試訳:ピペル・メイヤー論争によせて
――ソ連宣伝vs.似非修正主義――
カルロ・マットーニョ
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年8月8日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Carlo Mattogno, On the
Piper-Meyer-Controversy:Soviet Propaganda vs. Pseudo-Revisionism, The
Revisionist,
2004, No.2を試訳したものである(ただし、図版は省略した)。 |
1. 論争の意義
私は、自分の小論「アウシュヴィッツの犠牲者数400万人、その起源、修正、帰結」[1]の中で、アウシュヴィッツの死者400万人というソ連宣伝の歴史と、ピペルによる修正の帰結を分析して、次のように結論した。
「アウシュヴィッツ博物館の『批判的精神』は、収容所の犠牲者の数を4分の1に減らしてきたが、御都合主義的に焼却能力――実際の能力の8倍――をでっち上げているのである。もちろん、ピペルは炉の本当の能力を語ってしまえば、自分の『目撃証人』が下水管の中に流れ落ちていってしまい、そのことで、これらの『目撃証人』の証言に由来する『殺人ガス処刑』説がまったく信憑性のないものになってしまうことを知っているにちがいない。だからこそ、依然として、アウシュヴィッツ博物館は迷信にもとづく権威であり続けているのであり、科学よりも『目撃証人』の妄想を好んでいるのである。」
ピペルは、アウシュヴィッツ博物館での自分のポストのおかげで、アウシュヴィッツ正史の大審問官、管理人のように振舞っている。ピペルはその権限において、修正主義的であろうとホロコースト正史であろうと、歴史の異端的な解釈すべてに破門を宣告する責任者である。ピペルはプレサックを破門宣告した責任者でもあった[2]。その破門宣告は、プレサックが2003年7月23日に他界しても、そのことに一人の正史派の歴史家も触れないほど無慈悲なものであった。マス・メディアもプレサックの死については不面目なほど沈黙を守り、彼の死を追悼したのは、何と、彼の「論敵」グラーフと私の二人だけであった[3]。プレサックの破門は、彼が墓に入ったあとでも続いているのである。
ピペルがもっとも恐れているのは、ホロコースト正史の中でのアウシュヴィッツ論争が技術的な方向に流れていくことである。すでに説明したように、技術的な方向に流れていけば、アウシュヴィッツでの「大量絶滅」という伝説が終焉をむかえてしまうからである。
2003年11月、ピペルは新たな破門宣告を行なった。今度はドイツのジャーナリスト・フリツォフ・メイヤーに対してであるが、一方、メイヤーもこれに反駁した[4]。
この二人の人物の論争は、まさにめくらの死闘とでも呼べるものであるが、その論争にわれわれが関心を抱くのは、双方の主張の内容によるものではない。その主張は、すでに使い尽くされた資料にもとづいて構成されているからである。むしろ、われわれが関心を抱いているのは、とくに、双方の方法論的な手順のためである。
ピペルは、前時代的な党御用史家、ソ連宣伝の虜である。一方、メイヤーは、修正主義的な典拠資料に通暁しているものの、その典拠資料からでてくる当然の論理的結論を受け入れる勇気を持っていない似非修正主義者である。
2. ピペルの弁明
前記の小論で明らかにしたように、ピペルは自分の役割をよく承知しており、「400万人」というソ連の宣伝数字に関して、歴史的御都合主義的な立場をとったという非難を何とかしりぞけようとしている。ピペルはソ連の宣伝を擁護して、次のように主張している。
「われわれは400万人という数字をアウシュヴィッツでの実際の人的損失を反映している数字として受け入れるべきである。この数字は、ソ連・ポーランド調査委員会のメンバーの最良の知識、のちには、検事側調査官とさまざまな出版物の著者の最良の知識に由来するものであった。」
さらに、歴史家の誰一人として数字に関する調査研究を行なうことができなかったと主張して、こう付け加えている。
「ドイツ側が保管していたアウシュヴィッツに関するもっとも重要な統計資料が欠けていたために、歴史家たちは犠牲者の数を研究することが実際上できなかった。」
ピペルは、ヴェレールがアウシュヴィッツの死者数に関する有名な統計学的研究[5]を出版した1983年までは、数を検証する客観的基準が存在しなかったと論じて、こう続けている。
「したがって、ナチスの犯罪を戦時中の宣伝の道具、敵愾心を煽る手段とみなす理由はまったくなかった。一つのことだけにはまったく疑いの余地がない。当時、アウシュヴィッツの犠牲者の正確な数字を誰も知らなかったし、知りえなかったのである。[強調――原文]」
前記の「アウシュヴィッツの犠牲者400万人」という小論で明らかにしておいたように、ピペルは、自分がソ連の宣伝の忠実な下僕であったことを正当化するために、このような偽善的な嘘を作り上げたのである。アウシュヴィッツに移送された人々の数についての文書資料は、すでに、ヘス裁判の前、1945年12月16日に、共産主義者の判事ヤン・ゼーンのところにあったし、政治部の囚人が秘密裏にコピーした移送・登録リストを使って、実際の死者、推定上の死者の数を検証できたはずだからである。ダヌータ・チェクは『アウシュヴィッツ・カレンダー』の初版でこのリストを使っており、ヴェレールは、ここから、単純な計算(むしろ間違った計算)によって、400万人という数字の驚くべき修正を行い、1613455名の移送者、1471595名の死者という数字を算出している[6]。(一方、ヤン・ゼーンはヴェレールと同じ資料を使いながらも、400万人という数字を修正して、500万人にまで増やしている[7]。)
では、アウシュヴィッツ博物館は、チェクの『カレンダー』の初版とヴェレール論文の発表のあいだの20年間に、同じような研究調査をなぜしてこなかったのであろうか。
これに対するピペルの回答は信じがたいものである。
「オシフェンチムのアウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館は、設定された研究スケジュールの一部として、1970年代にこの問題を調査したが、いかなる結論にも達しなかった。」
何と、ヴェレールは、もっぱらチェクの『カレンダー』初版だけにもとづいて、400万人の死者という宣伝数字を否定したのに、チェクの『カレンダー』の出版元のアウシュヴィッツ博物館は、チェクの利用したのと同じ資料を持っていたにもかかわらず、いかなる結論にも達しなかったというのである。
ピペルはこう続けている。
「収容所に合計何名が移送され殺されたのかについての収容所の記録が欠けているために、収容所の犠牲者を確定する唯一の根拠となりうるのは、特定の地域、地区、諸国からのアウシュヴィッツへの移送についての資料、囚人の数の増減の変化であった。[強調――原文]」
しかし、その「根拠」は、チェクの『カレンダー』初版にすでに存在していたのである。
ついで、ピペルは、のっぴきならない自己正当化の中に逃げ込もうとしている。
「私の分析結果は、1987年2月16−18日にクラクフ・モギワヌで開かれた学会での論文の中で明らかにしたように、ヴェレールの結果とよく似たものとなった。そのとき、私は、ヴェレールの計算方法とその結果は、留保条件なしで認めることができるが、例外は、ポーランド系ユダヤ人についての彼の見積もりに含まれている疑問の余地のある憶測であると述べた。」
しかし、もしも、ピペルが、4年間の研究ののちに、「ヴェレールの計算方法とその結果は、留保条件なしで認めることができる」との結論に達していたとすれば、なぜ、1965年にアウシュヴィッツ博物館歴史部の研究者となってから、1960年代と1970年代に、この計算方法を使わなかったのであろうか。なぜ、ヴェレール論文が発表された4年後に、ヴェレールの計算を認めると発言したのであろうか。答えは明らかである。時代が移り変わり、1987年ごろには、ソ連体制がほころび始めていたからである。
ピペルは、1991年に発表された論文[8]の中で、アウシュヴィッツ・ビルケナウの犠牲者が1100000人であったと「確証した」[9]。この論文は、彼の言葉によると、「著者がアウシュヴィッツの移送者と犠牲者についてもっと詳しく調査した研究の短縮版」であり、その研究は、「アウシュヴィッツ国立博物館での著者の研究の一部」であるという[10]。
つまり、ピペルはもともと、1100000という数字にもっと前に達していたのである。しかし、1991年10月以降に、ビルケナウの有名な記念碑の碑文が改定されたとき、ピペルが「確証した」1100000という数字ではなく、何と、ヴェレールが算出した1500000という古いほうの数字が採用された。アウシュヴィッツ博物館は、古めかしくなったソ連の宣伝伝説の残りかすを何とかして救い上げようとしていたにちがいない。
3. ピペルによるメイヤー批判の目的
以上のように、ピペルは何とかして自分が政治的御都合主義者であったとの批判をかわそうとしている。そのあとで、自分の論文の主要目的、すなわち、メイヤーの議論ではなく、メイヤーの技術的方法に対する、上訴権なしの破門宣告を行なっている。
彼は、次のような分析にもとづく研究を攻撃することからはじめている。
「大量殺戮装置が稼動していたときの能力、もしくはその利用可能性の分析にもとづく研究」
言い換えれば、「大量ガス処刑」伝説の破壊につながってしまうような、科学的検証を攻撃しているのである。彼は、こう述べている。
「技術的条件では、ガス室はまったく単純な装置であった。それは、閉ざされた空間に毒ガスを投入するという原理にもとづいて稼動した。[強調――原文]」
もちろん、シアン・ガスを使った大量殺戮は理論的には「まったく単純」であったにちがいないが、問題は、「ガス室」が開かれたときに発生するのである。
問題となっているのは、大量ガス処刑の理論的可能性ではなく、「目撃証人」が具体的に描くところの大量ガス処刑である。問題は、目撃証人の語っていること、ならびに語っていないことから発生している[11]。
ピペルは、自分の論点が理解されないかもしれないことを恐れて、繰り返し、これらの諸問題についての科学的議論を非難している。彼は、「否定」のもう一つの方法として、「さまざまな技術的制約の結果として、そこ[ガス室]の殺人能力を最小限にしようとする試み[強調――原文]」をあげている。
ピペルの告発の本当の対象は、焼却問題に関する科学的研究である。
「同じことが、犠牲者の死体の焼却技術にもあてはまる。知られているドイツ側の記録は、薪の山や壕での死体焼却を別としても、焼却棟だけで240万以上を焼却することができたことを示しており、特別労務班員によると、400万以上を焼却することができた。[強調――原文]」
これは、400万人の死者というソ連の宣伝に新しい命の息吹を吹き込むようなものである。複数形で「知られているドイツ側の記録」という表現があるが、ピペルがあげているのは、実際には一つの文書資料、すなわち、あとで扱う1943年6月28日の中央建設局の書簡だけであるので、この表現は不適切である。事実、ピペルは脚注でこう説明している。
「4756体×547日=2601532」
この書簡によると、たしかに、アウシュヴィッツ・ビルケナウの処理能力は4756体である。だが、たとえこの話が事実に沿った理論的なものであるとしても、ピペルの計算は実際上、まったくナンセンスである。ピペルは、(スラグの生成と除去、炎にさらされた耐火レンガや、ガス発生器の上にある格子などのその他の部品の亀裂)といった技術的問題があり、そのために、焼却棟を18時間昼夜兼行で稼動させることはできないことをまったく無視している。ピペルのやり方は、もし自動車が時速150kmであれば、1日(150×24=)3600km進むことができ、547日では(547×3600=)1969200km進むことができるというようなものである。
ピペルは、やむをえず科学の敵になったのであろうか、この馬鹿げた計算方法を二つのケースに使っている。1942年9月8日のプリュファーのメモ(あとで検討する)にある1日2650体という焼却能力について、こうコメントしている。
「これは、1年に合計967250体を焼却できた(ビルケナウだけでは876000体)ことを意味している、もしくは、これらの施設が稼動していた1年半のあいだに1450875体を焼却できた(ビルケナウの焼却棟では1314000体)ことを意味していると指摘しておかなくてはならない。[強調――原文]」
ここでも、計算は、2650×365=967250、2650×547.5[12]=1450875となっている。
また、上記のプリュファー・メモに対してもこの「計算方法」を使って、次のように主張している。
「ビルケナウの4つの焼却棟が稼動中には合計1387200体[強調――原文]」
ここでも、彼は、ここの焼却棟の推定能力にその稼働日数の合計2348日、すなわち焼却棟ごとに587日――不可解なことに、前の計算での547日とは異なっている――を掛け合わせている。
そして、ピペルは、次のように考察することで、焼却問題に関する科学的検証すべてを受け流そうとしている。
「アウシュヴィッツ強制収容所の焼却棟に加えて、死体が焼却された戸外の薪の山と壕が稼動していたために、限られた死体焼却能力に関するすべての議論、したがって、焼却棟の能力にもとづいて犠牲者の数を算出することは、まったく不適切なのである。」
ここでも、ピペルは、現実的には根拠のない純粋に理論的な反論を提起している。「焼却のための薪の山と壕」は、それ自体ではなく、「目撃証言」に沿って研究されなくてはならないというのである。しかし、ピペル自身は、「1943年春、新しいガス室と焼却棟の稼動にともなって」[13]、いわゆる「ブンカー」の焼却壕は稼動を停止したが、「ハンガリー系ユダヤ人の絶滅が行なわれた1944年5月」に「ブンカー2」のところと、焼却棟Xの庭で稼動を再開したと述べている[14]。つまり、1943年3月末(焼却棟WとUの稼動開始)から1944年5月中旬(ハンガリー系ユダヤ人の到着)までのあいだ、すなわち、14と1/2ヶ月は、ビルケナウでは「焼却壕」はまったく稼動していなかったのである。だから、これだけでも、焼却棟の焼却能力を科学的の調査することはまったく適切なのである。そして、このような科学的調査を行なえば、ピペルの主張の土台となっている「目撃者」の証言の信憑性は、不可避的に、かつ劇的に低下していくであろう。
ピペルは、焼却棟について、その稼動期間を算出することはできないと主張している。
「焼却棟が実際に稼動していた期間、その処理能力の程度を算出することができるような信頼すべき資料がまったくないからである。[強調――原文]」
そして、こう続けている。
「メイヤーは、焼却棟の稼動が中断した期間を算定するにあたって、おおよその中断期間も確定できないような、まして、どの焼却棟がどの期間稼動停止したのか正確に確定できないような謎めいたデータを利用している。」
ピペルはこう述べることによって、自分がモスクワのヴィボルク通りの文書館に保管されているアウシュヴィッツ中央建設局の文書資料にまったく通暁していないことを明らかにしてしまっている。アウシュヴィッツ博物館歴史部長としてはまったく褒められるべきことではない。
続いて、ピペルは、自分の観点からメイヤー論文の重要論点を分析している。
4. 1942年9月8日のプリュファー・メモ
彼は、トップフ・ウント・ゼーネ社の主任技師クルト・プリュファーの1942年9月8日のメモからはじめている。彼もメイヤーと同様に、この文書を発見したのがプレサックであることに触れていない。プレサックに対するピペルの荘重な破門宣告はここでも生きているのである。
メイヤーに関する論文の中で、この新しい資料をどのように解釈すべきかすでに説明しているので[15]、ここでは、ピペルの解説を検証するだけにとどめよう。
まず、ピペルは、メモにある焼却能力について、メイヤーに反論している。
「プリュファーのいうところの1日の能力についてのメイヤーの解釈には疑問点がある。メイヤーは、プリュファーが24時間あたりの能力について述べていると考えているからである。[強調――原文]」
その一方で、ピペルは、「1日の能力」が12時間のことを指していることを「立証するために」、数頁のかない非論理的な文章を書いている。そうすることで、彼は、自分が、プレサックが彼の発見について記している論文のことさえも知らないことを暴露しているのである。ここでもう一度、前に引用したことのあるプレサックの文章を引用しておこう[16]。
「アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の処理能力という問題は、1942年9月8日のプリュファーの内部メモの中で答えられている。そのメモには、『SS全国指導者、ベルリン・リヒターフェルデ・ヴェスト、アウシュヴィッツの焼却棟:機密』というヘッダーが付いている。このメモは、焼却棟Tの3つの2燃焼室炉は1日に250体を、焼却棟Uの4つの3燃焼室炉は1日に800体を、焼却棟Vのそれは同じく800体を、焼却棟Wの2つの4燃焼室炉は1日に400体を、焼却棟Xのそれは同じく400体を焼却できると述べている。理論的には、1日に2650体の処理能力となるが、これも実際には実現されなかった。当時一番高名なドイツの焼却専門家によるこのメモは、1943年6月28日付けのベルリンあてのアウシュヴィッツ中央建設局報告が述べているような、1日4756体という合計の処理能力が非常に誇張されたものであることを明らかにしている。」
つまり、プレサックによると、プリュファー・メモは、ビショフの書簡にある24時間で4756体の能力が「非常に誇張されたもの」であることを明らかにしているのである。だから、1942年9月8日のプリュファー・メモでは、1日の能力は12時間あたりの能力をさしているはずがない。もしそうであれば、24時間あたりの焼却能力は5300体となってしまい、それは、プレサックが非常に誇張されているとみなしていた4756体よりも多くなってしまうからである。
ピペルは、典拠資料を検証もせずに、まったく恣意的で、意味のない瞑想にふけっているにすぎない。
問題の資料に関するピペルの資料解釈は、むしろ妄想に近い。最初に、彼は、1941年10月30日の「武装SSアウシュヴィッツ捕虜収容所の建設のための説明報告」が、ビルケナウ収容所の新しい焼却棟(将来の焼却棟U)には5つの3燃焼室炉があり、それぞれの燃焼室は、24時間に1440体という(理論的)能力に対応して、30分で2体を焼却することができると述べていると記している。そして、ついで、こう記している。
「だから、プリュファー・メモは、すでに調印され、その条件が実行されつつあった契約を修正しようとしている。」
そして、「焼却棟の能力に関するプリュファーの提案は拒否された」と付け加えて、次のように結論している。
「中央建設局は、それ以前の調査結果に固執して、24時間稼動する焼却棟をテストした。その結果が、すでに記したように、1943年6月28日の結果である。」
実際には、中央建設局とトップフ社との「契約」は、焼却装置についてだけであったのであり、そのことは、1941年11月4日のトップフ社からアウシュヴィッツ(当時)建設局あての書簡から明らかである[17]。
「以下の備品の発注について心から感謝いたします。
・
圧縮空気装置つき5つのトップフ社製3燃焼室炉
・
炉のためのレール装置つき2つの棺設置器具
・
3つのトップフ社製通風装置
・
排気筒装置
発注は、同封のコスト見積もりと条件にもとづいて行なわれ、合計金額は51237マルクです。」
したがって、焼却棟の耐久性や燃焼室の能力に関する「契約」は存在しなかっただけではなく、プリュファー・メモも、この妄想の産物のような「契約」を侵犯しようとしたものではなかった。なぜなら、メモのあてさきは「SS全国指導者、ベルリン・リヒターフェルデ・ヴェスト」となっており、「SS全国指導者」の管轄下にあり、本部を「ベルリン・リヒターフェルデ・ヴェスト、ウンター・デン・アイヘン129」におく住宅予算建設本部あてであるからである。これに対して、アウシュヴィッツSS建設局あてのトップフ社の書簡は、「武装SS警察アウシュヴィッツ収容所建設局」あてであり、さらに、契約の破棄など、建設局長に関係のある案件については、「建設局長ビショフに知らせること」とあるからである。もしも、プリュファーが建設局長ビショフと「契約」を結び、それを破棄したがっていたとすれば、ベルリンではなく、ビショフ自身に書簡を送っていたはずである。
さらに、プリュファー・メモには、「仮説上」の契約を破棄するような内容はない。ピペルの想像力はとどまることを知らない。ピペルは、1943年6月28日の中央建設局からの書簡が、「前の話」すなわち「契約」を再確認して、プリュファーの「契約」拒否を表現したものであると主張しているが、その主張はまったくの妄想である。
上記の「説明報告」と問題の書簡には明らかに関連性があるけれども、その関連性は、ピペルが想像しているものではない。
5. 1943年6月28日のビショフ書簡
次にピペルが固執しているのが、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の焼却能力に関する、アウシュヴィッツ中央建設局長カール・ビショフSS少佐の1943年6月28日の書簡である。この書簡はコッセンスという名の文書館員が作ったコピーである。コッセンスは、民間人従業員のイェーリングがこの書簡の署名者であるとみなし、イェーリングにSS少佐の階級を与えてしまっているおり、ピペルはこの誤りを繰り返している。
事実、ピペルは、この書簡について「SS少佐イェーリングが署名した、H.(?)ビショフの」ものであると述べている。
この種の歴史学的な無知はまったく信じがたい。ピペル氏には、私の研究『アウシュヴィッツ中央建設局』[18]を一読していただきたいものである。ピペル氏が将来さらに困惑に陥ることを避けさせていただくために、アウシュヴィッツ博物館にこの著作を献呈しておいた。さらに、この書簡のコピーが作成された文書館は「ドムブルク」ではなく、「ドルンブルク」であることを指摘しておかなくてはならない。
問題の書簡については、私の論文「鍵となる資料――もう一つの解釈」[19]の中で触れている。
指摘しておかなくてはならないことは、ピペルが書簡の中にある焼却能力を、まったく現実的、もしくは実際の事実、ひいては実際の能力とみなしている理由である。
「特別労務班員と収容所長ヘスの証言は、1943年6月28日の書簡にあるデータの信憑性を確証しており、ひいては、もっと高い能力を持っていたことを示している。[強調――原文]」
上記のピペルの理由付けには、まったく驚かざるをえない。例えば、ミハエル・シューマッハのフェラーリF2003は時速1600kmを出すことができると述べている、フェラーリ・チームのボスであるジーン・トットの書簡を発見し、また、もっと速い速度をだすことができたという「目撃証言」があったとすると、時速1600kmという数字は、ピペルにとっては神聖なる真実となってしまうのであろう。この書簡の素性や内容を検証し、「目撃証言」の信憑性を検討し、自動車の設計、構造、エンジンの機能、トライアルやレースでの結果を分析することなど、ピペルには思いもよらないことなのであろう。彼にとっては、こうした分析によるデータはどのようなものであれ、「文書資料」や「目撃証言」と比較すれば、まったく無意味なもの、品性下劣な技術工学の分野に属することなのであろう。
そして、さらに、ピペルは、「文書資料」と「目撃証言」のどちらかを選ばなくてはならないときには、盲目的に「目撃証言」を信頼するのである。事実、焼却能力に関するピペルの公式の立場は、こうした「目撃証言」にもとづいている[20]。
「結果として、特別労務班に所属した囚人ファインジルバーによると、焼却棟の能力はほぼ2倍、24時間に約8000体にまで達した。」
ピペルは、1943年6月28日の書簡にあるマンモスのような焼却能力を確証する「目撃証言」を数頁にわたって紹介し、不合理に不合理を積み重ねている。彼は、宣伝目的で目がくらんでしまっており、このような「証言」が、書簡の内容を「立証」しているどころか、シューマッハのフェラーリF2003が時速1600km、ひいてはそれ以上で走ることができると証言する「目撃者」と同じように、証言自体の信憑性を失わせてしまっていることをわかっていないのである。
6. 2つの「技術的」議論
ピペルは、2つのケースで似非技術的な議論を展開しているが、そのことで、自分の引用する文書資料を歴史学的に解釈する能力を持っていないことを、なおいっそう暴露している。
第一のケースは、有名なヴルバ/ヴェツラー報告についてである。ピペルはこう述べている。
「メイヤーもアウシュヴィッツからの逃亡者ヴェツラーを引用している。たしかに、ヴェツラーは、死体が1時間半で『完全に』(すなわち、骨まですべて――ピペル)焼却されたと述べている。しかし、これは純粋に理論上のことである。実際には、死体は完全には焼却されなかった。焼却過程は中断された。すなわち、ぶ厚い骨はレトルトから取り除かれ、特別労務班に所属する囚人はすりつぶし器を使って、それを粉に変えなくてはならなかったのである。[強調――原文]」
アウシュヴィッツ博物館に保管されている報告のテキストでは、焼却棟UとVは次のように描かれている[21]。
「炉室の真ん中から、巨大な煙突が空に向かって突き出ている。4つの燃焼室をもつ9つの炉がある。各燃焼室には一時に3体が収容され、それが完全に燃え尽きるには1時間半かかる。したがって、1日の焼却能力は2000体ほどになる。・・・
したがって、ビルケナウの4つの焼却棟の合計の焼却能力は、1日6000体のガス処刑・焼却となる。」
ヴルバは、いわゆる「特別労務班」員から提供された情報にもとづいて焼却棟の本当の焼却能力を提示していると主張しているので、ピペルの反論は無意味である。ヴルバの情報のもととなっている「特別労務班」員は、なぜ、純粋に「理論的な」焼却能力を伝えなくてはならなかったのか。それは別としても、ピペルは、平均30分という焼却時間を想定しているので、「現実的な」焼却能力は1日18000体となってしまう。
また、ピペルの議論は、彼がアウシュヴィッツの焼却炉の構造と作動、焼却技術一般に、絶望的なほど無知であることを明らかにしている。
ピペルは、焼却過程は中断され、大きな骨は燃焼室から引き出されたと論じているが、これはまったく馬鹿げている。別の箇所で明らかにしたように、このような炉では、燃焼室での燃焼のピークは約55分後のことである[22]。この段階で、燃焼室から焼けた死体を引き出すには、非常に多くの時間がかかるであろう。そして、死体を引き出すために口を開き、炉の耐火レンガを冷却させてしまうために、その後の焼却にはさらに多くの時間がかかってしまうのである。
信じがたいことであるが、アウシュヴィッツ博物館歴史部長ピペル――アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟について次々と執筆する能力をもっている人物――には、この施設での焼却技術についての知識がまったく欠けている。
彼は、死体はすべて「完全に」焼却されたことを知らない。燃焼室の主要燃焼に続いて、死体の残存部分は下の灰受け室に落ちていき、そこで完全に焼却されるのである。その過程で、別の死体が、空となった燃焼室に押し込まれる。トップフ社は、ピペルが想像しているよりもはるかに実践的に、焼却方法を工夫していたのである。
ピペルの二番目の議論は次のとおりである。
「焼却棟の地下室は、この施設が稼動した当初からガス室として使われた。この機能は、1942年1月以前の、建物のもっとも初期の図面のなかに登場している。この日付の焼却棟UとVの青写真には、1つではなく、2つの地下室が描かれており、その1つはもう1つの2倍の大きさであり、異なった換気装置を持っている。1つの部屋(脱衣室)には排気装置だけが設置されている。もう1つの部屋は、この部屋(ガス室)が脱衣室の半分の大きさであるにもかかわらず、2倍の力の強制通風装置を持っていた。」
だから、ピペルによると、「死体安置室1」(いわゆるガス室)は、「死体安置室2」(いわゆる脱衣室)の2倍の換気能力をもっていたことになる。これもまた、ピペルが歴史的、文書資料的にまったく無知であることのもう1つの証左である。
すでに別の箇所で明らかにしたように[23]、事実はこうである。「死体安置室1」は1時間で9.49回の空気交換を、「死体安置室2」は11.08回の空気交換を行なう能力を持っていた、すなわち、「脱衣室」の方が「ガス室」よりも換気能力が高かったのである。
これ以上、この件について追究する必要はないであろう。これまでのことだけで、ピペルの方法の本質的特徴は十分に明らかになっているからである。すなわち、簡単にまとめれば、ソ連宣伝、「目撃証言」への盲目的依拠、技術工学の拒否である。
7. メイヤーの回答
メイヤーの回答も、ピペルの批判と同じように注目に値する。メイヤー論文については、別の箇所ですでに論じているので15、ここで付け加えることはない。ここで検証しておきたいのは、彼が回答の中で従来の論点をどのように新しく展開しているのかではなく、彼の使っている方法である。すなわち、彼は、修正主義者の典拠資料や議論をますます広く借用するようになっているのである。もちろん、メイヤーは修正主義者の議論を直接引用しようとはしていない。むしろ、修正主義者を侮っていることを隠してはいない。
ピペルに回答するにあたって、メイヤーのおもな議論は、とくにビルケナウの焼却棟の焼却能力、稼動・停止期日その他のさまざまな論点について、私の著作にまったく負っているにもかかわらず、メイヤーは私のことを無礼なかたちで扱っている。
メイヤーによると、ピペルの批判は自分の論文についての「最初の誠実な評論」ということになっている。すなわち、言外に、私に論文は誠実なものではないというのである。しかし、それは皮切りにすぎない。彼は私のことに触れているが、名前をあげるのではなく(大審問官ピペルの前では、名前をあげるのは不可能にちがいない)、軽蔑的に私のことを「アウシュヴィッツ否定派」と呼び、ひいては、私の主張を歪曲している。メイヤーはこう述べている。
「イタリアのアウシュヴィッツ否定派は、私が引用し、彼自身も疑問を呈している資料を繰り返し引用している。それは、2つの農家を『特別措置』すなわち大量殺戮目的で改築することについての、最近公開されたばかりの資料である(『これらの建物が倉庫として使われたことには疑いない』という石に刻まれた注釈をつけてであるが)。」
これは私の著作『アウシュヴィッツの特別措置。その起源と意味』[24]を指している。この著作のドイツ語版[25]も最近刊行されており、メイヤーは、そこから引用もせず、私の名前もあげていないが、大量に借用している。
このケースでは、メイヤーは、私の主張が次のように補足されているのを付け足すのを「忘れてしまっている」[26]。
「これらの建物が倉庫として使われたことには疑いない。引用されている二つの資料には、これらの建物は、個人の所持品のための30のバラックからなるBW33(収容所用語では、この倉庫群は『カナダ』と呼ばれていた)に隣接して言及されている。さらに、3つのバラックが、問題の報告では、建築区画VのBW33a[建物33a]との呼称を持っていた。また、ビルケナウ収容所を構成する建物を配置するにあたっては、BW33aは、一貫して『特別措置のための3つの建物』と呼ばれている。それゆえ、これらの建物は個人所持品のためのバラックの補助的な建物であったのである。」
要約すれば、「特別措置のための」バラックは、BW33aの一部であり、それゆえ、個人所持品のためのバラック群であったBW33の補助作業現場であった。それは、BW11a(新しい焼却棟の煙突、強制収容所)が、BW11(焼却棟)の補助作業現場であり、建築区画Vの一部であったのと同様である。収容所外の建物は、「収容所外」という頭書きのもとにまとめられていた。
また、BW33aは、ビルケナウ収容所建築区画Vのための「囚人病院」の一部であったこともわかっている[27]。だから、BW33aは、ビルケナウのいわゆる「ブンカー」とはまったく関係ないのである。
メイヤーは、私がなんら証拠を示さずに断定しているかのように述べて(「石に刻まれた注釈」)、私の議論をしりぞけているだけではなく、文書資料的証拠を無視して、問題のバラックがビルケナウのいわゆる「ブンカー」と関連していたと間違った主張をし続けている。
メイヤーは、1943年6月28日のビショフ書簡について、次のように述べている。
「オリジナル文書には署名がない。それは下書きにすぎなかったためである。この下書きはすぐには発送されなかった。それは、1941年10月30日の説明報告にもとづいており、その報告は古くさくなっており、最初の実験とは矛盾していたためである。このことは、私の『決定的資料』、すなわち、1942年9月8日の技師クルト・プリュファーの書簡によって立証されている。」
私は前記の論文19で、メイヤーが繰り返していることを正確に指摘しておいた。だから、このメイヤーの議論は間接的に私の論文を参照していたにちがいない。また、私は、この資料と1941年10月30日の説明報告とが関連していること、だからこそ、ビショフ書簡が技術的には馬鹿げたものである焼却能力に言及していることを説明しておいた。一方、メイヤーはこの点については「石に刻まれた注釈」もつけておらず、黙っているだけである。彼はただ、この書簡の述べている話が「間違っている」と主張しているだけであり、その理由を明らかにしていない。
結論:ピペルは、ビショフ書簡にある焼却能力が現実に対応している、もしくは、実際の能力はそれ以上であると断定しており、メイヤーは、この焼却能力は現実に対応していないと断定しているが、双方とも、自分たちの主張に関して、少しも証拠を提出していない。
実際には、メイヤーが言及している1942年9月8日のプリュファー・メモは、1943年6月28日のビショフ書簡よりも、明示的な価値をまったく持っていない[28]。ついで、メイヤーは、自説のさらなる「確証」をこう説明している。
「実際の経験にもとづく分析結果は、1942年11月15日のプリュファーの第二の書簡(Staatsarchiv
Weimar 2/555a, Prüfer file, according to Pressac/van Pelt in: Gutman/Berenbaum,
p. 212)にも登場している。すなわち、大きな焼却棟は、1日に800体を処理できた。」
実際には、問題の書簡には焼却能力に言及している箇所はまったく存在しない。プリュファーは、ブッヘンヴァルトの2つの3燃焼室炉に関して、次のように述べているにすぎない[29]。
「最初の炉は、すでに大量の焼却を達成した。炉の稼動方法、従って新しいデザインは、実際上の正しさを証明したし、異論をさしはさむ余地のないものとなっている。この炉は、もともと私が予想した数値よりの3分の1も上回る成果を達成した。」
だから、1日800体という焼却能力は、プレサックの推測、ひいては間違った憶測にすぎない。ここでプリュファーが述べているのは、炉の燃料効率のことであって、焼却時間のことではないからである[30]。
ついで、メイヤーはピペルの説に次のように反論している。
「私は1日7840kgの石炭消費量というイェーリングのデータに言及しなかった。このデータは、[1日]1440体を焼却するにあたっては、1体につき5.5kgの石炭消費量という非現実的な数字を使っており、私の数字を確証するにちがいながらも。」
メイヤーは、いかなる根拠で、1体につき5.5kgの石炭消費量が「非現実的」であると断定しているのか。なぜ、最初の論文では、私の論文「アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟」[31]に依拠して、それを引用しているのに、ピペルへの回答では、憶測やほのめかししかしていないのか。
すでに指摘したように、ピペルはアウシュヴィッツ中央建設局の文書資料に無知であるために、焼却棟の非稼動日数を算出する資料は存在しないと主張している。これに対して、メイヤーは次のように答えている。
「私は、焼却棟の稼動期間を(焼却棟TとUは971日、焼却棟VとWは359日)と算出したが、ピペルは憶測にすぎないと非難している。しかし、私は論文の脚注19で典拠資料を明らかにしておいた。それは、APMOに保管されている次のような文書資料にもとづいている。焼却棟Tの損傷についての1943年3月17日のファイル・メモ、文書資料BW7/30/34, p. 54、最終的完成に先立つ修理に関する1943年7月17日のトップフ社あての中央建設局の書簡、BW30/40, p. 42、焼却棟Vの炉の亀裂、BW/30/40, p.42、1943年5月14日のトップフ社への電報による損傷を受けた焼却棟TとVの煙突、BW30/40, p. 41f、1943年10月21日から1944年1月27日および1944年4月3日から10月17日までの修理を必要とする焼却棟TとUの20の炉室ドア、Dpr.-Hd/11a, p. 95f、1944年6月20日から7月20日までの修理を必要とする7の炉室ドア、Czech p. 789.」
ここでは、メイヤーは、私の典拠資料、私の議論、私の計算を流用しているにすぎない[32]。
メイヤーは私の論文をあつかましくも流用しているが、私は、新しい資料にもとづいてこの論文を改訂している。そこでは、焼却棟UとVの稼働日数(より正確には、稼動可能日数)を888日、焼却棟WとXのそれを276日と算出している[33]。この機会を借りて、このことをメイヤー氏にお知らせしておこう。また、改訂した論文には新しい資料も含まれているので、メイヤー氏は、もしお望みなら、そこから羽飾りを借りて、ご自分を飾り付けることができるであろう。
メイヤーはまた、110000名のハンガリー系ユダヤ人はアウシュヴィッツ以外の強制収容所に移送されたと考えている。この典拠資料は何であろうか。ピペルは、A. Stzreleckiの著作[34]がメイヤーの典拠資料であると主張しているが、メイヤーはこれに反駁している。
「110000名のユダヤ人がハンガリーから他の収容所に移送されたことに関する典拠資料としては、まず、Gerlach/Alyを挙げておく。ピペルは、この研究のことを知らないで、私の資料操作、捏造を非難している。彼が引用しているのは、Strzeleckiだけであるが、それも正確ではない。Strzeleckiが1944年5月から10月までのリスト(p. 349ff.)に挙げているのは、『登録されて、他の強制収容所に移送された』104550名の囚人である。」
たしかに、Stzreleckiは約104000名(正確には104820名)の移送に言及しているが[35]、それに続く表からもわかるとおり[36]、この数字が指しているのはハンガリー系ユダヤ人だけではなく、ユダヤ人と非ユダヤ人双方である。メイヤーはまた、Stzreleckiの次のような一文[37]にも言及している。
「1944年5月から10月までのあいだ、おそらくは100000名までのユダヤ人が登録されることもなく、ビルケナウ収容所を通過していった。」
しかし、この数字にも、ウッチのユダヤ人のような非登録ユダヤ人が含まれている。メイヤーは、より少ない100000名とか104550(104820)名という数字から、どのようにして、110000名という、より多い数字を導き出すことができたのであろうか。答えは簡単である。メイヤーは、ビルケナウ通過収容所に送られた健康な登録もしくは非登録ハンガリー系ユダヤ人の数106700名をたんに大雑把にまとめてしまったのである[38]。
メイヤーは、ポーランドからアウシュヴィッツに移送された囚人の数の関するピペル説を批判して、ポーランドからのユダヤ人の約30の虚偽の移送集団を挙げているが、それは、ピペルに関する私の論文[39]から借用したにすぎない。
さらに、彼はこう述べている。
「その一方、害虫駆除バラック用の22の『ガス気密』ドア、そのうちの2つは、関連したサウナのためのものであるが、その発注書がモスクワの文書館で発見されている。」
ここでも、メイヤーは、私の著作『アウシュヴィッツの特別措置』[40]から借用している。また、グラーフと私がモスクワで発見した1943年5月22日の覚書からの次のような箇所も、借用して引用している。
「きわめて近い時期に、ユダヤ人問題の解決が行なわれる。このためには、当初は60000名の囚人――その数は短期間で100000名に達する――の宿舎のための前提条件が作り出されなくてはならない。収容所の囚人は、もっぱら、隣接地域の重工業のための要員である。さまざまな軍需工場が収容所の関係の枠内にあり、この工場のために、労働力が規則的に入手されなくてはならない。」
この資料はこれまで、知られておらず、公開されていない。22個の「ガス気密」ドアに関する資料と同様に、私が始めて公表したものである[41]。
また、メイヤーは、「死体安置室」1と2の排気装置に関する私の説も借用している。私はこの件についてこう書いている。
「1943年2月22日のトップフ社の送付状(モスクワ文書館502-1-327)によると、脱衣室は排気用の5.5馬力のモーターを持っており、B-cellarは吸気と排気のためにそれぞれ、3.5馬力のモーターを持っていた。ガスによる大量殺戮用のB-cellarの換気(技術的にはまったく逆効果なのであるが)、犠牲者の脱衣用の部屋の換気よりも弱かった。」
この件については、メイヤーは、私が公表している上記の送付状[42]の写真コピーの中に発見したモーターの能力を使って、空気交換可能回数――これについても、私がすでに計算してあるが――という、かなり単純化されたかたちで、議論を展開している。だが、結果は同じことである。彼は、私の議論と結論を借用しているにすぎない。
「だから、ガス室の換気能力は、脱衣室のそれよりも低かった。」
メイヤーは数多くの思いつきの議論を展開しているが、その中の一つは、焼却棟のガス室とされた場所は、殺人目的には、実験的に使用されたにすぎないか、あるいは、使用されなかったというものである。彼は、ピペルの批判に反論できず、ただこう述べている。
「本物のシャワーと害虫駆除炉が焼却棟の中に設置されていた。」
ここでも、彼は、私が自分の論文「ビルケナウの死体安置室:防空シェルターか害虫駆除室か」[43]で述べたことを粗雑に模倣しているにすぎない。私の論文には、「ビルケナウの焼却棟の保健衛生施設に関する資料」と題するパラグラフがあるが[44]、とくに、この箇所と関連している。
不運なことに、私の論文「資料に照らし合わせたビルケナウの焼却棟の死体安置室」(ドイツ語雑誌Vierteljahreshefte
für freie Geschichtsforschung 2003年12月号に掲載)を読むことはできなかった。この論文はメイヤーがピペルへの回答を書いたのちに公表されているからである。しかし、失望する必要はまったくない。メイヤーは、次の論文でも、正確な典拠資料も含めて、私の議論と資料を借用するからである。もっとも、その場合でも、私の名前や私の論文のことを明示しないであろうが。
これまで述べてきたような有様であるにもかかわらず、ピペルとメイヤーとのあいだのドッグ・ファイトならぬキャット・ファイトには、2つの理由から光明がある。ピペルの粗雑なソ連宣伝とメイヤーの粗雑な似非修正主義はともに、修正主義的方法と議論の発展に寄与しているからである。
追記
本小論を完成させたのちに、私はもう1つの重要な事実を再発見したために、この追記を書かざるをえなくなった。手短に事実関係をまとめておこう。まず、ペルトは、最近の著作の中に、ヘス裁判(1947年3月11-29日)からの長い抜粋テキストの英訳を掲載している。それによると、アウシュヴィッツ所長ヘスは、次のように述べたというのである[45]。
「焼却棟に対してはいかなる改良もできなかった。8−10時間稼動させると、焼却棟はそれ以上使用に耐えなかった。それらを継続的に使用することはできなかった。」
メイヤーは、この情報を「その性質上非常にセンセーショナルなもの」とみなし、(プレサックが発見した1942年9月8日のプリュファー書簡とともに)アウシュヴィッツの死者の数を修正する根拠の位置にまで押し上げている[46]。
「第二の驚くべき情報の断片は、ペルトによって提供された。それは、1947年のクラクフ裁判でのヘスの交差尋問からの彼の証言である。『8−10時間稼動させると、焼却棟はそれ以上使用に耐えなかった。それらを継続的に使用することはできなかった。』という内容である。」
だから、メイヤーは、焼却棟の平均的稼働時間を9時間と推定し、この推定にもとづいて、死者数を見積もって、自分の結論を導き出していった。この件については、私の論文「フリツォフ・メイヤーの新しい修正」で指摘しておいたが、この貴重な情報の断片については、私は次のように記している[47]。
「ルドルフ・ヘスの証言なるものは、誤解や誤訳の結果にちがいない。」
つい最近、私はヘスの証言のポーランド語のテキストを発見した。それは次のように述べている[48]。
"W kremariacł[49]nie można było zaprowadzić żadnych
ulepszeń. Krematoria po zużytkowaniu dla spalenia w ciągu 8 do 10 tygodni same
przez się były niezdatne do dalszego użytku, tak że było rzeczą niemożliwą
przeprowadzać w tym poszczególnych krematoriach pracę ciągłą."
逐語訳すれば、こうなる。
「焼却過程に対してはいかなる改良もできなかった。8−10週間以上稼動させると、焼却棟はそれ以上使用に耐えなかったので、個々の焼却棟を継続的に使用することはできなかった。」
したがって、ペルトの英訳には誤りがあることになる(「週間」ではなく「時間」としている)。このことは、ヘス証言の意味を根本的に変えており、メイヤーの推測と見積もりをまったく無意味なものとしている。
だが、この問題でもっとも信じがたいのは、ピペルの姿勢である。ピペルは次のように答えている。
「焼却棟の稼働時間が1日9時間であったという説は、収容所の資料やヘスなどの目撃者の証人とは矛盾している。それらは、もし必要があれば、焼却棟は1日24時間稼動したと述べているからである。[強調――原文]」
つまり、ピペルは、ペルトが引用し、メイヤーが借用したヘス証言が正確であることを認めていることになる。すなわち、ピペルは、典拠資料を検証しうる最適の場所に位置する人物でありながらも、まったく典拠資料を検証しようとはしていないのである。
ピペルの専門家としての資質を示すもう1つの事例である。
[2] See Piper's
review of J.-C. Pressac's book Les crématoires d'Auschwitz, in: Zeszyty
Oświęcimskie, no. 21, 1995, pp. 309-329.
[3] TR 1(4) (2003),
S. 426-435.
[4] The
respective articles have been published on the website of the Informationsdienst
gegen Rechtsextremismus: www.idgr.de/texte/geschichte/ns-verbrechen/fritjof-meyer/index.php;
Piper's article can be found in English at www.auschwitz.org.pl/html/eng/aktualnosci/news_big.php?id=564
[5] G. Wellers, Essai
de détermination du nombre de morts au camp d'Auschwitz, in: "Le Monde
Juif," n. 112, October-December 1983
[6] The figure of
1,334,700 indicated by myself in the quoted article, op. cit. (note 1),
p. 391, properly refers to the presumed gassing victims.
[7] Ibid., p. 390.
[8] F. Piper, Estimating
the Number of Deportees to and Victims of the Auschwitz-Birkenau Camp, in:
Yad Vashem Studies, XXI.
[9] Ibid., p. 49;
retranslated from German.
[10] Ibid., p. 49;
retranslated from German.
[11] See, for
example, my article "
[12] It is not
clear why Piper assumes 547.5 days of activity of the crematoria instead of 547
as in the preceding calculation.
[13] F. Piper,
"Gas Chambers and Crematoria," in: Yisrael Gutman, Michael Berenbaum
(eds.), Anatomy of the Auschwitz Death Camp,
[14] Ibid., pp. 164 and
173.
[16] Ibid., p. 32.
[17] RGVA (Rossiiskii
Gosudarstvennii Vojennii Archiv, Mosca), 502-313, p. 81.
[18] La
"Central Construction Office der Polizei und Waffen SS Auschwitz," Edizioni di
Ar, 1998. Soon to appear in English by Theses & Dissertations Press.
[19] VffG, 4(1)
(2000), pp. 50-56.
[20] F. Piper, op.
cit. (note 13), p. 166; ここで議論されているインターネット上の論文でも、同じように「前囚人スラニスワフ・ヤンコフスキ(アルター・ファインジルバー)は1942年に特別労務班に配置された。彼は、焼却棟UとVでは5000体を、焼却棟WとXでは3000体を焼却することができたと述べている[強調――原文」とある。
[21] APMO
(Archiwum Państwowego Muzeum w Oświęcimiu), RO, t XXa, pp. 26-27. (Sygn.
D-RO/129).
[22] "The
Crematoria Ovens of
[23]
[24] Edizioni di
Ar, Padova 2000.
[25] Sonderbehandlung
in
[26] Ibid., pp. 68-69.
[27] See my
article "Die Leichenkeller der Krematorien von Birkenau im Lichte der
Dokumente," in: Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung
7(3&4) (2003), p. 377; an Engl. translation of this very important article
will appear in a later edition of TR.
[28] C. Mattogno, op.
cit. (note 15), pp. 31-33.
[29] Original text
and transcription in: J.-C. Pressac,
[30] See Auschwitz:
The End of a Legend, op. cit. (note 24), pp. 7-21.
[31] In E. Gauss
(ed.), Grundlagen zur Zeitgeschichte. Ein Handbuch über strittige
Fragen des 20. Jahrhunderts. Grabert Verlag, Tübingen 1994, pp. 281-320;
see, in particular, p. 297; Engl. see note 23.
[32] Ibid., German
edition, pp. 308ff.
[33] "The
Crematoria Ovens...," op. cit. (note 23), pp. 403ff.
[34] Endphase des
KL Auschwitz. Evakuierung, Liquidierung und Befreiung des Lagers,
[35] May: 6,520,
June: 15,300, July: 17,500, August: 18,500, September: 20,500, October: 26,500.
[36] A.
Strzelecki, op. cit. (note 35), pp. 353-359.
[37] Ibid., p. 352.
[38] "Die
Deportation der ungarischer Juden von Mai bis Juli 1944. Eine provisorische
Bilanz," VffG, 5(4) (2001), p. 385.
[39] "The
Four Million Figure of Auschwitz, op. cit. (note 1), pp. 393f.
[40] Sonderbehandlung
in Auschwitz, op. cit. (note 26), pp. 53-55.
[41] Ibid., pp. 58-59
and p. 142.
[42]
[43] VffG, 4(2)
(2000), pp. 152-158
[44] Ibid., pp.
156-158.
[45] R.J. van
Pelt, The Case for
[46] F. Meyer,
"Die Zahl der Opfer von Auschwitz. Neue Erkenntnisse durch neue
Archivfunde," in: Osteuropa. Zeitschrift für Gegenwartsfragen des
Ostens, Nr. 5, 2002, pp. 635f. English at http://www.vho.org/GB/c/Meyer.html.
[47] Op. cit. (note 15), p.
33.
[48] See document
reproduction. Source: Höß Trial, vol. 26b, pp. 169f.
[49] Typographical
error for "kremacje."