『ホロコーストの否定(邦訳:ホロコーストの真実)』(リップシュタット)を批判する
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年9月18日
本試訳は当研究会が、研究目的で、 @ Carlo Mattogno, DEBORAH LIPSTADT: A review of Denying the
Holocaust A Anthony
Oluwatoyin, Deborah Lipstadt's Assault on Academic
Standards, The Journal of Historical Review, 1995, vol. 15, no. 5 の2論文を、「『ホロコーストの否定(邦訳:ホロコーストの真実)』(リップシュタット)を批判する」と題して試訳したものである。 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。 online:http://codoh.com/review/revdeblip.html http://ihr.org/jhr/v15/v15n5p40_Oluwatoyin.html また、邦訳書の滝川義人訳『ホロコーストの真実』(上下、恒友出版、1995年)を参照させていただいた。訳者に謝意を表しておきたい。 |
@ リップシュタット:書評『ホロコーストの否定』
C. マットーニョ
1. Cum studio et ira
反修正主義的宣伝は大量に存在するが、その中でも、デボラ・リップシュタットの『ホロコーストの否定』[1]ほど貧相下劣なものを見つけ出すことは困難であろう。
修正主義はナチスに起源を持っているとの虚偽が、執拗に繰り返されているだけではなく、そのような中傷が、本書の本質、存在理由ともなっているのである。まさに、憤怒が武器を提供している。
修正主義者はナチス、もしくはネオ・ナチであり、人種差別主義者であり、反ユダヤ主義者である。それにゆえに、修正主義者は嘘つきである。この基本テーゼが本書全体を通じで、あらゆる形式・文体を使いながら、執拗に繰り返されている。このような主張に回答するために時間を無駄にしようとは思わないが、修正主義者に対する激しい憎悪で燃え上がっているだけではなく、真実への情熱的献身でも燃えあがっていると称する、この「純粋な魂」が執筆した、「高貴なる文章」のサンプルを以下に紹介しておこう。その一方で、中傷と的外れの議論に満ちた278頁の本書のうち、わずか7頁だけが、チクロンBと「殺人ガス室」に触れているだけである。しかも、その数頁でさえも、プレサックの最初の本の結論を掲載しているにすぎない。プレサックの著作は、わが真実の擁護者に、彼女のような無能力者に対するのと同様に、深い印象を与えたにちがいない。そして、彼女は、無知であればあるほど、無能力であればあるほど、多くの言葉を並べ、その叫び声がきんきんしたものとなっていくという反修正主義的宣伝の路線に忠実にしたがっている。
リップシュタットの思考の根底にある方法論的な原則はごく単純である。すなわち、ホロコーストは議論の対象とはならないのだから、それを議論しようとする人々は嘘つきであるにちがいない、だから、自分のなすべきことは、この大前提を明らかにするために、もっともふさわしい嘘を作り出すことであるというのである。そして、リップシュタットはこの問題を解決するにあたって、これまでの宣伝家たちの妄想をはるかに上回る妄想から、修正主義者による世界的な陰謀という話を作り上げた。すなわち、彼らの長老たちが、ひそかに、地獄の鍛冶場の中で、ナチス体制を復権・復活させるための悪魔的道具を鍛え上げ、その悪魔的道具が修正主義だというのである。
まず、リップシュタットは次のように自分の原則を組み立てている。
「1930年代、ナチスの鼠どもは反ユダヤ主義という劇毒をばらまき、その結果数百万の生命を抹殺した。今日、この種の鼠どもの運ぶ病原菌が、世界の記憶を抹殺することによって、ナチスの手にかかって死んだ人々を、もう一度殺そうとしている。」(p. XVII、邦訳上25頁)
「ファシズムの復活が可能となるには、まずこの汚点を払拭しなければならない。最初、彼らはホロコーストを正当化しようとした。それが今では、ホロコーストはなかったと言っている。」(p. 23、邦訳上79頁)
「当初、ホロコースト否定は、小さな政治的過激集団によって行なわれていた。」(p.
24、邦訳上80頁)
「彼らの目的のひとつであるドイツの歴史的復権を果たすために、彼らはホロコーストを『抹殺』しなければならない。」(p. 42、邦訳上111頁)
「結果として、ホロコースト否定は彼らのイデオロギーの中の重要な要素となった。もし、ホロコーストが神話であると世論に納得させることができれば、民族社会主義の復権は、ありうる選択肢となるからである。」(pp. 103-104)
ここから、リップシュタットは、修正主義の起源を歴史的に概括することによって、陰謀理論を明らかにしようとする。
「第二次大戦の終結は、アドルフ・ヒトラーが抱いていた第三帝国の夢の挫折を意味した。理性的な人間は、それがイデオロギーとしてのファシズムの終焉である、と受けとめた。ファシズムがナチズムと結びつけられ、そのナチズムが最終解決の恐怖と結びつけられるかぎり、この二つは完全に信用失墜の状態におかれる。しかしながら、この政治システムを棄てようとしない人々がいた。彼らは、復権できる唯一の方法が、ホロコーストおよびそれに付随するむごたらしい大規模殺戮とその政治システムを切り離すことにある、と認識していた。」(p. 49、邦訳上124頁)
そして、この口には出せないような作戦は、モーリス・バルデシュによってフランスで始められたという。バルデシュは、1948年に出版された『ニュルンベルクか約束の地か』によって、世界で最初のホロコースト修正主義者となったという。
「彼は、ガス室は殺人ではなく、消毒用に使われたと主張した最初の人物である。バルデシュは、いかがわしい経歴のゆえに――終生ファシストで通した――、否定派の間では問題児であった。ホロコーストは神話であり、ナチスは間違ったとらえかたをされていると主張したにもかかわらず、バルデシュが今日の否定派からオープンに受け入れられたことはない。もちろんそれは、彼のアイディアが受け入られなかったということではない。彼らは彼の主張を使うけれども、彼が至極はっきりした政治的見解を開陳するので、名前を出すことはほとんどない。はっきりした立場とは、例えば『ファシズムとは何か』と題する著書で、『私はファシスト作家である』と自己紹介しているのがそうである。バルデシュは二作目の本で、自分の目的なるものを明らかにした。それは、現代の否定派もほとんど一語一句違わずに使っている。…」(pp. 50-51、邦訳上126頁)
アメリカで執筆しているリップシュタットは、アメリカ人の読者が無知であることを当て込んで、読者をだますことができるかもしれないと考えていたのかもしれないが、フランスで執筆しているヴィダル・ナケは、そのようなことはできず、歯を食いしばりながらも、真実を認めざるをえなかった。
「『オデュッセウスの嘘』(1954年)の第二版への前書きの中には、モーリス・バルデシュへの驚くべき賛辞が掲載されている(235頁注6)[2]。この『すばらしい本』には読むべき価値がある(Rassinier, Veritable process Eichmann, p. 43)[3]。当時、モーリス・バルデシュは、ヒトラーのジェノサイドが存在しなかったという証拠をまだ発見してなかった。『ユダヤ人絶滅の意図は存在し、その証拠は数多くある』というのである。」(p. 187)[4]
ヴィダル・ナケの引用は正確である。バルデシュは、「ユダヤ人絶滅の意図は存在し、その証拠は数多くある」[5]と書いているだけではなく、もっと明瞭に次のように述べているからである。
「もちろん、東ヨーロッパでは、ドイツとその隣国とのあいだで決着をつけなくてはならない恐るべき争点があった。確かに、絶滅政策が存在したのである。…」[6]
「一方、ここでは、ソ連代表が提出した証言を考慮しなくてはならない。とくに、ユダヤ人が処刑施設を隠した偽の鉄道駅に到着するとすぐに大量処刑が行なわれたトレブリンカの絶滅基地を物語っている証言である。…」[7]
「ニュルンベルクの被告たちは、アウシュヴィッツ、トレブリンカその他で行なわれた大量処刑については戦時中はまったく知らなかったと主張した。」[8]
リップシュタットに戻ろう。彼女は、バルデシュを修正主義のファシスト的創立者に任命したのちに、やはり同じような「真実への愛」を抱きつつ、ラッシニエをファシスト作家の弟子、共犯とみなしている。
「次の戦史破壊も、フランスに生まれている。1948年、ポール・ラッシニエという人物が『一線を越えて』と題する本を出した。彼は、共産党と社会党の経歴があり、ブッヘンヴァルトとドラの強制収容所に収容された経験を持っていた。ラッシニエは、その後20年の間に一連の本を出したが、この処女作で、とくに残虐行為に関するナチスの振る舞いについての、生存者の証言が信用できない、と書いた。ラッシニエは1922年、16歳のときに共産党員となり、1930年代中頃に離党して、社会主義政党に入党している。戦争が勃発すると、レジスタンス運動に加わった。その後、捕まって、ブッヘンヴァルトに送られた。1945年に解放されると、彼はフランスに戻り、社会党から国会に選出され、一年間議員生活を送った。その後、著作活動に入ったが、その著作の多くはナチス擁護論で、残虐行為という告発は大きな誇張であり、不公平であると論じていた。」(p. 51、邦訳上127頁)
そして、リップシュタットは幸運なことに、自分の鋭い鑑識眼を使って、ラッシニエの悪魔的な計画を発見し、それを暴露したというのである。
「第一に、彼は仲間の囚人たちの証言の信憑性を破壊しなくてはならなかった。彼らの言っていることを信じるかぎり、ナチス免罪を論じても実りのないものになってしまうからである。」(p. 53、邦訳上131頁)
しかし、リップシュタットの本が当て込んだ人々でさえも、不可解の念にとらわれるであろう。ラッシニエは社会主義者であり、レジスタンス活動家であった。そして、11日間にわたってゲシュタポから拷問され(「手は砕かれ、顎も砕かれ、腎臓ははれ上がっていた」[9])、ブッヘンヴァルトとドラの強制収容所に送られ、そこで19ヶ月をすごしてから、重病人同然となって出所した[10]。その彼がなぜ「ナチスを擁護」するのか。投獄した人々への感謝の念からなのか。それとも、マゾヒズムからなのであろうか。リップシュタットと同類の宣伝家たちは、説明できない場合に、いつも反ユダヤ主義で説明しようとしてきたが、リップシュタットもこの古典的な説明に頼らざるをえなかった。すなわち、「ラッシニエのホロコースト否定は、反ユダヤ主義の古典的様式を表明しているにすぎなかった」(p. 64、邦訳上149頁)というのである。
ラッシニエは、自分を拷問し、強制収容所に送ったナチスよりも、自分にまったく害を与えなかったユダヤ人を憎悪していた、そして、この「偏見」が「非合理的」であることを知っていたというのである。信じがたいほどの妄想である。
ついで、リップシュタットは、持ち前の「知的誠実性」を発揮しながら、次のように、修正主義のその後の発展を概観している。
「バルデシュ、ラッシニエ、バーンズ、アップなどの第一世代の否定派は、その後継者たちと異なっている。第一世代の集団は、ナチスの反ユダヤ主義を正当化することで、ナチスを免罪しようとしていた。」(p. 52、邦訳上129頁)
しかし、修正主義者の長老たちは、この計画が失敗したのを見て、戦術転換を決意したという。
「否定派が、方法を変え始めたのは1970年代に入ってからのことである。彼らは、ナチスの反ユダヤ主義を正当化しようとしても、それが不毛であることを認識するようになったのである。彼らは、戦術的観点から、ナチスの反ユダヤ主義についての証拠は明白なので、それを否定したり、正当化することは自分たちの仕事の信憑性を失わせてしまうことに気がついた。否定派は自分たちの議論を広めるにあたって巧妙になっていき、ナチスが反ユダヤ主義であったことを『譲歩して認め』はじめた。反ユダヤ主義に従事しながら、その一方で、反ユダヤ主義に憤慨するふりさえもしたのである。」(p. 52、邦訳上130頁)
これが、リップシュタットの二番目の公理、すなわち、修正主義者の中には誠実であるものは誰もいない、善良であるものは誰もいない、彼らすべてが秘密の目的をもっているという二番目の公理を正当化する、修正主義についての彼女の基本的妄想である。
「否定派が自分たちの目的を達成するために利用する戦術の一つは、自分たちの目標を隠蔽することである。彼らは、ファシストであり、特定のイデオロギーと政治目的を有する反ユダヤ主義者であるが、この事実を隠そうとして、自分たちの目的は歴史の嘘、すべての歴史の嘘を暴くことであると主張している。」(p. 4、邦訳上40頁)
リップシュタットによると、修正主義者とは「学術研究のふりをして、自分たちの憎悪イデオロギーを隠すことに成功している過激な反ユダヤ主義者」(p. 3)なのである。
そして、リップシュタットは修正主義者の卑劣なやり方を発見し、持ち前の高い「道徳的正直さ」から、自分の発見を世界に伝えているというのである。
「これこそが否定派の目標である。すなわち、彼らは、実際には学術的でも何でもないのだが、学術的な研究をやっているように見せかけることによって、問題を混乱させようとしている。ホロコーストを否定する試みの基本戦略は歪曲である。絶対的な嘘に真実を混ぜることで、否定派の戦術を知らない人々を混乱させるのである。決定的な情報を都合よくカットした半真理とつぎはぎ話によって、実際に起きたことについての歪曲された印象を与えるのである。ホロコーストを確証する文書資料や証言は豊富に存在するが、それは、偽造、捏造、虚偽とされてしまう。本書は、否定派が自分たちの本当の目的を隠すために、どのようにして、この方法を使っているのかを紹介・解明するものである。」(p. 2、邦訳上37頁)
このようにして、リップシュタットは自分の三番目の公理、すなわち、修正主義者の議論すべてには価値がないという公理に到達する。これは、彼女の議論の中でもっともデリケートな論点である。もしも、リップシュタットの読者が、そうは言っても、修正主義者の議論は歴史上の証拠にもとづいていると考えるかもしれないし、その場合には、このような危険な疑問を払拭するために、何かを発明しなくてはならないからである。わが宣伝家は、「ホロコースト否定は非合理主義の権化である」(p. 20)、「まったく非合理的である」(p. XVI)と荘厳に謳いあげている。修正主義とは「一番古い憎悪、すなわち反ユダヤ主義に深く根ざした非合理的現象」であり、「反ユダヤ主義は、ほかの偏見と同じように、論理を受け付けない」(p. XVII、邦訳上24頁)というのである。
さらに、リップシュタットは、読者を間違った方向に誘導する自分の立論の効果にまだ満足していないのか、非政治的な議論までも提起している。すなわち、修正主義は、文明世界の存在自体にとって脅威だというのである。
「ホロコースト否定は、この現象の一部である。それは、一つの特定集団の歴史に対する攻撃ではない。ホロコースト否定はユダヤ人絶滅の歴史に対する攻撃であるだろうが、その核心においては、知識と記憶はわれわれの文明の要であると信じている人々すべてに対する脅威となっている。ホロコーストがユダヤ人の悲劇ではなく、ユダヤ人が犠牲となった文明の悲劇であるように、ホロコースト否定は、ユダヤ人の歴史に対する脅威というよりも、理性の究極的な力を信じている人々すべてに対する脅威となっている。ホロコースト否定は、ホロコーストが文明的な価値を拒絶したのと同じやり方で、理性的な議論を拒絶している。ホロコースト否定は疑いもなく、反ユダヤ主義の一形態であり、そのようなものとして、理性的な社会のもっとも基本的な価値に攻撃を加えている。その他の偏見と同じく、調査・立論・討論という正常な力では対処できない非合理的な憎悪なのである。」(pp. 19−20、邦訳上71−72頁)
リップシュタットの結論は、「理性的な論議と反知性的・似非科学的議論のあいだ」、健全な歴史研究と「あらかじめ決めておいた結論とは矛盾するものを排除するイデオロギー的過激主義」(p. 25、邦訳上82−83頁)とのあいだには重大な相違があるがゆえに、そして、修正主義を信用ある歴史観の地位に引き上げることができないがゆえに(p. 1 et passim、邦訳35頁その他)、修正主義者との論議はありえないというものである。だとすると、なぜ、リップシュタットはわざわざ本書を執筆したのであろうか。以下がその答えである。
「否定派の話にいちいち答えるのは、時間の無駄である。証拠をねじ曲げ、記録や発言を文脈から切り離して部分的に引用し、自説とは矛盾する証拠の山を切り捨てる。こうした方法を駆使する人々の議論に対処するには果てしのない努力が必要である。対処しなくてはならないのは、修正主義者の議論自体ではなく、議論のやり方である。私が明らかにしておきたいのは、彼らが物事を混同せしめ、歪曲するやり方である。とくに、彼らの過激な見解を隠蔽している理性的な調査という幻想を暴露することが重要である。」(p. 28、邦訳上88頁)
以上の宣伝声明こそが、リップシュタットの本の価値をすべて物語っている。すなわち、彼女の本は、ごく少数の有名な修正主義者は、および修正主義的見解を披瀝している多くの無名の人々は、元をたどればナチスに帰着するということを冗長に繰り返しているだけなのである。さらに、彼女はドイツ、オーストリア、スイス、スペイン、ベルギー、イタリアの修正主義にまったく無知である。そして、彼女の典拠資料はほぼすべてが英語であり、それ以外の言語の著作が引用されていてもすべて英訳されているものである。何というほど、地域的に偏っているのだろうか。地域的に偏っているだけではなく、素人の片手間仕事の典型である。
2. リップシュタットの「証拠」
リップシュタットは、たんなる宣伝目的だけの内容に満足しない人々のために、殺人ガス室の実在性、ならびにアンネ・フランクの日記の信憑性についての究極的「証拠」も提示している。アンネの日記については、一部の修正主義者がこの作品の信憑性について執拗に論じているが、作品自体はガス室問題には関係がなく、これが本物であるか偽物であるかという問題はガス室問題にはまったく関係がないので、私個人としては、どうして、執拗に議論されているのか理解できない。これに対して、プレサックの「証拠」なるものについては、十分に議論する価値があると思われる。
リップシュタットは、これらの「証拠」を提示するにあたって、次のように述べている。
「そのようなわけで、私は、否定派が頻繁に行なう言いがかりのうち、三つだけをとりあげ、もっともらしい主張を根底から粉砕する一連の記録文書と技術上の証拠を引用しつつ、検証することにした。」(p. 223、邦訳下198頁)
リップシュタットは、フォーリソンが殺人ガス室の実在を証明する「ひとつの証拠、たった一つの証拠」でもよいから見せてくれと要求したことを紹介したのちに、次のように述べている。
「ガス室に関するプレサックの不朽の大著は、基本的には、文書資料的証拠の要求にこたえるものであった。」(p. 225、邦訳下202頁)
ここでとりあげられているプレサックの「不朽の大著」とは、題名に偽りありではあるが、『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』である。プレサックがフォーリソンの要求にこたえようとしたのは事実であるが、実際の証拠ではなく、疑い、犯罪の痕跡で答えたのである。これが述べられている章は「一つの証拠…たった一つの証拠、39の犯罪の痕跡」[11]である。リップシュタットはこれだけでは落ちつかなかったのであろうか、これらの痕跡を証拠に変えてしまった。この痕跡については、私の小論『アウシュヴィッツ:伝説の終焉』で検討してあるので、ここでは、プレサックの議論がどの程度善良で「健全」であるのか、これに対して、私の異論がどの程度「非合理的」であるのかを示している事例だけを取り上げておこう。まず、プレサックは39の犯罪の痕跡を発見したと述べているが、同じ痕跡の繰り返しを除外すれば、それは10ほどに減ってしまうので、この章題は人をまごつかせていることを指摘しておかなくてはならない。さらに、プレサックは、ガス室に関するこの「不朽の大著」の中で、ガス室の構造と作動のことを描いているのは1頁以下である。また、焼却炉についてのプレサックの研究調査能力についてはのちに検証することにする。このような前置きをしてから、リップシュタットの立論を検証してみよう。
「ロイヒターは、アウシュヴィッツ職員が殺人室と言い、否定派が死体安置室と主張している部屋で青酸の痕跡を見つけた。死体安置室であるはずの場所で、なぜガスの残滓が発見されるのか。フォーリソンとロイヒターは、死体安置室がチクロンBで消毒されたから、残留物があったのだと解釈する。この理屈はおかしい。消毒は殺菌剤で行なうものであり、殺虫剤、特にチクロンBのような強力なガスでやるものではない。」(pp. 224-225、邦訳下200頁)
数頁後で、リップシュタットはガス気密ドアという痕跡に言及して、次のように述べている。
「否定派は、死体安置室がチクロンBで消毒されていたからドアが必要であったと主張する。前にも指摘したように、チクロンBは殺虫剤であって殺菌剤ではない。」(p. 228、邦訳下207頁)
この主張は知的不誠実さの典型である。プレサックは、「プレサックが焼却棟WとXに痕跡を発見した二つの部屋は殺菌ガス室であった」[12]とのフォーリソンの発言をとらえて、フォーリソンは「細菌学の歴史の中で始めて殺虫剤を使って黴菌を絶滅すると唱えた人物である」[13]と皮肉っているが、この皮肉はまったく間違っている。殺菌という用語は殺虫という用語の同義語として広く使われていたからである。例えば、1943年8月12日のルブリン・マイダネク強制収容所管理局から収容所医師への書簡には、「チクロンBを使った殺菌」という目標が掲げられている[14]。さらに、『アウシュヴィッツ・カレンダー』の著者ダヌータ・チェクも、殺菌という用語を殺虫という意味で普通に使っている。
「アウシュヴィッツ強制収容所所長は、SS経済管理本部から、収容所の殺菌のためのガスを積み込むためにデッサウにトラックを送る許可を受け取った。」[15]
「チクロンBガスは殺菌のために使われた。」[16]
リップシュタットは偽シャワーという痕跡がきわめて呪われた犯罪の痕跡であるとみなしており、この件を以下の4点でとくに強調して伝えている。
@「焼却棟Vに設置された装備品目録には、ガスドア1、シャワー14の設置とある。この二つは互いにまったく両立しない。ガス気密ドアはガス室にしか使えない。シャワー室として機能している部屋に、なぜガス気密ドアが必要なのか。」
A「プレサックは、これがシャワー室ではないというだけのこの証拠に満足せず、1個のシャワーヘッドの占める面積を計算した。彼は収容所の受け入れ施設にある本物のシャワー施設を基準として利用した。彼の計算にもとづくと、210uの床面積を持つ焼却棟には、14個ではなく、少なくとも115個のシャワーヘッドが必要であるはずである。」
B「装備品の見取図では、水道管はシャワー本体にはつながっていない。これが本物のシャワーであれば、水道管がつながっているはずである。」
C「特定のガス室においては、建物の廃墟に、シャワーヘッドのついた木造の土台を見ることができる。実際に機能するシャワーヘッドであったならば、木造の土台に付けられるはずがない。」(p. 226、邦訳下203−204頁)
この議論は、人を惑わすような方法論ととてつもない悪意の傑作である。死体安置室1(「殺人ガス室」)用のシャワー14個(14Brausen)とガス気密ドア1個(1 Gasdichtetür)が言及されているのは、中央建設局が1943年6月24日に、収容所管理局に発送した焼却棟Vの装備品に関する文書の中である[17]。もしも、ガス気密ドアとシャワー施設が「まったく両立しえない」ものであるとしたら、一体なぜ、アウシュヴィッツ中央建設局は1942年11月13日に、害虫駆除施設BWaの「サウナのための100/200個のガス気密ドア」[18]を発注しているのであろうか。
もしも、ガス気密ドアがサウナとは両立しえないものではないとすれば、一体どうして、シャワーの設置されている場所と両立しえないものとなってしまうのであろうか。
プレサックが、焼却棟Vについての1943年6月24日の発送状に登場している14個のシャワーが偽物であることを立証するために利用しているのは、何と焼却棟Uについての1943年3月19日の図面[19]なのである。この図面にはシャワーとの結びつきが存在していないが、それは、シャワーが焼却棟Uの死体安置室1には存在していなかったからに他ならない。事実、1943年3月31日の発送状には、シャワーヘッドはまったく登場していない。Brausenという項目は存在しないのである[20]。
シャワーの数を計算する議論もまったくあどけないほどたわいがない。一体、焼却棟Vの死体安置室1がもっぱらシャワー室としてだけ使われたと誰が主張しているのであろうか。もしも中央建設局が14個のシャワーを設置させたとすれば、それは、この部屋の小さな区画がシャワー施設として考えられていたことを意味しているにすぎない。この施設がどこにあったのか、正確にはわからない。奇妙なことではあるが、焼却棟V用の発送文書図面が存在していないからである。
木造の土台というテーマに移ろう。それは、シャワーを持たない焼却棟Uの死体安置室1の天井の下にあった[21]。私は個人的にこの土台を検証し(撮影した)。それらは、セメントの中にくいこんだ、およそ10cm×12cm、厚さ4cmの長方形の木の板であり、建物の床にセメントを流し込む作業のときにこの場所に設置されたのであろう。これらの板は何のために使われたのか。もしも、プレサックが焼却棟Tの「殺人ガス室」の中で顔をあげてみれば、セメントの桁の中に同じような板が設置されていることに気がついたであろう。それは、部屋を照らすランプの支えであった。ここで質問。焼却棟Uの死体安置室1の天井にはフックが存在していないことを考えると、この部屋のランプはどこに付けられていたのであろうか。
Vergasungskellerについての議論は、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却炉の構造と作動問題についてのプレサックの検証能力がどの程度のものであるのかを明らかにしている。この問題については、プレサックはまるで専門家であるかのような調子で論じているからである。
「アウシュヴィッツ武装SS・警察収容所中央建設局長ビショフSS少佐は、1943年1月29日の書簡の中で、焼却棟Uの作業進捗状況について、ベルリンのSS少将あてに報告している。その書簡の中で、彼はVergasungskeller(ガス処理室)に言及している。バッツとフォーリソンはVergasungを別の意味に解釈しようとした。バッツはそれがガス発生だと説明した。フォーリソンは、それが気化であり、Vergasungskellerは『焼却炉用の燃料としてガス状の気体の混合が行なわれた』地下の部屋であると論じた。この説明には根本的問題がある。ガス処理に関する大量の文書資料が残っているだけではなく、もっと重要なことに、焼却炉の燃料は石炭でありガス発生装置は使われていなかったからである。」(pp. 226-227、邦訳下204頁)
バッツとフォーリソンの説明は間違っているが、それは別の理由からである。それは別として、プレサックはバッツとフォーリソンに反駁するにあたって、まったくの無知であることをさらけだしている。トップフ社製のアウシュヴィッツ・ビルケナウの炉は、燃焼ガス――ここでは「発生ガス」と呼ばれていた――に変えるために、石炭で熱せられたガス発生装置で作動していたからである。ガス発生装置の中で、発生ガスは不完全燃焼した炭素から作り出される。その反応は以下のとおりである。
C
+ 1/2(02) = CO + 29.2 Kcal
という反応が、白熱した石炭層を空気が通過するときに完了する。最初、石炭の下層で、炭化無水物が次のような反応にしたがって形成される。
C
+ 02= CO2 + 97.2 Kcal
2
CO-->C + CO2 + 40.9 Kcal
ついで、上層で、一酸化炭素が次のような反応にしたがって形成される。
CO2
+ C = 2 CO - 38.8 Kcal.
それゆえ、一酸化炭素は、炭化無水物が減ったのちに、炭素と酸素が直接結合することによって作り出されるのである[22]。プレサックは、彼の本物の目撃者による馬鹿げた話にしたがって、「死体は、下に石炭が燃えている格子の上に横たえられている」と真面目に信じている[23]。もしも、プレサックが石炭で熱せられた焼却炉の中でガス発生装置がどのように作動するのか知らないとすると、彼は、自動車の中でエンジンがどのような作動するのかも知らないことになる。彼の無知のレベルはこの程度である。
もう一つの「証拠」については、それのプレサックのせいにしてしまうのは公平ではないかもしれないが、リップシュタットがプレサックの著作を「注意深く」読んでいたかどうかを明らかにしている事例である。
「ビショフSS少佐の署名のある1943年3月31日の書簡は、焼却棟U用の『ガス(気密)ドア』についての1943年3月6日の発注書に触れたものである。それによると、ドアにはゴム製のシーリングと点検用ののぞき穴を設置せよとある。死体安置室や消毒室になぜのぞき穴が必要なのか。まさか、死体やシラミをのぞくためではあるまい。」(p. 228、邦訳下207頁)
しかし、プレサックは中央収容所ブロック1の消毒室のガス気密ドアの写真に、次のようなキャプションをつけている。
「伝統的なデザイン(DAW製作)の、のぞき穴と二つの留め棒のついたガス室のガス気密ドア…」[24][強調――マットーニョ]
さらに、プレサックは、カナダTのシアン化水素を使った害虫駆除室のガス気密ドアの写真にも、次のようなコメントをつけている。
「カナダTの害虫駆除室のガス気密ドア。DAWの製作したこの装置は非常に粗雑である。のぞき穴、それを開ける取っ手、二つの鉄の棒がついている…」[25][強調――マットーニョ]
果たして、リップシュタットは、プレサックの著作を、「注意深く」読んだのであろうか。
ここで筆をおくこととする。本小論だけで、リップシュタットの説とプレサックの「証拠」がまったく首尾一貫したものではないことを十分に明らかにできたと考えるからである。正確に価値を評価すると、リップシュタットの『ホロコーストの否定』は、私の数頁の小論の価値にも値しない。
A アカデミック・スタンダードに対するリップシュタットの攻撃
A. O. オルワトイン
アトランタのエモリー大学近代ユダヤ・ホロコースト研究助教授デボラ・リップシュタットは、彼女のいうところの修正主義的歴史学の非合理性、とくに彼女の呼ぶところの「ホロコースト否定」の非合理性を暴露することに取り組んでいる。彼女は、歴史家としての自分の役割を「自分が死ねば危険なガスの漏出を炭鉱員に知らせる炭鉱のカナリア」(p. 29、邦訳上90頁)になぞらえている。彼女は「否定派」の隠された政治目的、目標、方法を明らかにし、彼らの影響力と「現代文化への衝撃」を暴露し、「真実に対するイデオロギーの勝利」(p. 213)に警告を発することなどを約束している。「この集団がもつ意味を十分に認識してはじめて、邪悪な動機に合うような歴史の加工は生じないという希望が生まれてくる」(p. 28、邦訳上88頁)というのである。
まったく威圧的な使命感である。はたして、リップシュタットはこの使命を果たしているのだろうか。
「論争はしない」、ダブル・スタンダード
彼女は高潔な動機を表明しているが、その背後に深刻な問題がひそんでいることが、最初から明らかである。
まず、彼女は真理を探究するといいながらも、否定派との論争を拒んでいることである。確かに、彼女は「かつては、否定派を無視することを熱心に唱えていた」(p. 221)という。しかし今は、彼らの考え方に対処するが、論争はしないというのである。論争してくれとの要請をたびたび拒んだことを繰り返し強調している(もっとも、修正主義者のフォーリソンに会ってインタビューしているが)。
「論争しない」というリップシュタットのスタンスは個人的な事柄に関係しているのかもしれない。彼女はホロコースト生存者の娘であり、「否定派」と席を同じくして登場するのは、心理的なトラウマになってしまうのかもしれない。
だが、彼女の主張していることは、個人的なことではなく、誰も否定派と論争すべきではないということである。「われわれは彼らと論争することはできません。修正主義者に、正規の論争での『反対派』の立場を与えるべきではありません」というのである。修正主義者は「誠実な論争の道具たるべき」真実と理性を軽蔑しているので、彼らの議論に誠実に対応する必要はないという。
ホロコースト修正主義者との論争は、「壁にゼリーの塊を釘付けにしようとする」ようなものだという。この稚拙なアナロジーで何を意味しようとしているのだろうか。「ホロコースト否定」にはっきりとした主張がないというのであろうか。それとも、否定派にはどの問題であってもはっきりとした主張を行なう権利がないというのであろうか。いずれにしても、リップシュタットが真実、「反駁できない証拠」(p. 21)に関心を持っているのであれば、公開討論の場で公に自分の立場を明らかにする機会を歓迎すると考える方が合理的であろう。
論争が行なわれことで、彼女は何を恐れているのだろうか。例えば、ナチスは殺されたユダヤ人の死体から人間石鹸を製造したという話はかつては信じられていたが、そのような話やアウシュヴィッツの犠牲者数がホロコースト「肯定派」によって修正されてきたことを彼女も認めている(pp. 188, 201)。リップシュタットを悩ませているのは、「反駁できない証拠」が修正されてしまう可能性なのであろうか。
彼女は、彼女の呼ぶところの「ホロコースト否定派」と議論することと「否定派」と論争することを注意深く区別しているが、辞書を少し調べただけでも、そのような区別は見かけ倒しであることがわかる。議論することは老相することであり、反対意見と格闘することなのである。そして、論争が正常に行なわれるためには、論争の参加者がすぐに自分の意見をお互いにぶつけ合えることが肝要であろう。
つまり、われわれは、リップシュタットがわれわれに真実を語っていると信用するしかないという状態におちいっている。彼女が否定派に「回答する」が、否定派には同等の権利は認められていない。反否定派としてのリップシュタットは、否定派が彼女に反論する機会を否定していることになる。リップシュタットの知的な見世物裁判では、反対尋問は一方の側だけの特権となっている。
そして、リップシュタットは、自分の反対派が誠実さと公開討論を「軽蔑」していると述べている。だが、ホロコースト修正主義者が正しかろうと、間違っていようと、彼らは不誠実ではない。なぜならば、修正主義者は自分たちの見解を明確に公表してきているので、リップシュタットは彼らの見解に簡単に接し、その見解に対処できるようになっているからである。
アカデミック・スタンダードの裏切り
以上のことはすべて、学術論争におけるスタンダード、真理探究の本質についての基本的諸問題とかかわっている。
学問における客観性はたんに合衆国憲法修正第一条にかかわっているだけではない。同様のルールがアカデミアでは普遍的に認められているからである。このことを、研究者に指摘しておかなくてはならないのは奇妙に思われる。アカデミックな世界固有の仕事は、まさに、真理の探究である。もしも、だから、しかしもない。真理、真理がすべてである。通常、言論の自由の中では、名誉毀損と中傷を行なうことは制限されているが、知的な研究調査には制限が適用されるべきではない。制限はありえないのである。真理というものは奇妙な場所に潜んでいるからである。歴史を振り返れば、真理というものは、ガリレオのような「狂人」や「異端者」の中にしばしば保存されてきた。
バートランド・ラッセルは「今認められている意見すべてが、かつてはエキセントリックであった」との警告を発している。彼はまた、「知性というものを高く評価するのであれば、知的な異論派の人々の議論の方が、受動的な一般人の議論よりも示唆に富んでいるので、知的な異論派の議論の中に喜びを発見すべきである」とわれわれに諭している。
社会にとっての問題はこうである。もしもわれわれが、「修正主義者の嘘」が大学のキャンパスに広がることを阻止しているホロコーストの理論家に学問の場すべてを明け渡してしまっているとすると、反修正主義者たちが歴史的な馬鹿者とならないことをどのように確信することができるのであろうか。だから、われわれは、誰もが自分の目で見て、もしも真理がありうるとすれば、ここから姿を現すことができるような避難場を必要としているのである。
この場所こそが、歴史的に社会とは切り離されて成立してきたアカデミアなのである。この精神は、トーマス・アクイナスの説の支持者によると、われわれが、それなしではそうたりえないアカデミアの本質、その底板と呼んでいるものである。
リップシュタットはこのことをまったく理解していない。彼女は、修正主義者の広告や記事をキャンパス新聞に掲載した件で、学生たちを繰り返し叱り飛ばしている。彼女は、学生たちが「いかなる考え方も意見も」尊重しようとしていることにうろたえている。彼女によると、このような見方は、アカデミアが支持するすべてのことに「違反している」。学生たちの教育は「永続的な質を持つ志向の探求に向かって」(p. 197、邦訳下146頁)実施されなくてはならないというのである。
ソクラテスは「検証されない人生は生きるに値しない」と絶叫したといわれているが、このソクラテスの精神は、嘆かわしいほどまでに、堕落してしまっている。
もしもホロコースト修正主義者がいなかったとすると、彼らを作り出すことがアカデミアの正統なる使命となろう。ホロコーストのような、きわめて情緒的な告発には、まさに、厳密で、冷静な検証が必要だからである。
ホロコーストが、われわれの呼ぶところの「I.Q.」もしくは論争の「炎症を起こしやすい係数」集団に属していることを念頭に置くと、われわれはホロコーストを、自分たちの基本的な知的姿勢を検証するために使うことができる。
ホロコーストのような論点が呼び起こす熱情は、古来からの理性の天敵であった。熱情は、検証して解決しようとする理性の力を抑圧し、討論を、言い逃れ、歪曲、テキストの偽造という情緒的なレベルにまで押し下げてしまう。
リップシュタットは扇情的な言葉の使用を認めているが、そのことに、彼女の知的破産がもっとも明快に表明されている。1991年12月、ハーバード大学学生新聞『ハーバード・クリムソン』は、修正主義者の広告を「まったくのガラクタ」としりぞけたが、リップシュタットは、この用語がこの広告内容を「正確に評価したもの」とみなしている(p. 206、邦訳下165頁)。
リップシュタットは真理も法律も等しく尊重していない。彼女は、修正主義者に対する法律的な発言禁止措置をとることを認めている。むしろ、このような措置にあまり効果がなく、「否定派が言論の自由の殉教者として祭り上げられる可能性」(pp. 219-220、邦訳下190−191頁)のあることを心配している。そのイデオロギー的血統に特徴的なことに、合衆国憲法修正1条にたんにリップサービスしているだけである(pp. 26, 191)
リップシュタットはまさに反面教師としての道学者である。彼女は、アカデミックな世界がそうあってはならないこと、すなわち、盲目的な偏見を抱く人物をまさに体現している。
論理の堕落
リップシュタットの見かけ倒しの議論、疑問の余地のある定義、情けないほどの本質理解能力の欠如は、彼女の堕落の中で最悪のものではない。
リップシュタットは、バッツ博士が、マスメディアに対するユダヤ人の支配を指摘しているときに矛盾におちいっていると批判している。「戦時中に無であったユダヤ人が、どうして戦後になってマスメディアを支配できるのか」というのである(p. 132)。
こうした疑問に対しては、ユダヤ人は、日本人が戦後に急速な経済発展を遂げたように、支配権を獲得することができたという回答もあるであろう。いずれにしても、時代は変わる。昨日貧乏だった人物が、今日は、金持ちになるということなどありえないというのだろうか。
リップシュタットは、ホロコースト修正主義を「非合理主義の究極の姿」、「理性の究極的な力を信じている人々すべてに対する脅威」(p. 20、邦訳上71頁)と酷評している。そして、「われわれは警戒を怠ってはならない。われわれの職業と社会のもっとも大切な手段である真実と理性が打ち勝つためには、警戒を怠ってはならない」(p. 222、邦訳下195頁)と誓うのである。
同時に、彼女は、「ホロコースト否定」を打ち負かす「理性の力」の弱さにも嘆いている。「理性の脆弱性」についてたびたび言及し、「明るい光が嘘を追い払ってくれる」と信じるのはナイーブすぎるとも述べている。リップシュタットは、「虚偽の神秘的な力に」対抗する理性の力に懐疑的な研究者の見解を肯定的に紹介しながら、その一方で、真理についての相対主義的な見解が「歴史的事件の意味について疑問を呈することに対する受動的な雰囲気を作り出している人々」を酷評している(p. 18; see also pp. 25, 193, 207, 216)。
しかし、彼女自身が相対主義におちいっているのではないだろうか(「理性の脆弱性」)。彼女自身が虚偽を過大評価しているのではないだろうか(「神秘的力」)。
リップシュタットは、これらの見解のあいだには論理的な緊張関係があることを認めているのであろう。理性が十分に強力で「反駁できない証拠」(p. 21)を発見し、見かけ倒しの反論からこの証拠を守ることができるとすれば、それはまったく「脆弱」ではないからである。一体、相対主義の脅威はどこにあるのであろうか。
リップシュタットは、修正主義が詭弁を弄していることを「見破った」と述べているが、リップシュタット自身もそれに劣らず詭弁を弄している。例えば、修正主義者は(事実を認めるのではなく)、お互いの文書を互いに引用しあっているだけであると非難しているが、彼女自身が、自説を展開するにあたって、同僚の反修正主義者の文書から借用している(p. 106)。さらに、反修正主義者の研究をしばしば引用して、それを「事実」の典拠資料とみなしているのである。(See pp. 20, 25, 46, 73, 105, 106, 187.)
リップシュタットは個人攻撃を個人攻撃なるものと交換している。彼女は、旧KKK団員デイヴィッド・デュークが「政界入りの足場を築くために、自分の過去を作り直した」(p. 5、邦訳上43頁)と非難している。そして、この件を「狡猾」(p. 215)とか「再生」(p. 187)と呼んでいる。しかし、すでに指摘したように、リップシュタット自身が自分の方法を変えている、もしくは発展させている。当初は、否定派を無視していたのに、彼らの見解を論破しようとしているのである(p. 221)。重要な知的論点でどうして大転回を遂げてしまったのか。そして、もう一度自分の見解を変えて、ホロコースト修正主義者との論争に入るかもしれない。
リップシュタットは、粗雑な一般化を行なうことにより、特定のケースの特定の性格を無視してしまうという詭弁を弄している。例えば、「親ドイツ派」すべてをひっくるめて、「過激派」とか「人種差別主義者」と呼んでいる(p. 137)。「ドイツ・アメリカ的遺産」とか「ドイツびいき」、ひいては、ドイツ的なるものすべてに対して疑惑の念を持ち続けている。しかし、彼女の「ユダヤびいき」についてはどうなのであろうか。親ユダヤ派を反ドイツ派にひっくるめるべきなのであろうか。
ジョージ・ウィルの論争
リップシュタットの本は、他の人々に影響を与えている。1993年8月、「正統右派」のコラムニスト・ジョージ・ウィルの論文が合衆国の多くの新聞に掲載された。それは、一方では、リップシュタットの本を持ち上げ、その一方で、マーク・ウェーバーとホロコースト修正主義を攻撃したものであった。[See Weber's "My Lunch With George: How an Influential Journalist
Twists the Truth" in the Nov.-Dec. 1993 Journal.]
ウィルは恥ずべきことに、リップシュタットの本に依拠して、否定派が「修正主義」なる用語を「ハイジャック」して、反ユダヤ主義のために利用していると非難している。「犠牲者、目撃者、実行犯」が詳しく物語っている事件、すなわち、ユダヤ人のホロコーストを誰も否定できないというのである。言葉には言葉をというフレーズもリップシュタットの本からである(p. 23)。また、ウィルは、修正主義者はすべてをユダヤ人の陰謀とみなしているとのリップシュタットの見解に同調している(例えばp. 38)。その一方で、リップシュタットは(ウィルと同じく)、ホロコースト修正主義は、ユダヤ人への憎悪とイスラエルへの敵意に培われた国際的陰謀のようなものであるとみなしているのである(14頁)。
ウィルは、ウェーバーの所説を、そのどれ一つとして詳しく検証せずに、「不合理な推論の寄せ集め」としてしりぞけようとしている。皮肉なことに、この「不合理な推論の寄せ集め」という表現は、リップシュタットの論理的堕落を言い表すのにふさわしい。すなわち、リップシュタットの本は、そのあとに続くもののない、まったく支えるものがなくふらふらしている不合理な推論の寄せ集めにすぎないのである。
600万人という数字への偏愛
ユダヤ人の犠牲者「600万人」という数字への偏愛は何と説明したらよいのだろう。リップシュタットは、「スターリンは、ナチよりも多くの人々殺している」ことを認め、「犠牲者の頭数を数える競争」には参加する意志がないと述べている(p. 213、邦訳下177頁)。しかし、彼女によると、「スターリンの恐怖は気まぐれ的な性格があったが、ヒトラーは特定の集団をターゲットにした」(p. 212、邦訳下176頁)という相違があるという。これはまったく間違っている。スターリンはすべての集団を「ターゲット」にしたのである。(例えば、カチン事件に顕著に見られるように、ソ連はポーランド人将校を組織的に殺戮した。)
スターリンの犠牲者を凌駕しているのが、シナの毛沢東である。そして、毛沢東は、旧共産党エリートのような特定の集団を「ターゲット」にした。だが、毛沢東の名前はリップシュタットの本には登場してきていない。
リップシュタットを、その動機が何であれ、人道に配慮している人物、真理を情熱的に探求している人として描くことはできない。
[アンソニー・オモトイン・オルワトイン(Anthony Omotoyin Oluwatoyin)はイギリスで生まれ、幼年時代をナイジェリアですごした。モントリオールのロヨラ大学(ケベック州)で心理学を学び、ウオータールー大学(オンタリオ州)から博士号を受けた。オルワトイン博士は、カリフォルニア大学(ロサンゼルス)、フィスク大学(ナッシュヴィル)――ここでは哲学・宗教学部長である――、サイモン・フレザー大学、ブリティッシュ・コロンビア大学、フレザー・バレー大学などのカナダの大学で教鞭をとっている。彼の研究・教育のテーマは、批判的思考の適用方法である。現在、『批判的思考を行なうための質問の活用方法』という著作の執筆にたずさわっている。]
[1] Deborah Lipstadt, Denying the
Holocaust. The Growing Assault on Truth and Memory. A Plume Book,
[2] 以下がこの「驚くべき賛辞」のテキストである。「モーリス・バルデシュは極右過激派で、多くの事例では、客観性をほとんど尊重していないとの話であった。これについては、確信しているし、機会があれば、いつでもそのように述べるつもりである。しかしこの事例に関しては、彼の信憑性を疑う理由はないし、ニュルンベルクに関する彼の二つの著作の中で、マティアス・モーハルト、ロマン・ロラン、ミシェル・アレクサンドロが第一大戦後に引用したのと同じ指令にもとづいて、ドイツ問題を論じていること認めざるをえない。そして、これらの人物は、われわれの知るかぎりでは、『左翼』であった。Paul Rassinier, La menzogna di Ulisse,
Edizioni Le Rune, Milano 1966, p. 37, note.
[3] ラッシニエにとって、バルデシュのニュルンベルクに関する二冊の本は、フランスの左翼とヨーロッパの社会主義政党のテーゼを支持しているがゆえに、「すばらしい」ものであった。Paul Rassinier, Le veritable proces Eichmann ou les
vainqueurs incorrigibles, La Vieille Taupe, Paris 1983, p. 43.
[4] Pierre
Vidal-Naquet, Assassins of Memory, op. cit., p. 32.
[5] Maurice Bardeche,
[6] Ibidem, p. 128.
[7] Ibidem, p. 159.
[8] Ibidem, p. 194.
[9] Paul Rassinier, Ulysse trahi
par les siens. Vieille Taupe, Paris 1980, p. 196.
[10] Ibidem, p. 197.
[11] J.C. Pressac,
[12] Robert Faurisson, Response a
Pierre Vidal-Naquet. 2nd edition, expanded, op. cit., p. 78.
[13] J.C. Pressac,
[14] Krystyna
Marczewska, Wladyslaw Wazniewski, Korespondencja w sprawie dostawy gazu
cyklonu B do obozu na Majdanku, in "Zeszyty
Majdanka", vol. II, 1967, p. 159. On this page and on
successive ones, there are other references to disinfection gas.
[15] Danuta Czech, Kalendarium
der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939-1945,
op. cit., p. 259.
[16] Ibidem, p. 271.
[17] TCIDK, 502-4-54, p.
84 ssgg.
[18] TCIDK, 502-4-54, p.
84 ssgg.
[19] Plan 2197 (b) (r).
[20] TCIDK, 502-2-54, p.
79.
[21] 焼却棟Vの死体安置室1の天井はまったく崩壊しており、建物は風雨にさらされている。
[22] Wilhelm Heepke, Die
Leichenverbrennungs-Anstalten (die Krematorien). Verlag von Carl
Marhold, Halle a.S., 1905, p. 31 and ss.gg.; Michele Giua, Dictionary of
general and Industrial Chemistry, op. cit., vol.II, p. 383 and
ss.gg.; Curcio
Encyclopedia of Science and Technology, edited by Armando Curcio,
Rome 1973, vol. 5, p. 1842.
[23] J.C. Pressac,
[24] Ibidem, p. 29.
[25] Ibidem, p. 46.