試訳:歴史と真実の否定

そんなに懐疑的ではないマイケル・シェルマーとアレックス・グロブマンによる偽りの「ホロコースト」の「証拠の収斂」を暴露する

 

カルロ・マットーニョ

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2003619

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Carlo Mattogno, Denying History and Truthを試訳したものである。連載予定の前半部であり、注は連載終了後に記載される予定である。
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online: http://vho.org/~granata/denying-history.html

 

Translated and Edited by Russ Granata
Copyright © MMIII Russ Granata
Box 2145 PVP CA 90274 USA
www.russgranata.com

 

 

序文

 マイケル・シェルマーとアレックス・グロブマンの著作『歴史の否定。ホロコーストが起らなかったと誰が言っているのか、そして、彼らはなぜそう言っているのか』[1]は、自分の著作を客観的・学術的と称しているものの、「ホロコースト」修正主義を中傷している。

 この二人は言論の自由を守るふりをしているが、その一方で、自分たちの歴史哲学なるものを随所で繰り返している。そしてその歴史哲学なるものは、学術的な見解の披瀝ではなく、たんに特定の考え方を注入することだけを目的としている。二人は、合衆国からヨーロッパに出かけ、「数年間にわたって」、「収容所、とくにマウトハウゼン、マイダネク、トレブリンカ、ソビボル、ベルゼク、ダッハウ、アウシュヴィッツ、アウシュヴィッツ・ビルケナウ[ママ]を調査する」(127頁)という仕事――彼らの財政的支援者の支払った費用を想像していただきたい――を終えても、派手な修飾のない、きちんと整理された数十頁の小論文を論破することすらできなかったのである。

 『歴史の否定』には大きな野望がある。すなわち、ホロコースト否定派の主張を逐次とりあげ、その細部にいたるまで、反論する」というのである。序文を寄せたアーサー・ヘルツバーグは、二人の著者の明白な意図を次のように述べている(xiii頁)。

 

「『本書の中で、われわれは、ホロコースト否定派の人格と動機を深く分析すると同時に、彼らの主張や議論を完璧に反駁する』(2頁)。シェルマーとグロブマンは、自分たちの本が『ホロコースト否定派の主張に対する完璧で、考え抜かれた回答』(259頁)であると述べている」。

 

 したがって、シェルマーとグロブマンは、すべての修正主義者のすべてのテーゼを「完璧に」反駁したということになる。これはまったくの虚偽である[2]。「完璧に」反駁したという彼らの主張は、まさに最初から嘘であると異議を申し立てておく。

 私は、このような嘘の教師に対しては、3つの研究を献呈しており、その中で、彼らの虚偽の主張を辛辣に反駁しておいた。以下の研究である。

 

  Olocausto: dilettanti allo sbaraglio. Edizioni di Ar, 1996, 322 pages;

  L "Irritante questione " delle camere a gas ovvero da Cappuccetto Rosso ad...Auschwitz. Risposta a Valentina Pisanty. Graphos, Genoa, 1998, 188 pages;

  Olocausto: dillettanti a convengo. Effepi, Genoa 2002, 182 pages.

 

さらに、ツィンマーマン教授に対する私の回答も付け加えておこう。

 

  John C. Zimmerman and "Body Disposal at Auschwitz": Preliminary Observations,

  Supplementary Response to John C. Zimmerman on his "Body Disposal at Auschwitz."[3]

 

上記の研究が提起した疑問点に答えた人物は誰もいなかった。その一方で、私が虚偽であることを明らかにしたが、とくにヴィダル・ナケやヴァレンティナ・ピサンティといった人々の本に登場している明白な虚偽は、「反否定派」の著作の中で引用され続けている。すなわち、シェルマーとグロブマンが修正主義的な歴史学に特徴的であると論じている(251頁)近親相姦的な引用は、健在であり続けているのである。ツィンマーマンは彼の「批判」に対する私の2番目の回答を読んで絶望的となった。この哀れな教授は、私の議論を知って、沈黙の中に姿を消してしまった[4]

本小論は、いわれのない反ユダヤ主義的・ネオ・ナチ的小冊子のたわごととはまったく異なっており、すべてが厳格に文書資料にもとづいているが、私がそれを執筆したのは、シェルマーとグロブマンの詐欺行為に憤激したためであり、とくに、彼らの誤りを暴露することで、歴史的真実を確立しなおすことに喜びを感じているためである。

本小論はホロコースト歴史学という沈黙の地下墓地に入ってしまうかもしれない。たとえそうであっても、偏見を抱いていない誠実な人々には役に立つことを希望している。前述の研究にもとづいて、新しい視点から考察が進められているだけではなく、たった一人の歴史的修正主義者が、「数年にわたって」、世界中のホロコースト・ロビーの協力を得ながら成し遂げられたとされる研究を、数週間で壊滅させることができるという状況が明らかにされているからである。ここでの議論は、この議論に共感を示そうとしない歴史家に対しては、沈黙の当惑を強いるものであり、まったく迷惑至極なものにちがいないであろう。

 

1

修正主義者と修正主義的歴史学

 

A)修正主義者

 シェルマーとグロブマンはその前任者たちとは異なり、厳格に学術的レベルの上に立っていると称している。

 

「われわれは、悪口を言う段階を超えて、証拠を提示すべき時期にあると考えている」(1617頁)。

 

 ということは、この二人は、これまでの修正主義に対する批判の本質を知っていることを明らかにしている。すなわち、これまでの批判は、修正主義を侮辱しただけで、まったく証拠を提示してこなかったというのである。

 さらに、二人は、反修正主義者の使い古された偏見に満ちた議論を否定するにまでいたっている。「ホロコースト否定運動は非常に多岐にわたっており、複雑であるので、『反ユダヤ主義的』とか『ネオ・ナチ的』という一まとめのレッテルを貼ることはできない。レッテル貼りにうったえることは、実際に進行していることを誤解してしまい、それゆえに、わら人形をひっぱたくことになってしまう」(16頁)。しかし、シェルマーとグロブマンは、修正主義の中では、「反ユダヤ主義的な話題が繰り返し登場する」(87頁)とか、「ホロコースト否定運動を反ユダヤ感情からきっぱりと分けることは難しいようである」(87頁)と主張しており、「反ユダヤ主義的」とか「ネオ・ナチ的」というレッテル貼りの誘惑を逃れることができていない。

 そして、その誘惑は「甘ければ甘いほど、深いものとなる」。

 

「われわれの見解では、ホロコースト否定派は、自分たちが賞賛している人々の名誉を回復し、自分たちが不当に賞賛を受けていると考えている人々の名誉を毀損することで、自分たちの影響力を拡大しようとしている…。ホロコーストの歴史はナチズムの汚点である。ホロコーストの信憑性を否定すれば、ナチズムは名誉挽回し始めるというのである」(252頁)。

 

 上記の文章は、きわめて重要な定式である。この定式によると、修正主義とは「修正主義の著者たちが愛好している」(34頁と238頁を参照)「今日の個人的・政治的目的のために過去を書き換えようとすることである」(2頁)というのである。かくして、シェルマーとグロブマンの主張では、彼らが否認するふりをしている使い古された中傷がドアからではなく窓から姿を現している。侮辱もまた然りである。「正常な精神を持っているものであれば、ホロコーストが起こらなかったなどというはずがない」(40頁)、だから…というわけである。

 修正主義は、「歴史に対抗しており、歴史学が依拠している方法に対抗している」(251頁)、「黒が白となり、上が下となり、通常の理性の規則が適用されない鏡の世界なのである」(1頁)というのである。

 シェルマーとグロブマンは、修正主義者「のモチヴェーションは高く、金銭的にも恵まれており[本当なのか?]、ホロコースト研究に精通している。…否定派はホロコーストについてよく知っている」(1718頁)と述べている。たしかに、アメリカの修正主義者たちは「比較的厚遇されてきた」(40頁)し、このことは、「正常な精神」を持ち合わせていないいわゆるネオ・ナチや反ユダヤ主義者にはいささか奇妙な事態となっている。

 しかし、歴史的修正主義に関する真実は、まったく別のことである。修正主義的歴史家を反ユダヤ主義とかネオ・ナチという使い古されたカテゴリーの中に押し込めてしまおうとすることは、かならず「個人的・政治的理由のために」生じているのであり、シェルマーとグロブマンの著作の題名『歴史の否定』と同じくらい誤解を招くものである。修正主義的歴史家が否定しているのは「歴史」ではなく、御用史家たちが提供してきた歪曲された歴史の解釈である。この歪曲の否定から誕生した修正主義とは、歴史的真実の復権である。

 ポール・ラッシニエは、戦後の強制収容所関連の文献にちりばめられていた嘘を否定することから、修正主義者としての活動を始めた[5]。ラッシニエは、嘘のオンパレードに憤激し、真実を復権しようという燃えるような情熱を抱いたのである。御用史家の詐欺行為への憤激こそが、修正主義的歴史家を駆り立てているもっとも重要な動機の一つである。御用史家たちは自分たちの地位を利用して、無知な読者を欺き、無知な読者を欺き続けることで、自分たちの地位を維持しているにすぎない。そして、私が『歴史の否定』の詐欺的本質を暴露しようとするのも、シェルマーとグロブマンの詐欺的行為に憤激し、歴史的真実を復権しようとしたいがためである。

 この本の序文にあるように、この二人は、すべての修正主義的歴史家のすべてのテーゼを「詳細に」反駁したと主張しており、この点について、次のように記している。

 

「われわれは、否定派に対するわれわれの見解が正確であることを検証するために、ホロコースト否定運動のおもな参加者にインタビューし、彼らの文献を注意深く読んできた」(4頁)。

 

 この二人にとって、修正主義とはM. ウェーバー、D. アーヴィング、R. フォーリソン、B. スミス、E. ツンデル、D. コールに限定されている(4671頁)。アーサー・バッツはこの二人が噛み砕くには、すでに硬すぎる骨となっているので、彼の著作『20世紀の詐術』を「運動のバイブルとなってきた」(40頁)と評するにとどめている。すなわち、ごく限られた社会の中でだけ言及するに値するものにすぎないというのである。マーク・ウェーバーについても同じような扱いがなされており、アーヴィングについで「ホロコーストの歴史に精通している人物」(46頁)と片付けられている。アメリカ中心主義的誇大妄想におちいっているシェルマーとグロブマンは、以下の3つの重要な点を忘れてしまっている。

 

1.       この二人は、アメリカの修正主義の一部だけを取り上げているにすぎない(たとえば、F. ベルク、W.N. サニング、S. クロウェル、B. レンク、T. オキーフェ、W. リンゼイ、M. ホフマンを無視している);

2.       アメリカの修正主義は世界各地の修正主義の一部にすぎない;

3.       アメリカの修正主義は、その歴史を尊重したとしても、研究水準の面では、ヨーロッパの修正主義を含む世界各地の修正主義の中で、もっとも重要な部分とはいえない。しかし、シェルマーとグロブマンにとっては、ヨーロッパの修正主義とはロベール・フォーリソンのことだけであり、しかも、検証してみると、フォーリソンのテーゼのうちあまり重要ではない部分だけが対象となっており、そのうえ、これから明らかにするように、恥知らずにも間違って紹介されている。

 

現在、ヨーロッパの修正主義を代表しているのは、Vierteljahrshefte für freie Geschichtsforschung (PO Box 118, Hastings TN34 3ZQ, England)誌、その創立者ゲルマール・ルドルフと彼の協力者たちであるというのが真実である。また、ユルゲン・グラーフ、J.M. Boisdefeu Enrique Aynat、アンリ・ロック、Pierre Marais Serge ThionP. Guillaume、ウド・ヴァレンディ、I. ヴェッカート、H.J. ノヴァク、W. ラデマッヒャーその他もヨーロッパの修正主義を代表している。特筆すべきものを知るには、すでに引用した1996年の研究Olocausto: dilettanti allo sbaraglio308309頁にあるEssential Revisionist Bibliographyを参照していただきたい。ここには33の研究があがっているが、そのうち、シェルマーとグロブマンが対象としているのは4つにすぎず、うち3つだけがアメリカ人である。シェルマーとグロブマンは修正主義的研究の中からごく少数のものだけを選んでいるにもかかわらず、何年間も、『歴史の否定』を使って、修正主義者への回答を求めて苦闘しなくてはならなかった。

 

「世界各地の著名なホロコースト研究者と話し合っている際に、われわれはこの問題に気づくようになった。多くの場合、われわれは、何年にもわたる計画の中で、かなり苦労して、われわれの質問に対する回答を手に入れることができた」(2頁)[強調――筆者]

 

 だから、「世界各地の著名なホロコースト研究者たち」はシェルマーとグロブマンにどのように回答したらよいのかわからなかったのである。思うに、彼らのごまかしの前提のよると、彼らが修正主義のすべての議論に正確に答えなくてはならなかったとすれば、彼らの「計画」は数十年もかかったことであろう。

 

B)本当の歴史学的方法論対修正主義者の方法論なるもの

 シェルマーとグロブマンは、第9章でわき道にそれてしまって、『レイプ・オブ・ナンキン』について論じている。これは、193712月に日本軍が中国の南京市に侵攻したときの戦争犯罪といわれているものであるが、その歴史的な復元は、「194653日、極東国際軍事法廷が開かれ、東京戦争犯罪裁判として知られるようになったときに完成した」(236頁)というのである。言い換えれば、非人道的な日本人の獰猛さを明らかにし、アメリカの原子爆弾による広島、長崎の崩壊および絨毯爆撃を道徳的に正当化するために、憶測にすぎない「事実」が「復元された」のである。

 この二人は、このようにわき道にそれてから、また主題に戻り、学術的方法の10個の要点をかかげている。

 

1.       主張の典拠資料がどの程度信頼できるのか。否定派は事実や数字を引用するにあたっては、まったく信頼できるように見えるが、丹念に検証してみると、細かい事実が歪曲されていたり、文脈から外れていたりすることが多い。

2.       この典拠資料が、きわめて誇張された別の主張を作り出したのではないか。もしもある人物が、以前に、事実を拡大解釈したことがあるとすれば、そのことで、この人物の信頼性は明らかに低くなる。…

3.       別の典拠資料が主張を検証してきたか。典型的なことであるが、否定派は、検証されていないか、別の否定派によってだけから検証された説を唱えている。…外部による検証は、正しい学問と正しい歴史にとって決定的に必要である。

4.       主張が、世界についてわれわれの知っていることとどのように合致しているのか、その主張はどのように作用しているのか。

5.       説の提唱者が、自説を覆してしまうような証拠を認めずに、ただ自説を確証するような証拠だけを捜し求めていないか。これは、「確証的偏見」、すなわち、自説を確証する証拠を捜し求め、自説を否定する証拠を拒もうとする傾向として知られている態度である。…

6.       明白な証拠がない場合、証拠の優位性が説の提唱者の結論や、それと異なる結論に収斂していないか。否定派は、結論に収斂する証拠を求めていない。自分たちのイデオロギーに合致する証拠を捜し求めている。たとえば、アウシュヴィッツのガス処刑についてはさまざまな目撃証言が存在するが、われわれは一貫して、何が起ったのかを明確にするような話の核心を捜し求めている。これとは逆に、否定派は、目撃証言の中の些細な矛盾点を取り上げて、これを拡大解釈し、話自体を否定する変則的な事柄とみなしている。否定派は、証拠を全体として考察するのではなく、自分たちの観点を補強するような細部に焦点をあてている。

7.       説の提唱者は、広く受け入れられている理性の法則と研究方法を使っているのか、それとも、望ましい結論を導くものだけを使っているのか。

8.       説の提唱者は、観察された現象に関して、既存の説明をただ否定するのではなく、異なった説明を提供してきたか。…

9.       説の提唱者が新しい説明を提供したとすれば、それは、旧来の説明と同じように多くの現象を説明しているか。…

10.   説の提唱者の個人的な信念や偏見が結論を生み出していないか、また、その逆ではないか248250頁)。

 

そして、シェルマーとグロブマンによると、修正主義者の振る舞いは次のようなものであるという。

 

「否定派による歴史的事実の選択には、いつも信憑性が欠けている。彼らの主張の多くは乱暴である。その主張が他の典拠資料によって検証されることはほとんどない。たとえ検証されても、その典拠資料は近親相姦的である。否定派が自説を否定することはほとんどない。むしろ、自説を確証する証拠だけを捜し求めている。彼らは歴史研究の一般的なルールにしたがっておらず、歴史的データを説明するにあたって、代替可能な説をまったく唱えない。したがって、自分たちの存在しない理論(ママ)のためにだけ、「証拠を収斂すること」ができる。最後に、証拠の優位性によって明らかにしたように、ホロコースト否定派の個人的な信念と偏見こそが彼らの結論を導き出している。」(251頁)。

 

 シェルマーとグロブマンは「証拠の優位性によって」研究を進めたと述べているが、その研究こそが、彼らの方法論の本質を明らかにしている。しかし、この論点の核心に入るまえに、一般的な考察を順序だてて進めておこう。

 まず、シェルマーとグロブマンの研究は、特定の修正主義者とその議論だけを選別することで、修正主義の全体像を切り刻み、歪曲している。したがって、二人の研究は、二人のあげている第1点にあてはまるのである。この二人は、研究を進めるにあたって、定説派の歴史家が採用し、修正主義的歴史家が採用しなかったとされる「証拠の収斂」という魔術的な公式を採用した。この公式を発明したのは、アーヴィング・リップシュタット裁判で『ペルト報告』として知られるようになる専門家報告を提出したペルトであった。ペルトは、殺人ガス室でユダヤ人が絶滅された証拠が存在しないので、いわゆる「それを示唆するもの」(プレサックのも含む)を集めた。そして、それらをこっそりと「証拠」に格上げし、「証拠の収斂」という概念を発明した。しかし、これは詐欺行為に他ならない。

 私は、シェルマーとグロブマンが例証としてあげている、アウシュヴィッツについての「証拠の収斂」を検証してみた。二人によると、すべての目撃証言が「硬い核」を持っており、それは、殺人ガス処刑の実在性に収斂する。一方、修正主義的歴史家は、証言全体を破壊するために、「些細な矛盾」や「些事」を攻撃しているというのである。

 まず、シェルマーとグロブマンや大半の御用史家は、これらの目撃証言のテキスト全体を無視し、特定の事柄だけを抽出し[6]、注意深く証言のテキストを選別し、証言がはらんでいる矛盾をすべて追放することによって、幻の「収斂」を作り出している。

 G. ライトリンガーの事例がこの「収斂」の典型である。彼は、ビルケナウでの「殺人ガス処刑」を描くにあたって、次のような証言に依拠している。

 

a)                死体を炉に運ぶ「貨車」についてのアダ・ビムコ;

b)                「ガス処刑手順」についてのミクロス・ニーシュリ;

c)                ガス室の排出についてC. S. ベンデル[7]

 

 ライトリンガーの記述を検証してみると、すべての証人が同じ建物と同じ犯罪を記しているかのように見えるが、実際には非常に異なっている。アダ・ビムコは焼却棟に足を踏み入れたことはない。彼女は、誰かが焼却棟を訪問したときの空想物語を作り上げた。すなわち、誰かが、「ガスの入った2つの大きなボンベ」を備えたガス室と炉室に直接つながる線路を「目撃した」というのである[8]。事実、情報を提供されていない段階での「目撃者」は、殺人ガス処刑がメタンのようなガスを使って行なわれた(それゆえ、2つのボンベを発明している)、そして、ヴルバー・ヴェツラー報告にしたがって、狭軌の線路が「ガス室」から「炉室」にまで走っていたと思っていた[9]。しかし、実際には、(定説派の歴史学が殺人ガスが存在したと考えている)ビルケナウの焼却棟には、焼却炉につながる線路と小さな貨車などは存在しなかった。それゆえ、彼らの話は、まったくの虚偽証言である[10]

 ニーシュリとベンデルは、ビルケナウ自称「特別労務班員」[11]であり、同じ時期に同じ場所で暮らしていたという。そして、最初は、ビルケナウの焼却棟UとVの「ガス室」の大きさを30×7×2.41×200m[12]としていた。その後、2番目のいわゆる目撃者ベンデルは、この部屋を、長さ10m、幅4m、高さ1.60mとしている[13]。この部屋の大きさについては、2つの証言にはこのような食い違いがあるが、これは些細な「些事」にすぎないのであろうか。

 ニーシュリは、まったくのでっち上げであったIGファルベン裁判での宣誓証言となる一連の記事を発明し、それをハンガリーの新聞Világに公表している事実はどうなのか[14]。これも「些事」なのであろうか。

 私はこの問題に関係する研究の中で、歴史的偽造の証拠を提出してきたが、この歴史的偽造ついてはどうなのか[15]。これも「些事」なのであろうか。

 もう1つの虚偽の「収斂」の事例は、「ガス処刑」のプロセスを描いた「目撃証人」ミューラーとニーシュリである。ここでは、ミューラーが(1961年ミュンヘンQuick誌にドイツ語訳の「収容所医師の日記」として発表されたものを利用して)ニーシュリを盗用している。ニーシュリの話では、「殺人ガス処刑」で使われたチクロンBは塩素から構成されており、このために、空気よりも重いものとなっている[16]。たしかに、ここでは、「収斂」が行なわれているが、それは嘘の収斂である。もう1つの嘘の「収斂」の事例は、「殺人ガス室」にチクロンBを投下したとされるいわゆる針金網装置についての「大げさな話」である。これは、M. クラが製造し、H. タウバーが「目撃した」とされるものであるが、まったく実在しない装置である[17]。このようにして、「証拠の収斂」が偽造されているのである。その他の事例については後述する。

 シェルマーとグロブマンの方法論的原則の第2点は、「もしもある人物が、以前に、事実を拡大解釈したことがあるとすれば、そのことで、この人物の信頼性は明らかに低くなる」というものである。言い換えるならば、ある人物が嘘つきであるならば、この人物は信用できないということである。しかし、御用史家は、自分たち目撃証人に対してはこの原則を適用していない。アウシュヴィッツの目撃証人に関していえば、私は、ビルケナウの焼却炉について真実を語った人物は誰もいない、もう一度強調しておくが、一人もいないと、疑問の余地なく断言する。それだけではない、目撃証人全員が、D. パイシコヴィチ(焼却には4分かかった!)[18]S. ヤンコフスキ別名A. ファインジルベルク(各炉室では12体が一時に焼却された!)[19]、ニーシュリ(ビルケナウの焼却棟の処理能力は120000体であった!)[20]というようなきわめて馬鹿げた話から始まって、このシステムの方法と焼却能力について、恥知らずにも偽証し、嘘をつき続けてきた。

 典拠資料についてはどうであろうか。シェルマーとグロブマンは300頁以上の本の中で、すべての修正主義者のすべてのテーゼに反駁したと主張しているだけではなく、「ホロコースト」が実際に起ったことも明らかにしたと主張している。しかし、この二人は、こと証言に関する限り、二次的な典拠資料を信頼しており、文書資料に関しては、わずか4つを引用しているにすぎない。

 シェルマーとグロブマンの方法論によると、典拠資料を検証する必要があるのだから、この二人は自分たちの典拠資料をチェックしたはずである。では、検証してみよう。

 二人は107頁で、いわゆる「1005作戦」(これについて詳しくは第33節)との関連で、SS大佐ポール・ブローベルのことに触れており、資料PS-3197272頁の注20)を引いているが、正しい典拠番号はNo-3947で、1947618日のポール・ブローベル供述書である。

 シェルマーとグロブマンは175頁で間違ったことを述べている。

 

19451126日、最初のニュルンベルク裁判で、ナチスの医師ヴィルヘルム・ヘッテル(ママ)博士が証言した…」。

 

 実際には、ヴィルヘルム・ヘットルがニュルンベルクで証言したことはない。二人は、19451126日に作成された、たんなる「供述書」(277頁注5に指摘しているように、PS-2738)を「証言」と取り違えたのである。

 二人は186頁で、総督府長官ハンス・フランクの演説を1940107日としている。そして、その典拠をPS-3363278頁注28)としている。

 しかし、実際には、この演説(この問題については第37/1節で立ち戻ることとする)は19401220日に行なわれたのであり、実際の文書資料はPS-2233である。

 シェルマーとグロブマンは194頁で、19421229日付のヒムラーからヒトラーあての報告があり、その典拠を「N.D. 1120、検事側展示資料237」(279頁の注47)としている。実際には、これは資料NO-511である。

 これが、シェルマーとグロブマンが典拠資料を検証するという義務を尊重しているやり方である。

 この二人は、自分たちの十戒の第4点を守っていないが、そのことについていえば、彼らは次のように述べている。

 

「ユダヤ人が、ドイツからの補償とイスラエルへのアメリカ人の支持を引き出すために、どのようにしてホロコースト史をでっち上げてきたかということについての否定派の凝った陰謀理論。」

 

 その前には、シェルマーとグロブマンは、「否定派のある人々」は次のように主張していると書いている。

 

「戦争補償を通じてイスラエル国家を財政的に支援するために、戦時中のユダヤ人の苦難を過大評価するシオニストの陰謀が存在した」(106頁)

 

 シェルマーとグロブマンが、この馬鹿げた「大げさな話」の典拠資料にあげているのは、271頁の注13である。

 

P. Rassinier, Debunking the Genocide Myth: A Study of the Nazi Concentration Camps and the Alleged Extermination of European Jewry (Los Angeles: Noontide Press, 1978)を参照。」

 

 この注が引用頁をあげていないのは、この二人が「大げさな話」を発明したからである。それは、Pierre Hofstetterによる本書の序文の一節に他ならない。彼は次のように述べている。

 

「…シオニストのエスタブリッシュメントは600万という神話の上にイスラエル国家を建設してきた。」[21]シオニストは、この「神話」を作り上げたのではなく、そこから利益を享受したのである。

 

 フォーリソンに対しては、シェルマーとグロブマンはさらに不誠実である。59頁に次のように書いている。

 

「彼[フォーリソン]は1987年の著作の中で、イギリスのホロコースト史家マーチン・ギルバートが、この場合にそこでガス処刑されたユダヤ人の数についての目撃証言にマッチさせるためにガス室の大きさを間違えたと主張した。フォーリソンは、目撃証言がうっかり間違えること(この場合には誇張されている)があり、したがって、ギルバートの典拠資料が不正確であったことを考慮していないのである。」

 

 だから、これはフォーリソンの「へま」であるというのである。

 この二人の方法論的十戒の求めに応じて、検証してみよう。

 クルト・ゲルシュタインは194556日の報告の中で、700800名が25u、45㎥のガス室に押し込められたと記しているが[22]、これはなんと、1uあたり2832名となる。そして、マーチン・ギルバートは1979年にこう書いている。

 

「約100uの空間に700800名ほど。」[23]

 

 したがって、ギルバートは「ガス室」の大きさを「間違えた」のではなく、オリジナル資料にあるデータが馬鹿げたものであるがゆえに、そのデータを改竄したのである。そして、大きな「へま」をやらかしているのはこの二人なのである。第一に、彼らはギルバートの典拠資料を検証していない、第二に、自分たちの使った別の典拠資料から「大げさな話」を発明しているからである。

 二人のテキストを読みすすめてみよう。

 

「彼は、有名なゲルシュタイン文書の分析にあたっても、同じようなへまをやらかしている。クルト・ゲルシュタインは、害虫駆除および殺人に使用されたチクロンBガスの発注にかかわったSS将校であり、戦後獄中で死ぬ前に、この燻蒸殺虫剤が殺人目的で使われたことについて証言している。フォーリソンたちは、彼の自白の矛盾を捜し求め、たとえば、ガス室の押し込められた犠牲者の数は物理的にありえないと論じた。この場合、フォーリソンが算術の根拠としたのは、地下鉄の中での快適な状態を作り出すのにふさわしい乗客の数であった。その後、(否定派も含めて)その他の人々は、彼の算術を否定している」(5960頁)。

 

 この記述の典拠はヴィダル・ナケの『記憶の暗殺者』(1992年)6574頁にあるとされている(267頁注65)。しかし、実際には、この本には、このように馬鹿げた「大げさな話」の痕跡すらない。シェルマーとグロブマンが発明したのである。この二人は、自分たちがゲルシュタイン文書から引用した同じテキストについてへまをやらかしていることに気づいてもいない。1uあたり2832名を「ガス室」に押し込むことはできないことを論証するのに、一体誰が、地下鉄の中の状態と比較しなくてはならないと考えるであろうか。ギルバートもユダヤ人歴史家のポリャーコフもこのことを直感的に理解していたからこそ、ゲルシュタインのデータを改竄したのである[24]

 しかし、修正主義の反対者の方法が常軌を逸しているのは、1つの分野に限らない。以下は、シェルマーとグロブマンがあげている別の事例である。

 二人は、1993227日、マーク・ウェーバーが「サイモン・ヴィーゼンタール・センターのだまし作戦の犠牲者」となったと書いている。

 

「この作戦では、ロン・フューレイと称する研究者ヤーロン・スヴォレイが、カフェでウェーバーと会い、トリックにかけてネオ・ナチスの正体を暴露させるために作られたThe Right Way誌について話し合った」(4647頁)。

 

 ということは、有名なサイモン・ヴィーゼンタール・センターはごまかしと嘘にかかわっていたということである。これと符合するように、『歴史の否定』の著者の一人アレックス・グロブマンは(ブック・カバーによると)「サイモン・ヴィーゼンタール・センター年報の編集長」なのである。

 

 2番目の事例は、ユダヤ人修正主義者であったデイヴィッド・コールに関するものである。1998年、ロバート・ニューマンは、有名なユダヤ防衛連盟のウェッブ・ページに「デイヴィッド・コール:恐るべき裏切り者」と題する声明を発表した。それは、コールの命にかかわるものであった。コールはこの事態を完全に理解し(彼は、「誰かが自分を探し出して、射殺するだろうとひどくおびえた」)、すべてを撤回した(7273頁)。

 嘘とごまかしに、脅迫が付け加えられた。それも街のならず者からではなく、有名な[!]ユダヤ人団体からである。

 

 

2

ガス室の「証拠の収斂」

A)「証拠の収斂」の6つの連鎖

 第6章はおもにアウシュヴィッツをあつかっているが、マイダネク、マウトハウゼンも入っている。この二人は、「ガス室と焼却棟が虐殺のために使われたことを証明した」と称している(126頁)。6つの証拠を提示し、二人の話では、これらは「そのような結論に収斂する」(128頁)というのである。

 これらの「証拠」を検証してみよう。

 

1.       文書資料―チクロンB(多孔性の土の丸薬に含まれたシアン化水素の商標)の発注書、建築青写真、ガス室と焼却棟の建設資材の発注書

2.       いくつかの収容所のガス室の壁に残るチクロンBガスの痕跡[ママ!]

3.       目撃証言―生存者の証言、ユダヤ人特別労務班員の日誌、看守や所長の自白

4.       地上写真―収容所だけではなく、焼却されている死体の写真(秘密に撮影され、アウシュヴィッツから持ち出された写真)

5.       航空写真―囚人がガス室/焼却棟建物に向かっている様子を示しており、ガス室と焼却棟の構造を確証する地上写真と合致しているもの

6.       上記の証拠と照らし合わせて検証された収容所の現存の廃墟127128頁)。

 

チクロンBの発注については、この二人は何も語っていない。133頁で、「チクロンBガスの発注書」という文句を繰り返しているにすぎない。なんと、これが彼らの「証拠の収斂」なのである。しかし、たとえ彼らの議論がもっとうまく構成されたものであったとしても(そのようなことができるはずがないが)、この「証拠」はまったく無意味にすぎない。ドイツの強制収容所では、チクロンBは広く使われた殺菌駆除剤であったので、どのようにしたら、この通常の殺虫剤が殺人目的で使われたと推論することができるのであろうか。たとえば、シェルマーとグロブマンは、「チクロンBガスの発注に関与した」(59頁)クルト・ゲルシュタインに立ち戻って、アウシュヴィッツに1185kg、オラニエンブルクに1185kg、合計1944216日から331日まで2370kgのチクロンBを供給したことに関する、彼の名前における、デゲシュ社の12の発送状を提示している[25]。オラニエンブルク(ザクセンハウゼン)では、チクロンBを使った殺人ガス室で大量絶滅があったと主張しているものは誰もいない。だとすれば、アウシュヴィッツへのチクロンBの供給が大量絶滅の「証拠」であると、一体どのようにして推論できるのであろうか。

この二人は、「建築青写真、ガス室と焼却棟の建設資材の発注書」――意図的にあいまいな文句となっている――についても何も語っていない。殺人ガス処刑室に関する現存資料は虚偽であることを遠まわしにほのめかしているからである。焼却炉については、大量の文書資料があるが、それがガス処刑された人々の焼却に使われたことを示す証拠は存在しない。むしろ、シェルマーとグロブマンの研究からは、逆の結論が明白に浮かび出てくる。すなわち、石炭供給量も炉室の耐火煉瓦の耐久性も、自然死した登録囚人の死体の焼却数に合致していること[26]である。そして、これこそが、シェルマーとグロブマンの沈黙している殺人ガス室の非実在性に関する証拠の収斂の一つなのである。

「チクロンBガスの痕跡」については後述しよう。

御用史家が「証言の収斂」を作り出すやり方にはいろいろなものがあるが、その第一は、証言から一つの文だけを取り出して、その他の馬鹿げた文には沈黙を守るというやり方である。このようなやり方は、二人の方法論的な十戒によると、信憑性を低め、シェルマーとグロブマンを信頼できない人物とする。第二は、このような証言に含まれている、本質的問題についてのひどい相互矛盾を黙って見過ごしてしまうことである。

別の事例の虚偽の「収斂」、すなわち「焼却壕」についての虚偽の「収斂」を見ておこう。

「焼却されている死体」を写しているものを含むこれらの「地上写真」は、殺人ガス室での「大量絶滅」について何も証明していない。すでに別のところで明らかにしたように[27]、ビルケナウで戸外の死体焼却が行なわれたのは、焼却棟が一時的に停止したとき、焼却炉の石炭が不足していたときのことであった。シェルマーとグロブマンがなにげなしに「証拠」としてあげている事例は、これにあてはまらない。航空写真も検証すべきである。

 

B)アウシュヴィッツのガス室

1)「チクロンBの痕跡」

 シェルマーとグロブマンはこの「証拠」を扱うにあたって、「チクロンBの痕跡」(129頁)という用語を使っている。すでに何回も指摘しておいたように、この馬鹿げた用語は、この問題についての用語法に無知なために生まれている。実際には、「チクロンBの痕跡」とは、まったく別の事柄のシアン化合物の痕跡のことである。この問題についてのもっとも権威のある研究者はゲルマール・ルドルフである。彼は専門的化学者であり、アウシュヴィッツの「ガス室」に関するきわめて詳細な科学的研究書をあらわしている[28]。この研究は、アウシュヴィッツの殺菌駆除システム施設(第1章)、プロシアン・ブルー(鉄化シアン)の生成と安定性(第2章)、シアン化水素を使った殺菌駆除ガス処理手順(第3章)に関する諸問題を検証している。さらに、ルドルフは、ビルケナウの殺菌駆除ガス室、「殺人ガス室」からさまざまなサンプルを集め、化学的分析を行なった。その結果は、前者(BW5bの殺菌駆除ガス室)からは最大13500mg/kgが、後者(焼却棟Uの死体安置室Tすなわち死体安置室)からは6.7mg/kgが検出された。この結果は、それ以前の化学報告の結果とともに、第4章に公表されている。ゲルマール・ルドルフは、結論を出したのちに(第4章)、自分の結論とは反対の、殺人ガス室に関する報告に完璧に反駁している。(第4章)

 シェルマーとグロブマンは、ルドルフの本質的研究を、一組の意味のない引用で片付け、さらには、彼の姓RudolfのつづりをRudolphと誤記している。二人は、欠点を抱えざるをない予備的な研究(ロイヒター報告)ときわめて化学的な本質的研究とのあいだで、前者のほうに話を集中し、後者については黙って見過ごしている。しかし、シェルマーとグロブマンはロイヒター報告を扱うにあたっても、この問題の解決に少しでも能力を持っている人であれば、首をかしげてしまうような議論を展開している。

 シェルマーとグロブマンは131頁で次のように書いている。

 

「フォーリソンは、燻蒸措置を受けた普通の建物にもガス室にもチクロンBの痕跡があると指摘して、チクロンBの痕跡はガス室が殺人目的で使われたことをまったく証明していないと結論している。しかし、薬剤師で強制収容所の専門家であるプレサックによると、建物と死体安置室は通常、固形(石灰、塩化石灰)であれ、液体(漂白剤、クレゾール)であれ、ガス(フォルムアルデヒド、硫黄無水石膏)であれ、消毒剤で殺菌駆除されるのであるから、フォーリソンの弁護は無意味である」(131頁、強調――筆者)。

 

 ここに「無意味な」ものがあるとすると、まさしくこのような議論である。フォーリソンは「殺菌駆除ガス室」と書いているが、彼の意味しているところは「殺菌駆除処理を行なうガス室」のことである。二人の御用史家は、言葉をもてあそぶことで、「混乱した証拠」を作り出しているのである。

 このような「証拠」を作り出すにあたって、よからぬ考え方は存在しない。たとえば、ダヌータ・チェクは『アウシュヴィッツ・カレンダー』の中で、チクロンBを使った殺菌駆除[もしくは害虫駆除]をさすのに「殺菌駆除」という用語を使っているが[29]、これが[無意味である]と述べた定説派の歴史家は一人もいないからである。

 

2)プロシアン・ブルーの溶解性

 この二人は132頁で、「殺人ガス室」の廃墟は「半世紀以上も風雨にさらされてきた」と述べている。その結果、壁に生成したプロシアン・ブルーは消散してしまったというのである。そして、二人はコールの議論に立ち戻る。

 

コールは「現存の廃墟が風雨にさらされていたことを認めているが、マイダネクの煉瓦ガス室の外壁――ナチスはここに衣服や毛布を立てかけて、ガス残余物を取り除くために、それらをたたいた――には、チクロンBの青いしみがなぜ残っているのかという疑問を抱いている」(132頁)。

 

 そして、二人は次のようにコメントしている。

 

「これらの青いしみは、アウシュヴィッツでのように、風雨にさらされて流されなかったのであろうか。コールの疑問は当然のように見えるが、マイダネクを訪れてみれば、煉瓦の外壁の青いしみが少量であったことがわかる。さらに、軒が煉瓦を雨と雪から守っていた。だから、マイダネクの煉瓦は、アウシュヴィッツの瓦礫のように風雨にさらされていなかったのである」(132頁)。

 

 マイダネクの「入浴・殺菌駆除施設T」の背後の2つの殺菌駆除室の外壁にあるプロシアン・ブルーのしみが小さなものであることは事実である。しかし、ナチスがこれらの壁に衣服と毛布を立てかけて、ガス残余物を取り除くために、これらをたたいたという話は、虚偽であるばかりではなく、矛盾している。なぜなら、この二人は、この2つの施設が「囚人のガス処刑という緊急の目的のために」(163頁)存在していたと主張しているからである。この問題については後述することとする。

 さらに、問題の壁が軒や天蓋で保護されていた(二人の考えでは数十年間、そうでなければ、彼らの議論は無意味となる)というのも虚偽である。この軒は実際には、収容所が19447月に解放されたときすでに解体状態にあり、問題の壁はすでに風雨にさらされていたのであり[30]、その状態で今日にまで至っている。

 しかし、この二人に回答するには、彼らが語っていることよりも、語っていないことの方が重要である。まさにビルケナウの焼却棟UとVの廃墟から300メートルほど離れた地点に、BW5bの殺菌駆除ガス室の2つの外壁(北と南)があり、そこには大量のプロシアン・ブルーのしみが残っている(BW5aの殺菌駆除ガス室の壁よりは量的には少ないが)。このことについては、すでにプレサックが指摘しており、写真までとっている[31]。しかし、二人はこの件については沈黙している。したがって、この二人は、自分たちの根拠のない仮説を反駁してしまう証拠を意図的に隠しているだけではなく、いんちきの証拠で自分たちの仮説を立証しようとしているのである。

 

3)消えたドアと「鍵」

 シェルマーとグロブマンは132頁で、マウトハウゼンの「殺人ガス室」についての自分たちの扱い方を予想して、次のように書いている。

 

「疑問や仮説が証拠に裏付けられていないときには、それはたんなる修辞上のやり取りとなり、それに対する回答を必要としない。しかし、もう一つの事例として、マウトハウゼンのガス室のドアには鍵がないというコールの主張を考察しておこう。たしかに、既存のドアには鍵がない。しかし、これはオリジナルのドアではないので、関係ないことである。この事実を発見するためにしたことは尋ねることであった。」

 

 あとで、二人は「ガス室のオリジナルのドアは博物館にある」(168頁)と付け加えている。

 したがって、ガス室に通じる「その」ドア<単数>はオリジナルではなく、オリジナルは「博物館に」あり、そのことを知るには、「尋ねる」だけでよいというわけである。すでに見てきたように、シェルマーとグロブマンは、修正主義者の典拠資料の信憑性を詳しく分析したいという希望を表明していたのであるが、ここでは、何とまったく信頼できる典拠資料を引用しているのである。

 この二人もマイダネクの「ガス室」を訪問している(彼らが撮影したガス室の写真の1つを掲載している)。しかし、彼らの観察力は明敏ではなく、この建物には二つのドアがあることに気づいていないことも指摘しておかなくてはならない。もしも気づいていれば、建物に通じる「その」ドア<単数>はオリジナルではないなどと書くはずがないからである。「証拠の裏づけがなく」、「修辞上のやり取り」にすぎなくなってしまった断定の典型である。コールは、ガス室には「鍵」があったと真面目に信じていたが、そのコールとまったく同じように、シェルマーとグロブマンもこの件について無知であることが、この「修辞上のやり取り」から判明する。実際には、ガス気密ドアは、ドアの金属部分の本体に付けられた金属板のレバーによって閉じられていたのであり、そのことはマイダネクの殺菌駆除室を見れば一目瞭然である。シェルマーとグロブマンもこれを見たことであろうし、167頁の図29の写真までも掲載しているのであるが、それがどのように作動するのかについて理解できなかった。

 

4)アウシュヴィッツの焼却棟Tの「再建」

 シェルマーとグロブマンは132頁で次のように書いている。

 

「コール、ロイヒター、フォーリソンが、アウシュヴィッツ(ポーランドの兵舎を改造したオリジナル収容所)の焼却棟Tのガス室のなかのチクロンBの残余物が絶滅のレベルには達していないという『発見』として提示している『証拠』はどうなのであろうか。注目すべきは、彼らは、この建物がオリジナルの資材と別の建物の資材を使って再建されたことに触れていないことである。だから、彼らが自分たちの研究で『実験調査した』ものが何であるか、まったくわからないのである。」

 

 ここでもシェルマーとグロブマンは虚偽の方法にうったえている。知ってのとおり、焼却棟Tは破壊されても、再建されてもいない。二人が引用しているドヴォルクとペルトの著作は(275頁の注35)、たしかに焼却棟Tは「再建された」と書いてはいるが、これが、煙突と2つの焼却炉の再建、死体安置室(「ガス室」)――破壊されていない――の天井に4つのチクロンBの投下口・穴を開けることで[32]、オリジナルの状態に戻したことを指していることは明らかである。さらに、二人は、この虚偽が露見してしまうのを避けるために、この本の典拠部分を364頁ではなく、「272頁から278頁」とすることで、「誤り」を重ねている。

 

5)再建されたけれどもオリジナルの「ガス室」

 

「デイヴィッド・コールは、自分のアウシュヴィッツ訪問のドキュメンタリーのなかで、自分は博物館長に、ガス室が再建されたものであり、したがって、無邪気な世の中の人々に押し付けられている『嘘』であると『自白』させたと断定している。これこそが、古典的な否定派の誇大広告であり、イデオロギー的な煽動である。ガイドから館長にいたるまで、ここのガス室が再建されたものであることを否定する人物はアウシュヴィッツにはいない。見学者は尋ねてみるだけでよい」(133頁)。

 

 そうかもしれないが、これは、この二人が1990年代末に収容所を訪問したときのころの話である。コールがアウシュヴィッツで記録を取っていたとき、1992年にはあてはまらない。シェルマーとグロブマンはこのことをよく知っているはずである、問題のヴィデオでは、コールは、アリシアという名前のガイドに「尋ねている」だけだからである。コールとアリシアの会話の本質的な部分は次のとおりである。

 

このガス室の前で、私はこの建物の信憑性についてアリシアに尋ねました。

 

コール:ここで、この建物についてもう一度お話しましょう。

アリシア:これは焼却棟/ガス室です。

コール:しかし、作り直されたのではないですか。

アリシア:オリジナルの状態にあります。

 

 アリシアは、ガス室がオリジナルの状態にあると明言しました。中に入ってから、とくに天井の穴について尋ねました。

 

コール:天井にある4つの穴もオリジナルなのですか。

アリシア:オリジナルです。この煙突からチクロンBが落とされました。[33]

 

 

 すでに1995年、博物館館長の民間従業員クリスティナ・オレクセイは、いわゆるガス室について、ジャーナリストのエリク・コナンに次のように述べている。

 

「当面のあいだ、私たちはそれを現在の状態のままにおいておくつもりです。見学者に詳しいことは話さないでしょう。非常に複雑だからです。」[34]

 

 この建物がオリジナル状態のガス室であると見学者に信じ込ませるために、ガイドはこの建物が(下手に)作り直されたものであるとは語る必要はないかのごとくである。ここにあるのは、「古典的な否定派の誇大広告」の事例ではなく、古典的なシェルマーとグロブマンの虚偽の議論の事例なのである。

(続く、注は最後に掲載する)

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