試訳:アウシュヴィッツでの最初のガス処刑:神話の誕生

カルロ・マットーニョ

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2003827

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Carlo Mattogno, The First Gassing at Auschwitz: Genesis of a MythMyth, The Journal of Historical Review, vol. 9, no. 2, pp. 193-222を試訳したものである
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

(online:http://vho.org/GB/Journals/JHR/9/2/Mattogno193-222.html)

 

(第9回国際修正主義者会議報告)

 

はじめに

 アウシュヴィッツのガス室の物語は、約850名を実験的にガス処刑したということからはじまったと言われている。194193日、中央収容所ブロック11の地下室で行なわれたというのである。

 ダヌータ・チェクは『アウシュヴィッツ・カレンダー』( Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau )の中で、次のように記している。

 

93日、Cyclon B(ママ)ガスを使った大量殺人の実験が、初めてアウシュヴィッツ強制収容所で実行された。

 SSの命令で、病院関係者は、約250名の病気の収容者を囚人病院からブロック11の地下室に連れてきた。約800名のロシア軍戦争捕虜もそこに連れられてきた(1941717日の行動命令第8号にしたがって、将校と政治人民委員が、捕虜収容所から選別された)。彼らがブンカーの地下室に入れられ、地下の換気口が土で覆われた後に、何人かのSSがチクロンBを投入し、扉が閉められた。

 94日、ガスマスクを備えた連絡長のパリッチュがブンカーの地下室の扉を開くと、数名の囚人がまだ生きていることに気づいた。そこで、彼は、余分のチクロンBを投入し、扉を閉めた。

 95日、夕方、懲罰部隊(ブロック5a)からの20名の囚人と囚人病院からの病院関係者がブロック11の庭に連れてこられた。最初、彼らは、特別の仕事のために召集されたこと、これから目撃することを他言してはならないことを話された。ついで、この仕事の後に、今まで以上の食料割り当てを受け取ることを約束された。ブロック11の庭には、フリッチュ、マイヤー、パリッチュ、収容所医師 エントレス、その他の将校がいた[注1:アウシュヴィッツ博物館の別の出版物によると、SS大尉フリードリヒ・カール・ヘルマン・エントレスは、194113日から12月まで、グロース・ローゼンで収容所医師の職務を務めていた。彼は1211日に、同じ職務でアウシュヴィッツに転任し、19431020日までとどまった。だから、194195日にはアウシュヴィッツにはいなかった。Auschwitz vu par les SS. Edition du Musee d'Etat a Oswiecim, 1974, p. 318.]ガスマスクが囚人に渡され、地下室に入って、ガス処刑された死体を庭に引き出すように命令された。庭で、ロシア軍捕虜のユニフォームが脱がされ、死体が貨物自動車に投げ込まれた。ガス処刑された収容者の死体は、囚人服をまとった。焼却棟への死体の搬送は、夜遅くまで続いた。ガス処刑された人々のあいだには、囚人ノヴァチュクの逃亡のためにブンカーに閉じこめられていた10名の囚人もいた。」[注2Hefte von Auschwitz. Wydawnictwo Panstwowego Muzeum w Oswiecimiu, 2, 1959, p. 109

 

 ダヌータ・チェクはこの話に関してまったく資料的証拠を提示していないが、あらゆる絶滅論者の歴史家は、まったく無批判的にこの話を受け入れている。さらに驚くべきことは、アウシュヴィッツのブロック11でのいわゆる最初のガス処刑が、その後のビルケナウの焼却棟のガス室に至る過程の開始となっていることである。この過程の中間段階が、中央収容所の焼却棟1の死体安置室、ビルケナウのいわゆる「ブンカー」12であった。その後、ブロック11の「ガス処刑」は、絶滅論の教典によって、史上最大の殺戮作戦の発端となった。

 この小論で、われわれは、最初のガス処刑の歴史に関する数少ない資料を批判的に分析することによって、どのようにアウシュヴィッツ・ビルケナウのガス室神話が誕生したのかを検証するであろう。同時に、『アウシュヴィッツ・カレンダー』の編集者が使っている歴史学的な方法の重要な事例を呈示するであろう。まず、これらの資料から始めよう。

T.資料

1.   戦時中の資料(19411942

 

 アウシュヴィッツでの最初のガス処刑についての最初の言及は、19411024日のノートのなかにある。

 

「オスヴィエチム(アウシュヴィッツ)では、10月初頭に、850名のロシア軍将校と下士官がここに連れてこられて、東部戦線で使われることになる新しいタイプの戦争ガスを実験するために、ガス処刑された。[jako probe nowego typu gazu bojowego, ktory ma byc uzyty na froncie wschodnim][注3Zeszyty oswiecimskie. Numer specjalny (1). Wydawnictwo Panstwowego Muzeum w Oswiecimiu, 1968, p.11.]」

 

 1942年中頃まで、資料では、最初のガス室の話は、組織的な絶滅としては登場せず、数ある中の単純な科学的実験として扱われてきた。

 19425月にボヘミア・モラヴィア総督府に逃れてきたチェコ人教師が編集した話には、次のようにある。

 

「クラクフ近くのオスヴィエチムの強制収容所は、最悪の評判をえている。ドイツ人は犠牲者に対して、普通のドイツ的なやり方で、残酷に拷問を加えているだけではない。ドイツの毒ガスの効果が彼らに対して試され、ほかの実験も行なわれた。」[注4Foreign Office papers, FO 371/30837 5365, "Conditions in Czechoslovakia," pp. 157-158.

 

71日、Polish Fortnightly Reviewは、最初のガス処刑について、詳しい話を掲載した。19411024日のノートと比較すると、重要な相違はないが、囚人に対する毒ガス実験というテーマの点で一致している。

 

「囚人に対して試みられている実験のなかには、毒ガスを使ったものもある。昨年9月の56日の夜、約1000名がオスヴィエチムの地下のシェルターに追い込まれた。その中には、700名のボリシェヴィキの捕虜と300名のポーランド人がいた。シェルターはこれらの大人数には小さすぎたので、生きている身体は、損傷した身体を無視して、強制的に押し込まれた。シェルターがいっぱいになると、ガスが注入され、囚人は夜のあいだに死んだ。一晩中、シェルターからうめき声と叫び声が聞こえてきた。翌日、他の囚人が死体を搬送し、この仕事は一日中続いた。死体が乗せられた手押し車が重さで壊れた。」[注5Polish Fortnightly Review, London, n. 47, July 1, 1942, p. 2.

 

2.戦後の資料

 

 知られている限り、4人の目撃者が特別な記述によって、最初のガス処刑のリアリティを確証してきた。目撃証人のヨセフ・ヴァチェク、間接的証人のルドルフ・ヘス、目撃証人のゼノン・ロザンスキ、目撃証人のヴォイチェク・バルツである。これに加えて、アウシュヴィッツのドイツ犯罪ポーランド調査委員会報告がある。

 

A.証人ヨセフ・ヴァチェク

194558日、アウシュヴィッツ囚人であったヨセフ・ヴァチェク(囚人番号15514号)がブッヘンヴァルトで次のように述べた。

 

9月初頭、ロシア軍捕虜が収容所に連れてこられた。500名以上であった。それに加えて、SS医師ユンゲンによって選別された196名の病気の収容者がおり[注6:ダヌータ・チェクによると、病気の収容者の選別を命令したのは、ユンゲン医師ではなく、SS大尉のジークフリート・シュヴェラ医師であった。「シュヴェラは19418月以降に、衛戍医師に任命されていた。『私は、194193日に、ブロック病院2128から、重病人を選別し、彼らをブロック11のブンカーに移送するようにという命令を発した。』」]、彼らはロシア軍捕虜とともに、ブロック11のガス室でガス処刑された。[注7:ブロック11のガス室は存在していない。この建物の地下には28の大きな部屋と4の小さな部屋があり、そのいずれもが、アウシュヴィッツ博物館によって、ブロックのガス室とされたことはなかった。]彼らをそこに連れてきたわれわれ病院関係者は、彼らは輸送途中であり、列車が出発するまでほんの一時的にここに連れてこられると話された。翌日の夜、誰もがすでに寝静まっており、ブロック地域を立ち去ることを許されていなかったときに、私は30名の病院関係者とともに呼ばれた。そして3昼夜にわたって、われわれは死体を焼却棟に運んだ。」[注8Der Mord an den Juden im Zweiten Weltkrieg. Entschlussbildung und Verwirklichung. Edited by Eberhard Jfickel und Jurgen Rohwer. Stuttgart, 1985, p. 167.

 

B.証人ルドルフ・ヘス

ルドルフ・ヘスがイギリス軍に捕まっていたころ、彼はまだ最初のガス処刑を無視していた。1946314日の宣誓供述はこの時期のもっとも詳しいものであり、ソ連軍捕虜に対する古い焼却棟でのガス処刑に言及しているが、次のように述べているにすぎない。

 

「同時に、ロシア軍捕虜がゲシュタポの管轄地域、ライトシュテルン・ブレスラウ、トロッポイ、カトヴィツェから到着した。彼らは、地元のゲシュタポの指導者に対するヒムラーの文書命令に従って、絶滅されなくてはならなかった。」[注9NA1210/D-749a, p. 2 of the English translation

 

 彼が最初のガス処刑について語り始めるのは、ポーランドに移送されてからのことである。実際、ヘスは、クラクフでの「自伝的ノート」のなかで、この点について次のように書いている。

 

「ユダヤ人の大量絶滅以前の時期でさえ、ロシア軍捕虜と政治人民委員が、1941年と1942年に、すべての収容所で清算されていた。総統の秘密命令に従って、特別なゲシュタポ部隊が、捕虜収容所のなかから、ロシア軍捕虜と政治人民委員を選別した。彼らは、近接の強制収容所に移送されて、清算された。ロシア人は、党に属していたり、党組織、とくにSSに属しているドイツ軍兵士をすべて即座に殺しており、赤軍の政治部員は、捕虜となった場合、捕虜収容所では混乱を引き起こし、作業場では、あらゆる方法で作業をサボタージュする任務をもっているというのが、この措置の説明であった。

 アウシュヴィッツでも、赤軍のこれらの政治部員は、到着すると絶滅の対象となった。最初のグループは、そんなに大勢ではなかったので、銃殺隊によって殺された。しかし、私の不在の時に、私の代理・保護拘禁所長フリッチュが、この目的のために、ガス、正確にいえば青酸の混合ガスすなわちチクロンBを使った。これは、害虫駆除のために収容所で使われており、大量に備蓄されていた。戻ってくると、フリッチュは、自分が行なったことを報告し、つぎに移送されてきた囚人にもこのガスが使われた。ガス処刑は、ブロック11の懲罰地下室で行われた。私自身もガスマスクを付けて、殺害を目撃した。ガスの注入後すぐに、満員の地下室の中で死が訪れた。短いうめき声、息の詰まる声があるだけで、すべてが終了した。」[注10Comandante ad Auschwitz. Memoriale autobiografico di Rudolf Höß. Einaudi, Torino, 1985, pp. 128-129.

 

ヘスは、「アウシュヴィッツでのユダヤ人問題の最終解決」という文書のなかでふたたび最初のガス処刑に戻り、その背景と処刑についてもっと完全に描写している。この話は、アウシュヴィッツに関する歴史的真実の高みにまで押し上げられているので、少々長文であるが引用しておこう。

 

1941年夏、正確な日付はもう覚えていないが、私は突然、ベルリンのヒムラーのもとへくるようにという命令を、それも彼の副官を通じて直接受けた。この時にヒムラーは、それまでの彼の習慣と違って、副官も遠ざけた上で、およそ次のような意味のことを言った。

 総統は、ユダヤ人問題の最終解決を命じた。われわれSSはこの命令を実行しなくてはならない。東部にある既存の虐殺施設は、この大がかりな作戦を実行できる状態にはない。したがって、自分は、アウシュヴィッツをそれにあてることにした。理由の第一は交通の便がよいこと、第二に、そこなら一定区域を遮断、偽装するのも容易であること。

 自分は最初、SS高級幹部をこの任務にあてようとした。しかし、事前に職権上の難点にぶつかったので、これは中止。今は、君がこれの実行にあたらねばならぬことになった。これは、きびしく重大な仕事で、その任に当たるものは全員、いかなる困難にもひるまぬことが要求される。これ以上の詳細については、いずれ国家保安本部から大隊長アイヒマンが行って君に説明する。関係部署はおって私から君に知らせる。この命令については、君は絶対に沈黙を守り、上司にも漏らしてはならない。アイヒマンと打ち合わせたあと、自分は予定の計画書を君に送る。

 ユダヤ人は、ドイツ国民の永遠の敵であり、殲滅し尽くされなくてはならない。われわれに手の届く限りのユダヤ人はすべて、現在のこの戦争中に、一人の例外もなしに抹殺されねばならない。今、われわれが、ユダヤ民族の生物学的基礎を破壊するのに成功しなければ、いつかユダヤ人がわがドイツ国民を抹殺するであろう、と。

 この極秘命令を受けてのち、私は、オラニエンブルクの直属上官のもとにも出頭せず、すぐにアウシュヴィッツに引き返した。それに引き続いて、アイヒマンがアウシュヴィッツの私のもとにきた。彼は、各国での行動計画を私に次々と説明した。その順序は、もう私にも正確に述べることはできない。

 アウシュヴィッツにとって、第一に問題とされたのは、上シレジア東部と、それに隣接する総督治下の地区である。同時に、状況に応じて引き続き対象となるのは、ドイツとチェコスロヴァキアのユダヤ人、続いて西ヨーロッパ(フランス、ベルギー、オランダ)。

 さらに、われわれは、虐殺の実行方法について話し合った。問題となるのはガスだけであろう。銃殺では、予想される大群をかたづけるのは、絶対に不可能であろうし、また、女子供の姿を目の前にしてこれを実行することは、SS隊員にとっては大変な負担となるだろうからである。

 アイヒマンは、それまで東部で実行されていた、といって、トラックのエンジン排気による殺害のことを私に教えた。しかし、これも、アウシュヴィッツに予想される大量の移送者には、とても問題にならない。一酸化炭素を浴室に吹き込んで殺害する方法(これはドイツ国内の数カ所で、精神病者を抹殺するのに用いられていたが)は、あまりに施設に手がかかるし、それに、一酸化炭素ガス作成もこれほど大量となると、問題がある。

 結局、この問題について、われわれは結論を出せぬままに終わった。アイヒマンは、簡単に作れてしかも特別な設備を必要としないようなガスを調査させた上で、私に報告すると言った。

 次に、われわれは、適当な場所を探すためあたりの地勢を見て回った。われわれは、のちにビルケナウ第三分区となる北西の一角にある農場を適当と判断した。そこは引っ込んだ場所で、周りの森や植え込みで見通しをさえぎられ、しかも、鉄道線路からそう遠くない。

 死体は、隣接する草原に深くて長い壕を掘って埋葬する。焼却ということは、その時点ではまだわれわれの念頭に浮かばなかった。われわれは、適当なガスを濃縮化すれば、そこの既存の屋内で、優に800人は殺害できると計算した。この計画は実際にぴったり合った。

 作戦の開始の時点は、アイヒマンもまだ私にもはっきり言えなかった。万事がまだ準備段階で、それにヒムラーもまだ命令を下していなかったからだ。

 アイヒマンはベルリンに帰り、われわれの話し合いの結果をヒムラーに報告した。数日後、私は、正確な状況見取り図と施設に関する詳細な説明を、急便でヒムラーのもとに送った。それに対する回答もしくは決定は、ついに受け取らなかった。その後のあるときアイヒマンが、SS全国指導者(ヒムラー)はそれを了解したと私に話してくれた。

 11月末、アイヒマンは、ベルリンの彼の管轄部署で、ユダヤ人担当官全員の職務会議を開き、私もそれに招請された。個々の地域でアイヒマンの命を受けた者が、作戦の現状、ならびに作戦の実施にあたって直面している諸困難、逮捕者の収容、移送列車の調整、輸送計画会議等々について報告した。

 作戦の開始については、私はまだ伝えられなかった。それに、アイヒマンもまだ適当なガスを探し当てられないでいた。

 1941年秋、秘密特別命令により、捕虜収容所内で、ロシアの政治将校、政治委員、その他特別の政治団体員がゲシュタポの手で選別され、粛正のためそれぞれ隣接の収容所に送られた。アウシュヴィッツにも、たえずこの種の部隊が到着し、建物の近くのブンカーの中か、ブロック11の庭で銃殺された。

 ところが、たまたま私が公用旅行に出た間に、私の代理・突撃長フリッチュが、彼の発意で、このロシア人捕虜の殺害にガスを用いた。つまり、彼は地下室のある独房全部にロシア人をすし詰めにし、ガスマスクを付けた上で、チクロンBを各房に投入、瞬時に死亡させたのである。

 チクロンBガスは、アウシュヴィッツではテシュ・シュタベノフ社が、害虫駆除のため常時使用し、そのために管理部にはいつも、缶入りガスの備蓄があった。最初の頃、この毒ガス(青酸剤の一種)は、厳重に予防措置を講じた上で、テシュ・シュタベノフ社の係員だけが用いたが、その後、若干の衛生兵が、同社で消毒係として訓練を受け、以後、彼らが伝染病駆除と害虫駆除の際のガス使用にあたった。

 アイヒマンが次に訪れたとき、私は、このチクロンBの使用について報告し、かくてわれわれは、来るべき大量虐殺の際には、このガスを使用することを決定した。

 上記のロシア人捕虜のチクロンBによる殺害は引き続き行われたが、ブロック11は用いなかった。ガス使用後、建物全部の換気に少なくとも二日を必要としたからだ。そのため、焼却棟の死体安置室がガス室に利用された。その際、ドアはガスを遮断するようにされ、ガス投下用の穴がいくつか天井に開けられた。」[注11Idem, pp. 171-174. ヘスの証言については、 Robert Faurisson, "Comment les Britanniques ont obtenu les aveux de Rudolf Höß, commandant d'Auschwitz," in Annales d'Histoire Revisionniste, no. 1, Spring 1987, pp. 137-152; Carlo Mattogno, Auschwitz: le "confessioni" di Höß, Edizioni La Sfinge, Parma 1987.を参照していただきたい。]

 

C.証人ゼノン・ロザンスキ

 1948年に公刊された本の中で、アウシュヴィッツの囚人であったゼノン・ロザンスキは、最初のガス処刑について次のように描いている。

 

9月のある日、仕事を終えても、われわれは自分のブロック11には戻ることを許されなかった。その代わりに、ブロック5の完了していない歩道につれてこられた。ブロック長は理解できない変更を釈明するために、他のブロックが害虫駆除されるのでと説明した。ブロック5は通常の収容所がある地区にあるので、この変更は熱狂的に歓迎された。ここでは、点呼の時にカポーの出現から免れることができ、さらに、隔壁がないので、通常の収容所の同志がわれわれに少しの食事を提供することができた。ごく平穏な点呼ののちに、カポーと部隊長がわれわれのブロックをその他の収容所から隔てる非常線を張ったが、多くの同志が『食べ残しの食物』をわれわれにくれた。

 翌日、ロシア軍捕虜の集団すべてがブロック11に移送されたというニュースがあった。この事件はさまざまに解釈された。ある者は、『懲罰部隊』が解散されると語り、またある者は、『知るうる情報源』から、ロシア人がわれわれのブロックに配置されると語り、またある者は、多くのことを知ってはいるが、それを話すことはできないというミステリアスな話をした。しかし、われわれがブロック11に戻ることはないということだけは確かであった。

 三日目の朝、ブロック長のヴァチェクが仕事に出発する前に、気取った態度で、健康そうな囚人たちに、隊列から出るように命令した。私も、選別された一員であった。部隊は仕事に出発したが、われわれはブロックにとどまった。誰一人として、これから何がはじまるのか知らなかった。30分後、ヴァチェクがわれわれに追いついた。

 『用心した方がよい。収容所に残って、夕食の時に別の(blow)[すなわち、別の驚き――マットーニョ]を受け取るであろう。しかし、すぐにいって「特別な仕事」をすることになる。これによって、何かを改善するチャンスを手に入れるであろうが、口を閉ざしていなくてはならない。わかったか?』

 明らかに、誰も彼の話を理解できなかったが、口をそろえて、『はい、確かに』と全員が答えた。

 われわれは1列に並んで、ゲルラハがやってくるまで、もう15分待っていた。この人物は、われわれを注意深く検査し、頭をうなずかせて、ヴァチェクと同じように曖昧に、われわれに話した。『数分間で、諸君たちは、重大任務に就く。誰かが自分たちの見たことをひとことでも口にしたら』、この瞬間、ゲルラハは首に自分の手を回しながら、『焼却棟の灰となる。必要以上の食料を手に入れるだろう。わかったか。』

 依然として理解できなかった。一つのことだけが明らかであった。われわれの仕事には命がかかっているということである。これだけは誰もが理解できた。しかし、余分な食料をくれるということも確かであった。これは重要だった。

 数分後、われわれは二列になってブロック11へのドアに入っていった。庭には、所長代理フリッチュ、SS中佐マイヤー、医師のSS大尉パリッチュ、SS中尉エントレス[注12:注1参照]、SS中尉クレア、SS下士官のシュタルク、地元政治部の犯罪補助者ヴォツニカ、そして、ゲルラハ、エーデルハルトというわれわれの二人のブロック長がいた。

 ヴァチェクが『帽子を脱げ』と命令し、マイヤーに『20名の囚人が仕事に集められました』と報告した。彼は、連絡長と言葉を交わし、ついで、ヴァチェクに何かを言った。彼は、『はい』と答えて、われわれに向かって、『各自ガスマスクを受け取る。適切にかぶって、脱げと命令するまで脱いではいけない。わかったか。』……『わかりました。』

 壁の近くに、ガスマスクの入った大きな箱があった。速やかに配られた。3分後、われわれはガスマスクを装着した。SS隊員のクレアは、誰もが適切にガスマスクを付けていることを確認した。

 あらゆることが速やかに進行したので、われわれには考える暇もなかった。たがいに顔を見つめあいながら、黙っており、起こっていることについてまったく関心を示さなかった。ヴァチェクとブンカー長のペネヴィツがブロックに向かって神経質そうに、何回も行ったり来たりした。ブロックで、彼らはパリッチュと話をしており、パリッチュはいらいらしながら、頭を揺すっていた。二人は、走って戻ってきた。

 最後に、SS隊員全員がピストルを抜いた。自動ピストルの銃身がパリッチュの手の中で光っていた。われわれを撃つつもりだと、最初は考えた。

 喉はからからとなり、目は輝き始めた。ガスマスクの中の空気は重くなり、努力しないと、息もできないようになった。本能的にわれわれ全員がたがいに押し合い始めた。ガスマスクを脱ぎ始めた者がいたが、ピストルで殴られ、地面に倒れた。時間がおそろしいほどゆっくりと過ぎていった。

 われわれを撃つつもりはないようだ。たぶん撃たないであろう。私は安心して、あたりを見回した。SSはピストルを撃つ準備をしていたが、撃ってはいなかった。パリッチュはヴァチェクに手で合図をして、『行って、始めろ』と命じた。ブロック長がわれわれのもとに走ってきた。

 『怖がるな、私に続け』。彼はブロックに向かっていった。私はグループの一番後ろにいることを発見した。私の後ろにいた人物の銃口が私の背中にあった。小走りで、私はヴァチェクの後ろに追いついた。彼は階段を下った。『しばらく、ここのブンカーにとどまる』。しかし、SSはわれわれが考えることを許さなかった。グループの後ろで、誰かがすでに地面に下っていた。『急げ、急げ。』

 ヴァチェクはブンカーのドアの前にいた。彼は右手に斧を持ち、それを左手に持ち替えて、右手でポケットの中から鍵をとりだした。鍵穴をなかなか見つけられないようだった。グループの後方から、パリッチュが『早くしろ』と叫んだ。ようやく彼は鍵穴を見つけた。鍵が挿入された。

 ヴァチェクはドアの取っ手をつかんだ。本能的に私は息を止めた。すっかり乾きあがっていた唇を湿らせた。次に何が起こるのであろうか。ヴァチェクは後ずさりした。ふたたび斧を右手にもった。何のことであろうか。斧は何に使うのか。なぜ怖がっているのか。さらに、彼はドアの取っ手を今度は左手でつかんだ。

 彼は、斧をうち下ろすかのように、右手を挙げていた。寒気を感じ、恐怖にとらわれた。しかし、その恐怖は前のものとは違っていた。私に関する恐怖ではなく、ドアの前にあるものへのどうしようもない恐怖であった。心臓の動機が早くなり、ガスマスクの下で心臓の動機が高鳴るのを感じた。ヴァチェクは、ドアの取っ手を押し、数歩戻ってから、ドアを押し開けた。ドアが開くと、その瞬間、髪が逆立つのを覚えた。私から3フィート離れたところに、人々がいた。おそらしい状態で、眼球が飛び出し、血でまみれながら、動きがない。ドアに寄りかかった人々がわれわれに方に倒れてきて、重なり合った。われわれの足のすぐ前の床に彼らの顔があった。立っている死体は完全に硬直していた。ブンカーの廊下すべてを満たしていた。硬直していたので、倒れかかるほどもできないほどであった。しばらくのあいだ、私は気を失った。しかし、ヴァチェクの声で正気に戻った。『やった』、彼はガスマスクを通してパリッチュに叫んだ。『斧を床におけ。良くやった。運びだそう。』

 やっと、すべてを理解することができた。死体は赤軍の軍服を着ていた。昨日話に出ていた囚人たちに違いない。彼らは全員ブンカーに押し込められてガス処刑されたのだ。だから、ガスマスクを付けなくてはならなかったのだ。ミステリーは暴かれた。ヴァチェクは最初の死体をつかんでわれわれに手渡した。

 われわれの仕事はガス処刑された人々の死体をブンカーから運び出すことであった。

 ヴァチェクが叫んだ。『一列に並んで、鎖を作れ』。鎖とは、貨車から煉瓦を人づてに降ろしていくやり方であった。しかし、煉瓦をそのようにして降ろしたことはあったが、同じようなやり方で死体を積み上げるというようなことが起こるとは思わなかった。

 われわれは夜遅くまで働いた。ブンカーを空にしたのち、死体から衣服を脱がせて、指定された場所に衣服を山積みするように命じられた。翌日、衣服は衣服倉庫に保管され、その量は膨大になった。1473名のロシア軍制服と190名以上の収容所の制服を数えることができた。これらは、収容所病院の患者のものであり、彼らは労働不適格者としてエントレス医師によって選別され、ロシア人囚人とともにガス処刑されたのであった。

 作業が終わると、20名のわれわれは、50リットルのスープの入った鍋を受け取り、半ローフのパンを各自受け取った。大鍋は、ブロックに戻された。アウシュヴィッツでは、これが、囚人を清算するためにガスが使われた最初の事例であった。」[注13Zenon Rozanski, Mutzen ab Eine Reportage aus der Strafkompanie des KZ. Auschwitz. Verlag "Das andere Deutschland," Hannover 1948, pp. 40-44.

 

D.証人ヴォイチェク・バルツ

 以下の証言は、1940616日からアウシュヴィッツの収容者であったヴォイチェク・バルツ(囚人番号754)が1963年のアウシュヴィッツについての西ドイツのラジオ放送で行なったものである。

 

「最初のガス処刑は、ソ連に対する戦争が始まった数ヶ月後の1941年秋に起こったものである。ある日、われわれ病院関係者は、重病人をブロック11のブンカーの地下室に運ぶように命じられた。彼らはこれらの地下室に拘禁された。午後10時ごろ、われわれは、大きな集団がSSによってブンカーに押し込まれていく物音を聞いた。ロシア語の叫び声、SSの命令、殴打の物音を聞いた。

 3日後、われわれ病院関係者は、真夜中に、ブロック11に行くようにとの命令を受け取った。ここで、われわれは、ブンカーの地下室から死体を運び出した。これらの地下室では、大量のロシア軍捕虜が、われわれが運んだ重病人とともに、簡単にガス処刑されたのである。地下室のドアを開けたときの光景は、荷物のいっぱい入ったスーツケースを開けたときの経験と似ていた。死体がわれわれに倒れ掛かってきたのである。小さな地下室には少なくとも60の死体があり、満杯であったので、死んでいても、倒れ掛かってくることもできず、立ちつづけていた。彼らは排気口に殺到しようとしていた。もっとも、そこから毒ガスが注がれたのであるが。おそらしい苦悶のあとを見ることができた。

 われわれ病院関係者は、死体をトラックに積まなくてはならなかった。そこから収容所の外に運ばれて、埋葬された。この仕事に関与したわれわれは、すぐに殺されるか、秘密の目撃者として殺されることを確信した。アウシュヴィッツでは当たり前のことだったからである。しかし、何も起こらなかった。後に、私は、SSのあいだでも非常な驚きがあったことを知った。」[注14Wojciech Barcz, "Die erste Vergasung," in: Auschwitz: Zeugnisse und Berichte, H. G. Adler, Hermann Langbein, Ella Lingens-Reiner (Hrsg.). Europaische Verlagsanstalt, Koln-Frankfurt am Main, 1979, pp. 17-18.

 

E.ポーランド調査委員会報告

 1946年に刊行された出版物の中で、ポーランドでのドイツの犯罪に関する中央調査委員会は、最初のガス処刑について次のように記している。

 

「殺害のために使われてきたすべての方法は、すべての過剰な囚人に対処するには不充分であり、とりわけ、数十万のユダヤ人を処分するという問題を解決できなかった。この方法は、1941年夏に、ブロック11の石炭地下室で、病院ブロックからの約250名の患者、約800名の捕虜に対して実験された。犠牲者がここに連れてこられたのち、地下室の窓が土で覆われ、その後、ガスマスクをつけたSS隊員がチクロンの入った缶を床に投げ込み、ドアを閉めた。翌日の午後、パリッチュがガスマスクをつけて、ドアを開け、何名かの囚人がまだ生きていることを発見した。そこで、チクロンが再び注がれ、ドアが再び閉められた。囚人全員が死んだ翌日の午後に、ドアが再び開けられた。」[注15Central Commission for Investigation of German Crimes in Poland. German Crimes in Poland, Warsaw, 1946, vol. 1, p. 83.

 

* * *

 上記の資料を批判的に分析してみよう。日付、場所、必要時間、犠牲者の数、死体の搬送、最初のガス処刑に関する技術的問題を検証してみよう。

 

U 資料の批判的分析

1.     最初のガス処刑の日付。

『アウシュヴィッツ・カレンダー』によると、最初のガス処刑は、194193日に行なわれた。この日付は、ひとつの資料によっても確証されていないだけではなく、利用可能なあらゆる資料――これら自体が互いに矛盾している――ともまったく矛盾している。とくに、アウシュヴィッツ博物館によっても、絶滅派の歴史学によっても基本的とみなされているルドルフ・ヘスの証言とも矛盾している。

194272日の項目は、最初のガス処刑を19416月に起こったとしている。

 

「ガス室の最初(pierwsze)の利用は、19416月に行なわれた。『治癒不能な病人』1700名の輸送が行なわれ、デレスダのサナトリウムに送られたが、実際には、ガス室に改造された建物に送られたのであった。」[注16Zeszyty oswiecimskie, op.cit., p. 47

 

証人ミハル・クラは最初のガス処刑は815日に起こったと述べている。[注17Nationalsozialistische Massentotungen durch Giftgas. Eine Dokumentation. Edited by Eugen Kogon, Hermann Langbein, Adalbert Ruckerl et al. S. Fischer Verlag, Frankfurt am Main, 1983, p. 205.Polish Fortnightly Reviewの記事によると、1941956日の夜に起こった。証人ヴァチェクによると、「9月はじめ」であった。証人ロザンスキは、「9月のある日」と述べている。歴史家フィリップ・フリードマンは915日としている。「最初の犠牲者がガス処刑されたのは、ブロックII(ママ)の以前の弾薬貯蔵庫の中で、1941915日のことであった。600700のロシア人囚人、数百のポーランド人囚人がこの最初の実験のために使われた。」[注18Filip Friedman, This Was Oswiecim: The Story of a Murder Camp, London, 1946, p. 18.

 1024日の項目には、最初のガス処刑は「10月はじめに」起こったとある。

 ポーランド調査委員会は、1941年夏に起こったと考えているが、証人バルツは秋頃に起こったとしている。

 最後に、ルドルフ・ヘスの証言では、最初のガス処刑は、194111月末以前には起こらなかった。11月末に、ベルリンのアイヒマンの事務所で会議が開かれたとき、彼はまだ、「適当なガス」を見つけることに成功していなかった。この会議の後に、副官のフリッチュが自分の発意で、最初のガス処刑を実行したというのである。ヘスが、この実験についてアイヒマンに報告し、二人が、計画中の大量殺人のためにチクロンBを使用する決定を下したのは、アイヒマンがアウシュヴィッツを訪れてからのことであった。

 それゆえ、最初のガス処刑の日時は、まったく確定されておらず、19417月から12月までの6ヶ月間にまたがっているのである。

 

2.     ガス処刑の場所。

19427月の『カレンダー』の項目は、最初のガス室が「ガス室に改造された建物のなかで」起こったと述べている。それゆえ、ブロック11の地下ではないことになる。そこはガス室への改築は行なわれておらず(だから、「改造された」という語句は重要である)、そのうえ、アウシュヴィッツ博物館によると、一回だけそのようなものとして使われたことになっているからである。[注19Auschwitz vu par les SS, op.cit., note 113 on p. 96

Polish Fortnightly Reviewの記事は、アウシュヴィッツの「地下シェルター」としているし、ポーランド調査委員会はブロック11の「石炭地下室」としている。

証人ロザンスキとバルツはともに、最初のガス処刑はブロック11のブンカーで行なわれたとしているが、前者は、犠牲者がガス処刑されたのは廊下であるとしているし、後者は地下室としている。それゆえ、資料は最初のガス処刑の場所について、互いに矛盾している。さらに、ブロック11の地下としている資料も、そのどこの部分かで互いに矛盾している。

 

3.     ガス処刑の継続時間

ヘスは、自分の代理のフリッチュが行なった最初のガス処刑では、チクロンBは「即死」をもたらしたと述べている。[注20Kommandant in Auschwitz. Autobiographische Aufzeichnungen des Rudolf Höß. Edited by Martin Broszat. DTV, Munchen 1981, p. 159.

Polish Fortnightly Reviewの記事は、「すべての囚人は、一晩中かかって死んでいった。一晩中、収容所はシェルターからのうめき声と叫び声で目を覚ましていた」と述べている。

最後に、ポーランド調査委員会は、「翌日の午後でも何人かの囚人はまだ生きていた。そこで、チクロンが再び注がれ、ドアが再び閉められた。囚人全員が死んだ翌日の午後に、ドアが再び開けられた」と主張している。

それゆえ、すべての犠牲者は即死したのか、一晩かかって死んだのか、二日後に死んだのかという問題が残る。

 

4.     ガス処刑された犠牲者

 『カレンダー』の19411024日の項目は、最初のガス処刑の犠牲者は「850名のロシア軍将校と下士官」であったと述べている。ヘスも、フリッチュが「(ブロック11)の地下にある房をロシア人で満たさせた」と述べて、もっぱらロシア軍捕虜について言及している。Polish Fortnightly Reviewの記事は、700名のロシア軍捕虜と300名のポーランド人としている。

 いくつかの資料は、犠牲者がロシア軍捕虜と病気の収容者の混成であった点については一致しているが、その数と合計についてはたがいに矛盾している。ヴァチェクは、約500名のロシア軍捕虜と196名の病気の収容者としているし、ロザンスキは1473名のロシア軍捕虜と190名の病気の収容者、合計1663名としているし、ポーランド調査委員会は、600名のロシア軍捕虜と250名の病気の収容者、合計850名の犠牲者としている。

 最後に、『カレンダー』の194272日の項目は、犠牲者はもっぱら病気の収容者であり、正確には「1700名の治癒不能な患者」であったとしている。

 それゆえ、上記の資料は、犠牲者の合計(696名から1700名)、その内訳(ロシア軍捕虜だけ、病気の収容者だけ、ロシア軍捕虜と病気の収容者)に関して、矛盾している。

 

5.  ガス処刑のための病気の収容者の選別。

 犠牲者の中に病気の収容者がいたとしている資料は、ガス処刑のために病院ブロックからの選別を命令したSS医師についても矛盾している。ダヌータ・チェクによれば、シュヴェラ医師であり、証人ヴァチェクによればユンゲン医師であり、証人ロザンスキによればエントレス医師である。

 

6.  ガス処刑された死体の搬送

A.  搬送の実行者

 証人ヴァチェクは、ガス処刑された死体の除去を「30名の男性病院関係者とともに」実行したと宣誓している。証人ロザンスキは、「懲罰団の20名の」グループで死体を搬送したと述べている。

B.  除去の開始

 ガス処刑された人々の死体の除去は、Polish Fortnightly Reviewの記事によると、「翌日」はじまった。証人ヴァチェクによると「翌日の夜」はじまった。証人ロザンスキによると、ガス処刑の二日後である「第3日の朝」にはじまった。証人バルツによると、「3日後の真夜中」にはじまった。

C. 除去にかかった時間

 Polish Fortnightly Reviewの記事によると、ガス処刑者の死体の除去には「終日」要した。証人ヴァチェクによると「三晩」要した。証人ロザンスキによると「夜遅くまで」かかった。

D.  除去後の死体の処置

 証人ヴァチェクは、ガス処刑者の死体は焼却のために「焼却棟に」運ばれたと述べているのに対して、証人バルツは、「収容所の外」に運ばれて、そこで埋葬されたと述べている。

 結論。上記の資料は、死体の除去作業を担当した人々の数、内訳の点で(20名、30名、病院関係者、懲罰隊の収容者)、除去作業の開始の点で(翌日、翌々日、ガス処刑から三日後)、除去作業の時間の点で(終日、三晩)、死体の処理の点で(焼却棟での焼却、収容所外での埋葬)たがいに矛盾している。もっと重要なことは、上記の資料は、この事件に個人的に関与したと主張している3名の収容者が同じ事件について証言した目撃証言にもとづいていることである。

7. ガス処刑の手順

 実際のガス処刑の手順については目撃証言も資料も存在しない。この理由だけでも、ポーランド調査委員会の記述は虚偽である。委員会の記述は、チクロンBがブンカーの地下室に投入されたのは、ドアからではなく小さな窓からであったと述べている証人バルツとも矛盾している。最後に、記述は技術的に不合理である。

 この点に関しては、数名の犠牲者が終日のガス処刑ののちにも生存していたとするポーランド委員会の記述はあり得ないことだけを指摘しておく。実際、1リットルの空気に0.3gのシアンという濃度――1立方メートルごとに0.3g――は人間を数分間で即死させる。[注21S. Fumasoni - M. Rafanelli, Lavorazioni che espongono all'azione di acido cianidrico e composti del cianogeno, Edizioni I.N.A.I.L., p. 8.]この濃度に関して、ハーバーの定式によると、致命的な量は8mgである。[注22Dizionario di chimica GIUA. Utet, 1947, pp. 312-313.]これによると、アウシュヴィッツのブロック11のブンカーの地下室の一つで60名――バルツが指摘している数――をガス処刑すると仮定してみると、空気の容積は11立方メートルであり、せいぜい3mgのシアンは数分で犠牲者全員を殺してしまうことがわかる。数分の間に、犠牲者の体からの熱自身が、チクロンBに含まれている液体シアンを気化させて、ガスの充満状態を作り出すことであろう。

 しかし、実験的なガス処刑は丹念に工夫されて行われたわけではないから、実際には、このような少量の青酸を扱うことはできないであろう。むしろ、扱いが簡単な大量の生産を使ったのであり、そのことは、もっと早く、死をもたらしたことであろう。

 部屋の害虫駆除のために通常使われるガスの濃度は、1立方メートルあたり10gである。これが、ガス処刑の実行者に利用可能な唯一の実際の指標であった。[注23NI-9098, p. 31.]だから、ブンカーの地下室に約110gの濃度であれば、これは、人間には即死を意味するであろう。

 それゆえ、ポーランド調査委員会報告は、技術的に不合理である。アウシュヴィッツ博物館自身も、犠牲者は、チクロンBがブンカーの地下室のようなガス室あるいはビルケナウの焼却棟UとVのようなガス室に投入されてから1520分で死んだと主張しており[注24Auschwitz: Guide of the Museum. Krajowa Agencja Wydawnicza, Katowice, 1979, p. 29.]、ポーランド委員会報告の不合理性を認めていることになる。

 総括。最初のガス処刑の話は、資料によっても直接証言によっても確証されていない。資料は間接的であり、矛盾しており、不合理である。目撃証言だけが死体の搬送に言及しているが、やはり矛盾している。

 結論:アウシュヴィッツでの最初のガス処刑の物語には歴史的な根拠がない。このことは、第一級の目撃者の宣誓証言によっても確証される。彼が重要であるのは、彼は1941年後半ではアウシュヴィッツで、ある職務をもっていたためであり、さらに、今日では、アウシュヴィッツ博物館の館長という権威をもっているためである。この人物とは、カジミェシ・スモレンである。

 スモレンがアウシュヴィッツに移送されたのは19407月のことであり、19417月には収容所ゲシュタポの事務所に近い「政治部」で「書記」として雇われていた。彼はこのような立場であったので、アウシュヴィッツでの出来事について通暁している囚人の一人であった。彼は、19471215日クラクフで行なった宣誓証言の中で、ロシア軍捕虜の運命について次のように述べている。

 

194110月初頭、ロシア人の最初の移送がアウシュヴィッツに到着した。当時、政治部の書記として雇われていたので、同僚とともに、新参者の登録を処理しなくてはならなかった。1週間の間に、'Stalag' VIII/B/Lamsdorfから10000名のロシア軍捕虜が到着した。さらに数は記憶していないが、クワイス近くのノイハンマー収容所からも到着した。

 収容所に到着した捕虜はひどい肉体的な状態にあり、半ば餓死しそうで、シラミに覆われており、収容所の外で裸にならなくてはならなかった。すでに寒気は厳しかったが、囚人は冷たい殺菌入浴をしなくてはならず、ついで、濡れた裸のまま収容所に運ばれた。アウシュヴィッツ収容所には、収容所の他の部分とは電気鉄条網で隔てられている9つのブロックがあり、入り口には、『捕虜労働収容所』という標識が掲げられていた。ロシア軍捕虜のための収容所は、ブロック1、ブロック2、ブロック12、ブロック14、ブロック22、ブロック23、ブロック24からなっていた。ブロック32324は一階であった。

 SS下士官のハンス・シュタルクが捕虜の登録を監督し、私は囚人の書記として、何人かの収容者とともにこの仕事に参加した。」

 

受け入れの手順を手短に述べたのちに、スモレンは続けている。

 

10000名の捕虜の登録には約3週間かかった。その間に、約1500名が死に、われわれは、彼らの認識票とともに、グリーンカードをベルリンに送った。

 194111月、ゲシュタポの特別委員会がやってきた。彼らは、カトヴィツェの国家警察本部からやって来ており、ミルドナー博士が指揮していた。この委員会は、国家警察本部長ミルドナー博士、ロシア語に通暁した秘密機関の3名で構成されていた。収容所管理局は、何名かの収容者を秘密機関からの3名の通訳として任命した。別の収容者と私は、政治部によってゲシュタポ特別委員会に割り当てられた。その結果、私は、特別委員会のすべての行動を観察することができた。」

 

 スモレンによると、ゲシュタポ特別委員会が一人一人のロシア軍捕虜に対する尋問に責任を負っており、彼らを3つのグループに分類した。

1. 「政治的にどうしようもないもの」、「狂信的な共産主義者」を含むグループ。

2. 「政治的な疑いのないもの」。

3. 「再教育に適しているもの」。

 

 スモレンは続けている。

 

300名の捕虜が、とくに重要な人民委員、政治委員として選別され、『狂信的な共産主義者』とされた。これらの囚人は、すぐに、ブンカーに変えられていたブロック23aの尋問室に移された。SS下士官シュタルクがブンカーで彼らを受け取り、囚人番号を古いものから新しいものに変えた。新しい番号はAu1からAu300までであった。Auという番号をもった囚人は胸の左側にそれを入れ墨され、ロシア人収容所の他の囚人からは完全に隔離された。

 特別委員会の活動は1ヶ月で終わった。記憶している限りでは、上記の囚人の分類は次のようであった。

   グループAu 300囚人

   カテゴリーA 700囚人

   カテゴリーB 8000囚人

   カテゴリーC 30囚人

  私は、政治部で働いていたので、Auラベルの300名の囚人が小グループごとに処刑されたことを知っている。ロシア人収容所の状況はひどく悪く、平均して毎日250名の囚人が死んでいった。約8000名が19422月までに殺されたか処刑された。残りの1500名の捕虜はアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所に移送された。外部収容所がアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所に建てられた。この外部収容所は移送者が到着するたびに拡張されたが、2000名以上になることはなかった。1942年中頃、150名を除いて、ロシア軍捕虜全員が、死ぬか、処刑されてしまっていた。」

 

 スモレンは、宣誓陳述の最後で、ナチスがロシア軍捕虜に対して行なった犯罪を要約して次のように述べている。

 

「私はこのように述べる。収容所の状況は、アウシュヴィッツのロシア軍捕虜にとっては、最悪であった。ロシア軍捕虜は劣悪なかつ少ない食料を受け取っていた。とくにパンの量は少なかった。彼らはものを書くことも、洗濯板のある(ママ)部屋を使うこともできなかった。だから、当然ながら、2ヶ月以内で、収容所は荒廃した。これに加えて、選別がしばしば行なわれ、労働できないものが100名単位で処刑されたこともあった。Auと分類された収容者、死刑とされたものは、首筋を銃で撃たれるか、ブロック11でガス処刑された。」[注25NO-5849

 

 以上が、カジミェシ・スモレンがブロック11でのガス処刑に関して示唆している箇所である。これは、それ以外のものと比べても、極端に曖昧で、簡潔であり、その性格を裏切っている。最新の噂話を報告する義務があったので、噂を報告したにすぎない。事実、スモレンの証言の中の二つの点は、ダヌータ・チェクが『アウシュヴィッツ・カレンダー』の中で描いた最初のガス処刑の話がまったく歴史的根拠を欠いていることを明確に示している。

 第一に、問題となっているガス処刑が起こったとすれば、スモレンはそれについて知らなかったはずがない。彼はこの当時アウシュヴィッツ政治部で働いており、ミルドナーの指揮する特別委員会に配属されていたからである。一方、スモレンは、自分の宣誓証言の全頁をさいて、ロシア軍捕虜の栄養状態の悪さを詳しく述べている。

 ポーランド検事局のヤン・ゼーンは、最初のガス処刑は、特別委員会の決定にしたがって実行されたと述べている。

 

194111月、3名のゲシュタポ将校からなる特別委員会がカトヴィツェからオスヴィエチム(アウシュヴィッツ)にやってきた。この委員会は、囚人を尋問して、1941717日の国家保安部長官の命令に従って、囚人を4つのグループに分けた。囚人は、彼らがソ連の行政機関と共産党にどのようにかかわっていたのかという秘密ファイルにもとづいて分類された。この委員会自身が分類を決定した。さらに、最初の二つのグループに登録されることは死刑を意味していたという事実がある。約300名の囚人からなる最初のグループは、壕かブロック11の庭で射殺された。処刑命令を下したのは、当時の第二収容所長代理SS中尉ザイドラーであった。

 第一収容所長代理SS大尉カール・フリッチュの発意で、第二グループに分類された囚人(約900名)とその後の移送から選別されたものがチクロンBガスによって殺された。フリッチュはブロック11の地下室に囚人たちを押し込み、ガスマスクを付けたのちに、毒を内部に投下した。ブロックはその後2日間にわたって換気されなくてはならなかった。」[注26Hefte von Auschwitz, 2, p. 109.

 

このゼーンの記述を念頭に置くと、スモレンが最初のガス処刑について知らなかったことは信じがたいことである。

スモレンが1947年末であっても、ブロック11のブンカーでのガス処刑について何も知らなかったことは、このガス処刑が起こらなかったことを示している。

この点について問い合わせたところ、スモレンはスポークスマンを介して次のように答えている。

 

「アウシュヴィッツの囚人であったスモレンはニュルンベルク裁判で証言を行なっているが、知ってのとおり、彼は、法廷が質問した事項を回答したのであり、自分が観察したすべての事件について詳しく述べることはできなかった。」[注27Letter from the Auschwitz Museum to this author, May 4, 1988.

 

この説明はまったく納得できないものである。確かに、スモレンは上記の宣誓陳述では、尋問のときもそうであるように、「具体的質問」には答えていないが、194142年のアウシュヴィッツでのロシア軍捕虜の運命について、とくに、彼らに対する犯罪について自由に話している。だから、自分はこの特別な問題については尋ねられなかったので最初のガス処刑については話さなかったという彼の主張は、「ブロック11でガス処刑された」囚人についてほんのわずか言及していることからも判るように、とってつけたような説明である。つまり、彼は具体的な問題について回答し、最初のガス処刑については何も知らなかったか、それとも、具体的な問題については解答しておらずに、彼の回答が嘘であったかのどちらかである。

第二に、「最初のロシア人の移送」がアウシュヴィッツに到着したのは、194110月初頭であるのだから、600名のロシア軍捕虜が93日にアウシュヴィッツでガス処刑されたというのは虚偽である。

さらに、ミルドナーの指揮する委員会がアウシュヴィッツに着いたのは「194111月」であり、「一ヶ月後」に仕事を終えたとされている。そして、最初のガス処刑はこの委員会が選別した人々に対して実行されたという。だから、最初のガス処刑は12月以前に起こるはずもなかったのである。

さらに、この委員会が194112月までにAuグループとして選別した捕虜の数は300名であった。だから、600名が93日にガス処刑されたのというのはまったくの虚偽である。

最後に、ブロック11での最初のガス処刑の歴史的な不合理性については、アウシュヴィッツ博物館の3名の研究者によっても間接的に確証されている。彼らの研究はブロック11のブンカーの登録に関してであり、それは、Hefte von Auschwitz (1959)に掲載されている。この登録簿Bunkerbuchには、194119日ー194421日までにブンカーに収容されたすべての収容者の名前が記載されている。最初のガス処刑が実際に起こったとすれば、登録簿には何らかのその痕跡があるに違いない。3名の研究者はいわゆるガス処刑についてほんの2行だけほのめかしているにすぎず(10頁)、登録簿から51頁を再録している一方で、9月初頭の記録については再録を差し控えている。私はアウシュヴィッツ博物館にこの頁を注文したが、送られてはこなかった。この事実は、この頁が最初のガス処刑の痕跡をまったく残していないどころか、ガス処刑の始まった93日から換気の終わった97日のあいだに収容者の登録が行なわれたというような、最初のガス処刑という事件とはまったく矛盾するような部分を記載していることを示している。

最初のガス処刑の歴史的不合理性については明らかとなった。このガス処刑に関するさまざまなバージョンはたんに根拠がないというだけではなく、まったく矛盾している。次に検証すべきであるのは、ダヌータ・チェクがこれらのバージョンを一つのバージョンにまとめ、それが最終的となった筋道である。換言すれば、『カレンダー』の編集者の歴史学的方法が検証されるべきであり、とくに、編集にあたって、どのような方法的基準があてられたのか、この絶滅論者の歴史学にはどのような学問的な価値があるのかを検証することである。

ダヌータ・チェクが『カレンダー』の中で提示した最初のガス処刑の話は、相互に矛盾したさまざまな資料を混ぜ合わせることであった。

ダヌータ・チェクは、犠牲者の数、内訳、およびガス処刑の記述をポーランド調査委員会報告から引き出している。一方、死体の搬送についてはロザンスキの証言から引き出し、その他の資料からも諸点を付け加えている。

その上、ガス処刑を記述するにあたっては、ポーランド報告のテキストを勝手に修正し、「石炭室」を「地下室」に、「一人のSS隊員」を「SS隊員たち」に変えている。

ガス処刑された死体の搬送については、「翌日の夕方」と述べているポーランド調査委員会報告からの情報にもとづいて、ロザンスキの「朝」の代わりに「夕方」としている。ロザンスキによると、死体の搬送は懲罰隊のわずか20名の収容者で行なわれていたことになっているのに対して、ダヌータ・チェクの報告では、懲罰隊の20名の収容者と「病院関係者」となっている。この情報はヴァチェク証言からのものであるが、その証言は30名の搬送者はすべて病院関係者であったと述べているのである。

最後に、ダヌータ・チェクはロザンスキ証言から、死体の搬送にはエントレス医師が立ち会っていたと述べているが、彼は9月初頭にはアウシュヴィッツにはいなかったのである。[注28:注1を参照]

ダヌータ・チェクはヘスの「自白」から、ブンカーの換気を2日間としている。『カレンダー』は、懲罰隊がブロック11に戻ってきたのは、ブロックか換気されてきれいになった98日であったと述べている。換言すれば、懲罰隊が戻ってきたのは、96日と7日の2日間の換気ののちのことであった。ダヌータ・チェクはガス処刑が終わったのは95日であると述べていることを考慮すると、犠牲者の苦悶は2日間続いたことになるが、ヘスによれば、彼らは即死であった。

ダヌータ・チェクがガス処刑を記述するにあたって依拠したポーランド調査委員会報告の資料を特定することはできない。唯一確かなことは、犠牲者の数は850名であって、600名がロシア軍捕虜、250名が病気の収容者であったことである。これは、19411024日のノートに由来しているが、このノートは、全員が「ロシア軍捕虜と下士官」であったとしており、病気の収容者は含まれていない。

ポーランド調査委員会は、194611月付けのヘスの「自白」を知らなかった。委員会が調査を開始したのは1945年であり、翌年には、おそらくヘスが1946525日にポーランドに移される以前に、報告書を発表しているからである。

確かに、50年代後半に研究を行なったダヌータ・チェクはヘスの「自伝」については言及していない。最初のガス処刑に関するヘスの証言はポーランド調査委員会報告とはひどく矛盾しているからである。

ダヌータ・チェフが提起しているガス処刑の日付――194193日――の情報源は、いかなる資料にも存在しない。もっともそれに近い日付は、Polish Fortnightly Reviewの記事に登場しているもので、956日の夜である。

勝手であることは別としても、ダヌータ・チェクが提起している日付は矛盾もしている。『アウシュヴィッツ・カレンダー』には、ガス処刑の話の数頁後に、次のような記録が登場している。月は11月であり、日についてはまったく示唆がない。

 

「カトヴィツェのゲシュタポの特別委員会が、アウシュヴィッツに到着した。3名から構成されており、カトヴィツェのゲシュタポ長官ルドルフ・ミルドナー博士によって指揮されていた。この委員会は、1941717日の特別命令第8号にしたがって、ロシア軍の戦争捕虜を次のようなグループに分類した。

1.狂信的な共産主義者、約300

2.グループA:政治的に許されないもの、700

3.グループB:政治的疑いのないもの、8000

4.グループC:再教育に適しているもの、約30

 狂信的な共産主義者あるいはAグループに属している収容者は、絶滅を運命づけられていた。この委員会の活動は少なくとも1ヶ月続いた。」[注29Hefte von Auschwitz, 2, p. 113.

 

この部分は、前に引用したスモレンの宣誓陳述からとられている。スモレンが、ロシア軍捕虜の「最初の移送」がアウシュヴィッツに到着したのは「10月初頭」であり、ミルドナーの委員会が到着したのは1941年「11月」で、その仕事が終わったのは「1ヶ月後」すなわち12月であったと述べていることを思い出していただきたい。それゆえ、最初のガス処刑の犠牲者は、この委員会によって死刑を運命づけられた、正確には、ヤン・ゼーンによると、グループBに分類されたロシア軍捕虜であったに違いない。とすると、このガス処刑が、93日に起こるはずはないのである。

これは、矛盾した資料を混ぜ合わせ、矛盾を解消するために矛盾を除去しようとする事例なのである。

最初のガス処刑が93日に起こったことを確証するために、ダヌータ・チェクは、最初のロシア軍捕虜の最初の到着を勝手に見越している。事実、彼らに関する『カレンダー』の最初の登録は7月にまでさかのぼっており、「数百のソ連軍囚人」の到着について言及している。彼らはその後に、全員が小口径の銃、シャベル、つるはしで殺された。[注30Hefte von Auschwitz, 2, p. 106]ダヌータ・チェクは到着の日付も情報源も明らかにしていない。

第二の登録は93日の日付であり、600名のロシア軍捕虜がガス処刑されたことに関係している。ダヌータ・チェクは情報源を明らかにしていない。107日から1115日までは7回の登録があったのに。[注31Hefte von Auschwitz, 2, pp. 111 -114.1115日の登録は、1941年の最後の移送であった。この時期にアウシュヴィッツに移送されたロシア軍捕虜の合計は、9983名であった。この数字は、スモレンが提示している数字と同様である。最初の移送の到着は、スモレンの証言、すなわち10月初頭と一致している。それゆえ、ロシア軍捕虜は、この日以前にはアウシュヴィッツに到着していないのである。

このことはまた、ダヌータ・チェクが107日以降の移送に関して報告している事実によっても確証される。この資料は、ロシア軍捕虜のファイルであり、それは107日から始まっている。しかし、『カレンダー』の編纂者は、これ以前の2つの移送については資料をあげることができない。このことは非常に意味深い。さらに、ロシア軍捕虜の『死亡者記録』が107日の最初の死亡を記録していることを考慮すると、もし、別の資料が登場しなければ、ダヌータ・チェクが記録している107日以前の最初の2つの移送は捏造されたものであると結論できるのである。

このことは、アウシュヴィッツ『カレンダー』の編纂にあたっての歴史学的方法の重要な事例である。

さて、結論に移ろう。

アウシュヴィッツのブンカー11の地下室での最初のガス処刑の物語は、歴史的に根拠がない。それは、資料によっても、目撃証言によっても立証されていない。参照しうる数少ない証言はすべて、ブンカーからの死体の搬送について言及しているが、本質的な点で、互いに内部矛盾を抱えている。

それゆえ、最初のガス処刑は歴史ではなく神話である。この神話は194110月にポーランドの戦争宣伝によって形作られた。

神話の最初のバージョンは、1942年半ばまで支配的であったが、のちにビルケナウのガス室の焼却棟をもたらすことになる絶滅過程につらなるかたちでの最初のガス処刑とはなっていない。その代わりに、最初のバージョンによると、最初のガス処刑は、戦争目的のためのガスの有効性を検証するための単なる科学実験であった。

最初のバージョンの本質的な要素は矛盾している。

19411024日のノートは、処刑場所を特定せず、「10月の初めに」850名のロシア軍捕虜がアウシュヴィッツでガス処刑されたことを記している。Polish Fortnightly Reviewの記事は、犠牲者の数と処刑の日時を修正している。すなわち、約1000名であり、うち700名がボリシェヴィキの捕虜で、300名がポーランド人であり、彼らは、956日の夜に処刑されたというのである。処刑の場所はまだ特定されていない。アウシュヴィッツの地下シェルターとだけある。19427月のノートは、最初のガス処刑の歴史をはじめて、ガス室による全体的な絶滅過程の中に置いた。最初のガス処刑はこの過程の出発点とされているが、もっと矛盾した形で描かれている。すなわち、日付は6月に戻り、犠牲者の数は1700名に増え、その内訳には、ロシア軍捕虜は含まずに、すべてが病気の囚人となり、処刑場所は、実際のガス室となった。このようにして、ガス室神話に命を与えた後に、自分自身の神話としての役割は消滅した。

 匿名の「ポーランド軍大尉」は、194411月に戦争難民局が公表したアウシュヴィッツ・レポートの作者の一人である。彼は、1941年の事実について詳しく報告しており、ブロック11のブンカーについても特別なパラグラフを当てているが、最初のガス処刑についてはまったく無視している[注32Executive Office of the President. War Refugee Board. Washington, D.C. German Extermination Camps-Auschwitz and Birkenau. Part 2, pp. 14-19.]。さらに、スタニスラフ・ヤンコフスキは1945413日の報告の中でもこれを無視しており[注33Declaration of Stanislaw Jankowski, in, Hefte von Auschwitz, Sonderheft 1, 1972.]、57日のソ連調査委員会の報告もこれを無視している[注34URSS-8.]。1947年末になっても、情報を多く持っていた証人の一人であるカジメシ・スモレンもそれについては何も語っていない。

この神話は、58日に、ヴァチェクの証言の中に突然再登場した。神話はまだ進化過程にあったが、最終的な要素を含むことになった。処刑場所はブロック11となったのである。今日では、ガス処刑の場所をはじめとして、その他の要素を確定するようなものは何も残っていない。当初、このバージョンは、ガス処刑は、ヴァチェクがブロック11のガス室と呼んだひとつの部屋で行われたと述べていた。数ヶ月後の、713日、ペリー・ブロードがブンカーの地下室というもうひとつの決定的な要素を持ち込んだ。正確に言えば、彼は40名のロシア人がガス処刑されたひとつの地下室について述べているだけであり、その年さえも言及していない。彼のコメントからは、彼は、最初のガス処刑について断言しているように見える。「ヒトラーと彼の同調者が計画し、おそろしくて口にすることもできないようなやり方で実行されたもっとも憎むべき犯罪のための、それは完全な成功であった。このときから、虐殺的な悲劇がはじまり、それまでは幸福に無垢に暮らしていた数百万の人間が犠牲者となった。」[注35Auschwitz vu par les SS, op. cit., pp. 181-182.1959年、アウシュヴィッツでのスモレンの直接の上司であるハンス・シュタルクがこのバージョンに刺激されて、アウシュヴィッツのSS隊員から、囚人の最初のガス処刑が、1941年の秋にブロック11の地下室ではじめて行なわれたと述べた[注36Interrogation of April 23, 1959. Zentrale Stelle Ludwigsburg, AR-ZZ 37/58 SB 6, p. 948.]。

1945年に調査をはじめたポーランド調査委員会報告は、神話を歴史学的にシステム化する最初の試みであった。神話は、この委員会によって、ガス室を使った絶滅過程の歴史的な先行者、必要な前提の地位に押し上げられたのである。委員会は、二つのその他の決定的な要素を挿入した。すなわち、犠牲者の数は、恐らく1024日のノートの影響を受けて、850名とされ、ガス処刑の様子も記述した。実際には、それは技術的にも馬鹿げており、目撃証言にももとづいていないものであったので、発明されたものであった。その代わりに、日付は、依然として不確定のままであり、1941年夏とされた。

1946年、ヘスはまだイギリス軍の手にあるときには、最初のガス処刑を無視していた。ポーランドに移送されてはじめて、194611月と19472月のいわゆる「自白」の中で、それについて語り始めた。その記述は、ポーランド調査委員会の記述とはまったく矛盾していた。しかし、神話は、失われていた要素すなわちブンカーの地下室という要素を獲得した。
  1948年、ロザンスキは、神話に死体の搬送の記述を付け加えたが、この記述はヴァチェクとバルツの証言とはまったく矛盾していた。

1959年、ヤン・ゼーンは、ヘスの『自伝』とスモレンの宣誓陳述に依拠して、最初のガス処刑を、ミルドナーの指揮する特別委員会の活動と結びつけ、その結果、最初のガス処刑の時期を194112月に動かした。

同年、神話の最終的なバージョンが『アウシュヴィッツ・カレンダー』に登場した。ダヌータ・チェクは、巧妙な資料操作をすることによって、たがいに矛盾する資料を混ぜ合わせた。さらに、チェクは、その他の面ではよく利用しているスモレンの証言を無視して、93日という日付を勝手に作り出した。

これによって、神話は完成し、絶滅論者の歴史家たちに提供された。彼らは、まったく無批判的に、『アウシュヴィッツ・カレンダー』が提供していることをすべて受け入れたのである。そして、『カレンダー』は、強制収容所での事実を語った精髄として賞賛されているのである。

 

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