまったとしても、もし赤軍が最初に攻撃していれば、ヨーロッパ全体が破局という重々しい運命を受け入れざるをえなかったにちがいない、と考えている。
ホフマンによると、この二つのイデオロギッシュな国家の死闘には、騎士道精神が介入する余地、陸戦に関する国際協定を厳格に遵守する余地はまったくなかった。スターリンは、ソ連軍兵士の降伏を認めず、最大限のテロルを使って、ソ連軍兵士の降伏を阻止しようとした。ソ連軍捕虜は脱走兵とみなされ、降伏したソ連軍兵士は、ソ連軍の手におちると、すぐに殺された。(戦争末期、戦闘を拒否したドイツ軍兵士は、全員の見ている前で銃殺・絞殺された。)ソ連の呼ぶところの大祖国戦争では、「ソ連愛国主義」、「大衆のヒロイズム」はテロルに依存していた。ホフマンによると、赤軍政治宣伝部長レフ・サハロヴィチ・メフリスは、あらゆるテロルを使って赤軍を戦わせる権限をスターリンから与えられていた。メフリスはこの仕事を立派にやってのけた。ソ連人の大戦中の死亡者は2500万にとされているが、このうち、自国民(兵士と民間人)に対するスターリンのテロルによる犠牲者は、メフリスたち政治委員の活動のおかげで、かなりの割合にのぼった。にもかかわらず、500万以上のソ連軍兵士が、戦争終結までに、ドイツ軍に投降した。生き残ったソ連軍捕虜の中には、ソ連への送還を望まないものが多数存在していたが、それには十分な理由があったのである。
処罰されない犯罪、攻撃計画
開戦当初から、不幸にも捕虜となってしまったドイツ軍兵士は、手足を切り取られたり、殺されたりしていた。ソ連軍がドイツ領に侵攻したとき、成人男性と少年は殺されるか強制労働に駆りだされ、女性たちは強姦されたり、ときには殺され、強壮であれば、強制労働に駆りだされた。
スターリンは1950年頃までに、共産党におけるユダヤ人の影響力を減らすことを決意していたにもかかわらず、ユダヤ人は戦争中の殺戮業務に深く関与していた。メフリスのほか、カガノヴィチが数百万の死に責任を負っていた。内務人民委員部・内務省の長官であったアバクモフ将軍、ライヒマン将軍、チェルニャコフスキイ将軍はとくに無慈悲であった。ホフマンによると、個々のユダヤ人の犯罪行為とユダヤ民族全体との関係は、個々のナチスの犯罪行為とドイツ国民全体との関係と同一であった。にもかかわらず、戦争犯罪で告発されたナチスは、裁判にかけられ、処罰された、そして、今も裁判にかけられ、処罰されている。一方、奇妙なことに、共産主義者の犯罪人が裁判に引き出されて、裁きを受けたことはほとんどないのである。
ホフマンの著作は周到であり、信頼できる(ポーランド語、ロシア語、英語、ドイツ語の重要文書を含む有益な付録が含まれている)。そのことは、1941年5月15日のジューコフ計画の取り扱い方にもよくあらわれている。セルゲイエフ、ベジメンスキイが、この計画はつい最近発見されたものだと述べているようなのに対して、ホフマンは、この計画の存在はかなり以前から知られており、分析されてきたことを明らかにしている。ヴァレリイ・ダニーロフ大佐とハインツ・マゲンハイマー博士が、ほぼ10年前にオーストリアの軍事誌のなかで、ソ連の攻撃準備を示唆するこの計画とその他の文書を検証しているというのである(Österreichische Militärische Zeitschrift, nos. 5 and 6, 1991; no. 1, 1993; and no. 1,
1994)。二人の研究者は、1941年5月15日のジューコフ計画は、新しい攻撃的赤軍の誕生を予告する1941年5月5日のスターリン演説(上記)を反映していると結論している。ホフマンは、「1941年5月5日の赤軍軍事アカデミーへの同志スターリン演説のメモ」というオリジナル文書を掲載している。その結論部はこうである。
「われわれはわが軍を再建し、近代戦を遂行するに足る技術をわが軍に十分に浸透させてきた。われわれは、十分に強力となった。したがって、今では、守勢から攻勢へと移らなくてはならない。われわれは、祖国を防衛するにあたって、攻勢をとるかたちで行動しなくてはならない。守勢から攻勢へと軍略を転換しなくてはならない。われわれは、攻撃精神に沿って、訓練、宣伝、煽動、出版物を再編成しなくてはならない。赤軍はいまや近代的な軍であり、近代的な軍とは攻撃軍である。」
1941年5月15日のジューコフ計画は、赤軍が国境を越えて、ドイツ軍に対する先制攻撃を行なうことを計画していたことを明瞭に示唆している。さらに、ホフマンによると、数日後の1941年5月20日、名目上の元首であったソ連最高会議議長ミハイル・カリーニンは次のように演説した。
「戦争は、悲しみに包まれた非常に危険な仕事であるが、そのときがやってくれば、すなわち、共産主義の版図を拡大することができるチャンスがやってくれば、戦争を拒むべきではなく、・・・共産主義の版図を拡大しなくてはならない。資本主義世界を打ち倒すことができるのは、聖なる革命戦争という灼熱の鋼によってのみである。」
カリーニンは、ソ連が行なおうとしている戦争はドイツが強制する予防戦争ではなく、共産主義帝国を拡大する征服戦争であることを強く示唆しているのである。
完璧な嵐
最近十年間に多くの文書資料が発見され、スヴォーロフ学派は、1941年5月15日のジューコフ計画も含む多くの文書の分析を進めてきた。この結果、ドイツが長期戦に耐える準備をまったく怠ってきたこと、ソ連軍は準備を整えていただけではなく、落ち着いて1941年7月に攻撃に出ようとしていたこと、スターリンはレーニンの忠実な弟子で、ヨーロッパ、とくにドイツに共産主義を前進させようとしていたこと、イギリス、フランス両政府は、ポーランドの国境紛争問題でドイツに宣戦布告したときに生じるはずであるもっと大きな共産主義という脅威についてまったく看過していたことが明白となった。イギリス、フランス、アメリカの指導者たちは、1939年においてさえも、長期的には、ソ連の方がはるかに危険な脅威であることを看過してしまった。その過ちを修正するには、半世紀という時間と、数百万の生命という犠牲が必要となった。
ホフマンは、二つのイデオロギー的に和解しがたい国のあいだの戦争は、不可避であり、避けられないものであったと結論している。共産主義(階級憎悪)へのスターリンの熱狂的な固執と、人種理論(ホフマンは、「人種問題は世界史の鍵である」というディズレーリの言葉を引いている)へのヒトラーの同じく熱狂的な固執のために、両国民は、三十年戦争以来匹敵することのない破局におちいってしまったというのである。ロシアではイリア・エレンブルクのような宣伝家が、意図的にドイツの犯罪を誇張して、憎悪にとりつかれた戦争を煽り立て、その結果、赤軍はドイツ人民間人に対して恐ろしい所業を行なったが、このことをホフマンは非難している。すなわち、ホフマンによると、エレンブルクは、アウシュヴィッツ収容所の占領の数週間前の、1945年1月4日に、アウシュヴィッツの死者が400万人であると述べたてた。同じく、終戦の数ヶ月前に、ドイツ人は600万人のユダヤ人を殺したと述べたてた。さらに、赤い宣伝家たちは、カチンの森でのポーランド軍捕虜虐殺事件に見られるように、ソ連軍による犯罪行為の責任を、恥も外聞もなく、ドイツ軍に押し付けようとしたのである。
ホフマンは、同僚のヴォルフガング・シュトラウスと同様に、ドイツ国民とロシア国民との和解を提唱している。ビスマルク時代やそれ以前の時代には両国民は伝統的に友好関係を保っていたので、スターリンの共産主義体制と民族社会主義国家の政策は、この伝統からの逸脱だというのである。この意味で、ホフマンは、ハインツ・マゲンハイマー、ヴェルナー・マーザー、エルンスト・トピッチュ、ギュンター・ギレッセン・アルフレド・ザヤス、ヴィクトル・スヴォーロフ、さらに、二人のユダヤ系の戦時中のソ連軍政治委員であったアレクサンドル・ネクリチ、レフ・コペリョフたちが、勇気を持って修正主義的な歴史叙述に貢献していることをとくに言及している。(ホフマン自身も少なからず勇敢であった。彼は、ゲルマール・ルドルフが編集したホロコースト論集『現代史の基礎』、その英訳版『ホロコーストの解剖』の学術的資質を法廷で証言しているからである。)
極端な経済的・政治的諸条件が20世紀前半のドイツとロシアには存在し、そのことが両国を破局に追い込んだ。第一世界大戦の殺戮、ロシアにおける共産主義の勝利、ヴェルサイユ条約、大恐慌が結びついて、第二次世界大戦というこの世紀の政治的嵐を作り出していった。1991年10月には、独特の計測不可能な条件のもとで、3つのハリケーンが融合して、作家セバスチャン・ユンガーの呼ぶところの「完璧な嵐」、「破壊的な北東風」を北大西洋で作り出していった。20世紀の大嵐は、スヴォーロフやホフマンといった歴史家の中に、自分の歴史を語ってくれる有能かつ客観的な歴史叙述家を見出しつつある。