試訳:アウシュヴィッツの犠牲者数400万人
――その起源、修正、帰結――
C. マットーニョ
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年7月22日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Carlo Mattogno, The Four Million Figure of Auschwitz, The
Revisionist,
2003, No.4を試訳したものである(ただし、前文と図版は省略した)。 |
1. 400万人という宣伝数字の起源
400万人のアウシュヴィッツ犠牲者という宣伝物語がはじめて登場したのは、よく知られているように、1945年5月7日の『プラヴダ』紙上であり、その数字は、ニュルンベルク裁判1946年2月19日の公判で、ソ連検事スミルノーフが言及したことで、公に認められるようになった[1]。しかし、この物語の起源についてはほとんど知られていない。
ソ連調査委員会は1945年2月14日から3月8日にかけて、アウシュヴィッツの調査を実行したが、その過程で、4人の技術者、すなわちポーランド人ダヴィドフスキ、ソ連人ドリンスキイ、ラヴルシンス、シュエルが、アウシュヴィッツ・ビルケナウの「ガス室」と焼却棟についての専門家報告をまとめた。その中に、「アウシュヴィッツ収容所においてドイツ人に清算された人数を確定するための計算」と題する短い「付録1」がある[2]。この3頁の文書に、400万人という数字の起源がある。「専門家報告」は次のような前提から出発している[3]。
「調査資料にもとづくと、ドイツ人は、自分たちの犯罪と悪行の痕跡を注意深く取り除くことによって、収容所でのヒトラーの屠殺人が殺した人数を正確に確定できるようなすべての文書資料を破棄したことがわかる。
例えば、ドイツ人は、人々を移送してきた鉄道運行についての文書資料を破棄した。女性の髪、眼鏡、衣服の量、その他、統計的な計算を使えば、この収容所での死者の数を確定できるような証拠をすべて破棄したのである。
にもかかわらず、われわれは、ドイツ人による囚人の絶滅の規模を確定することを可能とする計算を実行できると考えている。」
ポーランドとソ連の「専門家たち」は文書資料をまったく持っていなかったので、アウシュヴィッツの焼却棟での焼却された死体を数えるという、まったく信憑性に欠ける計算方法を使い、さらに、それをグロテスクなほど誇張したのである。
まず、彼らは、焼却棟の稼動時期を3つに分けた。
第一期:1941年初頭[ママ!正しくは:1942年]から1943年3月の14ヶ月
第二期:1943年3月から1944年5月の13ヶ月
第三期:1944年5月から1944年10月の6ヶ月
「第一期には、焼却棟とガス室[4]1と2およびそれに隣接する薪の山が稼動していた。第二期には、焼却棟U、V、W、Xが[稼動していた]。第三期には、焼却棟U、V、W、Xおよびガス室2とそれに隣接する薪の山が[稼動していた]。」
燃焼炉の焼却能力は、アウシュヴィッツTでは1ヶ月9000体が焼却されたという推定にもとづいており、そこから、ビルケナウの焼却棟の1ヶ月の焼却能力が次のように「算出」された[5]。
焼却棟U:90000、焼却棟V:90000、焼却棟W:45000、焼却棟X:45000、合計:1ヶ月270000体。
1日9000体(焼却棟UとVでそれぞれ3000体、焼却棟WとXでそれぞれ1500体)という焼却能力は、焼却棟の理論的な最大能力のなんと8倍となっている。
「専門家たち」は、不可解にも焼却棟Tの焼却能力を誇張し、そこから、3燃焼室炉および8燃焼室炉の能力は、1時間あたりの2燃焼室炉の焼却能力(1時間2体)の4倍である(1時間8体)と算出したのである。しかし、この計算は馬鹿げている。2燃焼室炉はビルケナウの炉に較べて劣っていなかっただけではなく、実際には、優れていたからである。
「専門家たち」は、第三期に焼却された死体の数を次のように算出している。
270000体=ビルケナウの焼却棟の1ヶ月の焼却能力
6=焼却棟が稼動した月
0.9=焼却棟の利用可能性係数
(270000×6)×0.9=1450000名の死者
第二期の13ヶ月については、「専門家たち」は利用可能性係数を0.5として、次のように算出している。
(270000×13)×0.5=1755000の死者、これは1750000名と概算されている。
焼却棟Tだけが稼動していた14ヶ月の第一期についても、「専門家たち」は、利用可能性係数を0.5として、次のように算出している。
(9000×14)×0.5=63000名の死者
したがって、調査委員会によると、これらの3つの時期に焼却された死体の合計は、3263000名となる。
第三期の6ヶ月だけに稼動していたとされる「ガス室2」、いわゆる「ブンカーU」については、「専門家たち」は、1日の殺戮能力を3000名、もしくは1ヶ月90000名と裁定した。そして、利用可能性係数を0.5としているので、この施設で殺された人々の数は次のようになる。
(90000×6)×0.5=270000名
「専門家たち」によると、「ガス室1」、すなわち「ブンカーT」は第一期の14ヶ月間稼動しており、殺戮能力は1日5000名、1ヶ月150000名であった。この利用可能性係数は0.25とされているので、「専門家たち」は、(150000×14)×0.25=525000名の死者と算出している。
こうした推定にもとづいて、2つの「ブンカー」と薪の山で焼却されたガス処刑者の合計は795000名となった。この数に、焼却棟で焼却された数を加えると4058000名ということになる。そして、「専門家たち」は、400万人と概算したのである。
2. 「専門家」と「証人」の調整
上記の算出方法がまったく馬鹿げたものであることを示すには、多弁を弄する必要はない。それは、焼却能力を途方もなく誇張しており、利用可能性・効率性係数をまったく恣意的に解釈することにもとづいているからである。
強調しておかなくてはならないことは、「目撃証人」の証言が、宣伝されている説の枠組みの中にぴったりと組み入れられたことである。すなわち、「専門家報告」と「目撃証言」とはたがいに支えあったのである。このことは、明らかに、証人たちは証言する前に、「専門家たち」の指示を受けていたことを意味している。ともあれ、証人と「専門家たち」がまったく間違った証言を行なったことは事実である。ここでは、焼却能力に関する両者の証言を検証しておこう。
重要証人のヘンリク・タウバーは、1945年2月27日、28日にソ連の尋問を受けている。彼は、焼却棟Tの2燃焼室炉が1200−1500℃で稼動していたと述べているが、これはまったく馬鹿げている[6]。また、焼却棟UとVの5つの3燃焼室炉の1つの燃焼室では、20−25分で、4−5体が焼却されたと証言しているが、これも技術的には不可能なことである。さらに、焼却棟UとVでは、1日に3000体が焼却されたと証言しているが、これは、ポーランドとソ連の「専門家たち」が述べている数字とぴったり対応している[7]。
偶然の一致なのであろうか。そうではあるまい。焼却炉の作動についてのタウバーと「専門家たち」の証言は、事実上同一なのだから。「専門家たち」は、3−5体が同時に3燃焼室炉で焼却され、それには20−30分かかった、8燃焼室炉では、同じ数の死体の焼却には30−40分かかったという前提から出発しているからである。
熱力学の知識を少しでも持っている技術者であれば、こうした考え方を一笑に付すであろう。にもかかわらず、ポーランドとソ連の技術者は自分たちの知識なりに、証言が科学的な価値を持っていると断言しているのである。熱力学の基礎を知っている技術者であれば、証人たちがこのような馬鹿げた主張したとすれば、彼らを不適格な証人として却下するであろうが、ポーランドとソ連の技術者はまったく意図的にソ連宣伝の道具となっており、しかも、この当時、このような粗雑な宣伝は広く流行していたのである。
1944年8月のマイダネクを調査したソ連・ポーランド調査委員会は、この収容所での犠牲者の数を1380000人と「算出」した[8]。しかし、1945年5月には、アウシュヴィッツを利用して世界を戦慄させなくてはならず、このためには、マイダネク以上の犠牲者の数が必要となったのである。こうして、400万人という数字が生み出された。
半年前の1944年8月、別のソ連の「専門家たち」、すなわち、技術者のクラウゼ、テリャネル、グリゴレフが、H. コリ社の製造したマイダネク強制収容所の焼却炉についての「専門家報告」を作成した。この報告には、「異なった温度での異なった焼却炉における死体焼却時間を決定するための図表」が含まれている。報告作成者によると、この図表は、クリンゲンスティエルナ、ジーメンス、シュナイダー型の民間炉で測定された稼動温度にもとづいている。それによると、800℃の稼動温度での焼却時間は2時間であった。それは低いとはいえないが、実際に必要な時間を上回っていた。この図表によると、これらの巨大な「熱風焼却炉」における1000℃の稼動温度での焼却時間は60分、1200℃では50分、1300℃では45分、1400℃では30分、1500℃では15分であった[9]。民間炉の燃焼室内の温度の最大は1100℃にすぎず、しかも、数分間だけ稼動できるにすぎない。焼却に関するドイツのもっともよく知られている技術者の一人リヒャルト・ケスラーはこの点に関して次のように述べている[10]。
「焼却棟の作動についての報告書の中には、1200−1500℃での稼動温度がしばしば言及されているが、…それは測定の誤りか、測定されていない温度であろう。この温度では、骨と耐火煉瓦が溶解して交じり合ってしまうからである。デッサウでの実験によると、もっとも現実的な稼動温度は850℃から900℃のあいだにある。」
アウシュヴィッツを調査したソ連の「専門家たち」は、トッププ社の炉の焼却時間を、馬鹿げているほど短い20−40分としているが、彼らは、それを算出するにあたって、このような焼却時間が達成できるのは1200−1500℃であるというマイダネクの調査報告の図表に依拠したにちがいない[11]。
以上のことから、炉の稼動温度は1200−1500℃であったというタウバー証言は、まったくありえないような短い焼却時間を釈明しようとする試みにすぎないことがわかる。「専門家たち」自身がこの温度および焼却時間について、タウバーに直接・間接的に情報を提供していたというのが唯一の論理的結論である。
のちの1945年5月、(これらの諸問題についてほとんど理解していない)タウバーは、ポーランド人判事ヤン・ゼーンの尋問を受けて、炉の稼動温度は1000−1200℃であったと証言しているが[12]、焼却能力に関しては、科学的に立証されていない自説をそのまま主張し、400万人の犠牲者というソ連側の数字を強調している[13]。タウバーは自己矛盾に陥っていることを理解していなかったにちがいない。この図表によると、この温度での焼却時間は平均75分なのであるから。
3. ピペルによる修正の理由と意味
ソ連はアウシュヴィッツの犠牲者400万人という数字を宣伝してきたが、この数字が、ビルケナウの焼却棟UとVの近くに立てられているモニュメントの碑文に、子孫のための「永遠の」警告として刻み込まれていたことはよく知られている。1990年まで、この碑文は、アウシュヴィッツでは400万人が「ナチス」によって殺されたことを明言していた。この年、ソ連邦が崩壊し、アウシュヴィッツ博物館は犠牲者数の修正に着手した。博物館歴史部長ピペルは、新たな宣伝数字150万人を作り出したのである[14]。これにしたがって、モニュメントの碑文も取り除かれた。数年後、次のようなテキストの碑文が作られた。
「この場所が、絶望の嘆きと人類に対する警告となりますように。ここで、ナチスは、約150万の男性、女性、子供たちを殺した。その大半は、ヨーロッパ諸国からのユダヤ人であった。アウシュヴィッツ・ビルケナウ1940−1945年。」
1991年、ピペルは収容所の犠牲者数に関する長文の論文を執筆した。その中で、彼は、別の詳しい研究を発表すると述べていた。この論文では、彼は、もはや150万人とは述べておらず、110万人の死者とだけ述べている[15]。翌年、この研究は小冊子のかたちで出版され[16]、さらに2年後の、1993年、ピペルは、「アウシュヴィッツの犠牲者数」と題する、自分の研究の「決定」版を出版した[17]。
110万人という新しい数字の根拠が如何に薄弱であるか、最近10年間のあいだにこの数字に、どのような新しい修正が加えられていったのかについては、よく知られている。だが、400万人というソ連の宣伝数字は、一体どのようにして、1990年までアウシュヴィッツで生き残り続けたのであろうか。ピペルはこれについて次のように記している[18]。
「400万人の犠牲者という数字は、1945年と1946年にアウシュヴィッツ犯罪ポーランド調査委員会議長であったヤン・ゼーンによって広められた。この数字は、ポーランド(アウシュヴィッツ国立博物館、ポーランドにおけるナチス犯罪中央調査委員会)、チェコ、東ドイツの多くの出版物の中に登場した。しかし、この300−400万人という数字は、ニュルンベルクでの有名なヘス証言は別として、西側諸国の出版物の中では定着していなかった。イギリス人の歴史家ライトリンガーは、アウシュヴィッツの犠牲者数が多すぎることに疑問を呈した最初の研究者の一人である。彼は、第二次世界大戦中のユダヤ人の絶滅に関する丁寧な研究書の中で、アウシュヴィッツでは『100万をかなり下回る数の人々』が死んだと書いている。そのうち、55万から60万が、収容所到着直後に殺されたユダヤ人であり、30万ほどが解放された時点では収容所にはいなかった登録囚人で、その大半がユダヤ人であったというのである。」
事実、ソ連側が指示し、共産圏で維持されてきた400万人という宣伝数字は、まったく、自分たちの利益を図るものであった。一方、西側は、次のようなライトリンガーの珠玉のような判断を受け入れていた[19]。
「世界はこのような『見積もり』に疑問を持つようになっており、400万人という概数は、真剣な検証に耐えられるものではない。」
ポーランド人判事ヤン・ゼーンはソ連人以上にソ連人であった。彼は1946年の調査結果の結論をまとめ、それは、翌年のヘスに対する起訴状の土台となったものであるが、その中では、「500万人の犠牲者」ともいっている[20]。
ヤン・ゼーンは、ソ連による400万人という数字がまったくの嘘であることをよく知っていたにちがいない。ヘス裁判に先行する調査の中で、いわゆる運行リストを徹底的に検証しているからである。それは、収容所政治部に雇われていた囚人が秘密裏に作成した、オリジナル文書の要約であった。ゼーンは、「クラクフ、1945年12月16日」の日付のある文書を記載・分析している。そこには次のようにある。
(a)
男性囚人の2377の移送集団が1940年5月20日から1944年9月18日のあいだに到着した。到着した人々は、登録番号1−199531を割り当てられた。
(b)
女性囚人の1046の移送集団が1942年2月26日から1944年3月26日のあいだに到着した。これらの囚人は番号1−75697を受け取った[21]。
(c)
国家保安本部の命により、78の男性移送集団が1944年5月12日から8月のあいだに到着した(登録番号A-1/A-20000)。
(d)
ユダヤ人女性の60の移送集団が、国家保安本部の命で、1944年7月31日から9月21日のあいだに到着した(登録番号B-1/B-10481)。
(e)
ユダヤ人女性の90の移送集団が、国家保安本部の命で、1944年5月15日から9月20日のあいだに到着した(登録番号A-1/A-25378)。
(f)
再教育のための囚人の171の移送集団が1941年10月21日から1944年9月20日のあいだに到着した(登録番号E-1/E-9339)。[22]
これらのリストは完全ではないが、アウシュヴィッツに到着した囚人の概数を算出することができる。事実、これらのリストは、ダヌータ・チェクが1959年から64年にかけてドイツ語で出版した『アウシュヴィッツ・カレンダー』の土台ともなっている[23]。
よく知られているように、ユダヤ系フランス人のヴェレールは、1983年、アウシュヴィッツの犠牲者数に関する論文を書いているが、それもチェクの研究にもとづいている[24]。ヴェレールは、1613455人がアウシュヴィッツに移送され、うち1334700人が殺されたとの結論に達した[25]。彼の計算には多くの誤りが含まれているが(それについては別項で指摘している[26])、彼の論文は、400万人という妄想に致命的なダメージを与えた。犠牲者数の修正の根拠となる研究は、すでに1964年から存在していたのに、なぜ、アウシュヴィッツ博物館は、1990年まで、400万人という数字を守ってきたのであろうか。ピペルは次のように説明している[27]。
「オシヴィエチム[アウシュヴィッツのポーランド名]の国立アウシュヴィッツ博物館が、犠牲者数の研究に取り組み始めたのは、比較的遅く、1970年代後半であった。この当時には、この研究は明瞭な結論を出さずに、ソ連・ポーランド調査当局の数を確定することも、それに疑問を呈することもしなかった。」
すでに指摘したように、この説明はまったく間違っている。400万人という数字の宣伝の道具を作り出したのは、アウシュヴィッツ博物館自身であり、チェクの『カレンダー』は、ヴェレールがのちに証明したように――彼自身の誤りは別としても――、この数字を明白にしりぞけているからである。そして、ピペルは、『カレンダー』がすでに1964年に登場しているにもかかわらず、アウシュヴィッツ博物館が収容所全史をはじめて記述したフランス語版の著作の中で(「絶滅」の章)、次のように記しているからである[28]。
「収容所が存在していたほぼ5年間に、約400万人が、疫病、処刑、ガス室での大量殺戮によって死んでいった。」
ピペルは、自分がアウシュヴィッツの犠牲者の数の研究に取り組み始めたのは1980年で、一応の結論に達したのは1986年であったと述べているが[29]、1965年からアウシュヴィッツ博物館歴史部に勤務し[30]、今日ではその部長である研究者が、ソ連の400万人伝説をずっと額面どおりに受け入れていたということを信じることができるだろうか。もし、それが真実であるとすれば、そのことは、この人物が悲劇的なほど盲目で、歴史研究者の名に値しないことを証明しているであろう。もし真実ではないとすれば、――私はそのように考えているが――、そのことは、この人物が破廉恥な政治的・イデオロギー的御都合主義者であり、やはり歴史研究者の名に値しないことを証明しているであろう。
さらに、アウシュヴィッツ所長ヘスの「回想録」なるものはまずポーランドで出版されており、その中で、ヘスが言及しているのは250万人の犠牲者であり、その数字をアイヒマンから聞いたとのべていることも付け加えておかなくてはならない。ヘスは、合計1130000名の移送者が由来する「大規模行動」をあげているが[31]、これだけでも、アウシュヴィッツ博物館やピペルが400万人という数字をチェックするのに十分な理由となるであろう。
4. 400万人という宣伝数字の放棄の帰結
400万人という宣伝数字をなんらの処罰なしで放棄しうると考えているものがいるとすれば、この人物は自己欺瞞におちいっている。この数字は、アウシュヴィッツでの大量絶滅説と密接に結びついており、この数字の上に組み立てられているすべての人為的な建造物を動揺させることなしには、放棄することができないからである。プレサックは、文書資料によって大量絶滅説を立証しようとしたが、それは無益な試みとなってしまった。このプレサックの研究は別として、大量絶滅説はもっぱら「目撃証人」の証言だけにもとづいているのであり、プレサック自身も、ビルケナウの焼却棟Uでの最初の「殺人ガス処刑」を描くにあたって、これらの証言を利用せざるをえなかった[32]。
すでに指摘したように、目撃証言と400万人という数字は、当初からワンセットのようなものとなっているために、目撃証言の否定は、この数字の否定となり、この数字の否定は目撃証言の否定となる。それゆえ、この数字を否定すれば、アウシュヴィッツでの大量絶滅説全体が、動揺してしまうのである。
今日、400万人という数字が最終的に取り除かれてしまったので、事実上、ホロコースト正史は、アウシュヴィッツ正史の否定という引き返すことのできない道に足を踏み入れたことになる。アウシュヴィッツの焼却炉の実際の処理能力を検証することによって、アウシュヴィッツでの人間の大量絶滅説は崩壊せざるをえなかった。大量絶滅説を支えるには証言が必要であるが、その重要な目撃証人がまったくの詐欺師であることが暴露されたからである。否定することを恐れないでいえば、今日、重要な目撃証人――いわゆる「特別労務班員」――の誰一人として、焼却炉について真実を語ってこなかった。恥知らずにも、彼ら全員が例外なく、嘘をついてきた。彼らは大量絶滅説を補強するために嘘をついてきたのである。
そして、こうした「目撃証人」が重要な論点で嘘をついているとすれば、「殺人ガス処刑」に関する彼らの証言には信憑性があるであろうか。
だから、この問題を誠実に考察すれば、必然的に、「ガス処刑」された人々の数を劇的に減らしていくほかなかった。2002年初に公表されたフリツォフ・メイヤー論文も、さらにアウシュヴィッツでの犠牲者の数を減らしているが[33]、それはホロコースト正史の歴史学の壁の上に書かれているのである。
もちろん、こうしたことは、少しでも誠実さと批判的精神を持ち合わせた研究者だけにあてはまることであって、アウシュヴィッツ博物館の研究者にはあてはまらない。博物館の歴史家たちは400万人という数字を放棄したにもかかわらず、熱力学的には馬鹿げている「目撃証人」の証言をまともな資料として、依然として引用し続けており、そこに内在するはっきりとした矛盾に気づくことさえもできないのである。
ピペルは、1994年になっても、次のように記して恥じることがない[34]。
「中央建設局からグループCへの1943年6月24日の書簡は、24時間あたりの能力を、焼却棟Tは340、焼却棟UとVは1440、焼却棟WとXは768としている[[35]]。だから、5つの焼却棟は1日4756体を焼却することができた。この数字は、捕虜のための5燃焼室焼却炉の能力の記述と一致している。それによると、2体が30分以内に焼却できた[[36]]。しかし、翌月に、焼却棟Tが閉鎖されたので、能力は4515に低下した。
収容所当局は、炉の焼却能力を高めようとして、焼却時間を20分に短縮すること、死体の数を死体の大きさにもとづいて3つに増やすことを勧めた。その結果、焼却棟の能力は2倍となり、特別労務班員の囚人ファインジルバーの証言によると、24時間で8000体に達した。」
アウシュヴィッツ博物館の「批判的精神」は、収容所の犠牲者の数を4分の1に減らしてきたが、御都合主義的に焼却能力――実際の能力の8倍――をでっち上げているのである。もちろん、ピペルは炉の本当の能力を語ってしまえば、自分の「目撃証人」が下水管の中に流れ落ちていってしまい、そのことで、これらの「目撃証人」の証言に由来する「殺人ガス処刑」説がまったく信憑性のないものになってしまうことを知っているにちがいない。だからこそ、依然として、アウシュヴィッツ博物館は迷信にもとづく権威であり続けているのであり、科学よりも「目撃証人」の妄想を好んでいるのである。
[1] Der Prozeß
gegen die Hauptkriegsverbrecher vor dem Internationalen Militärgerichtshof, Nürnberg
1947, Vol. VII, p. 647.
[2] GARF,
7021-108-14, pp. 18-20.
[3] Ibid, p. 18.
[4] ロシア語の「ガソヴィエ・カーメルイ」:ソ連のすべての文書では、いわゆるブンカー1と2がこのように呼ばれた。この呼称を作り出したのは、1945年5月10日と11日のポーランド語陳述書の中での、シュラマ・ドラゴンであった。
[5] Ibid, p. 15.
[6] 燃焼室の稼動温度は、800℃であった。1500℃が達成できるのは、ガス発生器の発火場所だけである。
[7] Protocol of
the questioning of Henryk Taubers from Februar 27-28, 1945. GARF, 7021-108-13,
pp. 1-12.
[8] J. Graf, C.
Mattogno, Concentration Camp Majdanek. A Historical and Technical Study;
Theses & Dissertations Press, Chicago 2003, p. 79. マイダネクの実際の犠牲者は約42300名であった。(ibid., Chapter 4).
[9] Ibid, p. 286.
[10] R. Kessler, Rationelle
Wärme-Wirtschaft in Krematorien unter besonderer Berücksichtigung der
Leuchtgasfeuerung, in: V. Jahrbuch des Verbandes der Feuerbestattungs-Vereine
Deutscher Sprache 1930, Königsberg 1930, p. 136.
[11] さらに奇怪なのは、4−5体が1体と同じ時間で焼却されうるというソ連の「専門家たち」の証言である。ちなみに、ドイツの法律は、1体以上を同時に1燃焼室で焼却することを禁じていた。
[12] Höß Trial,
Band 11, p. 133.
[13] Ibid., p. 150.
[14] "Neue
Zahlen über
[15] F. Piper,
"Estimating the Number of Deportees to and Victims of the
Auschwitz-Birkenau Camp", in: Yad Vashem Studies, XXI,
[16] F. Piper,
[17] Die Zahl der
Opfer von Auschwitz, National Museum Publishing House,
[18] Ibid., p. 10.
[19] G.
Reitlinger. Die Endlösung. Hitlers Versuch der Ausrottung der Juden Europas
1939 - 1945. Colloquium Publishers,
[20] J. Sehn, Obóz
koncentracyjny i zagłady
[21] These lists
were put in order by K. Smoleń on December 16, 1947, at the American
"Counsel for War Crimes" and presented at the
[22] AGK, NTN, 95,
pp. 12f. The protocol spans p. 12 to p. 123.
[23] D. Czech, Kalendarium
der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau, in: Hefte von
Auschwitz, 2, 1959, pp. 89-118 (1940-1941); 3, 1960, pp. 47-110 (1942); 4,
1961, pp. 63-111 (January-June 1943); 6, 1962, pp. 43-87 (July-December 1943);
7, 1964, pp. 71-103 (January-June 1944); 8, 1964, pp. 47-109 (July 1944-January
1945. Wydawnictwo Państwowego Muzeum w Oświęcimiu.
[24] The second,
revised edition of the Kalendarium appeared in 1989 by Rowohlt, Reinbek.
[25] G. Wellers,
"Essai de détermination du nombre de morts au camp d'Auschwitz," in: Le
Monde Juif, n. 112, Oct.-Dec. 1983, p. 153.
[26] Wellers e i
"gasati" di Auschwitz. Edizioni La Sfinge,
[27] F. Piper, op.
cit., p. 13.
[28] F. Piper,
"Extermination", in: J. Buszko,
[29] F. Piper, op.
cit., p. 13.
[30] Y. Gutman, M.
Berenbaum (ed.), Anatomy of the Auschwitz death camp, Indiana University
Press,
[31] Główna
Komosja Badania Zbrodni Hitlerowskich w Polsce, Wspomnienia Rudolfa Hoessa
komendanta obozu oświęcimskiego. Wydawnictwo Prawnicze,
[32] Jean-Claude
Pressac, Die Krematorien von Auschwitz. Die Technik des Massenmordes.
Piper Verlag, Munich-Zürich 1994, p. 95; Pressac stützt sich hier auf die
Zeugenaussage H. Taubers
[33] "Die
Zahl der Opfer von Auschwitz. Neue Erkenntnisse durch neue Archivfunde",
in: Osteuropa, No. 5, May 2002, pp. 631-641. See also my article "
[34] F. Piper,
"Gas Chambers and Crematoria", in: Y. Gutman and M. Berenbaum (ed.), op.
cit., pp. 165f.
[35] See also my
article "'Schlüsseldokument' - eine alternative Interpretation," VffG,
4(1) (2000), pp. 50-56.
[36] F. Piper
refers to Erläuterungsbericht zur Vorentwurf für den Neubau des
Kriegsgefangenenlagers der Waffen-SS,