試訳:副総統ヘスの息子との対話
――ロシアの雑誌記事から――
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年4月8日
本試訳は当研究会が、研究目的で、ロシアの雑誌『Аргументы и факты (論拠と事実)』2001年第14号に掲載された民族社会主義ドイツ労働者党副総統ルドルフ・ヘスの息子へのインタビュー記事を試訳したものである。 |
第二次世界大戦の砲声が静まってから55年経った。わが国では、この戦争のことを父親や祖父の話だけからしか知らない世代が成長している。われわれの過去の敵に、自分たちの意見を表明することを許す時期がやってきた。ルドルフ・ヘスの息子の洗礼親はヒトラーであるが、彼の意見は、当然のことながら、反対意見を呼び起こすであろう。にもかかわらず、このような人々が後悔しているのか、この戦争に対する考え方が変化しているのかを知ることは興味深いことである。
ボルフ=リュディガー・ヘスは、1937年、民族社会主義ドイツ労働者党のヒトラー代理、当時の言葉では「ナチ・ナンバー・ツー」ルドルフ・ヘスの家庭に生まれ、そのたった一人の息子である。彼の洗礼式にはヒトラーも出席している。彼の父は、ニュルンベルク裁判で「人道に対する罪」で有罪となり、終身刑に処せられた。700名の囚人を収容するためのシュパンダウ刑務所に収容されていたが、1966年からは、そのただ一人の囚人となっていた。彼の息子は、ソ連、アメリカ、イギリス、フランスの指導者に書簡を送って、「健康状態と高齢ゆえに父を釈放するように」要請したが、そのつど拒まれてきた。1987年8月13日、93歳になるルドルフ・ヘスは、刑務所の夏用部屋の中で、電灯からのワイヤーを首にまきつけたかたちで、死体となって発見された。私たちは、グレフェルリングという小さな町の彼の自宅で、ヘスの息子に会った。
Z:対談者ゾトフ
H:ヘスの息子
Z:ナチズムは、あなたの生まれ故郷ミュンヘンで誕生しました。しかし、そのようなことを示唆する標識も、記念碑も見かけませんでした。1923年の「ビアホール一揆」のあった広場にも、ルドルフ・ヘスが将来の総統に出会ったレストランにも、そのようなものは一つもないのです。ドイツ人はナチス時代という自分たちの過去を全力で忘れようとしているとの印象を受けたのですが。
H:そのとおりです。(テレビを指し示しながら)そのような考え方を毎日、この機械の助けを借りて頭にたたきこんでいるのです。
Z:ドイツ人には何の責任もないと考えているのですか?
H:もちろんです。一般市民に対する血塗られた犯罪の咎でドイツ軍を非難している人々を信じてはいません。
Z:占領軍は天使のようにふるまったといいたいのですか?
H:もちろん違います。彼らも人を殺しました。しかし、当時は戦争だったのです。ソ連軍兵士も東プロイセンで、「良いドイツ人は死んだドイツ人」という原則にしたがって行動し、「焦土」戦術を採用しましたが、誰もソ連軍兵士のことをならず者とか殺人者とは呼んでいません。連合軍は数百万の一般市民を殺しました。1945年2月13日のイギリス空軍によるドレスデン空襲を思い起こすだけで十分でしょう。一晩に135000名(おもに子供)が殺されたのです。飛行士たちはこの件で処罰されたのでしょうか?「勝利者は裁かれない」という諺があります。だから、すべての責任はドイツ人に押し付けられたのです。ニュルンベルク裁判では、ドイツは数千のポーランド軍将校をカチンで射殺したと告発されました。何と50年たってから、これはロシア軍の仕業であることが明らかとなったのです。
Z:同じニュルンベルク裁判では、ナチスの強制収容所での野蛮な行為の証拠が提出されていますが。人間の脂肪から作った石鹸とか、人間の皮膚に印刷された絵葉書とかです。
H:それは、まったくのたわごとです。
Z:ソ連検事が、ブッヘンヴァルト強制収容所で作られた石鹸を判事に見せている映画のシーンを見たことがあります。
H:それが、人間の脂肪でできているとどうしてわかるのでしょうか。
Z:鑑定が行なわれました。
H:そのようなものが行なわれたとは信じていません。この裁判では、連合国側にとっては、すべての点でドイツ人を告発することが重要でした。そして、彼らはそれに成功しました。
Z:それでは、ヒトラーの強制収容所の中では何が起こっていたとお考えなのですか?そこは、保養所のようなものだったのですか?
H:保養所ではありませんでした。では何であったかというと、それを説明することは難しいのです。二つの見解があります。ドイツ人はこれらの収容所で600万人のユダヤ人を殺したという見解があります。また、もし、そう望んでいたとしても、そのように大量の人々を絶滅することは物理的に不可能であるという見解もあります。どちらを信じるべきなのでしょうか?
Z:数千人単位で人々を絶滅したガス室と焼却棟が、このために設置されたのではありませんか?
H:一つの興味深い話をしておきます。SSはこれらの部屋で「チクロンB」ガスを使って人々を殺したということになっています。しかし、研究者が、この部屋の壁にシアン化合物の痕跡が残っていないかどうかを調査したところ、何も残っていなかったのです。焼却棟についていえば、ミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所では、焼却棟は、ドイツ人の野蛮さを「証明する」ために、アメリカの命令で、戦後に作られたのです。私は、1954年までダッハウで働いていた人物を知っていますが、彼は、焼却棟を見たこともないと話してくれました。ですから、その後に建てられたのです。
Z:ドイツ人は罪の意識を感じるべきなのですか、そうではないのですか?
H:私は誰も殺していません。やってもいないことにどうして罪の意識を感じなくてはならないのでしょうか?私たちは、殺されたユダヤ人に補償金を支払っています。生きのびたユダヤ人にも補償金を支払っています。ドイツの工場で働いていたユダヤ人にも補償金を支払っています。まだ不足なのでしょうか? 「戦争に負けてはならない、負けてしまうと、起こったことに対しても、起こらなかったことに対しても、すべての責任が押し付けられてしまう」というのが将来への教訓です。例えば、今日、ドイツは、労働力を第三帝国に提供した、いわゆる「奴隷」に対して、数千万マルクを支払っています。しかし、これは奴隷制度だったのでしょうか?彼らには賃金が支払われていたのですよ。
Z:多くの人々が強制的にドイツに連行され、労働家畜として使われました。彼らには賃金が支払われたとおっしゃいましたが、一皿の代用スープを賃金と呼ぶことができるでしょうか?
H:彼らは金銭を受け取っていました。
Z:誰もそのようには言っていませんが。
H:何のために? もしも稼ぎたければ、黙っていた方が良いに決まっています。たしかに、強制収容所では、賃金なしでの労働が強要されました。しかし、ロシアの強制収容所にいたドイツ人も1コペイカも受け取っていないのです。
Z:あなたは、父は、シュパンダウ刑務所で自殺したのではなく、イギリス情報部によって殺されたのだ、と断言していますね?
H:はい。私は、殺害の事実を認めるように、イギリス政府を提訴しました。裁判はすでに6年も続いています。新しい公判が秋に開かれる予定です。私は、非常に優秀な弁護士を雇いました。ちなみに、彼はユダヤ人です。
Z:勝訴する見込みはありますか?
H:そう思います。ルドルフ・ヘスの死体鑑定が第三者の医師の手によってミュンヘンで繰り返し行なわれましたが、それは、ヘスが首を絞められて、そのあとで電灯のワイヤーにつるされたことを明らかにしています。ドイツのマス・メディア(例えば、『シュピーゲル』と『シュテルン』)は、ゴルバチョフが人道的な振る舞おうとして、ヘスを釈放しようとしていたと報道しています。私の父は、多くのことを知りすぎていました。イギリス人は、父が生きたままで釈放されるのを認めることができなかったのです。自殺ですって。子供だましの話です。私は、月に2回は父のもとを訪れて、彼のことをよく知っていました。父は非常に高齢で、手にコップを持つことも困難でした。その父が自分で、ワイヤーを首に巻くことができるはずがありません。
Z:最後に、アドルフ・ヒトラーについて、個人的にはどのようなお考えなのかをうかがいたいのですが。
H:そんなことをすれば、裁判にかけられてしまいます。ですから、黙っている方が良いのです。
ゲオルギイ・ゾトフ、ミュンヘン