試訳:ジョン・ツィンマーマンと「アウシュヴィッツの死体処理」

予備的考察

カルロ・マットーニョ

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:200383

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Carlo Mattogno, John C. Zimmerman and "Body Disposal at Auschwitz" を試訳したものである。
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online: http://www.russgranata.com/jcz.html

 

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ジョン・C・ツィンマーマンは「アウシュヴィッツの死体処理」[1]と題する論文を発表したが、それは、アウシュヴィッツでの死体焼却に関する私の議論を反駁することを意図したものである。さらに、その論文の副題「ホロコースト否定の終焉」からも明確なように、決定的に反駁することを意図したものである。

 ツィンマーマンは私の研究「アウシュヴィッツとビルケナウの焼却炉」[2]を反駁しているが、私の研究に関しては、次のように書いている。

 

これはこの問題に関する決定的な否定派の議論となることを意図したようである」(2頁)。

 

 これは我が教授の幻想の一つにすぎない。彼が引用しているのはエルンスト・ガウス編集の『現代史の基礎』[3]という論文集にある私の論文「アウシュヴィッツの焼却炉」の翻訳である。

 この仕事は、約80頁の、テキストの総合(編集者による)であり、同時に技術者フランコ・ディアナの協力で1993年に編集した大きな作品の総合でもある[4]。ツィンマーマンは私を「削減」した咎で非難しているが、それは、この論文集が突然劇的に枚数を減らしたためである。

 私は1995年以降膨大な資料にアクセスすることができるようになったが、この仕事はまだ資料が限定されていた時期に生み出されたものである。それゆえ、「アウシュヴィッツとビルケナウの焼却炉」は、ツィンマーマンが信じているように、到着点ではなく、たんに出発点にすぎない。

 アウシュヴィッツの焼却に関する私の「決定的な」研究は、2巻本のI forni crematori di Auschwitz. Studio storico-tecnico, con la collaborazione del dott.ing. Franco Deanaであり、テキスト500頁、資料270、写真360で構成されている[5]

 ツィンマーマンの反論の大半は、この本の中で膨大な資料にもとづいて、すでに反駁しつくされている[6]

 実際には、我が教授は空クジを引いてしまっているので、彼は「反駁」をふたたびやり直さなくてはならない。しかし、私がツィンマーマン教授に紹介した仕事の中ですでに明らかになっていることをここで繰り返すことは、偶然ではないので、彼の課題はもっと困難になるであろう。

 ここでは、いくつかの予備的観察に限定する。

 

ツィンマーマンの能力

 

 最初に、「ラスベガス、ネヴァダ大学助教授」(1頁)と称するこの人物の能力を検証しておこう。いわゆるホロコースト問題に真剣に取り組みたがっている人物に第一に要求される資格は、ドイツ語の知識であるが、我が教授はドイツ語を知らないので、ドイツ語のテキストの解釈にあたっては、他人の翻訳を信頼している。事実、彼は次のように述べている。

 

「この研究で使われたドイツ語資料の翻訳にあたっては、ネヴァダ大学のジュディス・ジェンナーとカローラ・ラーブに感謝したい」(52頁)。

 

教授は、ヘブライ語とアラム語を知らずに、聖書の意味不明な文章を解釈したがっているようなものである。

これだけでもツィンマーマン教授を好事家とするに足る。

ツィンマーマンの情報は、歴史学的観点からは、大半がプレサック、ピペル、ペルト、チェクのような様々な文献を介した二次的で、フィルターのかかったものである。我が教授が知っているオリジナル資料は、ごく少数で、見当違いなものである。このような資料的無知から、どのような誤りが生まれたのか示していこう。

技術的観点からすると、ツィンマーマンは暗闇の中を歩いている。彼は、焼却炉全体や、とくにアウシュヴィッツの焼却炉の構造や機能についてわずかばかりの知識ももっておらず、まったく根拠のない憶測におちこみ、その憶測を神聖なる真理であるかのように提示している。このことは、適切な事例によって明らかにされることであろう。

方法論と職業的な誠実さについては、ツィンマーマンはまったく厄介な欠陥を明らかにしている。彼は、マットーニョが「削除と誤提示という否定派の一般的な戦術に基本的に基づいている」(2頁)――私に対する方法論的非難――と述べているが、ツィンマーマンの「反駁」がどれほど誠実であるのか検証しよう。

 

ツィンマーマンの偽造と詐欺

 

 航空写真の事例からはじめよう。

 まず、ツィンマーマンは、アウシュヴィッツの航空写真と地上写真が書物で公表されてから、私が考え方を修正したと憶測しているが、それは馬鹿げている。彼は好事家であるので、私も彼と同じように、文書館ではなく書物に資料を求めていると考えているのである。

 私は、彼の言及するアウシュヴィッツ航空写真をすべて(彼がその存在も知らない写真も含めて)、および彼の言及する1989年からの地上写真をすべて所有している。

 私が特定な点に関する解釈について意見を変えたとすれば、それは、私の研究の進歩の結果であって、のちに出版された書物が私の所有する資料を公表したためではない。

 ツィンマーマンの「決定的反駁」をもっと詳しく検証しよう。

§1.ツィンマーマンは、次のように書いている。

 

「マットーニョは、531日の写真が公表された翌年の1995年に、煙は焼却されている死体からではなく、おそらくゴミ箱から出ているのであろうと主張している」(41頁)。

 

 ツィンマーマンは資料として私の小冊子Auschwitz Holocaust Revisionist Jean-Claude Pressac: The "Gassed" People of Auschwitz: Pressac's New Revisions[7]を挙げている。

 これは虚偽である。小冊子の中でもその他の場所でもそのように書いたことはない。

 

[オンラインのインターネット版には、「1944531日の航空写真には、焼却棟X近くの広場から立ち上っている煙が写っているようであるが、それは、低レベルの燃焼空気の流れ込むことのできる戸外のコンテナーの中のゴミ焼却炉のものであろう。壕での焼却は、通風不足のために焼却がきわめて遅いが、壕での焼却についての航空写真の証拠はまったく存在しない」とある。]

 

§2.我が教授は「マットーニョは、この煙の存在についてまったく説明していない」(41頁)と述べている。これも虚偽である。私の著作My Banned Holocaust Interview[8]43頁の「説明」をご覧いただきたい。

 

§3.ツィンマーマンは、写真の説明として、「制服を着た14名の特別労務班員を見ることができる」(45頁)と書いている。

 これも虚偽である。問題の写真には、8名(確実に囚人)しか写っておらず、左側の9番目の人物はおそらく看守であろう。My Banned Holocaust Interview4142頁)ですでに説明したように、この写真は、「ガス処刑された人々」の大量焼却を示していないだけではなく、この物語を反駁している。この嘘は、フィリップ・ミューラーが写真には「25名の特別労務班員」が写っているとしている話にまで発展している(46頁)。

 

§4.さらに、ツィンマーマンは「マットーニョはこの写真についてまったく言及していない」(46頁)と述べているが、My Banned Holocaust Interview 4144頁)を見ていただきたい。

 

§5.彼はさらに、次のように述べている。

 

「マットーニョは、赤いブンカーと白いブンカーはドイツの資料にはその存在を発見されていない、それらは『戦後の証人によって発明されてきた』と読者に断言している」(42頁)。

 

 ここでも、我が有徳な教授は私の主張を偽造している。実際には、私は次のように書いているのである。

 

「ブンカー12についてのプレサックの主張を検証する以前は、この呼称(「赤い家」と「白い家」のような呼称)は、ドイツの資料に中でも、当時のアウシュヴィッツの地下抵抗運動の報告の中でも発見されていない。それは、戦後の証人によって作られてきた。」[9]

 

 私は呼称について触れているのに、ツィンマーマンは私が施設自体に触れていると述べているのである。

 

§6. 同じ頁で、我が教授は、「彼(マーク・ファン・アルスチン)は白いブンカー地区での3つの焼却壕を認めている(マットーニョは4つあったと述べている)」と述べて、私の主張を偽造している。

 実際に私が言及しているのは、ビルケナウのBV地区から約200メートル西にある土で覆われた4つの大量埋葬地である。まったく「焼却壕」、「戸外の埋葬地」、「白いブンカー地区」の埋葬地については語っていない。ツィンマーマンの詐欺にすぎない。

 

§7. 44頁で、私がフレーリヒ(Fröhlich)のZur Gesundheitspflege auf den Sclachtfeldernという論文を引用している個所について、ツィンマーマンは、次のように書いている。

 

マットーニョは、「戸外の大量埋葬地で兵士の死体を処理し、それをタールで満たすという試みは『死体の最上部が炭と化し、中間部が焦げ、最下部には何も影響しなかった結果となった』という1872年のドイツの軍事雑誌に掲載されたフローリヒFrohlich(ママ)の研究を引用している。マットーニョはこの研究者がガソリンを使った壕での効果的な死体処理の指針を提供していたことを無視している。フレーリヒは、埋葬地はタールの壕のガソリンで満たされなくてはならないと記している。3時間後、250300の死体が処理される。」

 

 しかし、引用されている頁には、実際には、軍医フレーリヒは、セダンの戦いの後で、化学者のクレツールが行なった殺菌駆除措置、とくに、彼が達成したと主張している結果を批判しているのである。クレツールは大量埋葬地を開け、液体タールを注ぎ、火をつけた。フレーリヒは、このようなやり方では、埋葬地のそこにある死体は実際にはほとんど影響を受けないと批判しているのである。

 ツィンマーマンが言及している(注2782つ文章のうちの1つは、クレツールの著作の関するフレーリヒの引用に関してであるが、彼が披瀝している「指針」は軍医を典型的に批判しているものである。さらに、この文章には「ガソリン」はまったく言及されていない。クレツールが言及している(タール以外の)可燃性の唯一の液体は、ミネラル・オイル(Steinöl)であるが、それはタールに着火するものにすぎない。

 

「その後、私は、ミネラル・オイルに浸したストローでタールに着火した。」[10]

 

 もう1つの文章は、死体はタールとミネラル・オイル(Steinöl)に浸されて、火をつけられたと述べているベルギーの記述の中に登場する手紙からの引用である[11]

 しかし、フレーリヒ論文には「ガソリン」はまったく言及されていない。

 

§8. ツィンマーマンは、この歪曲に対して、もう一つのごまかしも付け加えている。彼は次のように記している。

 

1887年、19世後半から20世紀初頭にかけての死体処理の世界的な専門家であったフーゴ・エリクセン博士は、1814年の戦闘でのベルギー政府の死体処理について書いている。死体処理の責任者はクレツールという人物であった。」

 

 実際には、ツィンマーマンは同じ資料――クレツールの主張――をあたかも別々の資料のように扱っている。また、我が哀れな教授は歴史年代を混同してしまっている。クレツールの活動は、普仏戦争の時のことであり、1814年ではなく、1871年のことであった。

 また、ツィンマーマンは、焼却の世界的な専門家であるクレツールが、兵士の死体は「灯油で浸された」と述べていると言及している(44頁)。これも誤りである。クレツールは「ミネラル・オイル」についてだけを述べている。だから、我がツィンマーマン教授は、灯油とミネラル・オイルを区別することができない世界的な「専門家」に依拠していることになる。

 

§9.ツィンマーマンが上記のことから引き出している結論は、問題についての鈍感な無知の古典的な事例の始まりにすぎない。一方、彼は、次のように私を攻撃している。

 

「マットーニョのような否定派は、第二次大戦中のドイツが、19世紀初頭のヨーロッパ諸国の成果を模倣することもできなかったと人々に信じ込ませようとしている」(45頁)。

 

 私の回答はこうである。もしツィンマーマン教授が、この面で真剣に研究を重ねたとすれば、戦場での殺菌駆除活動が、死体の焼却ではなく、疫病の発生を防止するために死体の皮膚を完全に炭素化することであったことを知ったにちがいない。それゆえ、これはまったく別の問題なのである。もし我が教授がお望みならば、私の本の第110章に引用されているこの論文の冒頭を読むことで、自分の無知を埋めることができるであろう。

 

§10. ツィンマーマンは、次のように断言している。

 

「マットーニョは、6つのオリジナルな炉の最大焼却能力は、トップフ社の2炉室炉が1日に52体、1炉室で26体を焼却できることを示している別の収容所の証拠を知っていながら、1日に120体であると主張している」(4頁)。

 

 この場合でのツィンマーマンの歪曲は、このような焼却能力を可能としている要因を省略している点にある[12]。私は次のように述べている。

 

「常時稼働している炉の平均焼却時間は、通気システムの助けを借りれば、約40分の(炉室内)主要燃焼である(グーゼンの炉に関するデータ)。通気システムがなければ、平均焼却時間は、(炉室の燃焼能力を考慮すると)、(194011月1日の書簡での)プリュファー技師の話、および炉室での燃焼に関するケスラー技師が発表した表によると、60分である。」[13]

 

当然にも、ツィンマーマンは、この文章で私が言及している資料については触れていない。彼の熱力学的な妄想を完全に論破しているからである。

 

§11. ビルケナウの焼却棟Uが稼動し始めたのちにもブンカー2が稼動しつづけていたことを「明らかに」しようとするために、ツィンマーマンはごまかしの典型および邪悪な信仰のような議論を展開している。

 

「もう一つの有益な情報の断片は、1943613日の建設局報告である。それは、焼却棟Uのドアが『特別措置の遂行のために緊急必要であり、・・・同様に、受け入れ施設の窓、囚人宿舎[Häftlingsunterkünfte]用の5つ[バラック]のドアの完成が、同じ理由で緊急に必要である』と述べている。メモには、5つのバラックについての情報はない。しかしながら、ヘスが囚人のガス処刑が行なわれている地域の2つのブンカーのための5つのバラックについて回想録に記していることを思い起こしていただきたい。これは、1942715日の建設局のメモにある『特別措置』として言及されている同じ数である。19436月のメモにある5つのバラックは2つのブンカーのある地域の脱衣室のために使われていたものと同じものであろう。したがって、ブンカー2はハンガリー作戦が開始される以前からも使用されていたが、焼却棟が建設された以降にも、継続して使われ続けたことがわかる」(3637頁)。

 

第一に、ツィンマーマンは、1943113日付の「建設局長」(ビショフ)からアウシュヴィッツのドイツ装備工場への手紙を歪曲している[14]。さらに彼は、まったく根拠がないだけではなく、まったく馬鹿げている解釈をこの歪曲に付け加えている。この手紙に登場している「囚人のための5つの宿舎[15]を、いわゆる殺人ブンカーのための「脱衣バラック」と想定しているのである。この解釈の根拠は、なんと、引用資料とヘスの証言に「5」という数が登場していることにすぎない。

 さらに、ツィンマーマンはここでも、資料についての無知をさらけだしている。「1942715日の建設局メモには」、「囚人の特別措置と収容のための5つのバラック」の1つは、ボル村、ビルケナウの4km南の村のためと特定されているからである。

 

4つの囚人バラックがビルケナウに、1つの囚人収容バラックがボルに。」[16]

 

ということは、ボルには、ビルケナウのいわゆるガス処刑ブンカーの支局があったことになってしまうが?

 

§12. ツィンマーマンは、「1941年にアウシュヴィッツに登録された囚人の総数は知られていない」と書いているが、(彼のたびたび引用する)チェクの『カレンダー』は、1941年には17270名の『登録』囚人と9997名のソ連軍捕虜がいたと記していると書いている[17]

 

§13. 12頁でツィンマーマンは、次のように述べている。

 

「マットーニョとその他の否定派は、収容所が200000名に計画的に拡張されたことが新しい焼却棟の触媒となったとしばしば論じている。しかし、建設局が4つの焼却棟の建設について交渉し始めたのは19427月であり、200000名への計画的な拡張の証拠が最初に登場するのは、815日のことである」。

 

 ここにもツィンマーマンのもう一つのごまかしがある。ツィンマーマンが9頁に引用している1942821日の「書類記載Aktenvermerk」にはこうある(我が教授が参照しているプレサックの本の翻訳からの引用)。

 

「換気通風システムを備えた5つの3炉室炉を持つ第二の焼却棟の建設に関しては、資材の配給についての、すでに始まっている国家保安部との交渉結果を待たなくてはならない。」[18]

 

 すなわち、焼却棟Uの建設決定などまだなされていないのである。

 同じ資料には、2つの8炉室炉をモギリョーフからアウシュヴィッツに移すというプリュファーの提案が818日になされたという証拠がある。この提案(書面の隅の手書きノート)は824日に経済管理局によって受け入れられた。

 このことは、焼却棟WとXの炉室の数がこのときにはまだ決定されていなかったことを意味する。

 だから、ツィンマーマンは自分が嘘をついていることを知っているのである。

 収容所の人口に関して、ツィンマーマンの議論は、彼の主な情報源であるプレサックによって反駁されている。プレサックはこう書いている。

 

「ヒムラーは収容所が200000名の収容者に対応できるべきであると命令し、建設局は7月末には拡張された収容所の設計を完成した。」[19]

 

 この本のオリジナル版では、彼はもっと詳しく次のように述べている。

 

「ヒムラーとカムラーの命令で、ビルケナウ捕虜収容所の囚人の人員は200000名と定められたが、それは収容所の拡張と焼却能力の強化に対応したものであった。…7月末、60000の囚人を持つ5分の1の区画が南側の場所に合併され、その結果、収容所の収用人員は200000名となった」。[20]

 

 だから、ツィンマーマン教授によると、プレサックも否定派ということになるのである。

 

ツィンマーマンの歴史資料の無知

 

§14. ツィンマーマンは、「Bauleitungとして知られるアウシュヴィッツ建設局」と書いている(3頁)。彼は、論文全体でもアウシュヴィッツBauleitungと書いている。哀れな教授は、建設局が19411114日に中央建設局に昇格し[21]1945年の終戦まで中央建設局であったことをまったく知らない。

 

§15. 20頁で、ツィンマーマンは、歴史資料に関する無知の古典的な事例をもう一つ出している。

 1941714日のマウトハウゼンSS新建設局からのトップフ社への手紙――これについては、チェクの『カレンダー』の概要からだけ知っており、シュナーベルの『道徳なき権力』[22]に再掲載されたものの誤りを繰り返している――を引用したのちに、ツィンマーマンは次のように続けている。

 

「グーゼンの指示が出された同日、トップフ社の二人の技師は、2炉室炉が3時間のメンテナンス時間をもって20時間で6072(炉室ごとに3036)を焼却できると述べた。」

 

 彼の情報源は、プレサック論文「アウシュヴィッツの大量殺戮装置」である。

 しかし、我が哀れな教授は、引用されているプレサックの資料がシュナーベルの誤訳した同じ資料であるとは知らずに、別の資料であるとみなしている。

 

§16. ツィンマーマンは28頁でプレサックを介してタウバーを引用しながら、コメントなしで馬鹿げたことを繰り返している。すなわち、3炉室炉では、「炎は最初二つの横の炉室をめぐる」というのである。これは、私がすでに説明してきたように[23]、誤訳から始まっており[24]、技術的に偽りである[25]。ここから、我が教授ツィンマーマンが、焼却技術と資料に関する無理解を示している。

 

§17. ツィンマーマンは、「焼却棟の労働者ミエスラフ・モラヴァが次のように証言している」と述べている。

しかし、モラヴァからの証言はまったくない。我が教授は、チェクの『カレンダー』のあげている典拠資料を正しく解釈できないので、モラヴァとタウバーを混同してしまっているのである。

 

§18. ツィンマーマンは、「森の中にいる二つの施設[いわゆるビルケナウのブンカー]は、ドイツ人に完全に破壊され、まったく痕跡が残っていない」(3頁)と記している。しかし、我が教授は、ビルケナウの見学者が目にしているように、いわゆるブンカー2――土台と内部壁――が残っているという事実を無視している。

 

§19. 「特別措置」、「特別行動」という問題については、二次資料しか参照していないツィンマーマンは、まもなく『アウシュヴィッツの特別措置。起源と意味』として出版されるはずである私の研究を参照すべきである。ツィンマーマンが、プレサックやペルトの議論をオウムのように繰り返すことで修正主義者の議論を反駁できると考えているのならば、大きな誤りを犯している。我が哀れな教授は、修正主義者の議論に反駁するためには、どれほど困難な作業に直面しなくてはならないのか想像することすらできないのである。

 ここでは、ツィンマーマンの顕著な誤りだけを指摘しておく。

 9頁で、1942821日の「書類記載Aktenvermerk」について、次のように述べている。

 

「書簡は、これらの特別行動が『入浴施設』の中で行われていることを述べている。したがって、この単語が何を意味しているのか、まったく明瞭である。2頁の長いメモの中で、下線が引かれている唯一の個所である」。

 

 ツィンマーマンが(プレサックを介して)知っている文書では、「特別行動のための入浴施設」という表現はペンか鉛筆でたしかに下線が引かれている。しかし、たとえ、この件が非常に重要であるとしても、ツィンマーマンは、この表現に下線を引いたのは、まる10年間もこの文書を手元に持っていたポーランド人ではなく、ドイツ人であるとどのように推定したのであろうか。我がナイーブな教授は、モスクワの文書館にはこの文書の別のバージョンがあり(左の余白部に同じ手書きで署名がある)、そこでは、問題の表現には下線が引かれていないことを無視している[26]。ツィンマーマンが好事家であるもう一つの事例である。

 

§20. 9頁では、民間労働者に対するゲシュタポの「特別行動」について触れている19421218日のビショフのテレックスに関してコメントして、ツィンマーマンはプレサックの解釈[27]が妥当としながらも、次のように付け加えている。

 

「収容所当局が民間労働者の何名かを処刑することで例を作ろうとしていたということはまったくありうる。メモが『極秘』となっていることもこれによって説明できる」。

 

オリジナル・テキストは、"Sonderaktion der Gestapo bei samtlichen Zivilarbeitern"(すべての民間労働者に対するゲシュタポの特別行動)と述べており、「何名かの」のではなく「すべて」である。もしもツィンマーマンの解釈が正しければ、ゲシュタポはすべての民間労働者を処刑したことになる。

 しかし、ドイツ語を知らないいわゆるホロコースト専門家から何を期待できるであろうか。

 さらに、文書に「極秘」とつけられていることは重要ではない。例えば、"Vergasungskeller"という用語が登場している1943129日のビショフの手紙にはこの用語はまったく登場していないからである。

 

§21. 7頁では、ツィンマーマンの技術的および歴史資料的な無知の事例が再度登場している。彼は、次のように述べている。

 

「モギリョーフの焼却炉の推定能力は1日に3000体であった」。

 

我がナイーブな教授は、もともとHauptamt Haushalt und Bautenが注文していたトップフ社の4つの8炉室炉の能力を無視している。モギリョーフ炉は1つの8炉室炉の半分だけに限定されており、それゆえ4炉室なっている。

 1943628日の中央建設局の書簡にある馬鹿げた焼却能力を設定しても、これらの4炉室は24時間で384体を焼却できるだけである。そして、もし、3000体という能力がツィンマーマンの偽造の1つではなく、資料の曲解であるとしても、ツィンマーマンには批判能力の欠如という罪がある。彼はこの馬鹿げた嘘を真実であるかのように伝えているからである。

 

ツィンマーマンの技術的能力

 

§22. アウシュヴィッツの石炭炉での焼却過程の持続時間に関する私の議論に「反駁する」ために、ツィンマーマンは、1941926日から1112日のグーゼンの焼却棟で実行された焼却についての文書を提供している(21頁)。しかし、彼が、熱工学にまったく無知なために、何も理解していないのは驚くべきことではない。第一に、文書の最初の行には、Uhrすなわち「時」という記述があるが、このUhrが何の時間を指しているのかは、どこにも特定されていない。しかし、ツィンマーマン教授は、この行のデータは、焼却時間を指すものとしてしまっている。だが、これは根拠のない断定であり、技術的にも馬鹿げている。もしそうであれば、炉は、1時間につき343kgの割合で8分で1体を焼却できることになり[28]、一方、最大速度(30mmの水道管の人為的な最大通風による)は1時間90kg8分となり、これは我が教授にとっても現実的ではないであろう。彼は、この論文の冒頭で引用されている私の本の中で、Uhrというコラムが実際には何を指しているのかについて読んだのかもしれない。

1日の焼却(19411107日のそれ)にもとづく計算で[29]、ツィンマーマンは、「各炉は25.2分で1体を焼却することができる」と述べているが、これは資料的に根拠がなく、技術的にはまったく馬鹿げている。

 

§23. さらに、ツィンマーマンは次のように書いている。

 

46のビルケナウの炉を建設したトップフ社の技術者クルト・プリュファーは、19421115日の書簡の中で、ブッヘンヴァルト強制収容所に設置されるはずであった炉は以前に考えられたよりも3分の1以上の処理能力を持っていたと書いている」。

 

この情報源はプレサックの『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』である。

 ツィンマーマン教授はこう続けている

 

「残念なことに、彼は、どの数よりも3分の1多いのかを述べていない。しかし、同じ日に、彼は、5つの3炉室炉、すなわち15炉が24時間で800体を焼却することができると建設局に伝えている」(21頁)。

 

 この情報源はプレサックの「アウシュヴィッツの大量殺戮装置」であり、この中でフランスの歴史家は次のように述べている。

 

「ブッヘンヴァルトのデータをアウシュヴィッツに流用して、プリュファーはビルケナウの新しい焼却棟の5つの炉が24時間で800体を焼却できると結論した」[30]

 

 プレサックが言及している日付は、19411115日の書簡の日付と同じである"[Staatsarchiv] Weimar, 2/555a, letter Prüfer November 15, 1942."[31]

 だから、ツィンマーマンはまたもや、同じ資料を別の資料として引用していることになる。彼が資料操作に無知なことを考えると、よこしまな考えから出たものではないだろう。ただ、書簡のあて先を発明しているだけである(プリュファーは「建設局に伝えた」)。

 いわゆるプリュファーの「結論」(「プリュファーは・・・と結論した」)は、プレサックの発明にすぎない。彼がオリジナルのテキストと翻訳を発表している問題の書簡は[32]、数字についてはまったく言及していないからである。

 

§24. プレサックとツィンマーマンの想像を掻きたてたこの書簡には、「炉は、私がまったく予想していなかったほど、多くのことを成し遂げた」とある。プレサックとツィンマーマンはこの個所を生産高、出荷量すなわち焼却された死体の数と勝手に解釈しているが、これは実際に石炭消費量なのである。私の理解するところでは、この「成し遂げた」という用語は、効率の意味で解釈すべきであり、このことについては、この論文の中ですでに説明してきた。ツィンマーマンは、プリュファーのもともと予想していた石炭消費の節約についての熱力学的理由に反駁しようとしているが[33]、プレサックもツィンマーマンも問題の用語が炉の生産性を指している理由を明らかにしていない。このようなプレサックの偽造は、ツィンマーマンも25頁と27頁で行なっている似非示威的な議論に本質的に重要なものとなっている。

 

§25. 20頁でツィンマーマンは次のように断言している。

 

「レゲイスとロイヒターの主張とは逆に、トップフ社の炉はまる1日継続して稼動しうることが知られている」。

 

1941714日のトップフ社の書簡がこのことを示しているという。しかし、これは実際には炉を強制稼動させた場合についてであり、その場合には、たしかに24時間以上継続的に稼動させることは可能である。しかし、このように使用すれば、空気の燃焼を制限してしまう燃えカスを燃焼室から取り除かなければ、次第に、効率が低下し、最後には、稼動しなくなってしまうことであろう。ポーランド人専門家ローマン・ダヴィドフスキでさえも、ヘス裁判で、こう認めている

 

112時間2シフトでの継続的稼動、燃焼室からの燃えカスの除去とその他の様々な仕事のための1日につき3時間の休止、継続的な稼動の不可避的な中断」[34]

 

 プレサックも3時間の休止を認めている。この主張は論文「アウシュヴィッツの大量殺戮装置」にも登場している[35]。しかし、当然にもツィンマーマンはこれを無視している。

 だから、レゲイスとロイヒターたちが正しい。

 

§26. ツィンマーマンは、一連の非論理的な議論を使って、アウシュヴィッツの焼却棟の焼却能力が囚人の自然死亡率を上回っており、このことは、焼却棟が犯罪目的、すなわち大量絶滅のために計画・建設されたことを示しているということを自分なりに論証しようとしている。

 この論文の中で、私は、容赦なくツィンマーマンの技術的愚かさを示そうと思うが、一つの資料を言及するにとどめよう。それは1942710日の中央建設局長の書簡で、そこには、15炉室を持った焼却棟U、Vは30000の囚人に対して計画されており、したがって、炉室と囚人との比率は12000となる。ビルケナウの46炉室は、92000の囚人に対して計画されていたが、SSの最終計画では、ビルケナウ収容所には140000の囚人が収容されることになっていた。だから、70の炉室が必要であったのである。実際には、ビルケナウの炉室の数は、収容所の拡張計画に対しても不足していたのである[36]

 

§27. ツィンマーマンは、「炉の耐久性」問題に一節全体をあてている。

彼は、アウシュヴィッツの炉が、私が下記に引用したR. ヤコブシュケーター技師の論文に基づいて算出した1炉室ごとに3000名という数よりも、はるかに大量の死体を損傷を受けずに焼却することができたことを示したつもりでいる。ツィンマーマンは、次のように述べている。

 

1880年代末、2つの炉がパリ南部の焼却棟に設置された。これらの炉は、1年に5000体をあるいは炉室あたり2500体を処理するように設計されていた」(16頁)。

 

 これは私の議論の有効性を確証している。ツィンマーマンが言及しているのは、1889年にパリのピエール・ラシェーズ墓地に設置されたトイシュル・フラデ炉である。それは巨大な3階の構造をもっていた。1階は熱回収装置の保管庫、2階は焼却室、3階はガス発生装置であった。炉は、一つであり、一つの焼却室を持っていた[37]

 

§28. 読者への続き

 

「当時の指導的な焼却専門家アウグストゥス・コッブは焼却棟で働いている技術者から、毎月これらの炉では400ほどの死体が焼却されているにもかかわらず、その壁を丹念に検査しても、亀裂の跡はまったく残っていないことを学び、同じことが(イタリアの)ミラノの焼却棟の炉の壁にも適用された」(16頁)。

 

ツィンマーマンが提示している1月に400という数字は、虚偽である。その稼動の最初の5カ年間に、問題のトイシュル・フラデ炉が焼却したのは、1889年には491890年には1211891年には1341892年には1591893年には189で、5年間で合計652となり、1月で1011平均となる[38]

 1920年代末には、フランスで焼却棟の数が増え、焼却技術が各地に普及した。1926年には877の焼却があった。1927年には8611928年には9451929年には1118の焼却があった[39]。焼却がもっと普及していたドイツでは、18891893年には、合計で881が焼却され[40]1月で平均15である!

 ミラノの焼却棟に関しては、1874年から18846月までに、304の焼却があり、1月で平均3である![41]

 ごまかしはツィンマーマンによるものか、彼の典拠資料によるものであるかわからないが、このことはさして重要ではない。このテーマはまったくの虚偽である。

 

§29. ツィンマーマン教授は次のように続けている。

 

1893年に出版されたこれらの炉についての補足的な情報は、18891892年に、11852体がこれらの施設で焼却されたことを示している」(16頁)。

 

 しかし、ここにはもう一つのごまかしがある。前述したように、ツィンマーマンの指摘した時期には、ピエール・ラシェーズの炉では合計652体が焼却されている。だから、ツィンマーマンの挙げている虚偽の数字は実際の18倍なのである。

 焼却法がヨーロッパの中でもっとも普及していたドイツ全土では、18891893年に、合計881体が焼却され、[そして、ドイツ全土では]1年間に11000(ママ)という数字は49の焼却棟を使った1916年だけなのである[42]

 

§30. ツィンマーマンは、次のように勝ち誇って結論している。

 

「すでに見てきたように、ドイツは1930年代において焼却技術でヨーロッパのトップに立っていた。したがって、1940年代のドイツが半世紀前のフランスの炉よりも耐久性のある炉を持っていたと結論することは論理的であろう」(16頁)。

 

 ツィンマーマンのよこしまな考え方は、私が言及している論文が1941年のものであるために明らかである。市の主任技師であったルドルフ・ヤコブシュケーターは焼却の専門家であって、彼の論文は権威があり、信用できる資料である。この論文の中で、ヤコブシュケーターは次のように述べている。

 

3000体の焼却が、エルフルトの第二の電気式炉で行われたので、炉室は、その稼動効率にもとづいて、2000体だけの焼却に耐えられるだけであった。したがって、耐久性についての結論に到達することができる。建設会社は炉室につき4000体の耐用寿命を想定している」[43]

 

 それゆえ、194110月の時点で、焼却の分野で世界のトップに立っていたドイツの技術は、4000体の焼却に耐えることができる耐火炉室壁を開発できていなかったのである。

 ツィンマーマンは、1893年の虚偽のデータを使って1941年の実際のデータを否定しようとしているのである。彼のよこしまな考えのもう一つの証左である。

 1941年から今日まで、この分野での進歩は際立ったものではなかった。以下は、アメリカの会社Industrial Equipment & Engineering Coが自社の電気熱式Ener-Tek II炉について記述している文である。

 

Ener-Tek IIの建設で使われている耐火耐久資材は、非常に高い質のものであり、煉瓦の修復が必要となるまでに、数千の焼却を保証する。」

 

 ここで言及されているのは、「数千」であり、アウシュヴィッツの炉が「ガス処刑された人々」を焼却するのに必要な「数万」ではない。

 Ener-Tek IIの技術的な側面に関する資料は[44]、ロイヒター報告の中で紹介されているが、ツィンマーマンもそれをよく知っているにもかかわらず、自分の根拠のない説と矛盾するこのデータを無視している。

 

§31. ほぼ3200を焼却(炉室ごとに1600)したのちの、トップフ社のグーゼンの2炉室炉の耐火壁の耐久性に関する私の議論を「反駁」するために、ツィンマーマンは、次のように述べている。

 

「グーゼンの炉はもともと正しく建設されなかったのであろう」(15頁)。

 

これは、「トップフ社は焼却棟Wの炉が欠陥を持って作られていることを認めている」(1415頁)という単純な類似にもとづく根拠のない仮説である。

 しかし、これは虚偽である。トップフはこの種のことを「認めていない。」ツィンマーマンは、この点で、194344日の建設局あてのトップフ社の書簡APMO, BW 30/34 p. 43に誤って言及している。これは、実際には、410日の書簡のことであり、そこでは、トップフは焼却棟Wの8炉室炉が実際に損傷を受けたことさえも信じていない[45]。(「最近生じたと思われる亀裂」)

 

§32. 私は、中央建設局の文書は、いわゆる「ガス処刑された人々」の焼却があったならば必要となるであろう、すべてのアウシュヴィッツの炉のすべて炉室の耐火壁の4回の完全な取替えについて言及していないと述べた。これに対して、ツィンマーマンは次のように反駁している。

 

「実際には、たった1回であってもアウシュヴィッツで焼却が行われたということはこれらの文書にも、その他の文書にも登場していない。換言すれば、同時代の一つの文書も、アウシュヴィッツでたった1回の焼却が行われたことを示していないのである」(15頁)。

 

そして、こう結論している。

 

「マットーニョによると、このことはアウシュヴィッツでは焼却が行われなかったことを意味している」(15頁)。

 

 おそらく、ツィンマーマンはこの白痴的な行為を面白いことと思っているが、私には、悲しむべきことにすぎない。まず、ツィンマーマンの断言は虚偽である。資料的に無知な人物は、物事を断定することを差し控えるべきである。実際には、「トップフ・ウントゼーネ社用の管理用紙」という文書があり、そこにはアウシュヴィッツでの最初の炉に関する次のような記述がある。

 

「最初の死体の焼却が同日行なわれた。」[1940815日][46] 5021327215頁。

 

 残りに関して言えば、この専門家ではない人物は、モスクワの資料がトップフ社の依頼状や発注状の完全な再現を可能にしており、これによるとトップフ社はビルケナウの炉の耐火壁の交換を行なった事実を否定していないという点を無視している[47]。おそらく、1回の交換がアウシュヴィッツの炉には実行されたのである。

 

§33. にもかかわらず、ツィンマーマンは事態を安易にとらえ、グーゼンのケースを適用して、機会主義的に私の議論に反駁している。

 

「これらのオーバーホールが起こったとすれば、ファイルに詳しく記載されていることであろう。1941年のオーバーホールの情報は、使用された資材、予算、残業も含む作業時間についての時間表などに関するトップフ社とのすべての書簡を含んでいるからである」(15頁)。

 

ツィンマーマンはこれを熟知しているが、おなじことがアウシュヴィッツにも有効であることを理解していないふりをしている。

 1941年の間のトップフ社とマウトハウゼンSS新建設局(のちに建設局)との間の書簡はほぼ完璧であることは真実であるが、翌年に関してもこれが当てはまるとは言えない。1941年に関していえば、グーゼンの炉の耐火壁の交換ののちに、グーゼンの炉は最大約1900体を処理した[48]。それゆえ、炉は別の4100体を焼却できなかった。続く年、資料が断片的なために、何も断言できないし、何も排除できない。

 

§34. ツィンマーマンは、次のように反論している。

 

1940年から19454月まで、マウトハウゼンでは27556の焼却があった。にもかかわらず、マットーニョは52のアウシュヴィッツの炉すべてが、162000の死体を処理することはできないと論じている」(16頁)。

 

 しかし、この数字が正しいとしても(この数字は、誰も見たことのないアロルセンに保管されている焼却リストから生み出されている)、それとの比較には何の意味もない。マウトハウゼンの最初の焼却炉はコリ社によって設置され、これに関してはまったく書簡が存在しない。だから、我々が知っていることは、コリ社は10回耐火壁を交換したにちがいないことだけである。

 

 トップフ社の2炉室炉が設置されたのは、ツィンマーマンが主張するように「19447月」(16頁)ではなく、194512月である。ツィンマーマンが熟知しているトップフ社とマウトハウゼンとの書簡には、19441220日付のトップフ社からマウトハウゼン建設局あての手紙があり、そのなかで、トップフ社は、炉の土台と煙突のための作業を速やかにはじめるようにアドバイスしており、194513日の手紙では、トップフ社は19日に主任技師シュルツェを派遣するように促している[49]。だから、炉はこのとき建設されたのである。

 しかし、我々は、我が「ホロコーストの専門家」がドイツ語を知らないことを理解しておかなくてはならない。

 

§35. アウシュヴィッツの多炉室焼却棟の実態を「示す」ために、我がツィンマーマン教授は、ダッハウに関する資料を引用することしかできなかった。それによると、「炉は同時に設置されれば、2時間で79体を焼却することができた」(22頁)[50]

 これはあまりにも馬鹿げているので、回答するに値しない。アウシュヴィッツの多炉室炉についての科学的な議論に関しては、本小論の冒頭に引用されている私の本の第9章を参照していただきたい。

 

§36. さて、ビルケナウの炉についての私の熱学的なバランスを「反駁」しようとするツィンマーマンの試みを検討しよう。石炭消費に関する出発点は、677の焼却ごとのグーゼンの炉の消費(1031日−1112日)、すなわち、約1体につき30.5kgである。

 ツィンマーマンは、926日−1015日に同じ炉では、203体(実際には193体)が153両の石炭手押し車(9180kg)を使って焼却された、すなわち、1体につき平均45kg(実際には47.5kg)と述べている。グーゼンの焼却リスト、「コークス手押し車」の欄には、明確に"1 K.= 60 kg"となっており、手押し車の数でkgを換算できる。

 石炭消費の違いは、926日−1015日までには焼却が少なかったという事実による。9272830日、102457911日にはまったく焼却がなく、炉は停止していた。残りの日には、焼却の毎日平均は低く、19ぐらいであり、炉室ごとに約910である。しかし、1031日−1112日までは、焼却は毎日行なわれており、毎日平均52で、炉室ごとに26である。

 冷却された炉は、生産温度の回復前に、耐火壁にかなりの熱量を蓄積する。それゆえ、焼却の回数が少ないほど、燃料消費は大きくなる。例えば、192715日にデッサウの焼却棟でケスラー技師が行なった8回の焼却(これについては、彼は詳しい焼却過程と石炭消費の表を発表している)は、焼却ごとに54.5kgの石炭を平均で消費しており、そのうち、25kgが炉を暖めることに費やされている。(石炭消費は炉のあらかじめの暖めに石炭200kg8の焼却に236kgであった)。

もしも、炉がすでに冷えているとすると、石炭消費は1体ごとに29.5kgとなる。

 このような初歩的知識ももっていないツィンマーマン教授は、逆に上記の事実から勝手で根拠のない結論を引き出している。

 

「しかしながら、各手押し車が60kgの石炭を載せているのではなく、手押し車の理論的な最大積載量に基づく、『一般的な』数であると考えることもできる」(24頁)。

 

 しかし、この「一般的な」量が、量的な平均ではなく「理論的最大」であるという理由は何であろうか。さらに、もしこれが真実であるとしても、1031日−1112日のあいだの手押し車が1926日−1015日のあいだの手押し車に積載されている石炭の64%(30.5÷47.5×100=)を積載していることになるであろう。しかし、これはまったく無意味な推論である。

 他方、グーゼンの焼却棟の責任者はkg当たりの燃料消費量についてのレポートを書いており、その文書の一つは、926日−1015日の石炭消費量が正確に9180kgであると指摘しており[51]、これは、一つの石炭手押し車が平均60kgを積載していたことを示している。ツィンマーマンの推論は崩壊するのである。

 

§37. ツィンマーマンは、次のように反論している。

 

「多炉室焼却は第二次大戦以前ドイツ以外でも行われていた。日本の大阪では、1880年代に、20の焼却が行なわれており、それは、4時間で3体を同時に焼却できた」(26頁)。

 

 最初に指摘しておきたいことは、1体の焼却の平均時間は25分以下ではなく80分であることである。ツィンマーマンはここでも無能力をさらけだしている。焼却の歴史と焼却設備をまったく無視することによって、我が教授は、実際に数体を一緒に焼却することのできる集団/集合炉が存在していたこと、しかし、その構造はアウシュヴィッツのそれとまったく異なっていたことをまったく知ることができないでいる。それゆえ、この点での比較はまったく意味のないことなのである[52]。それは、ボロ車とフェラーリのフォーミュラ・ワンを比較するようなものである。

 

ツィンマーマンの方法的な誤り

 

§38. ツィンマーマンは、「焼却棟の必要性」という問題に2頁のパラグラフをあてている。彼は、次のように述べている。

 

「必要を検証する唯一の道は、他の収容所の死亡率と焼却能力を比較することである」(9頁)。

 

 それゆえ、ツィンマーマンは、マウトハウゼン・グーゼンの炉とアウシュヴィッツの炉を比較し、アウシュヴィッツの炉が自然死の囚人を焼却する能力よりも多い能力を持っていたと結論している。

 しかし、もし彼がブッヘンヴァルトの焼却棟と比較すれば、反対の結論に達したことであろう。この焼却棟の2つの3炉室炉は19428月の後半と12月初頭に稼動していた。194253日から1129日まで、1691名の囚人がブッヘンヴァルトで死んだ。平均月に241であり、最大33583日−30日)である。収容所の平均の収容者は約8660名であり、最大が9777名(11229日)であった[53]。(毎日1炉室ごとに26焼却というデータに基づいた)ツィンマーマンと同じ計算をすれば、炉は一月で4680体(26×6×30=)を焼却できることになり、これは、実際に記録されている最大の死亡率のほぼ14倍となる。

 しかし、アウシュヴィッツの場合には、ツィンマーマンの議論に従っても、焼却能力は300009000あるいは約3倍である。

 だから、絶滅収容所ではない収容所に対しては、ドイツ当局は実際の最大の14倍の死亡率を「予想し」、絶滅収容所に対しては、実際の最大の3倍の死亡率を「予想した」ことになる。

 

§39. ツィンマーマンは、いわゆる「チフス神話」に反論して、「死亡証明書」に登場する死因はSSによって偽造されることが多かったと主張しつつ、「68846の死者のうち、わずか2060名がチフスであった」(5頁)と反論している。そして、次のように結論する。

 

「このような死因が物理的な現実に対応していいなかったとすれば、それらはどのように説明されるのであろうか。唯一の説明は、収容所当局は、登録された囚人の大量殺害に従事していたということである」(5頁)。

 

 19427月初頭に、チフスがアウシュヴィッツで蔓延し始め、その月の囚人の死亡率が非常に高くなったという2つの事実には疑いがない。ツィンマーマン教授が、これら2つの事実の間の原因と相関関係を見ようとしないとしても、それは彼だけのことである。もちろん、ルーシー・アデルスバーガーやエラ・リンゲンス・ライナーのようにチフスを生き残った人々もいたこと(5頁)も真実であるが、「著名人」ではない哀れな人々たち――たとえ、彼らがこの疫病を生き残ったとしても――は、肉体的な衰弱、免疫の弱体化、医療の乏しさのために、別の病気を免れることができず、その他の死亡原因で死んでいった。私の見解では、アウシュヴィッツの死亡者登録簿にチフスでの死因が相対的に少ない理由はここにある。

 「老衰で死んだといわれている」(5頁)赤ん坊に関して、医者たちがこのように愚かな方法を偽造したと信じることは難しい。ツィンマーマンの情報源であるグロツムとパーサーも、死亡者登録簿に含まれているデータをコンピュータ的に解析して、この種のことが唯一の事例であること[54]、これが唯一であると信じる十分な根拠があること[55]を指摘している。それゆえ、これは通常のミスであろうと考えられる。

 

§40. ツィンマーマンは、死亡者と焼却棟への石炭供給の関係に関する最後の考察において、問題の分析の結論として、次にように記している。

 

「それゆえ、石炭供給の2番目の高さは、登録囚人の月ごとの死亡者の最低か最低の一つの月に対応している」(23頁)。

 

 ツィンマーマンが矛盾しているとみなしていることの事実は、§36で説明したように、完全に正常である。少ない焼却は、炉の冷却と、稼動温度の維持のための燃料消費を意味している。多くの焼却は逆に炉の少ない冷却を意味しているのである。

 

 以上のような予備的考察だけでも、この教授の資格、能力、とりわけ論争上の誠実さについて判断するには十分であろう。

 この予備的考察には3日間もかかり、その結果、もっと重要な研究活動に従事することが妨げられてしまった。

カルロ・マットーニョ

                                                          



[1] http://www.holocaust-history.org/auschwitz/body-disposal/

[2] http://www.codoh.com/found/fndcrema.html

[3] Grabert Verlag, Tübingen 1994, pp. 281-320.

[4] このために、この論文は私一人で執筆したにもかかわらず、彼の名が共著者としてあがっている。

[5] その出版は2000年である。

[6] そのように指示されているものを除いて、ここに引用されている資料はこの本に掲載されており、議論されている。

[7] Granata Publishing, Palos Verdes 1995.

[8] Granata Publishing, Palos Verdes 1995.

[9] Auschwitz: The End of a Legend. Institute for Historical Review, 1994,

    p. 72.

[10] H. Fröhlich, Zur Gesundheitspflege auf den Schlachtfeldern, in:

Deutsche Militarartzliche Zeitschrift, I, 1 - 4, Januar - April 1872,

p. 101.

[11] Ibidem, p. 100.

[12] これに劣らず重要な要因は、グーゼン炉の炉室の特殊な構造であった。

[13] Auschwitz: The End of a Legend, p. 23

[14] Auschwitz Museum Archive, BW 30/34, pp. 78-79.

[15] ツィンマーマンにとっては、「囚人宿舎」 "Haftlingsunterkunfte"とは、「脱衣バラック」"Auskleidebaracken"のコード言語に他ならない。まったくこの種の人々の空想には限りがない。

[16] Kostenanschlag für Bauvorhaben Konzentrationslager Auschwitz O/Sdated 15 July 1942. Moscow, 502-1-220, p. 36.

[17] Danuta Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager

Auschwitz-Birkenau 1939-1945. Rowohlt Verlag,Reinbeck bei Hamburg 1989, p. 160.

[18] J.C. Pressac, Auschwitz:Technique and Operation of the Gas Chambers, New York 1989, p. 204.

[19] J.C. Pressac, The Machinery of Mass Murder at Auschwitz, in: Anatomy of the Auschwitz Death Camp, Indiana University Press,1994, p. 210.

[20] J.C. Pressac, Les crematories d'Auschwitz. La machinerie du meurtre de masse. CNSR Editions, Paris 1993, p. 48.

[21] この点についは、私の研究"Zentralbauleitung der Waffen-SS und Polizei Auschwitz". Edizioni di Ar, 1998を参照。

[22] 信じられないことに、シュナーベルは、オリジナル・テキストが「3036」と述べているのに、「1035の死体」と記している。これに依拠したダヌータ・チェクは同じ誤りをそのまま掲載し、ツィンマーマンと同じことをやってしまっている。

[23] Auschwitz: The End of a Legend, p. 91.

[24] The Polish preposition "przez", ["through"], yield/productivity with "around"

[25] アウシュヴィッツの焼却炉は直接過程、正確にいえば、炉室に直接入る燃焼ガスによって焼却した。

[26] Moscow, 502-1-313, pp. 159-160.

[27] プレッサクは正当にも、ゲシュタポによる尋問のことであるとみなしている。

[28] 炉の格子の上で1時間に燃やされる石炭の量

[29] もしもツィンマーマンの解釈が正しいとすると、別の日には、8分から30分のあいだで数値が変動する。

[30] J.C. Pressac, The Machinery of Mass Murder at Auschwitz,op. cit., p. 212.

[31] Ibidem, note 74 on page 243.

[32] Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, pp. 98-99.

[33] The Crematory Ovens of Auschwitz and Birkenau, pp. 15-16.

[34] The Hoss Trial, volume II, p. 47.

[35] J.C. Pressac, The Machinery of Mass Murder at Auschwitz, op. cit.,p. 189-190.

[36] この論文冒頭に言及されている私の本の中でのテキストと資料の検討。

[37] Malachia de Christophoris, Etude pratique sur la crémation moderne.Treves, Milano 1890, pp. 121-124.

[38] Zentralblatt für Feuerbestattung, 1929, p. 64.

[39] Luigi Maccone, Storia documentata della cremazione, Bergamo 1932,p. 66.

[40] Theodor Weinisch, Die Feuerbestattung im Lichte der Statistik.Zirndorf 1929, p. 33.

[41] G. Pini, La crémation en Italie et à l'etranger de 1774 jusqu'à nos jours.Hoepli, Milano 1885, p. 30.

[42] Theodor Weinisch, Die Feuerbestattung im Lichte der Statistik, p. 33. この論文冒頭に言及されている私の本の第19章を、ドイツでの焼却の統計問題に当てている。

[43] Rudolf Jakobskötter, «Die Entwicklund der elektrischen Einäscherung      bis zu dem neuen elektrisch beheizten Heisslufteinäscherungsofen in      Erfurt», in: Gesundheits Ingenieur, 25. Oktober 1941, Heft 43, p. 583.

[44] Also in the abbreviated American version, The Leuchter Report,Decatur, Alabama, 1998.

[45] Auschwitz Museum Archive, BW 30/34, p. 42.

[46] Moscow, 502-1-327, p. 215.

[47] この論文冒頭に言及されている私の本のなかに、トップフ社がアウシュヴィッツで果たした委託業務のリストを掲載している。

[48] グーゼン収容所では、194111月に887名の囚人が死亡し、12月には986名が死亡した。H.Marsalek, Die Geschichte des Konzentrationslagers Mauthausen, Wien 1980, p. 156.

[49] Bundesarchiv Koblenz, NS4 Ma/54.

[50] これは、19451110日のオイゲン・ザイボルトの供述に由来する。Dachau Museum Archives, 767, p. 84

[51] Mauthausen Museum Archives, 3 12/31, 350.

[52] これに関しては、この論文冒頭に言及されている私の本の第110章を参照。

[53] Konzentrationslager Buchenwald, Thuringer Volksverlag GmbH,Weimar, no date, p. 85.

[54] Sterbebücher von Auschwitz , Saur Verlag, 1995, p. 242.

[55] この二人の分析家は、大量のその他のデータについての正確の数を指摘しているのであるから、これらのケースの正確な数を指摘するのもきわめて容易であったにちがいない。