ホロコースト裁判

―――ツンデル裁判記録より―――

歴史的修正主義研究会編

最終修正日:20071013

以下は、1988年にカナダのトロントで開かれた「ツンデル裁判」の記録にもとづいて、当研究会が、論点をまとめて翻訳・編集したものである。

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、正確な記録は、B.Kulaszka(ed.), Did Six Million Really Die?, Report of the Evidence in the Canadian False News Trial of Ernst Zündel-1988, Torontoを参照していただきたい。
(online: http://www.zundelsite.org/english/dsmrd/dsmrdtoc.html)

 

目次

 

序章      発端

第一の尋問ヒルバーグ、ブローニングの経歴と方法

第二の尋問   ユダヤ人の絶滅命令と最終解決

第三の尋問   ニュルンベルク裁判

第四の尋問   東部地区収容所とソ連の虐殺宣伝

第五の尋問   ルドルフ・ヘスの「自白」

第六の尋問   「ガス室」

第七の尋問   目撃証言

第八の尋問   研究方法



<序章:発端>

 1985年1月の朝、厳冬のトロント市の通りを、ヘルメットで身を固めたグループが、市の裁判所に向かっていた。その周囲を、数十名の別の集団が取り囲み、ナチスに反対するスローガンを掲げながら、ヘルメットの集団に罵声をあびせていた。あたりは騒然となり、一触即発の雰囲気であった。

 罵声をあびせている集団の大半は、「ユダヤ防衛連盟」のメンバーであり、一方、裁判所に向かおうとしている集団は、告発を受けたドイツ系カナダ人エルンスト・ツンデルとその弁護側スタッフであった。彼らは、裁判以前から脅迫や暴行を受けており、今日も身を守るためにヘルメットをかぶって裁判所に向かっていたのである。いわゆる「ツンデル裁判」あるいはのちに「ホロコースト裁判」と呼ばれる裁判の開幕であった。

 ことの発端は、1974年にイギリスで発行された『本当に600万人が死んだのか――ついに暴かれた真相』と題するパンフレットであった。

 第二次大戦中のユダヤ人の悲劇については、ナチス・ドイツを断罪したニュルンベルク裁判以降、@ナチス・ドイツは人種的な理由から意図的な大量虐殺計画を実行した、Aその大量虐殺計画の中では、殺人ガス室や焼却棟などの高い技術を駆使した虐殺装置が使用された、Bその過程に従事したSSなどのナチスや一般ドイツ人は、「生体実験」や「人間石鹸の生産」などの非人道的な行為を行なった、C結果として、大量の犠牲者――ユダヤ人死亡者は500−600万人――が生じたという「ホロコースト正史」が歴史学会やマスメディアに定着していた。リチャード・ハーウッド(本名リチャード・ベラル)の手になるこのパンフレットは、このホロコースト正史に疑問を呈するホロコースト修正派の立場に立つものであった。

 ハーウッドのパンフレットは、その後、イギリス以外のヨーロッパ各国でも出版されていったが、かねてから、ホロコースト修正派に共感をよせていたエルンスト・ツンデルが主宰する「サミズダート」出版社も、このパンフレットをカナダの政治家、教員、マスコミ関係者などに配布した。

 このツンデルの活動に対して、カナダ・ホロコースト記憶協会議長でホロコーストの生存者であるサブリナ・シトロンが、誹謗文書、虚偽の文書をまいて人種主義的憎悪をあおったとの咎でツンデルを告発した。その法律的根拠は、カナダ刑法第177条「自分が虚偽であると知っており、公共の利益に損失あるいは危害を及ぼすあるいは及ぼすかもしれない声明、話、ニュースを公表した人物は、刑事訴追に問われ、2年を超えない期間の禁固に処せられる」、いわゆる「憎悪法」であった。サブリナ・シトロンの告発を受けて、カナダ検事局は、1984年7月に、エルンスト・ツンデルを起訴し、冒頭のような騒然たる雰囲気の中で、ツンデルに対する裁判が始まることとなった。

 ハーウッドのパンフレットは、その表題があらわしているように、600万人のユダヤ人がナチスによって虐殺されたというホロコースト正史の核心に挑戦するものであったために、裁判では、パンフレットの主張が刑法177条の定める「虚偽」にあたるかどうかが論点となっていった。ホロコースト正史が「真実」であれば、パンフレットの主張は「虚偽」となり、ホロコースト正史が「虚偽」であれば、パンフレットの主張すなわちホロコースト修正主義が「真実」となるからである。ツンデルの弁護士ダグラス・クリスティを中心とする弁護側も、ツンデルの活動にではなく、ホロコースト正史の信憑性、ひいてはニュルンベルク裁判自体の問題点に焦点を合わせるという戦術を取ったために、この裁判は、いっそう「ホロコースト裁判」という性格を持つようになっていった。

 ツンデル裁判が「ホロコースト裁判」という性格を持ち、カナダのマスコミもこの裁判に注目したために、検事側はホロコースト正史派の研究者を、弁護側はホロコースト修正派の研究者を総動員して、ホロコーストに関する自説の正当性を陪審員に納得させようとした。大著『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の著者ラウル・ヒルバーグ、『虐殺への道』の著者クリストファー・ブローニングなどが検事側証人として、ホロコースト修正派の草分けフランス人研究者ロベール・フォーリソン、修正派のセンターである歴史評論研究所のマーク・ウェーバー、『ヒトラーの戦争』、『チャーチルの戦争』の著者アーヴィングなどが弁護側証人として証言した。

 弁護士クリスティは、とりわけ、ホロコースト正史派の研究者の重鎮ラウル・ヒルバーグとクリストファー・ブローニングにターゲットをしぼって、ホロコースト正史がはらんでいる問題点を鋭く追及した。検事側証人として登場したヒルバーグとブローニングに対するクリスティの反対尋問と論戦は、この裁判の白眉であり、「ホロコースト」をめぐるほぼすべての論点を含んでいた。

 

文中 C:は弁護士クリスティ

     H:は検事側証人ヒルバーグ

      B:は検事側証人ブローニング

             を指している。

 

<第一の尋問:ヒルバーグ、ブローニングの経歴と方法>

C:ヒルバーグ博士、これまでのご経歴を説明してください。

H:私は、1926年、オーストリアのウィーンで生まれ、1939年に一人でアメリカに移住しました。1944年から、アメリカ陸軍に勤務し、情報活動を担当しました。戦争が終わると、ブルックリン大学で政治学を修め、コロンビア大学で公法と政治学の修士号と博士号を取りました。その後、バーモント大学で、教鞭をとるようになり、国際関係、アメリカの対外政策、ホロコーストについて講義をしています。

C:ホロコーストとは何ですか。

:私の定義では、ホロコーストとは、1933年から1945年のナチス体制の時期に、物理的手段によってヨーロッパのユダヤ人を絶滅することです。

C:どのようなかたちで、ホロコースト研究を進めていらっしゃるのですか。

H:この研究を始めたのは1948年からであり、1961年には『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』を上梓しました。また、合衆国ホロコースト記念会議、ホロコーストに関する大統領委員会のメンバーでもあり、アメリカ国際法学会、ユダヤ研究協会に属しております。

 私のホロコースト研究の方法はまず、文書資料を検討することです。第一に、戦後に米軍が捕獲したものも含むナチス・ドイツの文書資料、第二に、この事件に関する目撃証人の証言などを検討することです。ゼロックス・コピーがなかった時代には、膨大な資料を手で写したこともあります。私は経験主義者でして、まず、細かい資料を検討して、そこから段階的に、実像を再現していきます。例えば、死の収容所への貨物輸送を研究して、そこから、ユダヤ人の移送や殺害を展望して見るという具合です。

C:ベルゲン・ベルゼンに行ったことがありますか。

H:ありません。

C:ブッヘンヴァルトに行ったことがありますか。

H:ありません。

C:ダッハウに行ったことがありますか。

H:ありません。二つの収容所、アウシュヴィッツとトレブリンカだけを訪れたことがあります。1979年のことです。アウシュヴィッツ収容所は、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、モノヴィツの3つで構成されていますが、このうち、アウシュヴィッツに半日、ビルケナウに半日滞在し、モノヴィツには行ったことがありません。

C:すると、あなたは現地を訪れるまえに、そこについての本を書いたことになりますね。

H:資料をもとに本を書きました。場所についての本を書いたのではなく、その場所が関係している事件についての本を書いたのです。

C:あなたは、自分が書いた場所に行く前に、本を書いたということでよいですね。

H:それで結構です。

C:1979年にアウシュヴィッツを訪れたのは、ホロコーストに関する大統領委員会主催の旅行としてですね。

H:そうです。委員会の全員ではないですが、数名の委員で構成されるグループのメンバーでした。

H:私は、エリー・ヴィーゼルを議長とする委員会のメンバーでした。その他のメンバーはローテンバーク(ニュージャージー選出上院議員)、ワシントン選出のブックバインダーです。この3名で旅行しました。

C:ポーランド政府のゲストと理解できますが。

H:ポーランド政府からの報酬があったというような意味でしたら、ゲストではありませんでした。

C:ポーランド政府の役人があなたがたを案内し、この地域について説明したという意味で、ゲストという言葉を使っているのです。

H:手に手を取って案内されたわけではありません。

C:研究を進めていった過程で、処刑に青酸ガスを使っているアメリカのガス室を訪問し、ガス処刑に関する実際上の諸問題や科学的諸問題について調査したことがありますか。

H:ガス室の一つを見たことがあります。しかし、調査は行ないませんでした。ガス処刑に関連した実際上の諸問題や化学的問題について研究したことはありません。

 

 

<第二の尋問:ユダヤ人絶滅命令と最終解決>

C:ヒトラーのユダヤ人絶滅命令は存在したのですね。

H:存在したというのが私の見解、私の結論です。

C:それは重要な命令ですね。

H:はい。

C:1961年のあなたの本『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』177頁には、「殺人の局面がどのように生じたのか。基本的に、われわれは二つのヒトラーの命令を扱っている。一つの命令は1941年春に出された」とあります。具体的には、どの命令のことを言っているのですか。

H:この命令の本質について多くの議論と論争が行なわれました。そのために、私は第二版では、このテーマを入念に研究してきました。

C:どのような命令でしたか。

H:ドイツ陸軍司令部は、占領予定のソ連地域の「住民の処遇」についての計画を作成しました。この命令はアドルフ・ヒトラーに提出され、彼の承認が求められました。ヒトラーは、この指示を変更するように求めました。それが、私が引用している1941年3月の指示です。私がお話ししているのは、ヒトラーの命令ではなく、指示についてです。

C:私が関心を持っているのは、あなたが自著で挙げている命令のことなのですが。

H:あなたの関心はわかっていますが、ご質問は非常に込み入っているのです。だから、ドイツの著名な歴史家たちが、1984年にシュトゥットガルトで国際会議を開き、このテーマを討論したのです。

判事:質問に答えてください。

H:質問はヒトラーの命令についてでした。指示の草稿がありました。ヒトラーはその変更を望みました。その後、4月に変更がなされ、アドルフ・ヒトラーに提出され、彼の承認が求められました。

C:わかりました。1941年4月にアドルフ・ヒトラーが承認したヒトラーの命令があるというのですね。

H:はい、4月までにということですが。

C:この命令には、どのように書かれていたのですか。

H:この文書を書いたヨードル将軍によれば、こうです。アドルフ・ヒトラーは、自分はユダヤ人-ボリシェヴィキ人民委員は清算されるべきであることを望んでいると語った。彼は、SSと警察の諸機関がこの任務に直接責任を負うべきであると語った。彼は、軍部はこの目的のために細部をSSと警察と議論すべきであると指摘した。これが、ヨードル将軍が記述した命令の内容です。

C:すると、実物の命令はないのですか。

H:命令は口頭でした。残っているのは、ヨードルがアドルフ・ヒトラーの話について覚えていることです。しかし、アドルフ・ヒトラーの話を聞いた人々の話も残っており、それはもっと直接的で、もっと明確です。だが、これらの話はハインリヒ・ヒムラーの演説のように、様々な文脈のなかで、他の人々によって語られたものです。いずれにせよ、命令は口頭でした。

C:命令が口頭だとすると、あなたは正確な文面を知らないのですね。

H:そのとおりです。誰も正確な文面を知りません。文面がわからないといっても、全体の意味がわからないということではありません。正確な文面がわからないという意味です。

C:ということは、文書となったかたちでの命令は存在しないということですね。あなたが話したことは、アドルフ・ヒトラーがそのように語ったと思われるとヨードル氏が語ったと思われることについてのあなたの解釈です。その資料は西ドイツの文書館にあり、ユダヤ人とボリシェヴィキという二つの単語のあいだに「-」があったというのですね。

H:そのように記憶しています。

C:殺されるべきなのは、ユダヤ人-ボリシェヴィキ人民委員ではないというのですね。ユダヤ人だというのですね。

H:この問題は、多くの議論を呼んだ問題です。正確な文面に関しては明確な答えはありません。できることは、特別行動部隊に命令を伝えた人たちの説明から、中身が何であったのかを推測することだけです。

C:特別行動部隊に対する人民委員命令のことですか。

H:最終的には、この命令は特別部隊に対してだけではなく、軍に対してもだされました。

C:この命令は、「ユダヤ人-ボリシェヴィキ人民委員を絶滅せよ」と述べていると理解していいですね。

H:うーーーん。

C:「ユダヤ人とボリシェヴィキ人民委員を絶滅せよ」という意味であると解釈しているのですね。

H:そのとおりです。

C:しかし、「ユダヤ人とボリシェヴィキ人民委員」とは言ってはいないのではありませんか。

H:ええ、言ってはいません。問題が単純ならば、研究者の会議を招集して討論したり、資料を探す必要もありません。

C:あなたの本の177頁には、「基本的に、我々が扱っているのは二つのヒトラーの命令である。一つの命令が出されたのは、1941年春、ソ連侵攻を計画中のことである。それは、SSと警察の小部隊がソ連領に送られ、町から町をまわって、ユダヤ人住民を即座に殺すべしと述べている」とあります。そんなに複雑な問題のようにはみえません。命令されたことは、ユダヤ人住民全員を殺すことではなく、ユダヤ人-ボリシェヴィキ人民委員を殺すことだったのではないでしょうか。

H:特別行動部隊の設置理由は、ユダヤ人-ボリシェヴィキ人民委員の殺害でしたが、これは口実です。ボリシェヴィキ人民委員は、ごく少数であり、捕虜となることもあまりありません。ごく少数の人々を殺すために、高級将校の指揮する3000名の部隊を4つも設立する必要はありません。

C:特別行動部隊その他に対して、すべてのユダヤ人住民を即座に殺せというアドルフ・ヒトラーの命令はないということですね。

H:例えば、命令はヒムラーに与えられました。彼はこの問題の解決に責任を負いました。

C:どのような問題ですか。

H:いわゆるユダヤ人問題です。

C:ここで議論しているのは、ユダヤ人-ボリシェヴィキ人民委員命令のことで、ユダヤ人問題のことではないと思っていますが。

H:ここで、複雑な歴史のプロセスをお話することは場違いなのかもしれませんが、アドルフ・ヒトラーは、独ソ戦がいかなる戦争とも異なる戦争、決着がつけられるべき戦争と述べていました。

C:何の決着ですか。

H:ナチズムと共産主義という二つの世界観です。

C:すると、アドルフ・ヒトラーは、この戦争を共産主義とナチズムとのあいだの戦争とみなしていたのですね。

H:そのとおりです。そして、人民委員は共産主義体制の担い手として射殺されるべきであるというのです。だから、特別行動部隊を設立したのです。

C:ちょっと待ってください。もともとの問題に戻りたいのです。あなたが話していることは、実際には文書にはそのようなことはまったく書かれていないにもかかわらず、人民委員命令とは、ユダヤ人住民は即座に殺されるべきであるということを意味するというあなたの解釈についてですね。

H:侵攻した地域のユダヤ人を絶滅することは、当初からの、すなわち1941年6月22日の数ヶ月前からの意図なのです。シュトゥットガルト国際会議での見解の相違は、この命令が3月に出されたのか、それとも4月に出されたのか、おそくとも8月に出されたのかということに関してです。

C:フランス語を十分に操ることはできないのですが、レオン・ポリャーコフの『憎悪の収穫』のフランス語版には、「しかしながら、全体的な絶滅に関しては、その詳細は永遠にわからないであろう。4人の首謀者のうち3人は1945年に自殺した。一つの文書資料も残されておらず、多分一つも存在しなかったのであろう」とあります。ポリャーコフは文書資料が存在したとは考えていないようですが。

H:ポリャーコフが述べていることは、アドルフ・ヒトラーの署名がある文書資料は存在しないということです。簡単にいえば、書かれた資料は存在しないということです。そして、ヒムラーのような人物に戦後尋問しようとしても、ヒムラーは捕虜になった直後に自殺しており、ハイドリヒは1942年に暗殺されているので、彼らに尋問することはできないということです。

C:命令はあったのですか、なかったのですか。

H:ヒトラーの命令はあったと信じています。存在しなかったと信じている人もいます。

C:すると、あなたの意見は信仰条文のようなものですね。

H:いいえ、絶対に信仰条文ではありません。結論です。ある結論に達することもできるし、別の結論に達することもできます。

C:あなたの本は、一つの命令が1941年春に出されたと述べています。

H:それは、私という一人の人間の意見です。

C:意見としてではなく事実として語っています。

H:証拠を見てからであっても、私が述べていることに必ずしも賛成する必要はありません。

C:あなたの本の177頁には、「この措置を『移動殺戮作戦』と呼ぼう。移動殺戮作戦が占領下のソ連領で開始された直後、ヒトラーは第二の命令を伝達した。この決定は残りのヨーロッパのユダヤ人の運命を決定した」とありますが、この第二の命令はどこにあるのですか。

H:この特殊な命令に関しては、第一の命令と同様です。それは口頭です。一つの命令ではなかったと考えている人もいます。すなわち、様々な時機に様々な人々に与えられた一連の命令だというのです。この点は歴史家のあいだでの論点となっており、このために、討論したり、第二版が必要であったのです。

C:わかりました。第二版ではこの部分を訂正しなければならないということですね。

H:いいえ、この部分を訂正しなくてはならないとは言っていません。もちろん、第二版には訂正があります。

C:では、ヒトラーの第二の命令はどこにあるのですか。

H:ここでの問題ではありません。

C:いいえ、ここでの問題です。ヒトラーの第二の命令の存在を示す証拠を見せることができますか。それはどのようなものですか。

H:私がお話ししているのは、ゲーリングがヒトラーの重要な指令について述べている1941年7月31日のハイドリヒあてのゲーリングの手紙に関してです。この手紙は、のちにヴァンゼー会議で具体化されていきます。

C:ハイドリヒあてのゲーリングの手紙が述べていることは、ユダヤ人の東部地区への再定住のことでしたね。

H:「再定住」という用語は、戦争中のドイツの文書でいたるところで使われており、殺人センターに人々を移送する過程を指しています。殺人者を犠牲者のもとに運ぶのではなく、犠牲者が殺人者のもとに運ばれるのです。これが私の解釈でしたし、今も変わることがありません。

C:でも、ヒトラーの命令、ヒトラーの手紙ではないではありませんか。

H:そう、そのとおりです。

C:ヒトラーは自分の第二の命令を手渡したのですね。

H:そのとおりです。

C:誤解が生まれませんか。

H:その可能性があります。だから、第二版を書いているのです。当時私が信じていたことは、ゲーリングはアドルフ・ヒトラーの命令を受けて指令を書いたということでした。ゲーリングはナンバー・ツーで、どのようなことでも発言できたからです。その後、この命令が起草された状況の詳細について、研究が進み、この命令はハイドリヒによって起草されたとの結論に達しました。

C:「東部地区への再定住」とは、すべてのユダヤ人を殺せという命令なのですか。これはあなたの解釈ですか。

H:「再定住」とは、ユダヤ人を死の収容所に移送する同義語であるというのが、当時も今も私の意見です。

C:ユダヤ人をマダガスカルに移送するというマダガスカル計画は存在していましたか。

H:このような計画は存在していましたし、1940年のあいだは良く知られていました。少なくとも1941年2月2日までは、高官のあいだでも考慮されていました。

C:ゲーリングの手紙の言っている「東部への再定住」が、文面以上のことを言っているという証拠はまったくないのですね。

H:いいえ、いいえ。ユダヤ人の個別的な移住をこれ以上許さないために命令は出されたのです。ドイツの支配下にあるユダヤ人の数は膨大なものであったので、マダガスカルなどへの移住はもはや不可能となったのです。

C:では、ヒトラーの第二の命令は存在しなかったと信じてよいのですね。

H:いいえ、そうは言っていません。まったく逆です。一つの命令であったのか、いくつかの命令であったのかについては議論があります。あなたに有利になるような発言をすれば、ヒトラーの命令は必要なかった、ヒトラーの命令なしでも事態は進行したという意見もありますが、これは少数意見であり、批判されています。

C:ドイツ外務省ドイツ課に勤務していたルターの覚え書きの最後の頁には、「計画された移送は、全面解決へのさらなるステップであり、他の諸国(ハンガリー)に関してはとても重要である。ポーランド総督府への移送は一時的なものである。技術的な条件が整えばすぐに、ユダヤ人は東部占領地区に移送されるであろう。それゆえ、私はこれらの条件とやり方のもとでの交渉と措置の継続の許可を求める」とあります。この覚え書きは、計画の意図がユダヤ人を東部占領地区に移送することであったことを明らかに示していますね。

H:いいえ。この資料にはいくつかの側面があり、少々説明する必要があります。第一に、これは当該の時点の状況の覚え書きではなく、1939年から1942年の政策の概略です。ユダヤ人がドイツからポーランド総督府のゲットーに移送された局面がありました。これは殺人センター設立以前のこと、死の収容所設立以前のことです。彼が覚え書きを書いている時点では、これらの死の収容所はすでに稼働していました。彼が覚え書きを書いた正確な日付は知りませんが、その中で彼は歴史を要約しているのです。この歴史の一つの局面は、ガス処刑のためにガス室が建設されるまで、ユダヤ人を一時的にポーランドのゲットーに移住させるというものでした。

C:覚え書きの日付は1942年8月21日となっており、「最緊急」となっています。以前のマダガスカル移送計画だけではなく、将来のステップ、少なくとも筆者の将来の意図にも触れていますが。

H:いいえ。ルターは外務省に勤務していましたので、彼が持っている情報は、SSの情報の2倍も遅れているのです。彼は1942年の1月20日の「最終解決」会議に参加しています。彼の情報はこの時点では当然にも、時代遅れなのです。

C:ヴァンゼー会議のことですね。

H:そうです。この覚え書きは歴史の概略ですし、多くの資料と同じく、婉曲語法を使っています。国境、すなわちポーランド総督府の国境を越えて東部地区に再移住させるということは、その国境にあったベルゼクとトレブリンカという絶滅収容所への移送の婉曲表現です。

C:ヴァンゼー会議では、ユダヤ人問題の「最終解決」が議論されたのですね。

H:「最終解決」とは、ヨーロッパのユダヤ人の絶滅を意味します。

C:しかし、ヴァンゼー会議の議事録がありますね。「最終解決」に言及することは重要秘密ではなかったのではないですか。ルターも言及していますし、それはあなたの定義とは異なった意味で使われていますが。

H:ルターの覚え書きは、前にも証言しましたとおり、長い概略であり、1942年までを扱ったものではありません。

C:しかし、それは「最終解決」に言及しており、絶滅には言及していませんね。

H:1月、2月、そして3月になっても、ユダヤ人をどのように処分するかということに関しては、曖昧な点がありました。1942年3月以降でさえも、曖昧な点がありました。覚え書きの筆者が詳細を知っていたかいなかったのかを判別することは難しいのです。あるいは、知っていても、曖昧な言葉を使っていることもあります。

C:ウイリアム・シャイラーの『第三帝国の興亡』964頁には、「ナチスの高官のあいだで『最終解決についての総統命令』として知られるようになったものは、文書には記されなかった。少なくとも、捕獲されたナチスの文書からはそのコピーは一つも発見されていない。あらゆる証拠は、それは多分口頭でゲーリング、ヒムラー、ハイドリヒに1941年夏か春に伝えられたことを示している。多くの証人がニュルンベルクではそれを『聞いた』と証言しているが、それを見たと述べたものはいない。帝国官房長官ハンス・ランマースは、証人席でこう述べている。『総統の命令は、ゲーリングによってハイドリヒに伝えられた。この命令は、「ユダヤ人問題に関する最終解決」と呼ばれていた。』しかし、ランマースは、その他多くの証人と同様に、連合国側がニュルンベルクで示してくれるまで、それがなんであるのかは知らなかったと主張した」とあります。シャイラーが述べていることは真実だと思いますか。

H:必ずしもそうとはいえません。彼はこの問題での専門家ではないからです。彼がこの本を執筆したのは1950年代初期であり、特定の結論を下しています。その多くについて賛同することができますが、それを自分の言葉で書くとしたら、少々異なったスタイルで記述しなくてはならないでしょう。

C:シャイラーの記述は虚偽なのですか。

H:ヒトラーの文書命令が存在しないと述べている点では正確でしょう。シャイラーは「口頭」の命令が存在したと考えており、その点でも正しいでしょう。

C:『ヒトラーのテーブル・トーク』の471頁、1942年7月24日の項目には、「汚れたユダヤ人が追い出され、マダガスカルかその他のユダヤ人国家に追放されるまで、町を一つ一つ破壊するであろうとヒトラーは言った」とあります。

H:この翻訳には同意できません。「これらのシラミだらけのユダヤ人がマダガスカルかユダヤ人国家に追い出されるまで、町を次々に破壊するつもりである」と訳すべきです。

C:ヒトラーが1941年にユダヤ人の絶滅を命令したとすれば、彼が戦後のユダヤ人の移住について語っているのはなぜですか。

H:彼がテーブルで誰に対して話しているのかを考えてみなくてはなりません。

C:ヒトラーは忘れてしまったのでしょうか。テーブルについている人々に何らかのふりをしているのでしょうか。

H:アドルフ・ヒトラーは忘れてしまっているのではありません。しかし、別の人々に別の話をしているのです。何が起こっているのは秘密にしておくことが重要であることを彼は明らかに知っていました。

 

C:ブローニングさんは、ヒトラーの命令についてどのようにお考えですか。

B:ヒルバーグ氏も含めて、誰も、ヒトラーの文書命令が存在したとは述べていません。

C:ヒルバーグ氏の第二版が刊行されたのちに、あなたは「改訂されたヒルバーグ」という書評をお書きになり、その中で、「ヒルバーグ氏の新しい版では、『最終解決』に関するヒトラーの決定や命令についてのテキストのすべての脚注は、体系的に削除された。彼がヒトラーの役割を説明するあるいは解明するやり方を変えたことは明らかであり、それはヒトラーの役割を低くすることになった。ヒルバーグは、新版から『命令』とか『決定』という単語を取り除いた。それは、彼が、かなりの注意を支払って、この単語や用語はもはや自分が言いたいことを正確に表現していないと判断したためであり、だから、彼はこれらの単語を取り除いたのである」と書いていますが、それは、これらの単語を削除したという意味ですか。

B:「命令」とか「決定」という用語が、表現したいと思っていることを正確に表現していないので、「言い換えた」のです。

C:ということは、ヒルバーグ氏は、ヒトラーの役割に関して、初版と第二版では立場を変えたということでしょうか。

B:より正確な表現に言い換えたということです。ヒトラーが絶滅計画の中心にいたことにはかわりません。

C:絶滅に関するヒトラーの文書命令もなく、予算措置もなく、計画書もなくして、ドイツの政府や軍は、一体どのように絶滅計画を実行したのでしょうか。果たして、ユダヤ人の絶滅計画は実在したのでしょうか。

 

 

<第三の尋問:ニュルンベルク裁判>

C:ニュルンベルク裁判は戦勝国によるリンチであったのではないでしょうか。

H:絶対にそうではありません。

C:アメリカ合衆国最高裁判事ストーンは、ニュルンベルク裁判での合衆国首席検事ジャクソンについて、「ジャクソンはニュルンベルクで自分のハイグレードなリンチを取り仕切っている。ナチスへの彼の態度については気にかけていないが、彼が法廷と審理を慣習法にしたがって運営しているというふりをしているのには耐え難い」とコメントしています。また、ニュルンベルク裁判の合法性についても、「ニュルンベルク裁判が、勝者による敗者への権力の行使を、後者が侵略を行なったという理由で正当化しようとするのであれば、その裁判が合法性という虚偽の仮面をつけていることに嫌悪感を覚える。この裁判について言えることは、それが戦勝国による政治的な行為であったということである」と述べています。ジャクソン検事はリンチ集団のボスであったのでしょうか。ニュルンベルク裁判は合法性という仮面で着飾っていたのでしょうか。

H:私は国際法の専門家ではありませんが、ストーン判事の意見には賛成できません。おそらく、ストーン判事は、侵略行為を犯罪とするような国際法はこれまで存在していないので、起訴状のなかの侵略という訴因は遡及法、事後法的な性格を持っていると指摘したのです。

C:ストーン判事は、起訴状だけではなく、裁判全体の合法性も批判しているのではないでしょうか。

H:ストーン判事は、法律はあらゆる犯罪を規定していなくてはならないという成文法制度の枠内で活動してきました。国際法でも犯罪が定義され、そのうえで起訴が行なわれます。戦争犯罪も国際法の一部ですが、侵略という訴因は新しいもので、1945年の裁判憲章と裁判以前にはなかったものです。

C:ニュルンベルク裁判以前に、人道に対する罪で、ある国家が別の国家を裁いたことがありますか。

H:人道に対する罪とは、戦争犯罪と関連してだけ生じるのです。人道に対する罪という概念が生じるには、それが戦争犯罪としておこる場合に限ります。戦争犯罪となるためには、犠牲者がドイツと戦争状態にある民族の一つに属していなくてはなりませんでした。もし、犠牲者がそのような民族に属していなければ、その犠牲者はドイツと戦争状態にある民族の領土で殺されている必要がありました。それ以外では、いわゆる人道に対する罪で起訴することはできませんでした。

C:ニュルンベルク裁判やその他の戦争犯罪裁判では、逮捕者や被告に対して拷問が行なわれたのではないですか。

H:虐待はあったかもしれません。しかし、逮捕直後の時期を除いて、囚人が憲兵に引き渡されてからは、拷問が行なわれたとは考えていません。

C:ブローニングさんはどうお考えですか。

B:私も、ニュルンベルク裁判で拷問が行なわれたことを立証している証拠を知りません。

C:ヒルバーグさん、連合国の虐待行為を調査した委員会のメンバーであったローデン判事は、1949年に、「ドイツのダッハウで開かれた合衆国の裁判では、アメリカの尋問官は自白を引き出すために次のような方法を使った。殴打、残酷な足蹴、歯を折ること、顎を砕くこと、偽り裁判、独房への拘禁、僧侶のふりをすること、基準以下の食糧配給、免訴の約束。わが国の尋問官は、被告の頭に黒いフードをかけ、金属のメリケンサックで彼の顔を殴り、蹴飛ばし、ゴムのホースで殴った。ドイツ人被告の多くが歯を折られた。顎を砕かれた者もいた。我々が調査した139件のうち二人のドイツ人を除いて、全員が睾丸を打ち砕かれていた」と述べています。戦争犯罪裁判ではこのようなことが行なわれていたことを知っていますか。

H:そのような噂はありましたから、何も聞いたことがないということではありません。ただし、ローデン判事の記述については、まったく知りません。公式の報告であるならば、検討したいと思います。また、この記述は、ニュルンベルク裁判ではなく、ダッハウ裁判やマルメディ裁判を扱っています。

C:ダッハウやマルメディ裁判では拷問が行われたという事実を考慮すると、論理的には、ニュルンベルク裁判でも同じような状況が存在したのではないでしょうか。

H:ニュルンベルク裁判とその後の裁判とは、まったく状況が異なっていました。

C:当時、多くの著名人が、ニュルンベルク裁判の正当性を批判していたことを知っていますか。合衆国海軍長官フォレスタルは、この裁判を不公平な裁判であったと見なしていましたが、これを認めますか。

H:そのような意見を持っていたかもしれません。しかし、フォレスタルの担当は国防でした。

C:合衆国上院議員タフトは、「私がニュルンベルク裁判に反対しているのは、それが正義の衣装をまといながら、実際には、すでにテヘランとヤルタで決定されていた政府の政策の道具であった点である」と述べていますが、これを認めますか。

H:内容が正しいというわけではありませんが、そのように言ったことは事実です。

C:学識ある研究者ナフム・ゴールドマンの研究書『ユダヤ的パラドックス』の122頁には、「戦時中、WJC(世界ユダヤ人会議)はニューヨークにユダヤ問題研究所を設立した(その本部は現在ロンドンにある)。その所長は、二人の偉大なリトアニア系ユダヤ人法律家ヤコブ・ロビンソンとヘネミア・ロビンソンであった。彼らのおかげで、研究所はまったく革命的な考えを作り出した。ニュルンベルク裁判とドイツの補償である。ニュルンベルクに開設予定の裁判は、当初はあまり重要とは考えられなかった。国際法によれば、命令に従った兵士を裁くことは実際には不可能であったからである。法外でセンセーショナルな考えを抱いたのは、ヤコブ・ロビンソンであった。彼がその考えをアメリカの最高裁の法律家たちのあいだで説いて回ったとき、彼は馬鹿者扱いされた。『ヒトラー、あるいはゲーリングが法廷に立つことは想像できるが、彼らの命令を実行し、忠実な兵士であったのは一般の兵卒である』。だから、連合国を説得することは非常に困難であった。イギリスは強く反対したし、フランスはほとんど関心を示さなかった。のちにイギリスとフランスも参加することになるが、大きな役割は果たさなかった。ロビンソンがやっと成功を収めた。彼は最高裁判事ロバート・ジャクソンの説得に成功したのである」とあります。ニュルンベルク裁判開設のイニシアチブが、ユダヤ人法律家ヤコブ・ロビンソンとヘネミア・ロビンソンであったことを認めますか。

H:明らかに真実ではなく、非常識です。

C:合衆国最高裁判事ウイリアム・ダグラスは、「私は、ニュルンベルク裁判が法的な諸原則に反していると当時も考えていたし、今もそのように考えている。法律は、当時の激情と騒動に合わせるために事後に作られた。事後法という概念は、アングロ・アメリカ的な法律観にはマッチしていない」と述べています。この意見に賛成しますか。

H:アメリカの法律概念では、すでに起こった行為ののちにこれを犯罪であると定めることは正義ではないとみなされています。しかし、この考え方は、アメリカの法律観にかぎられており、国際的な犯罪法には適用されていません。遡及法、事後法の問題が生じたのは侵略という訴因との関連です。

C:ダグラス判事はまた、「研究者たちは、侵略戦争が国際犯罪であるという結論を正当化するような国際法があるかどうか、その断片でもあるかどうか熱心に探し求めてきたが、無駄であった。しかし、なされたことに対する事後法的な正当化がぜひとも必要であるという理由付けがなされた」と述べていますが、この見解を認めますか。

H:認めます。侵略という訴因は、法曹界に当惑と混乱を引き起こしました。個人的には、ニュルンベルク裁判の起訴状のなかにこの訴因がなかった方が良かったと考えています。

C:ニュルンベルク裁判以前に、戦勝国が敗戦国を裁いたことがありますか。

H:犯罪の分野での国際法廷については知りません。

C:ニュルンベルク裁判は国際裁判ではなく、連合国裁判ではなかったのですか。

H:「国際的」とは二カ国以上を意味しますが、一般の人々には、戦勝国=連合国による裁判とうつったかもしれません。

C:ニュルンベルク裁判の起訴状には、ナチス・ドイツの指導者たちがカチンの森でポーランド軍将校を殺害したという告発も入っていたのでしょうか。

H:起訴状にはその点があります。正確に思い出せば、そのとおりです。

C:今日では、カチン事件の犯人はソ連であるということになっていますね。

H:私はソ連問題の専門家ではありませんが、ドイツ軍はカチン事件の犯人ではないと思います。

C:すると、真犯人のソ連がニュルンベルク裁判の判事の一人を出していたことになりますね。

H:はい。

C:マウトハウゼン収容所長フランツ・ツィエライスの話に移ります。彼も監禁されていたのでしたね。

H:正確な状況は知りません。

C:ツィエライスについてのハンス・マルサレクの宣誓供述書は証拠として疑わしいのではないでしょうか。

H:きわめて注意深く扱わなくてはならない資料です。

C:それは疑わしいものではありませんか。

H:偽造を意味しているのですか、それとも負傷した人物に尋問をするのは不公平であるということをおっしゃっているのですか。

C:不公平であるということです。

H:このような状況のもとでは何が公平か、何が公平でないかを判断することは困難です。彼が重傷であったのかどうか、どのような手当てを受けたのか、医師に相談したのかどうか知りません。これを判断することは困難です。私ならば個人的には、このような状態にある人物に対しては最小限度の尋問をするでしょう。

C:ツィエライスは拷問を受け、尋問の過程で3回も撃たれて負傷し、その直後に死にました。彼は5月22日から23日にかけての夜に6−8時間の尋問を受けて、翌朝、死にました。

H:ツィエライスの負傷と死亡については、逃亡したためにそのようになったという話もあれば、怒った囚人が彼を傷つけたという話もあります。どの話が真実であるのかわかりませんが、彼が負傷しており、供述を行なったのちに死んだことだけは確かです。

C:ニュルンベルク裁判に提出されたハンス・マルサレクの宣誓供述書には、「私は11軍師団(アメリカ軍師団)司令官セイベル、前囚人で物理学者のコスツェインスキ、名前不詳のポーランド市民の前で6−8時間、フランツ・ツィエライスを尋問しました。尋問は5月22日から23日の夜に行なわれました。フランツ・ツィエライスは重傷であり、彼の身体には銃弾が3発入っていました。彼はその後すぐに死にますが、このように語りました…」とあります。

ツィエライス本人の供述ではなく、彼が死ぬ前にこのように語ったということを述べた人物の宣誓供述書を証拠とするのは、間違っているのではないでしょうか。

H:ある人物が収容所長であり負傷しているとき、この人物を尋問することができるかどうかは医学的な問題です。医者に相談したかどうか、私には知るすべがありません。この資料を採用するかどうかは、その情報が、信頼できるもの、根拠のあるもの、確証されうるもの、信用できるものを含んでいるかどうかにかかっています。

C:ツィエライスは100万か150万人がハルトハイム城で殺されたと述べた、とマルサレクは宣誓供述書のなかで述べていますが、これは真実でしょうか。

H:ハルトハイムでガス処刑された人はいますが、100万とか150万という数ではないでしょう。私はこのデータを採用しませんでした。初版では、ハルトハイムに言及さえしていません。ここは治療不能な精神病患者をガス処刑する安楽死施設でした。しかし、これは私の研究分野ではありません。

C:大きな裁判、すなわちニュルンベルク裁判に関しては、拷問はなかったと考えているのですね。

H:ニュルンベルク裁判の過程で拷問があったとは信じていません。

C:拷問を受けたと主張した人物はいましたか。

H:誰が何を主張したかお尋ねですね。様々な主張がありましたので、答えることはできません。

C:被告人シュトライヒャーは拷問を受けたと主張していますが。

H:思い出せません。そうした主張がなかったといっているわけではありません。裁判記録は22巻もあるのです。すべてを覚えているわけではありません。

C:『ロンドン・タイムズ』1946年4月27日の記事には、「彼は甲高い声で、連合国の捕虜となって、裸のまま四日間地下室に放置されたと叫んだ、『私は黒人の足にキスすることを強制された。鞭で打たれた。唾を飲まされた。』 彼は一息ついてうめいた。『私の口は木の棒で強制的にこじ開けられ、唾を飲まされた。水を求めると、便所に連れて行かれ、”飲め”と言われた。ゲシュタポがそのようなことをしたと非難されたやり方であった』」とあります。法廷でこのような話がなされたことを覚えていますか。

H:いいえ。

C:そのことを否定しようとするのですか。

H:否定はできません。見過ごしてしまったこともありうるからです。裁判記録をすべて読んだと思っていますが、そこにこのような文章があったとは思い出せないのです。

C:1945年12月13日のフリッツ・ザウケルに関する裁判記録には、資料を手に入れるために拷問がなされたという話があります。その結果、ザウケルの検事ドッドは資料を撤回しました。

H:いいえ。使われている単語は「拷問を受けた」ではなく「強要された」です。この強要の中身に問題があったので、ドッド氏は公平にもこの資料を使おうとはしなかったのです。しかし、ここには拷問の話はまったくありません。まったくです。「強要」とはあらゆることを意味しています。

C:ニュルンベルクの尋問官に必要なことを話さなければ、ロシア人に引き渡されたのは本当ですか。

H:多くの尋問を読んだことがありますが、この種の脅迫を読んだことはありません。そのようなことがあったかもしれません。これが許されるべき尋問技術なのか、それとも許されるべきではない尋問技術なのかについては、議論の余地があります。ドイツ人証人の多くが検事のために証言することを拒否した場合、彼らがロシアで犯した罪の咎でロシア人に引き渡されるか選択しなくてはならなかったのは常識でした。そのことが何らかのかたちで証人に伝えられたのかどうか、協力するのかしないのかを決定付けた強要の中身であったのかどうか、私は述べることはできませんが、考え付くことはできます。

C:はっきりしないお答えです。イエスなのですか、ノーなのですか。

H:ここに証人がいるとします。あなたは、検事側のために証言をこの人物から引き出したいのですが、この人物は様々な理由からそうしたがらないとします。あなたは協力しないとどうなるかを示唆するでしょう。引き渡しかもしれません。それを強要と呼ぶことができるかどうかわかりませんが、拷問ではないことははっきりとしています。しかし、選択することを迫られたという拷問を受けたと主張することもできます。私も、昨日、証言を続けるか帰宅して授業をするか選択するという拷問を受けました。

C:すると、ニュルンベルクの証人の選択は、証言するか授業をするかというあなたの苦悩と同じようなものだというのですね。

H:もちろん、私のディレンマのほうが深刻ではありません。しかし、同じように事実であったのです。

C:1946年5月30日の裁判記録のなかで、被告人ザウケルは、「この資料には私の署名があることを認めます。しかし、どうして署名したのか、法廷に説明したいと思います。この資料はすでに出来上がったものとして私に示されました。私は獄中でこの資料を読んで研究してから、署名するかどうか判断したいと述べましたが、拒否されました。すると、ポーランド軍かロシア軍に引き渡すと言われました。署名をためらっていれば、ロシア当局に引き渡されることが明らかでした。ポーランド軍かロシア軍の将校が入ってきて、『ザウケルの家族はどこだ』と尋ねました。『我々はザウケルを知っている。そして、もちろん彼を連れて行く。しかし、彼の家族もロシアに連行しなくてはならない。』私は、10人の子持ちです。私は考えることをやめて、自分の家族を思い、この資料に署名しました。獄に戻ると、私は収容所長にメッセージを書いて、彼とだけ話したいと伝えました。しかし、それは許されませんでした。その直後に、私はニュルンベルクに移されたからです」と述べています。

H:たしかに、彼はこのように陳述しました。彼が述べていることは、署名をためらえば、逃亡犯人として引き渡されると、ポーランド軍かソ連軍の人物に言われたということです。

C:ザウケルがソ連に送られたとすれば、彼の身に何が起こったでしょうか。アウシュヴィッツ収容所長ルドルフ・ヘスはどうでしたか。

H:ご存知のように、ヘスはアウシュヴィッツでの様々な殺人の罪で告発されました。ロシアとヨーロッパから労働力を徴発し、その結果多くの死をもたらしました。この犯罪は、どの国にあっても死刑に値したことでしょう。一方、ソ連が戦争犯罪で告発した多くの人々が、1950年代に釈放され、ドイツに帰国しました。必ずしも全員が処刑されたというわけではないのです。ヘスのような特定の個人についていえば、証拠が圧倒的でしたので、どこで裁かれようと、絞首刑かそれに類した処罰を受けたと思います。

C:1948年2月23日の『シカゴ・トリビューン』紙のなかで、ニュルンベルク裁判の判事をつとめたヴェンナーストラム判事は、「明らかに、戦争の勝者は、戦争犯罪の最良の判事ではなかった。法廷は、そのメンバーを任命した国よりもあらゆる種類の人類を代表するように努めるべきであった。ここでは、戦争犯罪はアメリカ人、ロシア人、イギリス人、フランス人によって起訴され、裁かれた。彼らは、多くの時間と努力、誇張した表現を使って、連合国を免責し、第二次大戦の唯一の責任をドイツに負わせようとした。裁判の民族的な偏りについて私が述べたことは、検事側にも当てはまる。これらの裁判を設立する動機として宣言された高い理想は、実現されなかった。検事側は、復讐心、有罪判決を求める個人的な野心に影響されて、客観性を維持することを怠った。将来の戦争に歯止めをかけるためになるような先例を作り出す努力も怠った。ドイツは有罪ではなかった。ここでの全体的な雰囲気は不健康であった。法律家、書記、通訳、調査官はつい最近アメリカ人となった人々が雇われていた。これらの人々の個人的な過去は、ヨーロッパへの偏見と憎悪に満ちていた」と述べています。最後の文章は、検事側スタッフには多くのユダヤ人がいたことを示唆していますが。

H:それは示唆であり、実際には虚偽です。

C:ヴェンナーストラム判事は、検事側には多くのユダヤ人が存在したと公的に表明しているのです。

H:それは彼の誤った見解です。

C:さらにまた、「証拠の大半は、何トンもの捕獲資料から選別された資料であった。選別を行なったのは検事側であった。弁護側がアクセスできたのは、検事側がふさわしいとみなした資料だけであった」と述べています。

H:確かに、資料の選別は検事側によってなされ、弁護側は検事側の許可なくしては資料にアクセスできませんでした。しかし、彼らは許可をもらいました。不満もありました。証拠の開示の過程でその不満を聞いたことがあります。

C:ブローニングさんは、この問題についてどのようにお考えですか。

B:検事側が資料の選別を行なったことは認めますが、弁護側がどの程度資料にアクセスできたのかについては知りません。ただし、裁判で利用された資料が選別されていたことは明らかです。

C:ヒルバーグさん、ニュルンベルク裁判で被告が不満を訴えたとき、その不満が記録から削除されたということはあり得ますか。

H:公開法廷での不満が裁判記録から削除されたということですか。

C:はい。

H:そのようなことは聞いたことがありません。

C:1946年4月30日の資料を提出します。そしてヒルバーグ氏に見せます。

H:記録から削除されたものですか。

C:拷問に関するシュトライヒャーの不満がおもてに出なかったのは、それが記録から削除されているためです。

H:私は在廷中に、「この陳述は記録に載せられるべきではない」という判事の指示を耳にしたことがあります。

判事:カナダの法廷ではあり得ないことです。

H:申し訳ありません。アメリカの法廷ではあり得ます。

C:そしてニュルンベルクでも起こったのではないですか。

H:そうかもしれません。

C:少なくとも、シュトライヒャーの陳述に関しては起こったのですね。

H:疑いなく。しかし、私には何が削除されたのか知るすべがありません。

C:それは当時の新聞に記録されています。

H:この記録から読みとれることは、裁判長が「まったく不適切である」との理由で陳述を削除したということです。

C:そのとおりです。だから、ニュルンベルク裁判記録の一部が削除されていることを認めますね。

H:それがまったく不適切であり、裁判長の求めにおうじてならば。

C:拷問の記述がニュルンベルク裁判記録に存在しないということが、そのまま、ニュルンベルク裁判では拷問がなかったことを意味しているわけではありませんね。

H:そのような結論に飛躍できるかどうかわかりません。ニュルンベルクでは実際の拷問は起こらなかったかもしれないと証言しただけです。

C:ニュルンベルク裁判では、アウシュヴィッツでの死亡者数に関して、「ルドルフ・ヘスは以下のことを宣誓する。私は1943年12月1日までアウシュヴィッツでの処刑を個人的に監督し、その時までに250万の囚人が、ガス室と焼却棟で処刑・絶滅されました」というアウシュヴィッツ収容所長ルドルフ・ヘスの宣誓供述書を引用していますが、この250万という数字は、あなたの数字よりも2倍以上も多いのですが。

H:私の初版では、2倍です。自分の数字の方が真実であると信じています。

C:それでは、ニュルンベルクの判決はこの点では虚偽であったと言うのですね。

H:誤りであったと思います。しかし、ヘスはこの問題では重要人物です。彼は、収容所の設立当時から1943年11月1日まで収容所長でしたから、アウシュヴィッツの実態を良く知っていました。

C:彼は誰に捕まりましたか。

H:イギリス軍によって、ドイツ北部で逮捕されました。

C:彼はイギリス兵によって殴られ、拷問を受けたと書いていますが。

H:そのことについては知りません。

C:『アウシュヴィッツ所長:ルドルフ・ヘスの自伝』の174頁には「最初の尋問では、彼らは私をなぐって、証言を引き出した。署名はしたけれども、どのような記録となっているか知らない」とあります。

H:私が持っているのはドイツ語版ですが、この個所を記憶していません。

C:さらに、ヘスは、「アルコールが与えられ、鞭が私に加えられた。鞭は私のもので、たまたま妻のかばんに入っていたものだった。鞭で馬をうったこともなければ、まして囚人をうったこともない。にもかかわらず、尋問官は、私がこの鞭で囚人たちをいつも殴っていたとした。数日後、私はイギリス占領地区の主要尋問センターであるヴェーゼル河畔のミンデンに連れていかれました。私はそこでイギリスの尋問官、大尉の手でさらに手荒な扱いを受けました」と述べています。

H:彼は自分の鞭で打たれたと書いているようですが。

C:そのとおりです。そして、彼は何に署名したのか知らなかったが、いずれにせよ、署名したのです。

H:そこでは、そのように書かれているのでしょう。

C:拷問は一般的でした。様々な取り調べや尋問の中で、フランツ・ツィエライス、ルドルフ・ヘス、ヘッテル、コンラード・モルゲン、ヨーゼフ・クラマー、エーリヒ・フォン・マンシュタインは拷問を受けました。

H:これらの人物については知っていますが、拷問の事実については知りません。

 

 

<第四の尋問:東部地区収容所とソ連の虐殺宣伝>

C:ニュルンベルク裁判でのソ連判事ニキチェンコは、1930年代の粛清裁判の判事でもありましたね。

H:そのとおりです。

C:1930年代のソ連の粛清裁判が「見世物裁判」であったとすると、ニキチェンコが判事をつとめたニュルンベルク裁判も、「見世物裁判」という性格を持っていたのではないでしょうか。

H:いいえ。ニキチェンコは判事の4票のうちの1票であり、彼の票が多数となることはありませんでした。

C:東部地区の収容所と西部地区の収容所の違いは、前者には殺人用のガス室があったということですね。

H:ガス室あるいはガストラックです。

C:東部地区の収容所は西部地区の収容所とは異なっているということですね。

H:はい。

C:西部地区の収容所はドイツ固有の地域にあるものですね。

H:大雑把に言えば、そのとおりです。一つはフランスに、一つはオランダに、一つはオーストリアにあります。これらの収容所の大半は西側連合国によって解放され、東部地区の収容所のすべてがソ連軍によって解放されました。

C:ソ連は西側連合国よりも虐殺宣伝の面で有能であったことを認めますか。

H:虐殺宣伝とは何ですか。

C:ポーランド政府はアウシュヴィッツに記念碑を建てましたね。

H:その種のものを建てました。この記念碑を見たことがありますが、犠牲者数は正確ではありませんでした。

C:西側連合国と比較すると、ソ連政府と共産主義に共感を抱く政府は、ナチスに対して、激しい怒りと憎悪を抱いていましたね。

H:推測の問題です。ドイツ軍が侵攻したのは合衆国でもカナダでもイギリスでもなく、ポーランドやソ連などの東側諸国でした。占領されたソ連領では、膨大な物的、人的損失が生じました。だから、ドイツ占領軍がきわめて悪辣かつ残虐に多くの人々を殺したとき、被害者側が、ドイツ占領軍に怒りと憎悪を抱くようになったのは当然でしょう。しかし、アウシュヴィッツでの犠牲者数やソ連の損失数が宣伝目的であるとは考えていません。ただし、その数は不適切でした。正確に計算できなかったのです。

C:東部地区の収容所が絶滅収容所とされ、西部地区の収容所が普通の強制収容所とされたのは、客観的な観察者が、アウシュヴィッツ、トレブリンカ、ソビボル、シュトゥットホフなどの東部地区の収容所を調査することができなかったためではないですか。

H:違います。ドイツの記録を大量に捕獲したのはソ連ではなく、西側連合国なのですから。もちろん、ソ連とその衛星国も重要資料を持っていましたが、西側連合国の資料だけでも、少なくともこれらの収容所のうちいくつかについては、当初から実態がわかっていたと思います。さらに、トレブリンカ、ベルゼク、ソビボルに関する情報の多くは、1960年代に西ドイツが行なった調査・裁判資料からのものです。だから、我々はソ連の宣伝だけに依拠しているのではないのです。

C:収容所を占領し、収容所に関する文書資料を集めたのは、ソ連だけでしたね。

H:違います、違います。かなりの資料が西側に捕獲され、また、かなりの資料がソ連に捕獲されました。特定の国が独占しているというような話ではありません。

C:私がお尋ねしているのは、収容所の中の資料と収容所関係者のことであり、それらはソ連に捕獲されたのではないかということです。

H:収容者についてはそうは言えません。彼らは移送されており、ソ連軍に捕獲されたわけではありません。トレブリンカ、ベルゼク、ソビボルはソ連軍の到着前にその痕跡を消されました。しかし、マイダネクはその一部が捕獲されました。アウシュヴィッツでは、ソ連軍は、ドイツの関係者がすでに西に移動していたので、彼らを逮捕できなかったと思います。

C:東部地区の収容所すべてはソ連支配地域にあり、西側の誰一人として、この収容所を調査することは許されなかったのですね。

H:調査要請があったことは知りません。誰も許されなかったとおっしゃいますが、それは何らかの要請があったことを意味しています。私が言えることは、初期にアウシュヴィッツなどを調査した西側の調査官はいなかったということだけです。

C:トレブリンカは調査されましたか。

H:1945年の時点では、なかったと思います。

C:ソビボルは。

H:ありませんでした。

C:マイダネクは。

H:知っている限りでは、ありません。

C:ベルゼクは。

H:ベルゼクは、最初に痕跡が消されてしまった収容所です。

C:チェルムノあるいはシュトゥットホフは。

H:ありません。

C:アウシュヴィッツ・ビルケナウは。

H:ありません。

C:ということは、これらの収容所の施設すべてが戦後しばらくのあいだ、ソ連の管理下にあったということですね。

H:およびポーランドです。

C:ソ連は、ビルケナウでは一日に60000人が絶滅されたといっていますが、ご存知ですか。

H:そのような数字をあげている出版物を思い出せませんが、あり得ないわけではありません。アウシュヴィッツではおよそ250万人が死んでいるのだから、一日に60000人が死んだという結論に達したのです。しかし、そのような収容面積はないので、起こりえなかったと思います。

C:西部地区の強制収容所を連合国が調査した際に、一つのガス室の証拠もまったくなかったということを認めますか。

H:ナチヴァイラーともう一つの収容所は除きます。二つとも連合国の手に落ちましたが、少人数を殺害する小さなガス室を使っていました。これらはホロコースト施設の一部ではありませんでした。

C:そのようなことは、あなたが主張しているアウシュヴィッツ・ビルケナウでのガス処刑とは直接関係ないのではないでしょうか。

H:私は特定の場所で何が起こったのかを決定するにあたって、現地調査に頼っているわけではありません。現地調査の可能性を否定しているわけではありませんが、私は行なってはきませんでした。何回も証言しましたように、私は資料を解読し、目撃証言の真偽を検証したうえで、まずそれにもとづいて、事件についての結論を下してきました。

 

 

<第五の尋問:ルドルフ・ヘスの「自白」>

C:ヘスは英語を理解できたという証拠がまったくないのに、ニュルンベルク裁判に証拠として提出されたヘスの自白は英語で書かれていますが、この件をどのように説明しますか。

H:知ってのとおり、ヘスの陳述は非常に短いものです。これは、彼が殴られたかもしれないので、何をしているのか、何に署名しているのかまったく知らなかったという主張のある陳述と同じものかもしれません。ヘスは多くの陳述をしているからです。この陳述でさえもその全部が虚偽であるということもできません。

C:その陳述とは1945年4月15日のものですか。

H:何日のものか思い出せません。

C:ニュルンベルクに提出された陳述は、その資料と同じ言葉遣いをしています。

H:あなたがおっしゃっていることを議論するつもりはありません。私が資料をどのように利用し、依拠しているのかについて話しているのです。

C:ヘスは存在しないヴォルゼク収容所について何回も言及していますが、それをどのように説明しますか。

H:それを読んだことがあります。おそらくベルゼクのことでしょうが。ヘスが書くことができなかったのかどうか、話すことができたのかどうか、疲労していたのかどうか、錯覚していたのかどうか、偽ったのかどうか、これを知ることは非常に難しいのです。

C:ヘスはヴォルゼクとともにベルゼクにも言及しています。だからヘスは、自分の理解できない英語で書かれた自白に署名することを強いられたので、馬鹿げた事例を陳述の中にまぎれこませたのではないでしょうか。

H:この資料を前に読んだことがあり、ヴォルゼクが言及されていることも知っています。

C:あなたは自分の本のなかに42回もルドルフ・ヘスを引用していますが。

H:数を数えたことはありません。彼の陳述だけではなく、彼に関係する書簡も資料となっています。

C:ヘスの回想録『アウシュヴィッツ所長』174頁には、「最初の尋問で、私は殴打されて証拠を提出した。それに署名してはいるが、記録に何が書かれているのか知らない。アルコールが与えられ、鞭が私に加えられた。鞭は私のもので、たまたま妻のかばんに入っていたものだった。鞭で馬をうったこともなければ、まして囚人をうったこともない。にもかかわらず、尋問官は、私がこの鞭で囚人たちをいつも殴っていたとした」とありますが、不正確な点はありますか。

H:この部分の翻訳は、正確です。しかし、この事件がいつどこで起きたのかはまったく明らかではありません。それはニュルンベルクの刑務所ではないはずです。

C:ブローニングさんは、ヘスの拷問について知っていましたか。

B:ヘスが、鞭で打たれたと書いていることは知っていますが、実際に拷問が行なわれたかどうかについては知りません。

C:ヒルバーグさん、ヘスは、逮捕の際にField Security Police (憲兵)によって虐待されたといっています。

H:合衆国にはField Security Police(憲兵)のようなものは存在しませんが。

C:彼はイギリス軍に逮捕されたのです。知らなかったのですか。

H:イギリス軍にField Security Police のような組織があったとは知りませんでした。ヘスはイギリス軍に捕まり、アメリカ軍に引き渡され、ニュルンベルクで証言し、その後ポーランドに引き渡されました。彼がこの本を書いたのはポーランドの監獄にいるときです。その後、絞首刑になりました。

C:ヘスの『アウシュヴィッツ所長』には、「数日後、私はイギリス地区の主要尋問センターであるヴェッセル河畔のミンデンに連れて行かれました。そこで、私はイギリスの尋問官、大尉にさらに手荒な扱いを受けました。監獄の待遇は次のようでした。3週間後、驚いたことに、私はひげをそられ、散髪され、顔を洗うことを許されました。手錠は逮捕以来はずされることはありませんでした。翌日、私はトラックでニュルンベルクに運ばれました。フリッチュの弁護側証人としてロンドンから連れられてきた捕虜も同行しました。国際軍事法廷による拘禁は、これまでのものと比べると、療養所のようなものでした。監獄での待遇はあらゆる点でよいものでした。読書時間もあり、蔵書の多い図書館もありました。尋問はひどく不快なものでした。それは肉体的な虐待によるのではなく、心理的な虐待によるものでした。尋問官を責めることはできません。彼らはすべてユダヤ人でしたから」とあります。

H:ヘスがこれを書いたのは、ニュルンベルクでの証言の後であったことを認めます。

C:42回もヘスを引用しているのに、一度も拷問のことに触れていませんね。

H:はい。

C:一度も触れていませんが。

H:まったく触れていません。

C:あなたの本を読んでも、ヘスが拷問を受けたとか、そのようなことがあったかもしれないという印象を抱くことができませんが。

H:それが拷問であったとしても、あまり意味のあることとは考えていませんでした。問題は彼の陳述であり、彼の話なのです。それがすべてです。彼はユダヤ人に尋問されたと述べています。彼は、誰もがユダヤ人であると推測していました。

C:推測にすぎなかったといえるのでしょうか。

H:明らかに推測です。彼は尋問官に「あなたはユダヤ人ですか」と尋ねたのでしょうか。

C:そうしたかもしれません。

H:そうですか。

C:ヘスはその場にいたし、あなたはいなかったのです。

H:いいえ。私は尋問官でしたし、そんな質問は受けませんでした。

C:しかし、あなたはユダヤ人ですね。

H:質問しているのですか。

C:はい。

H:答えをお望みですか。

C:はい。お願いします。

H:そうです。

C:ヘスは、尋問官がユダヤ人であったと述べていますが、それは無知、誤解あるいは嘘なのでしょうか。

H:彼には思いこみがありました。流暢にドイツ語を話す人物は、ドイツから移住したユダヤ人であり、アメリカ軍その他の軍服を着て尋問していると推測したのです。これは推定にすぎません。非ユダヤ人の移民もいました。ドイツ語を上手に話すアメリカ人もいます。ドイツ語の教授や教師で、尋問官となったものもいるのですから。

C:ヘスの陳述は拷問によって引き出されたのではありませんか。

H:ヘスは、午前2時30分になされた最初の陳述で犠牲者の数について述べていますが、それはまったくの虚偽であることを認めます。たしかに、彼は署名しました。しかし、私はその数字を採用しませんでした。採用したのは、ニュルンベルクで、彼が比較的快適であったと述べている環境でなされた彼の陳述、終戦以前の彼の証言と書簡です。言い換えれば、私が採用したのは、拷問が行われなかったニュルンベルクでの証言と陳述、そして、ヘスの書簡だけです。

C:彼はニュルンベルク裁判での拘禁を、それまでに比べると「療養所」のようなものであるといっているのですね。

H:そうです。私が採用したのは「療養所」でなされた陳述です。

C:「療養所」での陳述は採用しているが、それ以前の陳述は採用していないというのですね。

H:はい。犠牲者の数は使っていません。

C:それはその数が馬鹿げていたのだからではないでしょうか。

H:もちろんです。

C:ということは、馬鹿げている個所はあなたの本から除外されているということですね。

H:そのようにしませんか。

C:私ならば、そのようにしません。ヘスの逮捕と供述の過程で何が実際に起こったのかを話ことでしょう。ヘスが馬鹿げた数字を挙げているという事実、彼の陳述は午前2時30分になされていること、存在もしないヴォルゼクという強制収容所を発明したこと、ヴォルゼクは、ベルゼクが同じ陳述で言及されているのだから、ベルゼクではありえないということを示すことです。

判事:法廷で演説することをやめなさい。ヒルバーグ氏は弁護側に質問してはいけません。

C:陳述がニュルンベルクでヘスに渡され、検事がヘスにこれを読み、検事が「これで良いですね」と質問したところ、ヘスは「はい」と回答しています。検事が陳述の大半を朗読し、そして彼に「これで良いですね」と質問すると、ヘスは「はい」と回答しています。このようなやり方でしたね。

H:はい、そのようなやり方でした。

C:彼が記述している状況の中では、鞭とアルコールが使われたとありますね。

H:はい。

C:ヘスが提供している情報には、あなたが自分の本のなかで使った情報も、削除した情報もありますね。

H:いいえ、私が削除したのは、明らかに検証され得ない、まったく誇張された数字です。それは、ソ連・ポーランドのアウシュヴィッツ調査委員会の不充分な調査を介して、広まっていきました。

C:ありがとうございます。ヘスの陳述のいくつかがソ連当局から出たものであり、それが彼の陳述の中に入っていることを、あなたは認めてくれました。

H:認めたとは言わないでください。私は、ソ連・ポーランドのアウシュヴィッツ調査委員会の不充分な調査からその数字が出てきたのかもしれないと推定しただけです。

C:ヘスが署名した陳述、あなたが参照したものは英語でしたね。

H:それは初耳です。彼は英語で書かれていたとは言っていません。

C:そのとおりです。彼は英語で書かれていたとは言っていません。この件を詳しくご存知なのですか。

H:いいえ。推測できるだけです。署名者が理解できない言語で書かれた宣誓供述書は、たとえ部分的なものであったとしても、証拠として提出できませんから。

C:ということは、ドイツ語で書かれていたと推定しているのですね。

H:そのように推測しています。彼はどれが英語で書かれていたとはまったく言っていませんから。

C:1946年4月24日の資料を提出しますので、ご覧ください。

H:わかりました。

C:末尾には、資料の写真コピーがあります。これは何だとお思いでしょうか。

H:うーーーん。

C:これは何ですか。

H:3頁目にあるのは、英語で書かれた写真コピーです。

C:そうです。英語です。

H:英語でタイプされています。

C:この資料は、1946年4月24日に作成されたヘスの宣誓供述書と同一ですね。そして、英語でタイプされており、彼の署名がありますね。

H:署名を判別することは私にはできません。署名のように見えますが。

C:これはルドルフ・ヘスの宣誓供述書ですね。

H:そのようです。

C:以前に見たことがありますか。

H:はい、見たことがあります。

C:見た資料と異なっていますか。

H:いいえ。

C:問題としている資料と言えるのですね。

H:はい。

C:アウシュヴィッツで250万のユダヤ人がガス処刑されたという話は、ヘスの証言から出てきているのではないでしょうか。

H:ニュルンベルク裁判ではそうであったかもしれませんが、私はそのようには考えていません。

C:しかし、あなたは42回もヘスを引用しているではありませんか。

H:42回とおっしゃいますが、ニュルンベルクでのヘスの証言を42回も引用したのでしょうか。いずれにせよ、1942年、1943年、1944年のヘスの書簡、彼の証言、様々な時期の彼の陳述、証言の一部から引用しています。アウシュヴィッツでユダヤ人のガス処刑があったことに関しては、ニュルンベルクでのヘスの証言に依拠していますが、250万という数字については採用していません。おおよそ100万であったと思っています。様々な人々が様々な数字を挙げています。

C:ポーランド人判事ゼーンは一日に60000人が殺されたと述べていますが、あなたの本は彼について言及していますね。

H:そのとおりです。彼はポーランド・ソ連調査委員会に依拠しています。私は、不充分な調査であったと考えています。委員会はその初期の段階では最善の努力をしましたが、正しくはありませんでした。

C:『アウシュヴィッツ所長』その他ヘスの資料を読んでみて、いわゆるガス室の作動に関する彼の記述にはナンセンスなものがあるとは思いませんか。

H:申し訳ありませんが、あなたが何について言及しているのかさっぱりわかりません。

C:ヘスは、ガス処刑が行なわれた直後に、人々は食べたり、たばこを吸ったりしながら死体を引き出したと述べていますね。

H:ガスマスクをつけていたときに、ガス室のなかで食べたり、たばこを吸っていなかったことは明らかです。ヘスは、ガス室のなかで食べたり、たばこを吸ったりしていたと述べているわけではありません。

C:『アウシュヴィッツ所長』の198頁には、「ガスの注入後30分で扉が開けられ、換気扇が始動した。すぐに、死体除去作業が始められた」とあります。

C:この文を知っていますか。

H:もちろん。

C:これが可能であると主張するのですか。

H:もちろん。

C:彼らはガスマスクをつけていたというのですね。

H:はい、もちろん。

C:152頁には、「ついで、死体がガス室から引き出されなくてはならなかった。金歯が抜かれ、頭髪が切られたのちに、死体は壕か焼却棟に引きずられて行かなくてはならなかった。ついで、壕に火がくべられねばならなかった。余分な脂肪が除去された。選抜された兵士が炎をたきつめるために、死体の山は絶えずひっくり返された」とあります。

C:このように考えていましたか。

H:はい。

C:また、「彼らは、日常の仕事であるかのように、このような任務をまったく無関心に遂行した。彼らは死体を引きずるときに、食べたり、たばこを吸ったりしていた」とあります。

H:「死体を壕に引きずって行くときに」ですね。

C:そうは書いてありません。

H:いいえ。順序だてて文章を読んでみてください。前のパラグラフにはガス室から出された死体のことが言及されています。ついで、金歯が抜かれ、頭髪が切られ、その後、壕に引きずられて行ったとあります。食べたり、たばこを吸ったりしていたのは、壕に引きずって行ったときのことです。

判事:「壕」とか「引きずる」という単語はこの頁のどこにあるのですか。

H:一緒にではありません。この頁にありますが、一緒にではありません。

判事:頁の全体を陪審員に読んでください。

「彼らは、日常の仕事であるかのように、このような任務をまったく無関心に遂行した。彼らは死体を引きずるときに、食べたり、たばこを吸ったりしていた。彼らは、大量の墓の中にある燃えた死体を処理するといういやな仕事に従事していたときにも、食べることを止めなかった。」

C:チクロンBを知っていますか。

H:数は少ないのですが、これに関するすべての資料を読んでいます。

C:チクロンBは身体や皮膚に固着することを認めますか。

H:私の理解しているところでは、固形状態の丸薬の入った缶が部屋に入れられ、部屋の気温が高いときには、ガスの丸薬が溶けます。化学者がガスへの昇華というように、液体の段階をとおりこして、ガスになります。しかし、湿気の多いところでは、ガスの丸薬が床の上に残ります。液状のものその類のものが残るかもしれません。ただし、私は化学者ではありません。これを扱った化学者や目撃者の話を要約したにすぎません。

C:ヘスは、「ガス処刑が始まったとき、それは大量に存在しました。害虫の駆除のためのガスとして供給されていたのです。以前にはポーランド軍の武器庫であった建物、兵営にありました。ハンブルクの『テシュ・シュタベノフ』社の社員二人がいました。彼らはガスによる害虫駆除作業しました。重要な安全措置がいつもとられました。すべてが隔離され、誰もその建物に接近することは許されず、2日間は建物に入ることも許されませんでした。同じように、災害を防ぐためにすべてが換気されました」と述べています。チクロンBが害虫の駆除に使われたときには、重要な安全措置が必要であったこと、建物は災害を防ぐために2日間換気されなければならなかったことが指摘されていますね。

H:そのとおりです。配給用の衣服は消毒されなくてはなりませんでした。衣服を取り出すにあたって、ガスマスクをつけた人がいなければ、特別に強力な換気扇が設備されているわけではありませんでしたので、2日間換気しなくてはなりませんでした。これは技術的な問題です。

C:ビルケナウの焼却棟には、特別に強力な換気扇が設置されていたのですか。

H:はい。4つの施設に非常に強力な換気扇が設置されていました。

C:その根拠は、アウシュヴィッツの設計図ですね。

H:いいえ。いいえ。これに関する文書資料があります。

C:ビルケナウの設計図とは矛盾する文書資料があるということですね。

H:いいえ、まったく矛盾はありません。

C:ビルケナウの設計図はあなたがガス室と呼んでいるもののための設計図であるとおっしゃるのですね。

H:はい。しかし、設計図には換気扇は記載されていません。

C:それでは、設計図と文書資料とは矛盾していることになりますね。

H:まったくそうではありません。まったく。設計図には衣服をかけるフックもありません。設計図はすべてを記載しているわけではないのです。

C:しかし、設計図にはない4つの完全な換気扇があったとおっしゃるのですね。

H:そうです。それはモーターです。モーターが設計図に記載されるかどうかについては議論できません。

C:ガス室から死体を引きずり出した人々はガスマスクをつけていたと、前におっしゃいましたね。

H:彼らが死体を引きずり出すためにガス室に入ったときという意味で、そうです。

C:そして、食べたりたばこを吸ったりしたときには、ガスマスクを脱いで死体を引きずり出したのですね。

H:ガスマスクをつけた人々が死体を引きずり出すためにガス室に入りました。歯が引き抜かれました。金歯が引き抜かれ、それは溶かされてドイツ政府のものとなりました。毛髪は必要ならば、この時点で切られました。この点については様々な時点で様々な手順があったことでしょう。その後、死体は壕の中で焼かれ、引きずり出されました。死体はガス室から引きずり出されたのではなく、歯が抜かれたガス室近くの場所から引きずり出されたのです。そして、壕まで引きずられて行きました。壕は戸外にありました。外ではガスマスクは必要ありませんでした。

C:私が質問していることは、死体をガス室から引きだすときには、ガスマスクをつけていたのかということです。

H:そのとおりです。

C:ついで、ガスマスクを脱いで、死体を壕に引きずって行ったのですね。

H:はい。戸外ではガスマスクをつけていませんでした。

C:焼却棟に死体を運んでいるときにはガスマスクをつけていたのですか。

H:いいえ。死体処理には二つの方法がありました。一つは焼却棟で燃やすことです。焼却棟の処理能力を上回る数のガス処刑者が運ばれてきたときには、壕が掘られました。事実、ハンガリー系ユダヤ人が到着したときには、壕が掘られました。建物の中ではなく、戸外の壕で焼却されたのです。

C:ヘスの話では、ガス室を離れて、壕かあるいは焼却棟に行くあいだに、彼らは頭髪を刈り、金歯を抜き、そしてまた食べたり、たばこを吸ったりしていたといいますが、これをどのように説明しますか。

H:焼却棟での焼却と戸外の焼却という2種類の死体処理方法があり、ヘスが語っているのは明らかに戸外の壕での焼却についてです。彼は二つのとても短い文章を書きました。第一の文章では、壕に引きずって行くことを語っています。第二の文章では、これを無頓着に「食べたり、たばこを吸ったりしながら」行なっていた人々について述べています。

C:チクロンBが爆発性で可燃性なことをご存じですか。

H:どのような条件のもとでですか。

C:燃えている火に接したときです。

H:ガス室の中の火について話しているのですか。ガス室でたばこを吸っている人々について話しているのですか。

C:ガス室から引きずり出したときのたばこについて話しているのです。

H:死体にはホースから水がかけられました。

C:ホースから水がかけられたのですか。

H:はい、明らかに。

C:誰が水をかけたのですか。

H:死体を引きずり出したのと同じ部隊がガス室全体に水をかけました。

C:そして、死体にもですか。

H:はい。

C:青酸はHCNとして知られていますね。

H:きわめて限られた私の化学的な知識からは、そう思います。そうです。

C:デゲシュ社が作成したHCNに関する資料を提出し、あなたにお見せします。

H:デゲシュ社はガスの生産と配布に関与していたことを認めます。

C:デゲシュ社は今日でも生産活動をしており、HCNを作っており、殺虫剤として販売しています。青酸を使った製品を販売するにあたっては、今日でも、極度の可燃性が明示されていますね。

H:どのような目的であっても、それを生産している会社ならば、そのように明示するはずです。

C:あなたが引用した資料では、危険なしに建物にはいるには2日間の換気が必要であると述べています。一方、あなたは、死体を引きずり出すことができると述べています。ヘスによると、死体を30分で引きずり出し、致死量の青酸ガスに触れていた死体から歯を抜き出したのです。一体、こんなことが可能なのですか。

H:しかし、ヘスはガスマスクや換気扇についてまったく言及していません。

C:青酸ガスが死体と衣服に付着するのではどのような相違があるのでしょうか。

H:ヘスは2日間のことについて語っています。彼は、誰がガス室に入ったのか、ガスマスクをつけていたのかどうか、部屋から衣服を取り出すにあたっては急ぐ必要があったのかどうか、これについては述べていません。人間がガス処刑されたのは、同じ部屋ではありませんでした。それは異なった構造を持っていました。彼が述べていることは、細心の注意を払いながら2日間かかったことなのです。

C:ガス室は、どのくらいの人数を収容できたのですか。

H:様々な収容容積を持った色々なガス室がありました。簡単に言えば、二つの大きなガス室、二つのそれよりは小さなガス室、二つの小さなガス室がありました。それに加えて、アウシュヴィッツ中央収容所にはもっと小さなものが一つありました。

C:それは小さなものですね。

H:はい。

C:ビルケナウには、4つあったのですね。

H:当初2つの小屋がありましたが、それは中止されました。ついで、1943年までに、4つの大規模建造物が建てられました。そのうち2つは大きなガス室で、別の2つは中くらいのガス室と呼べるかもしれません。

C:ビルケナウの焼却棟UとVのガス室では、一度にどのくらいの人数がガス処刑されたのでしょうか。

H:理論的な収容容積についてですか、それとも実際のガス処刑についてですか。

C:どちらでもお好きなように。

H:ヘスは理論的な収容容積を述べており、多分1400人ぐらいとしていますが、私個人はその数字にこだわってはいません。

C:1400人がそこで一度に処刑されたというのですね。

H:正確にいえば、彼は理論的な収容容積についてこの数字を挙げていたと思います。

C:ポーランドのゼーンは一日に60000人としていますが、どのようにお考えですか。

H:一日に60000人ということはあり得ません。最大限、20000人以下でしょう。しかし、ガス室を昼夜兼行で稼働させることは不可能なので、この数字にも問題があります。

C:あなたの本629頁には、「1942−43年までに、すべての殺人センターでの埋葬地の清算が進行していた。アウシュヴィッツは死体を5つの新しい焼却棟に運んだ。それは一日に12000の死体を焼却することができた」とあります。これは、アウシュヴィッツU、すなわちビルケナウについてのことですか。

H:もちろんそうです。1944年8月は4つ以上のガス室が使われていた時期でした。

C:ビルケナウの5つのガス室について言っているのですね。

H:はい。しかし、もう一つの緊急ガス室が開設されました。1944年8月のことを語っているのであって、ピーク時の最大限の数字が20000人です。しかし、多すぎるかもしれません。

C:チクロンBを使うと、通常の建物では2日間の換気が必要なのですが、その建物とはバラックのことですね。

H:はい。

C:チクロンBという致死性ガスが付着した12000の死体を処理するにあたって、それらの死体は、ガスマスクをはずしてたばこを吸ったり、食べたりしている人々によって速やかに運ばれたというわけですね。

H:死体を運んだのは、収容所の用語ではSonderkommando(特別労務班)と呼ばれた人々で、大半がユダヤ人でした。彼らの労働は交代制でした。1944年の中頃でこの特別労務班の最大数は約600人です。だから、彼らがフルタイムに働いていたわけではないのです。死体を引きずり出す人もいれば、壕に運ぶ人もいました。

C:質問を誤解しています。質問のテーマは、この600人がユダヤ人であったのかないのか、彼らが死体を処理できたのかできなかったのかについてではありません。質問のテーマは、これらのユダヤ人がチクロンBに免疫ではないとすると、チクロンBの付着した死体をどのように扱い、ガスマスクもせずに、タバコを吸ったり、食べ物を食べたりしながら穴に引きずって行ったのかということです。

H:死体をガス室から引きずり出すときにはガスマスクをつけていました。ヘスの話ではタバコを吸ったり、食べたりしていたということですが、これを確証する別の人の証言を見たことがありません。

C:ということは、この話は信じられないということですね。

H:ヘスが、死体を運びながらタバコを吸っていたり、食べたりしている特別労務班のメンバーを目撃したことは、ありうるのかもしれません。彼の観察は正確であったのかも知れません。しかし、ヘスの供述以外ではそのような話を読んだことはありません。

C:それは異様な状況ですね。

H:いいえ、そうではありません。人々は死体の中で暮らし、食べていたのです。

C:普通の人間であれば、30分以内にチクロンBの付着した死体を処理したり、食べたり、飲んだり、タバコを吸ったりすることは物理的に不可能ではないのでしょうか。

H:30分以内ではたしかに不可能でしょうが、これらの人々が同じ人物であったわけではありません。グループを作って、交代制で作業していたのです。ガス室から死体を引き出す人もいれば、金歯などを引きぬいた後に死体を壕に運ぶ人もいました。

C:前に、チクロンとチクロンBとは異なると指摘されましたが。

H:チクロンは一般的な商標です。

C:チクロンBは害虫駆除に使われたのですね。

H:いいえ。

C:チクロンBは殺人目的なのですね。

H:チクロンBは殺人のためにアウシュヴィッツで使われたものでした。疑いはありません。

C:別の目的では使われなかったのですか。

H:別の目的で使われなかったというのではありません。ヘスも、害虫駆除用のためのものを持っていたと述べています。しかし、チクロンC、チクロンD、チクロンEもありました。

C:それは殺人目的でしたか。

H:いいえ。

C:すると、チクロンBだけが殺人目的なのですね。

H:高価であったので、チクロンDやEを使おうとはしませんでした。

C:しかし、チクロンBは殺人のためだけではなく、害虫駆除にも使われたとおっしゃいましたね。

H:推奨はされていませんでしたけれども、害虫駆除のために使われたこともあったでしょう。テシュ・シュタベノフ社のテシュ博士の書簡は、様々な目的に合わせた強度を指示しています。

C:チクロンの「特性標示」には、「換気は困難である。表面に固着するので、長い時間の換気が必要である」とありますが、認めますか。

H:そのとおりです。

C:これがチクロンの「特性標示」ですね。

H:はい。通常の環境では5時間の換気を推奨しています。

C:5時間の換気ですか。

H:通常の環境で。

C:別の資料は24時間の換気にも触れていますね。

H:2日間というのもあります。様々な要素に依存しています。湿度はどのくらいか、建物は十分に密閉されているか、どのくらいの量のガスが使用されたかなどです。もちろん、強力な換気施設があれば、時間は短縮されるでしょう。

C:しかし、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の設計図には、強力な換気扇が載っていなかったはずではないですか。設計図には、強力な換気扇が記載されていましたか。

H:いません。

C:あなたの本『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』570頁には、「ガスを生産したデッサウ工場から、直接にアウシュヴィッツ絶滅・燻煙消毒部隊(Abteilung Entwesung und Entseuchung )に荷が送られた。」

C:entwesung の訳語は何ですか。

H:何かから命を奪うこと、すなわち「絶滅」です。必ずしも正確な訳語ではないですが、ドイツ語の訳語としては受け入れられるものと考えられると思っています。

C:それは「駆除」、とくに害虫の駆除を指しているのではないでしょうか。

H:いいえ。wesen は生物を指しています。接頭辞のent は生命を否定すること、それから生命を奪うことです。entwesung の中の接尾辞ung は生命を奪ったこと、何かから生命を奪うことを意味しています。

C:独英辞典には、entwesen とは消毒、殺菌、ダニの駆除、殺菌消毒、害虫の除去とありますね。

H:はい。この辞書はいつ発行されているのですか。

C:単語の意味はそんなに変化するものですか。

H:実際に変化するものです。今日のドイツも含めて通常の環境では、絶滅は害虫に限定されます。カナダや合衆国で絶滅という場合、それは人間の絶滅を意味しているわけではありません。

C:Entwesung は害虫の駆除に使われる単語ですね。

H:あらゆる殺害、生きているものから生命を奪うことすべてを指します。そして、wesen とは歩いているもの、生命を持っているものを指します。

C:1943年にベルリンで発行された科学雑誌の表紙には、EntkeimenEntwesungとありますが、それを翻訳すると、「殺菌」、「害虫駆除」で良いですね。

H:認めます。殺菌消毒担当将校であったクルト・ゲルシュタインはこの本への執筆で信用を得たことを認めます。

C:申し上げたいことは、ゲルシュタインが自分の仕事で責任を負っていたのは消毒、害虫駆除ではなかったのかということです。

H:そのとおりです。それが彼の仕事でした。

C:ブローニングさん、リヒャルト・ベーアという名前をご存じですか。

B:知っています。彼は、アウシュヴィッツの最後の所長で、逮捕されましたが、裁判に引き出される前に死にました。彼がどのように死んだのかは知りません。

C:ベーアが自分が監督していたアウシュヴィッツには殺人ガス室は存在しなかったと頑迷に主張していたことをご存じでしたか。

B:知りません。別の証人が証言した事実を否定する証人は多くいました。

C:フランクフルト大学医学部で行なわれたベーアの検死報告が、彼が獄中で無臭で、非腐食性の毒を服用した可能性もありうるとしたことをご存じでしたか。

B:ベーアの検死報告を見たことがありません。

C:アウシュヴィッツ裁判の被告には圧力がかけられていたのではないでしょうか。

 

 

<第六の尋問:「ガス室」>

C:ガス室問題に移ります。ガス室はどの収容所にも存在していたのですか。

H:ベルゲン・ベルゼン、ブッヘンヴァルト、テレジエンシュタットには、殺人ガス室はありませんでした。ナチヴァイラー、マウトハウゼンには、非常に小さなガス室があり、そこでもガス処刑が行なわれました。ダッハウにはあったかも知れませんが、そのように断定することはできません。ガス処刑があったとしても、少数です。フロッセンビュルクには、ごく少数の例外を除いて、ガス処刑はおそらくなかったでしょう。ノイエンガムメには、殺人目的のためのガス室はありませんでした。オラニエンブルクでも、ガス処刑があったとは思っていません。ザクセンハウゼンも多分同じです。ラーフェンスブリュックも多分同じです。シュトゥットホフに関しては、あったという証言がいくつかありますが、私は確実とは思っていません。シュトゥットホフでは射殺がありました。ハルトハイムは異なっています。ガス処刑専用の施設が6つありますが、ハルトハイムはその一つです。ここは収容所ではありませんでした。ドイツ人がルブリンと呼ぶマイダネクには3つのガス室がありました。一つか二つかははっきりしませんが、一酸化炭素ガスと青酸ガスの双方に互換性を持った施設がありました。両方が使われたのです。ベルゼクには、3つありました。1942年夏に6つのガス室が増設されました。もともとの3つも1942年には存在していましたが、数ヶ月後に、収容所への移送が大量になったために、改築が行なわれ、6つのガス室がもともとの3つの代わりに建設されました。ベルゼクでは一酸化炭素ガスだけが使われました。しかし、付け加えておけば、ドイツの裁判所は青酸ガスも試験的に使われた可能性もあるとしています。ヘルムノはガストラックを備えていました。一酸化炭素ガスです。ソビボルは一酸化炭素ガスを使ったガス室を備えていました。トレブリンカは一酸化炭素ガス室を持っていました。

C:ブローニングさんはどうお考えですか。

B:ビルケナウ、マイダネク、ソビボル、ベルゼク、トレブリンカにはガス室やガストラックがありました。チェルムノ、ベオグラード、ロシアのミンスク郊外のマールイ・トロスチネツではガストラックが使われていました。特別行動部隊もガストラックを使いました。ベルゲン・ベルゼン、グロース・ローゼン、シュトゥットホフ・ダンツィヒあるいはラーフェンスブリュックにガス室が存在したという証拠はありません。オラニエンブルクでガス処刑が行なわれたとは思いません。フランスのナチヴァイラーでは少数の囚人に対する実験的なガス処刑が行なわれたかもしれません。ハルトハイムは安楽死センターであり、ガス室に関する証拠があります。ダッハウには、ガス室が存在したとされていますが、それが使われたという証拠はありません。

C:ニュルンベルク裁判では、イギリス検事は、ダッハウ、ブッヘンヴァルト、オラニエンブルクでガス処刑が行なわれたという証言を提出しています。その証言は虚偽であったということですね。

B:まったく虚偽であったということはできません。証拠を見たことはないと申し上げているだけです。虚偽と断言することはできません。

C:あなたはヴァンゼー会議直後に、ユダヤ人の婦女子を殺害するために、ガストラックが送られたと書かれていますが、このガストラックに関する具体的報告書、設計図などを見たことがありますか。

B:ガストラックに関する文書報告を見たことはなく、それについての証言だけを読んだことがあります。

C:設計図についてはどうですか。

B:ガストラックの設計図を見たことはありません。

C:ガストラックの使用目的は衣服の殺菌消毒であったのではありませんか。

B:殺菌消毒用のものもあったでしょうが、殺人目的のものもありました。

C:その証拠は。

B:97000を処理したという書簡がありますが、まさか97000匹のシラミを数えたというわけではないでしょう。

C:それは、殺菌消毒した衣服の数を指しているのではありませんか。

B:馬鹿げた資料解釈です。

C:ガストラックには、ユダヤ人の医者と看護婦が乗っていたというではありませんか。

B:それは、犠牲者に、この旅が再定住の旅であると信じ込ませるためです。それに、トラックから死体を降ろしたという目撃証言もあります。

C:ヒルバーグさん、あなたは、一酸化ガスのガス室は、捕獲したソ連戦車のディーゼル・エンジンを使っていたと書いていますが、ディーゼル・エンジンは十分な量の一酸化炭素を生み出さず、むしろ大半は毒性のない二酸化炭素なのではないですか。

H:これについてはコメントできません。ドイツでの裁判でもそうであったのですが、一酸化炭素と二酸化炭素との混合であったと理解しています。ただし、どのような割合であったのかはわかりません。ハルトハイムは、精神障害者のための施設であり、そこでは純粋の一酸化酸素ガスによる処刑が行なわれました。アウシュヴィッツでは、最初の二つの小屋がガス処刑のために使われました。ついで、4つのガス室が建てられました。収容所の設計図では、それらは焼却棟となっています。

C:その根拠は、クルト・ゲルシュタインという名の人物ですね。

H:そうです。ゲルシュタインの陳述の一部を本の中で使いました。

C:クルト・ゲルシュタインは、フランスの刑務所で首をつっていますね。

H:どのようにして死んだにせよ、彼は死んでいました。

C:クルト・ゲルシュタインは1945年4月26日にフランス語で長文の詳しい陳述をしていますが、そのなかには信じがたくナンセンスな内容も含まれていますね。

H:特定の陳述を使うにあたっては、私は非常に慎重です。ゲルシュタインの陳述も慎重に扱わなくてはならないものの一つです。ある部分は信頼できますが、ある部分はナンセンスです。本のなかで採用した部分は信用できますが、信用できない部分は採用しませんでした。

C:常識的には、ある人物が、28−32名の人々を1平方メートル、1.8メートルの高さに詰め込むことができると述べた場合、この人物は馬鹿か嘘つきではないでしょうか。

H:ゲルシュタインはとても興奮しやすい人物だからです。

C:常軌を逸しているのではないでしょうか。

H:私は彼の精神状態の裁判官ではありませんし、彼が述べていることに関して慎重に対処してきました。

C:ゲルシュタインは、700−800名の人々が25平方メートル、45立方メートルの空間に押し込まれたと述べています。

H:自分の本のなかでは、この個所は無視しました。

C:彼は間違いを犯した、誤って述べたと思いますか。

H:彼は興奮していて、想像を付け加えています。

C:彼は、ヒトラーとヒムラーがガス処刑を目撃したと述べていますね。

H:ゲルシュタインはそのような陳述をしていますが、それはまったく虚偽です。彼は他の誰かに依拠して、ヒトラーがそこにいたという陳述をしていますが、実際にはヒトラーはそこにいませんでした。

B:私も、ヒトラーとヒムラーはそこにいたとは思っていません。

C:彼は、700−800名の人々が25平方メートル、45立方メートルの空間に押し込まれたと二度述べています。

H:彼は私の知るかぎり三回述べているかもしれませんが、私はこの陳述を使いませんでした。

C:700−800名の人々が25平方メートル、45立方メートルの空間にいるということは、28−32名が1平方メートルにいるということですね。計算してみますか。

H:算数は得意ではありませんので、あなたの計算を信用します。

C:ゲルシュタインの陳述にはこのような話が含まれているとすると、どうして、ご自分の本の中で、10回も典拠資料としているのですか。

H:ベルゼク、ソビボル、トレブリンカは資料のない収容所です。ゲルシュタインは毒ガス、青酸ガスの配給に責任を負ったSS将校でして、同僚とともにベルゼクともう一つの収容所に旅行しました。

C:陪審員の皆さん、ここに一平方メートルの場所があります。誰か入ってみてください。

判事:そのようなことを、私の法廷で許すことはできません。

C:あなたの本の中で、引用回数がゲルシュタインよりも多いのはルドルフ・ヘスだけですが、あなたにとって、ゲルシュタインは重要な証人ですね。

H:彼は、1942年にこれらの収容所、とくにベルゼクが存在し、そこでは一酸化炭素ガスを使ったガス処刑が行なわれていたという事実の重要な証人です。彼が、殺菌消毒担当将校として、毒ガスの調剤士としてそこにいたという事実は重要です。もちろん、彼が使っている文章の文脈から、彼がどのような人物であるかわかっていましたし、想像がまじったり、誇張されている個所は信頼しませんでしたし、それを採用しませんでした。

C:彼の陳述を本の中で使うにあたって、馬鹿げていると思われる個所すべてを削除したのですね。

H:確かではない、信頼できないと思われる個所は削除しました。

C:ゲルシュタインは、ベルゼクとトレブリンカではガス処刑者の数は計算されなかったが、2500万人が殺されたと述べています。この話を信用していますか。

H:一部は真実で、一部は明らかな誇張です。重要なことは、ガス処刑の犠牲者の数が計算されなかったことです。

C:ということは、明らかに誇張された部分を使わないで、計算が行なわれなかったという部分を信頼できるものとして採用したわけですね。

H:はい。2500万人が殺されたという部分は「レトリック」であると考えて、採用しませんでした。

C:ゲルシュタインは8つのガス室があり、衣服と下着の山が35−40メートルの高さになっていたと述べていますが、これは、理性的で信頼できる証言でしょうか。

H:30−40メートルという数はとても興味深い数です。そのような訓練を受けていなければ、どのように高さを測るのでしょうか。一方、8つのガス室といった場合、私はこれを6つと信じていますけれども、扉の数その他を考えると、8つであったと考えたことも理解できます。

C:ゲルシュタインは、800万を殺すのに275ミリグラムのチクロンBで十分であったと述べていますね。

H:まったく、覚えていません

C:ゲルシュタインはまた、数百万人がアウシュヴィッツとマウトハウゼンで自動車のようなガス室で消え去り、青酸のパッドを鼻の下に押し付けて、ガスを嗅がせて子供を殺したと述べていますが、これは真実ですか、それとも虚偽ですか。

H:アウシュヴィッツでは大量のガス処刑がありました。数百万とはいいませんが、100万程度でしょう。青酸のパッドのことは知りません。そのような証言をした目撃者もいます。

C:ニュルンベルク裁判資料によると、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所とオラニエンブルク収容所へのチクロンBへの配給は、まったく同じ時期にまったく同量でした。

H:この資料については知っています。

C:チクロンBがビルケナウでの殺人に使われていたとすれば、それをオラニエンブルクに送る必要はまったくないのではないでしょうか。

H:知ってのとおり、オラニエンブルクはSS経済管理本部のセンターでしたので、ここからガスが配給されたのかもしれません。ガスはオラニエンブルクではまったく使われなかったのかもしれません。オラニエンブルクはすべての強制収容所施設のセンターであったのですから、別の収容所に配送されるまで貯蔵されたのかもしれません。

C:チクロンBはアウシュヴィッツ・ビルケナウでもオラニエンブルクでも、衣服の害虫駆除のために使われたのではないでしょうか。

H:ご自分の意見を述べるのは勝手ですが、どうかそれを私に押し付けないでください。

判事:質問に答えてください。

H:同意できません。それは根拠のある説明ではありません。

C:ゲルシュタインは二番目の陳述のなかで、「圧縮空気を使ったテストも実施された。人々をボイラーに押し込めて、普通のロード・コンプレッサーを使って、空気が圧縮されました」と宣誓証言していますが、馬鹿げていませんか。

H:その件については説明できません。信用していませんし、採用もしていません。

C:ゲルシュタインはまた、「ポーランド在住の人々を殺す承認された方法は、人々を溶鉱炉の丸い階段に上らせて、その上でピストルで射殺し、溶鉱炉のなかに突き落とすというものでした。多くの人々は流れ出るガスによって煉瓦の釜のなかで窒息し、その後、灰になりました。しかし、この件では私の情報源は100%信頼できるものではありません」と宣誓証言していますが、これは信頼できる話ですか。

H:彼自身がかならずしも信頼できるものではないといっています。前にもお話ししましたとおり、この種の宣誓供述書には慎重に対処しなくてはなりません。

C:ゲルシュタインは、「いわゆる医師たち――実際には白衣を着たSS隊員――の任務はリムジンに乗ってポーランドとチェコスロバキアの町や村を巡回し、老人や結核患者を選別して、そのすぐ後に彼らをガス室に送ることであった」と述べています。これは信用できますか。

H:この話を採用しませんでした。これは込み入った話で、多くの事件が交じり合っています。そのうちのいくつかはたしかに起こったことです。管区指導者のグライザーは、結核に罹った3万ほどのポーランド人をガス処刑しようとしていました。ドイツ人に感染するというのが理由でした。実際には、この計画は否決されましたが、提案はされました。

C:この話は空想です。白衣を着た若者がリムジンに乗ってポーランド、チェコスロバキア、その他第三帝国の各地を巡回して、ガス処刑のための人々を選別したなんて。これが真実であると主張するのですか。

H:真実であるとは言っていません。白衣を着た人々が医者のふりをして乗り物あるいはリムジンに乗って巡回したとは言っていません。この部分が信用できるとは思っていませんし、研究者によっても採用されませんでしたし、私も採用しませんでした。

C:トレブリンカとベルゼクの死者の数を確定するにあたって「ベルゼク:ルブリン――レンベルク線、ロシアとの国境線。1日に最高15000名。ソビボル:その場所は正確に知りません。見たこともありません。1日に20000名。トレブリンカ:ワルシャワの北北東120キロ。1日に25000名」というゲルシュタインの陳述に依拠しているのではありませんか。

H:私が依拠したのは、ゲルシュタインが現場にいたという事実、彼が言及している二つの事実を目撃したという事実です。収容所の最大限の能力に関する数字は採用しませんでした。

C:この部分は信頼できないということですね。

H:そうは言っていません。少し待ってください。これらの収容所の処理能力、全体の死亡者に関して、私は当時は典拠資料を持っていなかったということです。

C:ブローニングさんは、クルト・ゲルシュタインの陳述についてどのようにお考えですか。

B:ゲルシュタインの陳述については、ガス室の大きさや規模、犠牲者の数の点で問題があります。ゲルシュタイン自身が実際に計測した、実際に計算したとは考えられません。この部分には、信用がおけませんが、その他の部分は別の証言によっても確証されており、信頼できます。

C:証言の一部を採用したり、採用しなかったりするのは、知的に不誠実ではないでしょうか。2500万人が殺されたとか、7階の高さに衣服が積み上げられていたとか述べている証言を信用するのですか。

B:当時の精神状態や状況を考慮して判断しなくてはなりません。

C:しかし、証言の一部を読者から隠してしまうのは、一体、知的に誠実なことなのでしょうか。

B:もしも、ゲルシュタインの陳述について、このことが問題であれば、歴史家は論争すべきです。彼の陳述には空想的な誇張があることを認めます。

C:ヒルバーグさん、あなたの本『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の642頁を読んでいただけませんか。ガス処刑について記述している個所です。

H:読んでみましょう。「一年後の1942年5月1日、併合されたヴァルテラントの大管区指導者であるグライザーは、自分の管区での10万のユダヤ人の『特別措置』はあと2,3ヶ月で完了するとヒムラーに報告した。次にグライザーは、同じ文の中で、毎週破局的な被害をもたらすもう一つの危険を自分の管区から除去するために、クルムホフで経験を積んだ特別部隊を使用する許可をヒムラーに求めた。グライザーの管轄地域には、35000名のポーランド人結核患者がいた。彼は彼らを殺したかったのである。」

C:グライザーの書簡は、殺人やガス処刑についてはまったく言及していませんが。

H:その書簡は、クルムホフで活動する特別部隊がいたということです。クルムホフは殺人センター、死の収容所でした。

C:グライザー自身が言っているのですか、それとも、あなた自身の言葉ですか。

H:私は資料を記述し、それが意味していることを説明しようとしています。グライザーはユダヤ人を殺すための特別部隊を持っていました。また、彼はもう一つの問題を抱えていました。ユダヤ人だけではなく、35000名のポーランド人結核患者がおり、彼らはドイツ人住民に病気を移すかもしれませんでした。幸運にも彼は殺人センターを持っており、このために、35000名のポーランド人を殺す許可をヒムラーに求めたのです。

C:まことに申し訳ないのですが、この資料には35000名のポーランド人を殺すとか、誰かを殺すとかについての言及はまったくないのですが。どうしてでしょうか。

H:グライザーが言及しているのは、経験を積んだ特別部隊が存在していたということです。彼が書簡を書いていたころ、特別部隊はクルムホフで活動しており、まだその地域にとどまっていました。だから、彼は同じ特別措置を適用する許可をヒムラーに求めたのです。もちろん、それは35000名のポーランド人結核患者をガス処刑することを意味していたのです。ここは病院ではありませんでした。

C:あなたはご自分の資料解釈を話されているようですが。この書簡のどこに、35000名のポーランド人結核患者をクルムホフに連れて行くと書いてあるのですか。

H:クルムホフに経験を積んだ特別部隊がいること、35000名のポーランド人結核患者からの感染という別の危険から大管区を守るという命令があることが書かれています。彼はこの危険の除去を望んでいたのです。

C:資料が何と述べているのか正確に話してください。

H:資料は、彼が10万のユダヤ人の「特別措置」、ドイツ語ではsonderbehandlungを完了しつつあると述べています。彼は、この特別作戦が手紙を書いてから2、3ヶ月のあいだに完了すると予想していました。同じ文章のなかで、彼は、この部隊、すなわち彼の経験を積んだ特別部隊がここにいるあいだに、35000名のポーランド人結核患者がここに移送されるべきであると述べています。私は、sonderbehandlung(特別措置)を「殺害」を意味する婉曲表現と解釈しています。

C:sonderbehandlung(特別措置)はいつも「殺害」を意味しているのですか。

H:もちろん、そうではありません。病院に行って、特別措置を受けることもできます。ホテルに行って、特別措置を受けることもできます。「特別措置」という単語は、資料には何回も登場しております。ヒムラーは、あまりにも頻繁に使われるこの単語がもはや婉曲表現としての価値を失ってしまったので、これ以上使われるべきではないと考えていたほどです。

C:ニュルンベルク裁判では被告人カルテンブルンナーはsonderbehandlungの意味を尋ねられていますが、sonderbehandlungが殺害と関係を持っていると示唆してはいません。

H:そのとおりです。彼は、自分の役割や責任を全力で回避しようとしています。彼は国家保安局長官であったために、自分の生命のかかった裁判にいたのです。

C:ここで、視点を少し変えてみましょう。ガス室として使用された場所であることを立証する科学的な報告を一つでも知っていいますか。もし知っているならば、それを挙げてくれませんか。

H:科学的報告とは何のことですか。

C:科学者、あるいは物理的な証拠を検証することができる人によってなされた報告です。ナチス占領地域のどこかにガス室が存在したことを示す科学的な報告を一つでも挙げてください。

H:質問の意味が十分に理解できません。ドイツのものを指しているのですか、戦後のものを指しているのですか。

C:ドイツのものであろうと、戦後のものであろうと、連合国のものであろうと、ソ連のものであろうと、どのようなものでもかまいません。一つ挙げてくれませんか。

H:何を証明するためですか。

C:ガス室が存在したという科学的証拠にもとづく結論をひきだすためです。一つの報告だけで結構です。

H:私は当惑しています。言えることは、航空写真があり、分析されたということだけですが、これは、あなたによる科学の定義の中には入らないでしょう。致死性のガスが使われたという同時代の資料がありますが、これもあなたには重要ではないでしょう。

C:申し訳ありませんが、明確に理解したいのです。あとの事例を具体的に話してください。

H:ガスの致死性、毒性、毒の成分です。ドイツの化学産業の化学者が署名しています。チクロンBの缶には毒とのラベルが貼ってありますが、あなたはガス室との直接的な関連を求めていらっしゃるのですから、満足されないでしょう。さらに、ガスマスクのフィルターのような科学的証拠があります。このガスを使用するときの注意書きのようなものもあります。これらはガス室と関連しています。

C:それだけですか。それで終わりですか。

H:ちょっと待ってください。これは今思いついた事例にすぎません。少し時間をくだされば、その他の事例を思い出すことができますが、今は、少々当惑していて、あなたの質問を理解することができません。

C:もし、一つでも、ガス室の存在を証明する科学的な報告があったとすれば、あなたの本『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』のなかでそれを採用したはずではありませんか。

H:ガス室に限っていえば、ガス室の存在を科学的に証明している報告は一つもありません。ガス室のなかでガスを吸入したのちに、何が起こったのかについての科学的な報告を意味しているとすれば、それは別の問題です。

C:そのことを質問したのではありません。

H:だから、質問の意味がはっきりと判らないといっているのです。ガス室に押し込められた人々について科学者がどのような報告を提出するか、生理学的に彼らには何が起こるのかについては、ドイツの資料から入手することができます。そこには、人間がこのガスを吸入した場合、何が起こるか明確に書いてあります。

C:ガスに含まれている青酸は壁の石や煉瓦やモルタルに付着します。建物の壁に青酸が付着していたことを示す科学的な検証報告がありますか。

H:問題のガスには様々な強さがあります。建造物のなかには、安全に密閉されているものもあれば、あまり密閉されていないものもあります。明らかなことは、様々な品質のガスが消毒の目的で大量に使われたことです。建物の消毒、船舶の消毒、必ずしもシラミだけではありません。ゴキブリの駆除にも使われました。

C:虫の消毒にはチクロンBが使われましたね。

H:虫が消毒されたですって。建物が消毒されたのです。虫は殺されました。チクロンBの「B」はガスの強さを表しています。当初は、目的に応じて、少なくともチクロンCとBがありました。

C:教えていただきたいのは、殺人目的でチクロンB(青酸)を使ったガス室の分析に関する科学的な報告を一つでも知っているかということです。

H:ソ連・ポーランドのマイダネク調査委員会の報告にないとすれば、私はそのような報告を知りません。ルブリンのガス室あるいはマイダネクのガス室以外には、アウシュヴィッツの一つのガス室だけが存在しているだけであり、他にはガス室は残っていないからです。

判事:博士、このような報告を知っていますか。

H:いいえ。

C:毒物学者のレネ・ファーブル教授が、1945年に、アルサスのストラスブールから5キロのところにあるナチヴァイラーでガス処刑されたとされている人々の死体、貨物列車にあった残骸、人々がガス処刑されたとみなされている部屋の調査を依頼されて、分析の結果、毒ガスの痕跡はまったくなかったと報告したことは本当ですか。

H:この報告書に関してはまったく知りません。

C:人間が青酸ガスあるいはチクロンBを吸入した結果、死亡したことを示す検死報告書が一つでも存在していますか。

H:アウグスト・ヒルト教授は、頭蓋骨の解剖学的な研究のためにナチヴァイラーの部屋でユダヤ人をガス処刑させましたが、彼の報告書のようなものはあります。私はその中で見たと信じていますが、報告書がガス処刑の過程で何が起こるかについて医学的に詳しく描写しているわけではありません。それは彼の目的ではありませんでしたから。彼は解剖学的な目的で頭を切断するために、ユダヤ人をガス処刑させました。ニュルンベルク裁判資料にあると思いますが、残念ながら、資料番号をここで思い出すことはできません。

C:報告が存在しており、それは人々が青酸あるいはチクロンBで死んだと述べているというのがあなたの証拠ですね。

H:この人物は、頭蓋骨の解剖学的な調査のために数名の人間をガス処刑させました。まず、ガスで殺させ、ついで解剖学的な研究のために頭を切断しました。彼は、ガス室でのチクロンBの適切な使用によって人が死ぬことを確信していました。

C:ガス処刑を実行せよという命令のようなものがあったと考えているのですね。

H:文書の交換がありました。人間の移送要請がありました。

C:何と、文書の交換があり、それは人間の移送要請なのですね。

H:おそらく、このように言うべきでしょう・・・

C:このような報告書は存在しないと。これがもっとも簡明な回答でしょう。

H:このような報告書は存在しないとまで言うつもりはありません。あなたが望んでいることは・・・

C:報告書です。

H:よろしい、ガス処刑されたのちに何が起こるかについての詳しい医学報告をお望みなのならば、それを見たことはありません。

C:私が望んでいるのは、ガス処刑ののちに何が起こるかについての研究ではありません。1939−1945年のあいだに、チクロンBなどを使って人間が殺されたという戦後あるいは戦前あるいは戦時中の報告書です。

H:このような報告書は大量にありますが、医者による科学的な報告書をお望みなのですね。

C:検死報告です。

H:ありません。アウグスト・ヒルトの資料には検死報告のようなものが含まれているかもしれませんが、それを今証言することはできません。

C:どうかお願いします。青酸ガスで死亡したことを証明する資料を見たことがありますか。

H:即座に回答しようとは思いません。見たことがあるかもしれないからです。しかし、私はそのような些細なことに関心を抱いていません。

C:ブローニングさん、同じことを質問しますが、チクロンBによって殺された人間の検死報告を見たことがありますか。

B:そのような検死報告は知りません。

 

 

<第七の尋問:目撃証言>

C:フィリップ・ミューラーの『アウシュヴィッツの目撃者:ガス室での3年間』という本を知っていますか。

H:知っています。

C:これは真面目な歴史書ですか。

H:いいえ、これは歴史書ではありません。それは個人の回想、彼の回想と彼自身の経験です。

C:内容は正確ですか。

H:概して正確であると思いますが、1頁1頁ごとに読みとおしましたが、資料的に重大な誤りを発見できませんでした。驚くべきことです。

C:これは本というよりも小説ではないでしょうか。

H:いいえ。まったくちがいます。

C:目撃者の正確な歴史証言とみなしているのですね。

H:はい。

C:この本の87頁には、「SSは明らかに事態の支配者であると感じていた。カーッカーナックとシリンガーは尊大な調子で、辱めを受けた人々の前を威張りながら歩いた。青黒の髪をした非常に美しい女性が右の靴を脱いでいたが、トラックに乗っていた彼らはこの女性に引きつけられて突然トラックを止めた。この女性は、二人の男が自分に色目を使っていることに気づくと、ストリップティーズのようなものを始めた。彼女はスカートをあげ、腿とガードルが見えるようにした。ゆっくりとストッキングを脱ぎ、足からとった。目の片隅から、彼女は自分の周りで起こっていることを注意深く観察した。二人のSS隊員は彼女の動きにみとれ、ほかのことには注意を怠った。彼らは腕を腰にあてて立ち、手からは鞭をたれ下げたままで、目をこの女性にじっと注いでいた」とあります。これは正確な歴史叙述ですか。

H:同じ事件についての別の叙述よりは真面目なものであると思います。犠牲者がガス処刑されようとしているときに、女性が武器を奪って、シリンガーという名前のSS隊員に致命傷を与えたという話もあります。シリンガーのエピソードは多くの報告に記録されていますが、ミューラーの叙述が、唯一の、非常に正確な事件の記述です。唯一の疑問は、ここでのディーテールが事件と同一のものであるのかということですが、この記述が述べていることと実質的には同じような別の記述があります。

C:手短に言えば、これは真面目な歴史叙述であるということですね。

H:それ以上です。実に正確な叙述です。

C:ミューラーはこの本の110頁でガス室について、「突然、一人が歌い始めた。別の人々もこれに加わり、力強いコーラスのようになった。最初はチェコスロバキア国歌を、ついでヘブライの歌『ハティクヴァ』が歌われた。このときにも、SS隊員は野蛮な鞭打ちをやめなかった。彼らはこの合唱を最後の抗議行動とみなしていた。一緒に死んでいくことは、これらの人々に残された唯一の慰めであった。彼らは自分たちの国歌を歌うことによって、自分たちの短いが、輝かしい過去に最後の別れを告げていた。その過去のおかげで、彼らは20年間にわたって民主的な国家で生活し、少数民族も平等の権利を享受して尊重されたのである。今ではイスラエル国歌となっている『ハティクヴァ』を歌うことで、彼らは未来を眺めていた。しかし、それは彼らが見ることを許されていない未来であった」と述べています。これはガス室の中での出来事ですか。

H:同じ建物の中での、ガス処刑を待っている部屋の中でのことだと思いますが、部屋の詳細については知りません。

C:これを正確な歴史叙述とみなしているのですか。

H:特定の事件について、個人的に確証することはできません。だから、我々は本を読むのです。フランス系のユダヤ人がガス室に連行されたとき、マルセイエーズを歌ったという記録もあります。だから、死が予期されるときに歌を歌うという行為は、唯一可能な抗議であり、振る舞いなのです。これが起こったのです。これは信頼できる叙述です。

C:ミューラーの本の以前に発行された本にも、同じような合唱事件が書いてありますが。

H:そうでしょう。チェコスロバキア国歌の合唱という話は思い出すことはできませんが、フランス国歌の合唱については思い出せます。まったく別のエピソードであると思います。

C:ミューラーの『アウシュヴィッツの目撃者』は1979年にドイツ語と英語で刊行されていますが、それよりも前の1972年にアウシュヴィッツ博物館はVerbrechens Handschriften という本を発行しています。その121頁には、「ガス室の中で、一人のポーランド人の若い女性が、裸の人々を前にして短い演説をおこなった。彼女はナチの犯罪を非難し、次のような印象的な表現で演説を終わった。『我々は死なない。我々の民族の歴史が我々を永遠とするでしょう。我々の願いと我々の民族は生き残り、繁栄するでしょう。ドイツ民族はナチの野蛮という形で我々の血を贖わなくてはならないでしょう。ポーランド万歳。特別労務班の皆さん、神聖なる復讐の義務があなた方にかかっている。我々が自覚して、自尊心を持って死に面したことを我々の民族に語ってください。』その後、ポーランド人は床にひざまずき、厳かに祈り始めた。それは大きな印象を与えた。その後、彼らは立って、ポーランド国歌を歌い始めた。ユダヤ人はハティクヴァを歌った。共通の残酷な運命が、この呪われた場所で交錯した。様々な歌の音が一つの全体となった。彼らは深く心を動かされて、一致して、最後の感情と希望を表現した。彼らは合同でインターナショナルを歌って、歌い終えた。彼らが歌っているときに赤十字が到着した。ガスが部屋に投げ込まれた」とあります。「インターナショナル」という単語を除外すれば、ミューラーの話と驚くほど似ていますね。

H:これは別々の事件です。

C:ミューラーはこの本を剽窃したのではないでしょうか。

H:いいえ。同じような印象を与える同じような事件を描いた場合、それが剽窃であるといえるでしょうか。

C:二つの異なった犠牲者グループがハティクヴァとインターナショナルを、あるいはポーランド国歌とハティクヴァを歌ったというのですね。

H:まったくあり得ることです。国歌を合唱する人々の話は繰り返し登場しているからです。フランス国歌を合唱した話について申し上げました。ここには、ポーランド国歌を合唱した話があります。このグループの中にユダヤ人がいて、ハティクヴァを歌ったという話もあります。ハティクヴァはイスラエル国歌になりましたが、この当時はもちろん国歌ではありません。さらに、インターナショナルを歌った人々もいたのです。

C:この人物はガス室への待機室を脱出して、事件を記録したというのですね。

H:偶然に生存者がいたかもしれませんが、必ずしも生存者が必要であるとは限りません。私は、この事件の現場にいませんでしたから、事件の詳細を正確に述べることはできません。しかし、事件を想像することはできます。

判事:証人は想像しないでください。

C:この本の著者は、事件を想像しているのではないでしょうか。

H:著者は私とは違って現場にいたのですから、そうは言えません。

C:著者は文学作品を作り、それを事実であると主張し、そして、あなたがこれらを実際の歴史であるとみなしているのではありませんか。

H:彼らは、歴史家、政治学者、法律家が使うような文体を使う人々ではありません。自分が目撃し、感じたことを記録した人々です。

C:これらの著者は、自分自身がガス室に入れられることなしに、見たり聞いたりしたと主張している物事を、どのように見たり聞いたりしたのですか。

H:あるいは待機室に。ガス室への待機室があったからです。

C:これは歴史叙述ではなく、小説的な解釈ですね。

H:いいえ。そうではありません。

C:フィリップ・ミューラーの『アウシュヴィッツの目撃者:ガス室での3年』の113頁には、「薄暗い明かりのついたガス室の雰囲気は、緊張した絶望的なものだった。死が切迫していた。数分後のことであった。我々についての記憶、痕跡はまったく残らないであろう。もう一度、人々は抱き合った。親たちは自分たちの子供を激しく抱きしめたので、私の心は張り裂けそうになった。突然、数名の裸の若い女性が私のところにやってきた。彼女たちは、黙って私の前に立ち、考え込みながら私をじっと見つめ、激しく頭を揺らした。ついに、その一人が勇気を奮い起こして、私に話しかけた。『あなたは自分の意志で私たちとともに死ぬことを選択しました。その決意は無意味であると伝えに来ました。私たちは死ななくてはなりません。しかしあなたには、助かるチャンスがあります。収容所に帰って、私たちの最後の瞬間の様子を伝えてください。彼らにいっさいの幻想を捨て去ることを説明してください。彼らには子供たちがいないので、それは簡単なことでしょう。多分、あなたはこのおそろしい悲劇を生き延びることでしょうから、何が起こったのかをすべての人々に伝えてください。もう一つあります。私が死んだら、金のネックレスを取り、それをボーイフレンドのサーシャに渡してください。彼はパン屋さんで働いています。ヤナからの愛と伝えてください。すべてが終われば、ここで私を見いだすでしょう。』彼女は、私の立っているコンクリートの柱の隣の場所を指さした。これが彼女の最後の言葉だった。私は、死を目前とした彼女の冷静さと超然さに驚き、心を大きく動かされた。そして、彼女のさわやかさにも。私が彼女の心動かされる話に答える前に、彼女は私の手を取って、ガス室のドアの前に引きずっていった。彼女たちは私をドンと押し、私はSS隊員の真ん中に出た。クルシュスが最初に私を見つけ、すぐ棍棒で私を殴った。私は床に倒れ、立ち上がると、彼の拳骨で殴り倒された。3,4回目に立ち上がると、クルシュスは私に叫んだ。『糞をお前の間抜けな頭の中に入れろ。お前がどれほど生きられるのか、いつ死ぬのかを決めるのは我々だ。お前ではない。焼却炉にションベンを引っかけろ。』そして、彼は私の顔をひどく殴ったので、私はドアのところへよろめいた」とあります。これは、事件に関する、信頼しうる正確な目撃談だと思いますか。

H:これは、この本の中でもっとも感動的な個所でしょう。彼は死ぬ運命にある若い女性に話しかけられました。

C:ガス室の中でですね。

H:ドアの近くで。

C:そして、彼女は彼をガス室のドアから押し出したのですね。

H:これは彼の記述です。この個所は内容的に正確であると思います。このような文章が作り事であるとは想像できません。

C:作り事ではあり得ないがゆえに、作り事であるとは想像できないのですね。

H:いいえ。

C:すると、本当であると信じているのですね。

H:内容的に本当であると信じています。

C:ガス室の中の人間が誰かを外に押しだし、そこにはSS隊員がおり、ドアは開けられたままであると信じているのですね。

H:収容所外部から到着した囚人ではなく、収容所内部から選別された人々がガス処刑されるときには、この広い部屋がいっぱいではなく、ガス室の中で立っていることもでき、人間とドアのあいだにスペースがあることもあり得るでしょう。

C:ブローニングさんは、この話を信じていますか。

B:正確に何が起こったのか知っているわけではありません。ミューラーは、起こったことについて、記憶していることを記述しているのです。

C:ミューラーの本の161頁には、「死を運命づけられていた囚人の隊列の中から突然、髪を乾かすチームで働いていた若いラビの学生が進み出た。彼は、上級指導者のムースフェルトに向かい、崇高な勇気を持って彼に静かにするように言った。そして、彼は囚人たちに向かって話し始めた。『兄弟たちよ、我々が命を投げ出すのは、神の不可解な意志である。残酷で呪われた運命によって、我々は我々の民族の絶滅に関与することを強いられた。そして、今、我々自身も塵と灰になろうとしている。いかなる奇跡も起こらなかった。天は復讐の電光を送ってはこなかった。雨は降らず、人間の手によって築かれた葬儀の薪の火を消すことはできない。我々はユダヤ的なあきらめに身をゆだねなくてはならない。これは、天国が我々に課した最後の試練である。その理由を問うことはできない。我々は全能の神の前には無であるからである。死を恐れるな。たとえ命を救うことができたとしても、それが何であろう。我々は、殺された関係者をむなしく探すだけではないか。我々は、家族もなく、親類もなく、友人もなく、我々のものと呼ぶことのできる場所もなく、孤独で、目的もなく、世界を歩き回るだけではないか。世界の片隅で死ぬ日まで、我々には休息も心の平和もないであろう。だから、兄弟たちよ、勇敢に、尊厳を持って死と向かい合おう』」とあります。

 また、ミクロス・ニーシュリの『アウシュヴィッツ:医者の目撃報告』の143頁には、「ここは『デイエン』が働いていた、むしろ彼が働かなかった場所であった。彼がしていたことは火が燃えるのを監視することだけであったから。それでも、彼は不満足であった。自分の宗教的な信仰によって、彼は祈りの書や聖物の焼却に関与することを禁じられていたからである。私は、彼に対して申し訳なく感じていたが、それ以上彼を助けることはできなかった。もっと簡単な仕事を見つけてやることはできなかった。我々も結局生者部隊の一員にすぎなかったからである。この男は、話し始めた。『仲間のユダヤ人よ。不可思議な神の意志によって、我々の民族は死に送られた。運命は我々にもっとも残酷な課題を割り当てた。我々自身の破壊への関与、灰になるまでの我々の消滅の目撃という課題である。我々は、イスラエルの息子たちのように、これがなし得ることであることを、尊厳を持って受け入れなくてはならない。神がそのように定めたのだ。なぜなのか。我々哀れな人間には、この答えを見つけることはできない。これは我々にふりかかった運命である。死を恐れてはならない。奇妙な奇跡によって生き残ることができたとしても、それが生きるに値することであるのか。我々は自分たちの町に戻って、冷たい、略奪された家を発見するであろう。どこの部屋でも、どの部屋の片隅でも、失われた人々の記憶が我々の涙一杯の目の中に浮かんでくることであろう。家族や親類を奪われた我々は、どこにも平和と休息を見つけることができず、我々自身の過去の影を引きずりながら、落ち着きなくさまようことになるであろう』」とあります。二つの話はよく似ていませんか。

H:とてもよく似ています。

C:ミューラーの話では、この男は待機室かガス室におり、ニーシュリの話では、特別労務班の一員であったことになっていますね。

H:はい。どのような部隊かは明らかではありませんが。

C:ある本の中の情緒的な個所が偶然にフィリップ・ミューラーの本の中にまぎれこんだと思いますか。

H:偶然であったとは思いませんが、二人の人物が同じことを聞いたのかもしれません。誰かがその繰り返しを聞いたこともあり得るでしょう。二人の人物が内容的に同じ話をしているのかもしれません。使われている言葉は、こうした環境の中で敬虔なるユダヤ人が典型的に使う言葉、あきらめの言葉だからです。

C:ニーシュリの本は1960年に、ミューラーの本は1979年に出版されていますが、ミューラーはニーシュリの話を剽窃したのではないでしょうか。

H:事件のあと数十年たってから、その事件について記述するにあたって、その間に事件について何かを読み、自分はそれを実際に見たのだと主張するようなことがあるということも否定しません。実際には、読んだだけにすぎないとしても。その可能性は排除できません。この事件が、共通のものを含んでいるからといって、起こらなかったとも思いません。

C:これらの叙述は文学的記述ではありませんか。

H:自分のことを文学者とは思いたくもありませんし、それは私が文学とみなしているものではありません。

C:あなたはゲルシュタインとヘスから選択して引用していますが、そのやり方はミューラーが自分の本の中で話を選択したやり方と似ていますね。

H:フィリップ・ミューラーは目撃者として、驚くほど正確で信頼すべき人物です。しかし、学問を積んだ人物ではなく、普通の人物です。事件から何年かたって、その間には別の書物が出版されており、そのような条件の下で書かれた記述には、自分の記憶だけではなく、自分が読んだことの記憶に影響されてしまうという可能性は存在します。ミューラーが正直ではないということはできません。剽窃という単語は強すぎます。

C:ブローニングさん、ミューラーは、「射殺された人々の筋肉が、バケツのなかで依然として動いており、収縮しているので、バケツがはね回った」と書いていますが、この話を信じていますか。

B:そのようなことがあり得たのかもしれませんし、この話は、ミューラーの証言全体の信憑性とは関係がありません。

C:アウシュヴィッツ・ビルケナウの囚人が、ガス室の中で自転車を乗り回していたとか、ガス室の中で裸の女性がネックレスを渡していたというような目撃証言がありますが、そのような内容の証言は信頼できるものなのでしょうか。

B:信頼できないものもあるかもしれませんが、すべての証言がそのことによって信頼できないということになるわけではありません。

C:ヒルバーグさん、あなたの本『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』626頁には、「ビルケナウに到着した者の大半は、煙突から大きな炎が吹き出しているのを目撃した」とあります。これが真実であると信じているのですか。

H:信じています。事実として。第二版でもそうです。

C:そんなはずはありません。焼却棟の煙突からは炎は吹き出していないのです。実際、非常に急速に燃やしでもしない限り、煙突から炎が吹き出ることはありません。

H:生存者だけではなく、アウシュヴィッツ収容所かその周辺にいた人々も、同じような話を多くしています。私自身は見ていないのですから、その詳細についてお話することはできません

C:そのような話を信じているのですか。

H:何人かの生存者が言及しています。鉄道員も言及しています。ビルケナウから離れた工業施設のドイツ人も言及しています。

C:オルガ・レンギエルの『5つの煙突:アウシュヴィッツの物語』の69頁には、「30分間に360の死体。結局、1時間に720、24時間では17280が人間から灰となる。焼却炉は、驚くほどの効率で、昼夜機能している。しかし、死の壕も考慮しておかなくてはならない。それは1日に8000名を燃やす。合計すると、毎日24000名が処理される。賞賛すべき生産性である。ドイツ産業の素晴らしさよ」とあります。これは伝聞情報でしょうか。

H:はい。彼女は次のセンテンスで、誰かが計算したことから、詳細な情報、到着した列車の数を収集したと指摘しているからです。アウシュヴィッツのポーランド地下組織が、到着した列車の記録を持っており、計算によって様々な数字があります。この数は法外なこともありますが、彼女が言及している統計は存在しているのです。

C:レンギエルはまた、「収容所の中で、私は、アウシュヴィッツ・ビルケナウに1942−1943年に到着した列車の数について詳しい統計資料を入手した」と述べています。彼女は非常に詳しい統計資料を持っていたのでしょうか。

H:彼女が1942年43年にそこにいたとは思いません。彼女はそこで統計資料を手に入れたことは明らかですが、それは、伝聞資料と呼べるものかもしれません。しかし、アウシュヴィッツに保管され、利用できる記録にもとづいていたのです。

C:これらの数を立証する記録があるのですね。

H:いいえ。これらの数を立証する記録があるというのではありません。計算を可能にする、あるいは間違った計算を可能にする資料があります。

C:あなたの本『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の629頁には、「1942−43年までに、すべての殺人センターでの埋葬地の処分が進行した。アウシュヴィッツは死体を5つの新しい焼却棟に移送した。それは1日に12000の死体を焼却した」とあり、この部分の脚注には「ゼーン、『オスヴィエチム』87頁、レンギエル『5つの煙突』68−79頁は理論上の最大処理能力を17280人としている」とあります。ということは、レンギエルに賛同して引用していることになりますね。

H:いいえ。私は12000人という数字をあげているのですから、レンギエルに賛同しているわけではありません。

C:賛成していないものを脚注に引用するのですか。

H:そうしてはいけないのですか。その数が12000を超える可能性があるとすれば、将来の研究の道を開いておきます。しかし、私はそれに賛成していません。

C:それが信頼できる数であるとは信じていないわけですね。

H:多すぎると思います。本のなかには約12000名としておきました。

C:あなたの本の623頁には、「若いユダヤ人女性モルゲンによると、死体が細かく切り刻まれた直後に、馬肉と混合されて、ゆでられ、石鹸がつくられた」とあります。

H:石鹸の話が真実であると信じているのですか。

C:いいえ。事実ではなく噂です。

H:手短な答えをお願いします。

C:答えは、ノーです。

判事:質問に答えてください。

H:手短に答えれば、石鹸が人間の脂肪からつくられたということを信じてはいません。しかし、このような石鹸の噂は戦争中にドイツ占領下のヨーロッパで広く広まっていましたので、この噂の起源を調べようとしました。どのように生まれたのか。なぜスロバキアで語られているのか、ドイツの鉄道機関で語られているのかです。

C:起源を発見するために、噂を調査したというのですね。

H:この噂に関心がありました。

C:それが事実である、真実であるという証拠を発見しましたか。

H:いいえ。人間が工場作業のように殺されたアウシュヴィッツその他の場所で、石鹸が死体から作られたとは信じていません。そのことは強調しておきたいと思います。

C:石鹸を作ったという証拠がありますか。

H:いいえ。それを信じてはいません。

 

 

<第八の尋問:研究方法>

C:長時間にわたる尋問でお疲れのことと思いますが、最後の尋問に移ります。E.H.カーの『歴史とは何か?』という本をご存じですか。

B:もちろん良く知っています。カーは有名な歴史家であり、彼の『歴史とは何か?』は歴史学の入門書として、今日でもよく読まれています。

C:カーはその本の中で、歴史的事実と歴史家との関係について、「事実とは、けっして魚屋の板の上の魚のようなものではない。事実とは、広大で、ときには近づくことのできない大きな海のなかに泳ぐ魚のようなものである。歴史家が何を捕まえるかは、偶然に左右されることもあるが、主として、歴史家が魚を釣り上げるために、大きな海のどの部分を選択したのか、どのようなつり道具を使うことを選択したのかという要因に左右される。もちろん、この二つの要因は、歴史家がどのような種類の魚を捕まえようとしているのかによって決定される。概して、歴史家は自分の望む種類の事実を捕まえるものである」と書いています。カーは、歴史家が、ややもすれば、あらかじめ結論を出しておいて、様々な事実のなかからこの結論にふさわしい事実をつまみ出して歴史を書いてしまうという危険性を警告しているのではないでしょうか。ヘスの「自白」やゲルシュタインの供述に対するヒルバーグ氏の扱い方を見ると、どうもこの警告が当てはまっているような気がするのですが。

B:もちろん、歴史的な事実は膨大にあるのですから、たとえ限られたテーマに関する歴史を書くとしても、膨大な事実のなかから選別しなくてはなりません。しかし、ヒルバーグ氏は、結論にあわせるために、事実を発明しているわけではありません。

C:あなたとヒルバーグ氏の学問的な関心は、ホロコーストはどのように起こったのか、ホロコーストはいつ起こったのか、ホロコーストはどこで起こったのかというものですが、ホロコースト自体を自問することはないのですか。

B:ホロコーストが起こらなかったという観点から問題を研究したことはありませんが、そのような見解をあらかじめまったく否定してしまっているわけではありません。

C:カーはまた、「どのような歴史家であっても、考え、執筆しているときに、自分が何をしているのか振り返るのをやめてしまうと、自分の事実を自分の解釈に、自分の解釈を自分の事実の鋳型に入れてしまうという不断のプロセスに陥ってしまう」と述べていますが、お二人のホロコースト研究はそのようなプロセスに落ち込んでしまっているのではないでしょうか。

B:適切な事実を選択しているのであって、鋳型にはめているわけではありません。

C:適切な事実とは何のことでしょうか。

B:可能な限り、あらゆる文書資料、目撃証言などを調査・検討してでてくる、矛盾のない事実のことです。

C:もちろん、そのようなこと、すなわち資料考証も必要ですが、いわゆる「大量殺人」をもたらしたとされるホロコーストのような事件の場合、収容所やいわゆるガス室などの「殺人現場」の現場検証をふまえて、物的な証拠、科学的=化学的な証拠と照らし合わせて検討することのほうが必要なのではないでしょうか。

 

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