試訳:第一次世界大戦の虐殺捏造宣伝とホロコースト
――書評『アウシュヴィッツ事件』(ペルト)――
P. グルバッハ
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年9月27日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Paul Grubach, World War I Atrocity Propaganda and the Holocaust, The
Revisionist,
2003, No.1を試訳したものである(なお、文中の図版は省略した)。また、マークは当研究会が付したものである。 |
ウォータールー大学(カナダ)建築学教授ロバート・ヤン・ファン・ペルト博士は、これまで出版された反修正主義的な著作の中でもっとも注目に値する研究書を執筆した[1]。修正主義的研究者クロウェルは、この『アウシュヴィッツ事件:アーヴィング裁判からの証拠』が注目に値する理由を次のように述べている[2]。
「第一に、本書は修正主義者の議論とはじめて真剣に取り組んでおり、その立論は不完全ながらも、フォーリソン、バッツ、シュテークリヒ、ルドルフ、そして私の著作を、細かく、そして丁寧な言葉遣いで検討しているからである。マットーニョだけは除外されてしまっているが、それは、焼却棟の作動についてのマットーニョの分析が、反駁困難なほど確証的なためであろう。」
第一次世界大戦中、反ドイツ虐殺捏造宣伝は、連合国兵士の士気をかきたてるというような目的を達成するために、連合国の指導者によって利用された[3]。
反ドイツ宣伝の中でもっとも悪名高いものは、ドイツの会社が後方地帯で「死体活用施設」を操業しているという身の毛のよだつ話である。「邪悪なドイツ人」は、自軍の戦死した兵士の死体を利用して石鹸を製造しているというのである。ペルトによると、この虚偽の宣伝を捏造した人物は、イギリス軍情報局長J.V. Charteris准将であった。彼の目的の一つは、死者を敬う中国人をドイツ人に敵対させることであったという[4]。
「死体活用施設」の詳細は、イギリスの高級紙『タイムズ』(1917年4月17日)に登場している。それによると、死体を満載した列車が大きな工場に到着する。死体にはフックが付けられており、長い鎖に結び付けられているという。この記事はこう続けている。
「長い鎖に結び付けられた死体は、細長い部屋に運び込まれ、浴室で洗浄されて、殺菌消毒される。次に死体は乾燥室に向かい、最後に自動的に、消化器すなわち大鍋の中に運ばれる。死体を鎖から切り離す装置によって大鍋の中に落とされる。その消化器の中に6−8時間ほど置かれ、蒸気処理される。死体は、機械によってかき回されながら、ばらばらとなっていく。…この処理によっていくつかの製品が生み出される。脂肪は脂肪素、脂肪塊、油脂に分解するが、それらは、使用する前に再抽出されなくてはならない。抽出過程は炭酸塩の蒸留によって行なわれ、そこから生じる副産物をドイツの設計製造元が利用している。油脂の抽出・精製場は、作業場の南東のコーナーにある。生成された油脂は、石油用に使われている小さな桶に収容され、その色は、黄色がかった茶色である。」
非常に細かな描写であることに留意すべきである。ペルト博士は次のように力説している。
「この話は嘘であるが、説得力を持っていた。第一次世界大戦中にこの話を完全に反駁することはできなかった。」
第一次世界大戦が終わると、これらの虐殺物語が捏造であることが暴露され、その大半は消え去ってしまった。ペルトは次のように述べている。
「虐殺物語の捏造は徹底的に暴露され、その結果、世論は、捏造の責任者に憤慨した。彼らは、政府の発案のもとで、隠蔽、言い逃れ、捏造、偽造、策略を行なうことで、世論を煽り立て、その怒りに火をつけ、愛国心を利用し、高い理想に傷をつけたからである。」
本書第1部での、ペルトの重要論点の一つは次のようなものである。
「第一次世界大戦時の虐殺宣伝のことを考えると、第二次世界大戦でのドイツの虐殺物語を捏造であると判断する歴史的な根拠は存在しない。1939−1945年の世論は、20年前の世論とはまったく異なっており、死体活用施設のような宣伝を広めることは、すぐに虚偽であるとわかってしまう話を広めることになってしまうのが明らかであったからである。」
そして、このウォータールー大学の「知性」はこう結論している[5]。
「人間の死体を石鹸製造の材料としたという物語がもたらした長期的な効果は、ほとんどの人々が今度はこのような捏造にだまされはしないと考えるようになったことであった。」
要するに、ペルトはこう論じている。すなわち、西側民主主義国の国民は、第一次世界大戦時の反ドイツ宣伝にだまされたことを熟知していたので、今度はだまされることはない。だから、第二次世界大戦時の連合国は、自分たちの目的を達成するために虐殺物語を捏造したとしても、得るものは何もなく、むしろすべてを失ってしまう。国民大衆は懐疑心を持っているために、連合国が広めた虐殺物語は事実にもとづいていなくてはならない、というのである。
ペルトは自説を補強するために、第二次世界大戦中の資料から、「ナチ」の虐殺物語に懐疑的であった、信用できる資料を引用している[6]。
しかし、実際には、次のような事実がペルト教授の説全体の反証となっている。ソ連、シオニスト、アメリカ、イギリスは、第二次世界大戦中に、自分たちの目的を達成するために虚偽の宣伝活動を行なっている。第一次世界大戦時の連合国による虐殺宣伝のいくつかは、第二次世界大戦中に、シオニスト集団の行なった反ドイツ的虐殺宣伝およびその他の連合国の宣伝活動とまったく似かよっている。
1944年8月21日の『タイム』紙には、ポーランドのマイダネク強制収容所にある「ナチの絶滅収容所」についての「目撃者によるはじめての記述」という記事が掲載されている。ペルト教授は、「ヒトラーのガス室」については、懐疑的な雰囲気であったにもかかわらず、『タイム』紙の編集者たちはこれが真実であると思っていたと述べている。ペルトはこの記事について次のように述べている[7]。
「『タイム』紙の編集者たちはほとんどためらうことなく、これが事実であると考えていた。8月21日、彼らは、おもにロシアの従軍記者ローマン・カルメンの記事にもとづく、[マイダネクの]『巨大な殺人工場』についてのはじめての記事を掲載した。」
しかし、ここでペルト教授は、省略という罪を犯している。記事の中にある明らかな虚偽の記述を紹介していないのである。おそらく、記事の中身すべてを読者に紹介してしまえば、それが自説を覆してしまうことを熟知していたためであろう。『タイム』紙の記事とカルメンの話を比較・検証してみよう。まず、『タイム』紙はこう述べている。
「収容所の真ん中には、煙突のついた大きな石造の建物、すなわち、世界で最大の焼却棟がある。ドイツ人はこれを破壊しようとしたが、その多くは残っており、第三帝国の重々しいモニュメントとなっている。
100名ごとの集団が、生きたまま焼かれるために、ここに連れてこられた。すでに、服を脱がされており、そのあとで、隣のガス室で塩素ガス処理された。ガス室は一時に250名ほどを収容した。犠牲者たちは詰め込まれたので、…窒息死してからも、立ったままであった。…死体は、1500℃に熱せられた、ごうごうと音を立てる炉に投げ込まれた。」(強調――グルバッハ)
「目撃者」カルメンはこう述べている[8]。
「信じがたいことであったが、自分の目で目撃したのである。死体、石灰の樽、塩素ガスのパイプ、炉をこの目で見た。」(強調――グルバッハ)
今日、ホロコースト・ロビーは、マイダネクの囚人はチクロンB/シアン化水素と一酸化炭素で殺害されたと主張しているので、塩素ガスが殺害手段であるとの話は虚偽である[9]。マイダネクには焼却棟が存在していたけれども、それは、最大でも1日100体を処理できる5つの燃焼室を持っていたにすぎず、「世界で最大の焼却棟」どころではない[10]。
だが、もっと重要な箇所は、「殺された」死体の利用方法に関する『タイム』紙とカルメンの記述である。
「黒焦げの犠牲者の死体と灰は、隣の建物に運ばれた。そこでは信じがたいことが行なわれていた。人骨は機械的に粉々にされ、大きな缶に詰められ、肥料として、ドイツ本国に搬送された。」
これは、それを確証することのできる、信頼できる証拠が一つも存在していないので、まったくの虚偽宣伝である。ホロコースト・ロビーも、マイダネクには、「肥料工場/死体活用施設」が存在し、そこでは、人骨が処理され、缶に詰められて、肥料として利用するためにドイツに搬送されたとはもはや主張していない。しかし、この話は、ペルトが嘘であることを認めている、第一次世界大戦時の「死体活用施設」物語に驚くほど似ていることに注目せざるをえない。第一次世界大戦版では、死体は石鹸製造に利用され、第二次世界大戦版では、死体は肥料として利用されたというのである。
ソ連の共産主義者による宣伝は事実として受け入れられ、それを、アメリカの高級紙が繰り返してきたが、その典型的な事例がここにある。すでに指摘しておいたように、ペルト教授は、マイダネクに肥料工場があったという虚偽の話に触れていないが、それに触れてしまうと、彼の説をくつがえしてしまうからであろう。
冗長となってしまうかもしれないが、先に引用したペルト教授の説をもう一度引用しておこう。
「人間の死体を石鹸製造の材料としたという物語がもたらした長期的な効果は、ほとんどの人々が今度はこのような捏造にだまされはしないと考えるようになったことであった。」
修正主義史家ウェーバーの重要な研究が、ペルト説が嘘であることを立証している[11]。ウェーバーは、ドイツ人は殺されたユダヤ人の死体から石鹸を製造しているとの戦時中の噂が「1941年と1942年に広まっていたので、1942年末頃、ポーランドとスロヴァキアのドイツ当局がこの噂の影響についての公式の懸念を表明していた」と指摘している[12]。
ウェーバーはさらに指摘している。すなわち、ドイツ人は死体から石鹸を製造しているとの第一次世界大戦時の話が捏造であると暴露されたにもかかわらず、「第二次世界大戦中に、この話は復活し、広く信じられた。さらに重要なことに、この話は、1945−1946年のニュルンベルク裁判で、『立証された』告発と認められ、その後数十年間、多くの歴史家たちがこの話を是認していた」[13]、と。
さらに、ウェーバーは、ドイツ人が犠牲者の死体から石鹸を製造していたという虚偽宣伝を、第二次世界大戦中に広めていた連合国とシオニストの典拠資料をリストアップしている。以下に紹介しておこう。
合衆国陸軍情報部秘密報告は、ドイツ人がポーランドのトゥレクで1941年に「人間石鹸工場」を稼動させているとのポーランド側の資料を引用した[14]。
1942年11月、戦争中に世界ユダヤ人会議議長とアメリカ・ユダヤ人会議議長を兼任していたラビのステファン・S・ワイズは、ドイツ人がユダヤ人の死体を石鹸、脂肪、肥料に加工していると表明した[15]。
1942年末、アメリカ・ユダヤ人会議の刊行物『会議週報』は、「ナチは、フランスとオランダからのユダヤ人移送者の死体から石鹸、接着剤、油脂を製造する二つの特別工場をドイツ国内に持っている」と主張した[16]。
アメリカの影響力のある高級紙『ニュー・レパブリック』は、ドイツ人は「シエドルチェの工場で、ユダヤ人犠牲者を利用して、石鹸と肥料を製造している」と、1943年に主張した[17]。
最後に、ドイツ人が犠牲者の死体から石鹸を製造したとの妄想は、1945−1946年のニュルンベルク裁判で、『立証された』告発として認められた。ニュルンベルク裁判の最終判決はこう述べている[18]。
「商業石鹸製造工場で、犠牲者の死体の脂肪を利用する試みが行なわれた。」
再度、ペルト博士の重要な説を引用しておこう。
「第一次世界大戦中の虐殺宣伝のことを考えると、第二次世界大戦でのドイツの虐殺物語を捏造であると判断する歴史的な根拠は存在しない。1939−1945年の世論は、20年前の世論とはまったく異なっており、死体活用施設のような宣伝を広めることは、すぐに虚偽であるとわかってしまう話を広めることになってしまうのが明らかであったからである。」
本小論が提示した証拠だけでも(それ以上の証拠が存在するが)、ペルトの結論は間違っていると断定できる。第一次世界大戦時の虐殺宣伝は、第二次世界大戦時の連合国とシオニストによる虐殺宣伝のモデルとなったのであり、世論はこうした戦時中の虚偽宣伝を「真実」として受け取ることに慣らされていたのである。
さらに、イギリス、フランス、アメリカその他の西側諸国の国民が、両大戦間期に、第一次世界大戦時の虐殺物語が捏造であると知らされていたと論ずるのも間違いである。こうした教育キャンペーンが行なわれたのは、そのことに利害関係を持っていたドイツであったにちがいない。だが、西側連合国では、第一世界大戦時の虐殺物語が捏造であったことに関する議論は、ごく狭い学界で行なわれただけであり、そこであっても、「自分たち自身の」嘘を暴露することは人気のない話題であった。このような説を確証する重要な証拠は、このような話題を扱った著作が両大戦間期の西側諸国でほとんど登場していないという事実である。例外は、しばしば引用されるA. Ponsonbyの『戦時中の虚偽』[19]であるが、これは小出版社が小部数を出版したものである。私の知る限り、第一世界大戦時の虐殺物語が捏造であったことに関する議論がマスメディアの話題になったことはない。
大衆の記憶力とは弱いものであり、第二次世界大戦時の虐殺物語が第一次世界大戦時の捏造虐殺物語と似ているからといって、その話をしりぞけようとする声は、弱々しく、少数であり、ほとんど世論に影響を与えなかった。
第二次世界大戦が終わっても、政府の高官、ジャーナリスト、作家、有力グループは、ドイツ人が犠牲者の死体から石鹸を製造したとの虚偽を広め続けた[20]。ペルトは、この宣伝が偽物を一般化したわけではないと述べているが、それはまったく異なっている。むしろ逆であった。ウェーバーはこう指摘している[21]。
「『人間石鹸』物語は、戦時中の噂が、たとえどれほど空想的なものであったとしても、ひとたび、登場して、とりわけ、有力者や有力団体によって嘘の宣伝として広められてしまうと、衝撃的な影響力を持ってしまうという事実を、再度明らかにしている。」
ホロコースト・ロビーが、第二次世界大戦時の「ユダヤ人人間石鹸」物語が捏造であることを認めたのは、やっと1980年代のことであった[22]。
さらに、「大量電気処刑」虚偽物語は、連合国とシオニストが第二次世界大戦時の嘘を利用して、自分たちの目的を達成したことを示している。
ベウゼッツは、東ポーランドにある「ナチ」強制収容所であった。ホロコースト史家ヒルバーグは、ここで最初使われた凶器はボンベに入った一酸化炭素かシアン化水素であると述べている。その後、収容所はディーゼル・エンジンを備えるようになり、ユダヤ人はディーゼル排気ガスを利用する「ガス室」で殺されたという[23]。ペルトの『アウシュヴィッツ事件』はおもにアウシュヴィッツ強制収容所を扱っているとはいえ、彼は、ベウゼッツについて重要な指摘をしている。
「連合国は、チャーチルやルーズベルトのような有能な指導者のもとでヒトラーと戦うにあたって、虐殺宣伝をまったく必要としていなかった。…第一次世界大戦時には、弱々しい指導者たちは、士気を高めるために、虐殺宣伝を広めるという安易な方法に頼らざるをえなかったが、チャーチルはそのようなことをしないでも、国民を駆り立てることができたのである。」
この指摘は嘘である。連合国は、自分たちの目標を達成するために、虚偽の捏造宣伝を利用したのである。1944年初頭、連合国政府は、捏造宣伝活動を公に広めざるをえない状態に追い込まれていた。すなわち、赤軍が東ヨーロッパと中央ヨーロッパに侵攻したときに行なった虐殺行為から国際社会の関心をそらすために、反ドイツ的虐殺宣伝を広めるキャンペーンを手伝ってくれるように、自国の教会やマスメディアに要請したのである。その際、連合国政府は、何と第一世界大戦時の嘘にまで言及している。例えば、イギリス情報省は、1944年2月29日に、イギリス聖職者協会とBBCに次のように通達している[24]。
「われわれは、赤軍が1920年にポーランドで、ごく最近にフィンランド、ラトヴィア、ガリツィア、ベッサラビアでどのような振る舞いをしたか知っている。
それゆえ、赤軍が中央ヨーロッパに侵攻したときにどのような振る舞いをするかを考慮しておかなくてはならない。…
経験の教えているところでは、事態から目をそらせるもっとも有効な手段は敵国に対する虐殺宣伝である。不運なことに、世論は、『死体工場』、『手を切断されたベルギー人の赤ん坊』、『十字架にかけられたカナダ兵』といった話が受け入れられていた時代のようには、感化されやすくはない。
したがって、赤軍の振る舞いから世論の目をそらすために、あなた方の協力がぜひ必要である。その協力とは、本省が広めてきた、また、これから広めるであろうドイツ人と日本人に対するさまざまな告発を、熱心に支持することである。」
もっと明確な言い回しが可能ではないのだろうか。もちろん、第一次世界大戦時の宣伝――最終的には捏造であることがわかってしまった――に触れることで、イギリス情報省が、今度は、「本物の」宣伝だけを広めるべきである、と行間で言おうとしていると解釈することもできる(ブローニング)[25]。しかし、情報省がそのように言おうとしているとしたのならば、なぜ、そのように書いていないのか。この書簡は、自国政府よりも真実を熱心に聴きたがっていたにちがいない聖職者協会にあてられているが、真実を話すようにとは述べていない。むしろ逆である。情報省は、今では人々をやすやすとだますことができない、と嘆いているのである。「不運なことに、世論は…感化されやすくはない」というのである。すなわち、「もっとうまく、もっとあつかましく、もっと声高に嘘をつけ」と行間で述べていると解釈しなくてはならない。
第二次世界大戦時の宣伝は、マイダネクの「死体工場」や「ユダヤ人の死亡から製造された石鹸」を人々に信じさせ、なんと1980年代末まで、この話を真実として広めることに成功した。この点を考えると、1944年時の世論が第一次世界大戦時の世論よりも、馬鹿げた話に感化されやすくはないとのイギリス情報省の判断は、間違っていたと考えることができる。
また、この書簡は、情報省がこうした告発宣伝を「広めてきた」、「これから広めるであろう」という点を認めている。したがって、虐殺宣伝の起源は、目撃証人や戦争諸機関の話にはないことになる。さらに、この書簡は、ドイツに対する虐殺宣伝が、かなり前から「広められてきた」ことも認めている。すなわち、虐殺宣伝は1944年初頭に始まったのではないことになる。最後に、連合国が経験していた戦争のもっとも恐るべき局面、脅威を感じる局面にあって、連合国が自分たちの目的を達成するために嘘を利用しているのではないことを信じさせようとして、非常に多くの素朴で軽信的な人々が必要とされていた。この点を書簡は明らかにしている。
さて、ベウゼッツの話に戻ろう。1942年12月、連合国間情報委員会(オーストラリア、ベルギー、カナダ、中国、チェコスロヴァキア、イギリス、ギリシア、インド、ルクセンブルク、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、フィリピン、ポーランド、南アメリカ、ユーゴスラヴィア、在米デンマーク代表、フランス国民委員会、アメリカ合衆国)は、ドイツ占領下のヨーロッパにおけるユダヤ人の「運命」についての声明を、ロンドンで発表した。それは、連合国情報委員会支局を通じて、ニューヨークでも配布された。この声明はこう結論している[26]。
「殺害や街頭での射殺を生きのびた人々をゲットーから移送するにあたって使われている手段は、想像を絶している。とくに、労働不適格な子供たち、老人は殺されている。移送者たちの運命についての実際のデータは手元にないが、処刑場がヘウムノとベウゼッツに作られており、そこでは、射殺を生きのびた人々が大量に、電気処刑とガスによって殺戮されているとの、信憑性のあるニュースがある。」
ここでは、連合国側の情報資料は、ユダヤ人がベウゼッツで大量に電気処刑されているという信憑性のある証拠があると述べている。しかし、ペルトもホロコースト・ロビーも「ユダヤ人の大量電気処刑物語」が捏造であることを認めているように[27]、この話は虚偽である。
捏造されたベウゼッツの電気処刑物語も、ペルトの方法論とその説には欠陥があることを明らかにしている。彼も指摘しているように、ロンドンの亡命ポーランド政府が第二次世界大戦中に発行していた英字新聞Polish Fortnightly Reviewは、1942年7月10日に、ユダヤ人を「ベウゼッツで大量に殺している」電気処刑施設についての記事を掲載している[28]。
「男性は右側のバラック、女性は左側のバラックに向かい、表向きは風呂に入る準備と称して、服を脱がされる。脱衣を終えると、三番目のバラックに向かう。そこには、電気の通じたプレートがおかれており、そこで処刑が行なわれる。」
ペルトは、これが意図的な捏造宣伝ではなく「正直な間違い」であることを信じさせようとして、次のように言い訳している。
「この記事が書かれた1942年夏には、ベウゼッツの処刑チームに所属していた人々の中で、誰一人として逃亡に成功した人物はいなかった。そのために、殺戮方法についての記述はおもに噂にもとづいていた。」
言い換えると、この大量殺戮を生きのびて、殺戮技術を正確に伝えることができた人物は誰もいないので、正確な殺戮方法については間違った噂が流布していた、にもかかわらず、ユダヤ人の大量殺戮という事件だけは間違いなく起こったというのである。
『ニューヨーク・タイムズ』1944年2月2日の記事によると、「目撃証人が実際に」この大量処刑を逃れ、生きのびて、「大量殺戮の実際の方法」を「正確に描写した」という[29]。
「ポーランドでの大量処刑を逃れた若いポーランド系ユダヤ人が…この話を繰り返した[ベウゼッツでの電気処刑施設を目撃したという逃亡者から話を聞いた]。ユダヤ人は無理やり裸にされて金属板に載せられた。金属板は水力エレベーターのように動き、ユダヤ人たちを大きな水がめに沈めていった。彼らは、水を流れる電流によって電気処刑された。」
ペルトはこの話をどのように説明するのであろうか。彼の主張とは異なって、「大量電気処刑を逃れた目撃証人」が存在しており、この人物は生きのびて、別の虐殺からの逃亡者に自分の話を物語り、そして、ベウゼッツの電気処刑施設の「詳細」を世界中に伝えたことになっている。すなわち、合衆国にある連合国シンパのマスメディアが捏造された虐殺物語を実際に広めたのである。
それだけではない、ベウゼッツの「電気処刑室」についての「目撃証言」は、「権威のある」出版物『黒書:ユダヤ民族に対するナチの犯罪』にも掲載されている[30]。
「ベウゼッツ収容所は地下に建てられている。それは電気式焼却棟である。地下には二つのホールがある。貨車を降りた人々は、最初のホールに連れてこられる。ついで、裸になって二番目のホールに連れてこられる。ここの床は巨大な板のようである。人々の群れがここに立つと、床は水中深く沈んだ。首のところまで沈むと、数百万ボルトの強力な電流が水中に流され、全員を即座に殺した。次いで床が持ち上がり、ふたたび電流が死体に流され、犠牲者の死体を焼却して、少量の灰以外には何も残らなかった。」
この話は、「これらの大量電気処刑を自分の目で目撃した目撃証人もしくは目撃証人たち」にもとづいている点に留意していただきたい。
ペルトが「ガス室」の実在を「証明」するために、本書全体を通じて依拠しているのが証拠の収斂理論、すなわち、証拠はガス室が実在したというたった一つの結論に関してだけは類似しているという理論である。だが、一つの連合国報告といくつかの目撃証言は、ベウゼッツでは大量電気処刑が行なわれたという点では一致している。ペルトのいう証拠の収斂理論を使えば、ベウゼッツでは大量電気処刑が行なわれたことになるであろう。
ペルト博士は、ベウゼッツではユダヤ人がディーゼル排気ガスで大量処刑されたことを「立証している」証拠は少ないと述べている[31]。
「[ベウゼッツではユダヤ人がガス室で殺されたという]証拠は、[アウシュヴィッツではユダヤ人がガス室で殺されたという証拠と較べると]はるかに少ない。目撃証人もほとんどおらず、[アウシュヴィッツ所長]ヘスの自白に匹敵するような自白もまったくなく、施設の残滓もまったくなく、文書資料もほとんどない。」
ベウゼッツではユダヤ人は電気処刑施設で大量に殺されたことを「立証」している「証拠の」数は、ベルゼッツではユダヤ人はガス室で大量に殺されたことを「立証」している「証拠」の数よりも少ないわけではない。そして、電気処刑による大量殺戮の「証拠」が虚偽であるとすれば、どうして、ベウゼッツのガス室でのユダヤ人の大量殺戮の「証拠」も虚偽であると考えることができないのであろうか。
ホロコースト史家のペルトは、「証拠」はベウゼッツではユダヤ人はガス室で大量に殺されたという「道徳的確信」に導いてくれていると論じている。だが、本小論で指摘したように、これは偽りの結論である。
最後に、本書には、本物であれ捏造であれ、「ナチ」の虐殺物語が、パレスチナにユダヤ人国家を創設する大義への支持を獲得するために、第二次世界大戦中に、シオニストによって利用されたという指摘がまったくない。しかし、1943年3月にマジソン・スクウェアー・ガーデンで開かれた大衆集会で、シオニスト活動家でイスラエル初代大統領チャイム・ワイツマンは次のように述べているのである[32]。
「200万人のユダヤ人がすでに絶滅されました。…民主主義諸国は彼らに対して明確な責任を持っています。…民主主義諸国は、ドイツ占領下のユダヤ人の解放について、中立国を介してドイツと交渉すべきです。…ユダヤ人の故郷の海岸にまで到達することのできたすべての人々に対して、パレスチナの門を開け放つべきなのです。…」
今日の中東危機の種は、親シオニスト集団と政府によって際限なく繰り返されてきた「ナチ」の虐殺物語によって培われてきた。ペルトはこのことを知っているにちがいないが、公には認めたくないのであろう。ここには、考慮しなくてはならない教訓がある。戦争がふたたび中東に地平線に姿を現したとき、自分たちの戦争計画を「正当化」するために合衆国政府やマスメディアが「公的な理由を」明らかにしたとしても、われわれにはそれを疑う権利があるということである。
[1] Robert Jan van
Pelt, The Case For Auschwitz: Evidence From The Irving Trial, Indiana
University Press, 2002.
[3] Robert Jan van
Pelt, p. 134.
[4] Ibid., p.
130.
[5] Ibid., p.
131.
[6] Ibid., pp.
132f.
[7] Ibid., p.
156.
[8] Time, August
21, 1944, p. 36. I am indebted to my good friend Terry Dumke for bringing this
issue of Time to my attention.
[9] Robert Jan van
Pelt, p. 157.
[10] Cf. Jürgen Graf,
Carlo Mattogno, KL Majdanek. Eine historische und technische Studie,
Castle Hill Publishers,
[11] Mark Weber,
"Jewish Soap," The Journal of Historical Review, Summer 1991,
pp. 217-227. Online: www.ihr.org/jhr/v11/v11p217_Weber.html
[12] Ibid., p.
217; Raul Hilberg, The Destruction of the European Jews (New York:
1985), pp. 966-967; Walter Laquer, The Terrible Secret (Boston: 1980),
pp. 54, 82, 145, 219; U.S. State Department document 740.001.16 (from 1943),
facsimile in Encyclopedia Judaica (New York and Jerusalem: 1971), vol. 13, pp.
759-760; Bernard Wasserstein, Britain and the Jews of Europe (London: 1979), p.
169.
[13] Weber, op. cit. (note
11), p. 217. Online: http://www.ihr.org/jhr/v11/v11p217_Weber.html
[14] Secret U.S. Army
military intelligence report No. 50, April 27, 1945. National Archives,
[15] "Wise Says
Hitler Had Ordered 4,000, 000 million Jews Slain in 1942," New York
Herald-Tribune (Associated Press), Nov. 25, 1942. pp. 1, 5; "2 Million
Jews Slain by Nazis, Dr. Wise Avers," Chicago Daily Tribune, Nov.
25, 1942.; New York Times, Nov. 26, 1942, p. 16.; See also: Raul
Hilberg, The Destruction of the European Jews (1985), p. 1118.
[16] "The Spirit
Will Triumph" (editorial), and "Corpses for Hitler," p.11, Congress
Weekly (
[17] New Republic,
Jan. 18, 1943, p. 65.
[18] International
Military Tribunal, Trial of the Major War Criminals Before the International
Military Tribunal (IMT "blue series,"
[19]
[20] For the list of
such people and groups with appropriate documentation, see Weber, pp. 219-222.
[21] Ibid, p. 223.
[22] Ibid, pp. 222f.
[23] Raul Hilberg, The
Destruction of the European Jews: Student Edition Holmes and Meier, 1985,
p. 229.
[24] Extract from Edward
J. Rozek, Allied Wartime Diplomacy, introduced into the first and second
Zündel trials, quoted acc. to B. Kulaszka (ed.), Did Six Million Really Die?,
Samisdat Publishers, Toronto 1992, p. 155.
http://www.zundelsite.org/english/dsmrd/dsmrd12browning.
[25] So
[26] The New York
Times, December 20, 1942, p. 23.
[27] Robert Jan van
Pelt, p. 145.
[28] Ibid, p. 145.
[29] The New York
Times, February 12, 1944, p.6.
[30] The Black Book:
The Nazi Crimes Against The Jewish People, Nexus Press, 1974, p. 313. This
edition is a reprint of the 1946 edition.
[31] Robert Jan van
Pelt, p. 5.
[32] The New York
Times, March 2, 1943, pp. 1, 4.