試訳:旧ヴラーソフ軍兵士の手紙
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年4月9日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Ф.Легостаев, Письмо на
родинуを試訳したものである。 |
エフ・レゴスターエフ
祖国への手紙
私は、解放運動での友人と同志たちの要請で、ロシア解放軍の戦友たちの要請で、そして、次に述べるような願いから、この手紙をしたためています。私たちから人民の敵という烙印を取り除くことをぜひ助けてください。私の家族から祖国の裏切り者の家族という烙印を取り除くことをぜひ助けてください。
自分のことを少しお話します。人生の半ばまで(戦争まで)、私は積極的に、ピオネール、共産青年同盟、共産党で活動してきました。少なからず重要な責務、職務に従事し、それを果たしてきました。人生の後半では、その方が長いのですが、運命(戦争、捕虜、祖国に帰国できないこと)の意志によって、別の生活形態、別の人間関係を知り、それを良く見たうえで、共産主義的理想から離れました。そして、ロシア解放軍に自発的に加入し、ロシアの諸民族を、反人民的・全体主義的な共産党の圧制から解放することをめざす、大衆的で、数百万人の参加する運動に少なからず積極的に、かつ意識的に関与してきました。その結果、わが国の政府から万死に値するような罪で告発され、人民の敵と呼ばれ、妻と娘は迫害を被りました。
戦後、当時の連合国は、スターリンの要請に応じて、解放運動の指導者、ロシア解放軍の幹部、ヴラーソフ軍兵士の大半をソ連政府に引き渡しました。彼らはごく少数の人々を除いて、処刑されました。国外に残ることができた人々はごく少数でした。スターリンの血塗られた体制は悪行を行い、そして年月がたちました。私たちすべては、わが国で起こった民主化を心から喜んでいます。それは、(かつての私たちのように)、共産主義奴隷制からの解放をめざした兵士たちの大胆な行動によって成し遂げられたものです。そして、私たちは、緩慢で遅々としているようではありますが、わが国で進んでいる変化を歓迎しています。
しかし、同胞たちが戦時中に国外で始めたいわゆる亡命ヴラーソフ派の解放運動のことが忘れ去られ続けていることに、深く憂慮しています。まるで、そのような運動は存在しなかったかのように思われています。数百万の同胞がドイツ軍の捕虜となっていたこと、強制収容所にいた事実などが、まるで存在しなかったかのように思われています。反人民的権力を擁護することを望まずに、武器を棄てた人々がいたという事実などが、まるで存在しなかったかのように思われています。ドイツ人によって労働のためにドイツに強制連行された人々がいたという事実などが、まるで存在しなかったかのように思われています。多くの人々が、スターリンの政府に反対することができるはじめてのチャンスに接して、ドイツ軍に加入したり、自分たちの部隊を作ったり、ロシア解放軍に参加したのです。多くの公式資料から判断すると、第二次世界大戦が終わったとき、敗戦国のドイツ、オーストリア、イタリア、フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、スウェーデン、カナダには、1300万人ほどのロシア人、その他のソ連邦の民族の国民がいたのです。
大量のソ連軍兵士と将校が投降したことはとくに印象的です。ドイツ軍は、開戦冒頭、ベロストックとスロニムスクの「ポケット」に、西部戦線の3つのソ連軍集団、すなわち、第3軍、第4軍、第10軍を閉じ込めることに成功しました。72万4000名の兵士が捕虜となりました。西部戦線軍司令官ポポフと参謀長クリメンコは、「軍を統率することができず、戦わずに武器を棄て、陣地を勝手に放棄した」咎でモスクワに召喚され、銃殺されました。
1941年9−10月のキエフ包囲戦では、66万5000名の赤軍兵士と将校が捕虜となりました。総司令官のキルポノフ将軍は、銃殺が待っていることを知って、自決しました。開戦当初、赤軍がほぼ全面的に崩壊したことについては、詳しく申し述べる必要はないでしょう。9月に、ドイツ軍はすでにレニングラートとモスクワ近郊にまで迫り、ドイツ軍の捕虜収容所には450万のソ連軍兵士と将校が収容されていたのです。政府は、撤退する赤軍と一緒に疎開するよう住民たちに厳命していましたが、5000万以上の住民が、迫りつつある敵軍の好意を期待して、地元に残りました。1942年、ヴィンニツァ戦線でドイツ軍が包囲されたとき、運命のいたずらによってドイツ軍が収容所に放置した捕虜の大半が、何と撤退するドイツ軍のあとを追って、逃亡して行ったのです。
国際赤十字は、ベルリンの意を受けてソ連政府に対して、捕虜を飢餓から救うために、赤十字を介して食糧を送ることを提案しました。この提案に対するスターリンの回答は、その提案を受け取る前にすでに出されていた1941年8月16日の命令第270号の中で明らかにされています。
「赤軍兵士の部隊が、敵に反撃を組織する代わりに、投降することを選択した場合には、陸軍と空軍の全力を尽くしてこの部隊を殲滅すべし。投降者の家族から国家扶助・保護を剥奪すべし。敵に投降した指揮官と政治人民委員は、最悪の脱走兵とみなすべし。その家族は、祖国への忠誠義務に違反し、自分の祖国を裏切った脱走兵の家族として逮捕すべし。」
こうして、輪は閉じられたのです。ドイツ軍はたとえしようとおもっても、数百万の捕虜に食糧を供給することはできませんでした。そして、そのことは、敵軍の大量殲滅という彼らの政策に符合していました。スターリンの政府も私たちをまったく見捨て、スターリン自身も捕虜となった自分の息子を見捨てたのです。
私たちは、「家」に帰って、裏切り者という烙印を押されて、強制収容所の中で飢えと重労働によって緩慢な死を向かえるべきだったのでしょうか。それとも、捕虜となることを避けるために、最後の銃弾を自分に向けるべきだったのでしょうか。一体、何のために?
言いかえれば、私たちは裏切り者ではなく、裏切られたのです。しかし、今でも、出版物は、私たちが過去の戦争の不幸すべてに責任があるかのように中傷しています。
ヴラヂーミル・ソロウヒンは次のように質問しています。
「スヴォーロフがイズマイルを奪取したロシア・トルコ戦争のときにも、一人の裏切り者もいなかった。スウェーデンとの戦争(ナルヴァ、ポルタヴァ)のときにも、一人の裏切り者もいなかった。ブルガリアを解放したロシア・トルコ戦争のときにも、一人の裏切り者もいなかった。さらに、1914年のドイツとの戦争のときにも、一人の裏切り者もいなかった。突然数百万の裏切り者がどこから、そしてなぜ現れてきたのか?…」(『ロシア作家雑誌』1990年、第6号)
ソロウヒンはこの質問に答えていません。しかし、答えはきわめて簡単です。
解放運動の出現です。権力の簒奪、強制的農業集団化、大小の粛清、数千の監獄と強制収容所、数百万の銃殺処刑者・死者、人間の自由の踏みつけ、ロシア諸民族の生活の困窮化に対するわが国民の答えだったのです。国民は、ソ連政府からのこうした「贈り物」を護ろうとはしなかったのです。
政治人民委員たちはドイツ軍の捕虜になることの恐ろしさを喧伝していましたが、赤軍の小隊全体が、ひいては部隊全体が指揮官とともにドイツ軍に投降しました。ロシア国民は、憎むべき共産党権力に対して戦おうとしていたのです。すでに1941年夏から、ロシア人志願兵が、最初は補助隊員として、のちには兵士としてドイツ軍部隊に登場するようになりました。1941年末には、ロシア人だけの独立した部隊が組織され始めました。ロシア人だけではなく、ロシアのその他の諸民族の部隊でした。
ドイツ軍司令部は、ロシア人志願兵だけの78の大隊が東部戦線のドイツ軍の中で戦ったことを認めています。1943年の夏には、東部戦線のすべての作戦地域で、ソ連邦の諸民族の90以上の連隊(ドイツ軍指導部はその存在をなかなか認めようとはしませんでしたが)ともっと小さな部隊が少なからず存在していました。
このような国民の大衆的反応は、自然発生的なものであり、解放運動の精神がごく自然に発揚されたものでした。ヴラーソフ将軍が解放運動の先頭に立ってからはとくに、この運動が広まり、発展していきました。ヴラーソフ将軍は1941年11月にモスクワに呼び戻されました。この当時、工場施設は疎開し、老人、女性、生徒も、モスクワ防衛のための塹壕や対戦車壕堀りに駆りだされていました。このようなパニック状態の下で、ヴラーソフ将軍は第20軍の組織化に取り組んだのです。
ヴラーソフはこの任務に取り組み、軍を組織して、ドイツ軍をくいとめ、ルジェフにまで後退させました。この作戦の功績で、赤旗勲章を授与され、中将に昇進しました。ヴラーソフと彼の戦友たちは赤軍に捕まりましたが、その運命はあらかじめ決まっていました。しかし、彼らは16ヶ月間もルビャンカ監獄の中で拷問を受けました。彼らの意志を打ち砕いて、スパイ行為、金のためには何でもしたこと、裏切りを自白させ、その証拠を引き出すためでした。
私はヴラーソフ将軍だけではなく、トルヒン将軍、マルイシキン将軍、マリツェフ将軍、メアンドロフ将軍その他を個人的に知っていました。彼らは、自分の祖国と国民を愛した、誠実で、不屈で、勇敢な人々でした。ですから、彼らがソ連の法廷で醜い振る舞いをしたり、自白したとしても、それは、尋問のときに受けた耐え難いほどの拷問によるものであると思っています。ヴラーソフは、自分が苦難の道、自己犠牲的な道に立っていることをはっきりと悟っていました。自分のおかれている状況を理解していたので、私たちは自分たちの戦いで死ぬかもしれない、しかし、私たちの理想は共産主義を崩壊させるであろう、別の人々が私たちの任務を引き継いで、最後までやり遂げてくれるだろう、と一度ならず語っていました。
手紙の最初に述べたことを繰り返しておきます。私たちは、戦争中に生まれた解放運動が忘れ去られてしまうことを深く憂慮しています。やっと今日、わが国では、反共産主義的な国民の意志が自由に表明され始め、それが続いていますが、公平な目で眺めれば、私たちは、その自由な意志の表明の先駆者であったからです。
ヴラーソフ宣言と呼ばれているロシア諸民族解放委員会宣言という綱領的文書を読んでください。戦争末期に作成されたこの文書は、解放運動が真の民主主義的国民運動であると述べています。この理想の実現をめざして、共産主義の支配下にあるすべての国民が立ち上がり、今もその支配下で暮らしている人々が立ち上がっているのです。
この宣言が発表されてから半世紀以上がたっています。本当の民主主義者、多元主義者であれば、真の国民的な願いがこの宣言の土台にあることを認めざるをえないと思います。
私の歩んできた道を考えてください。私は自国民の敵なのでしょうか?祖国を裏切ったのでしょうか?それとも、些細な役割とはいえ、共産主義からの解放をめざす兵士の役割を果たしたのでしょうか?
私たちは裏切り者なのでしょうか、それとも裏切りの犠牲者なのでしょうか?
[補足:今日のロシアでも、ヴラーソフと彼の協力者の名誉回復を求める声が上がっているが、ロシアの司法当局は名誉回復を拒否している――歴史的修正主義研究会]