ホロコースト正史の歴史
――ガス室神話の形成と崩壊――
歴史的修正主義研究会編
最終修正日:2006年9月01日
ホロコースト正史の歴史、ならびに史学史をとくに「大量ガス処刑問題」に焦点を絞って、まとめてみました。ただし、当研究会には、掲載した項目について、原典、第一次資料を直接参照・検証する能力がありませんので、多くの間違いや不正確な点、さらには遺漏が含まれていると思います。したがって、各項目についての典拠資料もつけませんでした。今後の研究のたたき台となればと思っております。また、随時、修正・加筆していく予定です。 歴史的修正主義研究会 目次 |
ホロコースト正史 |
関連事件 |
1900.06:『ニューヨーク・タイムズ』紙に「600万人の苦難に満ちた」ユダヤ人の声という表現 |
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1914.09:第一次大戦勃発 |
1914.09:『タイムズ』紙にドイツ兵によって手を切断されたベルギーの赤ん坊の記事 |
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1914.09:『スター』紙にドイツ兵によるイギリス軍看護婦虐殺事件の記事 |
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1915.01:『ニューヨーク・タイムズ』紙に「600万人の」ユダヤ人の命が「風前の灯である」という記事 |
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1915.04:第二次イープルの戦いで毒ガスが使用される |
1915.09:『タイムズ』紙にドイツ兵によるカナダ軍将校の十字架処刑の記事 |
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戦時中:ドイツ軍、チフス対策のために、可動蒸気害虫駆除トラック(Dampfdesinfektionwagens)を使用。ガス発生器(Vergaser)、ガス燻蒸(Vergasung)という用語が一般的 |
1916.03:『デイリー・テレグラフ』紙に窒息ガスによるセルビア人虐殺の記事 |
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1917.04:『タイムズ』紙にドイツの「死体処理施設」の記事 |
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1917.08:『ニューヨーク・タイムズ』紙にドイツ人がユダヤ人を殺しているという記事 |
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1918.11:第一次大戦休戦 |
1919-1927:合衆国で、ユダヤ人団体が、死に直面している中央ヨーロッパと東ヨーロッパの500万−600万人のユダヤ人を救うための募金キャンペーンを展開 |
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1919.10:『アメリカン・ヘブライ』紙に「600万人が…死にかけている」という記事 |
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1920年代:ドイツ、チクロンという効率的な害虫駆除剤および害虫駆除室(Entwesungskammern)の開発 |
1920.05:『ニューヨーク・タイムズ』紙に「飢えと熱病に苦しむ600万人」という記事 |
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1920年代:アメリカの歴史学会で第一次世界大戦に関する歴史的修正主義 |
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1933.01:ドイツで民族社会主義政権成立 |
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1933.03:ダッハウ収容所開設 |
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1935:ニュルンベルク法 |
ホロコースト正史 |
関連事件 |
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1938.09:ミュンヘン危機 |
1938.09:ロンドンで、毒ガス攻撃を想定して、ガスマスクを大量に配布 |
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1938.10:H. G. ウェルズ『宇宙戦争』がラジオ放送、宇宙人による毒ガス攻撃の恐怖から集団パニック |
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1938.11:水晶の夜 |
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1939.09:第二次大戦勃発 |
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1940.06:アウシュヴィッツ収容所開設 |
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1941.05:副総統へス、単独渡英 |
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1941.06:独ソ戦勃発 |
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1941.07:ハイドリヒあてのゲーリング書簡、「ユダヤ人問題の最終解決」 |
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1942.01:ヴァンゼー会議 |
1942.05:「在ポーランド・ユダヤ人労働者同盟」報告に移動式ガス室、ガス処刑が登場 |
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1942.06:BBC放送、「在ポーランド・ユダヤ人労働者同盟」報告の内容を報道 |
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1942.06:『デイリー・テレグラフ』紙に、「在ポーランド・ユダヤ人労働者同盟」報告にもとづく移動ガス室の記事 |
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1942.07:トレブリンカ収容所開設 |
1942.07:亡命ポーランド政府の英字新聞にベウゼッツの電気処刑施設の記事 |
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1943.08:ドイツ外務省ルター「覚書」、ドイツのユダヤ人移送政策 |
1942.09:BBC放送で、トーマス・マンが「ガス処刑」に言及する反ドイツ宣伝放送 |
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1942.11:世界ユダヤ人会議議長ワイズ、ドイツ人によるユダヤ人の死体の石鹸、脂肪、肥料への加工に言及 |
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1942.12:連合国間情報委員会、ヘウムノとベウゼッツの電気処刑、ガス処刑の報道 |
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1942末:アメリカ・ユダヤ人会議の刊行物に、ドイツの死体処理工場の記事 |
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1943.01:アメリカの『ニュー・リパブリック』紙にドイツの人間石鹸・肥料工場の記事 |
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1943.02:ドイツ、カチンの森でポーランド軍将校の虐殺死体を発見、国際的法医学調査団を招請 |
1943.03:のちのイスラエル初代大統領チャイム・ワイツマン、ユダヤ人大量殺戮への連合国の道義的責任に言及 |
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1943.03:ビルケナウの焼却棟稼働開始 |
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1943.04:ドイツ、詳細な法医学的検証にもとづいて、カチンの虐殺はソ連によると公表 |
1943.06:ソ連、ドイツ軍捕虜とソ連人協力者に対する戦犯裁判(クラスノダル)を開いて、ドイツによる「殺人ガス車」の使用を告発 |
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1943.10:SS長官ヒムラーのいわゆるポーゼン演説 |
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1943年秋:トレブリンカ収容所閉鎖 |
1943.11:ソ連、キエフ郊外のバビー・ヤールでの「虐殺」事件を告発 |
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1943.12:ソ連、ドイツ軍捕虜とソ連人協力者に対する戦犯裁判(ハリコフ)を開いて、ドイツによる「殺人ガス車」と「殺人ガス室」の使用を告発 |
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1944.02:イギリス情報省、枢軸国の虐殺告発宣伝の促進を指示 |
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1944.05:『ニューヨーク・タイムズ』紙、「浴室」に偽装された「殺人ガス室」に言及 |
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1944.07:ソ連軍、マイダネクを占領 |
1944.08:マイダネク収容所に関するポーランド・ソ連調査委員会報告、「殺人ガス室」の存在を強調、マイダネク犠牲者数138万人 |
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1944.11:アウシュヴィッツからの逃亡者ヴェツラーとヴルバが執筆した戦争難民局報告が公表され、アウシュヴィッツ・ビルケナウでの大量ガス処刑が全世界に喧伝される |
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1944.12:ソ連の作家エレンブルク、英字新聞『ソ連戦争ニュース』で、ユダヤ人犠牲者600万人という数字 |
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1945.01:ソ連の作家エレンブルク、英字新聞『ソ連戦争ニュース』で、ふたたびユダヤ人犠牲者600万人という数字に言及 |
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1945.01:ソ連軍、アウシュヴィッツを占領 |
1945.02:ソ連の『プラヴダ』紙に、B. ポレヴォイのアウシュヴィッツの「死の工場」の記事 |
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1945.02:ソ連側、トレブリンカ看守レレコの「証言」にもとづいて、トレブリンカなどラインハルト作戦収容所での「ガス処刑」物語を作成 |
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1945.03:ソ連の作家エレンブルク、「今では、ドイツが600万人のユダヤ人を殺したことを世界が知っている」と発言 |
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1945.04:イギリス軍、ベルゲン・ベルゼンを占領 |
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1945.04:アメリカ軍、ダッハウ、ブッヘンヴァルトを占領 |
1945.04:アメリカ軍、ダッハウ収容所の看守を機関銃で集団銃殺 |
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1945.05:合衆国陸軍情報部秘密報告、ドイツの「人間石鹸工場」に関するポーランド側の資料を引用 |
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1945.05:アウシュヴィッツに関するソ連調査委員会報告、アウシュヴィッツ犠牲者400万人 |
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ホロコースト正史 |
関連事件 |
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1945.04:ヒトラー総統、自死 |
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1945.05:ドイツ、降服 |
1945.05:SS将校W. ヘットル、逮捕されると情報提供を申し出る |
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1945.05:マウトハウゼン収容所長ツィエライスのマウトハウゼンでの大量ガス処刑「自白」[自白直後に死亡]、 |
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1945.04-05:SS将校K.
ゲルシュタイン、逮捕拘禁中に、いわゆるゲルシュタイン「自白」を執筆 |
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1945.07:ゲルシュタイン、獄中にて死亡(自殺?) |
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1945.09:クラマー、グレーゼなどに対するベルゼン裁判(〜11) |
1945.09:ベルゼン裁判で、リトヴィンスカの「殺人ガス室」目撃証言、ビムコのアウシュヴィッツ犠牲者400万人、「殺人ガス室」目撃証言 |
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1945.10:ベルゼン裁判で、ベンデルの「殺人ガス室」目撃証言 |
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1945.10:ロベルト・ライ、獄中で自死 |
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1945.11:ベルゼン裁判、クラマー、グレーゼたちに死刑判決 |
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1945.11:ニュルンベルク裁判開始 |
1945.11:ニュルンベルク裁判で、「人間石鹸製造工場」「ザクセンハウゼンのペダルで動く頭脳破壊装置」、「可動骨粉砕装置」、「ギロチン」、「ベルゼンの大量電気処刑」などありとあらゆる虐殺アイテムが登場 |
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1945.11:ニュルンベルク裁判のヘットル供述書、「600万人のユダヤ人が死亡したことをアイヒマンから聞いた」 |
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1945.12:ポーランド、トレブリンカの蒸気殺人室に触れた報告書を、ニュルンベルク裁判に提出 |
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1945:W. グロスマン『トレブリンカの地獄』、トレブリンカの犠牲者300万人 |
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1946.01:ニュルンベルク裁判、ダッハウのガス室についてのブラハ証言 |
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1946.03:アウシュヴィッツ所長ヘス、イギリス軍によって逮捕・拷問、いわゆるヘス「証言」、「自白」の登場 |
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1946.03:チクロンB販売会社社長ブルーノ・テシュ裁判 |
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1946:ダッハウ裁判、マルメディ裁判など(〜1950) |
1946.07:ニュルンベルク裁判で、イギリス首席検事ショークロス、ダッハウ、ブッヘンヴァルト、マウトハウゼン、マイダネク、オラニエンブルクでのガス室と焼却棟に言及 |
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1946:連合国側、ダッハウ裁判、マルメディ裁判で被告に対する拷問を多用 |
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1946:クラクフでヘスに対するアウシュヴィッツ裁判(〜1947) |
1946:クラクフの法医学調査団、毛髪や物品の中にシアン化合物の残余物が検出されたことにもとづいて、シアン化水素を使った「殺人ガス処刑」が行なわれたと断定 |
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1946年初頭:オリガ・レンギエル『私はヒトラーの焼却炉から生き残った(5つの煙突)』、ミクロス・ニーシュリ『アウシュヴィッツ:医師の目撃証言』。 |
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1946年夏:ソ連、カチンの虐殺はドイツの仕業であるとのパンフを刊行 |
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1946.10:アメリカ軍主宰のニュルンベルク裁判(NMT)開始(〜1949.04) |
1946.11:ニュルンベルク裁判判決、「ガス処刑」説と「人間石鹸製造」説などを「確証」 |
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1947.01:ゲーリング自死、カイテルなど絞首刑 |
1947:ニュルンベルク裁判(NMT)ケース4「強制収容所事件」で、Vergasungskeller(ガス処理室)、Entwesungskammern(害虫駆除室)という単語が登場するドイツ側文書を、「殺人ガス室」の実在を示す文書資料的証拠として採用 |
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1947.04:アウシュヴィッツ所長ヘス、処刑 |
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1949.02:アメリカ人判事ローデン、マルメディ裁判でのドイツ人被告に対する拷問を告発 |
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1950:P. ラッシニエ、『ユリシーズの夢』の中で、ブッヘンヴァルトには『殺人ガス室』はなかったと主張 |
1951:L. ポリャーコフ『憎悪の収穫』、アウシュヴィッツの犠牲者数200万人程度と見積もる |
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1956:フランス映画「夜と霧」、「900万人」のアウシュヴィッツ・ビルケナウの死者とのナレーション |
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1956:G. ライトリンガー『最終解決』 |
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1958:エリー・ヴィーゼル『夜』 |
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1958.12:いわゆる「ナチス犯罪追及センター」ルートヴィヒスブルクに設置 |
ホロコースト正史 |
関連事件 |
1960:現代史研究所M. ブロシャートの書簡、「ダッハウでも、ベルゲン・ベルゼンでも、ブッヘンヴァルトでも、ユダヤ人その他の囚人はガス処刑されなかった。ダッハウのガス室は完成しておらず、稼動しなかった」 |
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1961:イェルサレムでアイヒマン裁判 |
1961:アイヒマン裁判で、ゲルシュタインの「自白」が証拠として採用 |
1961:P. ラッシニエ、ゲルシュタインの「自白」に疑問 |
1961:R. ヒルバーグ『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』(初版)、ゲルシュタインの「自白」をたびたび引用。 |
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1962:エリー・ヴィーゼル『夜』のドイツ語版、オリジナルの「焼却棟」という単語をすべて「ガス室」と独訳 |
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1963:03:フランクフルトのアウシュヴィッツ裁判被告アウシュヴィッツ元所長ベーア、獄中で死亡 |
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1963:H. アレント『イェルサレムのアイヒマン』 |
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1963.12:フランクフルトでのいわゆるアウシュヴィッツ裁判(〜1965.08) |
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1964.10:デュッセルドルフでのいわゆるトレブリンカ裁判(〜1965.09) |
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1964:P. ラッシニエ、『ヨーロッパ・ユダヤ人のドラマ』の中で、ガス室とユダヤ人絶滅物語を批判 |
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1964.09:元武装SS将軍K.
ヴォルフ、ユダヤ人殺害関与の咎で懲役15年 |
1965:フランクフルトのアウシュヴィッツ裁判判決文、「犠牲者の死体、検死報告、死亡時期・死亡原因に関する専門報告、犯罪証拠としての殺人武器などの、通常の殺人事件裁判に必要なものほとんどが欠けていた」 |
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1965:J. コシンスキ『異端の鳥』[のちに偽書であることが暴露] |
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1966:アウシュヴィッツ博物館、ポーランドの会社「ハイドロコプ」に、アウシュヴィッツの発掘調査を依頼(結果は未公表) |
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1967.06:第三次中東戦争勃発 |
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1969:15年の刑のK. ヴォルフ、健康上の理由から釈放 |
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1970.05:デュッセルドルフでの第二次トレブリンカ裁判(〜1970.12) |
1971:『ユダヤ百科事典』の項目、「ガス室[複数形]はダッハウに建設されたが、使われなかった」、「囚人たちは、ガス室がマウトハウゼンで建設されるまで、ハルトハイムの安楽死施設で注射によって殺された」 |
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1972.01:ウィーンでアウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟建築技師デヤコとエルトルに対する裁判 |
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1972.03:デヤコ・エルトル裁判、焼却棟の地下室はガス室ではありえない、ガス室に改造することもできないとの専門家報告にもとづいて、二人に無罪判決 |
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1972:R. ハーウッド『600万人が本当に死んだのか?』 |
1973:ヴェレール『ヴィシー時代の黄色い星/ドランシーからアウシュヴィッツまで』、アウシュヴィッツの犠牲者総数を200万人と見積もる |
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1974:ギッタ・セレニイ『暗闇の中へ』 |
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1976:A. バッツ『20世紀の詐術』 |
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1977:D. アーヴィング『ヒトラーの戦争』、ユダヤ人絶滅へのヒトラーの関与を否定 |
1977:フランケ・グリクシュ「再定住」報告、「再定住」=「絶滅」、ヒトラーの関与を「立証」する文書としてはじめて登場(C. Sydnorの研究書) |
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1978:W. シュテークリヒ『アウシュヴィッツの神話』 |
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1978.12:R.
フォーリソン、「ガス室の問題」など、ガス処刑の技術的不可能性についての論稿を『ル・モンド』紙に寄稿 |
1978:アウシュヴィッツ博物館のF.
ピペル、「収容所が存在していたほぼ5年間に、約400万人が、疫病、処刑、ガス室での大量殺戮によって死んでいった」 |
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1978年末:フランスのメディア、反フォーリソン・キャンペーン |
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1978:国際ダッハウ委員会『ダッハウ強制収容所、1933−1945年』、「シャワー室に偽装されたガス室は、稼動したことがなかった。絶滅予定の数千の囚人は、ガス処刑のために、他の収容所か、リンツ近くのハルトハイム城に送られた」 |
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1979.01:西ドイツでTV映画『ホロコースト』放映 |
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1979:H. ディヴァルト『ドイツ史』 |
1979.02:L.
ポリャーコフら34名のフランス人歴史家、「このような大量虐殺が技術的にどのように可能であったのかを自問する必要はない。それは起こったから技術的に可能であったのである」という声明を『ル・モンド』紙に発表 |
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1979.03:『ル・モンド』紙に、ゲルシュタインの「自白」に疑問を寄せる読者の声 |
1979.03:L. ポリャーコフ、ヴィダル・ナケ、ゲルシュタインの「自白」には、正確さを欠く箇所があるとしても、その「本質部分に関して異議のないもの」と信じていると回答 |
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1979:F. ミューラー『アウシュヴィッツのガス室での3年間』 |
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1979.07:西ドイツ議会、ナチス犯罪の時効撤廃 |
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1981:いわゆるフォーリソン裁判 |
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1982:R. フォーリソン、『ピエール・ヴィダル=ナケへの回答』 |
1982.06:ソルボンヌで「ナチス・ドイツのユダヤ人の絶滅」と題する国際シンポジウム開催、ユダヤ人絶滅に関する意図派・機能派 |
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1982:J.-C. プレサック、焼却棟WとXは犯罪目的をもっていないと主張[のちに撤回] |
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1982:イェフダ・バウワー『ホロコーストの歴史』、「マウトハウゼンではガス処刑は行なわれなかったけれども、多くのユダヤ人、ならびに非ユダヤ人が、ナチスが「労働による絶滅」と呼んだプロセスの中で死んでいった」「のちに撤回」 |
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1982:J. フレミング『ヒトラーと最終解決』(ドイツ語版)、フランケ・グリクシュの「再定住」報告をおおきく取り上げる |
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1983:フォーリソン裁判控訴審 |
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1983:W. サニング『ヨーロッパ・ユダヤ人の分解』、戦時中のユダヤ人の損失を130万程度と見積もる |
1983:G. ヴェレール、アウシュヴィッツの犠牲者を約150万人に修正 |
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1984:カリフォルニアの歴史評論研究所の建物が放火 |
1984:シュトゥットガルトで「第二次世界大戦におけるユダヤ人の殺戮」をテーマとする歴史家会議、絶滅の文書命令の不在を確認 |
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1985.01:カナダのトロントでいわゆるツンデル裁判(第一次) |
1985.01:ツンデル裁判でR.
ヒルバーグがホロコースト正史の第一人者として、R. ヴルバがガス処刑目撃証人として証言し、反対尋問もうける |
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1985:映画『ショアー』(C.
ランズマン) |
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1985:R. ヒルバーグ『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』(第二版)、ヒトラーの絶滅命令、ゲルシュタインの「自白」などのあつかいを大幅修正 |
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1985:ドイツ刑法改定、「ナチによる民族虐殺の否定および矮小化に関する処罰条項」、いわゆる「アウシュヴィッツ嘘」法 |
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1985.06:ナント大学、ゲルシュタインの「自白」に対する史料批判をまとめたH.
ロックの学位請求を認める |
1985:P. ヴィダル=ナケ、焼却棟Tがポーランド人による「戦後の再建」であることを認める |
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1986.春以降:フランスのメディアでH.
ロックに対する中傷キャンペーン |
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1986:ドイツで「歴史家論争」 |
1986.07:フランス政府、H.
ロックの学位請求を認めた前年度の決定を無効とする |
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1986:コーゴン、ラングバイン、リュッケルル『ナチスの毒ガスによる大量殺戮』[ホロコースト正史の古典、アウシュヴィッツ委員会議長ラングバイン(共産主義者)とドイツの「ナチ・ハンター機関」長リュッケルルの共著] |
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1987.02:イェルサレムでのデムヤンユク裁判 |
1987:イェルサレムでのデムヤンユク裁判、トレブリンカ犠牲者875000人と「確定」 |
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1987.08:副総統へス、獄中で自死(?) |
1987:P. ヴィダル=ナケ『記憶の暗殺者たち』 |
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1987:I. アラド『ベウゼッツ、ソビボル、トレブリンカ:ラインハルト作戦収容所』 |
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1987:クラウス・バルビー裁判 |
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1988.02:F. ロイヒター・チーム、アウシュヴィッツ・ビルケナウ、マイダネクを調査 |
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1988.04:デムヤンユク裁判、デムヤンユクに死刑判決 |
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1988.04:ロイヒター報告(第一次) |
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1988.04:カナダのトロントでいわゆるツンデル裁判(第二次) |
1988:アルノ・メイアー『空はなぜ暗くならなかったのか』、「ガス室研究の資料は乏しく信頼できない。知られているものの大半は、戦後の裁判でのナチスの役人や処刑人の供述、生存者と傍観者の記憶にもとづいている。証言はきわめて複雑な主観的要素によって影響されることがあるので、注意深く検証しなくてはならない」 |
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1989:プレサック『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』 |
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1989.03:F. ロイヒター・チーム、ダッハウ、ハルトハイム、マウトハウゼンを調査 |
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1989.06:ロイヒター報告(第二次) |
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1989.11:ベルリンの壁崩壊 |
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1989:ソ連政府、カチン事件がソ連の仕業であることを公式に認める |
1990:ロイヒター報告に対抗するために、アウシュヴィッツ博物館から依頼されたクラクフ法医学研究所報告「未公表」 |
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1990:フランス、いわゆるファビウス・ゲイソ法発布、ホロコースト修正主義を非合法化 |
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1990:犠牲者数400万人と記したアウシュヴィッツ・ビルケナウの記念碑撤去 |
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1990:ヤド・ヴァシェム文書館長シュムエル・クラコフスキー、イェフダ・バウワー教授。「ナチスが人間の脂肪から石鹸を作ったことはなかった」と認める |
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1990:『ホロコースト百科事典』の項目、「ダッハウでは、毒ガスを使った大量絶滅計画はなかった…。1942年、ダッハウにガス室が作られたが、使われたことはなかった」、「[マウトハウゼンの]ガス室は[…]シャワー室に偽装されていた[…]。[何名かのチェコ人女性が]集団でガス室に連れて行かれた」 |
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1991:未公表であったクラクフ法医学研究所報告が、修正主義者の手で公開 |
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1991.07:G. ルドルフ、アウシュヴィッツ・ビルケナウを調査 |
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1991.12:ソ連邦崩壊、旧ソ連文書館資料一般公開へ |
1991:アウシュヴィッツ博物館F.
ピペル、アウシュヴィッツ犠牲者約110万人と見積もる |
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1991:W. ベンツ『民族殺戮の規模』、トレブリンカ犠牲者約107万人 |
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1992:イェフダ・バウワー、ヴァンゼー会議が絶滅を決定したという説を「馬鹿げた話」と呼ぶ |
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1992.01:最初のルドルフ報告 |
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1992:オーストリア技術者協会会長リュフトルによる報告、ガス処刑の技術的不可能性 |
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1992.09:D. コール、F. ピペルにインタビュー・録画 |
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1993:イェルサレムでのデムヤンユク控訴審、デムヤンユクの無罪 |
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1993:フォーリソンの有名な格言「穴がなければホロコーストもない」 |
1993.03:マックス・プランク協会、ルドルフ報告と研究所とは無関係であると声明 |
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1993.03:ドイツ報道局(dpa)、マックス・プランク協会の声明を歪曲報道 |
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1993:プレサック『アウシュヴィッツの焼却棟』(フランス語版)刊行 |
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1993:D. リップシュタット『ホロコーストの否定』 |
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1993.12:映画『シンドラーのリスト』(S.
スピルバーグ) |
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1994.05:マックス・プランク協会声明、「第三帝国の強制収容所のガス室でユダヤ人が大量に殺されたことは、もはや証拠を必要としない常識の歴史的事実であるとの司法的見解を遵守する」 |
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1994:プレサック『アウシュヴィッツの焼却棟』(ドイツ語版) |
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1994:ドイツ、民衆扇動罪改訂、ホロコースト否定を民衆扇動罪に |
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1994:修正主義的論文集『現代史の基礎』[その後、ドイツ国内で出版禁止] |
1994:検査対象としてプロシアン・ブルーを除外したクラクフ法医学研究所報告(第二)公表 |
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1995.01:マルコポーロ事件 |
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1995:旧ドイツ国防軍兵士R.
エルシュトナー、祖国に対する嘘と中傷に抗議して自死 |
1995:アウシュヴィッツ・ビルケナウの記念碑、犠牲者数を150万人に修正 |
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1995:ビンヤミン・ヴィルコミルスキー『断片:戦時中の幼少期の記憶から1939−1948年』[のちに偽書であることが暴露] |
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1995:ドイツ国防軍犯罪展覧会[正体不明の写真多数、のちに中止] |
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1995:スイス、いわゆる反人種差別法、ホロコースト修正主義者を抑圧する法的根拠 |
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1995:R. ヒルバーグ、ディーゼル排気ガス処刑説、を否定 |
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1995:プレサック、「強制収容所についてのホロコースト正史は誤り、誇張、削除、嘘で際立っている」 |
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1996:フランスの歴史家F. バイナク、ガス室の実在を立証する証拠がないことを認める |
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1996:D. ゴールドハーゲン『ヒトラーの意図的な処刑人』、ホロコーストの力点を東部戦線での虐殺行為に移動 |
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1998:化学者R. グリーン、「アウシュヴィッツの化学」などの論文でロイヒター報告、ルドルフ報告を批判[ルドルフの反批判] |
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1999:映画『ミスター・デス(F.
ロイヒター Jr.の興亡)』(E. モリス) |
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1999:J. ツィンマーマン、「アウシュヴィッツの死体処理」などの論文でアウシュヴィッツの死体処理能力に関するマットーニョ説を批判[マットーニョの反批判] |
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1999:P. ノヴィック『アメリカの生活におけるホロコースト』 |
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2000:修正主義的論文集『ホロコーストの解剖』[その後、ドイツ国内で出版禁止] |
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2000.01:ロンドンでアーヴィング・リップシュタット名誉毀損裁判(04:ア―ヴィング敗訴) |
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2000:オーストリアの技師R.
クレーゲ,地中レーダを使ってトレブリンカ収容所跡を考古学的調査 |
2000.01:アーヴィング裁判で、ペルトがリップシュタット側証人として証言(専門家報告) |
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2000:J. ツィンマーマン『ホロコースト否定』 |
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2000:V. スヴォーロフ『自殺』 |
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2000:N. フィンケルスタイン『ホロコースト産業』 |
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2000.04:ポーランドのD.
ラタイチャク教授、修正主義的出版物出版の咎で停職 |
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2000.05:修正主義の咎で告発されたW. プファイフェンベルガー教授、自殺 |
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2001:J. ホフマン『スターリンの絶滅戦争』 |
2002:ペルト『アウシュヴィッツ事件――アーヴィング裁判からの証拠』 |
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2002:F. マイヤー、ブンカー主犯説、アウシュヴィッツ犠牲者数約50万人説を唱える |
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2005:マイダネク博物館調査部長T.
クランツ、マイダネク収容所の犠牲者数を79000人に大幅下方修正。 |
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