11章 見えない象

 1976年、電気工学教授アーサー・バッツは『20世紀の詐術』を執筆し、それは、今日でも修正主義の古典である。バッツは、連合国、バチカン、国際赤十字委員会がドイツ支配下の諸国で進行中であった大量絶滅を長い間知らなかったことがありうるのかどうかという問題を提起した。彼の回答には、そのようなことはありえないという明確なものであった。マーチン・ギルバート、ウォルター・ラカー、ディヴィッド・ワイマン、リチャード・ブライトマンその他といったホロコースト史家も同じ問題を提起し、同じ回答をしている。それでは、最大の強制収容所であり、ホロコースト正史によると、絶滅の中心であったアウシュヴィッツでの大量殺戮が、長いあいだ秘密のままであったということはありうるのであろうか。

 

  ビルケナウの4つの焼却棟が稼働する前にガス室として使われたとされる2つの農家は収容所にすぐ隣接する場所にあった。焼却棟は収容所の中にあり、鉄条網で囲まれているだけであったので、数千の囚人は、そこで進行している虐殺行為を毎日目にすることができたであろう。(ホロコースト正史によると、一人のSS隊員が「ガス室」――実際には死体安置室――の屋根に上って、4つの丸い穴からチクロンBの丸薬を室内に投入したという。しかし、強調しておいたように、この4つの丸い穴は存在しなかった。)

  アウシュヴィッツは、40ほどのサブキャンプを持つ収容所群島のようなものであった。囚人たちは、労働力として必要とされるときにはいつでも、サブキャンプに送られ、そして、また、メインキャンプに戻ってきた。囚人と普通の労働者が肩を並べて働いていたので、アウシュヴィッツ全体に情報がたえずいきわたっていた。

  ホロコーストの中心とされるビルケナウにおいてさえも、民間人従業員がさまざまな仕事に従事していた。少なくとも、12社が焼却棟の建設に参加していた(Pressac, Les crematoires d'Auschwitz, p. 56)。

  アウシュヴィッツは、ドイツ最大の産業会社であるIGファルベンや170社ほどの会社が支社を持っていた大産業複合体であった(Raul Hilberg, Die Vernichtung der europaeischen Juden, Fischer Taschenbuch, Frankfurt 1997, p. 992 ff.)タイヤ製造に必要な人造ゴムであるブナは、アウシュヴィッツ複合体の東部にあるモノヴィツで生産されていたので、ドイツの軍需産業にとって、アウシュヴィッツは非常に重要であった。

  すでに指摘したように、囚人たちはたえずアウシュヴィッツからほかの収容所に移送されていた。19446月から10月のあいだだけで、23000名ほど――大半がユダヤ人女性囚人――が、アウシュヴィッツからダンツィヒ近郊のシュトゥットホフに移送されている(Archiwum Muzeum Stutthof, I-IIB-8, p. 1; Juergen Graf und Carlo Mattogno, Das Konzentrationslager Stutthof und seine Funktion in der nationalsozialistischen Judenpolitik, Castle Hill Publisher, Hastings 1999)。18万から41万のハンガリー系ユダヤ人が同年の5月から7月のあいだに殺害されたことになっているので、シュトゥットホフに移送された囚人の大半は、この恐ろしい犯罪を目撃していたに違いない。

  アウシュヴィッツからは多くの囚人が釈放されている。マットーニョと私は、労働契約違反の咎で49日間の矯正労働教育刑に処せられた360名の囚人――大半がポーランド人――が釈放された文書資料的証拠を発見した(Tsentr chranjenia istoriko-dokumentalnich Kollektsii, Moscow, 502-1-436)。彼ら全員が19446月、7月(すなわち、ハンガリー系ユダヤ人が絶滅されていたとされる時期)に釈放されている。したがって、虐殺行為の証拠を熱心に消滅させようとしていたナチスは、虐殺の目撃証人を釈放し続けることで、愚かにも、この消滅努力を無に帰していたことになる。

 

ユダヤ系のホロコースト史家マーチン・ギルバートはこう記している。

 

「連合国は、チェウムノ、トレブリンカ、ソビボル、ベウゼック絶滅収容所の名前と場所について、遅くとも1942年夏までには知っていた。一方、アウシュヴィッツ・ビルケナウのガス室の秘密は、それが稼動し始めた19425月から、19446月の第3週まで隠され続けていた」(Auschwitz und die Alliierten, Verlag C.H. Beck, 1983, p. 398)。

 

 事実はこうである。連合国政府は、アウシュヴィッツその他の「絶滅収容所」について何事かを知っているようにはまったく振る舞っていない。19438月には、アメリカ合衆国国務長官コーデル・ハルは、ガス室が実在する証拠がないので、「ポーランドにおけるドイツの犯罪」に関する連合国共同声明から、ガス室についての記述を削除するようにモスクワ駐在アメリカ大使に指示している(Foreign Relations of the U.S., Diplomatic Papers, Washington 1963)。194312月以降、連合軍偵察機がアウシュヴィッツを定期的に写真撮影している。もしも、連合軍が、大量絶滅の証拠を撮影していたとすれば、1944年春にハンガリー系ユダヤ人の移送が始まるとすぐに、アウシュヴィッツとハンガリーとを結ぶ唯一の鉄道を空爆し、破壊したことであろう。しかし、連合国はユダヤ人をその悲惨な運命から救うための措置を講じていない。バチカンも国際赤十字も沈黙を保ったままであった。19449月、赤十字代表団はアウシュヴィッツ訪問を認められている。代表団はその後の報告書の中で、ガス室についての噂を耳にしたことはあるが、囚人たちはこの噂を確証していないと述べている。(Comite international de la Croix Rouge, L'Activite du CICR en faveur des civils detenus dans les camps de concentration en Allemagne, Geneva 1948, p. 92)。

 したがって、われわれは、次のような事実に直面せざるをえない。

 

1)         アウシュヴィッツでの大量殺戮を世界の目から隠すことは不可能である。

2)         世界は19446月までアウシュヴィッツでの大量殺戮について何も知らず、そのあとでさえも、その話が真実であると振る舞う人は誰もいなかった。

 

 今日、ユダヤ人団体は、キリスト教世界がユダヤ民族の絶滅を黙認したことを公に非難している。しかし、バッツは、「私は地下室の中で象を見ませんでした。地下室の中に象がいたとすれば、それを目にしたことでしょう。だから、私の地下室には象はいなかったのです」(Context and perspectives in the holocaust controversy, Journal of Historical Review, Winter 1982)とうまく述べているが、こちらの方が、はるかに論理的な結論であろう。

 

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