試訳:シャーマーとグロブマンを批判する

――「証拠の収斂」説のまやかし――

カルロ・マットーニョ

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2007331

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Carlo Mattogno, Denying Evidence Auswitz Lies: Legends, Lies, and Prejudices on the Holocaust, Germar Rudolf, Carlo Mattogno, Theses & Dissertations Press PO Box 257768, Chicago, Illinois 60625を「シャーマーとグロブマンを批判する」と題して試訳したものである(文中のマークは当研究会が付したものである。)。

 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online http://www.vho.org/GB/Books/al/

論集『アウシュヴィッツの嘘』所収の論文。

 

 

 

序文

 マイケル・シャーマーとアレックス・グロブマンの著作『歴史の否定。ホロコーストが起らなかったと誰が言っているのか、そして、彼らはなぜそう言っているのか』[1]は、修正主義に対する批判であるが、自分たちはこれまでの反修正主義者の議論とは異なって、客観的、科学的土台にもとづいて批判を行なおうとしていると考えている。

 この二人は言論の自由を守るふりをしているが、その一方で、自分たちの歴史哲学なるものを随所で繰り返している。そしてその歴史哲学なるものは、学術的な見解の披瀝ではなく、たんに特定の考え方を注入することだけを目的としている。二人は、合衆国からヨーロッパに出かけ、「数年間にわたって」、「収容所、とくにマウトハウゼン、マイダネク、トレブリンカ、ソビボル、ベルゼク、ダッハウ、アウシュヴィッツ、アウシュヴィッツ・ビルケナウ[ママ]を調査する」(127頁)という仕事――彼らの財政的支援者の支払った費用を想像していただきたい――を終えても、派手な修飾のない、きちんと整理された数十頁の小論文を論破することすらできなかったのである。

 『歴史の否定』には大きな野望がある。すなわち、ホロコースト否定派の主張を逐次とりあげ、その細部にいたるまで、反論する」というのである。序文を寄せたアーサー・ヘルツバーグは、二人の著者の明白な意図を次のように述べている(xiii頁)。

 

「『本書の中で、われわれは、ホロコースト否定派の人格と動機を深く分析すると同時に、彼らの主張や議論を完璧に反駁する』(2頁)。シャーマーとグロブマンは、自分たちの本が『ホロコースト否定派の主張に対する完璧で、考え抜かれた回答』(259頁)であると述べている」。

 

 したがって、シャーマーとグロブマンは、すべての修正主義者のすべてのテーゼを「完璧に」反駁したということになる。これはまったくの虚偽である[2]。「完璧に」反駁したという彼らの主張は、まさに最初から嘘であると異議を申し立てておく。

 私は、このような嘘の教師に対しては、4つの研究を献呈しており、その中で、彼らの虚偽の主張を一つ一つ反駁しておいた。以下の研究である。

 

  Olocausto: dilettanti allo sbaraglio. Edizioni di Ar, 1996, 322 pages;

  L "Irritante questione " delle camere a gas ovvero da Cappuccetto Rosso ad...Auschwitz. Risposta a Valentina Pisanty. Graphos, Genoa, 1998, 188 pages[3];

  Olocausto: dillettanti a convengo. Effepi, Genoa 2002, 182 pages.

  Olocausto: dilettanti nel web (Holocaust: Internet Dilettantes), Effepi, Genova 2005, 132 pages.

 

さらに、ツィンマーマン教授に対する私の回答も付け加えておこう。その改訂版が本書に収録さている。

 

  John C. Zimmerman and "Body Disposal at Auschwitz": Preliminary Observations, その試訳

  Supplementary Response to John C. Zimmerman on his "Body Disposal at Auschwitz."[4]

 

上記の研究が提起した疑問点に答えた人物は誰もいなかった。その一方で、私が虚偽であることを明らかにしたが、とくにヴィダル・ナケやヴァレンティナ・ピサンティといった人々の本に登場している明白な虚偽は、「反否定派」の著作の中で引用され続けている。すなわち、シャーマーとグロブマンが修正主義的な歴史学に特徴的であると論じている(251頁)近親相姦的な引用は、健在であり続けているのである。

 

本小論は、いわれのない反ユダヤ主義的・ネオ・ナチ的小冊子のたわごととはまったく異なっており、すべてが厳格に文書資料にもとづいているが、私がそれを執筆したのは、シャーマーとグロブマンの詐欺行為に憤激したためであり、とくに、彼らの誤りを暴露することで、歴史的真実を確立しなおすことに喜びを感じているためである。

本小論はホロコースト歴史学という沈黙の地下墓地に入ってしまうかもしれない。たとえそうであっても、偏見を抱いていない誠実な人々には役に立つことを希望している。前述の研究にもとづいて、新しい視点から考察が進められているだけではなく、たった一人の歴史的修正主義者が、「数年にわたって」、世界中のホロコースト・ロビーの協力を得ながら成し遂げられたとされる研究を、数週間で壊滅させることができるという状況が明らかにされているからである。ここでの議論は、この議論に共感を示そうとしない歴史家に対しては、沈黙の当惑を強いるものであり、まったく迷惑至極なものにちがいないであろう。

 

1. 修正主義者と修正主義的歴史学

 

1.1. 修正主義者

 シャーマーとグロブマンはその前任者たちとは異なり、厳格に学術的レベルの上に立っていると称している。

 

「われわれは、悪口を言う段階を超えて、証拠を提示すべき時期にあると考えている」(1617頁)。

 

 ということは、この二人は、これまでの修正主義に対する批判の本質を知っていることを明らかにしている。すなわち、これまでの批判は、修正主義を侮辱しただけで、まったく証拠を提示してこなかったというのである。

 さらに、二人は、反修正主義者の使い古された偏見に満ちた議論を否定するにまでいたっている。

 

「ホロコースト否定運動は非常に多岐にわたっており、複雑であるので、『反ユダヤ主義的』とか『ネオ・ナチ的』という一まとめのレッテルを貼ることはできない。レッテル貼りにうったえることは、実際に進行していることを誤解してしまい、それゆえに、わら人形をひっぱたくことになってしまう」(16頁)。

 

しかし、シャーマーとグロブマンは、修正主義の中では、「反ユダヤ主義的な話題が繰り返し登場する」(87頁)とか、「ホロコースト否定運動を反ユダヤ感情からきっぱりと分けることは難しいようである」(87頁)と主張しており、「反ユダヤ主義的」とか「ネオ・ナチ的」というレッテル貼りの誘惑を逃れることができていない。

 そして、その誘惑は「甘ければ甘いほど、深いものとなる」。

 

「われわれの見解では、ホロコースト否定派は、自分たちが賞賛している人々の名誉を回復し、自分たちが不当に賞賛を受けていると考えている人々の名誉を毀損することで、自分たちの影響力を拡大しようとしている…。ホロコーストの歴史はナチズムの汚点である。ホロコーストの信憑性を否定すれば、ナチズムは名誉挽回し始めるというのである」(252頁)。

 

 上記の文章は、きわめて重要な定式である。この定式によると、修正主義とは「修正主義の著者たちが愛好している」(34頁と238頁を参照)「今日の個人的・政治的目的のために過去を書き換えようとすることである」(2頁)というのである。かくして、シャーマーとグロブマンの主張では、彼らが否認するふりをしている使い古された中傷がドアからではなく窓から姿を現している。侮辱もまた然りである。「正常な精神を持っているものであれば、ホロコーストが起こらなかったなどというはずがない」(40頁)、だから…というわけである。

 修正主義は、「歴史に対抗しており、歴史学が依拠している方法に対抗している」(251頁)、「黒が白となり、上が下となり、通常の理性の規則が適用されない鏡の世界なのである」(1頁)というのである。

 シャーマーとグロブマンは、修正主義者「のモチヴェーションは高く、金銭的にも恵まれており[本当なのか?]、ホロコースト研究に精通している。…否定派はホロコーストについてよく知っている」(1718頁)と述べている。たしかに、アメリカの修正主義者たちは「比較的厚遇されてきた」(40頁)し、このことは、「正常な精神」を持ち合わせていないいわゆるネオ・ナチや反ユダヤ主義者にはいささか奇妙な事態となっている。

 しかし、歴史的修正主義に関する真実は、まったく別のことである。修正主義的歴史家を反ユダヤ主義とかネオ・ナチという使い古されたカテゴリーの中に押し込めてしまおうとすることは、かならず「個人的・政治的理由のために」生じているのであり、シャーマーとグロブマンの著作の題名『歴史の否定』と同じくらい誤解を招くものである。修正主義的歴史家が否定しているのは「歴史」ではなく、正史派の歴史家たちが提供してきた歪曲された歴史の解釈である。この歪曲の否定から誕生した修正主義とは、歴史的真実の復権である

 ポール・ラッシニエは、戦後の強制収容所関連の文献にちりばめられていた嘘を否定することから、修正主義者としての活動を始めた[5]。ラッシニエは、嘘のオンパレードに憤激し、真実を復権しようという燃えるような情熱を抱いたのである。ホロコースト正史派の歴史家の詐欺行為への憤激こそが、修正主義的歴史家を駆り立てているもっとも重要な動機の一つである。ホロコースト正史派の歴史家たちは自分たちの地位を利用して、無知な読者を欺き、無知な読者を欺き続けることで、自分たちの地位を維持しているにすぎない。そして、私が『歴史の否定』の詐欺的本質を暴露しようとするのも、シャーマーとグロブマンの詐欺的行為に憤激し、歴史的真実を復権しようとしたいがためである。

 この本の序文にあるように、この二人は、すべての修正主義的歴史家のすべてのテーゼを「詳細に」反駁したと主張しており、この点について、次のように記している。

 

「われわれは、否定派に対するわれわれの見解が正確であることを検証するために、ホロコースト否定運動のおもな参加者にインタビューし、彼らの文献を注意深く読んできた」(4頁)。

 

 この二人にとって、修正主義とはM. ウェーバー、D. アーヴィング、R. フォーリソン、B. スミス、E. ツンデル、D. コールに限定されている(4671頁)。

アーサー・バッツはこの二人が噛み砕くには、すでに硬すぎる骨となっているので、彼の著作『20世紀の詐術』を「運動のバイブルとなってきた」(40頁)と評するにとどめている。すなわち、ごく限られた社会の中でだけ言及するに値するものにすぎないというのである。マーク・ウェーバーについても同じような扱いがなされており、アーヴィングについで「ホロコーストの歴史に精通している人物」(46頁)と片付けられている。アメリカ中心主義的誇大妄想におちいっているシャーマーとグロブマンは、以下の3つの重要な点を忘れてしまっている。

 

1.       この二人は、アメリカの修正主義の一部だけを取り上げているにすぎない(たとえば、F. ベルク[バーク]、W.N. サニング、S. クロウェル、B. レンク、T. オキーフェ、W. リンゼイ、M. ホフマンを無視している);

2.       アメリカの修正主義は世界各地の修正主義の一部にすぎない;

3.       アメリカの修正主義は、その歴史を尊重したとしても、研究水準の面では、ヨーロッパの修正主義を含む世界各地の修正主義の中で、もっとも重要な部分とはいえない。しかし、シャーマーとグロブマンにとっては、ヨーロッパの修正主義とはロベール・フォーリソンのことだけであり、しかも、検証してみると、フォーリソンのテーゼのうちあまり重要ではない部分だけが対象となっており、そのうえ、これから明らかにするように、恥知らずにも間違って紹介されている。

 

現在、ヨーロッパの修正主義を代表しているのは、Vierteljahrshefte für freie Geschichtsforschung (PO Box 118, Hastings TN34 3ZQ, England)誌、その創立者ゲルマール・ルドルフと彼の協力者たちであるというのが真実である。また、ユルゲン・グラーフ、J.M. Boisdefeu Enrique Aynat、アンリ・ロック、Pierre Marais Serge ThionP. Guillaume、ウド・ヴァレンディ、I. ヴェッカート、H.J. ノヴァク、W. ラデマッヒャー、W. サニング、W. シュテークリヒもヨーロッパの修正主義を代表している[6]

特筆すべきものを知るには、すでに引用した1996年の研究Olocausto: dilettanti allo sbaraglio308309頁にあるEssential Revisionist Bibliographyを参照していただきたい。ここには33の研究があがっているが、そのうち、シャーマーとグロブマンが対象としているのは4つにすぎず、うち3つだけがアメリカ人である。シャーマーとグロブマンは修正主義的研究の中からごく少数のものだけを選んでいるにもかかわらず、修正主義者への回答を求めて苦闘するのに何年もかかったのである。

 

「世界各地の著名なホロコースト研究者と話し合っている際に、われわれはこの問題に気づくようになった。多くの場合、われわれは、何年にもわたる計画の中で、かなり苦労して、われわれの質問に対する回答を手に入れることができた」(2頁)[強調――筆者]

 

 だから、「世界各地の著名なホロコースト研究者たち」はシャーマーとグロブマンが選んだマイナーな修正主義的研究者の議論にどのように回答したらよいのかわからなかったのである。思うに、彼らのごまかしの前提のよると、彼らが修正主義のすべての議論に正確に答えなくてはならなかったとすれば、彼らの「計画」は数十年もかかったことであろう。

 

1.2. 本当の歴史学的方法論対修正主義者の方法論なるもの

 シャーマーとグロブマンは、第9章でわき道にそれてしまって、『レイプ・オブ・ナンキン』について論じている。これは、193712月に日本軍が中国の南京市に侵攻したときの戦争犯罪といわれているものであるが、その歴史的な復元は、「194653日、極東国際軍事法廷が開かれ、東京戦争犯罪裁判として知られるようになったときに完成した」(236頁)というのである。言い換えれば、非人道的な日本人の獰猛さを明らかにし、アメリカの原子爆弾による広島、長崎の崩壊および絨毯爆撃を道徳的に正当化するために、憶測にすぎない「事実」が「復元された」のである。

 この二人は、このようにわき道にそれてから、また主題に戻り、学術的方法の10個の要点をかかげている。

 

1.       主張の典拠資料がどの程度信頼できるのか。否定派は事実や数字を引用するにあたっては、まったく信頼できるように見えるが、丹念に検証してみると、細かい事実が歪曲されていたり、文脈から外れていたりすることが多い。

2.       この典拠資料が、きわめて誇張された別の主張を作り出したのではないか。もしもある人物が、以前に、事実を拡大解釈したことがあるとすれば、そのことで、この人物の信頼性は明らかに低くなる。…

3.       別の典拠資料が主張を検証してきたか。典型的なことであるが、否定派は、検証されていないか、別の否定派によってだけから検証された説を唱えている。…外部による検証は、正しい学問と正しい歴史にとって決定的に必要である。

4.       主張が、世界についてわれわれの知っていることとどのように合致しているのか、その主張はどのように作用しているのか。

5.       説の提唱者が、自説を覆してしまうような証拠を認めずに、ただ自説を確証するような証拠だけを捜し求めていないか。これは、「確証的偏見」、すなわち、自説を確証する証拠を捜し求め、自説を否定する証拠を拒もうとする傾向として知られている態度である。…

6.       明白な証拠がない場合、証拠の優位性が説の提唱者の結論や、それと異なる結論に収斂していないか。否定派は、結論に収斂する証拠を求めていない。自分たちのイデオロギーに合致する証拠を捜し求めている。たとえば、アウシュヴィッツのガス処刑についてはさまざまな目撃証言が存在するが、われわれは一貫して、何が起ったのかを明確にするような話の核心を捜し求めている。これとは逆に、否定派は、目撃証言の中の些細な矛盾点を取り上げて、これを拡大解釈し、話自体を否定する変則的な事柄とみなしている。否定派は、証拠を全体として考察するのではなく、自分たちの観点を補強するような細部に焦点をあてている。

7.       説の提唱者は、広く受け入れられている理性の法則と研究方法を使っているのか、それとも、望ましい結論を導くものだけを使っているのか。

8.       説の提唱者は、観察された現象に関して、既存の説明をただ否定するのではなく、異なった説明を提供してきたか。…

9.       説の提唱者が新しい説明を提供したとすれば、それは、旧来の説明と同じように多くの現象を説明しているか。…

10.   説の提唱者の個人的な信念や偏見が結論を生み出していないか、また、その逆ではないか248250頁)。

 

そして、シャーマーとグロブマンによると、修正主義者の振る舞いは次のようなものであるという。

 

「否定派による歴史的事実の選択には、いつも信憑性が欠けている。彼らの主張の多くは乱暴である。その主張が他の典拠資料によって検証されることはほとんどない。たとえ検証されても、その典拠資料は近親相姦的である。否定派が自説を否定することはほとんどない。むしろ、自説を確証する証拠だけを捜し求めている。彼らは歴史研究の一般的なルールにしたがっておらず、歴史的データを説明するにあたって、代替可能な説をまったく唱えない。したがって、自分たちの存在しない理論(ママ)のためにだけ、「証拠を収斂すること」ができる。最後に、証拠の優位性によって明らかにしたように、ホロコースト否定派の個人的な信念と偏見こそが彼らの結論を導き出している。」(251頁)。

 

 シャーマーとグロブマンは「証拠の優位性によって」研究を進めたと述べているが、その研究こそが、彼らの方法論の本質を明らかにしている。しかし、この論点の核心に入るまえに、一般的な考察を順序だてて進めておこう。

 まず、シャーマーとグロブマンの研究は、特定の修正主義者とその議論だけを選別することで、修正主義の全体像を切り刻み、歪曲している。したがって、二人の研究は、二人のあげている第1点にあてはまるのである。この二人は、研究を進めるにあたって、定説派の歴史家が採用し、修正主義的歴史家が採用しなかったとされる「証拠の収斂」という魔術的な公式を採用した。この公式を発明したのは、アーヴィング・リップシュタット裁判で『ペルト報告』として知られるようになる専門家報告を提出したペルトであった。ペルトは、殺人ガス室でユダヤ人が絶滅された証拠が存在しないので、いわゆる「それを示唆するもの」(プレサックのも含む)を集めた。そして、それらをこっそりと「証拠」に格上げし、「証拠の収斂」という概念を発明した[7]。しかし、これは詐欺行為に他ならない。

 私は、シャーマーとグロブマンが例証としてあげている、アウシュヴィッツについての「証拠の収斂」を検証してみた。二人によると、すべての目撃証言が「硬い核」を持っており、それは、殺人ガス処刑の実在性に収斂する。一方、修正主義的歴史家は、証言全体を破壊するために、「些細な矛盾」や「些事」を攻撃しているというのである。

 まず、シャーマーとグロブマンや大半のホロコースト正史派の歴史家は、これらの目撃証言のテキスト全体を無視し、特定の事柄だけを抽出し[8]、注意深く証言のテキストを選別し、証言がはらんでいる矛盾をすべて追放することによって、幻の「収斂」を作り出している。

 G. ライトリンガーの事例がこの「収斂」の典型である。彼は、ビルケナウでの「殺人ガス処刑」を描くにあたって、次のような証言に依拠している。

 

a)                死体を炉に運ぶ「貨車」についてのアダ・ビムコ;

b)                「ガス処刑手順」についてのミクロス・ニーシュリ;

c)                ガス室の排出についてC. S. ベンデル[9]

 

 ライトリンガーの記述を検証してみると、すべての証人が同じ建物と同じ犯罪を記しているかのように見えるが、実際には非常に異なっている。アダ・ビムコは焼却棟に足を踏み入れたことはない。彼女は、誰かが焼却棟を訪問したときの空想物語を作り上げた。すなわち、誰かが、「ガスの入った2つの大きな金属ボンベ」を備えたガス室と炉室に直接つながる線路を「目撃した」というのである[10]。事実、情報を提供されていない段階での「目撃者」は、殺人ガス処刑がメタンのようなガスを使って行なわれた(それゆえ、2つのボンベを発明している)、そして、ヴルバー・ヴェツラー報告にしたがって、狭軌の線路が「ガス室」から「炉室」にまで走っていたと思っていた[11]

しかし、実際には、(ホロコースト正史が殺人ガスが存在したと考えている)ビルケナウの焼却棟には、焼却炉につながる線路と小さな貨車などは存在しなかった。それゆえ、彼らの話は、まったくの虚偽証言である[12]

 ニーシュリとベンデルは、ビルケナウ自称「特別労務班員」[13]であり、同じ時期に同じ場所で暮らしていたという。そして、ニーシュリは、実際には長さ30m7m高さ2.41mであるビルケナウの焼却棟UとVの「ガス室」の大きさを長さ200mとしており[14]、ベンデルは、この部屋を、長さ10m4m高さ1.60mとしている[15]。実際には長さ30mである部屋ついて、一方は長さ200mと証言し、もう一方は長さ10mと証言しているが、このような食い違いは些細な「些事」にすぎないのであろうか。

 ニーシュリは、まったくのでっち上げであったIGファルベン裁判での宣誓証言となる一連の記事を発明し、それをハンガリーの新聞Világに公表している事実はどうなのか[16]。これも「些事」なのであろうか。私はこの問題に関係する研究の中で、歴史的偽造の証拠を提出してきたが、この歴史的偽造ついてはどうなのか[17]。これも「些事」なのであろうか。

 もう1つの虚偽の「収斂」の事例は、「ガス処刑」のプロセスを描いた「目撃証人」ミューラーとニーシュリである。ここでは、ミューラーが(1961年ミュンヘンQuick誌にドイツ語訳の「収容所医師の日記」として発表されたものを利用して)ニーシュリを盗用している。ニーシュリの話では、「殺人ガス処刑」で使われたチクロンBは塩素から構成されており、このために、空気よりも重いものとなっている[18]。たしかに、ここでは、「収斂」が行なわれているが、それは嘘の収斂である。もう1つの嘘の「収斂」の事例は、「殺人ガス室」にチクロンBを投下したとされるいわゆる針金網装置についての「大げさな話」である。これは、M. クラが製造し、H. タウバーが「目撃した」とされるものであるが、まったく実在しない装置である[19]。このようにして、「証拠の収斂」が偽造されているのである。その他の事例については後述する。

 シャーマーとグロブマンの方法論的原則の第2点は、「もしもある人物が、以前に、事実を拡大解釈したことがあるとすれば、そのことで、この人物の信頼性は明らかに低くなる」というものである。言い換えるならば、ある人物が嘘つきであるならば、この人物は信用できないということである。しかし、ホロコースト正史派の歴史家たちは、自分たち目撃証人に対してはこの原則を適用していない。アウシュヴィッツの目撃証人に関していえば、私は、ビルケナウの焼却炉について真実を語った人物は誰もいない、もう一度強調しておくが、一人もいないと、疑問の余地なく断言する。それだけではない、目撃証人全員が、D. パイシコヴィチ(焼却には4分かかった!)[20]S. ヤンコフスキ別名A. ファインジルベルク(各炉室では12体が一時に焼却された!)[21]、ニーシュリ(ビルケナウの焼却棟の処理能力は120000体であった!)[22]というようなきわめて馬鹿げた話から始まって、このシステムの方法と焼却能力について、恥知らずにも偽証し、嘘をつき続けてきた

 ホロコースト正史派の歴史家たちは、こうした虚偽の証言を批判するどころか、ビムコ証言、ヴルバ・ヴェツラー報告、B. ポレヴォイの記事に対するペルトの姿勢に見られるように、この嘘を別の嘘によって取り繕おうとしている[23]

 典拠資料についてはどうであろうか。シャーマーとグロブマンは300頁以上の本の中で、すべての修正主義者のすべてのテーゼに反駁したと主張しているだけではなく、「ホロコースト」が実際に起ったことも明らかにしたと主張している。しかし、この二人は、こと証言に関する限り、二次的な典拠資料を信頼しており、文書資料に関しては、わずか4つを引用しているにすぎない。

 シャーマーとグロブマンの方法論によると、典拠資料を検証する必要があるのだから、この二人は自分たちの典拠資料をチェックしたはずである。では、検証してみよう。

 二人は107頁で、いわゆる「1005作戦」(これについて詳しくは第33節)との関連で、SS大佐ポール・ブローベルのことに触れており、資料PS-3197272頁の注20)を引いているが、正しい典拠番号はNo-3947で、1947618日のポール・ブローベル供述書である。

 シャーマーとグロブマンは175頁にこう記している。

 

19451126日、最初のニュルンベルク裁判で、ナチスの医師ヴィルヘルム・ヘッテル(ママ)博士が証言した…」。

 

 実際には、ヴィルヘルム・ヘットルがニュルンベルクで証言したことはない。二人は、19451126日に作成された、たんなる「供述書」(277頁注5に指摘しているように、PS-2738)を「証言」と取り違えたのである。

 二人は186頁で、総督府長官ハンス・フランクの演説を1940107日としている。そして、その典拠をPS-3363278頁注28)としている。

 しかし、実際には、この演説(この問題については第37/1節で立ち戻ることとする)は19401220日に行なわれたのであり、実際の文書資料はPS-2233である。

 シャーマーとグロブマンは194頁で、19421229日付のヒムラーからヒトラーあての報告があり、その典拠を「N.D. 1120、検事側展示資料237」(279頁の注47)としている。実際には、これは資料NO-511である。

 これが、シャーマーとグロブマンが典拠資料を検証するという義務を尊重しているやり方である。

 この二人は、自分たちの十戒の第4項を守っていないが、そのことについていえば、彼らは次のように述べている。

 

「ユダヤ人が、ドイツからの補償とイスラエルへのアメリカ人の支持を引き出すために、どのようにしてホロコースト史をでっち上げてきたかということについての否定派の凝った陰謀理論。」(249頁)

 

 その前には、シャーマーとグロブマンは、「否定派のある人々」は次のように主張していると書いている。

 

「戦争補償を通じてイスラエル国家を財政的に支援するために、戦時中のユダヤ人の苦難を過大評価するシオニストの陰謀が存在した」(106頁)

 

 シャーマーとグロブマンが、この馬鹿げた「大げさな話」の典拠資料にあげているのは、271頁の注13である。

 

P. Rassinier, Debunking the Genocide Myth: A Study of the Nazi Concentration Camps and the Alleged Extermination of European Jewry (Los Angeles: Noontide Press, 1978)を参照。」

 

 この注が引用頁をあげていないのは、この二人が「大げさな話」を発明したからである。それは、Pierre Hofstetterによる本書の序文の一節に他ならない。彼は次のように述べている[24]

 

「…シオニストのエスタブリッシュメントは600万という神話の上にイスラエル国家を建設してきた。」

 

シオニストは、この「神話」を作り上げたのではなく、そこから利益を享受したのである。

 フォーリソンに対しては、シャーマーとグロブマンはさらに不誠実である。59頁に次のように書いている。

 

「彼[フォーリソン]は1987年の著作の中で、イギリスのホロコースト史家マーチン・ギルバートが、この場合にそこでガス処刑されたユダヤ人の数についての目撃証言にマッチさせるためにガス室の大きさを間違えたと主張した。フォーリソンは、目撃証言がうっかり間違えること(この場合には誇張されている)があり、したがって、ギルバートの典拠資料が不正確であったことを考慮していないのである。」

 

 だから、これはフォーリソンの「へま」であるというのである。この二人の方法論的十戒の求めに応じて、検証してみよう。クルト・ゲルシュタインは194556日の報告の中で、700800名が25u、45㎥のガス室に押し込められたと記しているが[25]、これはなんと、1uあたり2832名となる。そして、マーチン・ギルバートは1979年にこう書いている。

 

「約100uの空間に700800名ほど。」[26]

 

 したがって、ギルバートは「ガス室」の大きさを「間違えた」のではなく、オリジナル資料にあるデータが馬鹿げたものであるがゆえに、そのデータを改竄したのである。そして、大きな「へま」をやらかしているのはこの二人なのである。第一に、彼らはギルバートの典拠資料を検証していない、第二に、自分たちの使った別の典拠資料から「大げさな話」を発明しているからである。

 二人のテキストを読みすすめてみよう。

 

「彼は、有名なゲルシュタイン文書の分析にあたっても、同じようなへまをやらかしている。クルト・ゲルシュタインは、害虫駆除および殺人に使用されたチクロンBガスの発注にかかわったSS将校であり、戦後獄中で死ぬ前に、この燻蒸殺虫剤が殺人目的で使われたことについて証言している。フォーリソンたちは、彼の自白の矛盾を捜し求め、たとえば、ガス室の押し込められた犠牲者の数は物理的にありえないと論じた。この場合、フォーリソンが算術の根拠としたのは、地下鉄の中での快適な状態を作り出すのにふさわしい乗客の数であった。その後、(否定派も含めて)その他の人々は、彼の算術を否定している」(5960頁)。

 

 この記述の典拠はヴィダル・ナケの『記憶の暗殺者』(1992年)6574頁にあるとされている(267頁注65)。しかし、実際には、この本には、このように馬鹿げた「大げさな話」の痕跡すらない。シャーマーとグロブマンが発明したのである。この二人は、自分たちがゲルシュタイン文書から引用した同じテキストについてへまをやらかしていることに気づいてもいない。1uあたり2832名を「ガス室」に押し込むことはできないことを論証するのに、一体誰が、地下鉄の中の状態と比較しなくてはならないと考えるであろうか。ギルバートもユダヤ人歴史家のポリャーコフもこのことを直感的に理解していたからこそ、ゲルシュタインのデータを改竄したのである[27]

 しかし、修正主義の反対者の方法が常軌を逸しているのは、1つの分野に限らない。以下は、シャーマーとグロブマンがあげている別の事例である。

 二人は、1993227日、マーク・ウェーバーが「サイモン・ヴィーゼンタール・センターのだまし作戦の犠牲者」となったと書いている。

 

「この作戦では、ロン・フューレイと称する研究者ヤーロン・スヴォレイが、カフェでウェーバーと会い、トリックにかけてネオ・ナチスの正体を暴露させるために作られたThe Right Way誌について話し合った」(4647頁)。

 

 ということは、有名なサイモン・ヴィーゼンタール・センターはごまかしと嘘にかかわっていたということである。これと符合するように、『歴史の否定』の著者の一人アレックス・グロブマンは(ブック・カバーによると)「サイモン・ヴィーゼンタール・センター年報の編集長」なのである。

 2番目の事例は、ユダヤ人修正主義者であったデイヴィッド・コールに関するものである。1998年、ロバート・ニューマンは、有名なユダヤ防衛連盟のウェッブ・ページに「デイヴィッド・コール:恐るべき裏切り者」と題する声明を発表した。それは、コールの命にかかわるものであった[28]。コールはこの事態を完全に理解し(彼は、「誰かが自分を探し出して、射殺するだろうとひどくおびえた」)、すべてを撤回した(7273頁)。

 嘘とごまかしに、脅迫が付け加えられた。それも街のならず者からではなく、2つの有名な[もしくは悪名高い!]ユダヤ人団体からである。

 

 

2. ガス室の「証拠の収斂」

2.1. 「証拠の収斂」の6つのレベル

 第6章はおもにアウシュヴィッツをあつかっているが、マイダネク、マウトハウゼンも入っている。この二人は、「ガス室と焼却棟が虐殺のために使われたことを証明した」と称している(126頁)。6つの証拠を提示し、二人の話では、これらは「そのような結論に収斂する」(128頁)というのである。

 これらの「証拠」を検証してみよう。

 

1.       文書資料―チクロンB(多孔性の土の丸薬に含まれたシアン化水素の商標)の発注書、建築青写真、ガス室と焼却棟の建設資材の発注書

2.       いくつかの収容所のガス室の壁に残るチクロンBガスの痕跡[ママ!]

3.       目撃証言―生存者の証言、ユダヤ人特別労務班員の日誌、看守や所長の自白

4.       地上写真―収容所だけではなく、焼却されている死体の写真(秘密に撮影され、アウシュヴィッツから持ち出された写真)

5.       航空写真―囚人がガス室/焼却棟建物に向かっている様子を示しており、ガス室と焼却棟の構造を確証する地上写真と合致しているもの

6.       上記の証拠と照らし合わせて検証された収容所の現存の廃墟127128頁)。

 

チクロンBの発注については、この二人は何も語っていない。133頁で、「チクロンBガスの発注書」という文句を繰り返しているにすぎない。なんと、これが彼らの「証拠の収斂」なのである。しかし、たとえ彼らの議論がもっとうまく構成されたものであったとしても(そのようなことができるはずがないが)、この「証拠」はまったく無意味にすぎない。ドイツの強制収容所では、チクロンBは広く使われた害虫駆除剤であったので、どのようにしたら、この通常の殺虫剤が殺人目的で使われたと推論することができるのであろうか。

たとえば、シャーマーとグロブマンは、「チクロンBガスの発注に関与した」(59頁)クルト・ゲルシュタインに立ち戻って、アウシュヴィッツに1185kg、オラニエンブルクに1185kg、合計1944216日から331日まで2370kgのチクロンBを供給したことに関する、彼の名前における、デゲシュ社の12の発送状を提示している[29]。オラニエンブルク(ザクセンハウゼン)では、チクロンBを使った殺人ガス室で大量絶滅があったと主張しているものは誰もいない。だとすれば、アウシュヴィッツへのチクロンBの供給が大量絶滅の「証拠」であると、一体どのようにして推論できるのであろうか。

この二人は、「建築青写真、ガス室と焼却棟の建設資材の発注書」――意図的にあいまいな文句となっている――についても何も語っていない。殺人ガス室に関する文書資料が存在しているとほのめかしているが、それは嘘だからである。焼却炉については、大量の文書資料があるが、それがガス処刑された人々の焼却に使われたことを示す証拠はまったく存在しない。むしろ、シャーマーとグロブマンの研究からは、逆の結論が明白に浮かび出てくる。すなわち、石炭供給量も炉室の耐火煉瓦の耐久性も、自然死した登録囚人の死体の焼却数に合致していること[30]である。そして、これこそが、殺人ガス室の非実在性に関する証拠の収斂の一つなのであるが、それについてはシャーマーとグロブマンは口を閉ざしている。

「チクロンBガスの痕跡」については後述しよう。

ホロコースト正史派の歴史家が「証言の収斂」を作り出すやり方にはいろいろなものがあるが、その第一は、証言から一つの文だけを取り出して、その他の馬鹿げた文には沈黙を守るというやり方である。このようなやり方は、二人の方法論的な十戒によると、信憑性を低め、シャーマーとグロブマンを信頼できない人物とする。第二は、このような証言に含まれている、本質的問題についてのひどい相互矛盾を黙って見過ごしてしまうことである。

別の事例の虚偽の「収斂」、すなわち「焼却壕」についての虚偽の「収斂」を見ておこう。

「焼却されている死体」を写しているものを含むこれらの「地上写真」は、殺人ガス室での「大量絶滅」について何も証明していない。すでに別のところで明らかにしたように[31]、ビルケナウで戸外の死体焼却が行なわれたのは、焼却棟が一時的に停止したとき、焼却炉の石炭が不足していたときのことであった。シャーマーとグロブマンは、のちにこの「証拠」をはずしているが、それは偶然ではない。

 

2.2. アウシュヴィッツのガス室

2.2.1. 「チクロンBの痕跡」

 シャーマーとグロブマンはこの「証拠」を扱うにあたって、「チクロンBの痕跡」(129頁)という用語を使っている。すでに何回も指摘しておいたように、この馬鹿げた用語は、この問題についての用語法に無知なために生まれている。実際には、「チクロンBの痕跡」とは、まったく別の事柄のシアン化合物の痕跡のことである。この問題についてのもっとも権威のある研究者はゲルマール・ルドルフである。彼は専門的化学者であり、アウシュヴィッツの「ガス室」に関するきわめて詳細な科学的研究書をあらわしている[32]。この研究は、アウシュヴィッツの害虫駆除システム施設(第1章)、プロシアン・ブルー(鉄化シアン)の生成と安定性(第2章)、シアン化水素を使った害虫駆除ガス処理手順(第3章)に関する諸問題を検証している。

さらに、ルドルフは、ビルケナウの害虫駆除ガス室、「殺人ガス室」からさまざまなサンプルを集め、化学的分析を行なった。その結果は、前者(BW5bの殺菌駆除ガス室)からは最大13500mg/kgが、後者(焼却棟Uの死体安置室Tすなわち死体安置室)からは6.7mg/kgが検出された。この結果は、それ以前の化学報告の結果とともに、第4章に公表されている。ゲルマール・ルドルフは、結論を出したのちに(第4章)、自分の結論とは反対の、殺人ガス室に関する報告に完璧に反駁している。(第4章)

 シャーマーとグロブマンは、ルドルフの本質的研究を、一組の意味のない引用で片付け、さらには、彼の姓RudolfのつづりをRudolphと誤記している。二人は、欠点を抱えざるをない予備的な研究(ロイヒター報告)[33]ときわめて科学的な本質的研究とのあいだで、前者のほうに話を集中し、後者については黙って見過ごしている。しかし、シャーマーとグロブマンはロイヒター報告を扱うにあたっても、この問題の解決に少しでも能力を持っている人であれば、首をかしげてしまうような議論を展開している。

 シャーマーとグロブマンは131頁で次のように書いている。

 

「フォーリソンは、燻蒸措置を受けた普通の建物にもガス室にもチクロンBの痕跡があると指摘して、チクロンBの痕跡はガス室が殺人目的で使われたことをまったく証明していないと結論している。しかし、薬剤師で強制収容所の専門家であるプレサックによると、建物と死体安置室は通常、固形(石灰、塩化石灰)であれ、液体(漂白剤、クレゾール)であれ、ガス(フォルムアルデヒド、硫黄無水石膏)であれ、消毒剤で殺菌駆除されるのであるから、フォーリソンの弁護は無意味である」(131頁、強調――筆者)。

 

 ここに「無意味な」ものがあるとすると、まさしくこのような議論である。フォーリソンは「害虫駆除ガス室」と書いているが、彼の意味しているところは「害虫駆除処理を行なうガス室」のことである。二人のホロコースト正史派の歴史家は、言葉をもてあそぶことで、「混乱した証拠」を作り出しているのである。

 このような「証拠」を作り出すにあたって、よからぬ考え方は存在しない。たとえば、ダヌータ・チェクは『アウシュヴィッツ・カレンダー』の中で、チクロンBを使った殺菌駆除[もしくは害虫駆除]をさすのに「殺菌駆除」という用語を使っているが[34]、これが[無意味である]と述べたホロコースト正史派の歴史家は一人もいないからである。

 

2.2.2. プロシアン・ブルーの溶解性

 この二人は182頁で、「殺人ガス室」の廃墟は「半世紀以上も風雨にさらされてきた」と述べている。その結果、壁に生成したプロシアン・ブルーは消散してしまったというのである。そして、二人はコールの議論に立ち戻る。

 

コールは「現存の廃墟が風雨にさらされていたことを認めているが、マイダネクの煉瓦ガス室の外壁――ナチスはここに衣服や毛布を立てかけて、ガス残余物を取り除くために、それらをたたいた――には、チクロンBの青いしみがなぜ残っているのかという疑問を抱いている」(132頁)。

 

 そして、二人は次のようにコメントしている。

 

「これらの青いしみは、アウシュヴィッツでのように、風雨にさらされて流されなかったのであろうか。コールの疑問は当然のように見えるが、マイダネクを訪れてみれば、煉瓦の外壁の青いしみが少量であったことがわかる。さらに、軒が煉瓦を雨と雪から守っていた。だから、マイダネクの煉瓦は、アウシュヴィッツの瓦礫のように風雨にさらされていなかったのである」(132頁)。

 

 マイダネクの「入浴・害虫駆除施設T」の背後の2つの害虫駆除室の外壁にあるプロシアン・ブルーのしみが小さなものであることは事実である。しかし、ナチスがこれらの壁に衣服と毛布を立てかけて、ガス残余物を取り除くために、これらをたたいたという話は、虚偽であるばかりではなく、矛盾している。なぜなら、この二人は、この2つの施設が「囚人のガス処刑という緊急の目的のために」(163頁)存在していたと主張しているからである。この問題については後述することとする。

 さらに、問題の壁が軒や天蓋で保護されていた(二人の考えでは数十年間、そうでなければ、彼らの議論は無意味となる)というのも虚偽である。この軒は実際には、収容所が19447月に解放されたときすでに解体状態にあり、問題の壁はすでに風雨にさらされていたのであり[35]、その状態で今日にまで至っている。

 しかし、この二人に回答するには、彼らが語っていることよりも、語っていないことの方が重要である。まさにビルケナウの焼却棟UとVの廃墟から300メートルほど離れた地点に、BW5bの殺菌駆除ガス室の2つの外壁(北と南)があり、そこには大量のプロシアン・ブルーのしみが残っている(BW5aの害虫駆除ガス室の壁よりは量的には少ないが)。このことについては、すでにプレサックが指摘しており、写真までとっている[36]。ルドルフは、プロシアン・ブルーのしみが風雨にさらされても、長期にわたって非常に安定していることを立証しているが[37]、しかし、二人はこの件については沈黙している。したがって、この二人は、自分たちの根拠のない仮説を反駁してしまう証拠を意図的に隠しているだけではなく、いんちきの証拠で自分たちの仮説を立証しようとしているのである

 

2.2.3. 消えたドアと「鍵」

 シャーマーとグロブマンは132頁で、マウトハウゼンの「殺人ガス室」についての自分たちの扱い方を予想して、次のように書いている。

 

「疑問や仮説が証拠に裏付けられていないときには、それはたんなる修辞上のやり取りとなり、それに対する回答を必要としない。しかし、もう一つの事例として、マウトハウゼンのガス室のドアには鍵がないというコールの主張を考察しておこう。たしかに、既存のドアには鍵がない。しかし、これはオリジナルのドアではないので、関係ないことである。この事実を発見するためにしたことは尋ねることであった。」

 

 あとで、二人は「ガス室のオリジナルのドアは博物館にある」(168頁)と付け加えている。

 したがって、ガス室に通じる「その」ドア<単数>はオリジナルではなく、オリジナルは「博物館に」あり、そのことを知るには、「尋ねる」だけでよいというわけである。すでに見てきたように、シャーマーとグロブマンは、修正主義者の典拠資料の信憑性を詳しく分析したいという希望を表明していたのであるが、ここでは、何とまったく信頼できる典拠資料、すなわち、特定不明の人物が彼らの質問に答えた回答を引用しているのである。

 この二人もマイダネクの「ガス室」を訪問している(彼らが撮影したガス室の写真の1つを掲載している)。しかし、彼らの観察力は明敏ではなく、この建物には二つのドアがあることに気づいていないことも指摘しておかなくてはならない。もしも気づいていれば、建物に通じる「その」ドア<単数>はオリジナルではないなどと書くはずがないからである。「証拠の裏づけがなく」、「修辞上のやり取り」にすぎなくなってしまった断定の典型である。コールは、ガス室には「鍵」があったと真面目に信じていたが、そのコールとまったく同じように、シャーマーとグロブマンもこの件について無知であることが、この「修辞上のやり取り」から判明する。実際には、ガス気密ドアは、ドアの金属部分の本体に付けられた金属板のレバーによって閉じられていたのであり、そのことはマイダネクの殺菌駆除室を見れば一目瞭然である。シャーマーとグロブマンもこれを見たことであろうし、167頁の図29の写真までも掲載しているのであるが、それがどのように作動するのかについて理解できなかった。

 

2.2.4. アウシュヴィッツの焼却棟Tの「再建」

 シャーマーとグロブマンは132頁で次のように書いている。

 

「コール、ロイヒター、フォーリソンが、アウシュヴィッツ(ポーランドの兵舎を改造したオリジナル収容所)の焼却棟Tのガス室のなかのチクロンBの残余物が絶滅のレベルには達していないという『発見』として提示している『証拠』はどうなのであろうか。注目すべきは、彼らは、この建物がオリジナルの資材と別の建物の資材を使って再建されたことに触れていないことである。だから、彼らが自分たちの研究で『実験調査した』ものが何であるか、まったくわからないのである。」

 

 ここでもシャーマーとグロブマンは虚偽の方法にうったえている。知ってのとおり、焼却棟Tは破壊されても、再建されてもいない。二人が引用しているドヴォルクとペルトの著作は(275頁の注35)、たしかに焼却棟Tは「再建された」と書いてはいるが、これが、煙突と2つの焼却炉の再建、死体安置室(「ガス室」)――破壊されていない――の天井に4つのチクロンBの投下口・穴を開けることで[38]、オリジナルの状態に戻したことを指していることは明らかである。さらに、二人は、この虚偽が露見してしまうのを避けるために、この本の典拠部分を364頁ではなく、「272頁から278頁」とすることで、「誤り」を重ねている。

 

2.2.5.  再建されたけれどもオリジナルの「ガス室」

 

「デイヴィッド・コールは、自分のアウシュヴィッツ訪問のドキュメンタリーのなかで、自分は博物館長に、ガス室が再建されたものであり、したがって、無邪気な世の中の人々に押し付けられている『嘘』であると『自白』させたと断定している。これこそが、古典的な否定派の誇大広告であり、イデオロギー的な煽動である。ガイドから館長にいたるまで、ここのガス室が再建されたものであることを否定する人物はアウシュヴィッツにはいない。見学者は尋ねてみるだけでよい」(133頁)。

 

 そうかもしれないが、これは、この二人が1990年代末に収容所を訪問したときのころの話である。コールがアウシュヴィッツで記録を取っていたとき、1992年にはあてはまらない。シャーマーとグロブマンはこのことをよく知っているはずである、問題のヴィデオでは、コールは、アリシアという名前のガイドに「尋ねている」だけだからである。コールとアリシアの会話の本質的な部分は次のとおりである[39]

 

このガス室の前で、私はこの建物の信憑性についてアリシアに尋ねました。

 

コール:ここで、この建物についてもう一度お話しましょう。

アリシア:これは焼却棟/ガス室です。

コール:しかし、作り直されたのではないですか。

アリシア:オリジナルの状態にあります。

 

 アリシアは、ガス室がオリジナルの状態にあると明言しました。中に入ってから、とくに天井の穴について尋ねました。

 

コール:天井にある4つの穴もオリジナルなのですか。

アリシア:オリジナルです。この煙突からチクロンBが落とされました。

 

 

 すでに1995年、博物館館長の民間従業員クリスティナ・オレクセイは、いわゆるガス室について、ジャーナリストのエリク・コナンに次のように述べている。

 

「当面のあいだ、私たちはそれを現在の状態のままにおいておくつもりです。見学者に詳しいことは話さないでしょう。非常に複雑だからです。」[40]

 

 つまり、この建物がオリジナル状態のガス室であると見学者に信じ込ませるために、ガイドはこの建物が(下手に)作り直されたものであると語ってはならないと命令されているのである。ここにあるのは、「古典的な否定派の誇大広告」の事例ではなく、古典的なシャーマーとグロブマンの虚偽の議論の事例なのである。

 

2.2.6. 文書資料

 さて、文書資料と地上写真による「立証」(131頁)を検証してみよう。シャーマーとグロブマンは、ビショフ「SS少佐」の「ハインツ」・カムラーあての有名な1943129日の書簡をとりあげている(137頁)。カール・ビショフはアウシュヴィッツ武装SS警察中央建設局長であったが、その階級は書簡[41]にあるように「SS大尉」であり、SS経済管理中央本部C課長カムラーのファーストネームはハンスである。

 シャーマーとグロブマンは書簡の一部を引用し、そこではドイツ語の単語Ofen (ovens)furnacesとされている。ここでも、シャーマーとグロブマンはオリジナル文書を検証するのではなく、第二次典拠資料G. ラントリンガーに依拠している(注38)。

 「ガス処理室」と訳されているVergasungskeller[42]については、プレサックでさえも、「それが殺人ガス室を意味すると主張することは無責任である、『ガス室』であることは正しいとしても、それが『殺人ガス室』である証拠ではないからである」と述べているほどです[43]

 137頁に、シャーマーとグロブマンはこう記している。

 

194336日、ビショフは焼却棟Vのために、焼却棟Uのものと同じ、厚いガラスののぞき穴のついたガス気密ドアに言及している。」

 

実際には、オリジナル文書[44]の日付は1943331日である。シャーマーとグロブマンは文書の一部しか掲載していないが、Leichenkeller I(地下死体安置室T)という用語を「地下室T」と間違って翻訳している。アウシュヴィッツに関するプレサックの最初の研究の275頁注39にオリジナル文書が掲載されている[45]

 そして、シャーマーとグロブマンはこうコメントしている。

 

「この部屋の中で行なわれたことが衣服の害虫駆除であったとしたならば、そうして、厚いガラスののぞき穴が必要であったのか?のぞき穴の存在自体は何も証明してはいないが、そのことは、これらの部屋が人間の殺戮のために使われたという考え方にマッチする今一つの発見である。」(137頁)

 

 この馬鹿げた結論は、シャーマーとグロブマンがこの文書を借用したプレサックの著作だけできっぱりと反駁できる。いわゆるカナダTのBW28 Entlausungs- und Effektenbaracken、すなわち害虫駆除・倉庫バラックにはシアン化水素を使った害虫駆除室があったが、プレサックはこの部屋のガス気密ドアの写真を掲載して、それをこうコメントしている[46]

 

「カナダTの害虫駆除室のガス気密ドア。DAW[ドイツ装備工場]によるその製造は粗雑である。のぞき穴と、ドアを開くハンドルがついている…」

 

 プレサックはこののぞき穴の拡大写真も掲載している[47]。のぞき穴はアウシュヴィッツ収容所のブロック1の害虫駆除室のガス気密ドアにも設置されており、プレサックはこれについての6枚の写真を掲載している[48]この当時のドイツの規則によると、一人で害虫駆除室に入ることは禁止されていた。一人が害虫駆除室に入った場合、もう一人がこの人物を監視していなくてはならず、近況の場合には救助を担当した。だから、害虫駆除室のドアにものぞき穴があったのである[49]

 だから、シャーマーとグロブマンはもっぱら自説を確証するような証拠だけを求めることで、自分たちがかげた方法論上の十戒に違反しているだけではなく、プレサックの本から自分たちの説にマッチする部分だけを選択することによって、自分たちの間違った結論に反するような証拠を意識的に無視していることになる。

 

2.2.7. 「目撃証言」

 シャーマーとグロブマンは、「大量殺戮の目撃証言」がさらなる「証拠の収斂」をもたらしているという(137頁)。彼らは、1945713日に執筆され、イギリス情報局に提出された有名なペリー・ブロードの「自白」に触れてこう述べている。

 

19594月、ブロードは、旧アウシュヴィッツSS隊員の裁判に証人として召喚され、自白を自分で書いたことを認め、その信憑性を確認し、何も撤回しなかった。」(137頁)

 

 しかし、フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判で、ブロードはこう述べている[50]

 

1945年、私はアウシュヴィッツについての報告を書き、それをミュンスターのイギリス軍収容所のイギリス人に渡しました。ここで私の報告書が作られました。ここで、写真コピーを渡されたので、それを読み通しました。私が書いた部分もありましたが、他人が手を加えたと思われる箇所もありました。本物ではない箇所もありました。このようなものが私の手によるものであることに驚きました。」

 

 ブロードは報告を読んだあとでこう述べています[51]

 

「私は、部分的には確かに私の手によるものであることを認めますが、文書全体がそうであるとはいえません。」

 

 確かに、ブロードは、ガス処刑に触れている箇所の信憑性を認めている。しかし、この箇所の信憑性に疑問を呈するような証言をしたとすれば、自分自身に厳しい判決が下される可能性に直面したことであろう[52]

 シャーマーとグロブマンによると、修正主義的歴史家たちは、殺人ガス処刑の継続時間がブロードにとっては4分、ヘスにとっては20分であることに気づき、

 

「否定派は、そのような相違点のために、ブロード証言全体を否定するにいたっている。」(138頁)

 

事実、ヴィダル・ナケやプレサックといった人々さえも、ブロード証言に疑問を寄せている。ヴィダル・ナケはこう記している[53]

 

「アウシュヴィッツの文書の中には、まったく勝者の言語を採用したかのような印象を抱かせる証言がある。例えば、SS隊員ペリー・ブロードの証言がそれである。彼はアウシュヴィッツ政治部、すなわちゲシュタポ・メンバーであったが、1945年に、イギリス人のために、アウシュヴィッツについて覚え書を書いている。そこでは、彼はまったくの第三者のように語っている。」

 

 プレサックもこう記している[54]

 

歴史的には、この話は、その『真実』らしい、また『驚くべきような』雰囲気にもかかわらず、その現在のバージョンのままでは、利用できないものである。それは、ポーランド人によって、ポーランド人のためにリライトされており、19451214日の資料NI-11397は、この『陳述』が持っていたに違いない正確なトーンのはかない印象を与えているだけである。イギリス情報局に提出され、ポーランド版の『陳述』のもとになった、1945613日の有名な話についていえば、文書館主任が、PMOはオリジナルを所有しておらず、それはイギリスにあると考えられていると私に確言した。私は、1945613 の元々の話の写真コピーさえも見ていないので、翻訳者のヘレナ・ディジンスカがドイツ語の『オリジナル』を見たかどうか疑っている。博物館はそれを所有し ていないからである。さらに、ペリー・ブロードは、そのオリジナルな話の中でさえも、絶滅施設の貧弱な観察者にすぎなかったのではないかと思っている

In fact, this document is considered of doubtful value even by such people

as Pierre Vidal-Naquet and Jean-Claude Pressac. The former has written:53

In the documentation on Auschwitz there are statements which give

the impression of adopting entirely the language of the victors. This is the case, for example, of SS-man Pery Broad who, in 1945, drew up for the

English a memorandum on Auschwitz where he had been active as a member

of the Politische Abteilung, i.e. of the Gestapo. He speaks of himself in

the third person.

And Pressac notes:54

Historically, this account is not exploitable in its present version, despite

its true and all too striking atmosphere, since it has been rewritten

by and for the Poles and diffused exclusively by them.

Pressac then states that the Auschwitz Museum is not in possession of the

original and that nobody knows where it is. In his second book on Auschwitz,

Pressac asserts:55

[P. Broad] gave himself up to the English in May [1945] and started to

work for them. On the basis of his recollections he drew up a report on

Auschwitz, the strange format of which is said to have been suggested to

him by a Pole in London who had been in touch with him at Munsterlager.

Released in 1947, he continued to work for the English. He blamed everyone

else to save his own skin, testified at Nuremberg and at Hamburg in

the trial of Bruno Tesch.

The authors, hence, who (rightly) demand from the revisionist historians

the reliability of their sources, base themselves in this case on a document, of

which no one has ever seen the original, which is written in an apologetically

Polish style, and which is recognized even by its presumed author as having

been somewhat altered. But for Shermer and Grobman, this is a reliable

source!

Then, the authors move on to the convergent proof of Rudolf Hoss

confessions. They claim:56

Hoss made his statement on April 5, 1946, probably unaware of Pery

Broads memoir (and vice versa).(p. 139, emphasis added)

They tell us that

after Hoss was found guilty and sentenced to death, he wrote a 250-

page autobiographical manuscript that corroborates both his previous testimony

and Broads statement.(p. 139)

In fact, the sentence in the Hoss trial was pronounced on April 2, 1947, and

he was executed on April 16, but his notes date from the period between November

1946, and February 1947. It is really unbelievable that the authors

should be unaware of such basic dates in the historiography of the holocaust.

54 J.-C. Pressac, Auschwitz, op. cit. (note 36), p. 162.

55 J.-C. Pressac, Les crematoires dAuschwitz. La machinerie du meurtre de masse, CNRS Editions,

Paris 1993, p. 131.

56 How is Broad, who made his statement in 1945, supposed to have known about Rudolf

Hosss confession extorted a year later? Editors remark.

 

 

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[1] Michael Shermer, Alex Grobman, Denying History. Who Says the Holocaust Never Happened and Why Do They Say it?, University of California, Berkeley, Los Angeles, London, 2002. 以下、本書を引用する場合には、頁番号だけを記載する。

[2] See Chapter 2.

[3] タイトルが風変わりなものになったのは、マットーニョが本書の中で批判しているLirritante questione delle camere a gas の著者であるイタリア人反修正主義者ヴァレンティナ・ピサンティがおとぎ話作者であり、ロビン・フッドの話の解釈と歴史に通暁しているからである。

[4] Both articles were available on the Internet since 2000; they are now posted at www.vho.org/GB/c/CM.

[5] Cf. in this respect Paul Rassinier, The Holocaust Story and the Lies of Ulysses, The Institute for Historical Review, Costa Mesa, California, 1978, pp. 107-209.

[6] See the revisionist online database at http://www.vho.org/search/d/ for a list of each authors contributions.

[7] Robert J. van Pelt, Pelt Report, introduced during the civil case before Queens Bench Division, Royal Courts of Justice, Strand, London, David John Cawdell Irving vs. (1) Penguin Books Limited, (2) Deborah E. Lipstadt, Ref. 1996 I, No. 113 (www.holocaustdenialontrial.com/evidence/van.asp).

[8] For example the book by Georges Wellers, Les chambres a gas ont existe, Gallimard, Paris 1981, and the collective work by E. Kogon, H. Langbein, A. Ruckerl et al. (eds.), Nationalsozialistische Massentotungen durch Giftgas, S. Fischer Verlag, Frankfurt/Main 1983, from which I quote (Engl.: Nazi Mass Murder, Yale University Press, New Haven 1993.)

[9] Gerald Reitlinger, The Final Solution. The Attempt to Exterminate the Jews of Europe 19391945, Vallentine, Mitchell, London 1953, 1965, pp. 150-152.

[10] Raymond Philips (ed.), Trial of Josef Kramer and Forty-four Others (The Belsen Trial),  William Hodge and Company Limited, London-Edinburgh-Glasgow 1946, pp. 66-78.

[11] 妄想の産物であるこの報告には、ビルケナウの焼却棟UとVについてのまったく捏造された図面も入っている。ヴルバとヴェツラーは半地下室である「殺人ガス室」(死体安置室T)を炉室と同じ高さに置き、それと炉室を実在してもいない狭軌の線路で結び付けているのである。さらに、彼らは煙突の周囲に9つの炉を配置しているが、実際には、3燃焼室をもつ5つの炉が焼却棟には存在した。焼却棟のデザインとその実際の図面については私の研究 Olocausto: dilettanti allo sbaraglio, Edizioni di Ar, Padua 1996, pp. 293f., and Auschwitz 27 gennaio 1945 . 27 gennaio 2005: sessantanni di propaganda. Genesisviluppo e declino della menzogna propagandistica delle camere a gas,I Quaderni di Auschwitz, no. 5. Effepi, Genova 2005, pp. 24-27.参照。

[12] Cf. in this respect my study Auschwitz: due false testimonianze, Edizioni La Sfinge, Parma 1986, pp. 19-25.

[13] この用語には文書資料的裏づけがない。どのような人物が焼却棟に「特別労務班員」として配置されたのか明らかにする文書資料はこれまで発見されていない。一方、ビルケナウには少なくとも11の「特別労務班」が存在していたが、いずれも、焼却棟とは関係がない。この点については。C. Mattogno, Special Treatment in Auschwitz, Theses & Dissertations Press, Chicago 2004, pp. 101-103.

[14] Miklos Nyiszli, Auschwitz. A Doctors Eyewitness Account, Fawcett Crest, New York 1961,pp. 44f. ハンガリー語のオリジナルには “ez a terem olyan nagysagu, mint a vetkez􀄘terem” (「このホールは脱衣室と同じ大きさである」)、すなわち長さ200mである、とある。 (Dr. Mengele boncoloorvosa voltam az auschwitz-i krematoriumban, Oradea, Nagyvarad, 1946, p. 34).

[15] NI-11593, pp. 2 and 4.

[16] Cf. C. Mattogno, Olocausto, op. cit. (note 11), p. 51.

[17] C. Mattogno, Medico ad Auschwitz: anatomia di un falso, Edizioni La Sfinge, Parma 1988.

[18] In this respect, cf. C. Mattogno, Auschwitz: un caso di plagio, Edizioni La Sfinge, Parma 1986; Engl.: Auschwitz: A Case of Plagiarism,Journal of Historical Review, 10(1) (1990), pp. 5-24.その試訳

[19] In this respect, cf. my article The Elusive Holes of Death starting on p. 279 of this book, especially chapter page 2.7.2., starting on p. 303. It was first published in English in The Revisionist as three separate paper: C. Mattogno, “‘No Holes, No Gas Chamber(s),’” The Revisionist 2(3) (2004), pp. 387-410; C. Mattogno, The Openings for the Introduction of Zyklon B, 2 parts, The Revisionist 2(3) (2004), pp. 411-436.

[20] Rijksinstituut voor Oorlogsdocumentatie, Amsterdam, c[21]96 (die Leichen verbrannten in etwa 4 Minuten); cf. L. Poliakov, Auschwitz, Julliard, Paris 1964, p. 162.

[21] Jadwiga Bezwinska, Danuta Czech (eds.), Inmitten des grauenvollen Verbrechens. Handschriften von Mitgliedern des Sonderkommandos, Verlag des Staatlichen Auschwitz-Birkenau Museums, 1996, p. 37 (in one of these ovens 12 corpses could be accomodated).

[22] Miklos Nyiszli, op. cit. (note 14), p. 44: 「これは数千名がたった一日で焼却されえたことを意味する。」この翻訳は「20000名」という数字を明言しているオリジナルを改竄したものである。Nyiszli Miklos, Dr. Mengele boncoloorvosa voltam az auschwitz-i krematoriumban, Oradea, Nagyvarad, 1946, p. 38.

[23] Olocausto: dilettanti nel web, Effepi, Genova 2005, pp. 63-65; Auschwitz 27 gennaio 1945, op. cit. (note 11), pp. 47f.

[25] PS-2170, p. 5.

[26] Martin Gilbert, Final Journey: The Fate of the Jews in Nazi Europe, Mayflower Books, New York 1979, p. 91.

[27] レオン・ポリャーコフも、オリジナル文書の25uを改竄して、93uとしている。Breviaire de la haine, Calmann-Levy, Paris 1979, p. 223.

[29] PS-1553.

[30] In this respect cf. C. Mattogno, The Crematoria Ovens of Auschwitz and Birkenau, in: Germar Rudolf (ed.), Dissecting the Holocaust. The Growing Critique of Truth and Memory,2nd ed., Theses and Dissertations Press, Chicago, 2003, pp. 373-412 (the first edition of this volume appeared in 2000, edited by G. Rudolf under the pen name Ernst Gauss).

[31] Cf. my article An Accountant Poses as Cremation Expert beginning at p. 87 in this book (a previous version is online at www.vho.org/GB/c/CM/Risposta-new-eng.html).

[32] Germar Rudolf, The Rudolf Report. Expert Report on Chemical and Technical Aspects of the Gas Chambers of Auschwitz, Theses & Dissertations Press, Chicago 2003. The first German edition appeared in 1993: Rudiger Kammerer, Armin Solms (eds.), Das Rudolf Gutachten, Cromwell Press, London 1993; 2nd ed.: Das Rudolf Gutachten, Castle Hill Publishers,Hastings 2001.その試訳

[33] See the new edition: Fred A. Leuchter, Robert Faurisson, Germar Rudolf, The Leuchter Reports. Critical Edition, Theses & Dissertations Press, Chicago 2005.

[34] In this respect cf. my study Olocausto, op. cit. (note 11), pp. 154f.

[35] Cf. the photographic album Majdanek, Krajowa Agencja Wydawnicza, Lublin 1985, photograph 67.

[36] J.-C. Pressac, Auschwitz: Technique and operation of the gas chambers, The Beate Klarsfeld Foundation, New York 1989, pp. 59f. (http://holocausthistory.org/auschwitz/pressac/technique-and-operation/pressac0059.shtml).

[37] G. Rudolf, 2003, op. cit. (note 32), pp. 170-180.

[38] D. Dwork, R.J. van Pelt, Auschwitz 1270 to the present, W.W. Norton & Company, New York, London 1996, p. 364.

[39] David Cole, Bradley Smith, David Cole Interviews Dr. Franciszek Piper, Director, Auschwitz State Museum, VHS Video, 1992, distributed by CODOH, P.O. Box 439016, San Diego, CA 92143, USA (www.vho.org/GB/c/DC/gcgvcole.html); Journal of Historical Review 13(2) (1993), pp. 11-13.その試訳

[40] E. Conan, Auschwitz: la memoire du mal, in: LExpress, January 19, 1995, p. 57: Pour linstant, on la laisse en letat et on ne precise rien au visiteur. Cest trop complique(www.fpp.co.uk/Auschwitz/docs/Conan.html).

[41] APMO (Archive of the National Museum of Auschwitz-Birkenau), BW 30/34, p. 100.

[42] この件については私の論文The Morgues of the Crematoria at Birkenau in the Light of Documents,The Revisionist, 2(3) (2004), pp. 271-294.その試訳)を参照。

[43] J.-C. Pressac, Auschwitz, op. cit. (note 36), p. 503.

[44] APMO, BW 30/34, p. 49.

[45] J.-C. Pressac, Auschwitz, op. cit. (note 36), pp. 452f.

[46] Ibid., p. 46.

[47] Ibid., photograph 15.

[48] Ibid., pp. 28f.

[49] Dienstanweisung für die Bedienung der Blausäure-Entwesungskammer im K.L.M. Unterkunft Gusen, Öffentliches Denkmal und Museum Mauthausen. Archiv, M 9a/1.

[50] H. Langbein, Der Auschwitz-Prozess. Eine Dokumentation, Europa Verlag, Vienna 1965, p. 537.

[51] Ibid., p. 539.

[52] この裁判の過程で、ペリー・ブロードは重罪を犯した咎で、何人かの証人から告発されていた。そのために、1959530日に逮捕され、予備調査、1964年に始まる裁判の過程でも、拘束されていた。1965820日、彼は、フランクフルト地方裁判所から4年の禁固刑を宣告されたが、その刑期は、彼が1959年から刑務所で過ごした期間と一致していた。彼の罪状は、選別と処刑に22回関与したこと、すなわち、集団殺人に集団的に協力した咎であった。結局、大量殺人犯と宣告されたブロードは、終戦直後と同じように、フランクフルト裁判でも、自由な身で法廷を去ったG. Rudolf, From the Files of the Frankfurt Auschwitz Trial, Part 5, The Revisionist 2(2) (2004), pp. 219-224, here 223f.; ibid., “…Part 6, TR, 2(3) (2004), pp. 327-330, here p. 330; cf. also ibid., Part 7, TR 3(1&2) (2005), in preparation. Editors remark.

[53] P. Vidal-Naquet, Gli assassini della memoria, Editori Riuniti, Roma 1993, p. 27.

[54] J.-C. Pressac, Auschwitz, op. cit. (note 36), p. 162.