試訳:わが父ルドルフ・ヘス総統代理の生と死

――父親の名誉のための息子の戦い――

W. R. ヘス

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2006年5月27日

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Wolf Rüdiger Hess, The Life and Death of My Father, Rudolf Hess, The Journal of Historical Review, volume 13 no. 1を「わが父ルドルフ・ヘス総統代理の生と死」と題して試訳したものである。(文中のマークは当研究会が付したものである。)

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online: http://www.ihr.org/jhr/v13/v13n1p24_Hess.html

[歴史的修正主義研究会による解題]

 総統代理ルドルフ・ヘスはニュルンベルク裁判において、終身刑となり、1987年にベルリンのシュパンダウ刑務所で不可解な死を遂げた。彼の息子W. R. ヘスが、父の名誉を回復するために、彼の生涯とその不可解な死について論じている。

 

 

 私の父が1941年5月10日にスコットランドに飛んだとき、私は3歳半にすぎませんでした。ですから、父についての記憶はほんのわずかです。その一つは、私を庭のプールから引き上げてくれた父の記憶です。また、こうもりが家の中に入ってきて、私が泣き叫んでいたとき、父が優しい声をかけてくれて、こうもりを窓のところに持っていき、夜の暗闇の中に放してやったときのことを記憶しています。

 その後、少しずつですが、自分の父がどのような人物であったのか、歴史の中でどのような役割を果たしたのかを学んでいきました。そして、父がベルリンのシュパンダウの連合国軍事刑務所で、生涯の半分にあたる40年間を囚人としてすごしたことは殉教に値すると理解するようになりました

 

<エジプトとドイツでの成長>

 父は、1894年4月26日、尊敬されており裕福な商人であったフリッツ・ヘスの長男として、エジプトのアレクサンドリアで生まれました。ヘス一家は、この当時ドイツ帝国の繁栄、地位、自信を体現していました。また、イギリスその他の列強の妬み、恐れ、競争心を呼び起こすすべても体現していました。

 フリッツ・ヘスは、地中海に面した、美しい庭のある邸宅を持っていました。ドイツのフィヒテルゲビルゲ地方のヴンジーデル出身のヘス一家は、バイエルン地方のライヒオルドスグリュンにも家を持っており、そこで夏期休暇をすごしていました。この豊かさをもたらしていたのは、フリッツ・ヘスが父親から相続し、彼自身もかなりの成功を収めていたHess & Co.商社でした。

 長男ルドルフは、アレクサンドリアのドイツ人プロテスタント学校の生徒でした。父の将来は、一家の伝統と父親の指導によって定められているかのようでした。すなわち、父は資産と会社を相続し、それゆえ、商人になるはずでした。しかし、若きルドルフは、このような人生に魅力を感じていなかったのです。

 父は商業ではなく学問、とくに物理学と数学に傾倒していました。彼は、1908年9月15日から1911年の復活祭までドイツの寄宿舎学校バド・ゴーデスベルク教育学校に在席していますが、この分野での能力は顕著でした。にもかかわらず、父はルドルフが、スイスのノイシャテルの上級商業学校の入学試験に合格して、そこで中等教育を受け、そのあとで、ハンブルクの商社の実習生となるように人生の道筋を定めていました。

 

<前線での従軍>

 この計画は丹念に作られていましたが、まもなく、変更を余儀なくされます。ヘス一家は1914年の第一次世界大戦の勃発をバイエルンの別荘で迎えました。当時20歳の父は、躊躇せず、バイエルンの砲兵隊に志願しました。そのあとすぐ、父は歩兵隊に移され、1914年11月4日までには、前線であまり訓練を受けていない徴募兵として勤務し、ソンムでの最初の塹壕戦に参加しました。

 この当時のドイツの青年の大半がそうであったように、父も、ドイツの大義がまったく正当であると考えており、熱狂的な愛国者として前線に向かい、悪党であるイギリス・フランス両軍を打ち負かそうとしていました。父は6ヶ月の前線勤務の後、伍長代理に昇進しました。彼は、鉄条網、塹壕、砲弾の落下した跡といった流血の戦闘の中で、きわめて沈着、勇敢、大胆に振る舞いました。

 父は、1917年までに中尉に昇進していましたが、その「キャリア」の代償も支払っていました。1916年には重傷を負い、また、1917年にも、肺に銃弾を受けていたのです。

 

<屈辱的で復讐心に燃えた講和>

 父は、厳しい前線勤務の経験と負傷によって精神的に傷ついていましたが、公式軍隊記録があからさまに述べているように、1918年12月12日、すなわち、コンピエーヌの森での屈辱的な休戦ののちに、「軍務を解かれ給付無しで、ライヒオルドスグリュンに戻って」いきました。つまり、給料も、年金も、傷害援助金もなかったということです。

 一家はすでに戦時中に、イギリスによる没収のために、エジプトでのかなりの財産を失っていました。そして、第一次世界大戦でのドイツ帝国の敗戦は、ヘス一家の生活を急転させました、ひいては破局をもたらしました。

 ただし、父にとっては、敗戦と革命による祖国の苦難の方が、個人の不幸よりもはるかに重要でした。戦勝国は、休戦協定にもかかわらず、1919年6月にヴェルサイユ条約が批准されるまで、ドイツに対する飢餓封鎖を維持し続けました。条約は戦勝国が命令した復讐心に燃えた「絶滅の平和」に他ならなかったのですが、ドイツ国民議会は、戦争継続の脅迫のもとで、それを受け入れたのです。

 1919年5月12日、社会民主党のシャイデマン首相は、その後有名となった印象的な演説の中でこう述べています。

 

「忌憚なくお話させていただきたい。この膨大な条約文書の中では、数百の条文が『ドイツは放棄する、放棄する』というテキストから始まっている。この邪悪で流血に満ちた悪のハンマーによって、偉大なる国民が、仮借のない分割を受け入れ、その奴隷化を承諾し、自分たちが無価値であることを認めるように強要されている。しかし、この条約は、将来のことを定めた協定文ではありえない。…諸君たちにお尋ねしたい。一体誰が、このような条件を受け入れることができるのか?このような手かせ足かせにわれわれの身をゆだねてしまうような手は萎えてしまうのではないのか?さらに、われわれは国際資本主義の奴隷としては足らなく果てはならないのである。全世界のために、無償で働かなくてはならないのである。

 この条約が実際に調印されれば、ヴェルサイユの戦場に残るのはドイツの死体だけではないであろう。高貴なる死体、すなわち、民族自決権、自由な国民の独立、連合国が掲げて戦ってきた素晴らしい理念、とくに、条約の条件への忠誠の信仰が戦場に身を横たえるのである。」

 

 シャイデマンの言葉は、連合国政府の「征服されたものへの災難」の結果として、繁栄した統一国家ドイツの存在自体が危うくなることを明確にしています。当時の慧眼な人々が気づいていたように、「ヴァイマール共和国」(1919-1933)は、1919年8月11日に、ドイツ政府が正式に採択した政体ではありませんでした。1919年6月28日の「命令された」ヴェルサイユ条約が押し付けたものでした。この条約のために、「ヴァイマール共和国」時代に数多く登場した政府は、いつも同じような難題に直面しました。政府は、抑圧的で破滅的な条項の実施を強要され、そのために、戦勝国の「代理人」として行動したのです。政府は、それが代表する国民の信用を失わざるをえず、一種の政治的自殺を行なっていたのです。

 

<ヒトラーとの出会い>

 しかし、一人の政治指導者が、最初から、自分と自分の党は脅迫に屈しないことを約束していました。この人物がアドルフ・ヒトラーであり、彼の政党が民族社会主義ドイツ労働者党でした。私の父も多くの同僚市民と同じく、ドイツで進行している事態にひどいショックを受け、ヴェルサイユの「口述命令」と戦う決意をしました。前線から戻ってきたとき、ミュンヘンで目撃した破局的な事態にも促されました。1914年、父は同志の多くと同じく、自由で誇りのある強国ドイツのために戦争に身を投じました。しかし、1919年、26歳の父は共産主義者とユダヤ人の牛耳る「ソヴィエト共和国」がバイエルンに樹立されるのを目の当たりにしなくてはなりませんでした。父の目には、軍事的敗北が国家的破局の道を切り開いたと写ったのです。

 父は、少しあとの従妹あての手紙の中で、この当時の自分の感情を次のように活写しています。

 

「誇るべき祖国がおちいっている状況の中でひどく呻吟しています。私は、自分と同年代の人々が戦った、泥土・汚泥のヴェルダン、アルトワその他の地獄の戦場で、わが祖国の旗の名誉のために戦ってきました。あらゆるかたちの名誉の戦死を目の当たりにし、激しい砲撃の中で数日間を耐え忍び、フランス兵の死体の横たわる塹壕の中で眠りをとってきました。腹をすかし、苦しんできました。前線の兵士全員がそうでした。これらすべてが無駄となったのです。善良な人々の苦難はまったく無益なのでしょうか?あなたから、女性たちがどのようにやりくりをしなくてはならなかったのかを知りました。これらすべてが無駄となってしまうならば、途方もなく馬鹿げた休戦条件とその受諾が発表されたその日に、自分の頭を銃で撃つべきであったと、今でも後悔しています。そのとき、そのようなことをしなかったのは、いつの日にか、何らかの方法で、運命を逆転することができるという希望を抱いていたためです。」

 

 この時以来、父は、「運命を逆転する」ことができるという確信、この確信にもとづいて行動する決意に捉われたのです。1918−19年、辱められたドイツは、共産主義者の反乱に動揺させられ、「労働者・兵士ソヴィエト」という付け焼刃の政府に苦しめられていましたが、そのとき、父は、意気消沈していたにもかかわらず、民族再生の可能性に希望をかけ、そのために生涯を捧げようとしていたのです。

 ドイツを屈服させようとする試みに反対して戦おうと決意したとき、父の絶望感は、燃えるような憤激と憤怒に変りました。

 その結果、父は、最初から正確に感じ取っていたように、ヴェルサイユでドイツ国民に課せられた手かせ足かせの打破を目指した一つの政治勢力に必然的に引き寄せられました。数百万のドイツ人と同じように、父もこの運動の指導者に帰依したのです。ただし、その時期はほかの誰よりも早く、しかも、ほかの誰よりも献身的でした。父は、同僚市民とともに、戦いの大義、すなわち、ドイツ国民の諸権利の復活とヴェルサイユのくびきの打破の正当性を確信していたのです。

 民族社会主義ドイツ労働者党は、1919年1月、ミュンヘンで創設されました。ヒトラーはその数か月後に加入し、すぐに、一番有名な演説家となりました。父がヒトラーの演説をはじめて耳にしたのは、1920年5月、ミュンヘンのシュテルネッカー醸造所の隣の部屋で開かれていた小グループの夕方集会でのことでした。その晩、当時暮らしていた小さなゲスト・ハウスに戻ると、父は、隣の部屋の若い女性イルゼ・プレー、のちに結婚することになりますが、この女性に対して、「明後日、私と一緒に民族社会主義労働者党の集会に行きましょう。誰かが演説すると思いますが、その名前を思い出すことはできません。しかし、ヴェルサイユのくびきから私たちを解放してくれる人物がいるとすれば、彼がその人物です。この人物こそが私たちの名誉を回復してくれるでしょう」と熱狂的に話したのです。

 父は、1920年7月1日、この党の16番目の党員となりました。この時から、党の総統にゆっくりとではありますが確実に引き寄せられていったのです。父がヒトラーに帰依したのにはいくつかの理由があります。その一つは、現実の政策です。1921年の手紙の中でこう述べています。

 

「ヒトラーが、民族的再生が可能となるのは、われわれが国民大衆、とくに労働者を民族的覚醒の道に導くことに成功したときである、そして、これが可能となるのは、理性的で誠実な社会主義を介してだけであると確信しているのが、問題の核心です。」

 

 第二の理由は父の個人的な理由で、ヒトラーが雄弁であったことです。1924年の友人あての手紙の中で、父はこの才能の効果についてこう書いています。

 

「大衆集会の席上で、この人物のように、極左の旋盤工たちも右翼の経営者たちも等しく同じように熱狂させることができる人物を見つけだすことはできません。この人物は、集会をぶち壊しにやってきた1000名の共産主義者を、2時間で、国歌斉唱に立ち上がらせること(1921年のミュンヘンでそのようなことが起きました)ができますし、彼に敵対的な数百の企業家、大臣たちを、3時間で、自分に無条件に賛同させるか茫然自失状態に陥れることができるのです。」

 

 父は、ヒトラーこそがヴェルサイユのくびきを打破して、より良き未来を約束する政治的変化をもたらしてくれると確信していたのです

 民族社会主義ドイツ労働者党は選挙で大量の得票を獲得するまでは、バイエルンのちっぽけな政党で、政治の舞台でのヒトラーの役割も取るに足らないものでした。演説家としてのヒトラーの才能でさえもこの状況を変えることはできませんでした。ヴェルサイユ条約の存在にもかかわらず、ドイツに正常な事態が戻ってきたと思われていた1924年から1929年までの時期、ヒトラーはほとんど知られていませんでした。唯一の例外は1923年11月9日の「ビアホール一揆」です。これは、バイエルンの政府を倒そうとする試みでしたが、失敗しました。ヒトラーはこの一揆の件で、少しのあいだ有名になりました。父もこの一揆に際して、バイエルン州政府の3名の大臣を逮捕しました。ヒトラーはこの一致の咎でランツベルク刑務所に投獄され、父もそのあとを追いました。

 

<政治闘争での勝利>

 ヒトラーと父が、後年党の指導部のイメージに刻印される特別な相互信頼関係を築きあげたのは、この幽閉時代のことです。ヒトラーが独創的な著作『わが闘争』を執筆したのもこのランツベルクにおいてでした。父が原稿を編集・校正したのです。ヒトラーは1924年12月20日に釈放され、その4ヵ月後の1925年4月、父はアドルフ・ヒトラーの秘書となりました。月給500マルクでした。

 1930年代初頭の大恐慌の衝撃とヴァイマール共和国の政治的分解は、ヒトラーが1933年1月に権力を奪取する道を切り開きました。軍隊組織に似た規律にもとづいてうまく組織された宣伝キャンペーンのおかげで、民族社会主義労働者党は、広範な大衆から多くの得票を獲得していきました。雇用の増加とともに、多くの失業労働者も民族社会主義労働者党を支持するようになっていきました。その多くはかつては強力なドイツ共産党の支持者でした。

 父は、1933年1月の興奮の日々、ヒトラーのそばを片時も離れませんでした。38歳になった父は、1933年1月31日、すなわちヒトラーが首相となった翌日に書かれた妻あての手書きの手紙の中で、この勝利の瞬間における自分の感情を次のように描いています。

 

「夢を見ているのか、目を覚ましているのか、それが問題です。私は、ヴィルヘルム広場の首相官邸にいます。年長の役人が柔らかな絨毯の上を音もたてずにやってきて、『帝国宰相』のための文書を届けてきました。『帝国宰相』は閣議を主宰し、政府の最初の施策を準備していました。官邸の外では、民衆たちが押し合い圧し合いしながら、『彼』の登場を辛抱強く待っています。彼らは国歌を歌い始め、『総統万歳』とか『帝国宰相万歳』と叫んでいます。私は、身震いし始め、しっかりと歯をかみしめました。『総統』が『帝国宰相』として大統領との会談を終えて、戻ってきて、待合室にいる党幹部の中から私をカイザーホフ・ホテルの寝室に呼び出したときにも、これが現実なのかどうか信じられなくて、やはり、身震いして歯をかみしめ始めました。

 私は、物事というものは最後の瞬間に悪い事態となると確信していました。総統も、閣内の古狐[連立のパートナーでドイツ国家国民党議長フーゲンベルクのこと]のために、何回か危うい事態が生じたことを認めています。

 夜のたいまつ行進は嬉しそうな老紳士[ヒンデンブルク大統領]の前を通りました。彼は、突撃隊の最後の舞台が真夜中に通り過ぎるまで、立ち尽くしていました。総統への歓呼の声と、大統領への歓呼の声が混じっています。男女の隊列が何時間も進み、自分たちの子供の顔を総統のほうに向けていました。少年少女の顔は、首相官邸の窓のところに『彼』の存在を認めると、輝きました。あなたがその場にいなかったことが非常に残念です。

 総統は驚くほど自信に満ちています。そして、時間に正確です。いつも、決められた時間の数分前には姿を現します。私は、時計を購入しようと決めなくてはなりませんでした。新しい時代、新しいタイム・スケジュールがはじまったのです。」

 

 この文章は、「帝国宰相」とのレターヘッドの入った便箋に書かれています。しかし、父はこのゴシック体のレターヘッドをペンで消しています。翌日、続きの手紙の中で、父は「勝利への一歩を歩み始めた。困難な闘いの第二期が始まった」と締めくくっています。

 1933年4月21日、ヒトラーは父を民族社会主義ドイツ労働者党総統代理に指名しました。父の仕事は、ヒトラーの代理として与党を率い、その民族的・社会的諸原則を維持することでした。8ヵ月後の1933年12月1日、ヒンデンブルク大統領はヒトラーの求めに応じて、父を無任所大臣に任命しました。1939年9月に戦争が始まると、ヒトラーはゲーリング国家元帥を首長代理に任命していますが、それによって、父がヒトラーの腹心であったという事実、ヒトラーが無条件に信頼している人物であったという事実に変化が生じたわけではありません。

 

<近づいてくる戦雲>

 1937年と1938年のヨーロッパの政治状況の頂点は1938年の「ズデーテン危機」でしたが、その結果、イギリスはアメリカとの結びつきを強め続けることになりました。ルーズヴェルト大統領は合衆国が戦争に関与する条件として、イギリス首相チェンバレンに、政治的安定の分野へのコミットメントを要求しました。イギリスとフランスが1939年2月に軍事協定を締結したのはこの圧力によってです。さらに、二つの西側民主主義国は、世界政治をリードしたいというルーズヴェルトの要求に迎合して、オランダ、スイス、ポーランド、ギリシア、トルコに対して、言い換えれば、ヒトラーがドイツの正当な影響圏であるとみなしていた西と東の近隣諸国すべてに対して保証を与えたのです。

 この観点から、アメリカを背後に控えたイギリス、フランス、ポーランドは、ヒトラーがヴェルサイユ条約をどのように修正しようとも、そのことを、ドイツ帝国に対する戦争理由――たんなる口実ともいえますが――みなすようになったのです。ヒトラーがヴェルサイユ条約を修正するという政策を自制したとしても、戦争と平和の問題はもはやヒトラーだけで決定しうるものではなくなっていたのです。

 1939年3月にイギリスがポーランドに「白紙の小切手」=保証を与えたとき、ヒトラーはポーランドを攻撃するとはまだ決定していませんでした。しかし、西側の政治指導者であれば、誰もが、この運命的な保証が戦争への道を切り開いていることを知っていました。西側の重要人物たち、およびドイツの反ヒトラー派の重要人物たちは、ポーランドがイギリス、フランス、アメリカに頼ったことに対して、ヒトラーは軍事行動で答えるであろうと考えていました。これによって、戦争が勃発するだけではなく、ヒトラー自身が失脚すると期待していたのです。チェンバレンは自分の日記の1939年9月10日の項に、「私の希望は軍事的な勝利ではない。軍事的な勝利の可能性については大いに疑問がある。むしろ、ドイツ国内での政変に期待をかけている」と記しています。

 1939年9月1日、ドイツ国防軍はポーランド攻撃を開始しました。2日後、イギリスとフランスがドイツ帝国に宣戦布告します。イギリス・フランス両国は、1939年9月17日に(1939年8月23日の独ソ不可侵条約の条項にしたがって)ポーランドに侵攻したソ連には宣戦布告していません。明らかに、ポーランドに対するイギリスの保証は、ポーランドへの配慮からではなく、ドイツに対する敵意から出てきたものでした

 4週間後、ポーランドは粉砕され、国土はドイツとロシアとのあいだで分割されました。その間、西部戦線では一発の銃声も聞かれませんでした。イギリスとフランスは同盟国ポーランドに対してまったく援助しませんでした。ヒトラーはフランス攻撃を計画し始めましたが、同時に、東ヨーロッパでの強力なドイツの覇権を認めるという条件で、イギリスが和を求めてくると期待していました。ヒトラーは、ポーランドが屈服し、ひいてはドイツがフランスに勝利を収めたあとでは、イギリスはこの条件に同意するであろうと信じていたのです

 ヒトラーは、ポーランドの電撃的な勝利を収めたのち、まだフランス攻撃を開始する前でしたが、1940年5月に、西側世界での戦争の終結を目指すさまざまな措置に着手しています。1939年9月12日の講和提案は、彼がドイツを指導しているかぎり、ドイツが降服することはないという内容も伴っていましたが、そのような措置の手始めでした。スターリンはこれを支持しましたが、チェンバレンとフランス首相ダラディエは拒否しました。

 ヒトラーがフランス攻撃を命じたのは、フランス・イギリスとの講和の見込みがすべてなくなってからのことでした。1940年5月10日にはじまり、フランスは1940年6月21日に崩壊しました。ドイツ・フランス休戦協定は、ドイツが1918年11月の屈辱的な休戦協定に調印したのと同じ場所、コンピエーヌの森の客車の中で調印されました。

 ドイツがかくもすみやかにフランスに対して勝利を収めるとは誰も予想していませんでした。ヒトラーは、素晴らしい成果をあげた結果、大西洋からブク川[ポーランド]、北岬からシシリーにいたるヨーロッパの大陸の支配者となりました。しかし、イギリスは依然として、ヨーロッパ大陸での覇権というヒトラーのゴールの前に立ちはだかっていたのです。そのために、ヒトラーは、1940年6月、ドイツが勝利を収めた地点を訪問しているときに、イギリスとの包括的な講和条約を締結したいという願望をもう一度表明しています。まさにこの時期、ヒトラーの代理である私の父も、そう願っており、必要とあらば、個人的にではあっても、イギリスとの講和を達成したいと考えていたのです

 

<平和のための飛行>

 1940年6月から、父がメッサーシュミットをかってスコットランドに飛んだ1941年5月10日のあいだに何が起こったのかについては、概略しか知られていません。イギリス側の関連文書がまだ非公開であるからです。1992年6月、イギリスでヘス文書が鳴り物入りで公開されましたが、失望に終わりました。2000頁ほどの文書には、イギリスとドイツとの秘密交渉、イギリスの講和グループ(王族も含む)とドイツに講和を打診した人々たち、父の飛行に先立ってイギリス情報機関が果たした役割について何も明らかにされなかったからです。言い換えれば、この文書は、父が自分の使命の成功を確信していた理由をまったく明らかにしていません。

 ともあれ、確実なことは、非公開のイギリス側文書には、ルドルフ・ヘスや当時のドイツ政府の政策について不都合なものは何もないということです。反面、イギリス政府が秘密にしようとしている文書には、戦時中のチャーチル内閣について不都合なものが含まれているということです。さらに、非公開の文書には、チャーチルが戦争を、したがって、それに伴う苦難、破壊、死を長引かせようとしていたことを確証する文書が含まれているのかもしれないということです

 このような言い方は、不公平であり、我田引水であると非難する人もいることでしょう。ですから、この恐ろしい戦争におけるヘスの飛行事件を詳しく研究したイギリスの歴史家の研究書『In Ten Days To Destiny: The Secret Story of the Hess Peace Initiative and British Efforts to Strike a Deal with Hitler (New York: W. Morrow, 1991) [available from the IHR]』を紹介しておきます。著者John Costelloは、もしイギリス政府がヨーロッパでの戦争の終結のために少しでも努力したとすれば、この戦争が世界戦争になることを防ぐことができたと結論しています。

 同書の中で、彼は、次のような重要な指摘をしています[17-19頁]。

 

「イギリス政府が今までの政策を転換して、情報局関連の文書の中の当該資料を公開するまでは、ヘスを5月10日の夜にスコットランドに運ぶのに重要な役割を演じたドイツとの地下交渉が、情報機関の工作が成功した結果であったのか、それとも悪意のある講和工作がコントロールできなくなった結果であったのかを確定することはできないであろう。確実なことは、ヘスのミッションが、今でも優れたイギリスの歴史家たちが描いているように、騙された総統代理の『思いつき』ではなかったことである。明るみに出た[これは氷山の一角にすぎないという留保条件を付けておかなくてはならないが]文書資料によると、ヘスの飛行は、1940年夏にまでさかのぼることのできるイギリスとドイツの秘密講和工作の結果であった。このジグソーパズルの謎を解いてみると、次のことが明らかとなる。

    ダンケルクで機甲部隊を停止させたヒトラーの命令は、イギリス・フランス政府に講和を要請させる、時期にかなった計略であった。

    [チャーチル]の戦時内閣の閣僚の多くは、大英帝国の支配を維持する代償としてジブラルタルとマルタを提供しようとしていた。

    警戒心を抱いたルーズヴェルト大統領は、イギリスがヒトラーとの『ソフトな講和』を受け入れてしまうことを阻止するために、ひそかにカナダの助けを求めた。

    フランスの指導者たちは、1940年5月24日の時点で、イギリスは戦争を回避して、ムッソリーニの仲介による1940年5月の講和交渉を受け入れると考えていた。

    チャーチル――そしてイギリス――が生き残ったのは、首相が仮借のないマキャベリ的陰謀と一か八かのブラフにうったえて、外務大臣が戦時内閣をR. A. バトラーのたくらんでいる講和交渉に引き入れることを阻止したためであったにすぎない。フランスが敗北したとき、ハリファックス卿の外務次官は『虚勢を張るのではなく、常識を働かせれば、イギリスはヒトラーと戦うのではなく、交渉するべきである』とのメッセージをベルリンに送っている。

    チャーチルが『われわれは降服しない』と確言した2日後、ハリファックス卿とバトラーは、イギリスの講和提案は1940年6月18日のフランスの休戦の後に行われるであろうとのシグナルを、スウェーデン経由でベルリンに送っている。

    ケネディ大使はヒトラーの密使と秘密に接触して、戦争を終わらせようとしていた。一方、イギリス政府は、彼が財務省から情報を引き出して、非合法の利益を受け、国際株式と保険取引で大もうけをしようとしていると疑っていた。

    ウィンザー公とその他の王族は、講和交渉の余地があるとの期待をドイツ側にかきたてていた。

    スコットランドへの飛行というヘスの計画が形作られたのは、対フランス戦争の最終段階においてであり、1940年9月、イギリスはスイスとスウェーデンを介して講和を打診してきていることを発見したことによって、計画の実行がいっそう促された。

    MI5[イギリス情報部]は、ヘスが実際に講和への動きをしていることを知ると、「裏をかく」作戦に切り替えて、ハミルトン公とスイスとマドリッドのイギリス大使が仕掛けた罠にヘスを引きずり込んだ。

    チャーチルにとっては、ヘスの劇的な飛行という事態に直面して、ハミルトン公だけではなく、1941年には依然としてヒトラーと名誉ある講和を結ぶことができると確信していたトーリー派の同僚たちを守るためにも、ヘスの事件を隠匿し、沈黙する以外には選択肢がなかった。

 50年以上も、イギリス当局は記録を隠蔽・歪曲してきた。定説派の歴史家たちは、チャーチルの背後に隠れてヒトラーとの交渉を続けていた重要人物たちの役割を注意深く隠してきた。この講和交渉が成功直前にまでいたったという事実は、大英帝国にとって、ヒトラーはスターリンよりも脅威ではないと信じていたイギリスの政治家と外交官たちの名誉を守るために、隠されてきたのである

 チャーチルにも、保守党の指導者たちとの戦時中のいさかいを隠しておく彼なりの理由があった。彼は、バトル・オブ・ブリテンのときの栄光あるリーダーシップ、『われわれの島の隅々を駆けめぐった、圧倒的で荘厳な白熱』に泥を塗るようなスキャンダルを望まなかったからである。

 イギリスの『光栄ある日々』、そこでのチャーチルの役割は、イギリス史の中のもっとも輝かしい一章として神格化されてきた。彼の並外れた勇気が、戦闘行為ではなく言葉によって、圧倒的に不利であるにもかかわらず、1940年に時点でヒトラーと対抗できるというイギリス国民の信念を作り出したというのである。」

 

 私の父の飛行がヒトラーの承認と祝福を受けていたかどうかについて、誰も確実なことは知りません。二人とも死んでいるからです。しかし、現存の証拠から判断しますと、ヒトラーはこの計画の進展を知っていたようです。

 

@    父は、この飛行の数日前に、ヒトラーと会談し、それは4時間も続いています。その会談の中で、二人が声を荒げたこと、その会談が終わると、ヒトラーは父を前部屋に伴い、肩にやさしく手を回しながら「ヘス、お前は強情な奴だ」と言ったことがわかっています。

A    ヒトラーと父との関係は非常に親密・緊密でしたので、論理的に考えれば、父が戦時中に、ヒトラーに知らせることなく、このような重大な計画に着手するはずありません。

B    父の飛行の後に彼の副官や秘書は投獄されたけれども、父の一家については、ヒトラーは守ろうとしました。彼は、私の母に年金が支払われるように配慮し、祖父が1941年10月に他界したときにも、祖母にお悔やみの電報を打っています。

C    イギリス当局が1992年6月に公開した文書の中に、父がイギリスのムチェット・パレスで自殺を試みた前日の1941年6月14日に書かれた2通のお別れの手紙があります。自分の任務がまったく失敗したことを悟った後に書かれたものです。一つはヒトラーあて、もう一つは私の家族あてです。この手紙は、父とヒトラーとの親密な関係が依然として続いていることを確証しています。自分の任務が失敗したことはすでにわかっていましたが、この任務をヒトラーに知らせることなく実行していたとすれば、父とヒトラーとの信頼関係は崩れていたことでしょう。

D    管区指導者のエルンスト・ボーレは、父の側近で、文書の英訳を手伝っていた高官ですが、すべてがヒトラーの許可のもとですすめられていたと、死ぬまで確信していました。

 

<歴史的証拠の抑圧>

 父は、40年にわたるシュパンダウ刑務所での獄中生活を通じて、自分の任務について公に語ることを禁止されていました。この「言論統制」が課せられたのは、もし、公になれば、イギリス政府、ひいてはアメリカ政府とソ連政府も困惑することになる事実を父が知っていたためにちがいありません

 このために、今日でも、この事件に関する歴史研究はイギリス側資料に依存しているのです。しかし、イギリス当局は、ヘス関連文書の中の重要資料は2017年まで封印されると通告してきました。事件は秘密裏に処理されましたので、チャーチル周辺のごくわずかな人々しかこの事件のことを知りえませんでした。ヘスの提案、計画もしくは申し出は、今でも、文書館の奥に隠されたままです。これらの資料が公開されないかぎり、父が1941年5月にイギリス政府に提示した講和提案の詳細についてはわからないでしょう。私の父の歴史的な飛行を真剣に評価するにあたっては、これらのことすべてを考慮しなくてはなりません。

 イギリス政府の極秘機関「政治戦争実行局」のRalph Murrayが、外務省情報局長Reginald Leeper卿のために、1941年6月3日に用意したメモがありますが、それによると、これまで知られている以上のことを父が話していること、カドガン大臣も父と話していることがわかります。

 この会談の目的と中身を確定することはできません。情報が限られているからです。しかし、この会談の中で、父は自分の提案について、のちの会談におけるよりも詳しく話したようです。

 以下が私の父の提案でした。

 

@    ドイツとイギリスは、現状維持にもとづく世界政策の点で合意する。すなわち、ドイツは生活空間を確保するために、ロシアを攻撃しない。

A    ドイツは、旧植民地への要求を放棄し、イギリスの海上覇権を認める。その代わりに、イギリスはヨーロッパ大陸がドイツの特殊利害地域であることを認める。

B    空軍力および海軍力の面でのドイツとイギリスとの軍事バランスは維持される。すなわち、イギリスはアメリカ合衆国から増援を受けない。陸軍力については触れられていないが、この分野での軍事バランスも維持されると推定しうる。

C    ドイツはフランスの陸海軍が全面武装解除したのちに「フランス本国」[ヨーロッパ・フランス]から撤退する。ドイツの総督がフランス領北フランスに残り、ドイツ軍は講和条約締結後5年間、リビアに駐屯する。

D    ドイツは、講和条約締結後2年間、ポーランド、デンマーク、オランダ、ベルギー、セルビアに衛星国家を設置する。しかし、ノルウェー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア(ドイツの空挺部隊が1941年5月に降下したクレタを除く)からは撤退する。ドイツは東西南北(オーストリア、ボヘミア・モラヴィアはドイツ帝国内にとどまる)で少々領土を獲得したのちに、東地中海と中東でのイギリスの立場を認める。

E    ドイツはエチオピアと紅海をイギリスの影響圏と認める

F               

G              総統代理が話しをしている人物は、イタリアがヘスの講和提案を認めているかどうかについて少々混乱している。ヘス自身は、CとE項がイタリアの権益に大きくかかわってくるにもかかわらず、このことについては何も発言していない。

H              ルドルフ・ヘスは、自分が「精神異常」をきたしたという「カバーストーリー」がドイツで広まることにヒトラーが合意したことを認めている。

 

 この講和提案は、1941年に、世界平和をもたらしたことでしょう。イギリスがこの提案をもとにドイツと交渉に入れば、その3週間後の1941年6月22日にはじまる独ソ戦も起らなかったことでしょう。ヒトラーは、生存のために必要としていたこと、すなわち、ヨーロッパ大陸の支配権を獲得し、戦争は全戦線で終わったからです。

 しかし、ご存知のようにそうはなりませんでした。戦争が続き、想像を絶する規模で、破壊、苦難、死がもたらされたのです。チャーチルとルーズヴェルトが、この寛大な講和提案を拒んだためです。彼らが望んでいた平和とはカルタゴの平和でした。彼の唯一の戦争目的はドイツの破壊だったのです

 グラスゴーでハミルトン卿とIvone Kirkpatrick卿からインタニューを受けた後、父は1941年6月9日には大法官サイモン卿、1941年9月9日には、航空機生産大臣ビーバーブルック卿からインタビューを受けています。数日後、ビーバーブルックはソ連への軍事援助交渉のためにモスクワに飛びました。ですから、このインタビューの目的は、平和の実現ではなく、父から、何であれ軍事機密を聞き出すためでした。

 

<ニュルンベルク>

 1941年9月以降、父はまったく隔絶されました。1942年6月25日には、南ウェールズのAbergavennyに移され、1945年にニュルンベルクに移送されるまでそこに囚われていました。ニュルンベルクでは、いわゆる「国際軍事法廷」で、「主要戦争犯罪者」として、第二級の被告として裁判にかけられました。

 敗者に対する恥知らずな勝者の裁判について、ここでは立ち入りません。ただし、一つ指摘しておきたいことは、連合国側の判事でさえも、「戦時犯罪」と「人道に対する罪」で父を有罪とすることができずに、何と、命をかけて講和交渉に赴いた父を「平和に対する罪」で有罪とし、それにもとづいて、終身刑に処したことです。父の対するこの判決だけでも、ニュルンベルク裁判が、正義の法廷のふりをしたにすぎない、復讐心にかられた勝者による見世物裁判であることを如実に物語っています

 

<シュパンダウ刑務所>

 父は、6名の同僚被告とともに、1947年7月18日、連合国軍事刑務所となったベルリンのシュパンダウ地区の陰鬱な要塞に移されました。

 7名の囚人に対する規則は非常に厳しいものであったので、フランス人刑務所司祭Casalisさえも非道な待遇に抗議しているほどです(1948年)。1952年10月、収容所管理国が2年にわたって討議したのち、ソ連側は、一月に30分の面会、週一度1300語までの手紙、獄中での医療、死亡の場合には遺灰の空中散布ではなく、刑務所での保管といった「特権」を与えることに同意しました。

 1966年にシュペーアとシーラッハが釈放されてからは、父は一人残され、以後20年以上、600人収容可能な刑務所でたった一人の囚人となりました。

 1970年代に規則が改正され、家族のうちの一人が一月に1時間面会することを許されるようになりました。また、一月に4冊の本も許されました。ただし、面会、手紙、本は以前と同じように厳しく検閲されました。1933年から45年の間の事件に触れることも、ニュルンベルク裁判の判決、それに関連する事柄に触れることもまったく認められなかったのです。家族の面会は、戦勝4カ国の役人と少なくとも二人の看守にモニターされていました。肉体的な接触、握手でさえも許されませんでした。面会が行われたのは、開かれた「窓」の着いた隔壁を持つ特別な「面会室」の中です。

 4つの日刊紙をとることが認められており、1970年代中頃からは、テレビを見ることも許されました。しかし、新聞やテレビは、今お話したような線で検閲されていたのです。また、テレビのニュース番組を見ることは許されていませんでした。

 父は長年のあいだ、家族との面会を拒んでいました。面会が認められる条件を名誉と尊厳の侵害でありとみなし、面会できることが心地よいことであるというよりも、不愉快であると感じていたためです。しかし、重病にかかって闘病生活をおくらねばならなくなった1969年11月に、父の心は変わりました。新しい面会条件が定められたので、ベルリンのイギリス軍病院で私の母イルゼ・ヘスと私と面会することに賛成したのです。このために、1969年12月24日、母と私ははじめて父と面会しました。私は子供のときに父に会ったきりでした。二人の人物が同じときに面会を許されたのは、これ一度だけでした。

 父はシュパンダウ刑務所に戻ってからも、面会に同意しました。以後、私たちは合計232回も父のもとを訪れました。私の母、父の妹、父の姪、父の甥、私の妻、そして私自身といった近しい親族だけが面会を許されていました。握手をしたり抱擁したりすることは禁止されていましたし、たとえ誕生日やクリスマスであっても、プレゼントも禁止されていたのです。

 父の弁護士であり、退職したバイエルン州大臣のアルフレド・ザイドル博士が依頼人である父との面会を許されたのは、1947年7月から1987年8月までの40年間にわずか6回だけでした。ザイドル博士にも厳しい検閲条件が課せられていました。すなわち、彼は面会のたびごとに、裁判について、投獄の理由について、釈放運動についての話題を父としてはならないと警告されていたのです。収容所を管理する連合国政府は、刑務所の維持費の負担をいつも拒んでいました。父が唯一の囚人となった1966年10月1日以降、西ドイツ政府は刑務所の維持のために4000万マルクほどを支出しています。たった一人の老人を収容した刑務所を管理・維持するために雇われている100人以上のスタッフの給料も含まれています。

 父の独房の壁には月の地図がかかっていました。天文学に深い関心を抱いていたためです。

 

<ソ連側のほのめかし>

 1986年、西側諸国に対するソ連の政策は明らかに緊張緩和に向かっていました。父の釈放はこれまでたびたび失敗してきましたが、私はそれにもめげずに、1986年12月に東側から受けとったアドバイスにもとづいて、釈放問題を、直接ソ連側にあたることにしました。

 1987年1月、私はボンのソ連大使館に手紙を書きました。20年間ではじめて、返信をもらいました。東ベルリンのソ連大使館を訪れて、父の件についてソ連側代表と詳しく話しあうようにとの提案でした。私たちは、1987年3月31日の午後2時に、西ベルリンのソ連領事館で話し合いをもつことに合意しました。この日が、父との面会日であることを、大使館員はよく知っていたのでしょう。

 その朝、私はシュパンダウで父と面会しました。これが最後の面会となりました。父は精神的には鋭敏でしたが、肉体的にはひどく弱っていました。杖と看守に支えられてはじめて歩くことができたのです。椅子にこしかけることも、助けを必要とする厄介な作業となっていました。面会室の気温はまったく平常であったにもかかわらず、父は寒がり、コートと毛布を求めました。

 父は、興味深いニュースの断片から話しをはじめました。その詳細について、書きとめておくように求めました。すなわち、占領4カ国の元首に対して、46年の獄中生活から釈放することを求めた申請書を送ったというのです。この点にはひどく驚きました。とくに、ソ連の元首に対して、他の三つの収容所管理国が自分の要請を受け入れてくれるような支援を頼んだというのです。「本当ですか?」と尋ねると、父はうなずきました。ロシア側から、ロシアが自分の釈放に配慮していることを耳にしていたのです。

 面会の後、私はシュパンダウ刑務所から、直接、ソ連領事館に駆けつけました。ここで話しをしたグリーニン大使館員は、西ベルリンでのソ連の権利と責任に責任を負っているのはボンのソ連大使館ではなく、東ベルリンの大使館であると説明してくれました。彼の話では、そして、彼の言葉は一語一語引用するに値しますので、正確に記しますと、これらの責任の一つが「シュパンダウの不愉快な遺産」であるとのことでした。グリーニンの話では、ソ連のように、ドイツ国内にある「連合国軍事刑務所」というような遺産を相続した団体は、どのような団体であっても、そのような遺産を処分したがっているにちがいないというのです。

 私は、この話し合いから注目すべき成果が生まれるとは期待していませんでした。ただし、お互いの腹の探りあいが行われ、双方にとって好都合であろうと思っていました。モスクワでは、「ヘス問題」の処理について意見の対立があることもわかりました。私たちに同情的な人々はゴルバチョフ書記長によって率いられていましたが、彼らの方が優勢でした。

 この観察の正しさは、直後に発表されたドイツのニューズマガジン『シュピーゲル』の記事(1987年4月13日)からも裏づけられます。「ゴルバチョフはヘスを釈放するか?」という記事は、「ヘス問題」に対するソ連共産党の姿勢が基本的に変化したことを伝えています。ゴルバチョフによると、シュパンダウの最後の囚人を釈放することは「人道的な行為」であると世界的に認められ、「ソ連国民にも正しく受けとめられる行為」であるというのです。これとの関連で、『シュピーゲル』誌は、5月中旬に予定されている西ドイツ大統領ヴァイツゼッカーのモスクワ訪問についても触れています。

 1987年4月13日、ドイツの民間人が、ラジオ・モスクワのドイツ語放送局あてにヘス事件についての手紙を送っています。1987年6月21日づけのこの手紙への答えは、「わが国の政府の首長M. ゴルバチョフの最近の声明からも希望を抱くことができますように、戦争犯罪人R. ヘスの釈放を求めたあなた方の積年の努力は、まもなく報われることでしょう」との内容でした。このような回答が上層部の許可なしでかかれるはずはありません。

 1987年3月31日の西ベルリンのソ連領事館での話し合い、1987年4月13日の『シュピーゲル』誌の記事、1987年6月21日のラジオ・モスクワの回答という三つの事件は、ゴルバチョフ書記長の指導するソ連がヘスの釈放に傾いていたことを如実に示しています。この釈放はゴルバチョフの和解政策と合致していただけではなく、第二次世界大戦の未決の問題――その解決無しでは、東西ドイツ、東西ベルリンの統合もありえない――を根本的に解決することであったのです。

 

<自殺?>

 西側の収容所管理国がゴルバチョフの意図についてまだ計り知れなかったとしても、4月の『シュピーゲル』誌の記事の後には、事態の本質が明らかとなっていきました。このために、イギリスとアメリカは警戒警報を鳴らすことになりました。ソ連側の新しい動きによって、父の釈放に対する最後の法的な障害がなくなるからです。長年にわたって、イギリス、アメリカ、フランス政府は、自分たちはヘスの釈放に賛成しているが、ソ連政府だけがそれに拒否権を行使していると釈明してきたからです。ゴルバチョフの新しい動きのために、イギリスとアメリカの姿勢がまやかしであることがわかってしまうことになるのです

 ロンドンとワシントンの関係部局は、ヘスが釈放されて自由に話し始めることを阻止するために、新しく、もっと持続的な方法を探し出さなくてはなりませんでした。

 1987年8月17日の月曜日、あるジャーナリストが、父が死んだことを事務所にいた私に伝えてくれました。そのあと、午後6時35分、シュパンダウ刑務所のアメリカ人所長Darold W. Keane氏から自宅に電話があり、公式に、父の死を伝えてきました。英語の公式の通告は、「私は、あなたの父君が午後4時10分に息を引き取られたことをあなたに通告する権限を与えられています。詳細についてあなたにお話しする権限は与えられていません」との内容でした。

 翌朝、私はザイドル博士とともにベルリンに飛びました。刑務所につくと、その前は人盛りでした。ベルリン警察が入り口を封鎖しており、緑色に塗られた鉄の門に近づくには、身分証明書を提示しなくてはなりませんでした。ベルを鳴らしてから、アメリカの刑務所長Keane氏との面会を要請しました。しばらくすると、Keane氏が姿を見せましたが、ひどく不安げで、落ち着かない様子でした。刑務所に入って、父の遺骸に対面することは許されていないとの話でした。また、父の死の詳細についても、これ以上の情報は提供できない、新しい声明文を作成中であり、午後4時にはそれを提供できるとの話でした。私たちはベルリンでの滞在ホテルの住所と電話番号を伝えました。Keane氏は門の前で私たちを見送りました。

 ホテルで電話を首を長くして待っていましたが、やっと、午後5時半頃に、かかってきました。Keane氏は、マスメディアに公開する声明文を読み上げると話してきました。その中身は次のようなものでした。

 

「現場検証によると、ルドルフ・ヘスは自殺を企てた。1987年4月17日、ヘスは、いつものとおり、看守の監視のもとに、刑務所の庭にあるサマーハウスに出かけた。彼は日頃からそこに腰かけていた。看守が数分後にサマーハウスの中をのぞくと、ヘスが電気コードを首に巻いているのを発見した。蘇生が試みられ、ヘスはイギリス軍病院に運ばれた。何回も蘇生が試みられたが、午後4時10分に死亡宣告がなされた。この自殺行為が死因であるかどうかは、検死も含めて、調査中であり、現在進行中である。」

 

 父は93歳の老人で、かなり弱っており、左手が不自由でした。独房からやっとのことで庭に出てくることができました。その父が、そんな方法で自殺することができるでしょうか?コードを首に巻いて、フックや窓のラッチに引っ掛けることができたのでしょうか?あるいは、自分で首を絞めたのでしょうか?責任者たちはこの点について詳しく説明しようとはしませんでした。死の状況についての公式の説明を受けるまでに1ヶ月待たなくてはなりませんでした。連合国は1987年9月17日、公式の説明を発表しました。それは次のような内容です。

 

@    4カ国はルドルフ・ヘスの死について、最終的に説明する立場にある。

A    実施された調査によると、8月17日、ルドルフ・ヘスは刑務所の小さなサマーハウスで、延長電気コードを使って、窓のラッチからぶら下がることで自分の首を絞めた。このコードは、読書ランプ用のコードとして、サマーハウスにしばらく保管されていた。蘇生が試みられ、急いで、イギリス軍病院に運ばれた。そこでも蘇生が試みられたが失敗し、午後4時10分、死亡が宣告された。

B    ヘスの家族あてのメモがポケットの中に発見された。このメモは、1987年7月20日の義理の娘からの手紙の裏側に書かれていた。この手紙は、「所長の皆様、この手紙を家族に渡してください。私の死の数分前に執筆。」という文からはじまっている。イギリス政府研究所の文書検査官・化学者Beard氏はこのメモを検証し、ヘスによるものであることを疑う理由はないと結論している。

C    Malcolm Cameron博士が8月19日、イギリス軍病院でヘスの死体の検死を行なった。検死は4カ国からの医学関係代表者がいる前で行われた。首の左側に紐による線状の痕跡があることが確認された。Cameron博士は、彼の見解では、宙吊りによる首の圧迫からの窒息が死因であると述べた。

D    実施された調査によると、自殺当日の収容所スタッフの日常業務は正常に行われていた。ヘスは1977年にも、テーブルナイフで手首を切ろうとした。この事件のあと、彼の独房に看守が置かれ、彼は24時間の監視下に置かれた。しかし、この措置は、実行困難で、不必要、かつヘスのプライバシーを不適切に犯してしまう措置であったために、数ヵ月後に中止された。

 

 のちに、私たち家族も、イギリスの病理学者Cameron博士が8月19日に行なった検死の報告書を見ることができるようになりました。私の父の死因が自然死ではない結論していますが、それは、連合国の公式声明の第5点とも一致しています。

 

<検死と埋葬>

 父の遺骸は、1982年の家族と連合国との合意にもとづいて、焼却されずに、家族に引き渡され、「バイエルンで近親者が参列して静かに」埋葬されることになっていました。

 連合国はこの合意を守り、父の遺骸は1987年8月20日の朝、グラフフェンヴェールのアメリカ軍練兵場――ここに、イギリス軍用機で同日の朝、ベルリンから搬送されてきていました――で家族に引き渡されました。

 棺には3名の西側所長と、私の知らない二人のロシア人、ならびに、いわゆる「イギリス軍憲兵隊特別調査チーム」班長Gallagher少佐が同行していました。引渡しはすみやかに行われました。私たちはすぐに、ヴォルフガング・シュパン博士教授が私たち家族の求めに応じて再度の検死のために待機しているミュンヘンの法医学研究所に遺体を運びました。バイエルン警察がグラフェンヴェールの練兵場からミュンヘンの法医学研究所まで、護衛してくれました。

 ミュンヘンの有名な病理学者シュパン教授は、二度目の検死に関する1988年12月21日の報告の結論部分で、父が首を絞めたとされる情況についての詳細に関する情報を持っていないために直面した困難を指摘しています。とくに、彼は、父の死体が発見されたあとの情況に関する情報を持っていませんでした。シュパン博士はこうした限界にもかかわらず、注目すべき結論に達しています。

 

「首の圧迫は宙吊りによって引き起こされたというCameron博士の結論は、われわれの分析結果とはかならずしも一致していない。…

 法医学では、首に紐の痕跡がつくプロセスは、首のぶら下がりと首を紐で絞めることを区別する模範的指標とみなされている。…Cameron教授が、死因の評価にあたって、ぶら下がりによる首の圧迫からの窒息が死因であるとの結論に達しているとすれば、首を絞める別の方法、すなわち、ぶら下がりではなく、紐で締める方法を視野にいれることを怠った。…二つの方法を区別するには、紐の痕跡が残されていくプロセスの検証が必要であるが、Cameron教授の検死報告には、この件の詳細が記されていない。…

 すなわち、首が絞まっていく跡、のどが締めつけられる跡、咽頭突出部に位置が記載されてもおらず、そのことが評価されてもいない。…切開の縫合によるゆがみの可能性が排除されている、傷のない首の皮膚には、水平線状の締め付けの跡が見出された。そのために、この発見およびのどの痕跡は咽頭突出部の上にはないという事実は、ぶら下がりではなく紐による締め付けが生じたことを明確に示唆している。典型的なぶら下がりでは、このような痕跡が生じたことをまったく説明しえない。鬱血によって生じた顔の血管破裂も、典型的なぶら下がりとは一致しない。」

 

 チュニジア人看護士Abdallah Melaouhiは、父が他界したとき、シュパンダウ刑務所管理局の民間従業員でした。4つの連合国の国民でもなく、さらに重要なのですが、その軍人でもありません。この犯罪現場にいた人々は沈黙させられたり、遠隔地に左遷させられたりしたのですが、彼はそういうことを経験していません。

 Melaouhiは父の死後、私の家族と接触しました。父が彼に渡したメモによると、二人のあいだには個人的な信頼関係がありました。供述書にしたためられたMelaouhiの話の核心は次の通りです。

 

「庭のサマーハウスに着いてみると、そこではまるでレスリングの試合が行われているかのようでした。周囲は散乱しており、ヘスがいつも座っていた椅子は、いつもの場所からかなり離れたところにありました。ヘス自身は地面に横たわっており、もう息絶えていました。まったく反応がなく、呼吸、脈、心拍もありませんでした。ジョーダン[アメリカの看守]はヘスのそばに立っていて、呆然としていました。」

 

  Melaouhiは、アメリカの黒人看守アンソニー・ジョーダンのほかに、アメリカ軍の軍服を着た二人の見知らぬ人物がいることに驚きました。普通兵士はこの区画に入ることを禁止されていますし、父との接触は厳禁されているので、尋常ではなかったのです。Melaouhiによると、二人の見知らぬ人物は、ジョーダンとは異なって、冷静・沈着に見えました。

 

<南アフリカからの供述書>

 このチュニジアの看護士の話以外にも、1987年8月17日のシュパンダウでの事件については供述書があります。私の妻が、南アフリカから持ってきたものです。妻は、西側情報機関と接触していた南アフリカの弁護士と現地で会っていました。私は、判事あての供述書というかたちで証言をまとめるように彼を説得しました。1988年2月22日付のこの供述書にはこうあります。

 

「私は、ドイツ帝国大臣であったルドルフ・ヘスの死の詳細について尋問されました。

 帝国大臣ルドルフ・ヘスはイギリス内務省の命令で殺されたのです。イギリス特殊部隊(22nd SAS Regiment, SAS Depot Bradbury Lines, Hereford, England)所属の2名がこの殺人に関与しています。特別航空局の部隊は国防省ではなく内務省の管轄下にあります。殺害計画とその方向付けを行なったのはMI5でした。帝国大臣ルドルフ・ヘスの殺害を目的としたスパイ活動計画は急いで作成されたので、コード・ネームさえも与えられませんでした。まったく尋常なことではありませんでした。

 計画に関与したその他の組織は、アメリカ、フランス、イスラエルの情報機関です。[ソ連の]カー・ゲー・ベーとゲー・エル・ウーおよびドイツの情報機関には、この計画は通告されませんでした。

 帝国大臣ルドルフ・ヘスの殺害が必要となったのは、[西ドイツ大統領ヴァイツゼッカーのモスクワ訪問との関連で]ソ連政府が1987年7月にヘスを釈放しようとしたためでした。ヴァイツゼッカー大統領は、ソ連政府の首長ゴルバチョフと交渉して、1987年11月、すなわち、ソ連が監視を担当する次の期間まで釈放を延期させることに成功しました。

 二人のイギリス特殊部隊隊員が土曜日から日曜日(1987年8月15−16日)にかけての夜以降、シュパンダウ刑務所にいました。アメリカのCIAも月曜日(1987年8月17日)に殺害を実行することに賛成していました。

 帝国大臣ルドルフ・ヘスが午後の散歩を行なっているとき、二人のイギリス特殊部隊隊員が刑務所の庭のサマーハウスでヘスのことを待ち伏せて、4.5フィートのケーブルでヘスの首を絞め、そのあとで、「首吊り自殺」が捏造されることになっていました。しかし、帝国大臣ルドルフ・ヘスが抵抗して、助けを求める叫び声をあげ、少なくとも一人のアメリカ軍の看守が駆けつけたので、ヘスの殺害は中止され、イギリス軍病院の救急車が呼ばれました。意識不明の帝国大臣ルドルフ・ヘスは、救急車でイギリス軍病院に運ばれました。

 私にこのような情報を口頭で伝えてくれたのは、イスラエルの情報将校であり、南アフリカ時間の1987年8月18日午前8時頃のことでした。この情報将校のことを何年も公私にわたって知っていました。彼が誠実で正直であると確信しており、情報の信憑性にまったく疑いを抱いていません。彼との話がまったく内密のことであったことも間違いありません。」

 

 誤解をまねくようなCameron博士の検死報告以外にも、イギリス人自身が、シュパンダウ刑務所の庭のサマーハウスでの死の謎を解く決定的な糸口を提供しています。

 

<自殺メモ?>

 すでに申し上げましたとおり、私が1987年8月17日の時点で伝えられたことは、父が死んだということだけでした。自殺かもしれないという話しを聞いたのは翌日でした。私が自殺説に対する疑問を公に表明すると、連合国は、1987年8月19日に、疑問の余地のない自殺の「証拠」をすみやかに発見・公表する必要に迫られました。これが「自殺メモ」です。これは、家族が1987年7月20日に父に送った最後の手紙の裏に手書きで書かれているものですが、日付はありません。「自殺メモ」なる文書のテキストは次のとおりです。

 

「所長の皆様、この手紙を家族に渡してください。私の死の数分前に執筆。

 私の愛するすべての人々に、私にしてくださったことについて感謝を申し上げる。フライブルクには、ニュルンベルク裁判以来、あなたのことを知らなかったように振舞わなくてはならなかったことに申し訳なく思っていることを伝えてください。それ以外には選択肢がありませんでした。そうしなければ、自由を手に入れるすべての試みが無駄になってしまうからです。もう一度彼女に会いたいと思っていました。あなた方の写真と同じく、彼女の写真も手に入れました。Your Eldest」

 

 この手紙が家族に渡されたのは、父の死後1ヶ月以上経ってからのことでした。まずイギリスの研究所で検証しなくてはならなかったとのことでした。

 父は感情が高ぶっていたり、健康を害していたり、ひいては治療を受けていたときにはいつも字が乱れていたのですが、やはり字が乱れているこの手紙は、私の父が書いたもののように思われます。しかし、この「メモ」は1987年時点のヘスの思いを反映していません。20年ほど前の父の思いを反映しているようです。手紙のおもな中身は「フライブルク」についてですが、彼女は、1969年に父が十二指腸潰瘍を患い死にそうになったときから関心を抱いていた個人秘書です。さらに、Your Eldestという署名がありますが、父はその表現を20年も使っていません。

 手紙にはその日付を示唆するようないヒントが隠されています。「あなた方の写真と同じく、彼女の写真も手に入れました」という一節です。父は「フライブルク」と私たちの写真を手に入れた――これ以外には何も手に入れることはできませんでした――のは1969年のクリスマス以前のことでしたので、この文章は1969年のクリスマス以前の時期に関係しているのです。1969年のクリスマスとの関連で、家族が父を訪問し、面会を許されていなかった「フライブルク」からの写真も手に入れたのです。父の自己表現の方法を念頭におけば、この文章が書かれたのは1969年12月24日以前に違いありません。もしも、1987年8月に書かれたとすれば、もの文章はナンセンスです。

 最後に、手紙の冒頭の「私の死の数分前に執筆」という文章も、父の表現スタイルにはマッチしません。もしも、計画通り自殺する前にこの手紙が書かれたとすれば、どのようにして死んだのかという問題に議論の余地を残してしまうような「死」というあいまいな表現ではなく、自殺を意味する「自発的な人生からの退去の直前に」というような表現が選択されていたことでしょう。

 私たちはヘスの家族であり、彼の筆跡だけではなく彼の文書スタイルも知っていますし、晩年の彼の関心についても熟知していました。ですから、この「自殺メモ」は悪意のある粗雑な偽物とみなしています。

 父は20年以上も前に、死を予期して、「お別れの手紙」を書きましたが、この当時、それは家族には渡されませんでした。この手紙が、1987年に、父の「メモ」を偽造するために使われたのです。何らかの手法を使って、父が私たちから最近受け取った手紙の裏に、この文章が移されました。40年以上にわたってかれた受けとった手紙には、かならず「シュパンダウ連合国刑務所」というスタンプが押されていたものですが、1987年7月20日の手紙からは意図的に取り除かれています。私の父は自分の文書には日付をかならず記しておいたものですが、この自殺メモには日付が入っていません。もともと入っていた日付が削除されたに違いありません。

 

<自殺ではなく他殺>

 シュパン教授の検死報告、チュニジアの看護士と南アフリカの弁護士の供述書、および「自殺メモ」にもとづけば、1987年8月17日の午後のルドルフ・ヘスの死は自殺ではなく、他殺であったと結論せざるをえません

 1987年8月の時点で、ベルリン・シュパンダウの連合国軍事刑務所に公的な責任を負っていたのはアメリカ合衆国当局であったにもかかわらず、イギリス人たちが、ヘスのドラマの最後の一幕では主役を果たしているのです。イギリス人たちは、私に電話かけて、父の死を伝えるという役目だけをアメリカの所長Keane氏に与えたのです。そのあと、彼は口を閉ざさなくてはなりませんでした。

 要約すると、次のようになります。

 

       チュニジア人看護士Abdallah Melaouhiが目撃したアメリカ軍の軍服を着た二人の男は、おそらく殺人犯であったにちがいないが、イギリス軍特殊部隊の隊員であった。

       父が死亡したのはイギリスの救急車で運ばれたイギリス軍病院の中でであった。

       死亡証明書に署名しているのは、イギリスの軍人だけである。

       検死を行なったのはイギリスの病理学者である。

       イギリスの刑務所長Antony Le Tissier氏は、電気コード、ガーデンハウスなどの証拠をすべてすみやかに破棄するように命じている。

       この事件を調査した特別調査局の当局者はすべてイギリス人であり、その長はイギリス軍少佐であった。

       「自殺メモ」は死後二日たってから、イギリス軍将校によって父の上着のポケットの中で発見され、イギリスの研究所で検証された。

       ロンドン警視庁は、父の死亡について多くの矛盾を発見したために、「大がかりな殺人事件調査」を始めていたが、イギリスの検事総長Allan Greenは、この調査を中止させた。

 

 イギリス政府は、ルドルフ・ヘスが1987年8月17日に自殺したと述べていますが、そうではありません。あらゆる証拠は、上層部からの命令を受けたイギリスの関係者が父を殺害したことを明らかにしているのです

 

<真実に対する犯罪>

 イギリス政府は父を犯罪のスケープゴートにし、ほぼ半世紀もヘス事件の真相を隠してきました。この同じ政府が、今度は、父を黙らせるために、ためらわず彼を殺したのです。父の殺害は、身体の弱った老人に対する犯罪であっただけではなく、歴史的真実に対する犯罪でした。ヘス事件の始まった当初、1941年から続くイギリス政府の陰謀というドラマの論理的な最終章なのです。

 しかし、この陰謀は成功しないでしょう。イギリス政府は父の殺害によって、ヘス事件が暗闇に葬られることを願っていますが、そうはならないでしょう。

 歴史と正義が、父の冤罪を晴らしてくれると確信しています。父が命を懸けて平和を求めたこと、父が被った長年の不正、父の殉教は忘れられないでしょう。父の嫌疑は晴れ、ニュルンベルク裁判での最後の言葉「私は何も後悔していない」は永遠に記憶されることでしょう

 

歴史的修正主義研究会