試訳:プレサック:パウロから似非サウロへ

ゲルマール・ルドルフ

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2006年6月16日

本試訳は当研究会が、研究目的で、Germar Rudolf, Pressac: From Paul to Pseudo-Saul, Auswitz Lies: Legends, Lies, and Prejudices on the Holocaust, Germar Rudolf, Carlo Mattogno, Theses & Dissertations Press PO Box 257768, Chicago, Illinois 60625を試訳したものである(文中のマークは当研究会による)。

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online: http://www.vho.org/GB/Books/al/

[歴史的修正主義研究会による解題]

修正主義者ルドルフによるプレサック論。論集『アウシュヴィッツの嘘』所収の論文。

 

 

 1993年、1994年、フランス人薬剤師プレサックは、修正主義者という邪悪なドラゴンを、自分の技術的方法という武器で退治した英雄的な騎士としてヨーロッパのメディアに称えられていた[1]

 「フランス・ユダヤ人移送者の息子と娘協会」会長セルジュ・クラルスフェルトは、プレサックによるロイヒター報告反駁書の序文の中で、プレサックのことをアウシュヴィッツでの民族社会主義者の絶滅技術についての数少ない専門家の一人とみなすことができる研究者と特徴づけた。プレサック自身によると、彼はほとんど修正主義者になっていたにもかかわらず、鋭敏な合理的知性を持っていたために、フォーリソン教授周辺の修正主義者の誘惑に抵抗することができ、真実の要求だけにしたがうことに成功したというのである[2]。こうした経緯は非常に興味深く、次のような疑問を呼び起こす。すなわち、学問的には修正主義に近かったにもかかわらず、やすやすと修正主義者の反対派の頭目に接近することができたプレサックとはどのような人物であったのか?もし彼が見解を変更したとすれば、それは自分の間違いを悟ったためであったのか?

 フォーリソン教授は、私が1991年末にヴィシーの彼の自宅を尋ねると、プレサックについての話しをしてくれた。その中身を、のちに書きとめたメモから紹介しておく。

 

「私はしばらくのあいだプレサックと付き合いましたが、まったく不快なものであったといわなくてはなりません。プレサックには、首尾一貫した分析的思考を行なう能力、学術的研究を行なう能力が欠けていることにすぐ気がついたためです。このことは、彼の主著をみてもすぐにわかることです。彼は自分の思い付きを何回も繰り返し、事実と解釈ひいては願望とを混ぜ合わしています。そのうえ、一人の研究者、それは私のことなのですが、この人物のことに触れていないのは知的に不誠実です。彼が依拠している資料の大半を発見し、研究者が利用できるようにしたのか私なのですから。

 プレサックは精神的に非常に不安定です。この点は、ホロコーストが虚偽であるという私の説が正しいことを悟るようになったとき、とくに明らかになりました。このように悟ってしまった結果、ホロコースト正史の代表者たちと対決がひどくタフなものとなったからです。それだけではありません。私は訴追され、物理的な攻撃も受け始めていましたので、この対決はひどく危険なものにもなっていたからです。プレサックは、脅え始め、私に声高に言わないように頼みました。少しずつ真実を公にしていけばよいというのです

 しかし、彼の申し出には一面の真理があるとしても、私は、真実の半分だけを語ったり、まして嘘を語ったりすることはできません。ですから、プレサックとはこの点で袂をわかったのです。」

 

 もちろん、フォーリソン教授はプレサックの研究に対しても、公に反駁を加えている[3]

 フォーリソン教授のプレサック批判に賛成もできるし、異を唱えることもできるが、ことの本質は、フォーリソン教授の見解が、プレサックはアウシュヴィッツの「絶滅技術」についての資料に通暁している点で、および技術的問題を提起・解明する能力の点で、ホロコースト正史派の歴史家の第一人者となったというセルジュ・クラルスフェルトの意見と矛盾していないことである。すなわち、プレサックの研究は科学的期待に十分にこたえていないというフォーリソンの見解が正しければ、このことは、プレサック以外のホロコースト正史派の研究書の質がひどく悪いことを明るみにだしているにすぎないからである

 フォーリソンの判断を確証するために、プレサックが技術的・科学的問題を提起・解決することに惨めに失敗していることを明らかにしておこう。一例として、アウシュヴィッツの「大量絶滅」についての目撃証言、すなわち、プレサックがもっとも重要で信頼できる目撃証人とみなしているタウバー――彼はビルケナウの焼却棟Uの火くべ作業班員であった――の証言を分析してみよう[4]。プレサックは、自分が引用している他の囚人に対してと同様に、タウバーに対しても同じ誤り、すなわち、技術的検証を行なっていないという誤りを犯している。たとえ技術的な知識に乏しくても、少しばかりの警戒心を持ってタウバーの馬鹿げた話しを読んでみれば、彼の話しに眉唾な点があることに気がつくはずであるが、このことはプレサックにはあてはまらなかった[5]

 タウバーの馬鹿げた証言には次のような告発がある[6]

 

「一般的にいえば、われわれは1つの燃焼室の中で同時に4、5体を燃やしたが、もっと多い数の死体を押し込んだこともあった。8体の『イスラム教徒[死体]』を押し込むこともできた。焼却棟の責任者に内緒で、このような大量の死体を焼却したのは、空襲警報が出されているときに、煙突から大きな炎をはきださせることによって、飛行士の関心を引き寄せるためであった。」

 

 「大きな炎」という用語が登場しているが、これは、タウバーが煙突からつねに炎が出ていたと考えていることを意味している。しかし、実際には、焼却棟の煙突は炎など吐き出さないのである[7]

 また、タウバーの述べているように、一時に数体を一つの燃焼室に押し込むことも不可能である。タウバーは、2体がおかれたストレッチャーを、燃焼室のドアに設置されたローラーにスライドさせながら、燃焼室に押し込んでいくときに、一人の人物だけでバランスをとることができたと述べている[8]

マウトハウゼン収容所の焼却炉の典型的なストレッチャー[9]

 

 

 上の写真には典型的なストレッチャーが写っている。スライド・レールは死体がおかれる場所のほぼ2倍の長さとなっている。死体はストレッチャーのほぼ真ん中からその端の区画に置かれているので、ストレッチャーが燃焼室の中に押し込まれ、二つのローラに乗って、燃焼室の真ん中でとまったときには、梃子の原理によると、死体の半分の重量を端のところでバランスをとってやらなくてはならない。この状況の中で2体の重量のバランスをとるには、一方の端でストレッチャーを支えている人物の重量が、2体の重量よりも重くなくてはならない。しかし、もしも、死体の大半がこの当時アウシュヴィッツで流行っていたチフスの犠牲者であり、チフスは犠牲者をかなり衰弱させるものであるとすれば、ストレッチャーに載っている死体の重量は、それを燃焼室に押し込んでいる人物の重量よりも軽かったにちがいない。しかし、タウバーが証言しているように、死体が、到着直後の殺されたガス処刑の犠牲者であるとすると、2体の重量は、燃焼室の押し込んでいる人物の重量よりもかなり重かったにちがいない。それゆえ、一人の人物が2体を燃焼室に押し込んだというタウバーの証言が示唆しているのは、これらの死体がガス処刑ではなく、疫病の犠牲者であるということである。

 さらに、数体を次々と燃焼室の中に押し込んでいくことが可能であったとしても、そのことは深刻な熱工学的問題を引き起こしてしまうであろう。

ブッヘンヴァルトの3燃焼室炉の中央燃焼室の壁の穴(=ビルケナウの炉、白○の箇所)[10]

 

@     ビルケナウの3燃焼室炉、8燃焼室炉の燃焼室は、燃焼室の壁の穴を通じて結び付けられており、その穴を介して、熱い燃焼空気が流れる(下の写真参照)。多くの死体が燃焼室に押し込められれば、この穴が部分的もしくは完全に塞がれてしまい、すべての燃焼室での焼却過程が滞るかまったく停止してしまう。

A     数体の冷たい死体を押し込むと、焼却開始当初の温度がかなり下がってしまうので、焼却開始時間がかなり長くなってしまう。炉の発熱装置はそれだけの熱量を供給できるようには設計されていない。

B     死体の水が昇華されてしまえば、今度は、数体の死体の可燃組織が大量の熱を放出するので、燃焼室、導管、煙突をひどく損傷させてしまう。

 

 ビルケナウの焼却炉を建設したトップフ社の技師クルト・プリュファーは、焼却を待つチフスの犠牲者の死体が大量に残っていたために、一時に2体を焼却することが試みられたが、炉への熱負荷が非常に大きかったので、導管や煙突が損傷を受けてしまい、修理に4ヶ月ほどかかった、と戦後に証言している[11][12]

タウバーはまた、普通の死体は自分自身の脂肪で燃えるので、燃料無しで焼却されたとまで証言している[13]

 

消耗していない人々の死体を焼却する場合、我々は、最初に火をつける場合にだけ、石炭を使った。脂肪の豊かな死体は、脂肪の燃焼のおかげで、自分自身で燃えていったからである。石炭が不足している場合には、燃焼室の下の灰受け皿の中に藁と毛織物をおいた。死体の脂肪が燃え始めると、その他の死体も自動的に発火した。…その後、焼却が次々と行われると、炉は、死体の燃焼から発せされる熱のおかげで燃えた。だから、太った死体の焼却のときには、火は一般的には消されていた。

 

 もちろん、この話はナンセンスである。世界各地に存在する数千の焼却棟が大量のエネルギーを消費しているという事実が最良の証拠である。さらに、タウバーは、焼却棟よりも焼却壕の方が効率的であり、そのために、1944年に焼却棟が閉鎖されたと述べているが[14]、それは、なおさら馬鹿げた話である。焼却炉と比較すると、戸外の壕での焼却でのエネルギーのロスは放熱と対流のために非常に大きいので、コメントすることすら不要であろう。

 人間の脂肪についてのタウバー証言はさらに虚偽のにおいがする[15]

 

SS隊員が、沸騰した人間の脂肪で満たされていた焼却棟[X]の近くの壕なかにすみやかに入って、仕事をしない囚人を追い立てたことがあった。そのとき[1944年夏]、死体は戸外の壕で焼却されており、そこから脂肪が、地面に掘られた別の保存場所の中に流れ込んでいた。この脂肪は、燃焼を促進するために、死体の上に注がれた。」

 

 第一に、ビルケナウ収容所は、洗練された排水システムをもっていたにもかかわらず、地下水位が1m以下の湿地帯の真ん中にあった。だから、タウバーやその他の証人の証言に登場する深い壕はすぐに水に浸されてしまい、その中で大規模な死体焼却を行なうことは不可能となってしまう[16]

 だが、ここでひとまず、このような焼却が可能であったというタウバー証言が正しいと仮定してみよう。しかし、可能であったとしても、低温の小さな火は死体焼却に不向きであるので、高温の火が必要であることだけは確実である。人体の大半は水でできているので、急速かつ完全に焼却するには高温が必要である。このような火が燃え上がったとすると、最初に発火するのは死体から流れ出てくる脂肪であったろう。このような高温の壕の中にある死体の脂肪は、すぐに炎となって燃え上がってしまうので、死体が脂肪を産出することはない。タウバーは、脂肪は火をつけ、焼却を促進するために再利用されたと同時に述べているので、このことをよく知っている。しかし、脂肪が焼却を促進するとすれば、それは、死体から離れる瞬間に起るのである。だから、脂肪が壕の下の溝を流れて、貯蔵器に集められるということなどありえない。脂肪が集まるとすれば、炎から離れた場所、温度が脂肪の発火点(約184℃[17])よりも低い場所、例えば、フライパンの中に肉を入れるときなのである。しかし、アウシュヴィッツの死体がフライパンの中に入れられたという証言はない。そして、もしフライパンの中に入れられても、焼肉となるだけで、灰になることはないのである

 また、タウバーやその類の人々が証言しているように、数百の死体が数時間で焼却される戸外壕が存在していたとすると、その壕は非常な高温を発するので、その周囲で作業する人々は、アスベスト製の防火服を着用しなくてはならないであろう。

 言い換えると、タウバー証言のこのような内容は、まったく真実にもとづかない捏造に他ならない。このことがわかるには専門家である必要はない。このような証人があからさまな嘘をついたあとでも、プレサックのような研究者がこの証人を信じているとすれば、まったく度し難いことであろう。

 プレサックの研究を徹底的に批判するにはまる1冊の本が必要であり、われわれ修正主義者はそうした作業をすでに1995年に行なっている[18]。だから、ここでは、プレサックの完全な誤りとはいえないまでも、方法論的に脆弱な箇所があることを暴露するために、プレサックの研究の形式的側面だけに焦点をあてておこう。プレサックの二つの著作を評価するにあたって、プレサックには科学的方法がまったく欠けていることを体系的に暴露することでこの作業を行なうであろう。プレサック批判のオリジナルは、1994年1月、デュッセルドルフの弁護士ハヨ・へルマンの求めに応じて作成された。そして、ドイツでのさまざまな裁判審理に証拠として提出された(もっとも、ドイツの裁判所は、弁護側がこの事件に関して提出した証拠をどのようなものであれ採用を拒んでいるのであるが)。

プレサックの『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』、『アウシュヴィッツの焼却棟、大量殺戮装置』[19]の科学的有効性に関する専門家報告

1. 科学的有効性の基準

科学的研究のテーマであるテーゼは、証拠を批判的に提示すること、技術的典拠に言及することで立証されるべきであり、反対意見を持った研究の批判にさらされなくてはならない。プレサックの著作がこうした要請に応えているかどうかは、以下に議論される。プレサックの研究書からの事例をあげるにあたって、『技術と作動』の要約改訂版ともいえる『焼却棟』からの事例に限定しておく。プレサックが自説を組み立てる方法は、この二つの研究書において、基本的に同じだからである。

2. 立証方法と研究書への言及:『焼却棟』から

技術的・自然科学的問題を、彼は自分の著作であつかっているが、(例えば、焼却、青酸によるガス処刑、換気技術、科学的残余物の形成)技術文献にまったく言及していないし、自分の計算や実験も行なっていない[20]。彼が行なっていることは、いくつかの一般的な歴史書に言及していることだけである。

       プレサックは6頁で、棺の中の死体を焼却するのに必要な石炭の量(35kgの木材プラス数kgの石炭)にもとづいて、SSは棺なしの死体を焼却するのに5kgの石炭が必要であると推定したと述べている。この推定はプレサックの計算だけにもとづいており、典拠をまったくあげていない。

       死体を焼却するのに必要な時間に関して、プレサックは、目撃証言や資料からさまざまな数字を挙げている(1時間:7頁、30−40分:13頁、1時間12分:15頁、15分:28頁、1時間36分:34頁、34−43分:49頁、13分:72頁、29分:74頁、22分:80頁)。しかし、これらの数字に関して、技術的な検証はまったく行なわれていない。

       41頁で、プレサックは、収容所当局が、空気循環式害虫駆除施設についてのG. ペテルス論文を発見したことで、SSはブンカーUの殺人ガス室に同じような施設を設置しようと考えたと述べている。しかし、彼はこのことについての証拠をまったく挙げていない。

       プレサックにとっては、Sonderという単語の使用は大量殺戮の証拠となっている。しかし、このことについての証拠をまったく挙げていない(46、52、60頁)。逆に、82頁では、彼は、害虫駆除作業と結びつくSonderamassnahmeという用語を引用している。

       70頁で、プレサックは、木製の換気扇が死体安置室に設置されたことを、まったく理由も挙げずに、青酸が使われていた証拠としている。木製の換気扇が使われたのは、青酸が腐食性であるためであるとの主張は、誤っている。通常の湿気の方が青酸よりも腐食性だからである。しかも、彼自身は、鉄が戦時中は配給となり、できるかぎりその他の資材で代替されたと何回も述べている(23、38、51、70頁)に留意していない。

       換気システムの能力としてプレサックが引用しているデータ(30、38、74、90頁)はモーターの能力だけではなく、送風機の形式、空気ダクトの配置にも依存している。プレサックは、それぞれの形式に対応して計算をしていない。

3. 証言、資料、その他の批判

『技術と作動』は目撃証言をしばしば、広く批判しているが、にもかかわらず、根拠なく利用している。『焼却棟』は、根拠のない目撃証言を黙って訂正し、それをまったく批判していない。彼の仕事には史料批判がない。多くの資料が旧ソ連の文書館からのものであるので(KGBその他の資料)、史料批判は不可欠である[21]。さらに、プレサックは自分が利用する資料を全体的な文脈の中で検証することを怠っている。プレサックの主張の多くは、彼自身が典拠資料としてあげている資料によってさえも確証されていない。プレサックは、根拠のない自説と立証可能な事実とを混ぜ合わせているので、典拠資料にアクセスできない読者はそのことに気づくことができない[22]。問題の建物(焼却棟やその廃墟)の配置や構造についての技術的批判もない。『焼却棟』からの事例。

       プレサックは、焼却棟T(中央収容所)でのガス処刑を3ヶ月間のあいだの数例に限定しているが、それは目撃証言とは矛盾している(34頁)

       ブンカーTとUでのガス処刑ののちに、プレサックは、死体が除去されるまで数時間かかったと述べている(39頁)。しかし、目撃者はわずか数分であったと述べており、これについて、プレサックは言及していない。彼は、焼却棟WとXについても、ガス処刑を繰り返すことは換気システムがないので、不可能であると述べている。しかし、目撃証言が逆のことを述べていることには沈黙している(89頁)。

       プレサックは、オリジナルとされる資料での焼却棟の能力を嘘=宣伝とし、その数字を訂正しているが、まったく根拠を挙げていない(89頁)。

       プレサックは、ガス痕跡検知装置を発注している文書をガス室の決定的証拠としている。しかし、この文書には技術的誤り、形式上の誤りが数多くあり、史料批判が必要である。プレサックはそれも怠っている。他方、この文書はガス室や殺人についたまったく言及していないので、プレサックの解釈は早計である。

       彼は、現場の廃墟や連合国の偵察写真についてまったく研究していない。

4. 異論の取り扱い

『技術と作動』では、プレサックは、ロイヒター報告(典拠はない)とラシニエの著作について短く議論している。プレサックは、異論を持つ研究者(フォーリソン、バッツ、マットーニョその他)の最近の、そして本質的な仕事に言及していない。『焼却棟』では、自説に反対する人々の存在を示唆しているけれども、名前も、著作も、議論も挙げていない。彼は、自説と矛盾するような資料(例えば、別様に解釈せざるをえない偵察写真や文書資料)にも言及していない。

       新著では、最初の本『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』に対する批判を無視している[23]。…逆に、同じ誤りを繰り返している。

       二つの本の中で、プレサックは、主要ガス室(焼却棟Uの死体安置室T)の屋根にはチクロンBの投下ハッチが存在した痕跡がないという事実、ハッチなしには、この主要ガス室がアウシュヴィッツの工業的大量殺戮の凶器、装置ではありえないという事実を無視している[24]

       ルドルフの専門家報告のなかの建築技術についての化学的・物理的議論に関して一言も言及していない[25]

5. 結論

プレサックの本は、史料批判を行なっておらず、文書が実際には持っていない意味を持っていると間違って主張し、文書を適切な文脈の中で考察することを怠っているために、歴史書としては限られた価値しか持っていない。しかし、情報を提供している価値は持っている。

プレサックの本は、計算、実験、厳密科学の技術的性格の問題の立証(専門文献を典拠資料とすること)行なっていないので、技術分野での科学的研究書に適用される基準を満たしていない。プレサックは、アウシュヴィッツでの大量殺戮を立証するときには、いつも目撃証言に依拠してしまっているし、しかも、それらの目撃証言を批判的かつ専門家の目を持って分析していない[26]

最後に、プレサックは、とりわけ『焼却棟』では、自分の結論に対する他者の批判を検討しておらず、…そのことに言及すらしていない。

6. 要約

プレサックの『技術と作動』と『焼却棟』は、プレサックの仕事が非科学的であることを示している。しかし、彼は熱心な資料調査を行なっているので、彼の本には多くの有益な事実が含まれている。

化学者ゲルマール・ルドルフ、イェティンゲン、1994年1月18日、改訂:2004年12月1日、シカゴ

 

Nota Bene

 1993年5月、シュトゥットガルトのマックス・プランク固体力学研究所では、大事件が進行中であった。そこに勤めていた若い博士候補者がスキャンダルに巻き込まれ、ドイツ中のニュースとなったのである。この博士候補者の名は、ゲルマール・ルドルフ、この記事の筆者である。私は、レーマー少将の弁護団の求めに応じて、アウシュヴィッツの「ガス室」に関する専門家報告を作成し、その中で、目撃証言が報告しているところの大量ガス処刑は物理的に不可能であるとの結論に達していたが、そのことがスキャンダルとなった。1993年の復活祭直後、レーマー少将は、この報告書のコピー数千を、ドイツの有名な政治家、法律家、歴史家、化学者、さまざまなメディアに送りつけた。この結果、想像できる限りのありとあらゆるロビイストと圧力団体は、あらゆる手段を使って、私が専門家証人となることを阻止しようとした。忘れもしない春のことであるが、ニュース・メディアから多くの電話が私の職場にかかってきて、研究所の仕事を妨げることになった。電話かけてきた人々やその話の中身は、ここでは、関心の対象ではないが、一つの例外がある。それは、ある紳士がプレサックであることがわかったことである。彼は、私個人の電話番号を尋ねてきたが、丁重に断った。

 私は、手紙で話し合おうと提案した。しかし、彼は、安全上の理由から、文書で意見を交換したくないようであった。そのようなことをするのは危険であるというのである。そして、彼は、護衛をつけるようにと警告してくれた。さらに、とくに「ホロコースト」というテーマについては、一時にあらゆる側面に挑戦するのを避けるように忠告してくれた。「ホロコースト」をあつかうにあたっては、個人的な危険を犯さずに成功する唯一の希望は、ホロコーストの側面の一つのことを、個別的に批判することであるというのであった

 私は、この電話以来、プレサックは、われわれ修正主義者の方が原則的に正しいと考えていると確信していた。しかし、彼は、絶滅論者の圧倒的権力を考えると、「体制」と闘うには、その内部から闘わなくてはならないとの結論に達していたのである。彼が絶滅論者の側に組して、そのために仕事をしていたのは、彼なりのサラミ戦術であった。一つ一つ譲歩を引き出すために、「体制」を利用するというのが彼の計画であった。

 プレサックの著作を年代順に眺めてみると、著作を発表するごとに、修正主義の主張に近づいていることがわかる。第一歩は、たんに、このテーマを公に議論することを可能にすることであった。第二歩は、目撃証言よりも科学的証拠の方が優位を占めていることを「体制」に認めさせることであった。第三歩は、このような証言にある矛盾を「体制」に認めさせることであった。また、彼は、新しい著作を出版するごとに、犠牲者の数を減らしていき、目撃証言への評価はいっそう批判的となっていった。そして、最後に、「アウシュヴィッツの神話」の土台を攻撃したのちに、彼の関心は、その他のいわゆる「絶滅収容所」に向けられていった[27]

 プレサックは、1993年に二番目の本を出版してから、次第に恐怖心を感じるようになったにちがいない。本を改訂するたびに、多くの敵を作り出したからである。彼が恐れのことを口に出したのは、私と電話していたときだけではない。マットーニョも、プレサックが自分とのすべての関係を絶ったのはこの当時のことであったと報告している[28]。フォーリソン教授も、プレサックが1995年のフォーリソン裁判のときに、まったく心身喪失してしまい、次のように述べて、フォーリソンの質問に答えることを拒否すると判事に釈明したことを報告している[29]

 

「私には一つの命しかないことをご理解ください。私は自分の闘いで一人ぼっちであることをご理解ください。」

 

 彼は、自分がまったく孤立しており、命が危険にさらされていることを知っていたので、証言を拒んだのである。フランスの法廷での率直な証言は、それが修正主義的な性質を持っていれば、深刻な結果をまねいてしまうことを、プレサックはわかっていたのである。

 2003年7月23日、プレサックは59歳の若さで死亡した。彼は研究書を出版することで、それまで博物館や文書館に隠されていた膨大な文書資料に、独立したホロコースト研究者がアクセスする道を切り開いた。また、文書資料の宝庫がどこあるかも指摘した。さらに、彼の研究は、技術的・科学的史料批判という修正主義者の方法こそが唯一的確な歴史学的方法であるという点を広く確信させてくれた。そして、そのようにすることで、修正主義者の研究の進展を大きく促してくれたのである。

 プレサックの著作が科学的には疑問の余地があるものであるにせよ、彼が政治的にはもっとも成功を収めた修正主義者であったことには疑問の余地はない。事実、彼は、われわれの二重スパイであったのである。

われわれは、プレサックに心から感謝すべきであろう

 

『アウシュヴィッツの嘘』目次へ

歴史的修正主義研究会ホームへ



[1] プレサックに対するヨーロッパのメディアの反応については、ドイツ:Germar Rudolf, “Pressac and the German Public,” in: Germar Rudolf (ed.), Auschwitz: Plain Facts, Theses & Dissertations Press, Chicago, IL, 2005, pp. 21-35 (www.vho.org/GB/Books/apf); フランス:Serge Thion, “History by Night or in Fog?,” ibid., pp. 37-58.を参照。

[2] J.-C. Pressac, Jour J, December 12, 1988, pp. I-X.

[4] Interrogation of Henryk Tauber on May 25, 1945, appendix 18, vol. 11 of the Hoss trial, quoted acc. to J.-C. Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, Beate Klarsfeld Foundation, New York 1989, pp. 481-502 (http://holocausthistory.org/auschwitz/pressac/technique-and-operation/pressac0011.shtml).

[5] For more detailed arguments about the following see G. Rudolf, Lectures on the Holocaust, Theses & Dissertations Press, Chicago 2005, Chapter 4.5.6. (www.vho.org/GB/Books/loth).

[6] J.-C. Pressac, op. cit. (note 4), p. 489.

[7] Cf. C. Mattogno, “Flames and Smoke from the Chimneys of Crematoria,” The Revisionist, 2(1) (2004), pp. 73-78.

[8] J.-C. Pressac, op. cit. (note 4), p. 495.

[9] Ibid., p. 114

[10] Ibid., p. 259, section enlargement.

[11] Penal matter no. 1719, interrogation of Kurt Prufer by the KGB in Moscow, March 19, 1946, Archive of the Federal Security Service of the Russian Federation (Federalnaya Slushba Besopasnosti Rossiskoy Federatsiy), N-19262; see J. Graf, “Anatomie der sowjetischen Befragung der Topf-Ingenieure,” Vierteljahreshefte fur freie Geschichtsforschung 6(4) (2002), PP. 398-421, here p. 407.

[12] C. Mattogno, “The Crematoria Ovens of Auschwitz and Birkenau,” in: Germar Rudolf (ed.), Dissecting the Holocaust, 2nd ed., Theses & Dissertations Press, Chicago, IL, 2003, pp. 281-320, here p. 403 (www.vho.org/GB/Books/dth). 13 J.-C. Pressac, op. cit. (note 4), pp. 489, 495.

[13] J.-C. Pressac, op. cit. (note 4), pp. 489, 495.

[14] Ibid., pp. 500f.

[15] Ibid., p. 494.

[16] Michael Gartner, Werner Rademacher, “Ground Water in the Area of the POW camp Birkenau,” The Revisionist, 1(1) (2003), pp. 3-12; Carlo Mattogno, “‘Incineration Pits’ and Ground Water Level in Birkenau,” ibid., pp. 13-16 (www.vho.org/tr/2003/1/Mattogno13-16.html).

[17] J.H. Perry, Chemical Engineer’s Handbook, Wilmington Delaware 1949, p. 1584.

[18] See the German version of op. cit. (note 1): Herbert Verbeke (ed.), Auschwitz: Nackte Fakten, VHO, Berchem 1996 (www.vho.org/D/anf/); see also the critique of the work by R. van Pelt, most of which applies to Pressac as well: Germar Rudolf, Carlo Mattogno, Auschwitz: The Case against Insanity, Theses & Dissertations Press, Chicago, in preparation (www.vho.org/GB/Books/atcai).

[19] CNRS Editions, Paris 1993.

[20] 彼は『焼却棟』の中で、青酸の沸点の典拠資料を明らかにしているが(16頁)、それを、存在もしない「気化点」と混同している。だから、自分の物理学的・化学的無能力を証明していることになる。彼は自分の発見したモスクワ文書館からの害虫駆除施設の循環配置についての典拠資料を引いているが、その内容については検証していない(41頁)。

[21] デムヤンユクの身分証明書がまったくの偽造であったことが知られて以来、これらの文書にもとづく資料批判が必要であることが明白である。D. Lehner, Du sollst nicht falsch Zeugnis geben, Vowinckel, Berg, undated.

[22] Cf. the many examples quoted by R. Faurisson, op. cit. (note 3), and Carlo Mattogno, in G. Rudolf (ed.), op. cit. (note 1), pp. 117-170.

[23] See beside R. Faurisson, op. cit., (note 3) also W. Haberle, Deutschland in Geschichte und Gegenwart 39(2) (1991) pp. 13-17. (www.vho.org/D/DGG/Haeberle39_2.html); W. Schuster, ibid., pp. 9-13. (vho.org/D/DGG/Schuster39_2.html); M. Weber, “Fred Leuchter: Courageous Defender of Historical Truth,” Journal of Historical Review 12(4) (1992-93) pp. 421-428 (www.vho.org/GB/Journals/JHR/12/4/Weber421-428.html); P. Grubach, “The Leuchter Report Vindicated,” ebenda, S. 445-473 (~/Grubach445-473.html); E. Gauss (=G. Rudolf), “Chemische Wissenschaft zur Gaskammerfrage,” Deutschland in Geschichte und Gegenwart 41(2) (1993) pp. 16-24 (www.vho.org/D/DGG/Gauss41_2); Gauss, Vorlesungen uber Zeitgeschichte, Grabert, Tubingen 1993 (www.vho.org/D/vuez)

[24] Cf. R. Kammerer, A. Solms, Das Rudolf Gutachten, Cromwell, London 1993, esp. pp. 22-29 (www.vho.org/D/rga1/rga.html)(試訳:ルドルフ報告、アウシュヴィッツの「ガス室」の化学的・技術的側面についての専門家報告); see also C. Mattogno’s contribution “The Elusive Holes of Death“ starting on p. 279 of this book.

[25] Ibid.; Engl.: Germar Rudolf, The Rudolf Report, Theses & Dissertations Press, Chicago 2003 (www.vho.org/GB/Books/trr).

[26] For instance, in Les Crematoires Pressac quotes the statement by Pery S. Broad (p. 22), Rudolf Hoss (pp. 51, 61, 73, 74, 98, 103), Henryk Tauber (pp. 85, 93), and frequently quotes witness statements from Danuta Czech’s book Kalendarium der Ereignisse von Auschwitz-Birkenau 1939-1945, Rowohlt, Reinbek 1989 (pp. 41f., 49, 54, 95, 98, 121, 192-202), as well as Hermann Langbein’s book Der Auschwitz-Prozes, Europa Verlag, Vienna 1965 (p. 117), which is riddled with witness statements.

[27] Cf. Jurgen Graf, “In Memoriam Jean-Claude Pressac,” The Revisionist 7(4) (2003), pp. 426-432.(試訳:追悼 J.-C. プレサック(J. グラーフ、G. ルドルフ)

[28] C. Mattogno, “My Memories of Jean-Claude Pressac,“ ibid., pp. 432-435.

[29] Robert Faurisson, “My Revisionist Method,” Journal of Historical Review 21(2) (2002), pp. 7-14 (www.ihr.org/jhr/v21/v21n2p-7_faurisson.html).