冤罪の構図(3)ベルゼン所長ヨーゼフ・クラマー

 

歴史的修正主義研究会

最終修正日:2006810

 

1. 「ベルゼンの野獣」=ヨーゼフ・クラマー

 ヨーゼフ・クラマー(Josef Kramer)は、1906年にミュンヘンで生まれ、1932年にSSに加入したのち、ダッハウ、マウトハウゼンなどさまざまな強制収容所に勤務した。1944年5月からはアウシュヴィッツU=ビルケナウの所長となり、1944年12月から終戦時までベルゲン・ベルゼン収容所長であったが、ドイツの敗戦とともに、逮捕されて、裁判にかけられ、死刑判決を受けて処刑された。ホロコースト文献の中では、彼は、「ベルゼンの野獣」として悪名高い。

 

ヨーゼフ・クラマー(1906-45)

銃を突きつけられ、足枷をはめられ、まさに「野獣」として取り扱われているクラマー

 

 クラマーを裁き、死刑を宣告したのは、1945年4月15日に、ベルゲン・ベルゼン収容所を解放したイギリス軍が1945年9月17日から11月11日、ドイツのリュネブルクで開いた「ベルゼン戦争犯罪裁判」であった。クラマーは、「ベルゲン・ベルゼン収容所での虐待行為」、「アウシュヴィッツ収容所での虐待行為」という二つの罪状で告発された。今日のホロコースト正史でも、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所は「大量ガス処刑」の、ベルゲン・ベルゼン収容所は「飢餓と疫病による大量死」の象徴となっているが、両収容所の所長をつとめたクラマーは、連合国国民の復讐主義的雰囲気、ひいては「マス・ヒステリー」の格好の対象となった。しかし、はたして、このベルゼン裁判は、「大量ガス処刑」と「飢餓と疫病による大量死」に対するクラマーの責任を立証しているだろうか

 

リュネブルクの裁判所

ベルゼン裁判被告席

 

2. 「大量ガス処刑」に対する責任問題

 ベルゼン裁判では、検事側も、そして後述するように弁護側も、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所における「殺人ガス室」の実在を大前提=公理(いわゆる「公知の事実」)として議論を進めた。したがって、検事側は、クラマーが、ガス室送りの囚人の選別に関与していたことを、何人もの目撃証人を使って立証することで、「大量ガス処刑」に対するクラマーの責任を立証しえたとした。一方、弁護側は、囚人の選別がかならずしもガス室送りを意味してはいないこと、「ガス処刑」はビルケナウ所長であるクラマーではなく、アウシュヴィッツ全体の所長であったヘスの指示によって行なわれたことを立証することで、クラマーの責任を回避しようとした。

 しかし、ベルゼン裁判は、「大量ガス処刑」の前提となる「殺人ガス室」の実在を立証しえているのであろうか。まず、「殺人ガス室」に関するクラマー証言を検証しておこう。

 

<「殺人ガス室」の実在に関するクラマー証言>

 クラマーは、最初の供述書のなかでは、「殺人ガス室」の存在を否定していた。

 

「アウシュヴィッツの囚人たちが、アウシュヴィッツにはガス室があったこと、そこでは大量処刑が行なわれたこと、看守が鞭うったり、虐待を行なったこと、それらすべては私の立会いのもとで、あるいは私の許可のもとで行なわれたことを告発していることを聞いています。この点についていえることは、これらの証言が最初から最後まで、虚偽であるということです。」[1]

 

ところが、二番目の供述書のなかでは、一転して、「殺人ガス室」の実在を認めている。

 

「…私が厳密な意味でのガス室を最初に目撃したのは、アウシュヴィッツにおいてです。それは焼却棟に付属していました。焼却棟とガス室を備えた建物は第二収容所(ビルケナウ)にあり、ビルケナウは私の管轄下にありました。アウシュヴィッツにやってきてから3日後に、収容所の巡察を行ない、この建物を訪れましたが、アウシュヴィッツにやってきてからの8日間は、それは稼動していませんでした。8日後に、最初の移送者が到着し、そこからガス室送りの犠牲者が選別されましたが、同時に、私は、アウシュヴィッツ全体を統括するヘスから、ガス室と焼却棟は私の管轄下の収容所にあるけれども、私はそれに対してはまったく権限を持たないとの文書命令を受け取りました。事実、ガス室に関する命令はいつもヘスから出されており、彼はそのような命令をベルリンから受け取っていたに違いありません。」[2]

 

クラマーは、供述内容の変更理由について、弁護人ウィンウッド少佐の尋問に対して、次のように答えている。

 

Q:最初の供述では、ガス室、大量処刑、鞭打ち、虐待についての告発が虚偽であると申し立てているのに、二番目の供述では、真実であると申し立てている理由を説明してください。

A:それには二つの理由があります。第一の理由は、最初の供述では、囚人たちがガス室は私の管轄下にあったと告発していると伝えられていたことです。第二の理由、これが主であるのですが、私に話してくれたポールが、ガス室の実在について沈黙を守ること、誰にも話さないことを私に誓約させたことです。最初の供述を行なったときには、まだこの誓約に拘束されていると感じていました。ツェレの刑務所で第二の供述を行なったときには、私が誓約していた人物、すなわち、アドルフ・ヒトラーとSS全国指導者ヒムラーはもはや生きていなかったので、誓約には拘束されないと考えたためです。」[3]

 

 また、クラマーは、検事バックハウス大佐の尋問に対しても、同じような理由を挙げている。

 

Q:供述をする前に、当法廷で行なったのと同じ宣誓をしたのではありませんか。そして、嘘をつき、アウシュヴィッツにはガス室はなかったと述べた供述をしたときにも嘘をついていることを知っていましたね。

A:すでに申し上げましたように、そのときには、この話題での誓約義務に拘束されていると考えていたのです

Q:ナチヴァイラーで撮影された写真を見せられるまでは、ガス室については嘘をつき続けており、写真を見せられたとき、はじめて、ガス室の存在を認めたというのですね。

A:そうではありません。第一の供述書と第二の供述書のあいだの期間には、まったく質問されなかったからです。」[4]

 

 「殺人ガス室」の実在と「大量ガス処刑」への関与という自分の生死にかかわる問題での供述内容の変更を、たんに上官に対する「誓約義務」によって説明しているのは、きわめて不可解である。しかも、その実在を否定した最初の供述書のあとに、その実在を肯定する二番目の供述書が作成されていることは、その間に、何らかの物理的圧力がクラマーに加えられたことを推測できる。したがって、本来ならば、クラマーその他の「殺人ガス室」に関する証言内容の信憑性を、科学的=化学的=法医学的見地から検証しなくてはならないのであるが、このベルゼン裁判を含む戦後の戦争犯罪裁判では、「殺人ガス室」は立証の必要のない「法廷に顕著な事実(Judicial Notice)」とされてしまっており、弁護側も、その実在性については法廷で争うことなく、「ガス処刑」に被告が直接かかわらなかったことを弁護戦術としてしまっている。弁護人ウィンウッド少佐はクラマーの弁護陳述で、次のように述べている。

 

ガス室は存在しました。そのことには疑いはありません。ドイツの生活にはまったく参与していない住民をドイツから取り除くという目的については疑問の余地はありません。その実行方法は、移送者が駅に到着したときの選別であり、のちには、収容所内部で行われた選別でした。選別の命令を出したのは、ヘスとその後任者であり、いつも医師が立ち会っていました。医師長とその他の医師は、アウシュヴィッツTで暮らしており、これらの地区にある病院すべて、医師すべて、病院関係者すべてがアウシュヴィッツTの直接の統制下にありました。」[5]

 

確認点:ベルゼン裁判では、クラマーは、アウシュヴィッツ・ビルケナウの「殺人ガス室」の実在を認めてはいるものの、その構造や「大量ガス処刑」の具体的手順についてはまったく供述・証言していない。

 

<ストリュートフ収容所の「ガス室」と「ガス処刑」に関するクラマー証言>

 クラマーが、「殺人ガス室」の構造や、「大量ガス処刑」の手順について詳述しているのは、フランス軍法務官に対するナチヴァイラー・ストリュートフ収容所についての1945年7月25日と1945年12月6日の尋問記録・供述のなかである。ここでは、7月25日の供述を検討しておこう([赤字]は注釈および疑問点である)。

 

1943年8月、私は、約80名の囚人をアウシュヴィッツから引き受けるようにとの命令をオラニエンブルク収容所から受け取りました。…命令に付されていた書簡には、シュトラスブルクの医学部ヒルト教授とすぐに接触すべしとありました[ヒルト(August Hirt)は、1898年に生まれ、ハイデルベルク大学を終了したのちに、解剖学の専門家となり、フランクフルト大学解剖学研究所長を経て、1941年に、シュトラスブルク大学解剖学研究所長となった。ユダヤ人の骨格標本コレクションを作る目的で、アウシュヴィッツから搬送されたユダヤ人の「ガス処刑」を当時ストリュートフ収容所長であったクラマーに指示したとされているが、彼自身は、この「罪状」を否定しており、1945年6月2日に、自殺している。]

ヒルトの働いているシュトラスブルク解剖学研究所に行くと、アウシュヴィッツからの移送集団がストリュートフに向かってきているとの話でした。彼は、これらの人々は窒息ガスによってストリュートフのガス室で処刑され、その死体は解剖学研究所に運ばれて、自分の管轄下に入ることを明らかにしました。

この会話の最後に、彼は、4分の1リットルほどの塩の入ったフラスコをくれました。青酸塩であったと思います[クラマーがヒルトからもらった「塩」の実態についてはまったく不明である。フォーリソンは「ミステリアスな『塩』」[6]と呼んでいる。]

1943年8月、私はヒルトがくれたガスによって殺される80名の囚人を受け取り、手始めに、15名ほどの女囚グループを選んで、夕方9時ごろに、輸送トラックに乗せてガス室に運びました。彼女たちに窒息のことを知らせたくなかったので、殺菌消毒室に向かうのだと伝えました。

数名のSS隊員の助けをかりながら、彼女たちの服を脱がせ、全裸となると、ガス室に押し込めました。

私がドアを閉じると、彼女たちは泣き叫び始めました。ドアが閉じられると、私はのぞき穴の右下のじょうごに一定量の塩を入れました。同時に、一定量の水を注ぎました。その水は、塩と一緒に、ガス室の中の、のぞき穴の下にある穴に流れ込んでいきました[ホロコースト正史派のプレサックは「青酸塩」と「水」を加えて「青酸ガス」を発生させることは「化学的に不可能(a chemically impossible)」と断定している[7]。また、ホロコースト修正派のフォーリソンも「いったい、どのようにして、塩と水でこのようなガスを作ることができるのであろうか」と疑問を呈している[8]。]そして、金属パイプとつながっているじょうごの底にある蛇口を使って、じょうごの開口部を閉めました。この金属パイプは、たった今お話したところのガス室の中の穴に塩と水を導きました[プレサックは「もしもクラマーがこのような手順をとったとすれば、彼自身が窒息してしまうことであろう」[9]と述べているし、フォーリソンも「いったい、どのようにして、クラマーは、ガスが穴から逆流してくることを防ぐことができたのであろうか」[10]と疑問を呈している。]私は、じょうごの近くにあるスイッチを使って、室内の明かりをつけました。

女囚たちは30分ほど息を続け、そのあとで倒れました。ドアを開くと、同時に室内の換気設備のスイッチを入れると[換気を行なう前に、ドアを開けば、処刑関係者も室内に充満するガスにさらされてしまう。だから、プレサックも「ありえない、ドアを開く前のはずである」[11]とコメントしている]、女囚たちは死んでいて、身体を横たえており、糞尿をたれながしているのに気がつきました。

私は、翌朝の5時半頃に、ヒルト教授の要請にこたえるために、二人のSS看護士に依頼して、死体を輸送トラックに載せて、解剖学研究所に運ばせました。」[12]

 

 注釈と疑問点から明白なように、ホロコースト正史派のプレサックも、「この手順が馬鹿げており、クラマーが関係物質について無知であったために、ストリュートフでのガス処刑の手順、ガス室の実在自体に、根拠のある歴史学的な疑いがなげかけられてきた」[13]と述べており、クラマー証言の信憑性に重大な疑問を呈している。しかし、プレサックは、ベルゼン裁判での「殺人ガス室」という「国家機密」を隠匿するという「誓約」に拘束されていたために最初は偽証していたというクラマーの証言を根拠にして、ストリュートフの「殺人ガス室」についても「偽りのガス処刑手順」を「意図的に供述した」[14]と解釈している。

しかし、この解釈は説得的ではない。クラマーが「誓約義務」に拘束されていたとすれば、ストリュートフの「殺人ガス室」と「ガス処刑」についても、アウシュヴィッツの「殺人ガス室」と「大量ガス処刑」自体の実在を否定したのと同様に、存在自体を否定すればよく、わざわざ、「ミステリアスな塩」などを考案し、それと水を混ぜて「青酸ガス」を発生させたなどとの小細工を弄する必要はないのである。おそらく、クラマーは、ストリュートフ収容所の「冷凍保管室」や解剖学的な死体を見たフランス人尋問官が、当時流布されていた「殺人ガス室」に関するさまざまな噂の影響を受けて、作り上げた「殺人ガス室」と「ガス処刑」についての「妄想」を、物理的・肉体的な圧力の下で、「供述」・「自白」したのである。

 

確認点:ストリュートフ収容所での「ガス室」および「ガス処刑」についてのクラマーの供述は、化学的=法医学的見地から見て、まったく「非合理的」であり、彼の供述だけでは、ストリュートフ収容所の「殺人ガス室」の実在と「ガス処刑」を立証することはできない。

 

<「殺人ガス室」に関する他の証人の証言>

 ベルゼン裁判では、ポーランド系ユダヤ人女性リトヴィンスカ、ルーマニア系ユダヤ人医師ベンデル、ポーランド系ユダヤ人女性医師ビムコの3名の検事側証人が、アウシュヴィッツの「ガス室」の構造と「大量ガス処刑」の様子について、証言している。彼らの証言を検証しておこう([赤字]は注釈および疑問点である)。

 

リトヴィンスカ証言

「収容所につくと、個人所有物はすべて奪われました。服を脱がなくてはならず、シャワー浴室に連れて行かれました。髪が短く切られてしまったので、凍えないために、頭に巻く布を求めたところ、シャワー浴室の責任者であったカポーが私たちをひどく殴り始めました。私たちに与えられた衣服は、長いコートと袖なしのシルクのブラウスでした。すでに、腕には刺青の番号が入れられていました。丸1日間、シャワー浴室のようなところでまる裸ですごしてから、やっと、ブロック25に連れて行かれました[新たに移送されてきた囚人に対する「到着→脱衣→断髪→シャワー室・殺菌駆除室」という日常的な防疫手順が、「到着→脱衣→断髪→殺人ガス室」という、ホロコースト正史の描くところの「ガス処刑の手順」と酷似していることに注意していただきたい。囚人たちは、「到着→脱衣→断髪」という手順を受けた新しい移送者が、その後収容所に残っていれば、「シャワー室・殺菌駆除室」に向かって生き残った人々であり、収容所から消え去っていれば、「殺人ガス室」に向かって殺された人々であったと憶測したにすぎない。しかし、アウシュヴィッツ収容所は通過収容所でもあったので、到着した移送者が防疫措置を受けて、すぐに、別の収容所に移送されていく=「消え去っていく」ことは一般的であった。また、ベルゼン裁判では、検事側の多くの証人が、リトヴィンスカの収容されたブロック25のことを、「ガス室」送りに選別された囚人たちが収容されたブロックであったと証言しているが、リトヴィンスカ証言によれば、たんなる防疫・検疫ブロックであったにすぎないことがわかる。]このブロックの3箇所に寝棚のようなものがあり、そのひとつの中で、私たちは7名か8名で眠りました。8名に1枚の毛布が支給されました。マットレスやわら布団のようなものはまったくありませんでした。起床は朝3時半が普通でした。

全員がブロックを出て、点呼を受けなくてはならず、点呼は8時か9時まで続きました。5列を作って立っていなくてはならず、動いたりすると、顔を殴られるか、重い石を抱えてひざまずかされました。最初の6週間は、検疫措置を受けていたので、まったく働きませんでした[アウシュヴィッツその他の収容所では、チフスなどの疫病の蔓延を防ぐ「検疫措置」を「特別措置(Sonderbehandlung)」と呼んでいたが、ホロコースト正史派は、これを「ガス処刑」を意味するコード言語=婉曲語法と曲解している。]ある日、食料を運んでいたとき、倒れて、足に怪我をしてしまったので、収容所の受け入れセンターに連れて行かれ、1941年のクリスマスには病院にいました。

私たちは、シャワー浴室のような部屋に連れて行かれました。タオルやシャワー口があり、鏡さえもありました。…そして、突然、天辺の小さな窓から煙が出てくるのが見えました[ホロコースト「正史」によると、「大量ガス処刑」は天井部の穴か側面の窓からのチクロンBの丸薬の投入によって行なわれたはずである。だから、リトヴィンスカ証言にある「小さな窓からの煙」とは、いったい何であろうか。これも、クラマーの「塩」と同様に、「ミステリアス」である。]ひどく咳き込んで、目からは涙があふれてきました。窒息してしまうのではないかという喉の感覚がしました。誰もが自分のことだけに集中していたので、私はほかの人々の様子を見ることができませんでした。

このとき、自分の名前が呼ばれました。答える力がなかったので、腕を上げました。そのとき、誰かが私をつかまえて、この部屋から投げ出しました。へスラーが私に毛布をかけ、オートバイに私を乗せて、病院に運んでくれました[ホロコースト修正派のマットーニョは、「『ガス処刑』の最中に、誰かがガスマスクもつけずに、『ガス室』の中に入り、ソフィア・リトヴィンスカを呼んで、彼女を運び出した」という内容の記述を「精神錯乱の頂点」と皮肉っている[15]そして、そこで6週間すごしました。ガスのために、まだ依然として、頻繁に、頭痛や動悸がしましたが、新鮮な空気のもとに出たときには、目は涙でいっぱいになりました。その後、政治部に連れて行かれました。ガス室から引き出されたのは、ルブリンの刑務所からの囚人であったことが、取り扱いの相違をもたらし、これとは別に、夫がポーランド軍将校であったことが関係していたのでしょう[「ガス室」や「ガス処刑」から自分だけが助かった件についての「生存者」の説明には、きわめて「不可解」な内容が多いが、今日では検証することはできない。][16]

 

 

ベンデル証言

・・・そこで仕事を始めたのは、1944年8月でした。そのときには、まだガス処刑された人々はいませんでしたが、150名のロシア人やポーランド人の政治犯が一人一人埋葬地に連行されて、射殺されました。二日後、私はその日の班に加わって、作動中のガス室を目撃しました。このときには、ウッジのゲットーからの80000名がガス処刑されましたきわめて誇張された数字である。ホロコースト修正派のマットーニョはこの数字をこの時期に「アウシュヴィッツに移送されたユダヤ人の数よりも10倍も多い」と批判している[17]

私は他の人々と一緒に朝7時にやってくると、壕から煙が立ち昇っているのを目撃しました。移送者全員が夜のあいだに清算されたのです。焼却棟Wでの焼却だけでは不十分でした。仕事ははかどりませんでした。焼却棟の後ろのところに、長さ12メートル、幅6メートルの3つの壕が掘られましたこの当時のビルケナウ収容所を写した航空写真には、このような巨大な「焼却壕」の存在を示すもの、あるいは、戸外での焼却を示す煙や「死体の山」を写しているものはまったくない。すこしたつと、この3つの壕でも不十分であったので、3つの大きな壕の真ん中に、二つの溝を作り、そこを人間の脂肪やグリースが流れていって、仕事がはかどるようにされました戸外での焼却についての生存者の証言には、犠牲者の死体からの「脂肪」を集め、それを燃やすことで、焼却がいっそう容易になったという話がたびたび登場するが、これも「ホロコースト神話」の一つである。これらの壕の容量は想像を絶するほど大きいものでした。焼却棟Wが一日で焼却できるのは1000名ほどですが、壕を使うシステムでは同じ数を1時間で処理することができたのです[戸外焼却の処理能力の方がが高いという妄想。戸外での死体の焼却にともなう技術的困難さは、すでにホロコースト修正派によって、綿密に立証されている。

・・・ガス室は、非常に背が低く、天井が頭の上に落ちてきそうでした。棒で殴られながら、囚人たちは中に押し込められ、そこで待機させられました。このときには、囚人たちは、死へ向かっているのに気が付き、外へ出ようとします。最後に、ドアが閉じられました。叫び声や泣き声が聞こえ、囚人たちはもがきはじめ、壁をたたきました。これが2分ほど続くと、まったくの静寂が訪れます。5分後にドアが開けられましたが、中に入ることはできず、さらに、20分ほど待ちます。それから、特別労務班が仕事をはじめましたビルケナウの焼却棟Wには、換気装置がなく、自然換気であった。したがって、5分後にドアを開ければ、室内のガスは、すぐに焼却棟全体に広まってしまうであろう。チクロンBの丸薬からガスが完全に放出されるには、1時間半から2時間以上かかる。したがって、5分後であっても、20分後であっても、「ガス室」には、青酸ガスを放出しているチクロンBの丸薬が残存しているのである。そして、そのような部屋を自然換気するには、1日以上必要なのである。ドアが開くと、死体が倒れ落ちます。圧迫されて押し込められていたからです。ぎゅっと押し詰められていたので、引き離すことはほとんど不可能でした。彼らは一生懸命死と闘った様子でした。ガス室には死体が1メートル半の高さにまで詰まっていましたが、それを一度でも目撃すれば、けっして忘れないでしょう。このときに、特別労務班の仕事が始まります。彼らは、まだ暖かく、血にまみれた死体を引きずっていかなくてはなりません。しかし、壕に投げ込む前に、床屋と歯医者の手を経なくてはなりませんでした。床屋は髪の毛を切り、歯医者はすべての歯を抜かなくてはならなかったからです。まさに、地獄の光景でした死体には、ガスが付着しており、さらには、まだガスを放出中であるチクロンBの丸薬が付着している可能性がある。そのような死体から、「髪の毛を切ったり」、「金歯」を抜いたりしたのであろうか。ホロコースト正史では、髪の毛は処刑の前にきったことになっているが。・・・このようなことが進行しているとき、あまりに多すぎてガス室に入れなかった囚人が、壕の前で射殺されましたガス室に入りきれなかった囚人を壕の前で射殺するという話は、普通のホロコースト正史には登場していない。1時間半ほどたつと、仕事が完了しました。新しい移送者集団は、焼却棟Wのなかで処理されたのです。」[18]

 

 

ビムコ証言

1944年8月、私は、収容所で医師として働いていました。ガス室送りに新しく選別された集団がやってきました。病人でしたので、毛布にくるまれていました。二日後、私たちは、これらの毛布をガス室から取ってくるように命じられました。悪名高いガス室を見たいと思っていたので、この機会をつかまえて、中に入りましたビムコは「ガス室」に入ったと証言しているが、下記に見るように、「ガス室」を含む焼却棟の構造についてまったく見当違いな記述をしている。そこはレンガの建物で、カモフラージュするために周囲には木が植えられていました。最初の部屋で、私が暮らしていたのと同じ町からやってきた人物を見かけました。一人のSS軍曹もいて、彼は赤十字に属していました。この最初の大きな部屋に人々は服を置き、この部屋から第二の部屋に入るといわれました。数百名が入ることができるほど大きな部屋であるとの印象を受けました。収容所にあるようなシャワー室・浴室に似ていました。天井には多くのシャワーヘッドがあり、並列に並んでいました。この部屋に入った人々全員にタオルと石鹸が渡されたので、彼らは入浴するのだとの印象を持ったはずです。しかし、床を見れば、排水溝がないので、入浴するのではないことは明らかでした。この部屋には小さなドアがあり、それは真っ暗で、廊下のように見える部屋につながっていました。私は、小さな貨車の乗った、数列の線路を目撃しました。その貨車はローリーと呼ばれていました。ガス処刑された囚人はこの貨車に載せられて直接焼却炉に送られたという話ですビムコが証言しているのが、ビルケナウの焼却棟U、Vであるのか、焼却棟W、Xであるのか、判然としていないが、いずれにしても、「ガス室」と「炉室」をつなぐ、死体を運ぶ貨車=ローリーを乗せる「線路」のようなものは存在しない。同じ建物の中に焼却炉があったと思いますが、自分の目で炉を見たことはありません。低い天井を持ったこの部屋よりの数歩高いところに別の部屋がありました。二つのパイプがありましたが、それはガスを供給するパイプであったとのことでした。また、巨大な二つの金属製のガス・ボンベがありました。[ホロコースト正史によれば、ビルケナウの「殺人ガス室」での「ガス処刑」は、ガス・ボンベからの青酸ガスをパイプを介して室内に送り込んだのではなく、チクロンBの丸薬を、室内に投入したことによって行なわれた。[19]

 

 確認点:アウシュヴィッツ・ビルケナウの「殺人ガス室」に関するリトヴィンスカ、ベンデル、ビムコの証言は、ホロコースト正史の見解ともまったく矛盾しており、この当時流布していた噂などから捏造された偽証にすぎない

 結論:ベルゼン裁判でのクラマー証言、検事側証人証言だけでは、「殺人ガス室」の実在を立証することはできず、したがって、クラマーが「殺人ガス室」の稼動を前提とする「大量ガス処刑」に関与したことも立証できない

 

3. 「飢餓と疫病による大量死」に対する責任

 検事側は、ベルゼン収容所での飢餓および疫病による「大量死」=「ベルゼンの地獄」の責任を、所長クラマーおよび彼の部下に求めた。検事バックハウス大佐によると、「被告たちは、犯罪的な職務怠慢によってだけではなく、死や傷害をもたらすことを十分に承知していながら、意図的な飢餓政策・虐待政策をとることによって、ベルゼン、アウシュヴィッツ両収容所での悲惨な状態を作り出した」[20]というのである。

 

死体の山の前で写真撮影されている収容所医師クライン(絞首刑)

死体を山積みしたトラックの前で写真撮影されている副所長ヘスラー(絞首刑)

 

 しかし、今日では、ホロコースト正史派の研究者も、ホロコースト修正派の研究者も、「ベルゼンの地獄」の原因が、戦争末期の混乱した状況(@東部地区の収容所からの囚人の大量疎開による人口過密と食糧不足、A連合国の爆撃その他による食糧品・医薬品の補給の途絶、B劣悪な衛生環境でのチフスその他の疫病の蔓延)によるものであったことを認めている[21]。そして、この混乱した状況の最中に所長となったクラマーが、この深刻な事態を十分に理解し、対策に苦慮していたことは、彼が1945年3月1日に、彼の上司グリュックスにあてた書簡の中に十分に見て取ることができる。

 

「集団長、かねてから、当地の状況についてお知らせするために、閣下と話し合いたいと思っておりました。仕事の都合で話し合うことができませんので、危機的な事態を文書で報告し、閣下のご支援を求めます。

 閣下は1945年2月23日の電報で、私がラーフェンスブリュックからの最初の委託として、2500名の女囚を受け取ることになると伝えてくださいました。私はこの数のための宿泊施設を保証してきました。しかし、これ以上の委託は、スペースがないという宿泊施設の観点からだけではなく、とくに食糧問題からも、不可能です。SS収容所医師長ローリングが1月末に収容所を視察して、35000名以上を収容するのは過密すぎるとの話になりました。しかし、この数はすでに7000名ほど超過しており、現在も、6200名がこちらに向かう途中です。このために、バラックは少なくとも30%ほど過密状態になっています。囚人たちは身を横たえて眠ることができず、床の上でひざを抱えて眠っています。最近も、BV課が三段ベッドを割り当ててくれましたが、いつも、輸送手段がない地域からです。十分な睡眠施設があれば、到着しているか到着予定の囚人の宿泊施設はもっと改善されるでしょう。さらに、発疹チフスとチフスが蔓延し始め、その症例は毎日増え続けています。死亡率は、2月末には、毎日60−70名でした。しかし今では、平均1日250−300名にまで達し、現在の状況を考えると、これからも、もっと増え続けるでしょう

 補給。収容所を引き継いだとき、1500名の囚人のための冬の補給が約束されていました。一部は受け取りましたものの、大半は運ばれてきませんでした。この失敗は、輸送の困難さだけではなく、この地域で手に入れることができるものはなく、すべてを地域の外から運ばなくてはならないという事実のためでした。利用可能な補給物資は、計算してみると、2月20日まででした。非常に節約したおかげで、今でも、8日分のジャガイモと6日分のかぶがあります。地元の農民グループの代表者と、物資の提供についての交渉が始まりました。パンについても、同じような状況です。ベルゲン野外演習場からの補給は別にして、私たちは、ハノーバーのパン工場から毎日一台分のパンを受け取っています。最後の4日間には、交通が途絶えていたので、ハノーバーからの配送はまったくありませんでした。このような状態が週末まで続くならば、私は、貨物自動車を使ってハノーバーからパンを運ばせなくてはならないでしょう。地元の部隊に割り当てられている貨物自動車の数はこの仕事には不足しているので、少なくとも、3台か4台の貨物自動車、5台か6台のトレーラーを提供してくださることを要請せざるをえません。牽引手段を持っているので、トレーラーを周辺地区に送ることができます。ジャガイモの提供について、地元の農民グループの代表者との交渉がうまくいけば、これも貨物自動車で運ぶことを許可しなくてはならないでしょう。補給問題は、かならず、次の数日には解決するでしょう。集団長閣下、輸送手段の割り当てを要請します。食糧の調達はこちらから処理するでしょう。そのうえ、ボイラーの補給を強く要請します。収容所のボイラーは昼夜兼行で使われています。ボイラーの一つが故障すれば、大きな問題が発生します。ここには、300リットルの容量の30のボイラーがありますが、それは、DAFによって、SSの管轄下に入っています。1944年12月29日に、これらのボイラーを使わせてほしいと要請しましたが、1945年1月31日に、認められないとの回答が、文書でなされました。SS突撃長ブルガーは、当地を訪れたとき、これに気づきました。討議の結果どのような決定が下されたのか知りません。状況が変化すれば、これらのボイラーの使用が可能となるのでしょう。不足を補うために、さらに20のボイラーをぜひとも必要としています。

 健康状態。ここでは、収容者の数と比べても、疾病の数がはるかに高いです。1944年12月1日、オラニエンブルクで閣下とお話したとき、ベルゲン・ベルゼンはドイツ北部の強制収容所のための病人収容所となるということでした。東部地区からの移送者が最近到着し、彼らは屋根のないトラックで8−14日間も旅をしてきました。このために、病人の数は非常に増えていきました。彼らの回復、とくに、労働可能とするというようなことは、現時点では、問題外です。病人は次第に弱っていき、ついには、心臓が弱って死んでいくか、全体的な衰弱の結果、死んでいきます。すでに申し上げましたように、毎日の死亡者の平均は、250−300名です。1900名の移送者のうち500名以上が到着した時には死んでいたと申し上げましたが、そのことで、到着した囚人の健康状態については十分に推し量ることができると思います。発疹チフスを抑えることは、害虫駆除手段がないので、非常に困難です。温風害虫駆除機は、使い続けられているために、調子が悪く、数日間も使えないことがあります。SSの収容所医師長は、ここを訪れたとき、『高周波害虫駆除機』の提供を約束してくれました。これを使うには、強力な変圧器が必要です。ベルリンのヴィシュメール通りのBauinspektion Nordからの情報によると、この変圧器は搬出可能です。このような機器がぜひとも必要なのですが、現時点では、それを調達するための輸送隊をベルリンに派遣することはできません。新しい焼却棟の資材や屋根葺き資材、セメントについても同じような事態です。建設局がこれらの緊急物資を貨物自動車ではないとしても、トラックに積むことはできると思います。そして、ザクセンハウゼンかラーフェンスブリュックの囚人とともに、当地に運ばせるのです。建設局が、この物資をここから搬出するといえば、それで問題は解決です。建設局は、輸送状態が過密であり、順番を待つべきであると考えているかもしれません。

建設局に関係するもう一つの物資は、下水設備です。1943年、既存の設備は収容者の数を考えると小さすぎると判断されました。1943年以降、何回も調査が行なわれ、計画が作られたのですが、何も行なわれませんでした。この結果、破局が生じており、誰もその責任を取ろうとはしていません。閣下ならば、措置を講じて、事態を収拾することができるでしょう。

 集団長閣下、現在の危機を克服するために、あらゆる措置を講じなくてはなりません。この書簡でお示ししたかったことは、当地に存在する困難な諸問題です。この問題を解決しなくてはならないのは、私としては当然のことだと思います。閣下には権限がありますので、閣下のご支援を求めております。これまで申し上げました諸点に付け加えて、何よりまず、20000名の囚人のための宿泊設備、ベッド、毛布、食器を要請いたします

 私は、囚人を仕事につかせる問題について、労働効用当局と協議しました。近い将来には、女性労働を利用するチャンスがあります。男性労働を利用することは、ここではできません。強制収容所の囚人に加えて、7500名ほどの収容者(「交換ユダヤ人」)がいます。国家保安本部WA4bからモエスSS大尉が先週やってきて、これらのユダヤ人は近いうちに去っていくであろうと話してくれました。そうであるとすれば、できるだけ速くそのような措置を取ってくださいませんでしょうか。そうすれば、少なくとも10000名の囚人に、宿泊設備を提供できます。モエスSS大尉は、発疹チフスの危険のために、現時点で、これらのユダヤ人を連れて行きたくないようです。一部はテレジエンシュタット、一部はヴュルテンブルクの新しい収容所に向かうことになっています。いくつかの強制収容所では、ユダヤ人は囚人たちのあいだに近親者、すなわち、両親や兄弟姉妹を発見しております。だから、これらの囚人をここから連れ去ることは緊急に必要です。また、純粋に政治的な理由からですが、当収容所での高い死亡率との関連で申し上げますと、これらのユダヤ人を出来だけ速やかに連れ去ることがぜひ必要です。

 ここで、現状報告を終わりたいと思います。集団長閣下、これとの関連で、私としては、この困難な状況を切り抜けるために、あらゆることをするつもりであります。閣下がこれを克服するためにさらに大きな困難に直面しており、この地域のすべての囚人を当収容所に送らなくてはならないとお考えになっていることも承知しております。ですから、この状況を克服するために、閣下のご支援を懇願するしだいであります

 ハイル・ヒトラー、敬具

J.K. SS大尉」[22]

 

 結論:飢餓および疫病による「大量死」=「ベルゼンの地獄」をもたらしたのは、クラマーや彼の部下が対処することができないような、戦争末期の混乱した状況であり、その個人責任を追及することはできない

 

4. 処刑

 ベルゼン裁判で、クラマーの弁護人ウィンウッド少佐は、冒頭陳述を次のように結んでいる。

 

「クラマーは、これらの事件の波が彼の周囲で波打っているときに、上司にも見捨てられ、まったく孤独で立ち尽くしていました。イギリス軍による解放以来、収容所長ヨーゼフ・クラマーは、世界中で、『ベルゼンの野獣』という烙印を押されてきました。このステージで最終ラウンドの鐘が鳴らされるとき、ヨーゼフ・クラマーは『ベルゼンの野獣』ではなく、『ベルゼンの生贄』となることでしょう。彼は、ここからそう遠くないリュネブルク・ヒースで骨を朽ち果てているハインリヒ・ヒムラーなる人物の身代わり、ナチス体制すべての生贄なのです。」[23]

 

ヨーゼフ・クラマーは、「ベルゼンの野獣」として、1945年12月13日、やはり死刑判決を受けたSS医師フリッツ・クラインとともに、処刑された。イギリス軍の処刑執行官A.Pierrepointは、その様子をこう記している。

 

「クラマーが最初に独房から出てきた。逮捕以来28ポンドほど体重が減っていたが、それでも、屈強な男であった。だから、彼の太い手首を後ろに縛り上げることができたときにはほっとした。私は、彼を絞首台の上に進ませて、頭に白いフードをかぶせた。そして、廊下を戻り、クラインの両手を縛ってから、彼を処刑室につれてきた。クラインの背丈はクラマーの肩にも届かなかったので、ロープを調整してから、レバーのもとに駈け寄った。この最初の2名同時処刑には25秒しかかからなかった。」[24]

 

 

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[1] Trial of Josef Kramer and forty-four others (The Belsen Trial), edited by R. Phillips, 1949., p.731.

[2] ibid, p. 738.

[3] ibid, p. 157.

[4] ibid, pp.173-174.

[5] ibid, p. 150.

[6] R. Faurisson, The ‘Problem of Gas chambers’, (online: http://codoh.com/info/infoihr/ihr2problem.html

[7] The Struthof Album, presented and commented by Jean-Claude Pressac, edited by Serge Klarsfeld, N.Y., 1985, p. 5.

[8] R. Faurisson, op.cit.

[9] The Struthof Album, p. 31.

[10] R. Faurisson, op.cit.

[11] The Struthof Album, p. 31

[12] ibid, pp. 30-31.

[13] ibid, p. 5.

[14] ibid, p. 9.

[16] Trial of Josef Kramer and forty-four others, pp. 79-80.

[17] C. Mattogno, Two false testimonies from Auschwitz.

[18] Trial of Josef Kramer and forty-four others, pp. 131-132.

[19] Trial of Josef Kramer and forty-four other, pp. 67-68.

[20] Trial of Josef Kramer and forty-four others, p. 17.

[21] たとえば、J. Reilly, Belsen : The Liberation of a Concentration Camp, 1998, L. & N.Y., A. Butz, The hoax of the twentieth century, 1975, Richmond, pp. 34-35.

[22] Trial of Josef Kramer and forty-four other, pp. 163-166.

[23] Trial of Josef Kramer and forty-four other, p. 156.