試訳:国際的な広がりをみせるアウシュヴィッツ論争

――ツィンマーマンのマイヤー論文批判について――

ゲルマール・ルドルフ

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2006年7月27日

本試訳は当研究会が、研究目的で、Germar Rudolf, The International Auschwitz Controversy, Auschwitz Lies: Legends, Lies, and Prejudices on the Holocaust, Germar Rudolf, Carlo Mattogno, Theses & Dissertations Press PO Box 257768, Chicago, Illinois 60625を試訳したものである(文中のマークは当研究会による)。

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online: http://www.vho.org/GB/Books/al/

[歴史的修正主義研究会による解題]

「反修正主義的理論家」を自称するJ. C. ツィンマーマンのマイヤー論文批判に対する修正主義者ルドルフの批判。論集『アウシュヴィッツの嘘』所収の論文。

 

 アウシュヴィッツ収容所群で死亡した犠牲者の実数について、国際的な論争が始まったのは、この捕虜収容所・強制収容所群が解放された44年後、1989年のことであった。それ以前の44年間、ポーランド当局は、それに追随する世界のマス・メディアの大半とともに、ここでは約400万人の囚人が殺されたと主張し続けていたが、1989年、突然に翻意し、この数を劇的に減らした。その結果1990年、数ヶ国語で400万人の犠牲者という数字をあげていた、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の記念碑は撤去された。そして、より正確な犠牲者数を確定するための調査委員会が設置された[1]。この委員会が1990年夏にその結果を公表すると、世界中のメディアがこれを報道した[2]。もっとも驚くべき発言は、古い誇張された数字は「反ファシスト的嘘」であったという有名なポーランド人ジャーナリストのコメントである[3]。1995年、新しい記念碑がアウシュヴィッツに建てられ、それは、「最終」犠牲者数=150万人という数字を刻んでいた。

しかし、この「最終」判決はアウシュヴィッツの死亡者数をめぐる論争を終わらせることができなかった。1993年、1994年、当時アウシュヴィッツの技術的問題についての専門家として世界中のメディアから持ち上げられていたフランス人薬剤師プレサックは、最初は80万人[4]、ついで70万人[5]と二度にわたってこの数字を減らした。次の下方修正は、2002年5月、ドイツ最大の左翼系ニューズ・マガジン『シュピーゲル』誌の中心的ジャーナリストであったフリツォフ・マイヤーによって行われた。マイヤー論文はドイツの地政学雑誌『オスト・オイローパ(東欧)』――ドイツ国会議長もつとめたことのあるリタ・ズスムート教授が統括するドイツ東欧学会の出版物――に掲載された。マイヤーはアウシュヴィッツの焼却棟から大量殺戮の現場としての役割をはずすことによって、すなわち、焼却棟の「殺人ガス室」は殺人施設としては使われなかったと主張することで、この結論に達した。

この雑誌の流通部数は限られたものであったので、当初、この論文は世間的には注目を集めなかった。数少ないメインストリームのメディア、例えば、ドイツの日刊紙『ヴェルト』(2002年8月28日)に掲載されたケラーホフの記事だけがこれをとりあげた。これ以外では、ドイツ右派の小さな出版物だけが、マイヤー論文に反応したにすぎなかった。

しかし、ポーランドのアウシュヴィッツ博物館は マイヤーによるアウシュヴィッツ死者数の大幅下方修正と焼却棟の役割の否定にすみやかに反応した。博物館の中心的な歴史家ピペル博士は、マイヤー論文に反論を書き[6]、これに対して、マイヤーも再反論を行なった[7]。ドイツの主要な反ファシストサイトも、これらの論文と他の筆者による関係論文のリンクをウェッブ・ページにまとめている[8]

修正主義者も、マイヤー論文について[9]、ピペルの反論について[10]、マイヤーの再反論について[11]繰り返し言及し、反修正主義者のマイヤーも教条主義者のピペルも自説に反する文書資料的証拠・物理的証拠を無視していることを明らかにした。エスタブリッシュメントのホロコースト研究者のあいだで行われた論争は、明らかに修正主義者の研究と所説をバックグラウンドにしているにもかかわらず、彼らの所説や批判について一言も言及しないまま行われているが、それは、彼らの研究が似非学問であることを如実に示している。

アウシュヴィッツの犠牲者数についてのこの論争は、ジョン・C・ツィンマーマンが有名な英語雑誌Journal of Genocide Researchでマイヤー論文を詳細な非難の対象としてとりあげたときに――やはり、この論争に対する修正主義者の貢献について注意深く言及を避けている――、国際的な似非アカデミックな水準にまで達した[12]。この論文について、検討してみよう。

ジョン・C・ツィンマーマンは、ラスベガスのネバダ大学の会計学助教授である。ホロコーストのドグマを擁護するのが、彼の余暇の趣味の一つである。2000年、彼は、ホロコースト修正主義を「論破」したと称する書物を発表している[13]。彼の論文の多くは、おもにいわゆるホロコースト・歴史プロジェクト(holocaust-history.org)によってネット上に配信されている。ここで検討の対象とする論文からもわかるように、ツィンマーマンはアウシュヴィッツ正史の専門家の一人とみなされている。一方、世界各地に、専業のホロコースト専門家は数多く存在しているはずである。だとすれば、なぜ彼らは、マイヤー説に反駁しようとしていないのであろうかという疑問が生じる。マットーニョは本書に収録されている、この詐欺師に関する論文の中で、ツィンマーマンがまったく無能力であることを完璧に明らかにしているだけに[14]、そのような疑問がつのる。

冒頭から、ツィンマーマンは、マイヤーの犠牲者数がメインストリームに入り込む可能性を持っている、すなわち、アウシュヴィッツの人口統計に通暁していない研究者や歴史家に受け入れられる可能性を持っているがゆえに、マイヤー説を検討しようとしているにすぎないと述べている(249頁)。そのような事態にならないようにするためにであるというのである。

 250−255頁で、ツィンマーマンは、アウシュヴィッツの鉄道駅に移送されてきた囚人は全体で何名なのか、そのうち収容所に登録されたのは何名なのか、登録されずに別の場所に移送されたもしくはガス処刑されたのは何名なのかという問題に取り組んでいる。修正主義者も絶滅論者もこれらの囚人に何が起こったのかを論じているだけで、その運命については、一般的な目撃証言以外の証拠が存在しないというのである。

 ツィンマーマンも証拠が存在しないことを認めている。彼は、1942年から1944年にかけて、多くの移送集団がアウシュヴィッツに到着し、その中には収容所に登録されない囚人たちもいたが、彼らの運命についてはまったく「情報」がないことを認めている。しかし、ツィンマーマンは、まったく情報が欠けているにもかかわらず、これらの囚人はガス処刑されたと主張している(251頁)。

 しかし、「情報が欠けている」ということは、英語では簡潔に、これまでガス処刑されたといわれてきた人々の「運命」についても、「情報が欠けている」ことを意味しているはずである。

 ツィンマーマンでさえも、アウシュヴィッツに送られた移送者の中で、そこで登録されなかったが、毒ガスによって殺されもしなかった囚人が存在したことを認めている。彼は、囚人たちは到着するとすぐに絶滅対象となったという説とは別に、1944年、ハンガリーとポーランドから移送されてきた数千のユダヤ人が、別の収容所に移送される前に、通過収容所(Durchgangslager)に一時的に収容されたと述べている。これらの囚人はまったく登録番号を割りあてられておらず(252頁)、もちろん、ツィンマーマンは、これらの非登録移送者が大量殺戮の対象となったことを示す文書を一つもあげることができない。むしろ、彼は、非登録ユダヤ人が別の収容所に大量に移送されていったことを示す文書資料を引用している。これは、ハンガリー内務省ユダヤ人移送局代表フェレンシイ少佐による1944年5月29日のメモである[15]。この中で、フェレンシイは、184000名のユダヤ人が先日移送されたこと、彼らはアウシュヴィッツでの選別後に、さまざまな労働収容所に列車で移送される予定であるので、治安警察は、このユダヤ人のために5日分の食料を要請していることを記している(253頁)。

 にもかかわらず、ツィンマーマンは、アウシュヴィッツで登録されなかったユダヤ人全員――彼らの運命を明らかにする証拠はまったくない――が、アウシュヴィッツでガス処刑されたと主張している

 ツィンマーマンが本末転倒した議論を展開している方法に注目しておかなくてはならない。

 わずか10年前には、アウシュヴィッツに到着した移送集団はすべて、選別され、その中で、労働不適格者が選び出されて、「ガスによって」殺されたというのが「定説」であった。これは、とくに、ハンガリーから移送されたユダヤ人に                                                                                                あてはまっていた。しかし、最近の10年間に、絶滅されたとみなされていた人々はガス処刑されてもおらず、たんに別の収容所に移送されたにすぎないことがわかってきた。ツィンマーマン自身も、このような事例に数件触れている。グラーフとマットーニョは、シュトゥットホフ収容所に関する研究書の中で、このような事例をもっと多くあげている[16]

 言い換えると、何年間もその運命についての情報がまったくなかった囚人たちが、突然、生存していたらしいということになったのである。

 だとすると、今日、まだその運命についてまったく情報のない囚人たちが、ツィンマーマンの主張するように、「ガスで」死んだと主張できるのは、どうしてなのであろうか?

 ツィンマーマンは、ドイツ当局の多くが終戦時に文書を破棄するように命令されていたと述べているが、その点では彼は正しい(256頁)。だが、これは、敵軍によって占領されようとする国家であれば、どの国家でも行なう措置である。秘密文書資料の破棄という行為がホロコーストを意味するものであれば、世界各地に次々とホロコーストを発見できるであろう

 しかし、実際には、アウシュヴィッツ当局は、アウシュヴィッツ中央建設局の数万の文書資料――ツィンマーマンの主張するところの大量殺戮の証拠が残っているはずである――を隠匿しようともしていないし、破棄もしていない。しかも、これらの資料には大量殺戮の証拠などまったく残っておらず、むしろ、大量殺戮説の反証となるような文書資料が含まれている。

 ホロコーストの証拠が欠けていることが、ホロコーストが行われたことの証拠になるはずがない。しかし、証拠の欠如に関して、ツィンマーマンなどホロコースト正史派の主張している論理はまさにこのような論理である。まったく、科学的方法と反している。

 ツィンマーマンは、255頁から、アウシュヴィッツの焼却棟の処理能力について記しているが、この章を分析すれば、彼の説が寄って立つ土台がいかに脆弱であるかが明らかとなる。ツィンマーマンは、プレサックの研究と同じように、技術的な問題を解決するにあたって、専門的な研究書を参照したり、独自の技術的計算を行なうことは必要ではないと考えている。彼は、目撃証言と、批判的な分析も行なわずに、恣意的に選択した文書資料にまったく依拠している。特徴的なことに、彼は、この論文の中で、仇敵であるマットーニョの研究に一言も触れていない。最近まで、マットーニョの研究を論破することは、ツィンマーマンのおもな目標であったにもかかわらず[17]、学術誌なるものに論文を掲載するにあたっては、自説に反する証拠や説を紹介・検討するという学術的原則を突然忘れてしまっている。ツィンマーマンの学術的スタンダードとはこのようなものなのであろうか?

 ツィンマーマンは、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の処理能力を恣意的に増やしているが、そうするために、5つの策略を使っている。

 

1.      彼は、ビルケナウの炉が他の収容所の炉(グーゼン収容所、257f頁)と同等の処理能力を持っていたと述べている。しかし、ビルケナウの炉は強制通風システムを持っていなかったので、処理能力が劣っていたという事実を無視している[18]

2.      彼は、アウシュヴィッツの衰弱した死体はより速く焼却されうると主張している(258頁)。だが、ガス処刑の対象となったとされる犠牲者はそんなに衰弱していなかったはずである。長期にわたって幽閉されているか、他の深刻な病(赤痢、チフス)をわずらっていたり、そのために死亡した囚人の死体であれば、衰弱していたことであろう。さらに、脂肪分をあまり含んでいない衰弱した死体は、平均的な脂肪分を含む死体と較べると、よく燃えないであろう

3.      彼は、ビルケナウの焼却炉の建設責任者であったクルト・プリュファーのメモを誤読し、ビルケナウの3燃焼室炉の処理能力は2燃焼室炉の能力の3分の1高く、したがって、焼却時間は3分の1短縮されると論じている。だが、焼却能力とは、時間と死体ごとに費やされるエネルギーを意味する物理的用語のことである。影響を受けるのは、焼却に必要な時間ではなく、エネルギーである。3燃焼室炉には3つの燃焼室を熱するための2つの暖炉しかなく、そのために、3つの死体の入った3つの燃焼室を熱するには、2つの死体の入った2つの燃焼室を熱するのと同じエネルギーが必要だからである。

4.      彼は、8体とはいわないまでも、通常は3体がビルケナウの1燃焼室の中で一度に焼却されたという神話を繰り返しており、その際、嘘つき証人[19]タウバーに依拠している(258ff頁)。アウシュヴィッツではこのような燃焼室の過剰負荷が可能であった証拠として、ツィンマーマンは、民間の焼却棟が時間および効率の面でライバルに対して優位に立つために、法律に違反してでも、多くの死体を一時に焼却した事例を報告した1980年代と1990年代の新聞記事を引用している。ツィンマーマンは現代の焼却炉の特徴を研究し、それとビルケナウの炉とを比較すべきであった。そうすれば、過ちをおかさなかったであろう。すなわち、現代の焼却炉はビルケナウの石炭燃料炉と較べると、きわめて大きな燃焼室をもっている。それは、a) 現代の焼却炉は非常に大きな棺も収容せざるをえないのに対して、アウシュヴィッツでは棺なしの死体が焼却された、b) 現代の焼却炉のほぼすべては燃焼室壁に設置されたガスバーナーで作動しており、それが効果的に稼働するのは棺との間の距離がもっとも短いときである、との理由からである。しかし、このようなケースであっても、何体もの死体を一時に焼却することに成功するのは、その数に応じて、燃料供給と消費が増やされる場合だけである。そして、そのようなことをすれば、ツィンマーマン自身も記しているように、死体を詰め込まれた燃焼室は炉と通風路のオーバーヒートをもたらしてしまうので、全体が発火してしまうということもありうる。アウシュヴィッツの炉に関する文書資料と図面は、この燃焼室が1体の死体を焼却する目的で設計されていることを証明している。例えば、炉の扉はわずか600mm×600mmであり、しかもその上部は半円形をしている。炉の扉の高さは、ストレッチャーを誘導するころが下部についているために、さらに制限される(下記の図版参照)。したがって、この扉だけでも、この燃焼室が1体の焼却用に設計されていたことの証拠になるが、多くの死体の焼却が不可能であることを示す熱力学的理由もある。一つの燃焼室に多くの死体を押し込めば、燃焼ガスが流れる壁の中のガス導管をブロックしてしまうであろう。さらに、ガス発生器は、脱水化という当初の局面に必要な熱を発生させることができないので、炉の温度は最初から劇的に下がってしまうであろう。次の焼却局面では、燃え上がっている死体が非常に多くの熱を生み出すので、燃焼室がオーバーヒートしてしまうであろう[20]主任技師クルト・プリュファーは、2体が同時に入れられたとき、「炉はこの負荷に耐えることはできなかった」と記している[21]

5.      ツィンマーマンは、焼却棟が稼働停止となる期間の回数についてのマイヤーの計算――マイヤーはマットーニョに依拠しているのだが――に疑問を呈している。そして、炉の扉の修理発注は、当該の炉が停止されたことをかならずしも意味しないと主張している。そうかもしれないし、そうでないかもしれない[22]。この件については、詳しい情報がないために、今のところ推測しかできないからである。だが、マットーニョは焼却棟が稼働停止となった多くの事例について、文書資料にもとづいて明らかにしているが、ツィンマーマンはそれらの事例をすべて無視している。マットーニョは十分なデータがない事例にあっては、用心深く見積もりをだしているにすぎない。焼却棟は長期間にわたって存在していたが、その活動については十分な文書資料がない。マットーニョは、「証拠の欠如は焼却棟が稼働していなかったことを立証している」というツィンマーマンの方法に従うかわりに、「証拠がない場合には、炉がフル操業していたと推定する」という最悪の場合を想定しているのである。

アウシュヴィッツの焼却棟で使われていた炉の扉。ストレッチャーを誘導するころ(白枠)[23]

ビルケナウの焼却棟Uの炉の扉[24]

同じ扉(隣の人間と大きさを比べていただきたい)――ブッヘンヴァルトの炉[25]

 

アウシュヴィッツの3燃焼室炉の部品についての、1942年4月16日のトップフ社の発送状(抜粋):「10個の600/600mmの投入扉」

 

 

多くの事例で、ツィンマーマンは、文書資料に通暁していないことを明らかにしてしまっている。例えば、炉の作業員のことを、そのように呼ばれたことはまったくないにもかかわらず[26]、「特別労務班員」と呼んでいる(254頁)。彼は、さまざまな収容所に追加の死体安置室が建設されたことは、焼却棟の死体安置室が死体安置室として使われなくなったこと、したがって、ガス室として使われたことを立証していると考えている(255頁)。しかし、実際には、これらの追加の死体安置室は臨時の死体安置室として使われただけであった――死体は焼却棟の死体安置室に移送される前に、ネズミよけのために、おもに一晩、安置された――[27]。最後に、ツィンマーマンは、収容所長ヘスの供述を誤って引用することで、マイヤーの間違いを繰り返している。すなわち、ヘスは、マイヤーとツィンマーマンが主張するように、焼却棟は1日に8−10時間だけ稼働することができたと供述しているのではなく、8−10週間稼働させることができたと述べているのである。

深い壕での戸外焼却についてのツィンマーマンの記述には、焼却棟Xのうしろの広場から小さな煙が立ち昇っていることを撮影した、最近公開されたイギリス軍の航空写真への言及以外に、何も目新しい点はない。ツィンマーマンは、この煙が大量埋葬地から立ち昇っていると主張している(261頁)。

煙が焼却棟Xのうしろの区画から立ち昇っているのは事実であるが、どのような炎からこの煙が立ち昇っているのかを知ることはもちろんできない。これとは別に、ツィンマーマンが言及している写真には、ツィンマーマンや彼の仲間が主張するように、この場所で、大きな壕の中で大量絶滅が行なわれたことを立証する証拠がまったく欠けている。すなわち、収容所の西と北には巨大な壕、巨大な燃料集積場、広大な地域をカバーする煙を発する炎が存在したというのである。こうしたものが存在したとすれば、この湿地帯の水位を考えると、炎の周囲の区画は広く、大きな沼地に変わってしまっていることであろう。しかし、このようなものをこの写真や、これに類した写真にまったく見ることはできない[28]

 最後に、ツィンマーマンは、イギリス軍が拷問を使ってヘスから引き出した証言の信憑性を救おうとして、ヘスはポーランドの監獄で自分をリンチにかける一派を待っているあいだは、厚遇されていたと主張しているが、ヘスが自分を捕らえたポーランド人について次のように述べていることは無視している[29]

 

「 最初の数週間、獄中生活は耐えられるものであったが、すぐに、彼ら[看守]は交代した。私は、彼らの振る舞いと話――理解できなかったが、憶測した――から、彼らが私を殺したがっていることを推し量ることができた。いつも、少量のパンとごく少量の薄いスープしか与えられなかった。

 もしも、検事が口をはさんでくれなければ、看守たちは、物理的にではないとしても、まず精神的に私のことを殺したことであろう。」

 

 ヘスは多くのことに対処することはできたけれども、看守たちによる精神的な拷問は、彼にとって耐え難いものとなっていたのである。

 ここでは、ヘスを捕まえたスターリニストの獄吏が習熟していた「飴と鞭」戦術が典型的に使われている。最初、囚人は「悪玉」によって虐待され、そのあとで「善玉」が登場して、もしも協力的であれば、虐待は行なわれないだろうし、厚遇されると約束するのである。

 ツィンマーマンは、ヘスの証言や回想が正確で信用できると述べているが、次のような内容から判断する限り、ヘスの証言や回想の信憑性は薄いと判断せざるをえない。

 

「壕の中の炎を維持するために、集められた脂肪を[燃え上がっている死体の上に]注ぎかけること。彼らは、死体を引きずっているあいだに、食べ物を食べ、タバコをすっていた。」(126頁)

「最初はオイルの残りが、のちにはメタノールが死体にかけられた。…彼はまた、爆薬で死体を消滅させようとした…」(157ff頁)

「ガスが注入されてから30分後に、扉が開けられて、換気装置が稼働した。死体の除去がすぐに始められた。…」(166頁)

 

 このような馬鹿げた記述についてこれ以上コメントする必要はないであろう[30]

 ツィンマーマンの所説の正確さや信憑性にも同じことがいえる。

 

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[1] Cf. for this “Commission try to defuse Auschwitz controversy,” The Canadian Jewish News,Oct. 3, 1990, p. 5.

[2] Daily press of July 18, 1990, e.g.: Krzysztof Leski, Ohad Gozani, “Poland reduces Auschwitz

death toll estimate to 1 million(ポーランドはアウシュヴィッツの死者の見積もりを100万人まで減らした),” London Daily Telegraph, July 18, 1990; UPI, “Polandlowers Auschwitz toll(ポーランドはアウシュヴィッツの死者数を減らす),” Toronto Sun, July 18, 1990. ドイツでは、1990年7月18日に、もっとも少ない新しい犠牲者数:96万人を公表したのは左翼急進派の新聞die tageszeitung であった。

[3]  “‘Ich empfinde Verlegenheit.’ Der polnische Publizist Ernest Skalski uber die neue Auschwitz-Diskussion in Warschau” (「私は困惑している」と、ワルシャワでのアウシュヴィッツについての新しい議論について、ポーランド人著述家エルネスト・スカルスキ), Der Spiegel no. 30 (1990), p. 111.

[4] 「死者の合計:775000人(この数字には誤差がありうる。だから、一般的には、80万人という概数が通用する)Jean-Claude Pressac, Les Crematoires d’Auschwitz. La Machinerie du meurtre de masse, editions du CNRS, 1993, p. 148.

[5] 「死者の合計:631000−711000名;…犠牲者数は63万人から71万人と見積もることができる」Die Krematorien von Auschwitz. Die Technik des Massenmordes, Munich, Piper, 1994, p. 202.

[6] www.auschwitz.org.pl/html/eng/aktualnosci/news_big.php?id=564(試訳と評注:F. ピペル、マイヤー論文の書評)

[7] www.idgr.de/texte/geschichte/ns-verbrechen/fritjof-meyer/meyer-replik-auf-piper.php.

[8] www.idgr.de/texte/geschichte/ns-verbrechen/fritjof-meyer/index.php

[9] Germar Rudolf, “Cautious Mainstream revisionism,” The Revisionist 1(1) (2003), pp. 23-30(試訳:メイヤーによる用心深い正史の修正(G. ルドルフ); Carlo Mattogno, “Auschwitz. Fritjof Meyer’s New Revisions,” ibid., pp. 30-37(試訳:フリツォフ・メイヤーの新説批判(C. マットーニョ).

[10] C. Mattogno, “On the Piper-Meyer-Controversy: Soviet Propaganda vs. Pseudorevisionism,” The Revisionist 2(2) (2004), pp. 131-139(試訳:ピペル・メイヤー論争によせて(C. マットーニョ).

[11] Jurgen Graf, “‘Just Call Me Meyer’ – A Farewell to ‘Obviousness’,” The Revisionist 2(2) (2004), pp. 127-130(試訳:マイヤー・ピペル論争によせて(J. グラーフ).

[12] John C. Zimmerman, “Fritjof Meyer and the number of Auschwitz victims: a critical analysis,” Journal of Genocide Research, 6(2) (2004), pp. 249-266. This paper was positively mentioned by Sven Felix Kellerhoff, “Interpretationen und Ideologie,” in the German daily Die Welt, Sept. 21, 2004

[13] Holocaust Denial. Demographics, Testimonies, and Ideologies, University Press of America, Lanham, MD, 2000.

[14] “An Accountant Poses as Cremation Expert,” starting on p. 87.

[15] ハンガリー内務省ユダヤ人移送局代表フェレンシイ少佐、IMT, Blue Series, Vol. 4, p. 367.

[16] Concentration Camp Stutthof and its Function in National Sozialistischen Jewish Politics, 2nd ed., Theses & Dissertations Press, Chicago, 2004, pp.91-95.

[18] ビルケナウの炉の焼却格子の隙間はわずか50mmなので、死体の燃えカスが格子を通って燃焼後室に落ちる前に、死体を完全に焼却して、次の死体を搬入するスペースを空けなくてはならなかった。

[19] See my analysis in Lectures on the Holocaust, Theses & Dissertations Press, Chicago 2005, pp. 451-456; see also my contribution about J.-C. Pressac in this book, pp. 25f

[20] For a more complete discussion see the works quoted in previous footnote

[21] See C. Mattogno’s explanations in this book in his chapter “9. Multiple Cremations,” on p.

148.

[22] 1944年春と夏の時期に撮影された連合国とドイツの航空偵察写真には、焼却棟の煙突からの煙が移っていないことは、これらの焼却棟がこの時期に稼働していなかった――ツィンマーマンは疑っているが――ことを示している。see C. Mattogno’s elaborations on this in Auschwitz: Open Air Incinerations, Theses & Dissertations Press, Chicago 2005.

[23] Taken from J.-C. Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, Beate Klarsfeld Foundation, New York 1989, p. 259, section enlargement (http://holocausthistory.org/auschwitz/pressac/technique-and-operation/pressac0259.shtml).

[24] APMO, Neg. Nr. 291, section.

[25] US Army Audio-Visual Agency, SC 263997, section.

[26] 彼らは、Heizer(火をくべる人)と呼ばれていた。C. Mattogno, Special Treatment in Auschwitz, Theses & Dissertations Press, Chicago, 2004, pp. 101ff.

[27] Carlo Mattogno, The Morgues of the Crematoria at Birkenau in the Light of Documents, The Revisionist, 2004, No.3(試訳:ドイツ側資料から見たビルケナウ収容所の実像(C. マットーニョ))

[28] Carlo Mattogno, On the Piper-Meyer-Controversy:Soviet Propaganda vs. Pseudo-Revisionism, The Revisionist, 2004, No.2(試訳:ピペル・メイヤー論争によせて(C. マットーニョ)

[29] R. Höss, in: Broszat (ed) , Kommandant in Auschwitz, Deutsche Verlags-Anstalt, Stuttgart 1958, pp. 151.

[30] この件についてもっと詳しくは、私の専門家報告、The Rudolf Report, Theses & Dissertations Press, Chicago, 2003, pp. 199-201.(試訳:ルドルフ報告、アウシュヴィッツの「ガス室」の化学的・技術的側面についての専門家報告